晴れ。
昨日は曇っていたというのに、台風が近づいている今日、なぜか「晴れ」です。
今朝、「ムクゲ(木槿)」の花を見かけました。まあ、「咲いていた」とは言えません。しょんぼりと萎れた姿でへばり付いていたのですが。「狂い咲き」とは言えませんが、ちょっと「あれっ」と思ってしまいました。すでに「ムクゲ」の季節は終わり、次は「モクセイ(木犀)」だ、「ハギ(萩)」だなどと思っていたものですから。
この「狂い咲き」という言葉。あまりいい響きではありませんね。植物の方にしてみれば、自然に咲いて、自然に散っていくだけのこと。時期が来なければ、咲きも散りもしない。それを人間は…うざったいというところでしょう。
ずいぶん前から流行っていた「想定外」という言葉。これとても、どこやら意味が似ているような気がします。人間という奴は、「先入観」というか、「常識」というか、どうもそんなものに無意識のうちに縛り付けられているようです。勿論、見えるところは、人によって違う、気づけるところも人によって違う。これらから自由であるためには、知識も考察力も洞察力も必要になってくる。幅も深さもそして、広さも必要なのです。それ故に「専門家」がもてはやされることになるのでしょうけれども。
それなのに、最近はこれがちと怪しくなっている。怪しくはないのでしょうけれども、なんだか「眉に唾をつけて」聞いておかねばならないという気に、下々がなっている。専門家と言われる人の中にも、自分で自分を「選良」と言ったり、「有識者」と言ったりするような手合いもいることですから。一般大衆も素直に聞けずに、どこやら疑いの眼を向けざるをえなくなっている。大体、こういう「評価」は、本人でなく、よそ様が言ってなんぼのものでしょうに。
外国人学生を見て、どうしてかなと思うたびに、いろいろと本を読んだり、調べたりしています。言葉がある程度使えるようになると聞いたりもするのですが、それでもよくわからないことも多いのです。一つは彼らの年がまだ若いと言うこともあるでしょうし、(こちらが)想像できない世界では、私の方の理解力が足りないということもある。
隣の国であってもそうなのですから、ましてや、文化も宗教もそして歴史も地理も遠い国であってはそうです。
もう数十年も前のことですが、読解問題の一つに、自動車の功罪というのがありました。そこでは「罪」の方について述べられていたのですが、中国人学生が、なぜだと言って譲らないのです。彼らの世界では「車を持つことは、皆の『夢』であって、『悪』ではありえない」のです。それを「乗るべきではない」とか、ましてや「個人で買うべきではない。それは社会に対する罪だ」みたいな考え方をすること自体、信じられなかったのです。もっともそれも遙か昔のこと。今では、(実用的な面からも、ある種のステータスという面から見ても、必要だと言うことは変わらずとも)、自動車の持つマイナス面も理解できているようです。
「宗教」なんぞもそうです。それを深く信じている人には、「鰯の頭も信心から」なんてのはとんでもないこと。日本人の間では笑って済まされることでも、彼らの間でそうはいきません。場所によってはこれだけで、殺されることだってあるでしょうし。
欧米の文化や歴史に親しみ、彼らの価値観がある程度はわかっているつもりの日本人にしてからが、この「コロナ禍」での彼らの行動や宗教に関する考え方などがよくわからないという時もある。
仏国人や米国人の言うところの「自由」「平等」と「公共」というものとの関係が、どうも日本人の大半が考えているところのものとは、かなり違うのではないか。平時は「自由」にしろ、「平等」にしろ、そして「公共」にせよ、みんな自分たちが思っているのと同じような気がしている。けれども、この「コロナ禍」です。違いがはっきりと出てくる。それに思い起こせば、かつて仏国で起きた「宗教問題」もそうでした。
それぞれの国が、長い歴史の間に様々な試練を経て現在に至っている。ということは、それぞれの国における「自由」や「平等」の意味、そして「公共」の意味も異なっているはず。文字は同じでも意味が違う。これは「現政権が強権的にそうさせている」というのとは違い、人々が、長い歴史を経て、勝ち取ってきたものと理解した方がいい。そして、それを大切にしてきているという意味からも、他者もそれを尊重すべきなのでしょう。
学校では、微妙な問題には触れないようにしています。政治や宗教には触れずに、さりげなくやり過ごし、できるだけ皆が言葉の習得に邁進できるようにしています。何か問題が起こったときには、「国によって考え方が違う」という「N3」文法の暗記文を言うと、なんとなく皆が和やかになれるのです。
和やかに勉強できるのが一番いいですね。
日々是好日
昨日は曇っていたというのに、台風が近づいている今日、なぜか「晴れ」です。
今朝、「ムクゲ(木槿)」の花を見かけました。まあ、「咲いていた」とは言えません。しょんぼりと萎れた姿でへばり付いていたのですが。「狂い咲き」とは言えませんが、ちょっと「あれっ」と思ってしまいました。すでに「ムクゲ」の季節は終わり、次は「モクセイ(木犀)」だ、「ハギ(萩)」だなどと思っていたものですから。
この「狂い咲き」という言葉。あまりいい響きではありませんね。植物の方にしてみれば、自然に咲いて、自然に散っていくだけのこと。時期が来なければ、咲きも散りもしない。それを人間は…うざったいというところでしょう。
ずいぶん前から流行っていた「想定外」という言葉。これとても、どこやら意味が似ているような気がします。人間という奴は、「先入観」というか、「常識」というか、どうもそんなものに無意識のうちに縛り付けられているようです。勿論、見えるところは、人によって違う、気づけるところも人によって違う。これらから自由であるためには、知識も考察力も洞察力も必要になってくる。幅も深さもそして、広さも必要なのです。それ故に「専門家」がもてはやされることになるのでしょうけれども。
それなのに、最近はこれがちと怪しくなっている。怪しくはないのでしょうけれども、なんだか「眉に唾をつけて」聞いておかねばならないという気に、下々がなっている。専門家と言われる人の中にも、自分で自分を「選良」と言ったり、「有識者」と言ったりするような手合いもいることですから。一般大衆も素直に聞けずに、どこやら疑いの眼を向けざるをえなくなっている。大体、こういう「評価」は、本人でなく、よそ様が言ってなんぼのものでしょうに。
外国人学生を見て、どうしてかなと思うたびに、いろいろと本を読んだり、調べたりしています。言葉がある程度使えるようになると聞いたりもするのですが、それでもよくわからないことも多いのです。一つは彼らの年がまだ若いと言うこともあるでしょうし、(こちらが)想像できない世界では、私の方の理解力が足りないということもある。
隣の国であってもそうなのですから、ましてや、文化も宗教もそして歴史も地理も遠い国であってはそうです。
もう数十年も前のことですが、読解問題の一つに、自動車の功罪というのがありました。そこでは「罪」の方について述べられていたのですが、中国人学生が、なぜだと言って譲らないのです。彼らの世界では「車を持つことは、皆の『夢』であって、『悪』ではありえない」のです。それを「乗るべきではない」とか、ましてや「個人で買うべきではない。それは社会に対する罪だ」みたいな考え方をすること自体、信じられなかったのです。もっともそれも遙か昔のこと。今では、(実用的な面からも、ある種のステータスという面から見ても、必要だと言うことは変わらずとも)、自動車の持つマイナス面も理解できているようです。
「宗教」なんぞもそうです。それを深く信じている人には、「鰯の頭も信心から」なんてのはとんでもないこと。日本人の間では笑って済まされることでも、彼らの間でそうはいきません。場所によってはこれだけで、殺されることだってあるでしょうし。
欧米の文化や歴史に親しみ、彼らの価値観がある程度はわかっているつもりの日本人にしてからが、この「コロナ禍」での彼らの行動や宗教に関する考え方などがよくわからないという時もある。
仏国人や米国人の言うところの「自由」「平等」と「公共」というものとの関係が、どうも日本人の大半が考えているところのものとは、かなり違うのではないか。平時は「自由」にしろ、「平等」にしろ、そして「公共」にせよ、みんな自分たちが思っているのと同じような気がしている。けれども、この「コロナ禍」です。違いがはっきりと出てくる。それに思い起こせば、かつて仏国で起きた「宗教問題」もそうでした。
それぞれの国が、長い歴史の間に様々な試練を経て現在に至っている。ということは、それぞれの国における「自由」や「平等」の意味、そして「公共」の意味も異なっているはず。文字は同じでも意味が違う。これは「現政権が強権的にそうさせている」というのとは違い、人々が、長い歴史を経て、勝ち取ってきたものと理解した方がいい。そして、それを大切にしてきているという意味からも、他者もそれを尊重すべきなのでしょう。
学校では、微妙な問題には触れないようにしています。政治や宗教には触れずに、さりげなくやり過ごし、できるだけ皆が言葉の習得に邁進できるようにしています。何か問題が起こったときには、「国によって考え方が違う」という「N3」文法の暗記文を言うと、なんとなく皆が和やかになれるのです。
和やかに勉強できるのが一番いいですね。
日々是好日