今朝も雨です。時折、激しい雨音が伝わってきます。けれども、おしなべて、「シトシト雨」といったところです。しかしながら、「梅雨入り」は、本当にまだなのでしょうか。この雨音は、「アジサイ(紫陽花)」が恋しくなる、「クチナシ(梔子)」が見たくなる、そう言う気分にさせるのです。「梅雨」時の雨音なのです。
通勤途中に、お花が好きなのでしょう、いろいろな草花を植えているお宅があります。他のお宅の庭と違うのは、いわゆる「ガーデニング」なんか、屁の河童とばかりに、ただ好きな花を並べているだけといったところでしょうか。鉢植えも、あっちこっちに、乱雑に(?)置かれています。「ああ、これも好きで、置いているだけなのだな」と感じられるほど、全くコーディネートされていないのです。そんな中に、真っ白な「テッポウユリ(鉄砲百合)が、いました。スックと立って、まるで人格を持った存在でもあるかのように、辺りを睥睨しています。その上、白バラが、「バラ(薔薇)」という優雅な名が恥じ入りそうな具合に、ワッサとばかりに、塀からはみ出しています。統一されていないから、こちら側も、身構えて見る必要がありません。それ故に、「庭を見る」というのではなく、「花」だけを見る、その中の個体だけを見てしまうのでしょう。
秋口は、これとは反対の気分になります。荒れた庭がいい。草花の「個」が薄らいで、「野」になる「景色」がいい。きれいに並べられ、洋風の花がかしこまっているものよりも、大風になぎ倒されても、一時後には、ムクムクと身を起こすような、そんな野の雰囲気の漂っている庭の方が懐かしくなります。
庭というものは面白いものです。
完璧に手入れされ(持ち主の個性が強く出)、他者の思想は全く受け付けないように見える庭もあれば、勝手気ままに、いろいろな草花が植えられ、収拾のつかなくなった庭もあります。また、(芸術としては)隙を見せてはいるものの、それなりに植えた人の愛着が感じられ、心が安まるような庭もあれば、鳥たちが運んできたものしかない、そんな庭もあります。植えた人と見る人の心の揺らぎが、時折、その心象風景を変えることはありますが、心と景色が結びついていることは確かでしょう。
しかし、こんなことを言っていると、「人間という奴は、勝手なことばかり、考えてやがる」と、彼らは思うかもしれません。
「庭」も「学校」も、ある面では似たようなところがあります。
「学校」とは、「人を育てる」、或いは、「ある知識、ないし技能を伝えていく」ところです。「細胞」は、一人ひとりの「学生」であり、「教師」なのですが、人間の身体と同様、一定の調和がとれていないと、病気になってしまいます。その調和を取らせていくのも、「細胞」の一つである、「教師」の仕事です。もし、「教師」達に、「学校」というものに対する共通理解、認識がなければ、たちまち毒は全身に回ってしまい、「学校」機能は失われてしまうでしょう。
教師とは、「『学校』という場所にいて、定められた時間に、『教室』に行く」というだけではないのです。特に日本語学校では、その学生達の大半は、アルバイトをしながら、大学へ行こうと努力している人達です。
彼らが、勉強に使うことの出来る時間には、限りがあります。それ故、学校が肩代わりして(授業中に)させねば、たぶん、疲れ果て、その本来の目的を達成することは出来ないでしょう。そういうわけで、教室で学ぶ時間というのは、かなり貴重になります。ですから、その本来の目的達成のために、障害となるようなことをする人は困るのです。
「Dクラス(四月生)」であれば、既に一ヶ月半ほどを、この学校で学んでいるわけですから、「そのレベルが達成できている」というのが理想で、それ以下でもそれ以上でもないのです。まだ、この学校で教えていない単語をひけらかしたり、文型を使って言って見せたりということをして、他の学生達を混乱させるのは、ある意味ではルール違反です。また、授業中に、或いは、それ以外の時間に、このクラスは簡単だから、もっと自分だけにいろいろなことを教えて欲しいと言いに来るくらいなら、上のクラスに行けばいいのです。
ただし、私たちが、「Dクラス」で基礎をやった方がいいと、彼らをこのクラス(「Dクラス」)に入れたのには、またそれなりの理由もあるのです。「いい加減に覚えており、使うにふさわしくない単語を羅列しているだけである」と、私たちが判断すれば、基礎をやってもらうために、「初級」に入れます(なんと言っても、「四月生」には、時間がありますから。日本での、三ヶ月というのは、日本語を学ぶ場合、母国でのかなりの時間に相当すると思います)。ある程度の常識があれば、課外活動などを通して、「上のクラス」との差が見えてくるはず。そう(三ヶ月前に来日した学生達のように)なるために、今、何をすべきか、私たちが口を酸っぱくして言う理由もわかるはずです。
それがわかれば、たとえ、三ヶ月しか違わない「クラス」であろうと、彼らが入って勉強するのは、難しいということに気づくでしょう。もちろん、「修復不可能」と見なせば、直ぐに彼らが望むクラスに入れます(他の学生が、文句を言わなければ)。が、実際問題として、彼らが勝手に思い込んでいる自分のレベルと、実際のレベルとは違うのです。
中には、本当にレベルが、初級ではかわいそうと思われる学生もいます。けれど、上のクラスにやって、その人が頑張れるかというと、そうでもないのです。わかるまでの、一週間ないし二週間が待てないのです。知能の問題と言うより、気力と負けん気の問題でしょう。
「Cクラス」には、何年も前に大学で、少し日本語を勉強しただけだから、「初級Ⅰ」から勉強したいと言って、この学校に来た人も入っています。そう言って来る人は、少なくないのです。けれども、会って見て、素質(つまり言語を習得する上での)がある場合は、直ぐに「試しだから」と(騙して)上のクラスの授業に参加させます。すると、そういう人は、たいてい、始めは「うーん、少し難しいけれど、大丈夫かな」と聞きます。「私は大丈夫だと思う」と答えます(心からそう思っているのですから)。「よし、それなら、頑張ってみよう」と、実際のレベルより、少し上のクラスで頑張り、一二週間もすれば、遜色なく出来るようになるものです。
一つは、彼らの「素質」、もう一つは、「誰の意見を信じるか」という、学ぶ上での「力」です。信じてはいけない人を信じてたり、その反対に、信じなければならない人を信じなかったりすれば、当然、その人は、失敗します。
「四月生」の中には、そう言う「差別化」が、かなりの程度で進んでいます。
(彼らが)来日してからの、この一ヶ月半という期間は、こちらも、ただ授業しているだけというわけではありません。彼らの性格、気力、精神力、協調性、頭脳の体力めいたものまで、見ているのです、当たり前の事ですが。それを、今後の授業計画や、教師としての心づもりにもいかしていかなければなりませんから。普通の頭脳の持ち主であっても、気力がなければ、それなりのことしかしてやれないのです。直ぐにアップアップするでしょうから。
「このクラスは、せいぜい『一級止まり』か」とか、「このクラスなら、それ以上の、『かなりのこと』まで出来る」とか。だいたい、彼らがこの学校に来てから一ヶ月くらいで、それは見えてきます。「一級」後、半年以上時間があるクラスであったら、かなりのことがしてやれます。つまり、その準備にこちらも追われてしまうので、早めに準備をしておかなくてはならないのです。が、そうでないクラスの場合、こちらも教えるのに、追われません。つまり、規定の「外国人用の授業(一級合格レベル)」だけで、事足りるのです。
教師としては、私たちが授業に追われるくらいの人達が来てくれたらと願わずにいられないのですが…。どうもそうはいかないようです。
日々是好日
通勤途中に、お花が好きなのでしょう、いろいろな草花を植えているお宅があります。他のお宅の庭と違うのは、いわゆる「ガーデニング」なんか、屁の河童とばかりに、ただ好きな花を並べているだけといったところでしょうか。鉢植えも、あっちこっちに、乱雑に(?)置かれています。「ああ、これも好きで、置いているだけなのだな」と感じられるほど、全くコーディネートされていないのです。そんな中に、真っ白な「テッポウユリ(鉄砲百合)が、いました。スックと立って、まるで人格を持った存在でもあるかのように、辺りを睥睨しています。その上、白バラが、「バラ(薔薇)」という優雅な名が恥じ入りそうな具合に、ワッサとばかりに、塀からはみ出しています。統一されていないから、こちら側も、身構えて見る必要がありません。それ故に、「庭を見る」というのではなく、「花」だけを見る、その中の個体だけを見てしまうのでしょう。
秋口は、これとは反対の気分になります。荒れた庭がいい。草花の「個」が薄らいで、「野」になる「景色」がいい。きれいに並べられ、洋風の花がかしこまっているものよりも、大風になぎ倒されても、一時後には、ムクムクと身を起こすような、そんな野の雰囲気の漂っている庭の方が懐かしくなります。
庭というものは面白いものです。
完璧に手入れされ(持ち主の個性が強く出)、他者の思想は全く受け付けないように見える庭もあれば、勝手気ままに、いろいろな草花が植えられ、収拾のつかなくなった庭もあります。また、(芸術としては)隙を見せてはいるものの、それなりに植えた人の愛着が感じられ、心が安まるような庭もあれば、鳥たちが運んできたものしかない、そんな庭もあります。植えた人と見る人の心の揺らぎが、時折、その心象風景を変えることはありますが、心と景色が結びついていることは確かでしょう。
しかし、こんなことを言っていると、「人間という奴は、勝手なことばかり、考えてやがる」と、彼らは思うかもしれません。
「庭」も「学校」も、ある面では似たようなところがあります。
「学校」とは、「人を育てる」、或いは、「ある知識、ないし技能を伝えていく」ところです。「細胞」は、一人ひとりの「学生」であり、「教師」なのですが、人間の身体と同様、一定の調和がとれていないと、病気になってしまいます。その調和を取らせていくのも、「細胞」の一つである、「教師」の仕事です。もし、「教師」達に、「学校」というものに対する共通理解、認識がなければ、たちまち毒は全身に回ってしまい、「学校」機能は失われてしまうでしょう。
教師とは、「『学校』という場所にいて、定められた時間に、『教室』に行く」というだけではないのです。特に日本語学校では、その学生達の大半は、アルバイトをしながら、大学へ行こうと努力している人達です。
彼らが、勉強に使うことの出来る時間には、限りがあります。それ故、学校が肩代わりして(授業中に)させねば、たぶん、疲れ果て、その本来の目的を達成することは出来ないでしょう。そういうわけで、教室で学ぶ時間というのは、かなり貴重になります。ですから、その本来の目的達成のために、障害となるようなことをする人は困るのです。
「Dクラス(四月生)」であれば、既に一ヶ月半ほどを、この学校で学んでいるわけですから、「そのレベルが達成できている」というのが理想で、それ以下でもそれ以上でもないのです。まだ、この学校で教えていない単語をひけらかしたり、文型を使って言って見せたりということをして、他の学生達を混乱させるのは、ある意味ではルール違反です。また、授業中に、或いは、それ以外の時間に、このクラスは簡単だから、もっと自分だけにいろいろなことを教えて欲しいと言いに来るくらいなら、上のクラスに行けばいいのです。
ただし、私たちが、「Dクラス」で基礎をやった方がいいと、彼らをこのクラス(「Dクラス」)に入れたのには、またそれなりの理由もあるのです。「いい加減に覚えており、使うにふさわしくない単語を羅列しているだけである」と、私たちが判断すれば、基礎をやってもらうために、「初級」に入れます(なんと言っても、「四月生」には、時間がありますから。日本での、三ヶ月というのは、日本語を学ぶ場合、母国でのかなりの時間に相当すると思います)。ある程度の常識があれば、課外活動などを通して、「上のクラス」との差が見えてくるはず。そう(三ヶ月前に来日した学生達のように)なるために、今、何をすべきか、私たちが口を酸っぱくして言う理由もわかるはずです。
それがわかれば、たとえ、三ヶ月しか違わない「クラス」であろうと、彼らが入って勉強するのは、難しいということに気づくでしょう。もちろん、「修復不可能」と見なせば、直ぐに彼らが望むクラスに入れます(他の学生が、文句を言わなければ)。が、実際問題として、彼らが勝手に思い込んでいる自分のレベルと、実際のレベルとは違うのです。
中には、本当にレベルが、初級ではかわいそうと思われる学生もいます。けれど、上のクラスにやって、その人が頑張れるかというと、そうでもないのです。わかるまでの、一週間ないし二週間が待てないのです。知能の問題と言うより、気力と負けん気の問題でしょう。
「Cクラス」には、何年も前に大学で、少し日本語を勉強しただけだから、「初級Ⅰ」から勉強したいと言って、この学校に来た人も入っています。そう言って来る人は、少なくないのです。けれども、会って見て、素質(つまり言語を習得する上での)がある場合は、直ぐに「試しだから」と(騙して)上のクラスの授業に参加させます。すると、そういう人は、たいてい、始めは「うーん、少し難しいけれど、大丈夫かな」と聞きます。「私は大丈夫だと思う」と答えます(心からそう思っているのですから)。「よし、それなら、頑張ってみよう」と、実際のレベルより、少し上のクラスで頑張り、一二週間もすれば、遜色なく出来るようになるものです。
一つは、彼らの「素質」、もう一つは、「誰の意見を信じるか」という、学ぶ上での「力」です。信じてはいけない人を信じてたり、その反対に、信じなければならない人を信じなかったりすれば、当然、その人は、失敗します。
「四月生」の中には、そう言う「差別化」が、かなりの程度で進んでいます。
(彼らが)来日してからの、この一ヶ月半という期間は、こちらも、ただ授業しているだけというわけではありません。彼らの性格、気力、精神力、協調性、頭脳の体力めいたものまで、見ているのです、当たり前の事ですが。それを、今後の授業計画や、教師としての心づもりにもいかしていかなければなりませんから。普通の頭脳の持ち主であっても、気力がなければ、それなりのことしかしてやれないのです。直ぐにアップアップするでしょうから。
「このクラスは、せいぜい『一級止まり』か」とか、「このクラスなら、それ以上の、『かなりのこと』まで出来る」とか。だいたい、彼らがこの学校に来てから一ヶ月くらいで、それは見えてきます。「一級」後、半年以上時間があるクラスであったら、かなりのことがしてやれます。つまり、その準備にこちらも追われてしまうので、早めに準備をしておかなくてはならないのです。が、そうでないクラスの場合、こちらも教えるのに、追われません。つまり、規定の「外国人用の授業(一級合格レベル)」だけで、事足りるのです。
教師としては、私たちが授業に追われるくらいの人達が来てくれたらと願わずにいられないのですが…。どうもそうはいかないようです。
日々是好日