羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

本質

2007年12月02日 09時19分40秒 | Weblog
 ヤマハがベーゼンドルファーを買収する話を、日経新聞では連日載せている。
 今日も(12月2日)ピアノの販売台数の変化をグラフでも説明していた。
 最近は住宅事情から音の出るピアノ、いやいや音が消せないピアノは敬遠されている。日本の都会では電子ピアノ優勢で、よほどのお金持ちで広々した庭付き一戸建ての住まいでないとピアノはもてない。そんなところに住むお嬢様やお坊ちゃまがピアノに限らずクラシック音楽のあの厳しい訓練に耐えられるのだろうか。ましてジャズピアノののような抵抗の音楽などその本質がつかめるとしたら奇跡だ。
 弾かれなくなったピアノは、物置に過ぎない。かつてのブームで日本の多くの家庭にあったピアノのほとんどはその運命を辿ったはず。
 
 そもそも音楽家はだいたい貧しくて、音楽を庇護する階級とは別世界に生きているものだったわけだから、コンサートグランドピアノは本来日本の家庭にあるピアノとはまったく違うものだったわけ。
 
 話を戻すと、ピアノのデジタル化に乗ったり多角経営を行っているヤマハは中国に追い上げられながらも生き残れるかどうかの瀬戸際にあって、伝統のプライドを捨てられなかったベーゼンドルファーは身売りの危機にさらされている構図が、連日報道されているわけだ。
 体は売っても魂は売らない、なんていうと非常に下世話で申し訳ないが、身投げと言う手だってあるのよね。だから三島由紀夫は『金閣寺』を書いたんじゃないの。炎上はブログ上の出来事を表した言葉では本来ないのよね。(この言い分、唐突でごめんなさい)
 
 はてさてピアノが過去の楽器になるのも時間の問題かも。
 ドイツでさえもシンフォニーオーケストラが潰れていく時代だ。
 チェンバロだって、音が小さくていいと言う理由から18世紀になってまでもドイツの家庭に置かれていたクラビコードだって、過去のものとなった。今では「古楽器」といわれて一部のマニアックな愛好家に慈しまれているところに、存在意義があるものになっているのだから。そうした形で残る可能性はある。多分そういうものは、そういった文化は、他にもたくさんあるのだと思う。

 バッハは非常に柔軟性のある思想の持ち主かどうか知らないが、後々のことを予想してか、鍵盤楽器であるならばすべての楽器で演奏可能な楽曲を書き上げている。パイプオルガン・チェンバロ・クラビコード・足ふみオルガン・ハンマークラビーア等等。もちろん現代のピアノ・フォルテにおいてもエレクトーンでもいい。ジャズになってもいいわけだし。それでもバッハの本質は失われないから凄い! ピアノの詩人といわれたショパンでは無理と言うもの。
 見えてくることは、一つのこと(方向)だけに特化しているものは、命のレベルではひ弱だということ。しかし、ひ弱だからこそ素敵なのだ。滅びを感じさせるからこそ惹かれるのだ。
 
 とにかく20世紀の音楽愛好家は、まずパイプオルガンを電子化した。キリスト教文化が生きているところでは、電子オルガンはパイプオルガンを購入できない教会がコラールを演奏するために非常に安価で重宝している。
 日本ではヤマハの商品名「エレクトーン」で、さまざまな鍵盤楽器やオーケストラ用のソフトを演奏している。

 話がどんどんはずれて支離滅裂になってきた。
 買収のお話に戻すと、価格25億円だったら、アラブの王様が個人でお求めになってもよろしい価格に違いない。しかし、ヤマハが買収するところに、文化の内情と経済の今後がすけて見えるのだ。ことピアノの問題だけでなはく、文化と経済の本質を考える基本に通じる買収劇だから、日経は毎日この記事を載せているのだろう。

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 体を売っても魂は売らないってことは本来できない相談なんです。
 つまり身体はどこまでもデジタル化できないものだからです。
 しかし、楽器の中で最初にキーボードをもってしてデジタル化を行ったものがパイプオルガンであり、ピアノだというところに文化の本質を感じますね。
 ある全体から一部を切り取ってくるから「言葉」が成り立つのと同じです。
 つまり身体はまるごとの自然で、文化は切り取り作業がなければはじまらない宿命を負っているわけです。
 どこで折り合いをつけるのか、その折り合いのつけ方が美しいのが「品格」だと思いません。

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