日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

文法の「並べ替え」問題。「知っている」とか「知らない」とか言う前に、「耳に慣れているかいないか」ということも関係している…ような気がする。

2024-06-27 08:16:17 | 日本語学校

曇り。

いつの間にか「夏至」は過ぎていました。毎日があっという間に過ぎていきます。

褪せて茶色になった「アジサイ」を見るのは、もの悲しいものですが、夏の花、「グラジオラス」がもう満開になっています。「タチアオイ」もいつの間にか、花を咲かせ、あちこちで見られるようになりました。とはいえ、「ジギタリス」の花は見かけませんね。このあたりでは人気がないのかしらん。この花は、「狐の手袋」という名で覚えていたのですが、立派な偉そうな名前もあったのですね。

以前、よく友人達と、近郊の低山や里山に行っていたのですが、その時、畑でよく見かけたのがこの花です。そのほかにも、野菜の花がこんなに美しいのかと驚いたことがありました。なるほど、それ故に、生け花でも使われているのですね。もちろん、生け花向きの花はあるのでしょうが、花器によっては、野草の方が映えると言うこともあるのでしょう。

林の中を歩いていると、いつの間にか、木々の清々しい香りに満たされている空間に迷い込んだり、一面の「イチリンソウ」の中に立っていたりして立ち尽くすということがありました。もうそういうことは無理でしょうけれども、記憶にあるだけでもめっけもの…か。

さて、学校です。

昨日「Bクラス」の授業で、かなりレベルを下げてやってみたのですが、やってみると、皆それなりに参加できたので、「できなかったら下げろ」というのは事実であると、改めて実感。楽しければやるのです。判らなければ、それはもちろん辛いだけ、楽しいはずがない。その中でも、判ろうと努力し、そして判るようになれる人は、やはりすごい…。ただ、この学校にいる間では、実を結べないかも(今年の一月に来ていれば)…。

(独り言)…文法の「暗記文」は毎日のように読み合わせをしている(今は二ページずつですが)し、その文の横には意味も書かせてある。漢字だって、漢字一覧の横には意味を書くように言ってある(授業中にその時間を設け、最初は20分くらいを2,3回。そのやり方を説明してやると、やる人はうちでもやってくるし、書けなくとも読めるようになっている)。…でも、やらない人はやらない、覚えようとしない人は覚えない。

もっとも、彼らの気持ちも判るのです。なぜ日本に来たか。…「車の勉強をしたかったから」とか、「『ホテル』の勉強をしたかったから」。…ところが、その前に「日本語」の壁が立ちはだかっていた…。

日本語に限らず、言葉を学ぶには、その言語に対するセンスというか、ある種の能力も必要ですし、国で読書の習慣があるとか、外国語が初めてではない(外国語をある程度勉強したことがあるというのは強みです)とかいうのも、関係してくるでしょうね。

ところが、紙の書物がもともとそれほど潤沢にない国だってあるし、ネパールのように教科書は英語で書かれており、それを教師がネパール語で説明するというような国では、教科書ですら、読んだ経験がないという人だって出てくる(英語を勉強したと言っても、教科書が読めるほどの英語力を皆持っているかというと、それはかなり怪しいのです)。

そういう学生が来日して、「(日本語の)文章」を読まされ、文意を問われたり、指示語や主語を聞かれたりする。…最初はストレスでしょうね。「文法も覚えた、単語も覚えた…それだけじゃいけないの…????」が本音でしょう。

以前、スーダンの学生(在日生)が、「スーダンではそんなこと聞かれたことがなかった、何でも覚えれば良かった。(日本人の)先生が訊いていることが、判らない。全然わからない」と訴えてきたことがありました。彼女のように訴えることができなくても、おそらく気持ちとしては似たようなものなのでしょうね。(…まあ、彼女も無事に大学に合格し、今では学生生活を楽しんでいるようですが)。

とはいえ、日本では読んでもらわなければ、何もできません。覚えて終わりではありません。もちろん、覚えなければならないものもありますが、それは「読む」ため、「読める」ようになるためなのです。

もっとも、「日本語」の試験に合格できなくても、志望する専門を学ぶためなら、必要な言葉も覚えられるでしょうし、漢字だって読めるようになるでしょう。大部分はそういう「好きなことなら頑張れる」人達なのです。ただ、その前提の、そのために「日本語」の勉強を頑張るという部分が、スッポリと抜けているだけなのです。

学校としては寂しい限りなのですが、志望する学科なり専門なりを学び、好きなことをするためくらいの日本語ができていれば、進学してからどうにかなるもののようです。この学校にいるときには、鳴かず飛ばずであっても、専門学校で専門を学び、就職し、中堅どころとなって会社に重宝されているというような人も少なくないのです。家を買ったという人も何人もいます。

もちろん、この学校にいる間は、専門学校へ行っても、大学へ行っても、会社に入っても、困らないように、できるだけ日本語の力を伸ばすべく、努力は惜しまないつもりですが。

日々是好日
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「7月生」が少しずつ入ってきています。

2024-06-24 08:01:59 | 日本語学校

曇り。

気温はあまり高くはないものの、ムシムシジトジトしています。今朝「アジサイ」の花に覆い被さるように「オシロイバナ」の葉が茂っているのを見かけました。花数はそう多くはありませんでしたが、「梅雨時」特有の「ドクダミ」も花の姿が見かけられなくなりました。「梅雨」本番がやっと来たというのに、「梅雨時」の草花は足早に過ぎ去っていこうとしています。

さて、学校です。

先週、「七月生」四人がやってきました。スリランカの学生です。早速名前を書いてみるように言ったところ、最初の二字か三字ほどで、止まってしまい、互いに顔を見合わせるばかり。「N5」に合格してきたのかと改めて問うてみますと、付き添いの人が「合格している」と言います。

おそらく試験の「ためにする勉強」で終わっているのでしょう。留学生として来ていても、「ひらがな」、「カタカナ」、「数」などをきっちりと覚えてから来てる(来日)人は、案外に少なく、いくら「N5」「N4」に合格しているといっても、だいたいが「ための勉強」にすぎませんから、もう一度、端っからやり直さねばならないものなのです。つまり、それを頭に置いてから指導していかねばならないということなのです。

その上、なまじ、少々かじっているだけに、いざ、日本で始めて見ると、「それ、知っている」で、きちんとやらなくなるような人も出てくる。「読めない」のに、「知っている」はないだろうと思うのですが、「インド圏」ではだいたいが「耳の文化」ですから、「文字の大切さ」を知らしめることに、まず、手を焼いてしまう…。

もっとも、来日以前に、日本語を学ぶ上では「文字が大切である」ということが判っている人もいますし、来日してからそれができるようになる人とは、こちらが口を酸っぱくしたからわかったというのではなく、「書きなさい」「覚えなさい」と(学校で)言われるままに、素直にやっているうちに、自然に身についたというもののようなのです。

「言われるがまま」にやるというのが、違う文化圏に来たときには、如何に大切であるか。「文字」を習い、「文法」を習い、「単語」を身につけていくうちに、自然と日本の流儀を覚えていく。それができなければ、今現在も、何人かいる、「判った気」「できている気」になっている人達と五十歩百歩ということになるのでしょう。

「七月生」のクラスは7月の第二週から始まりますから、それからでしょうね。一応、「学校が始まってから、最初のうちは予習はするな」「復習に重きを置け」と言っておいたのですが、向こうで学んできた文字ともとれぬ文字を復習して、「ひらがな」の授業に臨まれてはたまりません。

(日本語を)やってきたという人達には、最初に名前を書かせて、その文字の様子を見てから、こちらも教え方、注意の仕方を考えるというのが普通なのですが、それができないようであれば、「まずは黙って学校(日本で)の勉強に臨み」、「学んだことを幾度も書き直し、形を整えていく」、それしかありません。

とはいいながら、半年経っても、一年経っても変えられない人もいます。そういう人達が、変えなきゃという気もちになるのは、専門学校を受験するための願書書きの時。「その時になってやっと」と、だいたい相場は決まっています。それまで、幾度こちらが書き直させ、練習させようとも(宿題がありますから)、同じですね。授業の時に、時間を取って書き直させなければやろうとはしません。おそらくそういう習慣もなかったのでしょう。

とはいえ、時間が限られています(長くて二年)から、毎日それができるかというと、そいうわけでもないのです。もとより、皆が皆、そういうレベルであれば、できるのでしょうが、半分ほどはきっちりやっている(人達な)ので、そうそうそれもできない。もちろん、最初のうちは、手をかけますが、これはかけるだけ無駄だと思われたら、そこは、スッパリと切って、意欲のある人達の方に時間を割くべきでしょう。そうでない人達は、低空飛行のまま、もう一度やり直すか、そのクラスでやれることをやるかにして(日本にいるので、アルバイトなどを通して、じきに「聞く・話す」はできるようになるものですから)、卒業となるのでしょうね。

尤も、かといって彼らがどうしょうもない人達かというと、そういうわけではないのです。仕事はきっちりできるし、親切で人の手伝いを買って出てくれる人も多いのです。

ただ、こういう「書いて」「覚えて」「読んで」という勉強に向いていないというか、それが苦手なだけなのです。

もっとも、そういう人達が大部分を占めるクラスだと、毎回、「N4」「N5」の漢字の読みに重点を置き、それだけは大丈夫なようにさせるとか、「N4」から「N3」にかけても文法を使った文を作らせてできるようにさせるとか、別な方法もあることはあるのですが、ただ『みんなの日本語(Ⅰ)』から『(Ⅱ)』の初めにかけては、それは無理ですね。本当に「基本」は大切なのです。

日々是好日
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「苦手な形式の問題は、やらずに次へ進め」と言っても、一つ一つやっていかないと落ち着かないという人もいるのですよね。真面目さが徒となる…。

2024-06-21 08:17:20 | 日本語学校
曇り。

何となく「梅雨」が始まったかのような雰囲気。今日から、もしかして、「梅雨入り」かな。昨日も暑くなるとの予報だったのに、帰りには風がかなり強くなり、涼しささえ感じられた…。

「季節の変わり目は予測がしにくい」とは聞いていたものの、昨今のお天気は予測不能といった感さえあります。まあ、しょうがないかと明治時代のギャグ(「フグ」を食べた人が「フグ」にあたらないようにと、『天気予報、天気予報』と言った)を思い出したりしています。まあ、これも本当かどうか判りませんが。

「ひまわり」や「アメダス」のおかげで、予報がかなり正確になり、しかもピンポイントで予報できるようになったということから、予報にしたがった生活をするようになっていたので、それだけに、最近の「外れ度」が、不満を感じるべきではないと思いながらも、ええ!またぁなどと思ってしまいます。

まあ、「お天気様」のことですから、人間風情がとやかく言うことでなし、また言えることでもなし、「ああ、そうですか。できるだけお手柔らかにお願いします」と呟くのみ。またそういうのが、一番理に適っているのでしょう。

さて、学校です。

昨日、「二年生クラス(昨年の四月、七月、十月、今年の一月に入ってきた人達です)」で、「N2」「N3」「N4」の模試をしました。

一人、「読解」があまりに悪すぎるので、答案をもう一度注意して見たところ、「文法」でかなり点を取っていた。あれ、文法が判らないと言っていたのに…。これも「初級」からすぐに「Aクラス」に入れた頃のことで、あれから三ヶ月あまり、あれ以来、覚えるべきは覚えてきたのでしょう…ただ、「覚える」では済まないこともある。それがこの点に表れてきたのかもしれません。これも過渡期ですかね。

「単語」…覚えているのは書ける。「文法」…考えればこたえられる。でも、「文章」は、その文意がなかなか掴めない…。これは、「日本語」の勉強とは他の次元での話。これは時間がかかります。少しずつ、問題文を通して、背景などの説明を加えているのですが、それでも、多分判っていないだろうなと思われるのものも、少なくはない…。

とはいえ、「読む」のを諦めてもらっても困る。…判らないから、苦手だなと思ってもらっても困る。…「単語」や、「文法」はコツコツ覚えていきさえすれば、だんだんに点がとれるようになってきます、比較的短時間で。覚えればいいだけのことなのですから。真面目に学校に来て、授業を聞いて、宿題をして…を繰り返していれば、まあ、だいたいはうまくいくでしょう。ところが、「読解」はそうはいかない。

「読解」が苦手な人にはいくつか理由があるのでしょうが、この学生の場合は、おそらく「不器用」、要領の悪さが徒となっているのです。一つ一つ、問題文を順に見ていき、考え、答えを出していく…というやり方しかできない。いくら時間配分を教えても、一つ一つ前からやっていく。つまり、テストの最初にある「文法」問題から離れられない。難しいのは捨てろができないのです。憂~んと考えているうちに、どんどん時間は経っていき、「読解」文に入れない。多分、文法問題で苦しむ方が、「読解問題」で苦しむよりも楽なのでしょう。

もちろん、本番でなく、練習であれば、こういう「読解」問題の文章を、まず読みなれることが必要…だと、こちらは思っているのですが、人によっては、その内容が「重きに過ぎる」ということで、どこかに詰まって、うまく流れなくなっている。

「これも過渡期。こちらが焦ってはいけない。待たねばならぬ事もある…」とは思うものの、本番(試験)は二週間ほどでやってくる。

「年末にどうにかなればいい」くらいに思って、「Aクラス」に上げたのではないかと、繰り返し、自分で自分に言い聞かせてはいるものの、どうしても、結果が気になってしまう。

「小利口に立ち回れないのですよね。一つずつやっていってしまうのですよね。」という穏やかな気持ちから「おい、どんくさいぞ」といいたくなる気持ちまで、どうもこちらとしても心の揺れが大きすぎる。

まあ、かれ同様、真面目にやっているもう一人の女子はきちんと点がとれてきましたから、そちらを見て、心を落ち着けようとしています。やはり素直な人は伸びますね。

「苦手な『問題形式』は、やらずに捨てろ、時間を考えて先に進め」と言えば、「ああ、そうなのか」と素直に諦め、他の読めそうなものに取りかかれる。これも才能ですね。一つ一つローラーで潰していかねば落ち着かない人は、割を食ってしまう。時間が足りなくなってしまうのです。

一つの問題に取り組んでいるうちに、時間だけが無情に過ぎていく。一つに、5分も10分もかけてどうするんだと、こちらは焦るけれども、本人は何も感じていない…ように見える。そういうのは無駄だから、他をやれと言っても、…できない。怪訝そうな顔で私を見つめる。鬼の面かしらね、私。

思わず、「やらなくていいと言っただろう」と、答案用紙に文句を言ってしまう。判るけどね、真面目にやったことは認めるけれどもね…。

来週は「試験」はお休みで、再来週にもう一度、3回目の模試を行います。一つの問題ににへばりついて、一点取る(取れないことの方が多い)よりも、三つか四つの問題に取りかかって二点か三点、取ってほしいのだけれどもなあ…。…無理かなああ。

日々是好日 
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こういう気候は…、留学生達のみならず、この土地で生まれ育った私たちでも、しんどい…。

2024-06-20 08:12:11 | 日本語学校

晴れ。

暑さにまだ体が慣れていないせいか、疲れが溜まり気味です。こういう気候に慣れていない留学生達は、さぞかし大変でしょうね。以前なら、「ここは、こんなふう」と、土地の古老が語ってくれたでしょうが、今は、その土地の人達ですら、「なんてこった」の気候なのですから、どうしようもない。研究者に尋ねるしかないのでしょうが、その研究者達ですら、おそらくは、だいたいのことしか判らない。また思いも寄らぬようなことが起きる可能性だってある。

ダラダラと移ろいゆく気候であったから、日本人も、ゆっくりと体を慣らすこともできていたのに、今はそれも無理。長寿大国と言われていたのも、ダラダラの中にいられたから。これからはそうもいかないでしょうね。

病気になる前に、休むのが「正解」。無理をしないのが「正解」。いずれ、日本人も頑張りが効かなくなってしまうでしょう…もう、そうなっているかな。ノンベンダラリと生きるというのが、正しい生き方なんだなんて言われるようになるかもしれません。

人は、生まれ育った土地に順応しながら生きてきたわけで、私なんぞも、「30度????ガーン」の時代から、もはや「三十度??楽勝じゃん」の世界に投げ込まれ、どうにもこうにもならなくなっています。

子供の頃など、打ち水で、涼しさを感じられたものでしたが、今は多分、それこそ焼け石に水。…この言葉も死語になるでしょうね。

さて、学校です。

一昨日はうまくいった「読解」の授業でしたが、昨日はまた「あ~あ」となってしまいました。「読解問題」として出されてくる文章は、本当に難物。かなり背景を説明をしなければ、なぜそんなことを文章にしているのかが、まず、判らない。説明しても、「それが、どうして?なんなんだ?」となる。問題意識を持ったことがないことには、人はどうもイメージすら抱けないようで、ちんぷんかんという表情で私を見ている。下手をすると、ちょっと(二,三行)文章を見ただけで、諦めるというか、匙を投げてしまっている。何が何だ???

「問い」自体はわかりやすいし(しかも、四択のうち、二択は明らかに違うのです)、「これだよ、これだよ」と言ってくれんばかりなのですが、読んでも、「何を言っているのかがわからん」という人にとっては、「問い」が簡単であろうがあるまいが、全く関係なし。

それが、時事問題のみならず、人の人との関係を扱っているモノであってもそう。また、そういう人間の機微に触れたモノなぞ「読んだことがない。感じたことがない、考えたことがない」であれば、一体全体、なんなのだというのも、当然なのでしょう。おそらく「そんなことを感じたり、考えたりする」変な文章で、一括りできるであろう内容を、ながながと読まなくてはならないわけですから、それは嫌気が差してくるのもわかる。となると、ちょっと見ただけで、「わからん…(だから)、見るだけ無駄」と思ってしまうのでしょうね。

だいたい、そんな文章を読まされ、考えさせられるなんて、とんでもない…。とはいえ、留学生達の在留期間は決まっています。そうでなければ、彼らが好む筋のものを聞かせたり、それから読ませたりして、日本語の上達を図っていくこともできるのでしょうが、いかんせん、時間に限りがある。楽しく勉強というのは、無理な話。能力試験の結果に、専門学校や大学の合否がかかっている。

しかしながら、「判らないことは判らない」というのも、…わかる。絵を描いて、図を書いてといった説明も、それがなかなかできないものもある。

昨日は、三つとも、そういう文章でした。「漢字」を練習しなさいと言えば、素直に練習してくれるし、「覚えなさい」と言えば、素直に努力してくれる人達なのですが、読んで考えるという作業が、どうも「苦手」…だという人が多い。そういうクラスで、この手の「読解」の授業を、どうやってやっていったらいいのか、そして、まずはその入り口ですね。それを、どうやってこじ開けたらいいのか…わからないという時も少なくはないのです。

日々是好日

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「ヘナ」で描かれた模様。これは自分で一時間かけて描いたと言う。結婚式の時は十時間以上かけて描いてもらう…らしい。

2024-06-19 09:38:41 | 日本語学校

晴れ、

昨日の本格的な雨のおかげでしょう。清々しい朝を迎えています。陽が高くなると、おそらく耐えきれないほどの暑さになるのしょうが、今はまだ大丈夫。爽やかさを満喫しています。葉末のしずくに陽が当たり、煌めいて…久しぶり。

予報では、今日と明日は晴れで、それからはぐずつきがちなお天気が続くとか。いよいよ「梅雨入り」になるのでしょうか。今日入ったって、随分遅いことになるのに、こうも遅いと、まるで「入った、降った、終わった」みたいになって、下手をすると、夏には水不足になるかもしれませんし、反対に、降ったら降ったで、短い分、まとまって降って集中豪雨になったり、線状降水帯が居座って、大ごとになるかもしれません。

穏やかな日本の四季はどこへ行ってしまったのでしょうね。あと10年か20年もすれば、今よく知られている「風物詩」なんて物の一つ一つが死語になっているかもしれません。

さて、学校です。

一昨日、イスラムの「犠牲祭」で遅刻してきた学生。昨日よくよく見ると手に何やら模様が描かれてある。左手首から指先まで、かなり凝った模様が描かれている。それは何ですかと訊くと、「ヘナ」だという。なんでも描くのに、小一時間はかかったそうな…。それは左手だけ。右手は掌の中心を(甲も平もですが)、丸く染め、あとは指先を染めている。隣のスーダン人学生が「私もする」と言ったので「イスラムだけ?」訊くと「いや、インドもパキスタン、バングラデシュもする」。

すると、ネパール女子学生が「自分たちもする」。一人が振る向いて、「私たちの所はしない」。…そうもしないところもあるようですね。話の輪の中に入りたかったのか、バングラデシュの男子学生が「はい、私もします」と言ったものだから、さあ、大変。一斉に矢が飛んできた。「男子はしない」。打たれましたね。どうも、こういうのは、茶々を入れてはいけないことのようで、受けるかと思って言った男子、小さくなって下を向いてしまった。これじゃ立ち直るのに時間がかかるかな。…じき、立ち直りましたけれども、今、言っていいのかどうなのか、言いたそうな様子は見せるけれども、模様見のようす。あれはまずったと思ったのでしょう。ちとこたえたかな。

スーダンからの女子も、「私たちもところでもある」と言って、スマホの写真を見せてくれました。そこに写っている彼女は手だけでなく足首にも模様が描かれていた。「決まった模様ですか」と訊くと、自分で自由に描くのだという。なぜか女子軍、時間がかかるねえ。でも楽しいねえと話が盛り上がっている。

その輪には入れないのは、タイ人二人と日本人の私だけ。

こういう近い国でも、同じ宗教でも、互いのことがよくわかっていないということがよくあるようで、英語やら日本語やら、ヒンディー語やら、ネパール語やらで話している。そっちもそうなのか。自分たちの所ではこうだなんて話していたのでしょうね。時々邪魔にならないように、控えめにバングラデシュの男子が口を挟んでいる。

以前、ネパール人中学生が、半年ほどでしたか、日本語を習いに来ていたことがありました。その時、ちょうどバングラデシュの留学生もいて、互いのことを本当に知らないのだなとちょっと驚いたことがありました。

まあ、彼が幼かったからかもしれませんが、自分の国は、他国とは違う特殊な国で、何でもかんでも他者の追随を許さない、特別な国だという誇りというか、そんなモノが言葉の端々に感じられて、これはまずいぞと思ったことがあったのです。人が自国に誇りを持つというのは当然のこと。皆が、それをもつべきではありますが、それには軽重がないということも同時に知っておかねばなりません。自分の所だけが優れているなんて、それは世間知らずの物言いでしかない。どこの国のものが優れていて、どこのものが劣っているなんてことは、だいたいあり得ない。それ自体「生存の証」でありますから。

そんなことを匂わせれば、特に子供は敏感ですから、それだけで反感を持たれかねないし、馬鹿にされてしまうかもしれません。世界中には、それこそ、多種多様な民族、宗教があって、それぞれが独自のモノをもっていて、どれが優れているとか、どれが一番だなんて思うこと自体が、すでに時代遅れで、野暮天ということになってしまいます。

そんな彼が、一番先に彼がショックを受けたのは、ネパールの各月(暦)の名のことでした。ちょうどバングラデシュの学生がいて、彼と(バングラデシュの)各月の名の所を見ていたのですが、そこを見て、「ええ!」と驚いたネパールの少年。彼は、こんな名前にすぎぬことも、自分たちの国だけで、だから他の国にはない、すごいことの一つだと思っていたらしいのです。

「インド文化圏の一つだからね」が通じないのです(インドも同じかどうかは判りませんが。どちらにせよ、インドは広い。地域によって違うかもしれません)。自分たちが発祥の地であって、他はそれをまねしているに過ぎぬとでも思っている…ようにとれた。そういう教育を受けてきたのでしょうね。気の毒なことに。

だから、「バングラデシュもそう言うのか」と愕然とし、「ああ、やっぱり同じだね」とニコニコするとはならないのです。日本人は、かつて中国文化が日本文化に与えた影響が大きいということは、皆、知っている事実ですから、おそらくインドとネパールの関係もそうであろうと考え、やっぱりねとなるのですが、彼はそうならない。

このネパール人中学生、じっと考え込んでいました。こういうことが一つ二つどころではなく、母国で「自分の国はすごいんだ」と、そういう教育を受けてきたら、外国では大変だなとかわいそうになってきたのですが、それでもことある毎に、そういうのが出てくるのです。アメリカなんぞが相手だったらそうはならないのでしょうが、たかだか日本のような小国が相手ですから、こうなってしまうのでしょう。

せっかく外国に来ていて、見聞を広められるというのに、小さな排他的な雰囲気の中で固まっていたら、それだけで、見知らぬ人達は人は遠ざかって行きます。

これも小さな山国であるからでしょうね。排他的になるのも、他国が見えないというのも。影響を受けるのは、中国とインドくらいでしょうから。異国に来たら、自分たちはすごいと自分たちだけの輪っかに入って、自己防衛するのではなく、気持ちを広げることが大切でしょうね。そうすれば、友達も寄ってくるでしょう。ゆがんだ自尊心から他者を遠ざけてしまえば、損をするのは結局は自分ということになってしまいます。

もっとも、今ここで学んでいるネパール人学生はそういう傾向はあまり見受けられません。留学するくらいですから、最初から多少は外国に対する知識はあったでしょうし、高校卒ということは大半が二十歳前後ということもあって、大人だからでしょうね。

まあ、よけいなことを思い出してしまいましたが、昨日は皆でいろいろなことをいくつかの言語で話し、お互いに、本の勉強以外で楽しい時をいささか過ごせたような気がします。

日々是好日

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クラスを移っても、すぐにみんな仲良くなる。小さい学校のメリットですね。

2024-06-18 07:25:10 | 日本語学校
雨。

さっきまで、少々強く降っていたのですが、今はシトシト雨に変わっています。今日は一日中雨ということで、「梅雨の前触れ」か「梅雨の走り」みたいな気がしていたのですが、だれもそうは言っていない…。これは「梅雨」とは無関係の雨、なのでしょう。

かなり以前に、「梅雨前線」がとか、「梅雨の走り」などという言葉を聞いていたような気がするのですが、それも泡のように消えてしまい、今、よく耳にするのは、「梅雨の入り」が遅くなっているということと、「梅雨入り」が遅い時は「梅雨明け」が速くなる傾向があるということ。もしかしたら、今年も、酷暑が梅雨が明けると同時に始まるかもしれません。慣れない学生たちは大変ですね・

さて、「Aクラス」です。

学校の規模が大きければ、レベルに応じて、クラスを作ることができますから、楽と言えば楽。クラスの数が多ければ、それだけ学生のレベルに合わせることができるというもの。ただ長所あれば、短所も出てくるというもので、不都合な面もある。つまり、こちらに全体が見えなくなるのです。大まかな違いしかわからない。今のレベルしか見えないので、一ヶ月後にはこうなりそうだとか、半年後にはこうなるだろうと言った予測がつきにくくなるのです。それゆえ、それに応じた対応ができなくなりがち。

この 「Aクラス」。「四月生」が普通のレベルであれば、おそらく「七月生」と一緒にしてもそれほど問題は無かったかもしれない。ところが、半年で「N3」に合格できるような学生が二人いた。ただ人数が少ないので、「七月生」の中から、比較的真面目、あるいはヒアリングがある程度ある人も入れてやらねば、学校として経営が成り立たない。ということで、「七月生」の中から三人入れたけれども、「おそらく三ヶ月ほどで、普通の四月生並にはなれるだろう、ただ最初の三ヶ月ほどは、かなり頑張らねばなるまい」と思われたのは一人だけだった。

彼女も入れる前の「N4」の模擬試験では大した点は取れていなかった。それを昨年の12月に余裕で「N3」に合格した2人と一緒にするのですから、最初は戸惑ったでしょうね。ごく普通の神経の持ち主でしたから。中にはそれほどできていないのに、自信過剰としか見えない人もいるのです。そういう人はまず努力しませんから、私としては、こういう勉強するクラスに入れたくはない。いくら試験に合格できても、学校とは関係の無いところで、学んでいる(アルバイトなど)に過ぎぬので、上のクラスに入れてもそれほどの効果があるとは思えない。今のところでゆっくりやった方がいい。

こちらとしても勉強に向かう姿勢や資質などを考え、その人たちに向いたやり方を考えていかねばなりませんから、大雑把に「N3」組にはこう。「N2」組にはこうと決めていても、一人一人の対応も考えておかねばならない。三ヶ月ほどが過ぎた今はこちらの求めるような状態になっていてくれますから、多分、休み明けには問題なくなるでしょう。

一方、残りの2人は、スリランカ人で、この国から来ている学生は、ヒアリングには問題がないけれども、「漢字」をやらないという傾向が濃厚で、この二人もそうです。だいたい「N2」レベルに入りがけという学生であっても、ヒアリングテストだけなら、「N1」に合格できるのです。こういう人たちに対しては、漢字を読めるようにすべく、別の時間を与えておかねばならない。ヒアリングのいい人たちにとって、日本で暮らすメリットは他の国の人たちに比べてもかなり大きいものなのです。

ヒアリングが悪いと、周りにいくら日本人がいても、聞き取れませんから、生活の中から拾える音や単語が限られてきます。学校で習って、復習していたとしても、単語の量は毎日増えていきますから、それを聞く機会や使う機会がなければ、自然消滅していきます。同じ言葉の意味を何度も「質問」しなければならなくなったりもするのです。

今年は「十月生」の中から、二人このクラスに入れてました。一人は中国人ですから、「漢字」に問題は無い。ただ「読み」には苦労しているようですが、努力できる人ですので、読ませていくうちにどうにかなるでしょう。中国人にしてはヒアリングはいいのですが、読解力に少々難あり。とはいえ、「N4」レベルが終わったら、すぐに「N3」と「N2」を一緒に学ぶことになってしまったのですから、「大変だああ」と叫びたくなる気持ちもわかります。

そして、同じく「初級」が終わると同時に(「七月生クラス」は復習する時間があったけれども、彼らの場合、それ無しで)、「Aクラス」に来てしまったネパール人男子。彼が一番大変だったようです。今は教室で私の説明もだいたいは聞き取れるようになり、質問もできるようになっていますが、最初の数週間は、「どうして『Cクラス』にいた時と(先生は)違う。(先生の言葉が)全然わからない」と叫んでいました。もとより「初級クラス」と「N3」や「N2」クラスで同じような話し方をするはずもないし、同じような言葉を使うはずもない。慣れろでしたね。

彼の場合は、夏休み明けにはというのはちときついでしょう。年末かその一ヶ月前くらいを見ています。

面白いもので、とんでもない「ひらがな」を書いているのも同じ、本当に「N5」に合格して来たの?と思わせるのも同じであるようなネパール人であっても、彼と同じ所から来ている学生は、勉強に対しての態度には好感が持てます。真剣なのです。だから、こちらとしても、一歩でも前に進めてやりたくなるし、多くを学ばせたくなる。

昨年から来るようになった所なのですが、言語などに関する資質はどうしようもないのですが、真摯な態度は同じ。今年来た一人もそう。素直で真摯な部分は変わらない。ネパールでもかなりの田舎と思われ、試験にせよ、何にせよ、少し形が変わると、固まってしまう。どう反応していいのか、どう対応していいのか、全くわからなくなるのも同じ、こういうのに慣れていないのです。

「模擬試験を始めますね」と言った時、「いつか、いつか」と聞くのです。あまり前から言わないものなので、「まあ、来週からかな」と言っていたのですが、あとで、どうも午前の授業が終わった後に残らねばならないと思ったらしい。だからアルバイト先に休みをもらうべく行動せねばならぬと思ったらしい。

検索問題などは、どこをどう見ていいかわからない。つまりどうしていいかわからなくて、固まってしまう。要領よく、さっとやることができない。少しでも試験問題の形が変わるわからなくなってしまう。並べ替え問題もそう。「どうしていいかわかりませんでした」となってしまう。

尤も、やり方さえ、わかれば、「知識が一つ増えた、よかったね」で終われますから、楽なもの。彼などを見ていると、それほど真面目に勉強していない日本人でも、知らず知らずのうちにいろいろな体験をさせられており、このときはこう解けばいいのだなというのがわかっているというのがよくわかります。

彼のような人にとっては、ほんのわずかな一つ一つが知識になり、世界を広げて行っているのだと言うのがわよくわかります。そういう点からも、国を離れて正解であったと思います。

日々是好日
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それでも、日本は「いい国?」

2024-06-17 08:32:05 | 日本語学校

晴れ。

「梅雨」前は、「大気が不安定」になるというのは、よくわかるのですが、それにしても、ちょっと予測がつかない。今朝も上天気なのに、夜には雨が降りだし、明日の朝は土砂降りになっているかもしれない、と思っていると、豈図らんや、お天気だったり…。お空を仰いでも、無視されているので、何にもわかりません。

昔は、せいぜい、「夕立」がザアッと来るか、「天気雨」がパラリと降るくらいだったのですが、今は、規模も大きく、時間も長くなっているようです。これでは、もう「狐の嫁入り」なんて喜んでいられませんね、立派な災害です。

こうなってくると、経験が何の役にも立たない…。今に「亀の甲より年の功」なんてのが死語になってしまうかも。だいたい、「亀の甲」なんてのが、わからないという人だって少なくないのですから。「年の功」なんて言っている向きも、自嘲気味だったり、あるいは、だれも元気づけてくれないから、自分で自分を元気づけているくらいだったり…。時代と共に、慣用的に使われていた言葉も変化していくようです。

私たちの世代は、「サバイバル生活」なんてのもしたことがないし、昨今の「情報化社会」にもついていけていないし、いわゆる「置いてけぼりを食っている」世代ですから、「取り柄は?」と訊かれた場合、「何もない」としか答えようがありません。

昔の人は「ひまわり」や「アメダス」を使わなくとも、明日の天気くらいは予測できた…、それだけの経験知があった…、しかるに、その狭間にある我々は、それもない。半科学的(今日から思えば)社会で、適当に便利なもの(洗濯機や自動車、冷蔵庫、電話、テレビなどが普及していただけなのですが)を使い、「現代生活」だなぞと、ほざいていた。「科学的」なんて言葉は、今を思えば、使えません。昔の洗濯機なんて、水気を切るのは手動でしたからね。それでも、一つ一つ洗濯しなくて済んだ分、親は助かっていた。

もちろん、文句を言えば切りがない。他の国に比べれば、今の日本人は、まずまずの暮らしができている…ように思われる。これからは判りませんが。今までと同じような人達が同じようなことをしていこうとすれば、そりゃあ、日本は袋小路に入ってしまうでしょうね。それくらいなら、私らでもわかる。で、どうするか。全く新しい知見をもっている人に委ねたいが、一体全体、そんな人は、どこにいるのだろう。

人間も国も会社も行き詰まると、どこからか新しい息吹が生まれ、社会は変革されていく…ものだと思っていたのですが、どうもそうではないようですね、にっちもさっちも行かないところまで、つまりどん底まで行かないことには、どうにもならないのかもしれません。

幕末の頃の政治家なんて、皆、若かったし、「しがらみ」も多くなかった…いや、今よりも強く「しがらみ」に縛られていたでしょうね。ただ、それが強ければ強いほど、それを打ち破ろうという気持ちも強くなった。つまり、それらを打ち破るだけの気概も、志もあった。社会や国を考えていた人達には、それらに足すところの責任もあったのでしょう。親や祖父母と同じことをやっていては、取り残されていくだけですから。

とは言っても、「欧米に、追いつき、追い越せ」の、「追い越せ」が旨く行かず、道を外してしまった。「学び」の時期が長すぎて、「さて、これからは自分で」となったとき、自分が見えなくなってしまった。自分で自分をごまかしていたのかもしれませんね。等身大の自分とは何かが判らなくなっていた。方向転換せねばならなかったのに、人が変わらねばならなかったのに、それができず、日本は失敗した。

昭和のやり方しかできない人達では、もうどうにもできなくなっているのでしょうがね。「同じやり方をします」なんて言われても、「同じやり方で生き残れるのかよ」というのが、おそらく大多数の人の意見。甘っちょろい「浪花節」では、もう生きることすら辛くなっているから、そんな人達のことなんか、構っていられなくなっているのでしょう。税金で食わしてやれないから、自分たちで稼げよというところかな。

さて、そんなこんなの日本でも、(日本は)いいと言ってくれている留学生達の話です。

どこがいいの?

「戦争(内戦)がない」。「病院がすぐそばにある。近くでいろいろな検査がしてもらえる」。「夜遅く、女の人も歩ける」。「お菓子の種類が多いし、常に新しいお菓子が発売されている。しかも安い」。「店がどこにでもある。いつでも食べ物が買える」。「街がきれい。ゴミがない」。「田舎がきれい。田舎に住んでいる人は別荘に住んでいるみたい」。「車がいつもピカピカ」。「お金持ちでなくとも、車が買える」。「トイレがきれい」。「鉢植えの花を外に出していても、誰も持っていかない」。「優しい人が多い」。

中には「そうかなぁ」と首を捻ってしまうようなこともあるのですが、「嫌なところ」はまず言いませんから、(嫌なところは)ちょっとわからない。たくさんあるはず。どこにいても、どんな国の人でも、人は人ですから。

今、ここで学んでいる留学生達は、長くても一年ちょっとといったところ。だからでしょう、来日直後の「アレッ?」という気持ちがまだ残っているようです。

この彼ら(四月生)が一年半くらいを過ぎた頃から、「日本語」基礎だけでなく、時事問題なども入れていくつもりなのですが、その前と後とでは、「社会」に対する見方が少しずつ変わり、面白くなってくる人が出てきます。それまでは、こちらも辛抱ですね。

日々是好日

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「四月生」もそれなりに落ち着いてきました、それなりに。

2024-06-14 08:35:01 | 日本語学校
晴れ。

青空が拡がっています。昨日も今日と同じような天気…のはずだった…のに、実際は曇り空で今にもポツンポツンと落ちて来そうな感じでした。陽が射し始めたのは、もう夕方といってもいい頃あいでしたから、裏切られたなと思う反面、「鎌倉」へ行った学生達は、少しばかり楽だったかもしれないとも思われました。

今日、「疲れた、疲れた。電車が混んで座れなかった…」と言われなければいいのですが。

「鎌倉」は、昨今のオーバーツーリズムの弊害が、京都などの観光地同様、かなり顕著で、「散策」にしても、「小町通り」は避けようとか、いろいろと考えておかねばならないようです。もっとも、「鎌倉大仏」は除けませんし、「江ノ電」も、「アジサイ寺」も避けて通れません。古いものが残っているから、皆行きたがる…とはいえ、大仏さんのところに行く、あの細い道が難所なんですよね。

学生達、無事だったかしらん。

さて、学校です。

「四月生」は、だいたい皆、アルバイトが決まったようで、これで生活が落ち着くといいですね。勉強の方も、少し焦り始めた学生達(「このままではまずい」と思えるのは、だいたい上のレベルの学生達なのですが)と、次の「七月生」が来るのを待たざるを得ない学生達との差が、かなりはっきりしてきました。

もう一度やった方がいいと思われる学生達の中にも、すぐにでも移った方がよさそうな人たちと、「テ形」が入る少し前くらいから移った方がいいであろうと思われる学生達とに分かれますし、これに「漢字」が入ってくると少し面倒になるかもしれません。が、頑張っている人達や、頑張れそうな人達は、「漢字」でも頑張れるものですから、この「四月生」に関してはそれほど心配しなくても良さそうです。

以前、この学校でも、中国人の学生ばかりという時期もありましたし、スリランカ人ばかりという時期もありました。コロナ禍の前は、ベトナム人ばかりという時期もあって、それが今はインド圏の学生が大半を占めるようになっています。

来日の目的がはっきりしているかどうか、そして「日本語」がある程度判ってから来日しているかどうかというのは、日本語の勉強を進めていく上で、とても大切なことです。

たとえ、日本でこれを勉強したいと目的をはっきり言える学生であっても、日本の文字の中には、「ひらがな」、「カタカナ」、「漢字」があり、しかも、「漢字」は50個覚えればそれで終わりというわけではないということが判っていなければ、「N5漢字」くらいでへばってしまうようですね。頑張った…で、「N4」くらい。すると、もうあとがありません。

だいたい、「書く」という習慣がないとしか思えない国から来ている人達も少なくないのです。「覚えますから」、つまり「暗記」というのでしょう。あとはメモ程度で終わりで済んでいた…という人達にとってみれば、「漢字」をいくつも覚えねばならないというのは理不尽なことでしかない。結局、途中で万歳となってしまい、「読む」という勉強が無駄なことになってしまう…、その人達にとってみれば。

「行きますか」、「来ますか」くらいだったら、どうにかなっても、「漢字」には「音読み」と「訓読み」があり、レベルが上がっていけば、「ルビ」を振ってくれている文章も少なくなるし、「ルビ」があっても、「漢字」を覚えていなければ、その「単語」も知らないものとなってしまい、結局、文章が読めないということになる。

さすがに、今では「在日」の人を除けば、「テ形」で半べそをかくような人はいなくなりました。高卒者は「N5合格」で線引きをされていますから。

とはいえ、「書く」という習慣がない人達が、日本で勉強すると言うのは、本当に大変なことです。

日々是好日
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「風邪ひきさん」が増えています。疲れからきているのかもしれませんね。それにお天気も変ですもの。

2024-06-11 08:29:35 | 日本語学校
晴れ。

陽がもう少し高くなれば、真夏のような暑さに見舞われるのでしょう。こころなしか、「アジサイ」の花もぐったりしているような…。

夏に「夕立」は当たり前の情景だったのに、今では「バァッと降って、サッと止む」夕立なんて夢のまた夢。打ち水なんてのもそうでしょうね。水を打ったあとの汗がサッとひいていくような感覚なんてのも、今では山里にでも行かねば味わえない涼感まのかもしれません。

さて、学校です。

学校では、風邪で休む学生がまた増えてきました。翌日か翌々日学校に来ても、まだ「コン、コン」と咳をしている。

熱があると聞き、慌てて、病院に連れて行けば、ただの風邪と言われる。ただの風邪と言われても、疲れが溜まってのものであれば、あまり楽観視はできません。だいたい、病院に行こうとしない人が多すぎるのです。「国から薬をもってきた。その薬を飲むから大丈夫」と言われても、「国と日本とは違うでしょう…、それに、だいたい、いつもらってきた薬だ」と言っても、最初のうちはなかなか判ってもらえない。

以前、北京で勉強していたとき、クラスメートとにチュニジアの人がいたのですが、彼らが「病気で休む」と言ったときの、「病気」というのが、日本人が考えているところの「病気」ではなかった…ような。未病とでもいいましょうか、病気になる前の「ちょいと疲れた」くらいのもの。だから、見舞いに来た人達と、ニコニコしながらお茶したり、もってきてもらったお菓子やケーキに舌鼓を打ったり、いつもなら静かな彼らの部屋が、途端に賑やかなものとなる。

見ていると彼らだけではないのです。

「昭和」というと古い話になってしまいますが、今の若い人達でも、「ちょとした」くらいでは、休んだりしないでしょう。大方は、「こいつあぁ、だめだ。もう無理だ」くらいまでは頑張ってしまう。また頑張らされてきたのが、習い常となってしまっている。

最初は違和感をもって眺めていた私も、だんだんに、こっちの方が正解かなと思うようになってきた。ただ、帰国してしまえば、元の木阿弥、すぐに戻ってしまったのですが。

学校の風邪ひきさんは、昨年度の学生の方がやはり多い。具合が悪くとも、アルバイトは休むわけにはいかない。しょっちゅう休まれては仕事先も困ってしまうから、首になるかもしれない…だろうと、彼らにしては無理をしてしまう。それなら日本人のように、病院に行ってしまえば良さそうなものを、そういう習慣がないからか、あるいは怖いからなのか…行かない。なかなか行かない。まあ、スッと行ってくれる人もいるにはいますが、行こうとしない人の方がずんと多い。

前にどうして行かないのかと、ある国の人に訊いたことがあったのですが、曰く「注射が嫌い」。そうか、病院すなわち、注射という世界なのか…。日本では風邪くらいでは注射なんぞ打ちません。そういえば、私たちが中国に行っていたときも、日本人は中国の病院の注射は信用していませんでした。今は違うでしょうが、使い回していて危ないと言われましたもの。薬も、ケバい色をした「抗生物質」の薬なんぞは飲みたくありませんでした。なんて色だろうと、その色を見るだけで不安になったくらいでした。

それよりも、彼らが、普通に飲んでいた「菊の花粉かなんぞの色合い」をした安い薬の方を私たちは重宝していました。旅行に行くときにも、持って行っていたくらいでしたから。

「その地に住んで三ヶ月も経てば、体もその地の食べ物に慣れている。薬も同じ」誰が言ったか、「その地の薬を飲んだ方がいい」なんて言われて、私もその言葉の通りにしていました。抗生物質は別ですが。

風邪なんぞが流行り始めると、いろいろなことを、ついつい考えてしまいます。風邪なんぞも、大方は疲れからきているのでしょうから。

これまでのんびりと過ごしてきた人達が、昔に比べれば緩やかになったとは言え、彼らのこれまでと比べれば、簡単には休めない地(日本)に来ている。具合が悪ければ、休み、のんびりとお茶を飲んで英気を養う。そして元気になればまた働く。そういうわけにはいきませんもの。

こんな日本に住んでいる私が言うのもなんですが、せこい国に来たものですね。やはり、この地の暮らしていくからには、やはり、早めに病院に行った方がいい…。

日々是好日
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木曜日は「鎌倉散策」。東京駅から座れるといいのだけれども…。望み薄かな。

2024-06-10 07:01:20 | 日本語学校

小雨。

雨がまだ降っている…と思っていたら、いつの間にか陽が射してきました。雨が降っていたせいか、今日は少し涼しさを感じます。昨夜はちょっと蒸したようでしたが…。しかも、蚊が入ってきて…慌てましたね。蚊は上まで上がる力が無いと思われるのに、どこかに水がたまっていたのか、それとも、風に流されてきたのか、いずれにしても、あのブ~ンという音には悩まされます。もっとも、例の、あの蚊が嫌う匂いのおかげで、どこかへ行ってしまったようでしたが、これからは毎日これが必要になるのでしょうね。

さて、学校です。

「鎌倉」という言葉が問題集に出てきました。中国の学生以外は、この漢字を知りませんから、何の反応も示さずに、そのまま問題を解いていましたが、こちらがそれを読むと、アレッと言う顔をする者が2,3人出てきた。そうですね。木曜日は「鎌倉散策」ですものね。

ただそう言いましても、スタッフのお子さんが学校で鎌倉に行って、かなり苦労したという話を聞くと、そうは喜べない。東京駅から鎌倉まで、立ちっぱなしだったそうな。小町通りもものすごい人で、「疲れた~」で帰ってきたそうです。この分でいくと、日本人は、もう日本の「名所旧跡」を避けねばならなくなるような時代が来るのかもしれません。

日本人にしか興味が持てそうにない所、あるいは日本人なら知っておかねばならないけれども、外国人には、まず、関係のなさそうな所を探して行くしかなくなるのかしらん。コロナ禍後の観光の大騒ぎで、京都は避けよう、外国人がいるところは避けようという向きもかなり出てきているようで、結局、日本人なのに、行けないという「名所旧跡」が増えてくるのかもしれません。あの喧噪なりを、一度でも経験すれば、「もうここは日本じゃねえ」という気分になるのかもしれません。

日本人であることのメリットは、日本史や古典文学などをほじくることができると言うことぐらい。これからはそういう時代になりそうです。もっとも、それでも一旦、それがいいなどと広がってしまうと、もうそこは穴場とは言えなくなり、うちでのんびりしているのが一番と言うことにもなりそうな。

最後の砦は、山か温泉くらいかな。

とはいえ、学生たちは近場で、見聞を増やしてもらわざるを得ず、本当に、困った、困った。ディズニーランドに近いにもかかわらず、いろいろな制約があった時に、もう皆で行くことができなくなって、学生たちはがっかりしていたのですが、それが日本中に広がってしまっているような…感がありますね。

鎌倉には、座っていけるといいのですけれども…。

日々是好日

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「国で勉強してきた」というのは、案外、怖い。

2024-06-07 08:34:35 | 日本語学校
今朝、小学校の方から聞き慣れない鳥の声が聞こえて来ました。まるで、「スィーチョンの「スィー」を切ったような、それを太くしたような、そんな声。新顔ですね。直に止んだので、どこかへ飛んでいってしまったのでしょう。来週も聞けるかな。

さて、学校です。

「新入生クラス」。3列目の端の席で安心していたのでしょうね。下を向いて何かをじっと見ていたスリランカの男子。教科書の口頭練習をさせていたので、多分、飽きたのでしょう。スリランカ人学生は、国で「N5]か「N4」くらいは勉強してきているので、最初っからの勉強は、どうも退屈のようです。とはいえ、こうやって「俺はできるから」と勝手なことをしているうちに、置いてきぼりを食らわされるということもよくあることなので、「N3」内容に入ったときに悲惨な状態になるということも、まあ、少なくはない。

この「国で勉強してきた」というのは、案外、曲者で、実際は「穴ぼこ状態」であることも、経験上、まあ、よくある事の一つ。「ここが欠けていた」とか、「えっ。そんな意味。しらなかった」という感じのはずなのですが、それに気付けるのが、思っているより、ずんと少ないのです。気づけるのは、ある程度、能力のある学生だけといってもいいでしょう。

何かしらの「日本語試験」で「N5」に、合格していないと、(高卒者では)日本への留学という道が閉ざされてしまうので、その「試験用」(対策というのは少々おこがましい)の勉強しか、していないというのが実情のようです。だから、「穴ぼこ」を埋める作業が必要になってくるのです。「N4」に合格してきたといっても、来日してきたときに会って、やはり「あいうえお」からやった方がいいと思われるような人だっているのです。もちろん、これは「四月生」や「七月生」といった、ある程度、時間に余裕のある学生だけですが。これが「一月生」なんかになりますと、やり直す時間がありませんから、適当なところで手を打つしかなくなるのです。

もう20年近くも前のこと。「N3」に合格したという「バングラデシュ」の学生が来たので、「さて、如何ほどの者やらん」と会ってみると、「ひらがな」すら満足に書けない。こちらが話すことも判らない。「N5」のごく初期の文法すらチンプンカンプン。…これで「N3」合格????。ただ「試験用の問題集」だけをセッセとやっていたらしい。恐るべし。これも才能です。なんてったって、意味もわからず、覚えられるのですから。その上、覚えただけでなく、その中に規則性なるものを見いだし、その能力でもって、テストに合格できた。頭は良かったけれども、来日後も、語学の習得の方へその能力は向かわなかった…。

で、今の学生です。気付くまで、じっと見てやります。周りも私の視線が気になるようで、それとなく、その学生をちらちらっと見ている。その学生、なんとなく不穏な空気を感じてでもしたのか、顔を上げて、私の視線に気付いた。手の動きからスマホでも見ていたのでしょうが、ハッとして、皆の練習に合わせます。私の視線が離れると、すぐにまた下を向く。口が動いていないので、練習していないのが、すぐにわかります。何度も視線を戻しているのに、気がつかないのが面白い。

彼らのような国では、教師なんて、勉強しない学生、できない学生なんて、端っから相手にしていないのでしょう。だから、平気なのでしょうね。ところが、日本では繰り返ししますからね、油断はできないのです。「優しい」目つきで見るなんてことは、まず、ありません。「鋭い」というよりも「険しい」目つきで見ています、勉強しない学生を。もっとも、頑張っても、なかなかできない学生には、そんな目では見ません。彼らなりに頑張っていれば、どの教員も、「親切な」というか、「待っている」というか、「穏やかな」目で見ています。

「初級」の授業ですが、「基本」の練習が一通りすんだら、今度は、単語を変えたり、意味を多少変えたりして、既習の学生でも飽きないような練習に移ります。すると、やはり、その間、自分はできると「緩みきっていた」学生は、ついて行けなくなりますね。当たり前ですが。授業の流れが(ボケーとしている間に)途切れたので、どこからついて行っていいのか判らなくなってしまうのです。当然のことながら、不安そうに辺りを見回すしかない。

毎年、スリランカをはじめとして、「インド圏」の学生に多く見られる行動なのですが、こちらが注意しても変われる学生は少ないですね。上(の学生)を見ずに、自分よりも下(の学生)ばかりを見るという傾向がある。それで、「自分はすごい」と思うようで、これは、来日後変われるかというと、無理でしょうね、よほどのことがない限り。彼らの国で勉強してきた、おそらくは12年分の垢と言ってもいいでしょう。こちらも、(そう思っていても)最初は必ず注意しますけれども、注意しつづけて、もう二ヶ月ほども過ぎているというわけですから、もう変われないでしょう。そうやってやっても、直そうとしないのなら、それまでの能力ということにします。実際、口頭で注意すれば、それで授業の流れが、切れてしまいますから、他学生にとっては、あまりいいこととは言えません。

で、勢い、目で知らしめるということになる。何をやっているかは本人が一番よくわかっています。勉強に関係ないことをしていれば、気付いたとき、一応は、真面目にやっている振りをする。「振り」で終わってしまえば、それまでですね。もう注意されなくなって、貯金(国でやってきた分)がなくなると、今度来る「七月生」と一緒にどうぞとなっていく。もちろん、「一課」あたりからやった方がいいのか、あるいは「テ形」くらいから入れた方がいいのか、また『みんなの日本語(Ⅱ)』から「七月生クラス」に入れた方がいいのかは、その都度考えていきます。

今年度の募集は、「四月生」と「七月生」だけですから、それでも(勉強が)できないからとズルズルと、またもう一つ落ちて、「十月生」と一緒にやるということはできなくなります。だから、踏みとどまれるかどうかがカギとなる。

一応、留学生というのは、下は一番若くて十九才、上は二十五才くらいですから、もう子供とは言えない。しかも、留学(勉強)したいとやってきているわけですから、目的は、それなりにあるでしょう。しかしながら、こういう態度で、それができるかしらん。怪しいものですね。ヒアリングがいいということは、時によると、マイナスになる場合だってあるのです。

日々是好日
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「画数」で、漢字(読みと意味)を調べるのを、楽しんでやっている人がいるから面白い。

2024-06-06 08:28:04 | 日本語学校

曇り。

「晴れ」のはずだったのに…曇っている…。天気予報では「洗濯日和」なんて言ってたのに…。とはいえ、歩いているので、曇りの日、大歓迎です。

学校では、最近、「見回りネコ」の姿を見かけなくなりました。春先にはよく歩いていたのですが。時間を、旨いこと、ずらしてやってくるので、鉢合わせすると言うことはありません。だからか、皆、顔に傷はありません(何年か前のネコは、「オイラの眉間の傷が見えねえのか」とでも言いたそうな風貌でした)。朝の授業で見られなければ、午後の授業で、誰かが見られるといった感じでしたから、楽しみでもありましたね。

学生の中にも、「ネコ好き」さんが、何人かいるようで、「ネコ」が通ると、頭が一斉に外を向くので、すぐに判ります。そんなネコと目が合ったりすることもあったのでしょうね。私も授業の時に、この三匹の「ネコ」さんを例にひくことが何度かありました。「例えば」とやると、よく覚えてくれるのです。午後のクラスでは、そこから学生がいろいろな話を始めたりするので、助かっていました。「読解授業」とはいえ、このクラスでは、まず何よりも先に、話せるようになることの方が大切。読めるようになるのはそれからでもいい。

さて、学校です。

「Bクラス」でも、「読解」文を読むというのに、差が出てきました。漢字がきちんと読めるようになってきたかどうかで決まるようなのですが。「ヒアリング」は、だいたい、皆、いい(いいと言いましても、特別いいわけではありませんが)ので、「読解」だけですかしらん、「非漢字系」といわれる学生達では、毎度のことなのですが。

「文法」は、まだたいしたことはないようですが、これも、真面目にやっていれば、時間が解決してくれるでしょう。問題は「漢字」なのです。ただ練習すれば、読める字が増えてくるのは事実なので、繰り返しているうちに、少しずつ自信も出てくるし、面白くもなってくるのでしょう。声もまあ、大きくなってきました。

この練習を始めた頃は、し~んとしていたのに、今では、時折、間違えるにせよ、読めるようになってきている。それも、3,4人はいる。

ただこれも、教室で「はい、3ページと4ページ(の漢字)の読みを練習をして」と、やったときに、練習ができているかどうかにかかっているのですが。

最初は、「N5漢字」と「N4漢字」の読みの練習だけ。それがだいたいできたころ、「N3漢字」を入れてみた。2,3回は、半ページ(20単語)だけにして。ところが、半ページでも飽きてしまう人がいる。反対に、半ページでは物足りなさそうな人もいる。半ページで飽きてしまう人は、四分の一ページでも飽きるようなので、これは考慮しても無駄ということか…ということで、意欲のある人の方を基準にしてやってみることに。

そうすると、五人ほどは時間さえ与えれば、一人できちんと勉強ができる。ただそれ以外の人は、五分でも、もたない、こういうのも積み重ねですから、前に、どこかで外れてしまっていると、本人がよほど頑張る気にならない限りは、取り返せない。

もちろん、見てすぐに、半ページほどであれば、暗記できる(単語の意味はもうわかっていますから)人はいます。ただ順序を変えると、こういうのは、途端に崩れてしまうのです。つまり、丸暗記で、棒読みしているだけであって、漢字を覚えているわけではないのです。「非漢字圏」の学生の中には、それができる人が殊の外多く、それにごまかされてしまったこともありました。

もとより、どこの国にも、日本にだって、そういう人はいるでしょう。そういう人は「音」だけですぐに覚えられるようで、意味なんて関係ないのです。これは、案外「漢字圏」には少ないようです。やはり、学習には「見る」という作業が必要だということなのでしょう。

すぐに暗唱できても、それが1ページ分だと40字(40単語分)になりますから、ちときつい。2ページではもう(練習していないのを)ごまかせませんから、最初から覚えるのを諦める。

頑張れる人を基準にして、10分ほどの時間を与え、それが切れると、すぐに「読み」を隠しての「一斉読み」に入る。覚えようと努力していた人は読めない字、忘れてしまう読みなんてのが出てきますから、どこかの字で止まったりする。それが、ただ「ひらがな」を読んでいるだけの人は、この「間」がないのですぐに判る。同じようなスピードで読み続けてしまうのです。考えながら読んでいれば読めなくとも、その字に印をつければ済むこと。同じ箇所に、2回、3回と印がついていれば、あとでそこだけ練習すれば済む。

これがきちんとできるようになる人は、画数から「漢字」の読みと意味を探ることができるようになる。

私の「読解」授業では、「N3漢字」の教科書と、「接続詞」一覧が必須なのです。だから常に机の上に出しておくように言っているのですが、なぜか、調べては、しまってしまう。出しっぱなしはだめなのでしょうかね。「読解問題集」と「N3漢字」の本と、ペラペラの「接続詞一覧」は、狭いとは言え、(彼らの机に)置けるような気がするのですが。

日々是好日
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「指示語」は、簡単なものならどうにかなったけれども、「接続詞」は入れる時期を間違えると、……ということになってしまう、いや、なってしまった。   

2024-06-05 08:09:50 | 日本語学校
晴れ。

もう、そろそろ「梅雨入り」かと思っていたのに、最近、朝は「晴れ」と「曇り」の日が続いています。もっとも大気は相変わらず不安定で、急に黒雲が広がり、雨がザッと降って来たりしますから、油断はできません。それに、多分、そのせいなのでしょう、特に、午後のクラスで風邪で休む人が増えています。今日はこちらの席、明日はあちらの席といった具合に、だれかしら休んでいますね。電話で訊くと、「風邪です…」。直ったと投稿してきても、ゴホン、ゴホンと、咳が続いている…。

さて、学校です。

小中学校の「国語」の教科書や問題集を参考にして、「指示語」と「接続詞」の練習をしてみたのですが、うまくいってほっとできた「クラス」と、うまくいかなくて、早すぎたかと後悔させられた「クラス」とが出てしまいました。うまくいかなかったクラスは、どうも早すぎたようです。

これも、10年ほど前にベトナム人学生にやってみて、「うまくいった」ので、ちょいとばかり味をしめてやってしまったとのですが。どうもやるべき時期というか、ある時期を超えねばやっても意味がないというか、そういうのがあるようです。

「Aクラス」の「N3組」には、やっているうちに、判りかけているのが、何となくですが、見てとれました。あとは文章を、少しでも多く読むしかないのでしょう。一方、「Bクラス」の「N3組」には、早すぎたようです。単語の量も足りなかったのでしょう。

この「時期」というもの、難しい。嵌まれば、こちらが思っているよりもずんと効果が出るものの、早まれば、やればやるほど墓穴を掘るような結果になってしまうし、また遅すぎれば、なんとも味気ないものになってしまう。いやあ、難しい…。ただ7月の試験は待ってくれませんから、ついつい、焦ってやって失敗してしまうという轍を踏んでしまう。

いけませんね。

ただ、「Aクラス」の「N2組」は、「日本留学試験」の「聴解・超読解」の過去問をやることによって、「接続詞」の必要性が判ったようで(この問題は彼らにとってかなり難しかったのですが)、それが判っただけでも、模擬試験をした意味はあると思います。

このように、学校での勉強は、学生が食いついてくれば来るほど、こちらも、内容を濃くしたり、多くしたりすることができるのです。が、反対に、学校に来て座っているのがやっと、あるいはクラスで出される宿題をそれなりにやるので手一杯、それ以上やる習慣もやる気もないといった人達には、「たったこれだけしか学ばずに卒業か」と、ある意味、こちら側としても、やるせない思いを抱かされることもある…。

高校を出たばかりの「中国人学生」が何人もいた頃には、(勉強の習慣が失われる前に来ているので)彼ら、よく勉強していましたね。アルバイトが三時からだから、二時間くらい学校で勉強してから行くと言って残っていました。もっとも、最初のうちは、残って一緒にご飯を食べたり、おしゃべりしたりするのが楽しかったようです。

ところが、ある日を境にガラリと変わって勉強するようになった。あれ?おしゃべりの声が聞こえないと見に行くと、勉強していたのです。…えっ。勉強している…。驚いた。

で、訊いてみると、もう一人、在日の人が加わったのだそうな。そして夢中でおしゃべりしている彼女らを、「うるさい。勉強できない」と叱ったのだそうな。「あんた達、どういうつもりでここにいるの。私なんか勉強したいのに、時間がない」。「勉強しなさい」。

面白いですね。私たちが100万言費やしたとしても、おそらく、首を引っ込めて、嵐の過ぎるのを待つ…だけであったろう彼女らも、身近な人に、厳しく言われると、ハッとなって、自分たちの立場を思い知ったようです。この三人も無事に志望大学に入れましたから、本当は、その人が、一番の恩人なのでしょう。最初は煙たかったようですけれども。

このときは、4月に来て次の年の7月には「N1」に合格し(一人は不合格でしたが、点数の上ではそれほど遜色なかった)、すぐに「新聞」や「雑誌」の切り抜きを使って時事問題を、また高校の教科書やDVDなどを使って「世界史」なども勉強させることができました。彼ら、そういう面での知識がほとんどなかったのです。国によって教えられる内容どころか出来事自体にも、差があるのだということを、思い知らされたような「時代」でしたが。今の学生達は、それどころではないでしょう。

日々是好日
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梅雨時なのに、「水無月」。衣更えの季節です。

2024-06-03 08:44:46 | 日本語学校

微雨。

中学生の頃、「古文」の時間に「月の古名」を習い、「『梅雨』時なのに、『水無月』とは、これ如何に」なんて、遊んだことがありました。この「月」も現在の暦とは少しばかりズレているようですが。

その「水無月」、最初の月曜日。「『衣更え』は今日から…」というのは、私たちの時代のこと。現在は、中高でも、何週間がどちらでもいい期間が設けられているようですが。以前は、特に「詰め襟」姿であった男子生徒など、見ているだけで暑くなった…。5月にもなると。体育の後など、「ありゃあ、『根性』ものだな」と思って見ていました。この制服もだんだん自由度が増しているようですが。

さて、学校です。

「Bクラス」では、火水木金に、「N5」漢字と「N4」漢字の読みを、交互でやり、少しばかり楽になった頃から「N3」漢字の読みも少しずつ入れるようにしています。そうしていくと、まあ、僅かばかりの成果ではありますが、それが感じられるようになってきました。「読解」問題集の文章を、(初めてでも)読めるようになってきている…まあ、以前は、こりゃあ、「N5」だろとしょっちゅう言っていましたから。

問題の説明時間を少なくしても、それでも甲斐はあると思います。彼ら、ヒアリング力はある程度あるのです。そこが「漢字圏」の学生と違うところ(「ベトナム」学生も含みます)。

「インド圏」や「中近東」「南米」の学生達は、スリランカ人を筆頭に、ヒアリング力はありますから(もちろん、年齢がかなり上であれば、話は違います)、問題は「漢字」「漢字」「漢字」なのです。

スリランカの学生の場合、ヒアリングがよく、文法にも悩むことが少ないので、直に文章の意味がわかるようになる…。多分「ひらがな」を拾って読んでいると踏んでいるのですが。そして残りの部分は、日本暮らしから得られた「勘」。それでも、「ヒアリング」が良ければ、「会話」もすぐにできるようになりますから、日常生活には困らない。困らないだけでなく、会話はいっぱしにできるので、日本人から褒められる。「上手ねえ」と。だから、「読めるようになる」必要性は感じられないのでしょう。「私、もう十分に上手じゃん」ということで。

もちろん、正社員として就職すれば、直に正体はバレてしまいます。剥がされたメッキがいかに多くとも、外国人だから、できなくて当たり前と、向こうが考えてくれれば、「漢字が必要ない部署」に回され、別に困ることもない。穏やかで、人当たりがいい人が少なくないのです。

「インド圏」で、漢字を覚えようと練習してくれる人は、稀と言えば稀。とはいえ、いることはいる…本当に少ないのですが。ただ、練習しろと言えば、(見てさえいれば)練習はする。書くのですが、「絵」を写すように「描く」だけで、覚えようとする気がほとんど感じられない…。無駄なことをさせられていると思っているのでしょうねえ。

「漢字」なんて、覚える気がなければ、覚えられないものです。反対に覚えようとしさえすれば、案外簡単に覚えられるものなのです。一旦、覚える気になれば、ここは日本で、漢字は、至る所に「氾濫」しています。電車に乗っても、「駅名」は漢字で書かれてあるし、店の名前もカタカナ、漢字で書いてある。その気になって見ていれば、「手」より先に「目」が覚えてくれるのです。

それプラス「意味」。「意味」が判れば「鬼に金棒」。例えば「学校へ行きます」。そうか「『がっこう』の漢字はこの『学校』…へえ」。「『いきます』の漢字は、あの『行きます』か…へええ」。

だから、「意味」と「絵」を、一致させることが必要になるのです。当たり前のことですが。ただ、これがなかなかできない。だから、「N5」漢字にも、「N4」漢字にも、「読み」と「意味」を一緒に書いておくことが大切になる。「意味」は「母語」で書くのが一番いい。

で、その作業時間が必要になってくる。「家でやれ」と言っても、ほとんどが、まずは、しない。大変だからかな。大変じゃないと思うけれども。「皆でやる」で、初めて動けるようなのです。自分で、帰ってからできる人は、まず、いない。学校で時間を設けてさせていくしかないのです。

「私たちの学校では、やって来ますよ」という学校は…ほんと楽ですね。(『初級』の宿題までですかね。やってくるのは。一度やっているので、それを書いてくるのはいいようなのですが)。自分で調べて(ちゃんと本には書いてありますが、それを探して、見つけるのが大変なのかな)やるのは、慣れていないのでしょう。だから、こちらとしては、授業時間の配分が命となる。教えること、教えないこと(後でできることは後でする)を分けて考え、その時間内に収めるようにする。そういうことが必要な、(おそらく大部分の)日本語学校の教師は、この「捨てる」作業ができなければ、授業は難しくなる。

「知識」のある人は、とにかく「言おう」とする、知っていることを、たくさん言いたいのでしょうね。それは「知識がある」だけで、教師ではない。相手あっての教師ですからまずは相手を知らねばならない。相手は「そんな」日本語なんか「全く聞き取れない」というのに。単なる「(自己)満足」に過ぎないのに。「やったあ、言ったぜ」というところなのでしょう。相手は何を言ったのか判らないので、実際は成果無しなのですが。

『初級』の間は、導入も、最多で「例文は三つ」。それ以上言わねばならない時は、その日の導入は失敗したことになる。だから、相手(学生)を知るのが先。『初級』は「対訳」があるのもそれ故でしょう。一度に5カ国も6カ国もの、違う母語をもつ人達を相手に、説明ができるはずもない。見せたらわかるという物が多いのもそのため。

ただ「N3『読解問題集』」くらいの文章を読むとなると、違う世界のことが書かれているので、ある程度の知識が必要になってくる。文法や漢字以外の点で、狐につままれたようになってしまう。その説明も必要になるのですが、時々、「こりゃあ、無理」というような内容も出てきます。その時は、文法と漢字、そして単語の意味をさらっとやるくらいにして、あとは「この単語を覚えるべし」と言っておくだけにしています。

どう足掻いたって、「知識」という化け物には太刀打ちはできません。知らない内容が出てきて、当惑させられるというよりも、知らないことがある。その中で設問の答えを出していく…という練習をしなければならないのです。さらっと流すべき物はさらっと流し、しつこくやっておくべきものは、しつこくやる。これを徹底させるしかないのです。

日々是好日
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