晴れ。強い風が吹いています。
海に近いから、風がそのまま、ここを通っていくのでしょう。とは思うのですが、内陸部の鷲宮などでも、これまた風が強い。(山が近いから)あそこから吹き下ろしてくるのだそうな。
ところで、桜です。
まだまだ、
「花散らす 風の宿りは たれか知る われに教へよ 行きて恨みむ」(素性法師)
の候ではありませんが、ここでも、七分咲きくらいにはなっているでしょうか(満開になってしまうと、すぐに、風について行ってしまいます)。都心では、今週半ばほどに、満開になるであろうと言われていましたから、ここでも、多分、そうでしょう。
「サクラ(桜)」は、蕾が膨らみ始めてからが大変。「いつ咲くか」と、あっちでもこっちでもソワソワし始め、「河津桜」が綻び始めると、この辺りではどうだと騒ぎ出す。咲いたら咲いたで、いつ満開かで大騒ぎ。満開になったらなったで、風は?雨は?と気もそぞろ。面白いことに、一度でも花見をしてしまうと、若者は皆、あっさりとしたもの。もう、今年は終わったとばかりに、サクラの「さ」の字も口にしなくなるのです。
これが、いつまでも花の追いかけをしているのが、あと何回見られるかと、人生の折り返し点を過ぎた者。他の花だって、大半は1年に一度だけ花をつけ、実を結ぶのですがね、どうも「サクラ」だけに思いを掛けすぎる…。これもサクラが雲のように見えるからでしょうか。雲の向こうには天があり、天の上には人ではない存在がある…というわけで。
「サクラ」の根っこには人が埋められているとか、不気味な話と縁の深い花なのに…、それでも、単にマスコミに踊らされているとだけは言えないような気がします、この花に対する思いには。
さて、学校です。
いつの間にか、グンと暖かくなりました、「サクラ」が咲くほどに。今度、学生達が来る頃には、もう、「帽子を深くかぶり、耳には耳当て、その上、マスクをつけ、目だけを出している」恰好の学生はいなくなっているでしょう。
この学生達(なぜか、スリランカから来ている学生なのです)、教室でも毛糸の帽子や耳当てを取ろうとはしないのです。最初は「失礼である」と叱って取らせていたのですが、本当に寒いらしいのです。一人が訴えに来ました。エアコンをつけていても、耳だけは、頭だけは、冷たいのだと言います。「本当に寒い(だから、帽子をかぶっていたい)。とてもとても寒い(だから判ってほしい)」。彼等には(日本人とは違い)、寒さは上から来ると思われます。
これが、二度目の冬となりますと、もうこんなことは言わなくなるのですが。
残念なことに、こういう状態になるのは、初めての冬の時。つまり、あまり日本語が話せない時なのです。自分達の気持ちを伝えられなくて、「一方的に叱られた…悪いことをしていないのに…」という思いだけが残るのでしょう。
だったら、二度目の冬を迎えた連中が、代わりに言ってやればいいのに。それもしないのです。どうも、自分達はもう寒くないモンとでも思っているのでしょう。
とはいえ、彼等には、春や秋の恰好はないようです。「暑い時(夏)」と「寒い時(冬)」しかないらしい。冬の初めには、半袖のシャツの上に、ダウンと相場が決まっています。長袖のシャツとか、厚手のシャツ。あるいはセーターやカーディガンなどを着る習慣がないし、重ね着をするという感覚にも乏しい。それに靴下を穿かない。スリッパを履いていても、気がつくと、時々教室に一人分か二人分のスリッパが忘れられていたりするのです。
寒さは足元から。だから「靴下を穿いていてもスリッパは脱いではだめ」と、口を酸っぱくして言っても、「気持ちが悪い…」。慣れないものはしょうがないとは言いながら、あれでは風邪を引くのが当然と彼等を見るしかない。そして当然の如く、風邪を引く。しかも、風邪を引いて熱が出ているのに、気がつかない。学校に来た時の顔が赤かったり、頭が痛いとか、お腹が痛いとか言出してはじめて(自分でも)風邪を引いていることがわかり、病院へ行くことになるのです。
そういう騒ぎも、終わりました。今いる学生達は、もう冬を過ごした経験を持ったわけで、今年の秋の終わりには、もう冬の準備ができていることでしょう。そしてまた新たな「冬知らず」の学生達が来て、同じような騒ぎを引き起こすことになるのでしょう。まっ、それもいいか…という気分になっています。これが、慣れなのでしょう。
日々是好日
海に近いから、風がそのまま、ここを通っていくのでしょう。とは思うのですが、内陸部の鷲宮などでも、これまた風が強い。(山が近いから)あそこから吹き下ろしてくるのだそうな。
ところで、桜です。
まだまだ、
「花散らす 風の宿りは たれか知る われに教へよ 行きて恨みむ」(素性法師)
の候ではありませんが、ここでも、七分咲きくらいにはなっているでしょうか(満開になってしまうと、すぐに、風について行ってしまいます)。都心では、今週半ばほどに、満開になるであろうと言われていましたから、ここでも、多分、そうでしょう。
「サクラ(桜)」は、蕾が膨らみ始めてからが大変。「いつ咲くか」と、あっちでもこっちでもソワソワし始め、「河津桜」が綻び始めると、この辺りではどうだと騒ぎ出す。咲いたら咲いたで、いつ満開かで大騒ぎ。満開になったらなったで、風は?雨は?と気もそぞろ。面白いことに、一度でも花見をしてしまうと、若者は皆、あっさりとしたもの。もう、今年は終わったとばかりに、サクラの「さ」の字も口にしなくなるのです。
これが、いつまでも花の追いかけをしているのが、あと何回見られるかと、人生の折り返し点を過ぎた者。他の花だって、大半は1年に一度だけ花をつけ、実を結ぶのですがね、どうも「サクラ」だけに思いを掛けすぎる…。これもサクラが雲のように見えるからでしょうか。雲の向こうには天があり、天の上には人ではない存在がある…というわけで。
「サクラ」の根っこには人が埋められているとか、不気味な話と縁の深い花なのに…、それでも、単にマスコミに踊らされているとだけは言えないような気がします、この花に対する思いには。
さて、学校です。
いつの間にか、グンと暖かくなりました、「サクラ」が咲くほどに。今度、学生達が来る頃には、もう、「帽子を深くかぶり、耳には耳当て、その上、マスクをつけ、目だけを出している」恰好の学生はいなくなっているでしょう。
この学生達(なぜか、スリランカから来ている学生なのです)、教室でも毛糸の帽子や耳当てを取ろうとはしないのです。最初は「失礼である」と叱って取らせていたのですが、本当に寒いらしいのです。一人が訴えに来ました。エアコンをつけていても、耳だけは、頭だけは、冷たいのだと言います。「本当に寒い(だから、帽子をかぶっていたい)。とてもとても寒い(だから判ってほしい)」。彼等には(日本人とは違い)、寒さは上から来ると思われます。
これが、二度目の冬となりますと、もうこんなことは言わなくなるのですが。
残念なことに、こういう状態になるのは、初めての冬の時。つまり、あまり日本語が話せない時なのです。自分達の気持ちを伝えられなくて、「一方的に叱られた…悪いことをしていないのに…」という思いだけが残るのでしょう。
だったら、二度目の冬を迎えた連中が、代わりに言ってやればいいのに。それもしないのです。どうも、自分達はもう寒くないモンとでも思っているのでしょう。
とはいえ、彼等には、春や秋の恰好はないようです。「暑い時(夏)」と「寒い時(冬)」しかないらしい。冬の初めには、半袖のシャツの上に、ダウンと相場が決まっています。長袖のシャツとか、厚手のシャツ。あるいはセーターやカーディガンなどを着る習慣がないし、重ね着をするという感覚にも乏しい。それに靴下を穿かない。スリッパを履いていても、気がつくと、時々教室に一人分か二人分のスリッパが忘れられていたりするのです。
寒さは足元から。だから「靴下を穿いていてもスリッパは脱いではだめ」と、口を酸っぱくして言っても、「気持ちが悪い…」。慣れないものはしょうがないとは言いながら、あれでは風邪を引くのが当然と彼等を見るしかない。そして当然の如く、風邪を引く。しかも、風邪を引いて熱が出ているのに、気がつかない。学校に来た時の顔が赤かったり、頭が痛いとか、お腹が痛いとか言出してはじめて(自分でも)風邪を引いていることがわかり、病院へ行くことになるのです。
そういう騒ぎも、終わりました。今いる学生達は、もう冬を過ごした経験を持ったわけで、今年の秋の終わりには、もう冬の準備ができていることでしょう。そしてまた新たな「冬知らず」の学生達が来て、同じような騒ぎを引き起こすことになるのでしょう。まっ、それもいいか…という気分になっています。これが、慣れなのでしょう。
日々是好日