以前、このブログに江戸独楽作家・福島保さんが好きな木材として、花梨のことを書いた記憶がある。
今年、我が家の枝には晩春に花は咲いたが、実はならなかった。
花弁の下のふくらみで実がなる花か、ならないかは判断がつく。
確かに1つ2つ、ふくらみが大きいものがあったが、満開の時に大風で飛ばされてしまった。
12月に入ってやっと色づき始めた。
今年は、8月は暑かった。その名残が9月まで滑り込んで、さらに秋が暖かだったこともあって、紅葉がすすまない。よしんば黄葉しても欅などは黄色になる前に、いためつけられたような茶色の葉になり、一部黒く枯れ始めてしまい、どの木も綺麗な色付きにはならなかった。
その点、花梨は救いがあった。花梨の木は匂いもよく木質も固く、食用にはならないが、焼酎に漬け込んで花梨酒にもなる。で、それでうがいをするといいといわれている。
今日も日中はそれほどの寒さではなかったので助かっている。
東京の本格的な寒さは正月過ぎにならないとやってこない。
落葉樹は12月中に葉を落とす。
しかし、常緑樹はすでに来年の新芽の蕾をすでに準備している。
青虫にすっかり食べられた‘くちなし’もまた新しい葉の気配が感じられる。
一年を通して植物の変化を見守っていると、命の循環が感じられる。
最近では葉の茂り具合で、根の張り具合をほんの少しだが、予想することが出来るようになった。
父が亡くなって今月19日で5年を数える。
鉢のなかで細々と命をつないでいる植物が、少しずつ減っていく。植え替えはできても枝おろしが難しい。伸び放題の松は、盆栽の体をなしていない。
生きているというだけでお許しいただこう。
さて、これから霜柱が立つ冬がくるのかしら?
花梨の葉は、もう少し赤みが全体に指してきたときを境に葉を落とす。
自然は自然をいちばんよく知っているようだ。
「来年はちゃんと実がなってほしい」
大きな台風が来ないことを願いつつ、水遣りをしながら、枯れ落ちる前の花梨に祈ってしまった。
晩秋から初冬へ、時は確実に移ろう。
今年、我が家の枝には晩春に花は咲いたが、実はならなかった。
花弁の下のふくらみで実がなる花か、ならないかは判断がつく。
確かに1つ2つ、ふくらみが大きいものがあったが、満開の時に大風で飛ばされてしまった。
12月に入ってやっと色づき始めた。
今年は、8月は暑かった。その名残が9月まで滑り込んで、さらに秋が暖かだったこともあって、紅葉がすすまない。よしんば黄葉しても欅などは黄色になる前に、いためつけられたような茶色の葉になり、一部黒く枯れ始めてしまい、どの木も綺麗な色付きにはならなかった。
その点、花梨は救いがあった。花梨の木は匂いもよく木質も固く、食用にはならないが、焼酎に漬け込んで花梨酒にもなる。で、それでうがいをするといいといわれている。
今日も日中はそれほどの寒さではなかったので助かっている。
東京の本格的な寒さは正月過ぎにならないとやってこない。
落葉樹は12月中に葉を落とす。
しかし、常緑樹はすでに来年の新芽の蕾をすでに準備している。
青虫にすっかり食べられた‘くちなし’もまた新しい葉の気配が感じられる。
一年を通して植物の変化を見守っていると、命の循環が感じられる。
最近では葉の茂り具合で、根の張り具合をほんの少しだが、予想することが出来るようになった。
父が亡くなって今月19日で5年を数える。
鉢のなかで細々と命をつないでいる植物が、少しずつ減っていく。植え替えはできても枝おろしが難しい。伸び放題の松は、盆栽の体をなしていない。
生きているというだけでお許しいただこう。
さて、これから霜柱が立つ冬がくるのかしら?
花梨の葉は、もう少し赤みが全体に指してきたときを境に葉を落とす。
自然は自然をいちばんよく知っているようだ。
「来年はちゃんと実がなってほしい」
大きな台風が来ないことを願いつつ、水遣りをしながら、枯れ落ちる前の花梨に祈ってしまった。
晩秋から初冬へ、時は確実に移ろう。