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羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

戦後という名の太陽の下に花開く文化

2006年08月18日 09時53分05秒 | Weblog
 昭和30年代に、日本舞踊を習うことがひとつのブームになっていたというコメントいただいた。
 戦後、7年間のアメリカによる占領がおわり、ようやく日本も落ち着き始めたころだった。
 当時は、戦争中に10代後半から20代だった人々は、おしゃれもできず、国防服とモンペに身を包み過した反動から、一気にお日様に向かって突進したような日本だった。
 まだまだ停電が頻繁におこった日本だった。
 しかし、美しい衣装をまとい、日本髪の鬘をつけ、日本伝統の舞台化粧を施し、地方さんの三味線や笛、鳴り物、長唄や清元にのって、舞台で踊ることによって一気に戦争中の「贅沢は敵だ」のスローガンから解放された人々がいた。
 そんななか、すでに結婚している女性は、子どもに夢を託した。そのひとりに私の母もいた。

 昭和27年、三歳だった私は藤陰流の日本舞踊を習い始めた。そして昭和31年(1956)11月3日、「藤蔭紘枝舞踊会」に出演させていただいた。
 藤陰流というのは、藤蔭静枝(初代)が、日本舞踊の創作舞踊を主に掲げて、活動をしていたといわれている。洋舞の江口隆哉、日本舞踊の藤蔭静枝。二人が日本の近代舞踊の双璧だった。
 この11月3日東横ホールで催された「藤蔭紘枝舞踊会」は、芸術祭参加作品を、上演もした。子どもながらも、「伝授山姥」という出し物で、藤蔭静枝家元が山姥に扮し、従者として紘枝・織枝先生が従って踊られた舞台の記憶が鮮明に残っている。当時としては立派な緞帳もあったように思う。

 そのとき7歳の私は「藤娘」を踊ったのだけれど、これが前座というか、会を開くため事情によって出してもらえたことなど知る由もない。前座のトリは、「道成寺」だった。踊り手は村上元三のお嬢さんらしいという噂でもちきりだった。
 当時の日本舞踊のお師匠さんが、そう簡単に舞踊の会を開けるはずもない。そういった事情を理解したのは、大人になってからのことだった。当時の私は無邪気そのもの。大舞台で踊る気持ちよさを存分に楽しませてもらった。
 今となっては複雑な感に打たれる思い出である。

 ところで、昭和30年代は、日本舞踊だけでなく、古今東西、あらゆる文化がいっせいに花開いた時代だった。
 たとえば、玉利齊氏が「ボディー・ビル協会」を誕生させて野口三千三先生がそこにかかわり、三島由紀夫がボディー・ビルをはじめたのも昭和30年のこと。
 女性向け雑誌は、ファッションや美容をとりあげ、女性たちの美しさへの欲求も勢いを増した時代である。
 茶道・華道はもちろんのこと、20年代からすでに始まっていた「文化服装学院に通って洋裁をならう」ことは、都会にすむ若い女性のステータスになっていった。既製服が簡単に手に入る時代ではない。地方からも上京して通う女性もいたくらいである。

 そこで思い出されるのは、五木寛之氏が作品のなかで、終戦になってスカートとそこから伸びる脚を見たドキドキ感を綴っていらしたことだ。

 若い女性の笑顔と服装の変化は、太陽の下に花が開いたかのような明るさは、敗戦後の復興エネルギー源であったに違いない。
コメント
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