日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「○○さんは、今、『うるさい』」。「うらやす」が「うるさい」に。

2023-11-30 08:16:25 | 日本語学校

晴れ。

日一日と寒くなってきているような。やはり「秋なのか、夏なのか、冬なのかわからないような」変な「季節」は終わったようですね。

さて、昨日は、三回目、最後の「模擬試験」でした。今年の「A・Bクラス」は、ベトナム人がいるにもかかわらず、(クラス全体としては)ヒアリングの点数が高く、「読解」で、ガックリきていても、「聴解」で生き返るようなところがあったのですが、どうも昨日のテストでは違っていたようです。

「聴解」の点数を見て、「エー、どうして…。どうして、こんなに悪いの????」。とは言っても、今日、クラスにいけば、みんな、ケロッとした顔で迎えてくれるでしょう。返却しても。

どうも、このクラスの人達は、(点数に)欲がなくて、「もう『N3』に合格できたから、それでいいの…ホッホッ」みたいなところがあるのです。

とはいえ、昨年の12月に、半数ほどが「N3」に落ちたときには、さすがにショックを受けていたようでしたが。この七月に、そのショックを受けていた人達が「N3」に合格すると、みんなが「これで、みんな一緒だね。よかった。よかった」的になってしまい、クラス全体がほのぼのとした雰囲気に…。

昨年の10月に来た学生は、7月に「N3」に合格した後も、そういう雰囲気に呑まれることなく「N2」を目指して頑張っているようですが、その他の学生達は、いまだに「ほのぼの」としています(幸せムードいっぱい)。叱咤激励せねばならぬこちらにしても、なんだか、言うのが悪いような感じになっている。言えばいうほど、「無理解な」私が(彼らの)幸せをぶち壊しているような感じになってくる。言ってしまうこちらの方が罪作りをしているかのよう。…悪い意味で日本的だなあ。

「出る杭は打たれる。だから出ない。みんな同じだから、平穏無事でやっていける」

もちろん、日本でやりたいことがはっきりしている学生は、そういう雰囲気とは全く別に、「我が道を行く」でやっているのですが、なにせ、大半が、そういう「まあ~いいか」的なのです。

今は、私らにしても、「もうちょっと頑張ろうねえ」と気弱げに旗を振るくらいなのですが、向こうは、へへへへへ…で、のれんに腕押し、糠に釘…しょうもない。もう少しでもいいから頑張ってくれないかなあ。しかも既に専門学校に決まった学生が二名いて、「終わったあ」で、ニコニコ顔。専門学校に行っても、タラタラしていると、就職の時に大変だよ…そう言っても、なぜ数年も後のことで急かすの。せんせい、大丈夫だから」とたしなめるような目つきで見られてしまう…はあ。

大学進学を目指している学生にしても、中には、これまでずっと、誰かに面倒を見てもらってきたゆえにか、のんびりと構えている人もいて、「少しは、自分で考えろ」なんて叱られている。

本当に学年によって…というか、この学校では、入学が四期ですから、クラスによって本当に雰囲気が違います。それなりに普通の気分で授業ができるのは、「Cクラス」くらいかしらん、今は。

10月から始まった「Eクラス」は、二ヶ月が過ぎ、少しずつこちらのやり方に慣れてきているので、前のように、目を三角、四角にして授業をせずともよくなってきています。昨日、初めて席替えをしたのですが、思ったよりもうまくいって、まずはいい傾向。本当は少し予定と違ってしまったのですが。

一人の女子が言われた席の一つ右に座ったのです。それがいかにもうれしそうだったので、「向こう」とは言えなかった。すると、並んだ三人、まるで女子会みたいになってしまって、キャッキャッとうれしそう。今までは二列目だったので、訊きたいことも訊けなかったのかもしれません。

この三人、急に子供っぽくなってしまって、「これはどう書くのか」とか、「この意味は何なんだ」とか、あれこれと質しを始めた。前列には男子二人をおいたのですが、後ろになった男子が一人、「目が悪いので、前列にしてほしい…」。すると、前にいた男子がすぐに替わってくれた(この人は前でも後ろでも大丈夫)。もう一人、前にした男子は、ちょっと油断ができないので(私を避けよう、避けようとしている。放っておくと何もしない)前列に。

この彼。昨日は電車を乗り違えて、浦安まで行ってしまい、遅れて来た。で、見ると、前の席がしっかりと空いている。「はっ?私はどこに座るの?」。私「ここ」。その時の「ゲッ」という顔は面白かったですね。みんな大笑い。みんなもよくわかっていたのですね。

もう一つ、この乗り違えたという話には「落ち」があって、その連絡を先に受けた同国の男子。「○○さんは『うるさい』」。聞いた私は、「そうか。『うるさい』から、電車を下ろされたのね。で、遅れるんだ」。「違います。電車。『うるさい』」。「そう、○○さんはうるさいんでしょ」。すると、なぜか、他の留学生の方が彼の言わんとするところがわかって、「先生、『うるさい』じゃない。『うらやす』」。

「乗った電車が急行だったから、浦安まで行ってしまい、今、引き返すべく次の電車に乗っている」と言いたかった…んだ。「そうか、○○さんはうるさいからね」。繰り返すと、またみんな爆笑。

息せき切ってやってきた彼。同じように、「先生『うるさい』」。「もうわかりました。『うるさい』ですね」。「はっ?」。すると、みんなで「うらやす」

まだ『みんなの日本語』の「21課」ですからね。そりゃあ、言い間違えることも少なくないし、言いたいことが言えないと言うこともよくある。それを助け合って、私に説明してくれたのがありがたかったし、それをみんなで笑えたのもよかった。乗り間違えた本人からしていかにも楽しそうだったし…本当は焦ったでしょうね。また睨まれると思って。

10月から始まった「Eクラス」も、「横浜」へ一緒に行ったことがきっかけとなって、より親しくなれたようです。

日々是好日
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受験の季節が始まっています。受験に行くやら、願書書きに精を出すやら…。おまけに、今度の日曜日には「日本語能力試験」まだあります。

2023-11-29 08:32:03 | 日本語学校
晴れ。

朝でも暗いうちだと、真夜中同様、月は耿耿と照り、まがい物でない明るさで迫ってきます。きれい。。

さて、「A・Bクラス」では、専門学校に、合格した学生もいれば、なぜか不合格になってしまった学生もいます。進学先が見つからねば、ビザの申請もできませんから、それなりに必死のはず…なのに、それがさほどでもない。口を開けて、次に学校側が紹介する所を待っているかと思いきや…それが、そうでもない。「どうするつもりですか」と訊いてみると。お決まりの「内輪の通信網」に因った答えが返ってくる。それが、先に受けた所よりも難しげな専門学校ときている。

担当している教員はその難しさがわかっていますから、そのことを説明するのですが、なかなか、その、肝心な、意図するところが伝わっていかない。もちろん、受けるのは本人ですから、自由なのですけれども…、受けるには、受験料が必要になるので、そのことも言うのだけれども…学生には変な自信があって、なかなか「動かない」。その自信というのも、自分よりも下手そうな(下手と言っても「誰かがそう言った」程度の確信で)人が合格したから。

募集が始まるやいなや受けたのかもしれないし、その時に偶然うまくいったのかもしれない…今は噂が噂を呼んで、皆が受けようとしているから、難しいであろうと言うのだけれども(しかも、書かれているのは一応「N2」レベル)、大丈夫と言う。

彼らに不利にならないようにと考えてのことなのですが、やはり日本語力の差というものは大きいのです。同じクラスでも「N1」か「N2」に合格できそうな人はそれに伴った部分も理解できるようになっていますから、その理屈がすぐにわかる。しかしながら、やっとの「N3」レベルであれば、どうしても、自分たちの国の考え方、やり方で、「日本」を捉えようとしてしまう。…無理があるのですけれどもね、それは。

以前、中国人の学生が、熱心に勉強しないくせに、大学に行くと言ってきたことがありました。「大学に入りたいのなら勉強しなさい」と言うと、その大学に知り合いがいるから大丈夫と言う。その人が(その)大学の先生を紹介してくれることになっているから問題ないと言う。日本で「それは」ない。あったら警察が来ると言っても、通じない。こういうのはどうしょうもないのです。さすがに今はそんなことはないのでしょうけれども。

もっとも、専門学校の受験もあれば、大学受験もありますから、その準備やらなにやらで、おそらく落ち着くまでまだしばらくかかるでしょう。願書さえ出してしまえば、後は毎年と同じ。受験するまでが大変なのです。

日々是好日
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毎日、「今日は暖かいですね」とか、「今日は寒いですね」とか言う私を、留学生達はどう思っているのかしらん。

2023-11-28 12:15:51 | 日本語学校
曇り。

陽が差してきました。朝のうちは「所によっては小雨」のはずだったのですが、もう青空が広がっています。

今朝、公園に入ると、ちょうど目の前にまん丸なお月様が黄色く光っていました。夜は闇の中で冴え返っていたのに、白々と明け初めた空気の中では、どうも薄っぺらく見えてしまっていけません。

今日は、昼には「20度超え」するとのこと。まさに「秋」になったかと思うと「真冬」になり、「真冬並みの寒さ」が襲来したかと思っていると、また「小春日和」になる…。週末にはもう「師走」になるというのに。せわしげな日々が始まるというのに。もっとも、学生達はのんびりしたもの。だって、彼らにとっての「正月」は、日本人における「正月」ではありませんから。

一月一日が、「ニューイヤー」であるという、この感覚はどの国の人々にも存在はしているようですが、やはり留学生達にとっては、自分たちの国の「お正月」が本当の意味での「正月」。ということで、キリスト教徒でもないのに、やれ、「クリスマスだ」、やれ「ハロウィーン」(これはキリスト教のお祭りではなかったかしらん)だと「何でも来い」の日本とはちょっと違います。

それぞれ、自分たちの国の習慣、もしかしたら彼らの宗教がやってきてからのものかもしれませんが、それが「正月」であり、「大晦日」、そして「年越しの準備をする期間」なのでしょう。

日本でも、地方によっては、「旧暦」使用の所もあり、それに則った「正月」が行われ、もしかしたら、感覚的には彼らと同じようなものなのかもしれません。

今年の「十月生」のうち、三人が、来日すぐの頃、30分ほども遅れて来たことがありました。「お祈りのため」という理由だったのですが、その時の彼らの表情が、いかにも「当然だ」風だったのです。これを毎日やるのかと、こちらはこちらで「ムッ」。こうすることが、どういう結果になるのか、よくわかっていない…。もちろん注意しました。彼らは留学生で勉強の為に来日しているのですから。

つまり、その間の授業(30分間)に参加できないということです。私たちが彼らに合わせて、授業を別にしてやることはありません。それでなくとも、彼らの「ひらがな」「カタカナ」はひどく、かなりの修正が必要でした。他の学生は(今でもそうですが)、授業開始30分ほど前には、教室に入っていて、前日の宿題ノートのチェックをしています。その間に伝えるべきことは伝え、問題があるところはこちらが、注意するという作業をしているので、結局、一時間ほども「不在」ということになる。

この「お祈りで遅く来るのが当然」というのは、初めてでしたね、同じ宗教の人は何人もこの学校にいたことがあったのですが、皆、勉強の方を先に考えてくれていましたから。ただ、「授業が終わってから、お祈りをしたいので、場所を貸してほしい」と言われたことはありました。授業が終わるまで、彼女たちもお祈りを待っていてくれたのです。

自分たちの国であったら、皆がそのやり方をしているわけですから、何ら不都合はありません。けれども、他国に行き、しかも異文化の中で、同じ作業をしているときに、自分たちだけ別のことをやるとなると、当然のことながら、軋轢は生じます。なんと言っても少数派なのですから。彼ら自身にとっても不利です。ですから、柔軟にならざるを得ない。そういう柔軟性は、この、一見、頑なに見える、この宗教にもあると思っていたのですが。

もっとも、あれは、あの日だけのことで、注意を受けた後は、きちんと時間通りに来ています。30分前とはいかずとも、まあ、ギリギリではありませんね。

4,5年ほども前だったでしょうか、「七夕」を説明しているときに、「天の神様」に反応して、席を立った学生がいました。その時に、「こりゃあ、まずい。私の失策だ」で、それからはそういう表現は、日本文化を説明するときにも、極力除く(避ける)ことにしたのですが、一時、事情があって来なくなっていた彼が、再度、勉強したいとやってきて、それからしばらくのこと、「N2」レベルの授業に入っていたころでしょうか。

その頃、時間があるときには、「ニュース」を見せたり、高校教材の『タペストリー』を見せなが、その説明をしたりしていたのですが、気がつくと、日本の習わしなどに登場する「神々」の話をごく自然に聞いていたのです。

これは「宗教」ではなく、「文化」あるいは「慣習」のごときものであるというのが、わかったのでしょう。

やはり時間は必要でしたね。彼らが拒否(絶)反応を見せたときには、ごり押ししたり、妙な説明を加えたりしないというのが鉄則。互いに意思の疎通ができるようになれば、(私たちが、彼はいい人である。いい人が信仰する神は、いい神様に違いない。だから、「どうぞ」と思えるように)、一緒に「七夕飾り」を作ったり、「願い事」を書いたりできるようになるのもごく自然なこと。それぞれがそれぞれの神様にお祈りすればいいだけのことですから。

大方の日本人は、あらゆるものに神が宿ると、無意識のうちに思っています。それは、ある種の人達から見れば、「不謹慎」であるでしょうし、勘違いをしている人達から見れば「無宗教」と言われるかもしれません。が、それ故に、「信じ」は、しなくとも「拒否」はしないのです。この国、あるいはこの国に住んでいる人々を侵さない限りは。

もっとも、日本人がそう思っていても、「唯我独尊」の人々が自分たちの宗教が絶対だと言って、それを強く前面に押し出してくれば、話は別かもしれません。宗教というのは「個々の人々」のものであり、強制すべきものではないはずだからです。これは日本人同士でも同じことです。


日々是好日
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「サザンカ」の花が咲きました。流しの出窓に置いてある「ラン」も蕾をつけたようです。

2023-11-27 07:57:43 | 日本語学校
晴れ。

学校の「サザンカ」の花が咲いていました。ヒョロヒョロッとした細っこい、小さな植木の花なのですけれども、いいですね、赤は。

いつも、この花を見て、「こりゃあ、『サザンカ』花だ」と思ってしまうのですけれども、本当は「ツバキ」の一種だそうで、何だか、毎年、騙されているような感じ…。今朝、咲いていたのは二輪。金曜日にはその兆しさえありませんでしたのに。

土日の寒さ、そして雨が花を呼んだのでしょうか。20度なんていう日が続けば、そりゃあ、冬の花は笑む気にもならないでしょう。

そういえば、近所の「桜」の木。毎年、花と紅葉と、一年に二度、楽しませてくれるのですが、今年は(黄)葉の「紅」も「黄」も、どうも、色がはっきりとはしていません。薄い緑や紅や黄に、うっすらと釉薬をかけたような具合の葉が、風に揺れたと思ったら、すぐにハラハラと落ちていきます。暑かった夏が、なかなか終わらなかったせいでしょうか、なにせ、「秋がなかった」感が強烈でしたもの。

とはいえ、これが日本だと思っている学生達です、まあ、いいのでしょう。

ところで、先週、行った「横浜」の感想を聞くと、「きれいでした」…しか言わない。例を挙げ、「どうでしたか」と水を向けても、互いに顔を見合わせるばかり。いつもは饒舌な「A・Bクラス」だって、せいぜい、面白かったくらいしか出てこない。「いつもは、ああだ、こうだとうるさいくらい言うでしょ」と喚きたくなる私なのですが、「困った」さんが並んでいるように見えるので、話題を換えるしかない…。

教員に聞くと、スリランカ勢はいつも通り、写真に生きがいを見いだしていたようで、なかなか次に進めなかったらしい。「行くよ、行くよ」といくら言っても、「わたしゃ、ここで、写真を撮るのじゃ」だったのでしょうね。動かなかった…らしい。もっとも、「氷川丸」には、揃って乗れたそうでしたから、まずはよかった。以前、…いない…で、どうしょうなんてことも、あったような…気がします。

そういえば、「横浜」ではなかったのですが、こんなこともありました。

十年以上も前のことです。彼らが来日後、初めての「課外活動」で、「渋谷」の「NHKホール」に行った時のこと。帰りの道すがら、学生が、聞いていいのやら悪いのやらといった表情で「ここが東京ですか?」と聞くのです。一瞬彼女の言わんとするところがわからなくて、「???」という顔つきで見てしまったのですが。どうも、彼女は、ここ、行徳が東京(いわゆる日本の首都)であると思っていたらしい。で、華やかな渋谷の街を見て、びっくりしたのでしょう。そういえば、近所のスーパーをデパートと言ったのも彼女らでした。

今はもう、そういうこともなくなったかのように見えはしているのですが、まだ、「日本で、デパートに行ったことがありますか」と聞くと、やはりあると答え、隣の駅の名前を言う人がいるのも事実。確かにこの近所のスーパーよりは大きいけれども、あれもスーパーなんですけれどもね。

当時のことをおもんばかるに、あの頃は、留学生達の行動半径は狭かった。来日後、日本語が全然できないという人も少なくなく、そうなると自転車で行ける範囲の工場でしかアルバイトはなかった。で、学校と、寮とアルバイトの三点を、毎日グルグルと回るだけの生活になってしまう…。だから月に一度か、二月に一度の課外活動は彼らの見聞を広めるという意味でも、気分転換になると言う意味でも、必要だったのです。

それに比べれば、今の学生は電車通学の人もいますし、アルバイト先もこの近くとは限りません。以前に比べれば、留学生は「N5」に合格してから来日していますし(中には、これで合格したの?)という人もいますが、少なくとも、「ゼロ」ではない。

とはいえ、午前と午後の学生、また違う国との学生たちとの交流という意味でも、役に立っているようです。何よりも楽しみにしている人も少なくないようですから。「次はどこ?」とせっつかれることもあるくらいなのです。

日々是好日
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季節の言葉。自然に出てくる、そのような言葉には、それなりに意味があるのです。

2023-11-24 08:14:18 | 日本語学校

晴れ。

一昨日も昨日も、そして今日も、十一月の下旬とは思えないほどの暖かさが続いていますが、今夜から「冬将軍」がこの地にも出張ってくるそうで、学生達には注意してねと言ってあります。本当に、昨今の、急激な気温の変化には参ってしまいます。

学生たちには、「例年は」というのが通じませんから、皆、「日本の十一月なんて、こんなものなんだろう」くらいにしか思っていないようです。私の、「今日は寒いですね」とか、「今日は暖かい方かな」とかいったの言葉も、どうして(わざわざ)そんなことを言うのだろうくらいの感覚で聞いているのでしょうね。

昔からの挨拶語、「お寒いですね」とか、「ちょうどいいお湿りで」とかいった(お天気の)言葉は意味がないとでも思っているのでしょう。まさに「それがどうした」なのかな。かといって、彼らの国に四季がないわけではなく、それらしい季節の変化というのはあるようなのですけれどもね。…多分、あまり気にしていない。二季(乾季と雨季)の国では、いつからいつまで雨が降る…で、いつからいつまで雨が降らない…で終わりなのでしょう。

以前、こんなことを不思議に思っていたインド人学生がいましたっけ。「朝、晴れているのに、日本人はみんな傘を持っていた。変だなあと思っていると、帰る頃、雨が降り出した。日本人はなぜ雨が降ることがわかっていたんだ????」。

別に日本人に超能力があるわけじゃありません、当たり前のことですが。天気予報をいつも見て注意しているから、そうしたんだとしか言いようないのですけれども。この「天気予報をしょっちゅう見る」ということも、彼の場合、理解の「外」だったようです。降水確率が、30%くらいあれば、普通は、傘を持っていきますよね。それだけのことだったのですが。

日本の場合、「梅雨」といっても、毎日雨が降り続くわけでもないし、比較的晴れが続く冬でも、雨が降らないわけでもない。昔の人は山に住んでいれば、あの山にこんな雲がかかれば明日は雨と言ったでしょうし、海沿いの村に住んでいれば、海にこんな風が吹けば雨になるとか言っていたでしょうね。今は自分の目や耳、体で感じると言うよりも、テレビやラジオ、インターネットでの情報で動いているわけですが、それでも、時々、「山にあの雲がかかったから」なんて言う人はいます。それほど根は深いのです。

あの学生も、「日本人が挨拶にも、そうでないときにも、いつも天気のことばかり言っているわけがわかった」そうで、今ではもう、日本人と同じように、出勤前には必ず天気予報をチェックしていることでしょう。

もっとも、そうでなくとも、お天気の言葉というのは便利なものです。初めてあった者同士でも、「暑い日が続きますねえ」で、話は始められますし、それがきっかけでどう転ぶかわかりません。まずは無難な言葉なのです、みんないつも気にしていますから。

とはいえ、このように不順な日が続きますと、これから日本も熱帯地方のようになるかもしれません。お天気をそう気にせずに暮らすことになるかもしれません。そうなると、いにしえからの詩歌が理解できなくなるかもしれません。季節の草花や事象、またそれによって生まれた感情や感覚が相互に影響し合って生まれてくるような歌が少なくありませんもの。四季それぞれの山川草木中に包まれて「心」も、癒やされたり、苦しめられたり、喜んだりするものでしょうから。

さて、木曜日は、皆で「横浜」へ行き、楽しんだようです。彼らが登校してから話を聞くのが楽しみです。

日々是好日

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昨日、「横浜散策」の説明が行われました。明日、行く予定です。

2023-11-21 08:38:03 | 日本語学校
晴れ。

晴れていると、昼は暖かく、朝夕は涼しい…少々寒いというのが、本来の秋。それなのに、日本海側や東北、北海道では「ドカ雪」、すでに生活を脅かしているという。「慣れてはいても、この季節にね」。あるいは「つい先だってまでは真夏のような暑さだったのに。」と言い、服どころか心の準備も追いつかない。

もう、温暖化云々の時代ではなくなっているのでしょう。ただ日本列島でも、太平洋側は、気温が不順であるくらいで、ドカ雪には襲われていないので、「ドカ雪かぁ。大変だなあ」くらいのもの…申し訳ない。もっとも、温泉や山の方へ行った人は別のようですが。

学生達は雪のニュースを見ると、羨ましげな顔をします。南の国の人や、寒くとも、日本の雪のように柔らかい雪になれていない人はそうなのでしょう。けれども、実際に日本の雪国の人達からすると、「雪は悪魔みたいなもの」だ、そうですが。

さて、学校です。

明日、「横浜散策」へ行くとのことで、昨日、その説明がありました。最後に、「『二年生クラス』は、先輩だからね。一年生を見てやってね」。「ふん、ふん」と、そこまでは、皆、納得顔。ついでに「『一年生クラス』でも『Cクラス(四月せい)』の人は、もう先輩だからね。」と言われ、「Cクラス」の面々、こそばゆげに笑い出した。まあね気恥ずかしげ。なんと言いましても、「10月生」が来てみれば、同じ年度であっても、差は歴然としてていますもの。

この「四月生クラス」も、始まった頃は、在日生が多く、留学生は二人だけでした。しかも、一人は電車通学で、疲れ気味。体調を崩したり、何やかやで、勉強が遅れがちになってしまい、本来ならば、「N5」に合格している留学生がクラスをリードしていてもおかしくないはずだのに、それがそうでもなかった。文法には難があっても、来日後かなり経っている在日生たちの「ヒアリング力」に押されてしまい、留学生の影は薄かった、最初の頃は。もっとも、「在日生」と一言で括るわけにもいきませんでした。中には「真っ白白」で来ている人もいましたから。とはいえ、それほどまったりとやるわけにも行かず(中にはどんどん進めそうな人もいましたから)、「真っ白白」の人は本当に大変だったと思います。

なにせ、授業も話も日本語しか共通語がないのですから。それでも、よく耐えて、「N4」までよくぞ来た…。その最初「真っ白白」で毎日不安であったであろう人も、今では、他のクラスメートにちょいちょい、茶々が言えるようになっています…ほんに継続は力なり。

ですから、「十月生」の「真っ白白」さんも頑張ってほしいのです。このクラスは半分が大卒者とはいえ、その大半は、いわゆる「真っ白白」さん。他の学生達よりも、勉強には慣れているであろうとは言え、年を食っている分だけ、暗記やらが苦手になっている…人もいる。おまけに、それほど勉強に熱心ではなかろう…ように見える人もいる。また「在日生」でも、ほぼ「真っ白白」さん同等の人は、やはり文字に難がある(懸命に書いているのはわかるのですけれども)。「見て、書いているのに、いくら何でもこれはないだろう、きっと絵も下手だろうな」と思わせるような文字で、宿題をやってくる。

以前、ネパールから来ていた留学生達は、ここまで「ひらがな」「カタカナ」が変ではなかった。それなのに、今年ばかりは、留学生であっても、とんでもない「ひらがな」を書いている(彼の場合は、正した後、ある程度普通に書けるようにはなりましたが、宿題などでは、以前の文字に戻ってしまうのです。これはもう、習慣になっていて変えるのは難しいでしょうね)。「在日生」でも、国で習ったことがあるという人は、「ふ」の上に点があったり、「ほ」が「し」と「ま」であったりしている。スリランカからの学生もそう。これは母国の先生のレベルの問題かな…初めての学校からの学生ですから、予測がつかない。

「四月生」や「七月生」であったら、文字の習得の時間にもう少し割けるのであろうけれども(それでも、大して変わらないでしょうね)、変わらないであろうなと思わせる人が若干名いる。もうあとは宿題の時に改めさせていくことにして、走り出しているのですが。とはいえ、これまた、いくら訂正してやっても、それを確認する習慣(彼らに)ないので、放っておけば、元の字が定着してしまう…(だから、30分ほども前に来させて、訂正した字を見させ、練習させる時間が必要になってくる)。

もっとも、これは彼らだけの問題ではありません。二倍も三倍も時間をかけてやっても、結局は自分達が意識して正していかない限り、元の木阿弥になってしまうのは、必然…と言ってもいい…。文字を正しく書かねばならないという習慣があるかないかなのです、結局のところ。「ひらがな」の「こ」と、「カタカナ」の「コ」が同じであっても気にならないのですから。

ですから、一応入れ、練習をある程度させた段階で、走り出しても、それはそれで、しょうがないのです。定められた期間内(「十月生」の場合は一年ほどで「日本語能力試験」の「N3」か「N2」か、「N1」に合格させてやらねばなりませんから)に、やらねばならぬことが山積しているのですから。

というわけで、「十月生」には手が抜けない状況はまだまだ続くと言うことに。昨日、初めて彼らを見たという教員の一人が、「ありゃあ、大変だわ」と感想を述べてくれました。やっと、ここまで、均してきたのだけれども、目を少しでも離せば、ビシッと言わなければ、それはすぐに「砂」になって、パラパラとあっちへ行き、こっちへ行きしてしまい…そうな人がすました顔して座っているのですから。

面白いことに、ジロリと私が見たときに、その人と目が合うのです。気を抜こうとしているのが(たった13人しかいませんから)、ブラックホールが存在しているように、感じられるのです。それで、見るのですが、と、ハッとして「振り」をするのです。やはり油断はできん…。

日々是好日
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アタフタとした「先週」が終わりました。今週はちょっとは腹を据えてできるかな。

2023-11-20 08:15:46 | 日本語学校
晴れ。

忙しい日に限って、ポットが壊れてお湯が沸かない。10分おきに見ては、いろいろと試し、もう最後とばかりに水を入れ替えて、やり直してみると、おや?何事もなかったかのように赤いランプがついた…あの時間はいったい何だったの???

という具合にして、今日は慌ただしく始まりました。先週はなんであんなに忙しかったのでしょうね。何かに追いまくられるように一週間が過ぎていき、最後の数日は、もうお手上げ状態で、模擬試験でした。

14日から来た在日生。勉強したい人がいると「Cクラス」の在日姓が連れてきた。「日本語能力はゼロ」。始めると言っても…、一番下のクラスでも、既に「18課」に入っている。ただ、大学三年で日本に来たそうだから、多少無理をさせればどうにかなるかと、一応、一番下のクラスに入れた。ところが、無理をしたのは彼女じゃない、こちらの方だった。

5分でも空き時間があると、朝から自習させている彼女の所へ行き、「ひらがな」を教え書かせ、それをチェックするという作業が始まっています。先週でどうにか「ひらがな」編は終えたけれども、覚えているかどうかの確認はまだ。とはいえ、時間がない。「カタカナ」も入れておかねばと、気ばかり焦っている。実際、こうやっても、「一月生」が来たときに、一緒にやり直さねばならぬであろうとは想像がつくのですけれども。

まあ、「一月生」は、一応、留学生ですから、「N5」は合格して来るはず。していなくとも、「日本」という国のイメージくらいはあるでしょう、おそらく。そこが彼女と違うところ。まあ、ゼロで彼らと一緒というのも、まずい…ということで、結局、走り回って…走れませんから、ヨタヨタとですけれども、三階へ行ったり、一階へ行ったりしてる。

なんと言いましても、問題は、「10月生」。だんだんとクラスの形を為しつつあるとはいえ、まだまだですから、いまだに目を離すわけにはいきません。クラスに入れておいても、面倒を見られるのは、始める前と後くらいのもの。だいたい授業開始30分くらい前にはこのクラスに入っていて、宿題やら、文字やらを見ているので、彼女だけに集中するわけにもいきません。油断すると、すぐにぽけーっとしてしまう人が若干名いるのです。彼女にある程度のまとまった時間がとれるのは、月曜日の一時間くらいのもの。

実際、この時期、教員は、皆、忙しい。「A・Bクラス」は進学の件で「てんやわんや」だし、それに「4月生の申請」手続きやらも入ってきます。「四月生の申請」の方は、書類がなかなか届かない…で、やきもきさせられていたようですし、「進学」の方では、「ここへ行きたい」、「いや、あちらにした」など同国人同士の例の定かではない噂であっちへ行き、こっちへ行きしてしまい、その都度、教員が振り回されていた…毎年のことですけれども。教員の方はそれがわかっているので、「また来たか」でも、学生の方は顔ぶれが違っていますから、同じことをやってしまう。

大学と専門学校の区別がつかない学生もいし、受験資格に「N2」と書いてあるのに、友達が行ったから(行けるはず)で、そこへ行きたいなどと言う学生も出てくる。なんともはや…手に負えない。「あなたとその人は違うでしょ」が通じないのです。

今年度は昨年度とは違い、厳しそうだというのが、言ってもわかる人とわからない人と…。まあ、これはしょうがないでしょうね。あの人が行ったから…その「あの人」の日本語のレベルも、その年度の留学生の数状況もわからないのですから。それで、あっちへ流れ、こっちへ流れする。もちろん、学校側もできるだけ学生の希望に添いたいとは思うのですが、それも限度があるでしょう。

本人の責任ではない、どうにもならない事情であったら、仕方のないことでしょうが、噂で左右されるだけの人も、例年幾ばくかいるのです…そう言う人に限ってというか、なかなか決まらない。

…あれやこれやしているうちに、新しく週が始まりました。今週はちょっとは落ち着くかなと思っているのですが…、例のポット事件でアタフタと…。いい週になりますように。

日々是好日
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「映像」の力。「読む」だけでは、やはり限界がありますね。「中級」からは、できれば「初級」後期くらいからは「映像」の力を借りていった方がいいのかもしれません。もとより時間の制約はありますが。

2023-11-15 08:18:26 | 日本語学校
曇り。

風は吹いていないし、寒さもそれほどではないのですが、じっとしていると、「う~ん、やっぱり冬だ」みたいな感覚になってきます。

下の教室は、授業開始時は、寒いですね。といっても、学生が来る前に少し温めておいた方がいいのかも…くらいのものなのですが、上の教室はそれほどのことはなく、陽が照っている時など、午前中でも、後半の授業では、暑い…まさか…なのですが、そう言う人もいるほど…。

日中と、つまり三、四限目、五、六限目と、一、二限目、七、八限目はかなり違ってきます。もちろん、お日様が出ていればのことなのですが。本当にお日様の力は巨大。地球上のものは、お日様に頼っていなければ、生きていけません。

それが今日のように一日中、曇りである(予報では)と、気温は変わらず、ずっと同じくらい寒いということになるのでしょうね。

さて、学校です。

「Cクラス」では、一つ一つの質問をする前に、大体の内容の説明をするという段階に来ています。数年前までは、「読解」の授業の時には、まず、単語や文法の確認をしたあとに、すぐ質問をしていたのですが、それが、どうもうまくいかなくなっていた。おそらく、早くから、だんだんに「詰まり」を感じてはいたのでしょうが、何が原因でそう感じさせられるのかがよくわかっていなかった。

「日本語学校」というのは、留学生達を、長くても二年、短ければ、一年と三ヶ月で、次の段階に進めてやらねばならない。そのため、勢い、「日本語能力試験」やら「日本留学試験」やらを一つの目的と考えざるを得ず、ある意味、受験対策が主になってしまうのです。それがあって、「見聞を広める」が、おざなりになってしまっていた。「見せたいけれども、説明してやりたいけれども…時間がない」で、流れていた。

それがコロナ禍の時、上のクラス(留学生が多かったときには、「N1クラス」を作ることができました)がきちんと作れなくて、在日者、三人(二人は高校を受験したい、一人は大学を受験したい)だけのクラスになった。その時に一人一人を見る機会に恵まれたと言ってもいいでしょうね。読解力がないわけじゃない。イメージがわかなくて答えられないのだということがよくわかったのです。彼ら三人は理解力もあったし、向学心もあった…のにもかかわらず、指示語やら、主語やらが掴めない。筆者の言わんとするところがよくわからない。それが不思議だったのです。たった三人しかいないから、なぜかを考える余裕もありましたし。

それで、最初、少しずつ、高校の参考書や、DVDなどを用いて、日本の様子や世界の様子(この場合は、短めのニュースが、主になります。長すぎると、わからない言葉が多すぎて、飽きてしまうのです。高校受験生の方が)を授業を進めていきました。

中国人学生が多い頃には、「N1」合格か、それに準じるレベルになってから、こういう映像やら新聞やらの授業を始めていたのですが、それまで待てなかったのです。一人は非常に興味を持ってくれた、よく質問するようになりました。ああ、こんなことを知らなかったのかとか、こんなことを疑問に思っていたのかと、驚かされるようなことがよくありました。「文字」だけではどうしても頭の中に映像などを作ることができずに、結果として「わからない」になってしまっていた。映像の力を如実に感じさせられました。「読んで理解しろ」は、それを知っている人にしか通用しないのものだったのです。特に、そういう情報が限られた世界から来ている人には。

前は、聞いてわからなければ見てもしょうがない。「『見た』と『わかった』は違うから」なんて、偉そうなことを言っていたのですが、実際は、「見せておかなければ、わからない」だったのです。それほど、日本人の考え方と彼らの考え方は離れていた。常識がとはいいませんが、やはりかなり違っていたのです。

かつて、「日本には『相続税』というものがあって、親の財産がすべて子供に引き継がれるわけではない」と言うと、「ふざけている」と怒りだした人がいました。「国が盗むのか」で、説明しても、怒っていて通じない(これは日本でのことと言っているのに、怒っているのですから、意味がわからない)。彼女の所では「親のものは子供のものであって、国が介入すべきものではない」が当たり前であるのでしょう。そういえば、階級社会であった昔は日本でもそうであったのかもしれません。階級は流動的ではなく、財産を持っている人は、子々孫々ずっと金持ちであるのが普通だった…。

金持ちというのは、金を持っていれば持っているほど、ほしがるものらしく、棺桶にまで持って行くのかと笑われても、意に介さない。貧しい人達が、かつかつでも生きて行けているのに、まだ足りないと言う、まだまだ足りないとばかりに金を貯めたがる…もののよう。

税金を払いたくないから、税の安い国、または無税の国に行くと言ってみたり、手を変え品を変え、税の抜け道を探したりする。普通の人はそんな知恵はありませんから、死んだときに自分を始末できるくらいの金があれば、それでいいと考える。人様に迷惑を変えるのは嫌だという気持ちは死ぬまで消えないものですから。

そういうものも、説明がいる。文章を読んで、それを書いた人の考え方や気持ち(もとより、そう考える人がすべてではありませんが、そういう人がいるのも事実。また日本人にとっては、全く不思議ではないし、理解もできるし、共感もする)を説明し、それから文脈を辿っていくようにしなければ、わからないでしょうね。何言ってる!で終わり。端っから信じられない世界が広がっていれば、理解するどころか、何が何やらわからないものでしょうから。イメージすらできなければ、何も頭の中に入っていかないでしょう。

と言うわけで、今、「Cクラス」では説明が多くなっています。その方が彼らも楽のようですね。一応、考えていく筋道を先に提示されるわけですから。ちなみに、先の三人のクラス、終わりの方では、読解力が格段に進んだような気がしました。質問も増えましたし。彼らもそうなれるといいのですが。もっとも、クラスは生き物ですから、毎年違う人が入ってくれば、クラスの傾向も違ってきます。彼らもまた違ってくるでしょうね。その時は、まあ、その時なりに考えながら、やり方を変えていくつもりです。

日々是好日

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「訛り」…日本人にはわからないけれども、外国人同士ならわかる…ということもある。慣れでしょうか。

2023-11-14 08:09:34 | 日本語学校
晴れ。

今朝は小鳥たちが元気に「チュン、チュン」啼いています。朝の空気は清冽というと言いすぎかもしれませんが、学校の玄関のドアを開けた途端、中からムワッと生ぬるい空気が「迎えて」くれたので、思わずそう感じてしまいました。一晩おくと、家の中と外と、こうまで気温が違ってしまうものなのですね…。

ここ数日、いくつかのお庭で、菊の花を見かけるようになりました。「重陽の節句」は、旧暦でももう過ぎてしまっているのに、あれ?。もう立冬ですけれどもね。とはいえ、先週初めには、冷房が必要とおもわれる日まであったので、本格的な冬が来る前にと、菊の花も慌てて、花を咲かせたのかもしれません。「酷暑」が終わると、急転直下で冬がやってきた…。このままでは己の出番はないぞてな具合で、…菊の花にはちと気の毒な…。

さて、学校です。

昨日、スーダン人学生が、一人の同郷の女性を連れてきました。彼女もここで学びたい…。とはいえ、一番下の「Eクラス」でも、もう「動詞の『テ形』」に入っている…、「漢字」も、導入段階の最後くらい…筆ペンでの練習もあと一、二回と言ったところか。ただ、なんでも、「大学三年で日本へ来た」とのことらしいので、「勉強の習慣はあるだろうから、頑張ればどうにかなるか」ということで、下の「クラス」で、授業を聞いてみることに。何せ、このクラス、「グループ分け」をしたのが先週の水曜日、それから何日も経つというのに、いまだに、どうも、しかとその理屈がわかっていなさげに見える人が二名もいるのですから。下手をすると追いつかれ、追い越されるぞ。

そのうちの一人は、(日本語が)白紙で来ていますから、日本語歴は一ヶ月半ほど。ということで、まあ許せるとしても、もう一人は…どうも、よくわからん。それなりに学校にいるときにはしおらし「げ」に練習している「げ」に見えるけれども、家では何もしていないなが見てとれるタイプ。

「初来日・初日本語」でも、本人がしっかり練習しさえすれば、どうにかなるものでしょうし、在日生ですから、留学生とは違い、(学べる)期間の縛りはない。それなりに時間はとれるでしょうし。もちろん、毎日早めに来させて、30分なりとも「ひらがな」から教えていかねばなりますまいが。

で、大体、いつも(授業開始)30分前ほどには来ている「Eクラス」の学生達に、「アラビア語ができる人はいますか」と聞いてみた。(イスラム教徒のバングラデシュ人三名はいつも来るのがギリギリですから、いない)アラビア語ができるとしたらあの三人なのですが、皆、顔を見合わせているだけ。…そうか、「アラビア」という単語がわからないか。

彼女が「英語で話してくれ」と言ったので、英語ができると言っていた面々に聞いてみた。ところが、だれも答えようとしない。すると、前列の一人が隣の学生の肘をつついた。これは条件反射ですね、どう思ったか、つつかれた彼、途端に自己紹介を始めた、日本語で。この突拍子もない行動に、皆で大笑い。だれも自己紹介しろなんて言ってませんよ。

いかに私の日本語が通じていなかったかがよくわかった一瞬でした。この自己紹介を始めた彼、いつも私の問いに、「わかります」と答え、首を横に振っていた。私の方では、この首を横に振る行為の方に目がとられ、首を横に振るのは「いいえ」、「コックン」が「はい」とその都度言っていたのです。その甲斐あって、睨む度に、その都度、慌てて斜め十字を切るようにしてコックンはできていたのですが、肝心要の「わかります」の実態は、…つまり、わかっていなかったのですね。

話が横道に逸れてしまいましたが、例の英語です。多分、それぞれ自国語の英語なのでしょう。私も昔、中国で中国語の勉強をしていた時に、そんなことがありました。クラスメートが集まったときのこと、十カ国くらいからの人達で、皆、中国語で意思の疎通を図っていたのですが、私たちにはわかっても中国人の友達には、私たちが何を言っているかわからなかったのです。「ええっ、中国人でしょ」という私たち。「中国人なのに、中国語がわからないの」と笑う私たち。しかしながら、詰まるところ、私たちには、訛っていても聞き慣れていたから、(その人の)言わんとするところがわかった。武士は相身互い。お互い様というところ。ところが、「本場」の人には、正しい中国語でなかったからか、それが成立しなかった…おそらく発音のみならず、文法もそうだったのでしょう。勘が悪いのは、理系のせいね等とも言って笑い合ったものでしたが。

このクラスの面々も、それぞれの出身国においては皆同じようなものであるからわかっていても、英語における他国の訛りにはそれほど通暁していなかった(なにせ、日本語以外を遣えば文句を言われるのは、この一ヶ月あまりで嫌になるほどわかっていたでしょうから)。で、んんん…?となったのかもしれません。で、触らぬ神に祟り無し…。

とはいえ、彼女、この「Eクラス」での皆とのやりとりに、リラックスできたようにも見えました。(本人の意志に反して)笑いをとった人にも、また、「宿題、宿題」と喚いている私との他学生とのやりとりにも。それからすぐに担当の先生(彼女は英語が達者なので)が来て、安心できたかもしれません。

(彼女が)ここでの勉強を始めるならば、それなりに計画を立てておかねばとも思います。さて、どうなるでしょうかしらん。我慢できるかな。全くわからないということに。

日々是好日
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どうも「教科書」や「問題用紙」には、「書いてはいけない」と教えられてきたらしい。線を引いたり、マークをつけたり、言葉を添えたりするのは、「落書き」じゃありませんよ。

2023-11-13 08:24:45 | 日本語学校
曇り。

今朝はめっぽう寒い。夏が終わってすぐに来た冬に締め付けられているような気分です。こうなってくると、「紅葉はまだかいな」なんて言ってられません。つい先だって、「『紅葉と雪』が見られた、この時期に、こんな景色が見られたなんて」というニュースが流れていましたが、もうそれが当たり前になってしまいそうな…。先週末から、日本海側の各地で「雪の便り」が続々と。「紅葉」と「雪」は同時進行しているのですね。「『紅葉』だけを楽しむ」なんて、もう太平洋側の平地だけのこともなりそうな予感がしています。

今朝、せっせ、せっせと歩いていると、どうも小鳥の啼き声が聞こえてきません。聞こえてくるのは「ガァ、がァ」というカラスの野太い声だけ…。まあ、カラスもとりではありますけれども、あれは、ちょっと猛獣のような…、いえ、いえ、猛禽類でした…のようなものですから、小鳥の声とは言えないですね。

今朝は寒かったから、小鳥たちは暖かくなるまで巣でじっと縮こまっていたのでしょうか。で、たくましいカラスだけが、我が物顔で「雄叫び」のような叫び声(鳴き声)をあげ、その声だけが近所近辺に響き渡っていた…。別にカラスを憎んでいるわけではないけれども…ちょっとあれは悪声…に感じられるものですから、ね。

学校に着いてからは、カラスの声すら聞こえず、ずっとし~んとしていました。ついこの前まで、うるさいほど小鳥たちの合奏が聞こえていたのですけれども、今朝は全く聞こえない。本当にし~ん…。

で、学校です。

初めて「N3」の模試を受けた「Cクラス」の面々。「難しかった…」。点数が低かった人も、100点をかなり超していた人も、同じように難しかったと言っていました。それぞれに「難しかった…」の意味は違うのでしょうけれども、理由の一つはテスト慣れしていなかったからかもしれません。

もちろん、実力がかなりあれば、テストに慣れていようが慣れていまいが、関係ないのですが、なにさま、『みんなの日本語(Ⅱ)』が終わって、二ヶ月ですからね、実力云々は、トンデモハップンというところ。しかも、終わってから三週間ほどは、「N3導入」と称して、「受け身文」やら、「使役受け身」や「使役を用いた『いただけないでしょうか』」みたいなものを、復習かたがた重点的にやっていたものですから、「N3」にきちんと入れたのは、それよりもずっと後のこと。

「文法」だけは、暗記用のものがありますので、きちんと説明してもらう前に、ザッと流しておいたのですが。なにせ、学生達、やったときにその文が、すらすらと読めないのです。ですから、覚えるためにやっておくというよりも、先に読めるようにしておくためと言った方がいいのかも。読めたら、次に、そこに文の意味を書いておく。その日は「ああ、わかった」と言っていても、翌日には忘れているものですから、忘れてもいいように書いておく。そうしておくと、きちんと習い始めたときに、少しは役立つ。

せめて、あと三ヶ月ほどもあれば…な~んて思っても詮無いこと。時間は待ってはくれません。で、元気づけに、「すごいね。まだ文法も終わっていないし、漢字も習い終えていない。それなのに、時間が足りなかったと言う言葉が出てくるんだもの。大したもんだ」…もっとも、騙されない者もいますから、用心しいしい、言っておきます。

とはいえ、ちょっとは明るくなったかな。

そこで、時間配分のことを話しておく。特に『読解』についてですが。ついでに「ね、文法なんて勉強していないものは答えようがないでしょ。知らないものを必死になって考えたって、答えなんて出てくるはずがない。だから、『飛ばす』。知らないものは考えない、『飛ばす』」…でも、何も書かないのはだめですよ。答える場所がズレたりしてしまった時、ネパールの学生、「書いてもいいの…」。か細い声で聞いてきた。はっとして、「はい、みんな自分の問題用紙です。終わったら廃棄処分になるだけですから、何を書いたっていいのです。うんと線を引いて、必要な印をつけて、二度読み、三度読みせずに済ませるようにしましょう」と言うと、どこかしらほっとしたよう。

そうか、時々、教科書に書けと言うと、戸惑う学生もいたのはそういうことだったのかとこちらとしてもいい勉強になりました。「汚す」のが嫌だとばかり思っていたのですが、「教科書に書いてはいけない」で、きていたのね。

「教科書を参考書にしてしまおう。ノートは使ってしまったら、新しいノートになるでしょう、すると、どこに行ったかわからないなんてことにもなり得る。その点、教科書はずっと(人にもよりますが)持っているものだから、大切なことは教科書に書いておいた方がいい」。これはもう少し、強めに言っておいた方がいいのかもしれません。同じようなネパールの人がいそうですから。

あとは、接続詞などを中心に説明していきました。

日々是好日
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「暑い」「寒い」争いが始まります。今日は「寒い」かな。まるで「水争い」みたいです。

2023-11-10 08:12:51 | 日本語学校
曇り。

昼から雨になるそうですが、今は、降っていません。いかにも秋(長雨)の頃の風景というか、それが始まる前の風景とでも言いましょうか、そんな感じです。

さて、学校です。

今頃でも、お日様がカンカンであると、上のクラスでは(昼近くなると)「暑い、暑い」、となり、反対に、下のクラスでは(陽がもう当たらなくなりますから)、少しばかり薄ら寒くなる。「薄ら寒げ」とは言いましても、別に寒いと言うほどではないのです。お日様の都合次第でそう感じられるだけのことですから。こちらから見れば、ちょうどいいくらい…かな。

もっとも、あくまで、こちらから言えばということで。彼らから見ればと言うことではないのです。…ということで、秋から冬にかけてのこの頃から、エアコン騒ぎが始まってしまいます。

特に上の階では、一人暑がりがいるのです。「暑い、先生。エアコンをつけてください」と彼が言うと、すぐに「ええ!ちょうどいい」とか、「ええ!寒い」とかいう声が上がります。ほとんどが女子ですから、彼も強くは言えないらしく、トーンダウンして、心細げに「ほんと~う、あつ~い」。我慢できそうな人はすぐに上着を羽織ってやるのですが、直接エアコンの風が当たるところにいる人は、声を強くして「だめ!」。…彼も「そうですか」と引き下がるよりほかない。これがわかっているのに、毎度、言うのですよね。

こういうことが何回か重なると、最初のうちは遠慮して何も言わなかった人も、だんだんに何か一言言ってやろうという気分になるらしく、時々、「あれ、何か言ったぞ」とびっくりさせられることがあります。言っても、言われても誰も悪くはとりませんから、無遠慮になっていくのでしょう。いつか私は傍観者になり、当事者同士が、日本語で言い合いというか、言葉のやりとりをするのを見る側に回ります。その日本語のレベルも繰り返される毎に、単語の量も使える文の数も(日本でアルバイトなどをしていますから、日本人と話すこともあるのでしょう)増えていくようです。私は、時々、言葉の補充をしてやるだけ。傍観者は楽ですね。

はじめの頃は躊躇って、何も言えなかった人も、皆と一緒になって、「だめ」と言ってやればいいだけのことですから、言いやすい。それに、言い慣れてくれば、「(日本語を)使いたい、もっと言いたい」という方向に行くのが常のことですから、後は自然に任せればいいだけ。これも、けがの功名とでも言うべきか、功労者は、例の「うるさい彼」ですね。

この人はミャンマーからの男子ですが、もう一人いる、このクラスの男子はスリランカから来ていて、あまり自己主張をしないのです。いつも、周りの様子を見ていて、皆の話の結論が行きそうな方向に賛同する。波風を立てないようにと努力しているかにも見える。勢い、皆も自己主張をする男子には無遠慮になるのですが、もう一人の男子に対しては、何も言いません。「気の毒な」ふうの視線になって、彼が何か言うと、すぐに譲ってしまうようです。これはどこの国の人でも同じようですね。

…というのが「Cクラス」で、昨日はこのクラスでも、模試をしました。「N3」です。

十月の一週目に、『みんなの日本語(Ⅱ)』が終わり、「中級」に入って、まだ一ヶ月。難しいであろうことはわかっていますが、何事も経験です。留学生にとっては「N4」に合格してもあまりメリットはないのです。一度受けておいて、どんなものかをわかった方がいい。それに、既に、このクラスでは「N3」に申し込んでいますから。ということで、二人の留学生につられたように、在日の人達も、「N3」に申し込み、昨日は同じように模試を受けました。

受けてから、一人は、「難しい」と言って、「もう学校に来られません(失敗するだろうから恥ずかしい)」と言った後で、すぐに「大丈夫。もう一度受験する」。別の人は「先生、どうする、どうする。できないよ」と私に文句を言う。この人は年齢が他の学生よりかなり高いので、語学の習得の面からいうとかなり不利。しかし、それを考慮に入れてもなおあまりあるほど頑張っていますので、つい、そういう言葉が出てしまったのでしょう。とにかく「『N3』に合格したい」と言う気持ちは人一倍のようですから。

で、今日の一時間目に彼らのクラスへ行きます。もう昨日で、ガックリは終わっているでしょう。これからあと三週間、頑張りましょう。

日々是好日
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「何か一言言ってやりたい。でも言えない」という時期はすぐに終わりますよ。頑張って、早く文句が言えるようになってください。そうならないと、言われるばっかしになってしまいますよ。

2023-11-09 06:50:18 | 日本語学校
うす曇り。

今朝は朝焼けがとてもきれいでした。起きたときはいつも真っ暗なので、カーテンを開ける時期を間違い、見る機会が少ないのですが、今朝は間に合いましたね。これもどんどん日の出が遅くなっているからなのでしょう。

さて、何事か起これば、すぐに蜂の巣をつついたようになる「Eクラス」のことです。半畳を入れたい…入れたいという傾向がある人が何人かいて、ことある毎に(聞き取れたときですが)「ううむ。言いたい、言いたい…けれども、言えない。ううううう」と、いかにも悔しそうな顔でこちらを見ていることがあります。そういうのが見てとれたら、すかさず、「へっ。言いたかったら上手になりな」くらいの目つきで煽ってやります。

人の悪口を言うのが一番手っ取り早く言葉を覚えられるようで、こちらが悪役になるのが一番いい。それも「言ってやりたい。ギャフンといわせてやりたい」という差し迫った気持ちがそうさせるのでしょう。文句を言われて言い返せないのは辛いものですから。

これが「A・Bクラス」ともなりますと、「それ、来い、来い」くらいで待ち構えているのですから、油断できません。時々、「おっ。そう来たか」と感心させられることもある…。

その点、「Cクラス」は、クラスメート同士で、軽く茶々を入れるのがやっとというくらい。矛先はこちらには向きません。…遠慮しているのかな。「(クラスメートの)誰か(だいたい決まっている)にツッコミを入れられる」時があると、軽く茶々を入れ、それが正しい?という表情でこちらをちょい見するものですから、何も言えませんね。「あなたは正しい」という目つきで自分の気持ちを伝えます。言われた方も、「対話」が成立しているものですから、うれしいようです。友達同士の言い合いは、見ていても気持ちがいい。なにせ、「言いっぱなし、言われっぱなし」というのは、言葉を学ぶ上で、あまりいいことではありませんもの。

一人が何か言い、誰かがそれに答える。最初のうちは、こちらが何か言っても、全く反応無しですから、寂しいこと限りなし。それが突如、聞き取れ、表情で反応してくれるようになり、次に片言でも、なにがしかが言えるようになり、その次には向こうから攻撃できるようになり、そして、彼ら同士でも突っ込みと呆けができるようになり…、いやはな。すごいもんです。とはいえ、だいたいその頃に卒業ですから、その後の成長を見る機会はほとんどありません。

「十月生」は一年と半年に満たないくらいで卒業になりますから、そこまで見られるかしらん。早くこちらに半畳を入れられるようになってほしいものです。

日々是好日

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「漢字」に入りました。まずは導入から。筆ペンを用いての、「止め」で、皆、苦労していました。

2023-11-08 08:07:13 | 日本語学校
晴れ。立冬。

日本では、「立」がつく「春夏秋冬」と、「至」がつく「春夏秋冬」をよく用い、「ああ、もう夏なのね」とか、「『夏至』か。これからは秋が近づくんだな」とかいう感覚が、自然に身についています。

ところが、今年は…なんたることか。「今日は『立冬』です」なんて言われても、昨日は真夏日だった…」と、どうもいけません。季節の感覚が狂ってしまうと、人間も自然の一部ですから、草木鳥獣虫魚同様、へばってしまいます。

というわけでもありますまいが、昨日は本当にへばってしまいました。

ということで、学校です。

今は「A・Bクラス」と、「Cクラス」、そして「十月生」の「Eクラス」に授業に行っているのですが、「A・Bクラス」と「Cクラス」はもうクラスができあがっているので、毎日の授業は、いつも通りという感じで流していけます。もっとも、今は、時期が時期だけに、個別の問題が生じることもあるのですが、それは毎年のことで、その都度対処していくだけのこと。

その点、始めてから一ヶ月余りの「Eクラス」。クラスとしては大体まあ、こんなものねという収まり方をしているのですが、新しいことを始めると、途端に、蜂の子めいた騒ぎを起こす…。

「皆、二十歳は過ぎているんだろう」とか言いたくもなるのですが、それでも、ちょっと油断すると、「ありゃああ、なんてこった」というようなことが起こる。

先だっての「ディクテーション」、第一回目。「はじめに三回読みます。いいですか」と確認をとっていたのに、「じゅうがつ○○」と言ったところで、「先生、『じ』…何ですか」「先生、『じゅう』なんですか」という声が、あっちからもこっちからも上った。

こうなる前に、「一月、二月、三月…」とやっていたのに、なんたることか。思わず、「今日は何月ですか」と言い、「(みんなは)何も言いません」と口にチャックとやる。「三回読みます、今は一回目です」と言い、もう一度「じゅうがつ」と言う前に、いいですかと言い、カレンダーを指さす。

だいたい、「一月、二月、三月…」、それに「一回、二回、三回…」を授業開始二日目から繰り返し、言ってきて、覚えているはずだのに、「じゅうがつ」でこけた。

頭にきても始まらない。「一月、二月、三月…じゅうがつ」と言うと、「ああ」と蜂の子が収まった。

どうも、教えていないのに、「うるさい」という野蛮語は、皆もう一ヶ月も経たぬうちに覚えたようで、(言ってはいけないときに誰かが何か言ったとき)ギロリと一睨みすると、どこかから誰かが「うるさい」と、その「うるさ元」を見て言う。「…こいつは余りいいことじゃないな」と思いながらも、つい口をついて出てくる「うるさい」という言葉。「困ったことだ」、もちろん、これは腹の中でブツブツ言っているだけのことなので、私の真意は相手に通じていません。

とはいえ、今は、静かにディクテーションができ、少しずつ正解も増えてきているので、(まだ、文らしい文は言っていません、ほとんどが単語だけです)ほっとしているのです。なにせ、このクラスは白紙入学者が多いのです。だから、何事も我慢、我慢。一歩、一歩歩めればそれでいいと思ってはいるのですが、蜂の子になると、思わず、ギロリか「うるさい」が出てしまう。

で、昨日のこと。昨日から「漢字」に入ったのですが。ご多分に漏れず、初めてのことですから(筆ペンを使うということ)、例の如くなった…・

(最初は静かです)まずは導入の漢字の成り立ちから始めます。「象形文字」「指事文字」「会意文字」「形声文字」「他」のうち、面白がってくれそうな「形声文字」のうち、二つくらい書いてから、「漢字は簡単ですね。『カタカナ』がちゃんと書けている人は大丈夫ですよ」と柔らかく言いながら、まだ完全ではない四人をギロリ。

冊子を「絵」を見せて、それが「甲骨文字」に変化し、だんだんに今の「漢字」に形作られていく様子を確認させる。簡単なのは、「山」とか「川」ですから、それから入っていく。…最後に、筆ペンにならしていく…予定でしたが、半分くらいで、疲れてやめた。。

まずは、「一」。この「止める」が難物で、「ひらがな・カタカナ」の時も、「止める」ができなかった…ので、この「止める」に時間を割く。皆、サッと刷いてしまうのです。その都度、「止める」と言っても、まだわかりませんから、ホワイトボードに、「一」の最後を叩きつけるようにして「止め」をやって見せます。それをやっても、それで改められる人とそれができない人とが出てきます。

彼らの国の文字には「止め」がないのです。だからできなくても責められない…とはいえ、それがまず一歩ですから、強く言わねばならないし、やらさねばならない。それに時間がない。タラタラはできません。最後は、実力行使。そばにツカツカと行って、力尽くで止める。すると、やっと「ああ」となる。なっても翌日にはもう忘れて、「一刷け」になる。なる度に、またツカツカツカで、力尽くで止める。その繰り返し。足が悪いんだから考えろと言えないところが、大変なところ。でも、今、それをやっておかなければ、将来的に向こうも困るし、それを見る私の方でも困る。ということで、とにかく繰り返す。こうなったら、どっちが先にへばるか…多分私ですよね。体力が違う。

このクラスは半分が男子で、しかも体が大きいのが揃っている。とはいえ、こっちは教師面をして威張っていますから、それで言うことをきいてくれるのでしょう。

まず、「椅子をひく」ができない。…足が足がと言う。わかるのですが、(足が長いものね…)でも、「きちんと座れずにして書けるものか」で、机を胸がつくくらいにまで、グイグイと押していく。背の高い男子にはちょっとかわいそうでしたが。

それから筆ペンです。その頃にはちょっと疲れていました。「力を抜く」というのは本当に大変な作業のようで、(彼らの)手の上においてある私の手を、反対にグイグイと引っ張っていく。「書くのは私」が通じない。「何のために私が君の手の上に、手を置いているんじゃい」。こちらもギャアギャア言っているのですが、、自分(私)だって、力を抜くというのが難しいということくらいわかっている。わかっているけれども、引っ張られるのを力で引き戻していくというのは、本当に力がいる。負けてしまう。体力勝負ですものね。

終わると、もうヘトヘト。「時間です。終わりです。疲れました」と言うと、さっきまでこちらを疲れさせていた連中が、いかにも気の毒そうな顔をして私を見ている。…中国人学生だけは、笑っている。「そうだろう、君は部外者で面白かったろうな」と皮肉の一つも言いたくなるけれども、私だって、自分がこの位置にいなければ、笑って見ていただろうなと思うと、思わず、苦笑い。

「明日もそれ(筆ペン)、しますからね」。彼らは楽しそうです。新しいおもちゃを見つけたみたいに、ニコニコしています。ま、いいか…で、終えました。

このクラスは、書かせねばならない(まずは、「書け」「書け」)で、宿題を多めに出しているので、授業が終わってからの「点検」がまた一苦労。「あれだけ言ったのに、またこの字を書いた」という具合。ほとんどは「ひらがな」「カタカナ」の訂正に終始しているのですが、それでも、よくなってはいる。と思っていたら、一日に新しい人が入ってきた。書かせて、「こりゃあ、『ひらがな』じゃあ、ねえ」とため息。また一踏ん張りです。

もっとも、「A・Bクラス」と「Cクラス」の面々が、かつての自分を忘れて、「先生、かわいそう」と文句を言いまくっている私を見かけては同情してくれています。これも成長かな。

日々是好日
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「生ぬるい大風」がビュービューと。すごい風です。

2023-11-07 08:44:28 | 日本語学校
小雨。強風。

まるで春一番のような風ですね。生ぬるさも同じくらい。思わず、「もう霜月なんですけど」…もういい飽きた…でも、今秋はこれの繰り返し。とはいえ、この風が終わると、一雨毎に寒くなる…はずなんですけれども、どうかな。専門家によると、既にお天気は「未知の段階」に入っているそうで、「例年は」とか、「これまでは」とかいうのが使えなくなっているらしい。「これまではこうだったから、これからはこうなるだろう」という「常識」が使えないと言うことは、ずっと言い古されてきたことだけれども、人間社会と同じになる…と言うこと?

世襲というのは、親から子へ伝わり、それを無意識のうちに踏襲してしまうものだから、そういう人達ではもうどうにもならない世界に入ってしまっていると言うことかな。それを日本ではまだ後生大事にしているわけだから、そりゃあ、世界に落後していくのも宜なるかな。

さて、人間社会はともかく、今朝の風はすごかった。特に、交差点など遮るところがないところでは、風がびゅうとうなりを立てて…「吹き抜ける」なんてもんじゃない、千里の馬が駆け抜けていくような具合でした。そこで待っていると、ピザの店の看板がバリバリと音を立てています。風に煽られて剥がれそうと見ていると、その剥がれたところが当たったのでしょう、前に並べられていたバイクが二台、バタバタと倒れていきました。すご~。こわ~。

私とて、身は重くとも、杖にすがっている状態ですから、ぼやっとしているわけにはいきません。用心シイシイ歩いてきました。

雨は、無視できるくらいでしたから、まあよかった、無事に着いたときには、本当にホッ。学生達が来る頃には、雨も風もおそらく止んでいることでしょう。

さて、学校です。

昨日、こんな電話がありました。「自分で勉強して、今のレベルは『N3』と『N2』の中間くらいと思うけれども、『ヒアリング』だけはどうにもならない。それで学校で勉強することを考えている。入る前に「テスト」があるだろうから、それを受けたい」と言うのです。「テストはしません」と言うと、ちょっとがっかりしたふうでしたから、おそらくはそれが目的であったのだろうと推察できました。

自分で勉強してきたと言ってくる人は、案外ベトナム人にも多いのです。以前も、IT関係の仕事をしているという人が来たことがありました。彼の場合は、独学で「N2」まで合格できたのだけれども、「N1」は、やはり学校で勉強しないと無理だと思ってやってきたと言っていたのですが、そういう時間がとれる環境にあったということも大きな理由の一つでしょう。一人で、コツコツやるのもいいけれども、学校に入って手っ取り早くやるのも一つ。

一人で勉強できるだけの力がある人は、どこで勉強しても大丈夫。とはいえ、四分野を系統立てて勉強してきたわけではありませんから、学校に来てみると、他の人達がわかっているのに、自分だけが「あれっ」ということだってある。それが一つや二つではなく、ポコポコと、穴が開いていたということだってあるでしょう。学校では、できるだけ、ボコボコが出てこないようにと均しながら教えていきますから(もっとも、「苦手だから」とか「勉強する気がない」といった場合は別です。個人差は確かにあります)、強みと言えばそれが強みでしょう。一人で勉強してきた人は、自分には何が足りないかがわかっているので、それをやればいい。というわけで、こちらとしても楽。それ以外の足りないところを見つけ、注意してやればいいだけのことでしょうから。

その点、留学生達は、まだ乳母日傘で育ててとばかりに、口を開けても待っているか、そうでなければ、日本にいれば日本語が(自然に)できるようになるだろうと思っているか(そう見える)の人が、少なくないこともない。

ある意味では、(留学生というのは)自分たちで(日本語の勉強を)やって、「N3」か「N2」あるいは「N1」相当のクラスに後からに入るという人達よりも楽は楽、楽といえば楽なのですが、実際には、時々、叱咤激励せねばならぬということもあるのです。「口を開けて待っているだけだろ。入れても吐き出しているじゃないか」と 。

自分たちなりに勉強してきて、足りないところを補いたいという人の中には、そういうクラスに座っているのが、もったいないと思う人も、時には出てきます。語学の勉強なんて、サッと文法を覚えて、単語を覚えて、漢字を覚えて、それで終わりというものではないのですが、効率だけを考えていればそうなるのでしょうね。

先に述べたように、「ヒアリングだけ」とか「漢字だけ」とかいうのは、長い目で見た場合、それほどいい勉強の仕方とは思えないのですが。何事も近道はまずい。その時、捨てて顧みなかったものの中に、却って、宝があることもあるのです。

今は、手が空かないので、クラス授業だけなので、そういう人達にとっては、「無駄な時間」と思えるかもしれません。で、「このときだけ参加したい」と。

最初から参加しているか、ごく初めの頃から参加してきた人達は、教師毎、分野毎に入れるものが違うと言うことがわかっていると思うのですが、「これだけ」という人はそれがわからない。だいたい、わかるだけの時間がない。

教師側からすると、「これは『会話』の時に入っているだろうから」とか、「これは『文法』の時に入れているはずだから」で、飛ばしていることもあるのですが、それがわからないと、「今、説明をしてくれ」となったりする。他の人達はわかっているし、他の時間に扱うからここでは扱わないというの(こちらとしても自分の分野のことを教えたいのです)が、「それだけに参加している人」から見れば、困ったことになる。

で、バラバラというのは、やりにくいので、一ヶ月なら一ヶ月、二ヶ月なら二ヶ月、月火水木金、毎日授業を受けてくださいと言うことになる。

大変ですね。そういう需要があるのもわかるのですが、その時はそれなりにどこかでそれをやってくれる人がいるでしょうから、そこでやってくださいということになる。

日々是好日
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「文字」の大切さを早く徹底させることの重要性…もっとも、今年も「わかっちゃいるけど…」さんが数人いそう。

2023-11-06 08:50:41 | 日本語学校

曇り。おかしな光の具合です。

今朝は、何となく、必死で、「速く、速く」と、歩いてきました。なぜでしょうね、少々、ムキになっていたようです、我がことながら。

そんなとき、ふと気づいて、周りを見やると、花がない…。周りを見渡しても…ない。

「モクセイ」の花が姿を消し、「ハギ」の花も終わりを告げ、「神無月」が終わり、神々が出雲から戻っているはずなのに、花があたりに見つからない…。

この「花」というのは、「秋の」という枕詞めいたものがついてのものなのですが。山に行かなければだめなのかな、いや、もし山に行ってもなかったら…それこそ、ガーンです。

と、ここまでアタフタと考えてきて、はっとした。「サザンカ」も「違う、私の季節じゃない…」なんぞと思ったりしたら…どうしよう。

ついこの間まで、うっすらと、日本人の誰もが考えていたこと。万葉の頃のような季節を感じさせるものが、書物の中だけのことになったら…なんてことが、本当になったりしたら…。

いや、いや、そうは言っても、「モクセイ」も「ハギ」も、ああして、あの「酷暑」の中を、花咲かせるべく、準備ていてくれていたじゃないか。…多分、季節の移ろいと共に、花々も、「自分の季節」を思い出して、多少遅れても、花を咲かせ、実をつけ、次の年に備えていよう…と、まあ、考えることにしました。

「月」にしても、「雲」にしても、季節が移ると、見え方も感じ方も、それによって引き起こされる思いも変わってきてしまいます。そうなるのも、その時々の空気のせい?…、それともそこに含まれる湿度のせい?…。それとも風物のせい?…。まあ、考えてもしょうのないことを思ってしまうのも、「秋」のせい?

さて、学校です。

ある程度、人が集まってきますと、自然に集団が生まれてきます。集団が生まれますと、直にその集団なりの色が生じてきます。それを自然に任せておきますと、一人一人が勝手な方向に向かい、砂のようにまとまりのないものになってしまいます。各個人が自覚があって、それなりにやって行ければいいのですが、大方はそういうことはなく、失敗したグループと言うことになってしまいます。

それで、学校の場合は、わざわざクラス経営というのがあって、それなりに考えられているのですが、結論を言いますと、適度に手を入れていくということなのです。日本語学校であれば、「日本語を習う」というのが、彼らに共通した目的ですから、そこを中心に作っていきます。

まず、一人一人の(勉学等に対する)傾向を見、均せるものは均し、均さずにおいた方がいいものはそのままにして作っていきます。「漢字圏」の学生も「非漢字圏」の学生も、「初級」段階では、それほどの「差」は出てきません。せいぜい「書くのが速いか遅いか」くらいのもの。これは「ひらがな」「カタカナ」を完全に覚え、書けていればというのが最低条件です。ただ、この学校のように、小さく、ごくごく一般的な高卒者が多いような所ですと、この段階から問題が生じているのが普通です。

来日して来校した時、「五十音図」が正確に書けないだけでなく、正しく覚えていないのです。一応、高卒の留学希望者は、「N5」に合格しているというのが条件なのですが、申請が通った段階で、日本語が頭からスッポリと消えているのです。何ヶ月か勉強していなければ、そりゃ、忘れるでしょう…と、日本人は思うのですが、ところがそれに気づかないという「特徴」が見え隠れするのです

しかも、国毎に、違う「ひらがな」が出てくる。少々なら、まだどうにかなるけれども、どうにもならないと思われるのがネパールからの学生の字(学校にもよるのでしょう。コロナ禍前、来ていた学生には、そんな字を書く人はいませんでしたから)。一瞬、これは何?です。本人は覚えてきたと言い、自信満々で書いたのですが、それは本当に「何じゃ????わからん。上から見ても、下から見ても、わからん」

そこだけはかなり厳しく均していきます。なんと言いましても、そばについて見張っていなければ、書こうとはしませんから、最初のうちは、早く来させて、30分なり45分なりをその練習時間に充てさせます。それで足りなければ、授業中、特別に時間をとって、書き直させたり、書かせたりする。三回やっても何回やっても改めようとしなければ(宿題を書くとき、元の字になってしまうのです)、休み時間などを利用して、皆の前でも厳しく言うこともあります。もちろん、その時には既に、教師がなぜそう言うかを大半の学生が納得している必要があります。そうでなければ、ただのいじめになってしまいまから。

で、今はどうにか「ひらがな」「カタカナ」は覚え、そのテストもどうにか合格できるようになっている。ところが、これが、いつも続かないのです。一ヶ月も経つと普通は元の字が蘇っている。いかに最初が大切かがわかります。却って、初めて日本で文字を覚えた学生の方が、先に進んでいたりするのです。最初は遅れていても、直に追いつくのです。いかに最初が大切なのかがわかります。正しく「ひらがな」「カタカナ」が書けていれば、「漢字」を覚えていくのも楽なのです。それに引き換え、国で適当に文字を習っていた人は、来日後、あれだけ改めさせても、結局は「元の木阿弥さん」に戻ってしまいます。結局は本人の自覚というば、そうなのですが、自覚だけではどうにもなりません。それに加えての練習しかないのです。

「『ひらがな』や『カタカナ』は面倒」で終わる学生が多い場合、それを言わないようにさせる、つまりクラスとしてそれは間違いであるという共通理解をいかに早く徹底させるかも大切なことの一つと言えましょう。

日々是好日

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