薄曇り。
空一面にうっすらと雲がかかっているような…朝です。昨日までの秋晴れとは、程遠い朝。
お空の雲の広がりにも濃淡があって、その「淡」の部分から、時折、月が姿を見せているのですが、それが、どうも、真鍮製の円盤にしか見えないのです。朝の、こういうときの月は光を失って、ただの板にしか見えない。夜のしじまに浮かび上がって光を放っている月とは、ほんに「月とすっぽん」。
夜の月の、なんと冴え冴えと冴え返っていることか。その光には深さのみならず、闇まで呑み込んでしまうような感さえある。だから月を見ているうちに狂ったり、化け物になったりしてしまうのでしょうね、誰しもが。
で、今朝は真鍮板の月を見ながらの出勤です。
学校に着くと、既に「キンモクセイ」の花は、全く姿を消していて、ただの「木」になっていました(こういうと、花にしか価値を見いださないのかと非難されそうですが、なにせ、花が咲かないことには、何が何やら見分けがつかないのです。だから、花が散ってしまうと、いわゆる「木」と言ってしまうのも、しょうがないなあと思ってください)。近所の「ハギ」はまだしっかりと枝にしがみついているというのに。これを潔いと言うべきか、諦めがいいと評するべきか。学生達の様子と絡めながら、ちと悩んでしまいます。
専門学校の入試に関しての「情報」です。「A・Bクラス」の学生が、席に着くなり、「先生、怖いです。受けた学生がみんな落ちたそうです。『N2』に合格していた人もいたのに。私は本当に怖い」。聞くと、友達が5人、皆落ちたという。へっ?それほどレベルの高い専門学校ではなし、どうして?「N2」合格者を落とすほどの余裕はあるのかしらん。学生曰く「おかしい。もういっぱいで、募集する必要もないのに、(受験料がほしいから)募集してるんじゃないかしらん」…そこまで性悪じゃないでしょう。
で、心を落ち着かせるために、授業の前に、ちょっとばかり、面接の練習をしてやりました。
「A・Bクラス」では、読解力の無さが解釈を妨げているというよりも、知識の無さ、見聞が不足しているが故に、読みこなせないという段階に来ています。それで、本来ならば、いろいろなものを見せ、さりげなく見聞を広めさせ(なにせ、知らなければ自分の意見なんぞ出てきませんから)、そういう文章が出てきた場合に、「ああ、あれか」くらいの見聞はもたせたい…のです。
これは教えていく過程で感じられることなのですが、「タイ」や「フィリピン」などから来た大卒者には全くといっていいほど、必要ないことなのです。せいぜい、目立った科学面の進歩か、日本文化の情報くらい、必要なのは。ですから、基本的に読み取るときに必要というわけではないのです。
中国にいたときにも、七十代や八十代の老教授には感じられないのに、若者や中年の人達からは、どうも「同じじゃない。何か入っていかない」という、それがどこがとか、どの部分がと聞かれれば、答えに窮するところなのですが、感受性に近い部分のような気がする。それと好奇心かなあ。
思想に凝り固まった教育を受けてきたり、宗教に則った信条を頑なに守っていたりすると、どうも…困った感が拭えない。日本なんぞに来ずに、生まれ育ったところにいたら、お互いにこんなことにはならないだろうにと恨めしく思ったりする。
相手の考えが受け入れられないというか、なぜこう話されているのかが理解できない。だから、聞いた振りで終わってしまう。そんなのはこちらにもバレバレですから、ちょっとばかり不愉快になってしまう。檻の中で育てられ、「上の誰かが何か言えば」、みんな「万歳」で過ごしてきた人達…という気さえする。…日本人の感覚から言えば、今時…なのですが。
といって、別に悪い人達というわけではないのです。深いところでではなく、本当に浅い部分で(こちらの意図するところ、言わねばならないと思って言うところが)入らない…。「タイ」や「フィリピン」等から来ている大卒者には、あまり感じられない感覚です。
本当に罪作りですね。違うと思ったり、見たことのないもの(いわゆるヤバいことなのでしょうが、彼らの感覚からすると)には「興味を示さない」という習慣ができているみたい。
以前、寿司作りをしていたり、バス旅行の途中などで、ベトナムや中国の学生が「さあ、○○人達」なんて馬鹿げた呼びかけをしていて、あっけにとられたことがありましたが、こういう外国人が融和的に集まっている、また集まろうとしている場面でも、子供の時からの習慣が出てくるのでしょう。日本人がそれやったら、(日本人の)冷たい視線を浴びるのが関の山ですのに。
ただ単語を覚えて、文法がわかってで、終わるだけだったら、楽なのですけれどもね。読解などを教えるときは、もう「説明」主体になってしまいます。そして時々映像を見せて、「こんなのがあるよ」。本当に罪作りの国、教育。日本だって大したものではないけれども、彼らを見ていると、日本に感謝したくなる。よくぞ自由に感じ、考え、好奇心を持って物事を見られるように育ててくれたと。
日々是好日