萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

35年前の今日、長嶋茂雄は引退した

2009年10月14日 | 野球

<長嶋引退時の切符の半券。250円で二試合観れたのだ。今も当日の日記のページに挟んである。>

1974年の10月14日。“栄光の背番号3”のその人は「巨人軍は永久に不滅です」という有名なセリフを最後に現役を去った。この年は巨人が10連覇を逃した年でもある。小生は高校2年だった。小学校3年の時、父に連れられて初めて長嶋を後楽園で見て以来すっかりファンになり、野球にのめり込み、高校に入っても野球部に所属していた。(弱小高校ではあったが・・・)

この日は月曜日であったので普通に授業があった。1時間目が終わり、部室に教科書(当時、どうでもいい授業の教科書は部室に置いていた)を取りに行くと、同年の部員が二人いた。小生は決断した。「今日で長嶋は引退だ。俺は今から後楽園に観に行くことにした。ふたりはどうする?」と小生は誘った。二人とも、よし行こう、と即決。

我々は教室に戻ろうとしているサッカー部員に「俺等はこれから、長嶋を観にいく。先生にそう伝えておいてくれ。」と言い残して、裏門の柵をよじ登って学校をふけた。(エスケープのことを当時はそのように言った)

学校から後楽園までは歩きと電車で1時間半ぐらいだったと思う。その日は中日とのダブルヘッダーであった。第一試合は正午からであったが、十分間に合った。レフトスタンド中段あたりに我々は陣取った。第一試合の四回一死一塁で迎えた長嶋の第2打席。観客5万人の願いが叶い、通算444号目のホームランをレフトスタンドに放つ。我々が観戦していた前方10mぐらいのところにその打球は突き刺さった。

「全員総立ちで、天地がひっくり返るのではないかと思うほどの騒ぎだ。さすが!と胸がつまった。」

と、この日の小生の日記は語る。結局この試合、長嶋は3安打。観客からは「やめないでくれ!長嶋ぁ」とか「まだまだやれるぞ!」の声がアチコチからかかる。二試合目までの休み時間に長嶋がファンに感謝の為、場内を一周した。様々な声援の前に感極まったか、最初は笑って手を振っていたが、ついにタオルをポケットから出して、顔にあてて男泣き。思わず、もらい涙を流した。

二試合目の最終打席。柴田、高田の連続安打で一死一三塁のお膳立て。嵐のような大歓声の中、ショートゴロ併殺打で終わる。これはこれで長嶋らしかった。二試合終了してとっぷりと日が暮れ、場内に照明がつけられて、引退セレモニーが始まった。

「昭和三十三年、栄光の巨人軍入団以来・・・」という、今にも泣き出しそうなやや震え、かすれた声が球場内に響き渡った。またもや大歓声。そして、最後に締めくくった言葉が、

「我が栄光の巨人軍は永久に不滅です。」

だった。

一度、スタジアムを去った長嶋が、拍手を続けて帰らない観客のためにもう一度出てきてくれた。コンサートのアンコールのようだった。これであきらめの着いた観客達はようやく球場を後にしたのだった。

この日の小生の日記の最後は、

「今日は本当に来てよかった。授業では学べないものが学べた。私はこの日を忘れないだろう。<中略>“栄光の背番号3”これを見るとき、野球をやって良かった、この試合を観に来て良かった、と生涯思い出すことだろう。」

と締めくくられていた。

はたせるかな、35年後の現在。あの頃受けた高校の授業の内容は何も思い出せないが、あの日の後楽園は今でも時々思い出す。長嶋が引退した年齢よりもはるかに高齢の身だが、いまだ現役を続け、チームでの小生の背番号は“3”だ。あの日のことが生涯忘れられないひとつの証拠である。
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