日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「一月生入学」。「日本語の将来」。

2011-01-17 09:35:24 | 日本語の授業
 さてさて、慌ただしく一週間が過ぎ去りました。

 1月12日(火)から、「1月生」のクラスが始まりました。学生数は9名。「留学生」三人に、「在日生」六人です。中国人が五名、タイ人が二名、ベトナム人とフィリピン人が各一名です。また、おいおい増えていくことでしょう。金曜日にも問い合わせの連絡がありましたから。

 「初級クラス」は、開講時、大体10名前後という場合が多いのです。「漢字圏」の学生が多い時にはそれほど「文字(の練習)」に時間を割かずともよいのですが、「非漢字圏」の学生が多い時にはそういうわけにはいきません。中には、「日本では、全部英語で通用すると思っていた」なんて言う学生もいるくらいですから。

 そういう学生は、「日本には日本語という言語があり、日本人は日本語を使っているということ。しかも、大学の授業も、職場でも日本語を使っている」ということにショックを受けたりするのです。

 最初のころは、こう言われても「何じゃいな」くらいの気持ちだったのですが、あるパキスタンから来た人が、こんなことを言っていたので、日本語の将来について暗澹たる思いを抱いてしまいました。

 「自分は母国で、『お金持ちになりたかったり、知識や技術が得たかったら、たとえどんなに辛くとも、英語を勉強しなさい。英語さえ上手になれたら、何でも欲しいものが手に入る。自分達の民族の言葉がしか話せなかったら、ずっと貧しいままですよ』と言われて育ってきた。だから、日本人が英語が話せないということにショックを受けた」

 彼女は、日本人という「黄色人種」が先進国になれたのは、きっとみんな英語が話せて、欧米人と同じになれたからだと思っていたのです。だから、欧米の技術を勉強することができたからだろうと思ったのでしょう

 「日本人は日本語しか話せないのに、先進国になれた。まず、なんといっても、豊かだ。それはどうしてなのだ」と思ったのです。

 最近は日本も、変わってきました。生物多様性が叫ばれれば叫ばれるほど、その反対に、言語の統一化が進められていくような気さえします。ローカルを大切にしようという運動は、確かに細々と続いていますが、いったん豊かになってしまった社会で生きている人は、もう不便な生活には戻れないのです。

 その上、第三世界では、「まず食うことだ、生きることだ」から始まり、次に「豊かになることだ。車を持つことだ」へと続く大合唱が、何人も止めることが出来ないような勢いで拡がっています。

 今、この学校には、大学院を目指している内モンゴルの学生が何人かいるので、モンゴル族のことについては、私自身もアンテナを張っているのですが、ある論文を読んでいる時に、滅び行く言語の中に、「モンゴル語」が入っているのを見つけました。

 世界では英語一本化が進み、中国では中国語一本化が進められているのですね。ソ連時代、ソ連でもそうでした。多くの少数民族の言葉が失われ、最後の二人とか最後の一人とかいう時になってはじめて、皆(それを推進していた…だれだったのでしょうね…その人達以外)ショックを受けていたのです。言葉が失われれば、その言葉と同時に存在していた文化も失われる。文化が失われれば、その民族も存在しないことになるのは明らかなことですのに。

 私の友人の弟で、インドネシアのバリの舞踊、サンヒャンに夢中になって、とうとうバリに留学した人がいるのですが、友人の結婚式にこの弟も戻って来て、このダンスを、仲間と一緒に披露してくれたのです。そのときに、やはりこれはこの地方の言葉と一緒になってこそのものであると実感しました。言葉と生活、そして生活の中に生きているダンスだからこそ、これほど人の心を惹きつけるし、また力強いものなのだということが、よくわかったのです。

 日本の舞踊も音楽も、またそのほか芸能も皆そうでしょう。英語落語なども最近はやられているようですが、これは日本の落語を知ってもらうためにやるからこそ、意味があるのであって、逆になってしまったら、庇を貸して母屋を取られるという様はない状態になてしまうかもしれません。

 ドルの価値はどんどん下がり、ただ一つの超大国と言われていたアメリカも凋落が叫ばれはじめてから、久しくなりました。その後ろには、人口で遙かに勝る中国が追い上げていますし、その中国の後ろには、おそらく数十年後には人口で中国を追い越すであろうと言われているインドが控えています。

 ドルや国力こそ、かつての威光は衰えているとも見えますのに、英(米)語だけは、一人歩きをしはじめて、そのほかの言語を食いつぶしています。グローバル化がこれほど進んでしまえば、その上、拡がることはあっても、鎖されることはないでしょうから、共通言語というのものが必要になるというのもわかります。これは必要性から生まれた必要悪(?)なのでしょうが、各民族の言語はどんどん姿を消していこうとしています。

 どの言語ででも、もっとミクロに見ていけば、同じ日本語の中の「方言」ででも、この言葉でなければ伝えられないという「感情」が内在しています。外国語を学ぶということは、それに気づくということでもあるのです。ああ、この気持ちは、自国語でなく、学んだこの言語のこの単語でしか表せないというそんな気持ちなのです。

 日本語を教えていながら、日本語の将来に不安を感じている。矛盾しているといえばそうなのでしょうが。かつて、日本は中国から、また文明開化の時には、欧米から、新しい知識や技術といっしょに、言葉も輸入してきました。そのときには、影響は受けても、それなりに消化できたのです。そして、長い時間をかけて、日本語は熟成していき、今、その文学は世界でも認められるようになってきていますのに。それと同時に没落が始まっているとは…。

 もちろん、言葉は生き物ですから、変わっていくのは仕方がないことです。ただ自然に任せるのではなく、日本人が人為的にそれを行っていくというのには、やはり、私には、抵抗があるのです。

日々是好日

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1 コメント

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新年あげましておめでとう御座います (笑口常開)
2011-01-18 14:17:19
久しぶり学校のブログを開くことができて、また、先生達が元気にやっていることが確認できて、何よりです。遅くなりますが、新年あげましておめでとう御座います。

笑口常開
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