今日もまたお線香をあげに客人がみえた。
記憶というのは曖昧になっていて、それぞれの人のなかに記憶としての命日があるようだ。
結局19日から今日まで、三日連日、お参りのお客があった。
つまり、亡くなった日と中一日と、通夜と告別式の日が、すべて故人にとっての命日として記憶されるようだ。
そういえば野口三千三先生も、3月29日が祥月命日だが、通夜が行われた31日から告別式の4月1日まで、この期間を通して先生を偲ぶ日という感じがする。
人の死というのは、たった一日で終わるものではないということなのかもしれない。
母などは23日が父の命日だとずっと思っていたというから、驚きである。
実は、昨年はこれほど来客はなかった。
人の思いには不思議な流れがあるのかもしれない。
同じ時期に訪ねてみようという気持ちが起こってくるようだ。
そして皆さんが共通しておっしゃる。
「盆栽が元気ですね」
木戸をくぐって玄関までの短い距離に、鉢植えを左右に並べているのだが、父が丹精していた姿を知っている方々は、そこで胸にグッとこみ上げるものがあるようだ。
今年は幾鉢か枯らしてしまった。それでも残っている盆栽を見て、本当に喜んでくださっている。ぼさぼさ盆栽でも、そこに変わらずに‘在る’ことの意味を実感している。主は亡くなっても、残された盆栽が、故人を偲ぶよすがとなるのだ。
こうして客人の相手をするときは、暮れの慌ただしさを忘れ、穏やかな時を過ごしている。しばらく前には、このように人を迎えることができるなんて思ってもいなかった。
縁の不思議をつくづくと感じながら、最後のお客人を見送った。
見上げると満月に近づいた月が、暮れたばかりの空にぽっかりと浮かんでいた。
明日は、早、冬至である。
記憶というのは曖昧になっていて、それぞれの人のなかに記憶としての命日があるようだ。
結局19日から今日まで、三日連日、お参りのお客があった。
つまり、亡くなった日と中一日と、通夜と告別式の日が、すべて故人にとっての命日として記憶されるようだ。
そういえば野口三千三先生も、3月29日が祥月命日だが、通夜が行われた31日から告別式の4月1日まで、この期間を通して先生を偲ぶ日という感じがする。
人の死というのは、たった一日で終わるものではないということなのかもしれない。
母などは23日が父の命日だとずっと思っていたというから、驚きである。
実は、昨年はこれほど来客はなかった。
人の思いには不思議な流れがあるのかもしれない。
同じ時期に訪ねてみようという気持ちが起こってくるようだ。
そして皆さんが共通しておっしゃる。
「盆栽が元気ですね」
木戸をくぐって玄関までの短い距離に、鉢植えを左右に並べているのだが、父が丹精していた姿を知っている方々は、そこで胸にグッとこみ上げるものがあるようだ。
今年は幾鉢か枯らしてしまった。それでも残っている盆栽を見て、本当に喜んでくださっている。ぼさぼさ盆栽でも、そこに変わらずに‘在る’ことの意味を実感している。主は亡くなっても、残された盆栽が、故人を偲ぶよすがとなるのだ。
こうして客人の相手をするときは、暮れの慌ただしさを忘れ、穏やかな時を過ごしている。しばらく前には、このように人を迎えることができるなんて思ってもいなかった。
縁の不思議をつくづくと感じながら、最後のお客人を見送った。
見上げると満月に近づいた月が、暮れたばかりの空にぽっかりと浮かんでいた。
明日は、早、冬至である。