朝、5時半を過ぎた頃、東の空がわかるかわからないかくらいに少し白んできただけ。本当に夜明けが遅くなり、日暮れが早くなりました。
今、「午前クラス」が三つ、「午後クラス」が一つあるのですが、午後の学生達が帰る頃には、もう、辺りは薄暗くなっています。下の階から玄関まで階段を上ってくるときに、元気な声がするので、「ああ、もう終わった」と大慌てで、玄関に出て「お見送り」です。
もっとも、「お見送りする」と言いましても、学生達に歓迎されているか否かについては……定かではないのですけれども。宿題をして来なかった学生や「ひらがな」や「カタカナ」をよく間違える学生、それに漢字をなかなか覚えられない学生などは、また何か言われるのではないかと、最初の頃はコソッと帰ろうとします(こういうチャンスは決して逃しはしませんからね)。
ところが、この、七月生主体のクラスも、もう4ヶ月ほどが過ぎ、「初級Ⅱ」も「34課」くらいにまで進んでいますと、この「文句をいわれる(彼らの意識では)」ことにも慣れ、何とかこれで遊ぼうとします。言葉の遊びが少しは出来るようになった生がポツポツ出てきているのです。
それに、教師の方でも、「(この学生は)何曜日と何曜日は疲れていて宿題ができないな」という事が分かってきていますので(その事情を加味しながら文句を言うことになりますから文句も)、どこかしら「勘所」を得たものとなります。
もちろん、それだけではなく、(学生の方でも)日本語が、話したり聞き取れなかったりすると、アルバイト捜しにも支障が出るということが肌身でわかるようになって来ていますから、叱責であれ賞賛(まずはあり得ない)であれ、個人的に日本語で話しかけられるというのを歓迎する学生も出てきます。授業中はなかなかそうはいきませんから。
こういう話は、休み時間と登下校時だけくらいでしょうか、普段は。彼等も忙しいのです。南国からの学生の中には、日本の食事にどうしても慣れることが出来ずに、料理のための時間が彼らの生活の中で大きなウエートを占めてしまうという場合も少なくないのです。
まずは、「彼等が食べられる料理の食材探し、そして買い物でしょ。それから作らなければならないでしょ。それに時には母国から友人が食材を持って来てくれたりするので、受け取りに行かなければならないでしょ」というふうに、忙しいのです。
だから、教師と雑談をしたいと思っていても、なかなかそれが出来ないという場合もあるのです。けれども、この下校時は話すといいましてもほんの数分、しかも私たちも(文句は言っても)、暗い気持ちで暗い道を返したくはありませんから、最後は笑って家路につけるように心がけていますもの。ですから、多分、中にはこのやり取りを心待ちにしている学生もいるようなのです。
授業が終わると、解放感で学生達は、パッと明るくなり、声も一段と大きくなり、そしてそのままドヤドヤドヤと階段を上がってくるのです。その時が、遅刻した学生や、普段話せない学生達との交流の時(ただし、いつまで経っても話せないし聞き取れない学生には、「さようなら」くらいしか言えません)。とは言いましても、直ぐにアルバイトへ行かなければならない学生もいますから、いつも皆と話せると言うわけではないのです。
学生達は薄ぼんやりと暗くなった道を自転車で帰っていきます。彼等の帰る道には「エノコログサ(狗尾草)」が白く固くなって伸びています。この葉も実も、もうすぐ散ってしまうことでしょう。けれども、まだ、あちこちに、白や赤、淡いピンクなどの野草の花が咲いています。あるものは花を、またあるものは実をつけ、街を彩っているのです。
花や実があると、それだけで街は明るくなります。仲間と別れ、家路を急ぐ彼等の心もそうでしょう。おそらく気づいてはいないでしょうが、彼等の心が孤独に苛まれていない理由の一つに、この、日本の自然の優しさがあるような気がしてならない…時もあるのです。
日々是好日
今、「午前クラス」が三つ、「午後クラス」が一つあるのですが、午後の学生達が帰る頃には、もう、辺りは薄暗くなっています。下の階から玄関まで階段を上ってくるときに、元気な声がするので、「ああ、もう終わった」と大慌てで、玄関に出て「お見送り」です。
もっとも、「お見送りする」と言いましても、学生達に歓迎されているか否かについては……定かではないのですけれども。宿題をして来なかった学生や「ひらがな」や「カタカナ」をよく間違える学生、それに漢字をなかなか覚えられない学生などは、また何か言われるのではないかと、最初の頃はコソッと帰ろうとします(こういうチャンスは決して逃しはしませんからね)。
ところが、この、七月生主体のクラスも、もう4ヶ月ほどが過ぎ、「初級Ⅱ」も「34課」くらいにまで進んでいますと、この「文句をいわれる(彼らの意識では)」ことにも慣れ、何とかこれで遊ぼうとします。言葉の遊びが少しは出来るようになった生がポツポツ出てきているのです。
それに、教師の方でも、「(この学生は)何曜日と何曜日は疲れていて宿題ができないな」という事が分かってきていますので(その事情を加味しながら文句を言うことになりますから文句も)、どこかしら「勘所」を得たものとなります。
もちろん、それだけではなく、(学生の方でも)日本語が、話したり聞き取れなかったりすると、アルバイト捜しにも支障が出るということが肌身でわかるようになって来ていますから、叱責であれ賞賛(まずはあり得ない)であれ、個人的に日本語で話しかけられるというのを歓迎する学生も出てきます。授業中はなかなかそうはいきませんから。
こういう話は、休み時間と登下校時だけくらいでしょうか、普段は。彼等も忙しいのです。南国からの学生の中には、日本の食事にどうしても慣れることが出来ずに、料理のための時間が彼らの生活の中で大きなウエートを占めてしまうという場合も少なくないのです。
まずは、「彼等が食べられる料理の食材探し、そして買い物でしょ。それから作らなければならないでしょ。それに時には母国から友人が食材を持って来てくれたりするので、受け取りに行かなければならないでしょ」というふうに、忙しいのです。
だから、教師と雑談をしたいと思っていても、なかなかそれが出来ないという場合もあるのです。けれども、この下校時は話すといいましてもほんの数分、しかも私たちも(文句は言っても)、暗い気持ちで暗い道を返したくはありませんから、最後は笑って家路につけるように心がけていますもの。ですから、多分、中にはこのやり取りを心待ちにしている学生もいるようなのです。
授業が終わると、解放感で学生達は、パッと明るくなり、声も一段と大きくなり、そしてそのままドヤドヤドヤと階段を上がってくるのです。その時が、遅刻した学生や、普段話せない学生達との交流の時(ただし、いつまで経っても話せないし聞き取れない学生には、「さようなら」くらいしか言えません)。とは言いましても、直ぐにアルバイトへ行かなければならない学生もいますから、いつも皆と話せると言うわけではないのです。
学生達は薄ぼんやりと暗くなった道を自転車で帰っていきます。彼等の帰る道には「エノコログサ(狗尾草)」が白く固くなって伸びています。この葉も実も、もうすぐ散ってしまうことでしょう。けれども、まだ、あちこちに、白や赤、淡いピンクなどの野草の花が咲いています。あるものは花を、またあるものは実をつけ、街を彩っているのです。
花や実があると、それだけで街は明るくなります。仲間と別れ、家路を急ぐ彼等の心もそうでしょう。おそらく気づいてはいないでしょうが、彼等の心が孤独に苛まれていない理由の一つに、この、日本の自然の優しさがあるような気がしてならない…時もあるのです。
日々是好日