羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

上野公園

2008年11月25日 07時40分39秒 | Weblog
 都の北東の鬼門を守るのは、比叡山延暦寺。
 そして江戸の北東鬼門を守るのが東叡山寛永寺円頓院。
 昨日の話の寺である。
 1868年上野戦争で主要伽藍を消失し、第二次世界大戦では空襲にあった。
 二度の災禍によって昔の姿はほとんど失われたのが現在の寺である。

 かつて上野の山全体が寺領地であったものが、見る影も無い。
 しかし、そこは、明治以降、近代日本の文化の山となっていった。

 たとえば野口先生が体育の授業に使われたレンガ造りの建物は、明治初期の建造物。東京図書館の書庫として使われていたものだった。
 
 江戸は、荒波のなかで変貌を遂げる運命を担っている。
 その運命を引継いだ東京は、未だに建てては壊し、壊しては建てられる都会の今を生きているのだ。

 さて、10年前、寛永寺本坊の一室で、野口先生のお骨と対峙しながら、野口体操の行く末を考えられるほどの余裕はなかった。
 ただ、香を焚き、供物を捧げ、手を合わせるのみ。
 しかし、短い時間であっても、その静寂と安らかさに、どれほど慰められたかしれない、と、往時を思い返している。

「藝大に通うために、三十数年通い続けた(国立)博物館の道の脇に眠りたいだけなの」
 野口先生の思いは、それからまもなくして叶えられた。

 私はお参りする寺への道すがら、呆然としたまま上野の山を眺めていたように思う。
 体育界のアウトサイダーとして生きた野口三千三と野口体操を、この先、いかにして残していくことが可能なのか、その時はまだ何も見えない状況だった。

 桜の春から青葉の初夏へと季節だけが移っていった、あの頃……。
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