晴れ。
今朝も風がなく、餃子のお月さんと並走しながら…いやいや並歩しながらの登校。この餃子、どうにか他のものに…と思いながら見つめていると、…「あった。マンボウ」。…でも、じっと見つめていると、やはり餃子になってしまう。もう仕方がない、餃子さんで我慢してもらおう…。
さて、「Eクラス(10月生)」。漢字を教えるのが、随分、楽になりました。楽になったはいいけれど、かなりの格差。言われたとおりに、しっかり書いてきた人は、「カタカナ交じり」、「(既習の)漢字交じり」の、パーツの説明を聞きながら、一度書いてやると、もう、だいたい書ける…。もっとも、まだ、「N4漢字」ですが。
その中に、一人、「書け、書け。手(を動かせ)」といくら言っても、「はい、先生」で、見つめているだけの学生がいるのです。「『はい』と言うだけで、書いてないでしょ。見ているだけでしょ」。「はい、先生」。…埒があかない。かといって、愛嬌はあるのです。「どうして、そんなことを言うの。ちゃんと見ているでしょ。覚えようとしているんですよ」とこちらを見つめて、つまり、目で悲しそうに訴える。
「見ているだけでは覚えられません。はい、鉛筆を持って。はい、手を動かして」…なぜそこまで言わねばならぬのか、子供じゃあるまいし。…と、思うのはこちらだけで、向こうとしては、困ったなあで、「困ったちゃん」になっている。「『第三回』の漢字テストを何回受けましたか」とは言わぬけれども、「…もう五回ですよ。飽きたでしょ」と心では思っている。もっとも、1回目の30点から始まって、少しずつは伸びている。35点、55点、55点、そして今週は65点。頭はいいのに、こうまで嫌いかねえ。
ちょっと無理そうな人には、ここまできつく言わないのですが(そういう人には、「大丈夫。少しずつ、ゆっくりやっていこうね。随分、形がきれいになりましたよ」…文句を言われている学生の方は、きっと、「俺だけぇ…」と思っているでしょうね)、彼の場合はできるはずなのです、ちょっとでも練習すれば。それを嫌がる。書くのが面倒で堪らぬ様子なのです。私の方こそ、彼を見ていると、困ったちゃんになってしまいそう。
それから、途中から入ってきた二人。日本語なるものは、初めてだという「十一月」からの人は、書いている様子を見る限りでは、かなり「十月生」に近づいている。一方、国で勉強してきたという「一月生」は…、ちょっと厳しいですね、どうも何かが、足を引っ張っているよう。
同じように、とんでもない「ひらがな」を書いていた「ネパール」の学生。「(ネパールの)先生が悪い」と言いながら、練習して、じきに、宿題が、それほどの抵抗なく見られるようになった…というのとはちょっと違う。もう少し時間がかかるかもしれません。日本語では「ひらがな」「カタカナ」が基本で、それがきちんと書けていないと、「漢字」もおかしくなる…というより、「漢字」を覚えるのに手間がかかってしまうものなのですが。
もっとも、そうではない人も確かにいました。昨年いたネパールの学生の中に、「ひらがな」だけは、どうしても「…読めない」字になってしまう人がいたのです。宿題を見るのが、少々苦痛でした。「答え」ではなくて、「文字の訂正」ばかりしていたような気がします。最後には、ボールペンの色を変えて、「答え」の問題点はこの色の方、「文字」はこの色の方と、せざるをえなかった。…向こうもイヤだったでしょうが、私もちょっとね。上から、幾度となく(「ひらがな」を)なぞらせてみても、いざ、自分で書くとなると、すぐに元の字に戻ってしまう。「あああ、努力が元の木阿弥じゃああ…」。本人も苦しかったでしょうが、私も…どうしようでしたね。頑張っているのがわかりましたから。
ところが、「漢字」の導入が始まってみると、すぐ「きれい」に書けるようになったので、びっくり。共々、驚いて、お互いに「首をかしげ、「どうしてですかね。きれいですね」。それからは、書くのが楽しくなったようです。褒められるとよけいうれしいものですから。私も一回一回褒めていました。「ひらがな」の時の分を埋めるように。
そういうこともあったので、一概に否定的な見方はできないのですが、まあ、普通は「ひらがな」「カタカナ」がきちんと書けないと、「漢字」の形も変ですよね。バランスが悪いのです。偏と旁があっちゃこっちゃに行っていたり、大小が反対だったり…。
まずは「隗より始めよ」みたいなもので、「ひらがな」から練習していくのはそれなりの理屈があるのです。一応の(文字の)導をした後は、つまり、後は本人の努力次第。こちらとしては宿題のノートを見て、その都度訂正を加え、注意を促すくらいしかできません。それで、大半の人は、どうにかなってきていますから。
日々是好日