日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「読解」は、本当に大変だなあ。知識がないというよりも、そういうものに、興味を示そうとしない…。全員ではないのですけれども。

2023-10-31 08:50:07 | 日本語学校

薄曇り。

空一面にうっすらと雲がかかっているような…朝です。昨日までの秋晴れとは、程遠い朝。

お空の雲の広がりにも濃淡があって、その「淡」の部分から、時折、月が姿を見せているのですが、それが、どうも、真鍮製の円盤にしか見えないのです。朝の、こういうときの月は光を失って、ただの板にしか見えない。夜のしじまに浮かび上がって光を放っている月とは、ほんに「月とすっぽん」。

夜の月の、なんと冴え冴えと冴え返っていることか。その光には深さのみならず、闇まで呑み込んでしまうような感さえある。だから月を見ているうちに狂ったり、化け物になったりしてしまうのでしょうね、誰しもが。

で、今朝は真鍮板の月を見ながらの出勤です。

学校に着くと、既に「キンモクセイ」の花は、全く姿を消していて、ただの「木」になっていました(こういうと、花にしか価値を見いださないのかと非難されそうですが、なにせ、花が咲かないことには、何が何やら見分けがつかないのです。だから、花が散ってしまうと、いわゆる「木」と言ってしまうのも、しょうがないなあと思ってください)。近所の「ハギ」はまだしっかりと枝にしがみついているというのに。これを潔いと言うべきか、諦めがいいと評するべきか。学生達の様子と絡めながら、ちと悩んでしまいます。

専門学校の入試に関しての「情報」です。「A・Bクラス」の学生が、席に着くなり、「先生、怖いです。受けた学生がみんな落ちたそうです。『N2』に合格していた人もいたのに。私は本当に怖い」。聞くと、友達が5人、皆落ちたという。へっ?それほどレベルの高い専門学校ではなし、どうして?「N2」合格者を落とすほどの余裕はあるのかしらん。学生曰く「おかしい。もういっぱいで、募集する必要もないのに、(受験料がほしいから)募集してるんじゃないかしらん」…そこまで性悪じゃないでしょう。

で、心を落ち着かせるために、授業の前に、ちょっとばかり、面接の練習をしてやりました。

「A・Bクラス」では、読解力の無さが解釈を妨げているというよりも、知識の無さ、見聞が不足しているが故に、読みこなせないという段階に来ています。それで、本来ならば、いろいろなものを見せ、さりげなく見聞を広めさせ(なにせ、知らなければ自分の意見なんぞ出てきませんから)、そういう文章が出てきた場合に、「ああ、あれか」くらいの見聞はもたせたい…のです。

これは教えていく過程で感じられることなのですが、「タイ」や「フィリピン」などから来た大卒者には全くといっていいほど、必要ないことなのです。せいぜい、目立った科学面の進歩か、日本文化の情報くらい、必要なのは。ですから、基本的に読み取るときに必要というわけではないのです。

中国にいたときにも、七十代や八十代の老教授には感じられないのに、若者や中年の人達からは、どうも「同じじゃない。何か入っていかない」という、それがどこがとか、どの部分がと聞かれれば、答えに窮するところなのですが、感受性に近い部分のような気がする。それと好奇心かなあ。

思想に凝り固まった教育を受けてきたり、宗教に則った信条を頑なに守っていたりすると、どうも…困った感が拭えない。日本なんぞに来ずに、生まれ育ったところにいたら、お互いにこんなことにはならないだろうにと恨めしく思ったりする。

相手の考えが受け入れられないというか、なぜこう話されているのかが理解できない。だから、聞いた振りで終わってしまう。そんなのはこちらにもバレバレですから、ちょっとばかり不愉快になってしまう。檻の中で育てられ、「上の誰かが何か言えば」、みんな「万歳」で過ごしてきた人達…という気さえする。…日本人の感覚から言えば、今時…なのですが。

といって、別に悪い人達というわけではないのです。深いところでではなく、本当に浅い部分で(こちらの意図するところ、言わねばならないと思って言うところが)入らない…。「タイ」や「フィリピン」等から来ている大卒者には、あまり感じられない感覚です。

本当に罪作りですね。違うと思ったり、見たことのないもの(いわゆるヤバいことなのでしょうが、彼らの感覚からすると)には「興味を示さない」という習慣ができているみたい。

以前、寿司作りをしていたり、バス旅行の途中などで、ベトナムや中国の学生が「さあ、○○人達」なんて馬鹿げた呼びかけをしていて、あっけにとられたことがありましたが、こういう外国人が融和的に集まっている、また集まろうとしている場面でも、子供の時からの習慣が出てくるのでしょう。日本人がそれやったら、(日本人の)冷たい視線を浴びるのが関の山ですのに。

ただ単語を覚えて、文法がわかってで、終わるだけだったら、楽なのですけれどもね。読解などを教えるときは、もう「説明」主体になってしまいます。そして時々映像を見せて、「こんなのがあるよ」。本当に罪作りの国、教育。日本だって大したものではないけれども、彼らを見ていると、日本に感謝したくなる。よくぞ自由に感じ、考え、好奇心を持って物事を見られるように育ててくれたと。

日々是好日
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あっという間に「12月」が来ますよ。「日本語能力試験」が駆けてきますよ。

2023-10-30 08:14:31 | 日本語学校
晴れ。

気がつけば、「神無月」も残すところあと一日。この分で行くと、あっという間に「霜月」になって、すぐに「師走」が来る。そして、見る間に、翌年の「睦月」、「如月」、「弥生」と駆け足で過ぎていって、最後に「卒業式」となる…。

とはいえ、そうは問屋が卸さない…ということもありそうで、二年生は、きちんと希望通りの進学先が見つかるかしらん。

さて、「N3」合格で、ニマニマしてしまい、なかなか次の「N2」に向かうようには見えない「A・Bクラス」の面々。「N2」に合格している二人も、口では「頑張ります」と言ってはいるものの、舌の根も乾かぬうち、(もう、いいか)が透けて見える…。

(「N2」に合格している二人のうち)一人は最近、病がち。気が緩んでいるかな。もう一人は七月の「日本留学試験」が終わってから、どうもパッとしない。このときに「数学」と「物理」「化学」に必死になりすぎて、終わると同時に、張り詰めていた糸がプツンと切れたかのよう。「緩んだ」どころではないのです。

「こんな字が読めないの?」とこちらがびっくりするくらいになってしまっている。最初の頃は、無理からぬと放っておいたのですが、もう三ヶ月が経った。そうそう甘くは言っていられません。ちょいちょいと皮肉を言ってみるのですが、まだ、ポケッーが続いている。

あの頃は、「日本留学試験」に向けて、「数学」も「物理」、「化学」も、日本語をベトナム語に訳し、理解し、それから問題を解いていくという作業を繰り返していたので、かなり過酷であったのは確かなのですが、もうそろそろね…と、ここまで書いていると、隣家のトタン屋根の上からバタバタ、ギシギシと、どこかしら爪をひっかくような足音がする…「なんじゃい?」。

はっとして見てみると、「ハト」ですね。大股で歩いています。あのう、ここに人がいるのですけれども…。思わず、窓際に行ってのぞき込むと、目と目が合った…。でも、知らん顔。ちらっと見てそれなり。歩みを止めないでいる。で、屋根の端で、ドタッと重い音がして、…どうなったのかしらん。音はそれきりになってしまった。

いやあ、ここは本当に静かです。「ハト」が屋根を歩く音まではっきりと聞こえるのですから。

先週、六時前後に小学生が登校しているのを見かけて、あれっと思ったのですが、今朝はそういうこともなく、出勤すべき人は既にうちを出、そうではない人はうちにいて…子供達も、すぐそばが学校ですから、ギリギリまでうちにいてもいいだろうし…。運動会でもない限り、小学校にいる子供達の声が聞こえて来ません。

で、閑話休題。元に戻ります。

「N2」に合格している二人は、まだいいのですが、「N3」で終わっている面々。中には一人、一点足りなくて不合格になった者と「スマホ」が鳴ってしまい、退出させられた者とがいるのですが、まあ、二人とも他の「N3合格者」と日本語のレベルが大して違うわけではなし、一緒に授業に参加しても問題ないのですが。

ただ、「一点足りなくて合格できなかった学生。漢字が鬼門なのです。漢字をなおざりにしてきたそのツケが、今、きている。それなのに、それが改まらない。苦手?いやいや、端っから諦めていたというか、無視していたのです。

「『ひらがな』は大丈夫。『カタカナ』は面倒。『漢字』は無理」が、彼の口癖で、叱られても叱られても、「は~い」。「のれんに腕押し」、「糠に釘」、「豆腐に鎹」。全く「馬の耳に念仏」、「猫に小判」、「豚に真珠」じゃああ。

こちらがいくら喚いても、ニコニコしていて、帰る時は明るく「せんせ~い。さようなら」。

性格はいいのですが、頭の固さはどうにもならない。彼と似ている学生が、「十月生」にも一人いて、「こいつぁ、ご用心」というところで、一週目の終わり頃から厳しく接しています。どうも、「おや、ちと思っていたこととは違うぞ」と勘付いたようで、最初の頃の「茶化そう」が、今では全く消えています。そう、ここは学校ですからね。まだまだ『みんなの日本語(1)』。今から遊んでどうなる。

日々是好日
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「まねぶ」から繙くと、何より強いのは「素直であること」かな。

2023-10-27 08:44:44 | 日本語学校
晴れ。

今朝も、よく晴れています。とはいえ、昼過ぎから、先日のように急な雷雨に襲われる可能性もあるらしく、「季節の変わり目だから仕方がないか」と思いながらも、どこか、温暖化のせいか等と考えてしまっている自分に気がつき、はあ。何事かあったら、すぐ温暖化のせい…これもあまりよろしいことではないような。

今日は、公園を突っ切ってきました。突っ切ったと言っても、完全にではなく、遠慮がちに別の入り口から入ったくらいのものなのですが。小さな公園とはいえ、その中に入っていますと、周りに建物がありませんから、かなり広々として見えます。歩いていると、四方から鳥の声が聞こえて来、ちょっと不思議な感覚。下から湧くように響いて来たのです。進行方向に向かって、右から聞こえて来たのは、やや雑音が混じっているようなギーギー声、左からは、一羽や二羽ではないようで、かなり騒がしい。真っ正面からは、最初、切れ切れに聞こえていたのですが、進むにつれて、民家の枝に止まっていたのがわかってきた。さすが「野鳥の森」がある行徳。

と、まあ、今日は鳥の声を鑑賞しながらの「登校」です。

今は、静かですね。数年前、あるお宅の戸袋に鳥が巣を作ったことがあって、その時はまあ、朝っぱらからうるさかったこと。親鳥が餌を持ってくるたびに、「寄越せ、寄越せ」コール。また、学校のすぐ横の電柱に鳥が巣を作ったときには、皆が作業をしているとき、楽しめましたね。「(親が)来た」のが、間近で見ることができましたから。窓ガラスを通してでしたから、どうも向こうは気がついていなかったらしい。学生の声も、別に気にしていなかったようで、多分、こういう所で人間を気にしていたら、生きていけないからでしょう。

さて、学校です。

各クラスに、「ちょっとなあ」という人が一人か二人いるのですが、この「ちょっとなあ」がどうにもできない。在日の方であったら、向こうと相談して考えれば済むことなのですが、留学生となると、そうはいかない。なにせ、「N3」には合格させておかなければ、進学の時困るのです。不思議なことに、気にしているのは私たちの方だけで、当人は、全然と言っていいほど気にしていない。自分が「できない」とは全く思っていないのです。一段階が終わる毎にレベルチェックテストをしているのですが、それを見せて、もう一度やり直した方がいいと言ってみても、「できる」と言い張る。テストの方が間違いであるとでも言いたそうにも見える。

「ついて行けていないよ。もう一度やった方がいい…四月生や七月生であったら、ギリギリでも、最後の「十月生」が来たときにやり直せば、どうにかなるから」。ところが、当人は、納得できていないので、移る気がない。またあったとしても、そういうレベルですから、適当なアルバイトがみつからない…ので、移れない。

アルバイトなどの理由はあるのでしょうが、まず第一の問題は、そういう教育(テストがあって、自分のレベルを否応なく知らされる)を受けてきていないのでしょう。母国では、ごく普通の高校を出てきている人達ですから。それにスリランカなどから来ていれば、耳だけはいいので、皆が一斉に読んでいるときに、それを聞いて、答えられたりするのです。従って、なおさら自分ができないとは思えないようなのです。

「N3」の最初の方の「読解問題」なんて、一つの読解文の字数が、200字くらいから長くても600字くらいのものですから、暗記になれている彼らからすれば、別に難度の高いものではない。聞けばわかる。答えを出す前に、何度も繰り返し内容を確認していますし。このクラスでは、今、自分たちでやってから、後に説明を加えるというやり方をとっていません。真面目な人が多いし、「N3」の授業を開始してからまだ一ヶ月経っていないので(「N3」を二ヶ月で受験することになる…ちょっときついですね)、時間の節約も兼ねて、そういうやり方にしているのです。

それで、できる気になってしまうのでしょう。漢字なんて「N5」漢字テストに合格していても、その時だけのことですから、文章を見て読めるかというとそんなことはない。勘はつくようですが。

十月に来た人達の中にも、既にその恐れが現実のものになりそうな人が四人はいる。一人はまあ、わかって入れているので、しょうがないにしても、残りの三人は、だいたい書くのが面倒だというタイプ。書く練習をするのが、時間の無駄としか思えないのでしょう。「わかる、わかる」と言って、私が目の前にいて、睨みをきかせてでもいないかぎり、練習しようとはしない。ちらっと見て、他のことをしているなと思えば、すぐに手を止めてしまう。書けない…これは「漢字」ではなく、「ひらがな」が、なのです。「ひらがな」レベルでこうなのですから、後は言わずもがな、知れています。

この三人のうち二人は開校時から来ているので、すぐに要注意だなと。が、まずは様子見です。早とちりであったら大変ですから。しかし、二週間目の終わりくらいから、一人にはかなりきつく言い始め、三週間目に入ってからはもう一人にも、厳しく接してきました。三週目から参加してきた学生も、このタイプのように見えましたし、二週間分の貯金もありませんから、まずは個別指導。「ひらがな」の導入から始めました。「ネパールで勉強したから、大丈夫」と言うのですが、書かせてみると、とんでもない「ひらがな」を書く。で、また、やり直しの連続。

書くことを除けば、言ったり、聞いたりは大丈夫なのです。遅れて入ったにしては、単語もしっかり覚えてくる。それがまた問題(別に問題ではないのですが)。おそらく、国では、適当に授業を受けていても、それなりの点がとれていたのでしょう。だからか、コツコツは願い下げ、なんでも手っ取り早く結果が出るのがいい。努力は嫌いだ」ふう。「文字」は努力せねば覚えられないから、もうそれだけで尻込みしてしまうし、隙を見せればそれだけでごまかしてしまいそう。七面倒くさいことからは逃げを打つが信条のようにも見える。

私たちが外国を旅行していたとき、市場などで驚くほどいい発音で「安いよ。買って」「これ、いいよ。きれいだよ」とか言って売っている物売りを見たことがあるでしょう。彼らは別に日本語教育を受けてきたわけではありません。旅行者から必要な単語や会話を聞いて覚えているのです。そういうのは日本の日本語教育ではやりません。系統的に、基礎をしっかりやって、先々役立つようにと教えていくわけですから、「聞き取れればいい」とか「話せれば、それだけでいい」というのは、学校教育には馴染みません(もちろん、在日の人で個別の授業を頼まれた場合は別です。もっとも、今は時間がないので受けられませんが)。学校では、「読む・書く・聞く・話す」の四拍子を同じくらいの速度で進めていくので、「聞く・話す」だけで、残りの二分野を切り捨てられてしまったら困るのです。

時々、日本の大学を出たけれども、就職できなかったという人や、日本で数年仕事をしているけれども、「N1」に合格できないと、夜勤から外されないからという人が、日本語を勉強したいとやってくることがあります。

その「日本の大学では英語で授業を受けてきた」という人は、現地から直接来ているのでしょう。日本語での話は達者なものです。ただ漢字のみならず、「ひらがな」「カタカナ」も覚束ない。で、「大学でも日本語の授業はあったでしょ」と聞くと、「あった」と答える。その時「漢字の授業もあったでしょ」と言うと、「あった」と答える。じゃあ、どうしてその時に勉強しなかったのと聞くと、「日本は先進国で、英語で大丈夫と思ったから」と言う。先進国だから、自分の国の言葉を大切にする余裕があるのだということがわからないようで、日本語をというか、本当は「漢字」だけ学びたいらしいのですが、その時になっても、どうして日本は先進国なのに、英語がわからないのかと私に聞く始末。

この学校は、「漢字だけ」は教えない。「話せ、聞ける」なら日本人の友達に教えてもらえばいい(大学で四年間も学んでいるのですから、日本人の友達がいないわけがない。いなければ、それこそ日本には合わないということになる)といって帰したのですが。この学校にいながら、そうなりそうな学生もいないわけではないのです。毎日のように残されたりしていたようですが、本人に覚える気がなければ、こちらがいくら力を尽くそうと徒労になってしまいます。子供じゃないのですけれどもね。

日々是好日
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「一斉読み」ができる「クラス」と、できない「クラス」。

2023-10-26 08:30:15 | 日本語学校

晴れ。

昨晩の雨が嘘のような「秋晴れ」の朝です。昨夜は、突然、雨が振り出し、「おお、予報通りだ」と感心しているうちに、これまた予報通りの「雷様」までお出ましになった…ただ、ちと雷様の「お声」が大きすぎた…。

ということは、これから一雨毎に、涼しくなる…というか、さむくなるのでしょうね。もっとも、今年は暖冬と言われていますけど。

今朝、「ハギ」の花が地面に散っているのを見つけて、はっ。「ハギ」の花と「キンモクセイ」の花とは同期だったのですね。うかつなことに、ここ数年、毎年のように目にしていながら、少しも「同期」感がなかった…。咲いている場所が少々離れていることも関係しているのかな。「ハギ」を見て、「あっ。咲いてる」。それから他のことを考えているうちに、学校に着いて、「あっ。『キンモクセイ』」なのですから。

これが「山で」ですと違ってきます。行くのも、多くて、年に四回くらいのものですから、その時に目にしたものが、強く印象に残るということになります。「もう、そろそろあの花が咲く頃かな」とか、「あの場所に行けば、あれとあれと、あれを同時に見られるだろう」みたいな、一種の「記憶」。季節と事物、現象が一体になっていると言ってもいいのかもしれません。ただ、同じようなことでも、毎日ですと、流されていきますから、ほとんど記憶に残らない。もちろん、この場所を離れてしまえば、記憶とか思い出として蘇ってくるでしょう、子供の時の「思い出」と同じように。ただ、まだ「日常」のうちはだめでしょうね。感傷的になるには、邪魔モノ(しなければならないことや気にかけておかなければならないこと)が多すぎる…。

さて、学校です。

「朗読」のこと。声にして「読む」というあれです。これも、「N3」の授業に入る頃から、一人ずつ読ませた方がいい「クラス」と、一緒に読ませた方がいい「クラス」とに分かれてきます。もちろん、どちらを採用するかは、場合にもよりますが、だいたいこのクラスはこれというふうに決まってくるのが面白い。

現「A・Bクラス」は一人ずつ読ませた方がよく、「一斉に」が通用しないクラスなのです。皆の声も小さいし、「一緒に」などと言おうものなら、「さて、お休みの時間が来たぞ」とばかりに「読んでいる振り」をするだけであったり、「『ふりがな』つけ作業」に没頭したりする人が出てきて、読もうとするのが二、三人という惨状になってしまう。当てて読ませると、その時ばかりは必死になるので、少しは役に立つ…かな。

ところが、「Cクラス」は、「A・Bクラス」とは真逆で、みんな(といっても10人ですが)で読んでいった方がいいクラス。

まず、みんな(見なければいけない人達)の声が大きいということ。しか、その人達の漢字の「読み」に関する知識は、ほぼ同程度であるということ。つまり、既習の漢字は既習でさえあれば、だいたい音訓ともに覚えているのです。一緒に読んでいるときに、読み間違える人がいれば、途端に「檄」を飛ばすかのように、一段と声を大きくして、「別の読み」を言ったりする。まあ、それが間違っていることもあるのですが、それはそれで、ゲーム感覚のように楽しんでいるのがわかります。もちろん、読めない漢字の所に至れば、ピタッと声が止まるので、その時はこちらが読みを添えてやります。

一緒に読んでいるうちに、誰の「読み力」が優れているのかもわかりますし、またその人が読み間違えて、自分の方が正しかったりすると、自慢げにこちらを見たりするのです。よほどうれしいのでしょう。このクラスの七人は、漢字では皆よく頑張っていて、「読み」が嫌いではないというより、好きのようにさえ見えます。「読みたい」気持ちが勝っていて、「読みたい。チャンスが七分の一なんて」という気持ちがよく伝わってくる。読みに多少、速い、遅いはあっても、手を抜いたり、ごまかしたりするような所はほとんどないのです。だから、できることなのでしょう。

それに引き換え、既に、「『N2』漢字テスト」に入っている「A・Bクラス」。ここでは、もう完全に差がついてしまって、適当にやってきた人は、もう追いつけません。適当にやっていなくても、しょっちゅう日本語の文章をかなりの量、読んでいるわけではないので、「N5」や「N4」の漢字がどこかに去ってしまっている人もいる。真面目にやっていてもそうなのです。勉強したばかりの漢字は読めても、一年も前に習った文字は、「はてさて」となったりしている。

よく間違えるのが、「春夏秋冬」や「兄弟姉妹」、「父母」。これも大変ですね。とはいえ、同情は禁物。笑ってやります。彼らも自分で笑ったりする。で、皆で笑って覚えようとなる…かな。

ただこのクラスでも、文章の中の、既習の字を言わせていったりすると、間違えることがあまりないので、その面では感心なのですが。

今、「Eクラス」では、大体の人は「ひらがな」が覚えられたよう。「カタカナ」を覚えようとうちで練習してきた人もいるようです。一昨日まで「ひらがな」がきれいに書けていたのに、昨日のテストでは、その中に「カタカナ」が入ってきたりしているのでそれとわかります。

とはいえ、今日から、「カタカナ」のテスト、五十音だけです。しかしながら、昨日、宿題が多かったから、多分、今日できるのは四分の一くらいかな。もっとも明日がありますから、できる範囲で頑張ればいい。このクラスは大卒者が在日を除けば、半分いるのです。つまり、その人達は日本語が未習で来ている。まあ、大卒でまだ「ひらがな」「カタカナ」が書けないとなれば、恥ですぞ…くらいの気持ちで頑張ってください。

日々是好日
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「映像」を喜ぶ人もいれば、スイッチを入れるやいなや、さっと漢字を覚えようとしたり、教科書を写そうとしたりする人もいる。面白いな。いや、面白くはないか。

2023-10-25 08:27:07 | 日本語学校
晴れ。

公園のそばの道を通ったとき、カサコソと落ち葉の音にはっとしてしまいました。夜来、風が吹いたな…。ここは建物に囲まれているので、道の真ん中にも、落ち葉が残っていたのでしょう。他の通りは、多分、路肩に吹き飛ばされている…。

さて、学校です。

本来なら、上級クラスでは、(読み物の)理解を深めるさせるべく、映像を見せていかねばならぬところなのですが、それがどうもできないでいます。見せる気にならないのです。コロナ禍前くらいから、ベトナム人学生がだんだん多くなり、現在もそれを引きずっていて、現「A・Bクラス」では半数ほどがベトナム人。

初期に入れた頃の、どうにもならない(勉強する気が全く見られないような)ベトナム人ではなく(最初の頃は、私たちもどういう人を入れたらいいのかわからなかった。入れてみて初めて、驚いた。とんでもない…)、今は、真面目でコツコツ型が多くなっているのですが、それはそれで、問題がないわけではないのです。授業で、教科書を用いて勉強する分には、頑張って勉強してくれますから不満もないのですが、「理解」という点では、一部の中国人と同じく、とんでもない「理解」をしてくれたりして、戸惑ってしまう。同反応していいかわからないということも少なくない。

つまり、世界が狭いのです。しかも知識もかなり乏しいのです。それに基づいて意見を言ったり、わからないから沈黙となったりしてしまう。それゆえ、本来なら、それを補給せんがため、「見せる」ことが必要になってくるのですが、「見る」ことの意味が理解できないし、それを無駄なことと見なしているふうさえある。

「見せる」ことが理解の助けになるだろうと、スイッチを入れた途端、下を向いて、単語を覚えようとしたり、文法の本を見ようとしたりする。思わず、「だから、意味が掴めないんだよ」と叫びたくなるのですが、この習慣は変わりませんね。もしかしたら、この学校に来るような学生だけかもしれませんが、ベトナム人学生の多くに共通してみられることなのです、これは。どうも学校で「見せられる」のは、「無駄に決まっている」と思っているらしい。

以前、ベトナム人学生にベトナムの本屋や図書館に連れて行ってもらったことがありました。その感想は、「無味乾燥」「色がない」…文字ばかり。多分、その表現も面白くないだろうな(ベトナム語はわかりませんが)。日本なら、子供が見たい、知りたい、勉強したいと思わせるように様々な工夫が為されていたり、副読本や参考書などにも凝ったモノが多々あるのですが、一般に「本」は、面白くない。興味を持たせるような努力の跡が全く見られない…。

彼曰く「だから、歴史なんて面白くなかったんだ。興味なんて持てなかったんだ。覚えたで終わり、入試のために」…なるほど。それが今でも彼らに続いているのは困ったもの。せっかく日本に来ていると言うのに。ちなみに、彼は、何でも、興味を持って「見て」くれました、ベトナム人学生にしては珍しい。そして、日本ではこういうのもテレビで放送するのかといちいち感動してくれていました。大したものは見せていなかったのですけれども。

(学校では)「教えて」と口を開けて待っているだけか、他の誰かがくれた「問題集」をせっせとやっているかで、終わりという人が案外、多い。

私などはベトナム戦争の記憶があるものですから、ベトナム人は優秀であると、そういうイメージがありました。ところが、人間はどこでも同じですね。風土や歴史により多少の違いはあっても、優秀な人もいれば、そうではない人もいる。好奇心の強い人もいれば、生活しか関心のない人もいる。ただ、彼らが、母国で受けてきたであろう教育については、いろいろと考えさせられてきました。その余波が今現在、私たちを振り回しているので。

日本人は、すぐに、欧米などの、特に、進んだ教育環境と比較して、自分たちの(教育環境の)至らない部分を騒ぎ立てる傾向にある。もちろん、それが私たちの教育を少しずつ高めてきているのは事実でしょうが、こういう学校にいますと、日本の教育システムは、まだましな方ではあるまいかとしか思えないことも少なくないのです。

上級クラスに多くいるベトナム人学生のことですが、ちょうど国の位置が、「東南アジア」に含まれながらも、「中国」の隣国であるということ。また、社会の成り立ちや思想、国のシステムにしても、古くから「中国」の影響下にあったということ。現在は、(中国と)共に社会主義の国であるわけで、ある意味、非常に中国に近いと言えましょう。

中国では、国が決めた方針が絶対ですから、いわゆる「この考えしか正しいものはない」で、「様々な受け取り方がある」「正しい答えなんてない」というような考え方があり得ない世界。東南アジアに片足を突っ込んでいるベトナムでは、国が小さいということもあって、それが緩く支配するにとどまっている…にしても、やはり刷り込まれている考え方はなかなか変わらない。だから、「読解」なんてないのでしょう。いくつものの答えを要求すれば、戸惑うだけ。また考えを深めていくために、キーポイントなどを探したり、指示語から何を指しているかを探ったり、接続詞をキーに筆者の考えの流れを見たりなどというのが、無駄に思えるようで、「(待ちきれぬように、じゃあ)、答えは?正しい答えは?」となってくる。それさえわかれば、「終わり」なのです。「いつも同じ問題が出るはずがないでしょ。考えなよ」は、無駄なのです。

もとより、人々の考えは様々であるはずで、特定の宗教や思想に支配されさえしていなければ、不思議なことは不思議だし、面白いことは面白い…はず。ただ、それがどこかで「閉じられて」いるような…どうも入っていかない。心の中で、思わず「かいも~ん(開門)」と叫びたくなってしまう。

で、結果として(それとわかっているから)、よほどのことがない限り、映像は使いません。使った方がいいのですけれどもね。「はい、教科書を開けて」となってしまう。他の学生(興味を持ってくれる学生)は煽りを食って損をしてしまうのですが、半数がコソコソと他の作業をするとわかっているのであれば、それはやらない方がいい。

それに比べ、「Cクラス」の学生は、(まだほんの二回くらいしか見せていないのですが)、その都度、「ほう」で、しかも見せ終わった後、感想を言ったり、「こんなのが見たい」とか、「こんなのが知りたい」とか言ってくれるのです。当然のことながら、彼らの見たいモノを探そうという気にもなる。

中国にいたときも、中国の教育は間違っている(どうしたらいいのかはわからないのですが)と、とても嫌な気分になったことがありました。自分が日本人で日本で生まれ、日本で育ち、大人になってから中国へ行ったからそう感じるのかもしれませんが。いびつな気がしてならなかったのです。この人達はどうも変だという不可思議な、言うにいわれぬ感じ。それが解放前に既に大人になっていた人たちとは、普通に話せたし、感じ方も同じであるような気がしたのですから、不思議。まるで、普通の日本人と話し、感想を述べ合っているようなそんな気になれたのです。それも不思議。

ベトナムの学生はそれ(中国)ほどではないけれども、それに近いものを感じる時がある。ただ、専門学校へ行き、日本でもそういう世界で働いていれば、多分、こういう違和感を味わったり、味わわせたりすることはないでしょう。日本人や他国の人と、社会のこと、事象に関する考え方などを話し合うこともないでしょうから。

もちろん、日本人から見てなので、彼らから見てどうなのかはわかりません。しかしながら、違和感は拭えませんね。他のインドやパキスタン、バングラデシュなどの国には、(宗教も介しているし、全く考え方が違うから)、「違う」でかたづけられるのですが、それができない分、おかしな違和感として残ってしまうのでしょう。

日々是好日
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昨日は、「十月生の入学式」でした。

2023-10-24 08:55:39 | 日本語学校

晴れ。

今朝もよく晴れています。「秋めく」とはこのことですね。ずんと秋らしくなってきました。

学校の「キンモクセイ」の花も散り始めています。やっと咲いた…と思ったのはついこの間だったような気がするのですが、…もう散り始めている。これを「あっという間」と言ってもいいのかどうなのかはわかりませんが…。そういえば、「サクラ」の時もそうでした。あれが気が逸っている(早く見に行かねば散ってしまう)から、そう感じるのかとも思っていたのですが…。もしかしたら、長く咲き続けているモノの方が、結構少ないのかもしれません。もっとも「サクラ」はそれでも一週間ほどは保ったような気がしますけれども。

さて、学校です。

昨日は、「十月生」の入学式でした。留学生が八名、そして「七月生」の入学式後に入ってきた在日の人が四名、計十二名の入学式です。在校生は、午後のクラスと午前の留学生のうち、出席できる人だけが参加しました。それでも、コロナ禍真っ最中のようなスカスカではなかったので、「戻ったなあ」感が、たっぷりの式でした。

まあ、昨日の茶話会でもあったのですが、周りの日本人には冗談とは思えないようなことを、冗談として言いたがる人が一人います。…もう一人いるかな。しかも周りが見えないから、困らせていることがわからない。気のいい日本人は、まともにとるか、あるいは、困って、笑うしかない。それを誤解して、似たような「冗談」を飛ばしはじめる。「受けた」とでも思ったのでしょうね。国で(学校では)暇なモノだから、そんなことばかり、やっていたのかもしれません。私が思うに、いくら国で成績がよくとも、教師の立場から見れば、じゃま、授業の妨害になる。まして、ここは、日本語学校ですからね。「ひらがな」「カタカナ」が全く書けない人もいる新入生のクラスですからね。授業中はちょっと(潰しておかなければ)困るでしょう。

こういう人は、「よくいる」というとおかしいと思われるかもしれませんが、決して稀というわけではないのです(日本でも時々いますよね)。「ああ、また、いるな」くらいの感覚でこちらは見ているのですが。

実際、一般的な日本人は、相手が悪意のつもりで言っているのではないことがわかるので、まず、注意すべきかどうなのかについて悩む。次に、どう注意すべきのかについて悩む。これは相手を傷つけてはいけないと考えてしまうからなのですが、これはおかしなこと。傷つけられた人の方が、傷つけた相手の方を思いやって悩んでいるのですから本末転倒と言っていいくらいおかしなこと。

だいたい、そういう「冗談」が、受けると思い込んだ相手は、もう、その「路線」を変えません。下手をすると、卒業するまで言い続け、皆に嫌な気分をまき散らすということにもなりかねません。その上、これはどこでも通じるなくらいに思い込んで、外でもやってしまうでしょうから、手痛いしっぺ返しをどこかでされ、ひどいことになるかもしれない。

それくらいなら、何も考えずに、それが「出た」ときに、ピシャリと言ってやった方がいい。その方がためになる。つまり、後に数倍もの嫌な思いをせずとも済む。そんなのは自分の国だけでやれと言ってやる方がいいのです。

まあ、三週間が過ぎたので、互いにメッキ(メッキと言えるかどうかは疑問ですが)が剥げ、「地」が出て来る頃です。何が起ころうと、動じずに、勉強に向かえる人が、多分三人くらいはいるようですが、それと反対に、コツコツやるのが苦手で、何事かあればすぐ脱線させてやろうと待ち構えているのが二人。こういう手合いには、教師が、仏心を起こして、相手をしてやればやるほど、授業にならなくなるでしょうから、よほどのことがない限り、無視するに限ります。

それから、一見、真面目を装っているけれども、こちらの注意を聞くつもりがない、そういうのが一人。残りのうち、三人は普通に真面目な学生で、あとはそれなりにという感じでしょうか。

つまり、二人を押さえつけてさえいれば、授業は淡々と進めていけるということになります。なにせ、初めて外国に来て生活しようという人たちよりも、こういう学校の教師の方がずっと外国人にも、外交の文化にも、なれている。どっちの方が強いか、それは言わずもがなのこと。

ただ、これは、皆をできるだけ早い時期に、勉強の方に向けさせるための分析で、何も試合に勝つためとかではありません。、「敵を知り、己を知れば、百戦して殆うからず」。相手を知らぬことには、戦いは始められませんから。もちろん、戦いではなく、勉強です。

日々是好日
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「書く」ということ。何でも「大変」とか、「難しい」で、これまで逃げてきたらしい学生に対しては…。

2023-10-20 08:33:55 | 日本語学校
晴れ。

今日も晴れです。歩くと少し汗ばむ程度の暑さというか、涼しさ。

今朝も歩いていると、路地の野草が少々気になった。子供の頃に見慣れたものが、ある通りにはあるけれども、ここにはないといった感じで、どこにでもあるものではないということに、少し驚いたりしてしまいました。地味が違うからなのでしょうか、気候だけではなく…。ほんとに不思議。もっとも不思議がるようなことではないのかもしれませんが。

さて、学校です。

蜜月は終わりましたね、「Eクラス」。留学生も全員揃ったし、そろそろ厳しくやり始める頃なのかもしれません。初期、彼らの「(日本語や学習態度における)問題」に気づくたびに、どうしてなのかと自問自答してみる。新入生を持った場合はだれでもやることなのですが、ある程度わかったときから、そのクラスでの方針が決まってきます。放っておくと、後が大変。なにせ、あと一年半ほどは一緒にいなければなりませんし、きちんと卒業させ、進学先まで決めておかなくてはなりませんから。もちろん、言わずもがなの人たちには関係ありませんが…。実際、大半は関係ないのです。

特に、問題なのは、目的がこちらにはわからない二人。一人はどうして留学生として来日したのかがわからない。もう一人はなぜこの学校に来ることにしたのかがわからない。

日本語学校に留学生として来たということは、日本語を勉強するのが目的のはず。まだアルバイトも決まっていないこの時期であれば、注意されれば、それを改める時間もあるはず。一応、殊勝な顔つきで、注意を聞きはするのですが、結局無視しているのと同じ、何もしない一人(注意されたところは全然変えていない)。…彼らのような国で大学を出るというのはかなり困難なはず。これまで、この国から来た大卒者は、まとも…つまり、漢字などに難があっても、相手を見て行動することができたし、注意されれば、改めようとしていた…そういう素直さがあった。それが全然見られないので、ちょっと違和感がある。もしかしたら、違った系統かもしれないし、ちょっと対処に窮するといった感じ。

もう一人は、…自分ができないものに対して、「難しい」「難しい」と喚いて、相手に知らしめさえすれば、「事、終われり」で、済む…と考えているような気がする。兄貴がこの学校を出ているのですが、どうしてこの学校に弟を寄越したのかわからない。こういう性格の弟であったら、他の学校の方が苦しまないで済むと思うのですが。

インド圏の留学生には、他の国からの学生に比べて、「(文字が)書けない」、書けないが故に「読めない」という人の割合がかなり高いような気がする。特に大卒に於いては。ここは日本語学校なので、「ひらがな」「カタカナ」が覚えられなければ、当然のことながら「漢字」にまで至れません。適当に話を聞いて、それで「何事かを為す」というその「何事か」も、この学校にいる間は為せません。何せ、ここは日本語を学ぶところなのですから。

大学進学を目指す人でも、就職を目指す人でも、その分野に関係のあるものを学べるのは、最低「N2」に合格してからか、ほとんどそれくらいの日本語能力のある人たちだけです。もちろん、「漢字圏」の学生であれば、その「N2」が「N1」となります。

その前の基本的な日本語ができなければ、この学校の性格上、やれるわけがない。

インド圏の学生の中には、最後(卒業)まで、「聞いた音」をアルファベットで書いていた猛者もいました。が、大卒の、その彼は、話せればいいと公言していましたし、親が日本にいたこともあって、いくらこちらが注意しても、自分の世界、自分たちの「世間」で動くだけでしたから、対処のしようがなかった。自分を高く夢見ていたのでしょうね。そんなのは異国では役に立たないといくら言っても、どこかで刷り込まれた考え方の方が耳障りがよかったのでしょう。人は信じたいモノを信じる生き物ですから。

こういう国の人は、英語が自在に操れる者だけが特権階級であると信じて日本に来ているので、英語を話すことがそれほど得意でない、また話せても、それをちらつかせたりはしない日本人を下に見る傾向があり、いわば、それで墓穴を掘ってしまう。彼らの世界ではそうであっても、日本では違うということがなかなかわからない。痛い目に遇うまでは…ですけれども。

彼らの国では、自分(たち)が特別であることを証するために(周りにそれを見せつける必要があるときは)、同国人同士、同じ言語で育った者同士でも英語で話したりするようなのです。日本人からすれば異様な光景です。日本人であったら、見事な英語を話す人たちは、日本語のレベルでも非常に優れているはずだと思っていますし、また、そういう英語を話せる人たちでも、生まれ育まれてきた母国語(時には方言)が一番、己の気持ち、考え方が表せると思っているものだからです。母国語を放らない、文化を捨てないというのが普通でしょう。それに、他者(同国人)に対して、異国の言葉をひけらかすのは、「恥ずかしいこと」という伝統的な考え方もある。

日本に来て、日本語を学校で習っていたのに、「ひらがな・カタカナ」も満足に書けない、まして「漢字」は、という外国人は、普通、日本では、それほど能力のある人とは見られないでしょうね。もちろん、他者の追随を許さないような特別な技術があれば別ですが。そういうレベルの人は、こういう学校で日本語を学んだりはしないでしょう。

毎年、一人か二人は出てくる、「書けません」「難しい」で済ませようとする人たちにとっては、「難しいものか、100回書けば覚えられる」や「(日本の)文字は頭で覚えるものじゃない、手で覚えるものだ」は、もう耳タコになっているかもしれませんね。もっとも、「書く習慣がない」国の人にとっては、「書け、書け」と言われること自体が、未知との遭遇なのかもしれません。

一年いても、「N5」の漢字(週一の漢字テスト)から脱出できない学生に、一度、目の前で同じ字を100回書かせようとしたことがありました。書かせたのは「火」の字だったのですが、三回目にはもう「ソ」の部分が「ハ」になっていた…。

10回ほど書いて、…「手が痛い」と半べそ。見ると鉛筆に慣れていないからか、ものすごい筆圧で書いていた。だから「ノ」がうまく書けないのね。ここから教えていかなければならないのかと気が滅入ってしまうやら、それでも素直に言われたとおりにしようとする彼の姿を見ているうちに、苦笑いしてしまうやら、2回字ほどで解放してやりましたが、こういう人にとって、書くということは本当に大変なことなのでしょう。

とはいえ、日本に来たからには、この関門を越えなければ何にもできません。本当にこういう人は…「日暮れて、道遠し」。はあ…。

日々是好日
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「暑い」、「いえ、寒いです」が、互いの交流を生むことに。面白いですね。少しずつクラスで交流が始まっています。

2023-10-19 08:20:41 | 日本語学校
晴れ。

朝夕は冷えて、昼は暑い…という時期になっています。道では、実をつけるモノあり、花をつけるモノありで、割合に華やか。これが「紅」や「黄」に木々が染まる頃になりますと、もっと美しくなるのですが。

さて、新入生クラスです。今は、このクラスにかかりっきりのような状態です。「A・Bクラス」の問題なんて、例年通りのモノですし、「Cクラス」も留学生は二人だけで、あとは在日の人たち。留学生達のように、どうにかしてやらねばと追い詰められるような気持ちにならずに済んでいます。それに、まだ一年以上ありますし。

で、新入生のクラスです。

昨日は、「暑い」、「寒い」、「ちょうどいい」で、また揉めました。実は一昨日も揉めたのですが、その時は「暑い」が一人だけでしたから、エアコンをプチッと切って終わり。

この言葉、「寒い」「暑い」は授業開始二日目に入れました。彼らの言いたい言葉というのは、基本的に言えば『みんなの日本語(Ⅰ)(Ⅱ)』に入っています。中でも、生活上、必要な言語は、大体『1』に入っていますから、彼らの言っているのは「これだな」と思ったら、それを言い、『単語・文法』のページを開かせ、確認させておけば、あとでその課を勉強するときに役立ちます。

その時は、まだ二日目ということでもあり、「ひらがな・カタカナ」を覚えていない人もいますから、言った後、ページを書き、一人か二人に、そのページの単語の載っている位置を示してやり、他の人に見せるように指示すれば、順送りにわかる人が増えていきます。それで、まずは大丈夫。

最初の頃はそうでも、もう三週間が経とうとしています。「数字、ひらがな・カタカナ」は基本的に大丈夫なので、この点楽になりました。ただ、一昨日来日した最後の学生はまだですね。これはしょうがない。この時期の一週間の「差」というのは大きいのです。

他の学生達は、「単語」をH.Bに書いた後、ページを言いますと、数字を思い出しながら、それを見つけていきます(もう書いてやりません。何回か言ってやるだけです)。ただ、文字はまだ探すのが大変ですから、そのページの単語を、上から順に読んでいき、「これ」と言えば、「ああ」で、大丈夫でしょう。

「上」と「下」は始めの頃繰り返し入れています、それから、既出の国名を地図上で確認するため、「東・西・南・北」も、一応、入れてあります。覚えているかというと、もちろん、怪しい限り。こんなのは、聞いたことがあるくらいのものでいいのです。その課の勉強の時に少しは役に立つだろうくらいの気分で入れているのですから。とはいえ、「東西南北」を、手で大きく示しながら、三日ほど繰り返しておき、それ以後、国名が出てくるたびに、「フランスの北」とかやっておくと少しは考えます。オウム返しではなく、少しでも考えておきますと、その単元で出てくる頃には、「ああ、あれか」くらいにはなっているでしょう。

三週間ほど、私は「遊軍」として活動した方がいいと思っていたのですが、どうもそれほど待たずともよかったようです。今は、それは二週間で切ってもよかったかなとも思うのですが、まあ、これは進度を既に出していたので、一応、今週までは自由にさせてもらって、来週からは、正規の活動に入ることにします。

それまでは、13課までの単語などを少しずつ入れておき、あとの授業が楽になるようにしておくつもりです。「初めて」より、「二回目」の方がいいのです。「聞いたことがある」の方が強いのです。口頭練習しなければならないのに、その単元は単語覚えで終わってしまい、結局何を練習したのかわからないとなってはせっかくの練習が活かせません。まあ、クラスにもよりますが、このクラスではその方が良さそうです。

で、昨日の、「暑い」「寒い」「ちょうどいい」論争です。例の如く、バングラデシュの一人が「先生、暑い」。「暑いじゃない、どうしてくれだろ」と言いたくもなったのですが、まだ勉強し始めて三週間弱の人にはそれは無理、言えません。で、「はい、はい」と、素直にエアコンをつけ、授業に入ります。駅から歩いてきて、汗をかいていたのでしょう。ちょっとほっとした感じかな。そして、授業が終わる頃、ネパールの学生が、「寒い」。バングラデシュの学生は、「いえいえ、暑いです」とまだ言います。他の人に聞いてみると、「暑い」やら「寒い」やら「ちょうどいい」やら、様々。どうも、このクラスでは国毎に、暑さ寒さの感覚が違うということはなさそうで、突出している一人を除けば、まあ、わかる。多分、関係しているのは、席の位置。エアコンが当たるか、当たらないかくらい。

授業が終わり、帰ろうとすると、タイの女子留学生が、「漢字、漢字」と呼び止めます。「カタカナ」を書いたものを見せて、言っているのですが、どうしてほしいのかわからない。「カタカナで書かれたものには漢字がありません(あるモノもあるのですが、その表現は未習です)」と言うと、「名前、名前」と言います。「あなたの名前は○○でしょ」と言うと、「いえいえ」と言います。

そこでハタと思い出した。「そうだ、タイ人も通常、本当の名前を呼び合わないんだった」

どうも彼女は、自分の名前を漢字で書いてほしいと言っているらしいということに気がついて、「今すぐはちょっと無理です」と言うと、「なぜか」という顔をする。「日本人なのに漢字を知らないのか」と不審そう。「漢字には、同音異義があって、どの漢字があなたの名前にふさわしいかわからない」と言いたいところなのですが、言ってもまだわからない…だろうな。ということで、「明日でいいですか」と言うと、「明日?はい」とにこり。

その間も、「暑い・寒い」、それぞれの組は諦めない。「寒い」の声が高いと「はいはい」と言って切り、また、「暑い」の声で「入れ」に行くを繰り返していたのですが、とうとう、最後に、「もうしない。先生は疲れました」。すると、「ごめんなさい」「いいです」「先生、疲れ~た」と声が出て、私は、「次の先生にね」と言って、退散を決め込んだ。

今は、おそらく「蜜月」と言ってもいいでしょう。向こう(学生)も最初は警戒している。「さて、ここはどんなところかな。嫌な奴がいるんじゃないかな。しつこかったりするんじゃないかな」など、いろいろなことを考えているでしょうね。外国人と呼ばれる立場に初めてなったんですから。周りは日本人ばかり(このクラスは、中国、タイ、ネパール、バングラデシュ、スリランカから来ている学生です)ですし。

ところがもう三週間になろうとしている。多分、学校には慣れた。学校での勉強のやり方にも慣れた。とんでもないことをしない限りは、叱られない。じゃあ、と少しずつ頭をもたげ始めた。こちらとて同じ。「どんな学生かな。文字は大丈夫かな。発音は?」と、それ以外にも、「きちんと勉強するかな」とか、お互いを観察する期間も過ぎ、安心し始めた。で、少しずつわがままが出てくる。これを、逆手に取らぬ手はないのです。最初は譲って、あとで締める。これを繰り返しているうちに、わがままの度合いが互いにわかってくる。ここまではいい、これ以上は叱られる。ここまでやっていれば、少々のことがあっても、許されるとか。

もっとも、アルバイトをするようになり、もっと日本の生活に慣れてくれば、勉強だけでなく、様々な問題に追われることになるでしょうね。留学生活とはそういうものですから。楽しいことばかりではありません。それらを一つ一つ乗り越えていけば、最初の大問題は取るに足らぬことになっていくものです。

日々是好日
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昨日、ネパールからの留学生が授業に加わり、これで、「十月生」は全員揃ったことになりました。

2023-10-18 08:07:57 | 日本語学校
晴れ。

だんだん秋めいてきました…とは遅きに失したか。学校の「キンモクセイ」は…こんなに花がついたとはと、驚くばかり。去年、花が多かったので、今年は少な目になるかもと思っていたのです。が、豈図らんや、「まだまだだぜ」とばかりに昨日よりも、今日、もしかしたら、今日よりも明日、花数は増すことになるかもしれません。

「コロナ禍」の最中は(今でも少しずつ、また増加傾向にあるそうですが)、皆、しっかりとマスクをしていて、この香りを楽しむどころではなかった。

「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」 藤原敏行
本来なら、秋と言えば、この風に、それを感じるところだったのでしょうけれど、

「春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見らね 香やは隠るる」 凡河内躬恒
香りで、「ああ、もう、秋か」ということになってしまいました。「キンモクセイ」と「初秋」とは、どうも深い関係にあるような気がします。

「梅」といえば、思い出されるのは大伴坂上郎女の歌。同じ梅の花を詠んでいても、こちらは
「酒杯に 梅の花浮かべ 思ふどち 飲みての後は 散りぬともよし」ですからね。ずんと勇ましい。時代も、150年くらいかそれ以上の差があるのでしょう、やはり万葉時代の女性はすごい。

さて、学校です。

「Eクラス」の三人。中国人学生が、「いつから漢字を始めるのか」と聞くと、それを聞きつけて、一斉に、「いつから」「いつから」と騒ぎだす。中には「アイ ラブ 漢字」などと言い出す嘘つきまで出てきて、思わず、「だれが邪魔をしているんじゃい。満足にきれいに(つまり、『ひらがな』の一字一字が読める程度に)書けないくせに」と睨みつけると、途端に「はい」としおらしくなる。どうも、こうなってくると文句の一つも言いたい…のが言えなくなる。

「はい、じゃあ、きれいに書いてみましょう」と、一回、ディクテーションめいたものをやってみる。もとより、まだ、『みんなの日本語』第四課が終了したくらいですし、勉強を始めてから、三週目ですから、単語は書けても、三文節くらいの文は、…ちとつらい。見ていると、聞いた言葉を繰り返し言っていたり、言いながら書いていたり、また、一つ書くたびに、「先生、先生」と見せようとする者や、「もう一回(言って)」と叫ぶ者やらがいる。

「三回読むと言ったでしょ。黙って書く」と言ったは言ったものの。それがすぐに通じる段階ではなし。モグラ叩きのように、こちらには「言いません」、そしてあちらには「今は一回目、次に二回目を言うから」と言っていると、大人の(つまり、黙って聞く習慣がついている)三人が、「はあ、(うるさい」とため息をついている。こりゃあ、慣れるまで、時間がかかるな。少しずつやっていこうと、次は単語だけでやっていくことに。

従来、ディクテーションめいたものは、もう少し進んでからやっているのです。それも最初は、単語一つくらいのもの。ただこのクラスは、簡単なモノをやると、すぐに高をくくりそうな手合いが数名いる。まずは、「熱いうち」、「まだ興味を持っているうち」面白がっているときにどんどん入れていった方が良さそうに思える。で、最初から、三文節くらいでやってみたのですが、そうすると、黙って書くとか、こちらの指示に従うという習慣がないことが、よ~くわかった。もう幼稚園さんのよう。

まずは、一つずつ相手を見てから、やり方を決めていくことに。このクラスは「十月生」ですから、「四月生」に比べ、半年遅れということになります。来年の今頃には、ある程度の成果を上げておかなくては、進学もままなりません。大体このクラスでも三つか四つくらいのグループに分けられるので、それを少しずつ、こちらの望む形に均していくのが必要になってきます。

そういえば、最後の一人、ネパールからの留学生が昨日から参加しています。ちょっとバングラデシュの子供っぽい連中とは違っているような気がして、聞いてみると、高校卒業後、3年ほど仕事をしていたらしい。その、働いたことがあるという経験がプラスになるといいのですが。時折、それがマイナスに働き、学習態度に問題が出てくる人もいるので、最初はちょっと注意しながら見ていくことになるでしょう。

彼には、まずは、この三週分をごくごく簡単にやらせておかなくてはなりません。今日、11時から90分ほどかけて、発音、文字と数、日にちなどをやってみるつもりです。午後は皆と一緒の授業です。他の学生達は、だいたいこの三週でこちらの様子もわかり、どうしなければならないかも気がついているようですが、彼の場合は「一」からですからね。それも短期間にということで、少々辛くなるかもしれませんが、早くやっておくに限ります。まずは違いを体で覚えてもらわなくてはなりません。そうしなければ、このクラスで浮いてしまうでしょうから。

日々是好日
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「文法」とは言うけれども、所詮、言い方の違いでしかない。じゃあ、「N2」より「N3」の方が簡単でいい…と、「N3」表現ばかり遣いたがる学生達。

2023-10-17 08:03:28 | 日本語学校
晴れ。

「キンモクセイ」の花は、もう満開になっています。香りも一段と増してきて、皆も楽しめるかな。四季のある日本では、「季節の花」というのがあって、「春の初め」にはこの花が咲き、「初夏」にはまた違う花。「夏」、水を打ったとき見ると涼やかさが増すのはこれ。「秋の初め」には…、秋の盛りには…、冬が来たと思わせるのは…。

地域によって、多少の違いはあるのかもしれませんが、個々人の心には、こういう季節の流れがあって、それが少し狂ってしまうと、どうも気分が悪い。おかしなものです。気候が変わったから気分が悪くなってしまうのか、変わったという結果を草花を通して見せつけられてしまうから嫌な気分になってしまうのか。まあ、「鶏と卵」くらいの関係なのかもしれませんけど。

さて、「A・Bクラス」です。昨日はこのクラスだけの授業でした。だいたい、『読解』も「N2」レベルくらいになってくると、内容が主になってきます。文法は彼らが日頃使うようなものではないので、覚えても、利用できないようです。で、昨日は「文法の読み」の時に、いくつか使えそうなもので、「こんな時は…」と畳みかけるように、作って言ってみました。使おうと思えば、使えるのです。が、「N3」レベルの文法でも同じような意味が表せるので、ついそっちの方を使ってしまい、新たに覚えた「N2」文法は脇へ追いやられてしまう…。

「みんなの国にもいろいろな言い方があるでしょう。こういう相手には、こっちを使い。自分がこういう気持ちの時には、あっちを使う」

中には「そんな面倒なことを(私たちは)しない」と、言い張る学生もいるのです。が、そんなはずはない。それぞれの国には、それぞれ、人がいて、個々の歴史があり、固有の文学がある…もの。ただ、そういう歴史や文学を重んじない時代があることも真実で、人々がそれに踊らされてしまう場合もある。それに対して、異国の民である私たちは、なんとも為す術はない…。

綿々と続いているかに見える「歴史」も、「切り取れる」ものだから。そう、切り取れるのです。時の流行(はやり廃り)とかではなく、為政者が、意図的に、それをする場合もある。かつて、日本もそうでした。当時、信じていなくとも、反対はできないような、そういう時代の空気があったのです。そういう時代の中で否応なく巻き込まれ、死なされていった人たちが大勢いました。

為政者は権力を持っています。反対する者を許さないと言えば、それに都合がいいように作られた「社会構造」がその方向で動いてしまう。自分にとって都合のいい歴史を切り取って、「これが○○国である」ということにしてしまえば、それを教育の現場に持って行きさえすれば、多分、学んだ人たちは、それしか知らないのですから、疑う心なんて、生じようがない。宗教と同じと言ってもいいでしょう。

日本にも、数は少ないでしょうが、熱烈な宗教家と言われるような人たちはいる。この「熱」は恐ろしいもので、最初は、困ったなあという顔つきをして聞いていたり、こんなに熱心に語っているのに、話を聞いてやらないのは気の毒だくらいにしか思っていない人たちも、その熱によって溶かされる場合もある。

ただ、信仰心の厚い人たちが多い国から見ると、
「神といひ 仏といふも 世の中の 人の心の ほかのものかは」 源実朝
と考えるような日本人は「『不敬』であり、『もってのほか』」なのでしょうね。

宗教関係の問題が発生する度に、「人というものは、不思議なもので、何かを信じ、縋ることによって助かる命もある」という医者の言葉を思い出すのです。もっとも、それによって傷つく人さえ出なければ、なのですが。

普通、私たちは、「金を要求するものは宗教ではない」と言い、思っています。だから、なぜ卑しく「金をくれ」というような団体を宗教と見るのだろうと思ってしまうのです。もちろん、金銭によって購えるモノは少なくない。神社仏閣が古びれば、修理も必要になる。気の毒な人が増え、その人達をなんとかして救いたいともなれば、またカネやモノが必要になってくる。ただ、条件は明朗会計です。人々の善意にすがっているわけですから、それを忘れるべきではないのです。

宗教者は我欲をなくした人であるという気持ちが日本人の中にはありますから、教えを説くのに、カネは必要ないでしょう。カネはなくとも、それほど人の心を鷲づかみにできる人なら、困ったときには、手を差し伸べてくれる者が必ずいるはず。

日本の神社仏閣や神社などの宗教建造物は、もう一宗教のものというよりも、日本人すべてのものなのですから、税金が使われても、募金や献金を促されても、だれも文句は言いません。かつての日本人が、心を込めて作ったもの、守ってきたものは、私たちもまた守っていかねばならないと、皆、思っているからです。けれども、それは、教えを説く人には、関係ない。

日本語学校にいると、どうしても宗教の話から逃れられません。知識として持っているだけのものを、深く信じ、全く疑問を抱かない人たちを見ていると、本当に不思議になってくるのですが。その一面、自己責任から逃れられていいなとも思ってしまいます。特に大学受験を目前にして、面接の練習やら、作文の練習やらをしていると、そうです。疑念を相手にぶっつけてもいいことはありませんから、ふん、ふんと言って聞いておき、それらしい日本語にまとめるだけの作業なのですが。世界は広いと思ってしまいます。

もっとも、宗教心がないとか、神を信じない日本人は変だとか言われたら、日本には、「お天道様」もいれば、山川草木にも神が宿っている。その方が賑やかでいいんじゃないかと言って、(人それぞれだなあと)笑っています。人が一人いれば、一つの考えがあるように、千人いれば、千の考えがある。それを認めずとも、知っておく方がずっといいのです。

日々是好日
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のんびり屋さんのクラスは、進学に関してものんびり屋さんのようです。

2023-10-16 08:48:11 | 日本語学校
晴れ。

「キンモクセイ」が咲き始めていました。日曜日、かなり雨が降ったのが幸いしたのでしょうか。例年、東京では「梅雨」時よりも、「秋の長雨」の時期の方が雨量が多いとか。10月からは雨の日が少なくなっていくそうで、日曜日の雨は貴重な雨だったのかしらん。

さて、学校です。

のんびり屋さんが揃っている「A・Bクラス」。この面々、どうも進学も人ごとのような…雰囲気。「君たちのことだよ。大丈夫かな。困ったな」というのが、こちら側の正直な気持ち。かといって、発破をかけてしまうと、変に心配症になってしまうし…この加減が難しい。ただ真面目な人が大半ですので、どこへ進学しようと進学先に迷惑をかけるようなことはないでしょう。

で、次は、「在日生クラス」と言ってもいいような「Cクラス」。先週末、在日生の一人が「介護」に興味があると言ってきました。「N3」にでも合格できれば、介護の方で働けると思っているような…気がしたので、そのためには、「試験がある」ということと、「こういう一般的な日本語能力だけではなく、介護や医学関係の言語や知識なども必要だ」ということ、それから、やはり「専門学校で勉強しなければ、無理だろう」ということなどを少し話しました。

この学校から介護関係の専門学校へ行った人もいませんでしたし(進学担当の教員が過去に調べたことはあったようですが)、また彼女がどれほど本気なのかも判りませんでしたから。もっとも、九月末にやっと「初級」が終わった程度ですから、日本の事情がわかってくれば、別のことを聞いてくる可能性もあります。

外国から来た人は、ちょっと(同じ国から来た)誰かがこう言っていた…くらいのことで、簡単にそちらに流され、あとでこうだとは思っていなかった…ということがよくあるのです。国によって情報の偏りもありますし、まず何より日本のことが判っていないが故の気の焦りということもあるでしょう。

それを一つ一つ正していくというのも日本語学校の役目だとは思うのですが、ただ同国人の成功例や日本を下に見るような話というのは、なかなか正せない…というのが難しいところです。

成功例も「人による」…が、通じない。また、「日本の住居は狭い。私の(国の)家は、こんなに大きい…」と言うのも、日本のマンション事情などを説明し、なぜなのかが判っても、やはり言い続ける。同国人の間で、この話は、きっと盛り上がるからなのでしょう。一方、それを聞いた日本人の方では、その国の状況が判らないわけではないので、そうだろうなと別の見方をする。で、「じゃあ、そこに住んでいればいいのに…」と言うしかなくなる。そんな話では盛り上がらない。嫌なら、日本人は田舎に住めばいいだけのことですから、事情さえ許せば。そして、その人を見て「日本くんだりまで来る必要はないのに」と思ったりする。相手が言い募れば言い募るほど、嫌な気持ちになる。

多分、こういう(外国)人たちは、この学校へ来るまで、同国人と、こういう話で盛り上がっているのでしょう、いつも。他人の悪口は「蜜の味」と言いますもの。比べたいことだけ比べて、盛り上がる。日本で苦労していれば苦労しているほど、自分の国を崇めたくなるというのもよくわかる。外国へ行って、一度帰国するまでは、皆こういう気分になるものですから。どの国の人もそうでしょう。ただその気持ちの強さというのには、国によってかなり違いがあるような気がする…どうもそんな気がする。

自分の国を大切に思い、誇りにも思う…それは、当然のことですし、そうでなければ大変です。政治は変わっても、経済は変わっても、宗教は変わっても、山川草木、人は変わらない。

ふるさとに帰れば、同じ言葉で話す人たちがいる。同じ習慣で何事もなすことができる。右往左往する必要はない。不便さが却って喜びになったりする…はずなのですが。最近は、どこの国へ行っても、相性がいい場合と悪い場合があるようで、もう戻りたくないという人も少なくないのです。

勉強や仕事で、一時期よその国へ行っても、自分の国を大切に思い、いつかは帰るのだという気持ちになれることこそ、大切だと思うのですが。

日々是好日
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学校の「キンモクセイ」はまだ蕾。咲きはじめるのは、もう少し先になりそうです。

2023-10-13 07:42:14 | 日本語学校

晴れ。

「キンモクセイ」がもう咲き始めたという報道がありました。で、学校の「キンモクセイ」の木を覗いてみると、う~ん、まだつぼみですね…咲いてはいなさそう。いくつかつぼみが小房で揺れていますが、それだけです。去年、スタッフの丹精のおかげか、かなり花が咲いていましたから、今年は少ないかもしれません。だいたい、酷暑でしたから、木も疲れていることでしょう。

この花を見ると、いつも思い出されるのが、中国内モンゴルの学生のことです。留学生で、日本に来て、花や木に関心を寄せる人はあまりいないのですが、あの地から来ていた人はちょっと別でしたね。特に木に関心があるようでした。当時、まだ「コロナ」が発生していませんでしたから、学校でも一ヶ月か二ヶ月に一度、東京のどこかしらに連れて行っていました。

横浜に行った時などは、高台の枝振りのい大木を見て、「どうしてこんなに木に花が付いているのか」だとか、「この木の花は、匂いがする」だとか言っては、驚いて見せ、その都度、それを聞きに来ていたものでした。それに、夏でも色を変える葉がありますよね、それを見て、「この木は病気なのか。どうして葉か彼は色になっているんだ」とか心配してみせることもありました。だいたい、学校が引率して見学に行くようなところは皆、よく管理されています。まあ個人のお宅でもそうでしょうけれども、もし(木が)病気にでもなったら、由々しきことです。すぐに治療されるはずだと日本人は考えるのですが、彼らはどうも、放ったらかしであると思ったらしい。

そんなことは「ない、はずがない」というのを納得させるのに、少々時間がかかったものでしたが、判ってみると、それは当然なことという気になったらしい。飾ることに気をとられて、木々の命、花の命をあまり考えていないかに見える…そういう気分の所から来ていれば、それも当然のことなのかもしれません。

もとより、神社や仏閣などは、命を大切にするのが信条のところですから、当然のこと、また博物館や美術館の庭園の木々がおかしなことにでもなってしまえば、それは責任問題ともなるでしょう。それ故、今、東京の再開発という名の下に、伐採される木々があるということが日本のみならず、国際機関をも揺るがしているのでしょう。

日本各地には、樹木医がいて、各所で活躍しているし、実際、そういう需要があることなども、判ればなるほど当然のことだと思えても、これまで、そう考えたことがなければ、「なぜだ?なぜだ?」となっても、それはそれで、しょうがないことなのでしょう。

以前、ベトナムから来た女子学生が、「どうして鉢植えの木や花を外に出しているのか?だれも盗まないのか」と聞いたことがありましたっけ。ベトナムに行ったときには、生活と草花が深い繋がりを持っている国だなと思ったのですが、それでも、日本とは違いがあったようです。

さて、学校です。

「Eクラス」は、だんだん(それなりに)形をなしてきていますが、まだまだ落ち着くには一波乱、二波乱はあるでしょう。一ヶ月を見ておいた方がいいのかもしれません。今は、一に「Eクラス」、二に「Cクラス(四月生)」で、本来なら、一番気にかけてやらねばならぬはずの「A・B(二年目の)クラス)」がどっかに追いやられているような景色。気の毒な…。しかも週に三回で、月曜日が休みになろうものなら、あれ?なんかあったっけみたいな感じになってしまう。

ただ、さすが二年生と言うべきか、落ち着いていて、「ああ、大変そうだな」と、こちらを見やるゆとりさえある。だから、怖いといえば怖い、困ると言えば困るとでもいうべきか。こちら(学校側)を信頼して、「待ち」に徹し、何事か遇ってもじっと待っている感じ。もっと焦って自分なりにことを進めよとも思い、言ったりしもするのですが、そうはならない、動かない。「○○しましたか」と問うた時に、「ん?まだです」とニコニコと答えられ、こっちが反対に焦ってしまうということもままあるのです。

まあ、例年、なんとかなっていますから、今年もなんとかなるのでしょうが。

日々是好日
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「座席」について。

2023-10-12 05:12:27 | 日本語学校

晴れ。

少し前まで、「季節が、なかなか移らない、いつまで暑さが続くんだ」と、酷暑を嘆いていたのに、今は「どうしてこうも早く移ろってしまったのか」と朝晩の寒さに凍えています。おかしなものですね。十月も中旬に入れば、例年、こういうものであったはずなのに。暑さが続いてしまったから、自分たちの感覚まで鈍ってしまったものと思われます。

気温が何度くらいになったから、穴から出てくるといったような生き物でしたら、大変でしたろう。それが、もうそろそろ秋の気配がするはずだとか、この「はず」で動いている私たちは、この「はず」で失敗したりもしてしまうようなのです。「はず」はこれからはもう、使えなくなりそうですね。思いもよらないことが起こり続けてきそうですもの。

農業や林業、漁業に携わっている人たちが、カナリアのように、危機を告げていても、なかなか我が事とはならなかった。…知識程度でしかなかった。せいぜい、できる範囲で気をつけようくらいのものでしかなかったのです。ところが、「米」が今までの産地から姿を消しそうだとか、「栗」が実をつけなくなったとか…異常を報道されるようになると、近辺の草花の話だけでは済まなくなった。そうして初めて、「えっ」となる。

早くから、大地に根ざした活動をしていた人たちは、「それ見たことか」でしょうね。とはいえ、地球上に生まれ、生きている私たちは、皆、運命共同体。バタフライ効果で、遠くの物に影響されることもあれば、私たちが出した物がブーメラン効果で戻ってくることもある。それなのに、「…こうなってしまって、どうしたらいいのでしょうね」と不安がり、お上や専門家の、「こうしなさい」を待っている自分もいる。いやはや、どうしようもない…。

さて、学校です。

「Eクラス」、十月生のクラスの「座席」のことです。

第一週は、様子見で終わり、今週の火曜日に、一人だけ席を移した…。自覚がある人たちはちょっと脇に置くべく右側にまとめ、少々手がかかりそうな人を左側に置いた。…これで目が届く。ただ、このままでは、「文字の時間」に、私が自由に動き回れるスペースがない。…ということで、その時間だけ、教卓を脇にどけておくことにしてみる。やってみようということで、火曜日に一度やってみました。大丈夫そう。「漢字」が始まったら、これで行くことに。

面白いことに、座席の辺りが広くなると、彼らは自由度が増すと感じてしまうようで、椅子を後ろに引き、どっかりと座ろうとする。まるで「重役さん」やな。それを、一人ずつ、前に前にと押し込んでいく。体格のいい学生が「足が、足が」と叫べば、「足を曲げずに伸ばせ」…で、どうにか格好がついた。だいたい、姿勢が悪いのです。椅子を後ろに引いて、かがみ込むようにして「ひらがな」を書いても、「幼稚園さん」の「ひらがな」で終わってしまう。まずは姿勢を正せ。

もっとも、その前にノートの置き方が問題なのです。ノートを極端なほど斜めに置いてしまうので、字がフラフラしてしまう、線に沿って書けないのです。しかも、斜めにおいているので、字の向きやら、長さやらが適当になってしまう。一人ずつ「まっすぐ」と正していく。一週間で、一人に「まっすぐ」と言えば、何人かは気づいて「はっ」と正せるようになりました。どうも自分に言われたと思うようですね。私は私で、あれっ…一人じゃなかった(見えたのは一人だったけれども)となるのですけれども。

昨日は、文字は、まだ「じょ」くらいのもので、「カタカナ」にも入っていませんが、先々、「漢字」の導入に入った時には、これでやれるということがわかりました。火曜日には、ちょっと動かすのにオタオタしてしまいましたが、元に戻す時、タイ人女子学生が、さっと手を貸してくれました。見ていたのですね。体がすぐに動くのは、タイ人学生と中国人学生。バングラデシュやスリランカ、ネパールの学生は、このクラスではどうも動けないようです。言えばすぐに手伝ってくれるのですが。気持ちはあるけれども、どうしたらいいのかわからないといった感じ。気働きを、ある程度要求されたら、大変でしょうね…などと、こういうときも考えてしまいます。「インド圏」の人たちは、こういう点、少々弱い。とはいえ、まあ、来たばかりですからね。だんだん学校やアルバイト先で身につけていけるでしょう。日本では「大会社の社長だって、新入社員の時には何だってやるんだよ」なんてのは、彼らにとっては、きっと想像もつかない世界の事なのでしょうね。

日々是好日
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「ひらがな」…まずは、円を描くことから…。

2023-10-11 08:18:46 | 日本語学校

晴れ。

清々しい朝です。やっと秋らしい秋が来た…ような気がします。秋なんてこんなものだったよね、などと自分で自分に言い聞かせておかないと、「秋のおとない」を忘れてしまいそう。それが、ちょっと悲しい。突然の秋で、心の準備が追いつかないのです。

さて、学校です。

最近は、「A・Bクラス」も、「Cクラス」も、皆、「Eクラス」に追いやられ、「『Cクラス』??えっ。何だっけ」という感じ。なにせ、このクラスはまだ始まって一週間が経ったばかり。頭の大部分があっちにとられているような…。

なんとなれば、「A・Bクラス」も、「Cクラス」も、授業する上では、何の問題もないのです。このクラスにはこうというのが、定まっていると言った方がいいのかもしれません。「次はどうする」、あるいは「どうなる」というのが、教師の側でも学生の側でもだいたい予測がつく。だから、やりやすい。もとより、小さな問題は、チョコッ、チョコッと出てきます。とはいえ、少々手をいれればどうにかなる…まあ、今のところは。

半年も過ぎると、こうなって当然というか、ならなければ、それこそ大きな問題。クラス経営ができていないということになる。もちろん、一人いれば一つの影はありますし、それが、ふいに姿を現すこともある。しかしながら、出てきた時、それぞれのスタッフが、それぞれの役割というか、得手不得手で対応すればいい。手に負えないほどのものが噴出するという時期は過ぎたような気がします。だいたい、こちらにも、そう割り切れるだけの積み重ねはある。

それ故に、新入生は、入ってきたときが肝心。少しでも早く、こちらのやり方を判ってもらわねばならない。本来なら、二年生がその役割を多少なりとも、担ってくれるはずなのですが、コロナ禍のせいで、この「伝統」を伝えられる人がいない。だいたい、今の二年生だって、留学生の先輩がいない中で勉強してきたのです。

で、始まったばかりの「Eクラス」。お互いに様子をうかがい合った一週間が過ぎ、さて、これからが「始まり~、始まり~」。

昨日は、どんなに「文字」が大切かを力説し(今は判らないでしょうが、諦めない)、円を描かせてみると、思わず、「こうまで力を入れて、描くかよ…」。手を添えてみるが、相手の力に引きずられて、もう何の形やらわからないようなものになってしまう…。これは「円」ではない!

で、また「円、円」と言いながら、今度は最初にホワイトボードに描いてみる。「これが円です」。言わずもがなか…。

これは、相手が判っても判らなくてもいいのです。どうせ、判らないだろうからと、手を抜いていると、いずれ、それが数百倍にもなって我が身に振りかかってきます。言い続けることが大切なのです。しつこいくらいに。そうすると、ある日、急に判ったらしき様子が見えてくることがある。最初は一人、。それがいつか二人になり、三人になり…。まあ、全員判ってくれると言うことはありませんが、過半数が判ってくれれば御の字でしょう。日本人同士だってわかり合えるのは難しい。贅沢は言えません。

宿題のノート点検。文法の間違いよりも、文字の訂正の方がずっと多い。「間違いです。これは『い』です。『り』じゃありません。」

新入生というのは、例年、かなり早く登校してきます。このクラスもご多分に漏れず、皆、早く来ています。1時15 分始まりなのですが、早い人は12時半前には来ています。電車を使ってくる人が1時ごろに来れば、これで全員揃ったと言うことになります。私は5,6時限が多いので、早めに教室に行って、来た人から順に文字のチェックをしていきます。

中国人は文字の問題がほとんどないので、それほど注意はせずに済むのですが、他の国から来た人は、始めに、一発でも二発でも、ガーンとかませないと、本当に、すぐに「適当」になってしまうのです。「なんていう字じゃ。これは何じゃ」。判っても判らなくても、文句を言い続け、書き直させます。それでも、時間が経てば、「これは君たちの国の文字でしょ」と言いたくなるような「ひらがな」「カタカナ」の人も出てきます。もちろん、文句を言い続けることは徒労ではありません。全員がそうなるわけではないのですから。

さて、今日ももうすぐ始まります。今のところ、学校に行きたくない…人はいなさそうです。「文字の戦い」はしばらく続けねばなりますまい。

日々是好日
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「Eクラス」、日本語の勉強を始めてから、二週目に入ります。連休中、何をしていたかな。きれいさっぱりと忘れたであろう人が、多分、二人はいるだろうな。

2023-10-10 07:10:08 | 日本語学校



秋を一足飛びに飛び越えて、冬が始まりでもしそうな気配。…このまま、日本から秋は失われていくのでしょうか。

さて、学校です。

「Eクラス」が始まって、一週間が過ぎ…どうやら、真っ白だった大卒者のお尻にも、火がついたようです。とはいえ、日本語の勉強は、まだ、五回しかやっていません。もっとも、彼らは自覚さえできれば、あとはある程度,放っておいても大丈夫でしょうから、心配はしていないのですが。ただ、スリランカ女性は、まだちょっとわかりません。やる気があるのか無いのか…。適当にやればいいと思っていそうな気もする…。

先に来日し、上のクラスの教室の3列目で、数日、自習をしていたタイの女子学生。その間に「ひらがな」「カタカナ」は覚えたようで、三、四回,見せに来た時に、形を直してやると、次の回には正せていましたから。後は、身につけるべく練習すればいい。

開講前二日ほど来たタイの男子学生はどうも高を括っていたようですね、同じく「教室」で、「ひらがな」を書いてはいましたが、本腰には見えなかった。結局、授業が始まる前までには、覚えられていなかったようです。ただ、このタイ人男子学生、授業が始まると、とんでもないと言う顔つきになった。一回目の「ひらがな」テストでは、…書けている文字の方が少ない、…それもどうも、見て書いた…ように見える。

ただ、二日、三日、四日と経つうちに、毎日繰り返している、数字やら、時間、日にち、一つ、一人、一番などが、かなり追いついてきた。覚えねばならないという自覚があるからでしょう。できるだけ、本を見ずに言おうとしている。

中国人学生には、来年の七月には「N1」か「N2」を受験しなければならないと告げるだけで、自覚ができたようで、まずは良かった。

で、大卒者はどうにかなるとして、大変なのは、四月の申請に一度落ちて、再度の申請で通ってやって来た、バングラデシュからの三人。生半可にやった経験があるだけに、またあれから半年過ぎているだけに、もううろ覚え状態になっている。

「『ひらがな』『カタカナ』は大丈夫(書けますか)?」と聞くと、胸を張って、「大丈夫」と答えた…くせに、書けない字やら、「む」と「ね」、「り」か「い」かわからない字やら、これは「や」であろうか、「か」であろうかと、人を迷わせる字やら、さあ、大変。

「忘れてるな」と睨むと、また「大丈夫」と堪える。まさか「やま」と言えば「かわ」じゃあるまいに。甘く見てるな…どうにかせねば。

一人は、多分、ゆっくりゆっくりやらねば、なるまいと思われる人。もう一人は、理解するのに時間がかかる。が、コツコツ型に見えるので、続けていくうちにどうにかなるだろうと思える。最後の一人は、兄貴が、「厳しくやらないと、多分、だめ」と言っていた学生。その通り、勘もいい、すぐに言えるようになる…が、「ひらがな」も「難しい」で終わらせようとする。「『難しい』から、後ろがあるだろう。難しいから、練習しなければならないと、なぜ、ならない」…どうも、なりそうもない。

「ひらがな」で難しいと喚いていたら、「カタカナ」はどうする?「漢字」になったらどうする?……まさに、この「バングラデシュ・インド型」。この学校にいた人たちの中で、この二つの国からの人たちが、「文字」を軽んずる傾向が顕著なのです。もちろん、そうではない人もいますが。「Aクラス」でも、他の人たちは「N3」の漢字テスト(合格)が終わっているのに、この二つの国から来た二人だけは、やっとこさ「N4」の漢字。まだ合格していない。…不思議なのですが、近い国であろうに、パキスタン人は、漢字を覚え、文章も読もうとする…この学校だけのことでしょうかしらん。

で、いよいよ、二週目です。連休があったので、忘れた人と、その間に練習していた人と、また差が出るでしょうね。とはいえ、ともかく、ばっさばっさとやっていくしかない。なにせ、十月生は、「また次の人たちが来てからもう一度やればいい」がないのです。

日々是好日
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