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羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

それぞれの命日

2007年12月21日 19時35分19秒 | Weblog
 今日もまたお線香をあげに客人がみえた。
 記憶というのは曖昧になっていて、それぞれの人のなかに記憶としての命日があるようだ。
 結局19日から今日まで、三日連日、お参りのお客があった。
 つまり、亡くなった日と中一日と、通夜と告別式の日が、すべて故人にとっての命日として記憶されるようだ。
 そういえば野口三千三先生も、3月29日が祥月命日だが、通夜が行われた31日から告別式の4月1日まで、この期間を通して先生を偲ぶ日という感じがする。
 人の死というのは、たった一日で終わるものではないということなのかもしれない。

 母などは23日が父の命日だとずっと思っていたというから、驚きである。 
 実は、昨年はこれほど来客はなかった。
 人の思いには不思議な流れがあるのかもしれない。
 同じ時期に訪ねてみようという気持ちが起こってくるようだ。

 そして皆さんが共通しておっしゃる。
「盆栽が元気ですね」
 木戸をくぐって玄関までの短い距離に、鉢植えを左右に並べているのだが、父が丹精していた姿を知っている方々は、そこで胸にグッとこみ上げるものがあるようだ。
 今年は幾鉢か枯らしてしまった。それでも残っている盆栽を見て、本当に喜んでくださっている。ぼさぼさ盆栽でも、そこに変わらずに‘在る’ことの意味を実感している。主は亡くなっても、残された盆栽が、故人を偲ぶよすがとなるのだ。

 こうして客人の相手をするときは、暮れの慌ただしさを忘れ、穏やかな時を過ごしている。しばらく前には、このように人を迎えることができるなんて思ってもいなかった。
 
 縁の不思議をつくづくと感じながら、最後のお客人を見送った。
 見上げると満月に近づいた月が、暮れたばかりの空にぽっかりと浮かんでいた。
 明日は、早、冬至である。
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