羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

2007年08月14日 08時41分38秒 | Weblog
 滝のようだった。
 それも高いところから幅広く落ちる滝のようだった。
 東山全体が蝉声に包まれている。
 一瞬たじろいだが、その蝉声に浸ってみた。
 
 質素な庵の引き戸をあけ、室内に入る。
 江戸期の建物は、東山の山懐にせり出している。
 滝の勢いは衰えることなく、真昼の空間を音で占領していく。

 目を閉じて聞きいってみる。
 命が弾けている。
 短い生を恨むことなく憎むことなく、力いっぱい鳴きあかす。
 浴びる快感は、暑さを忘れさせてくれる。
 滴る汗。
 団扇の風が熱い。
 それがまた快感。

 その庵の玄関脇には、3畳間があった。
 そこには、建物に似つかわしくない黒塗りのアップライトピアノが置いてある。
 ピアノの蓋をあけ、手にはまったばかりのベートーベンのソナタ7番を弾く。
 負けじと蝉声は、高鳴ってくる。これぞ合奏なのである。
 余りのうるささに、庵の主が顔をのぞかせた。
 
 ソフトペダルを踏みながら、ソナタ・悲愴の第二楽章に変えた。
 それでも蝉声は、さらに勢いを増す。

 高校一年の夏休みのこと。
 京都清水寺の夏は、蝉とともにあるといっても過言ではない。
 それから、毎年、同じ季節に宿を借りて古都を巡った懐かしい日々。
 40年以上も過ぎた今になっても、蝉声によって呼び起こされる旅の記憶がある。
 鬱蒼と茂る木々の匂いと蝉声、そして利休が愛した名水の味。
 
 写真は、数年前、見つけた蝉のペンダント。
 裏側にも細部に真実が宿るような彫刻が施されている。
 瑪瑙の色を生かした玉の国・中国の技である。
 
 私にとってこれを身につけることは、懐かしの古都を身につけること。
 過ぎし日の”青春夏”をリアルに身につけることに他ならない。
コメント
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