日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『国・地域』、『民族』、『宗教』、『主義・主張』、絶対とは?」。

2009-01-20 08:01:56 | 日本語の授業
 今朝は薄曇り。雲の切れ間から、月の光が漏れてくるような、そんな空でした。

 「国・地域」、「民族」、「宗教」、「主義・主張」などについて、考えています。これは人は皆、「ヒト」という同じ種であり、「苦しいときには、皆、苦しい」し、「悲しいときには、皆、悲しい」という前提の下での「違い」についてです。

 「宗教」も、当初の目的は、生きとし生けるものが、すべて「不幸で泣くようなことが無いように」、「『心静かに』或いは『心楽しく』、その『生』を全うすることができるように」生まれたものでしょうし、「国」や「地域」にしても、その「区分け」は、人がより便利に、より豊かに生きることができるようにできたはずです(そうでない場合が多いことはよく判っていますが)。

 ただ、「民族」というものは、切ない。どう考えて良いのかわからないのです。祖先を共にする者同士と、言い切れない部分もありますし、我から進んでそこに入ったのかというと、そうとも言えません。それでいて、この言葉には不思議な魔力が含まれているようで、「同じ民族」とか「同胞」という響きを聞くと、もうそれだけで、踊り出し、血を沸き立たせるという人も、また、そういう時代もありました(今でもあるのは知っていますが)。

 「日本語」という、狭い地域で使われている、一つの言語を、教壇に立って教えている時、こういう「国・地域」「宗教」「民族」、「主義・主張」などが、心の中の大きなスペースを占めている人に出くわすことがあります。

 普段は何のこともない普通の人なのですが、何かの折に、ひょいと、こんなことが出てしまうと、急に始末に負えないような状態になってしまうのです。一旦漏れしまうと、自分でも収拾がつかなくなるようで、いつの間にか、物の怪にでも憑かれたように、自作自演めいた「演技」を、臆面もなくしてしまうようなのです。一種の忘我状態なのかもしれません。いつも虐げられてきた、そういう意識がなせる業なのかもしれません。

 けれど、それが判らない私たちには、彼らに同情するというよりも、逆にしらけてしまうのです。「皆が皆、彼らと同じ心であるとは限らない」ということが、こういう人達には見えないのです。ある人達にとっては「民族」が一番であり、ある者にとっては「宗教」が絶対であり、ある者にとっては「国」がこの世での無比の存在なのですが、こういう「絶対」という感覚が、現在の、多くの日本人には、理解できないと思うのです。

 特に、「日本語」という、それを話せたからといって、「力」をつかむでもなし、「財」を得るでもないような「弱小」言語を学んでいる時です。それが、「だから、どうなんだよ」という捨て鉢めいた言葉しか、彼らには返せません。本当に「だから、なんだっていうんだよ」なのです。そんなことはどうだっていいのです。「それで戦いたい人がいたら、おめきながら、戦えばいい。こんな処に来てまで、言うなよ。関係ないだろ」なのです。

 けれども、そうすることに慣れている人には、他地域の「他者の目」が見えないのです。私には、そういう人は、往々にして、己の影と戦っているように見えます。私たちはそれを何とも思っていないのに。そんなことは、「屁の突っ張り」にもならないのです。一人で、どんどん妄想を膨らませ、それを過大解釈し、いつの間にか、その影に呑み込まれているように見えるのです。

 こういう話があります。大酒飲みのことです。「人、酒を飲み、酒、人を飲み、酒、酒を飲む」。全くこういう状態になっているように見えるのです。

 確かに、最近はこういう人に出会うことが少なくなりました。勿論、どの国にも人々が歩んできた「歴史」というものがあり、それから逃れることはできません。しかし、少し遠くから「他国の歴史」を見、翻って「自国の歴史」をも見ることができる人が増えてきたのは事実のようです。そのように、極東にいる私は考えているのですが…。

 これとても、火種はあるにせよ、この近辺がここ数十年、戦いを経験していないからなのでしょう。「グローバル化」が進んだおかげなのかもしれません。ある国など、ほんの少し前まで、政府の言うことだけが絶対でした。今でも、そういう国はあります。けれども、それだけではないと言うことを少しずつわかり始めた人が出始めたのでしょう。言うまでもないことですが、自分からそう思いこみたい人は別です。それは知性の差、或いは心の柔軟性の差に過ぎません。勝手な理屈であり、他者から見れば、単に愚かしいだけです。自分だけにとどまらず、他者をも巻き込もうとするものですから。

 しかしながら、世界を見渡してみると、中世さながらに、「国・地域」「民族」「宗教」「主義・主張」などが戦争の口実になっている場合が少なくありません。

 この学校には、就学生だけでなく、北東アジア・東アジア・南アジア・アフリカ・オセアニア・ヨーロッパ・南アメリカなどの国々から、何人もの人が日本語を学びに来ています。

 この学校にいて、日本語を共に学んでいる人達の様子からは、それぞれの国で、「血腥い争い事」が、愚にもつかぬ理由から起こっている事など、想像さえできません。ましてや「ヒト」が争いを好む「サル」に近い種であるなど、考えることもできません。

 時々、こんなことも考えるのです。半世紀以上前、そうであったように、ここでニコニコと机についている人達の子供達が、口汚く罵り合い、戦をする日が来るのだろうかと。

 あり得ないと思うだけに、反対に、妙に現実味を帯びてしまうのです。

 それは、とても怖いことです。いつまでも、皆が、現在のように、心置きなく、学びたいことを学んでいられますように。忙しい、忙しいと笑いながら、仕事に、勉学に、励むことができますように。

 昨今の血腥いニュースを見聞きするたびに、学生達の事を、そして、平和に暮らしている我々自身のことを、思わずにはいられません。

日々是好日
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