昨日、春一番が吹いたそうです。言われてみれば、「あれがそうかいな」くらいの感じのものでしたが。もっとも、そうは言いましても、確かに、放課後、「面接」の練習をしている時に、窓がカタカタ鳴っていましたっけ…。しかも、「面接」の練習が終わって、まだ7時半は過ぎていなかったと思いますが、二人で話しながら、窓を閉めようと窓に手をかけた時、そのガタガタ鳴っていた窓ガラスの向こうから、呼びかけるような声が聞こえて来たではありませんか…。
二人で、「えっ」「えっ」でした。思わず、顔を見合わせ、「ねえ、声がした…?」「したよねえ」。それで、窓を開けて見てみると、なんと、この日、面接試験(終わって、直ぐに「もうだめです」と連絡してきたのですが)から戻ってきて、「もうだめだぁ」を連発しながら帰っていったはずの学生が、ニコニコしながら立っているではありませんか。
思わず「どうしたの」。「へへへへへへ…。まだ、先生がいるかなと思ってね」と満面の笑み…う~ん。まだ、遊んでもらう気でいるな…。面接の練習が終わった学生が、「先生は年なんだから、もうだめ」と言わでものことを言いながら、(彼女の)背中を押すようにして、帰っていってくれましたが、全く仲のいいこと。
この人達の「クラス」では、一人が日本で趣味や関心事を見つけると、それがいつの間にか、クラスのみんなに伝染してしまい、皆の共通の趣味や関心事になってしまっていたのです。情報を自然に共有し、それを共に楽しめるわけですから、ますます知りたいと思い、知識は話し合うことによって定着していきます。今は、「冬季オリンピック」の折りでもあり、関心事は「男女のフィギュア」。この「フィギュア」一色に染まっていますが、こういうことは、これだけには限りません。一人が、歌を歌っていると、その歌が自然にみんなの耳に親しんでしまい、他の誰かが同じように口ずさんでいるといった具合なのです。
こうなると、「クラス」という集合体のメリットが生きてきます。一人が知り得る量も幅も決まっていますが、それが、二人になると、知識は二倍もなり、また、三人になると、三倍にも四倍にも跳ね上がってきます。教師の側はそれを後押ししてやればいいだけなのです。クラス経営は、「見ていればいいだけ」になります。
つまり、私たちの仕事は、彼らの関心の方向を時折チェックし、もし、問題点が見つかれば、軌道修正し、あるいは必要があれば(知識を)追加していく。それだけになるのです。彼らは現在、日本語のレベルは、だいたい中学生ほどにはなりました。ただし、知識面はまだまだです。深浅は高校生レベルではまだまだ語れません。専門分野を持っているわけではありませんから。けれども、本当に幅が狭いのです。これでは、新しい知識を得ても、楽しめるレベルまでは行けないでしょう。
そのほかにも、教科書以外の知識のうち、(言語を学ぶ場合)どうしてもその地に行かねば獲得できない部分というものがあります。科学技術が進み、どこにいようと、簡単に他国の言語を学べるようになった今日でも、これは変わりません。その地でしか、感じられない「空気」というものが現実にあるのです。その地の人たちが、現在熱狂していることを、その地の空気のもとで、同じように感じ、熱狂し、気分を共にする…これは多分、その地の言語を学ぶ者からすれば、醍醐味とも言えることでしょう。その地の人々と共通項で括られるということですから(勿論、それが感じられない人は何年その地にいても同じでしょうが)。
こういう若い人たちが学生の場合、方向を修正してやったり、知識面でのサポートはかなり必要になります。何と言っても若いのです、彼らは。好きなことが、ただの「面白かった」で終わってしまうかどうかは、彼らを見ながらどういう方向に進めていかせるかという教師側の問題になってきます。「フィギュア」の前は、「動物」に夢中だったのですが、ただ「可愛かった」で終わらせるなら、そういう映像を見せてやれば済むことですが、この「動物」というものも、とらえ方一つでいろいろな事を考えるきっかけになり得るのです。
幅を「環境問題」という方面に拡げてもいいでしょう。またその中の「類人猿」や「サル(猿)」に絞って考えれば、「ヒト」との共通点と相違点、発達の段階でなぜそうなったのかという知識を得ることも出来るでしょう(なぜかを考えるのは、研究者の仕事です。私たちはその研究の成果、「甘露」の部分を味わわせてもらうだけです)。動物園にいる動物たちの幸不幸の観点から考えてもいいでしょうし、ペットの存在から、「命」の問題へと考えを深めていってもいいのです。人と生き物の関係などを考えていけば、初めは、「可愛い動物、大好き」で終わっていた事柄も、それで括れないということに気がつきます。
こういうものは、(日本には)彼らの現在の日本語のレベル(一級合格後、半年から一年くらい)で充分に対処できるようなものが、たくさんあるのです。ただ書物になりますと、(時間も)長くかかりますので、受験の片手間にというわけにはいかなくなりますが、新聞などの文化欄の記事であったら、それほどの長さもなく、しかも、論者の意見や考え方がはっきりとわかりますから、いいのです。それらを、適宜切り抜いて準備しておけば、彼らの関心の方向に応じて、直ぐに渡すことも説明を加えることもできます。
勿論、これも、「聞く耳を持っている」学生に対してしか、役に立ちません。何をやっても無表情であったり、何に関心を持っているのかわからないといった、好奇心が欠如しているかにみえる人たちや、考える機能が摩滅している人たちには無用の長物でしょうが。
さて、今日もフィギュアがあります。意気揚々と学校へやってくることでしょう、受験生達は。一人は今日面接がありますので、戻ってくるとしても、3時過ぎでしょうから、間に合いません。仲がいい彼らは、受験の前日や当日には、いつも「頑張ってね」と声を掛け合っているのですが、昨日ばかりは違いました。
「かわいそう。フィギュアが見られない…」
思わず、「ちょっとねェ、君たち…」と言いたくなりましたが。
日々是好日
二人で、「えっ」「えっ」でした。思わず、顔を見合わせ、「ねえ、声がした…?」「したよねえ」。それで、窓を開けて見てみると、なんと、この日、面接試験(終わって、直ぐに「もうだめです」と連絡してきたのですが)から戻ってきて、「もうだめだぁ」を連発しながら帰っていったはずの学生が、ニコニコしながら立っているではありませんか。
思わず「どうしたの」。「へへへへへへ…。まだ、先生がいるかなと思ってね」と満面の笑み…う~ん。まだ、遊んでもらう気でいるな…。面接の練習が終わった学生が、「先生は年なんだから、もうだめ」と言わでものことを言いながら、(彼女の)背中を押すようにして、帰っていってくれましたが、全く仲のいいこと。
この人達の「クラス」では、一人が日本で趣味や関心事を見つけると、それがいつの間にか、クラスのみんなに伝染してしまい、皆の共通の趣味や関心事になってしまっていたのです。情報を自然に共有し、それを共に楽しめるわけですから、ますます知りたいと思い、知識は話し合うことによって定着していきます。今は、「冬季オリンピック」の折りでもあり、関心事は「男女のフィギュア」。この「フィギュア」一色に染まっていますが、こういうことは、これだけには限りません。一人が、歌を歌っていると、その歌が自然にみんなの耳に親しんでしまい、他の誰かが同じように口ずさんでいるといった具合なのです。
こうなると、「クラス」という集合体のメリットが生きてきます。一人が知り得る量も幅も決まっていますが、それが、二人になると、知識は二倍もなり、また、三人になると、三倍にも四倍にも跳ね上がってきます。教師の側はそれを後押ししてやればいいだけなのです。クラス経営は、「見ていればいいだけ」になります。
つまり、私たちの仕事は、彼らの関心の方向を時折チェックし、もし、問題点が見つかれば、軌道修正し、あるいは必要があれば(知識を)追加していく。それだけになるのです。彼らは現在、日本語のレベルは、だいたい中学生ほどにはなりました。ただし、知識面はまだまだです。深浅は高校生レベルではまだまだ語れません。専門分野を持っているわけではありませんから。けれども、本当に幅が狭いのです。これでは、新しい知識を得ても、楽しめるレベルまでは行けないでしょう。
そのほかにも、教科書以外の知識のうち、(言語を学ぶ場合)どうしてもその地に行かねば獲得できない部分というものがあります。科学技術が進み、どこにいようと、簡単に他国の言語を学べるようになった今日でも、これは変わりません。その地でしか、感じられない「空気」というものが現実にあるのです。その地の人たちが、現在熱狂していることを、その地の空気のもとで、同じように感じ、熱狂し、気分を共にする…これは多分、その地の言語を学ぶ者からすれば、醍醐味とも言えることでしょう。その地の人々と共通項で括られるということですから(勿論、それが感じられない人は何年その地にいても同じでしょうが)。
こういう若い人たちが学生の場合、方向を修正してやったり、知識面でのサポートはかなり必要になります。何と言っても若いのです、彼らは。好きなことが、ただの「面白かった」で終わってしまうかどうかは、彼らを見ながらどういう方向に進めていかせるかという教師側の問題になってきます。「フィギュア」の前は、「動物」に夢中だったのですが、ただ「可愛かった」で終わらせるなら、そういう映像を見せてやれば済むことですが、この「動物」というものも、とらえ方一つでいろいろな事を考えるきっかけになり得るのです。
幅を「環境問題」という方面に拡げてもいいでしょう。またその中の「類人猿」や「サル(猿)」に絞って考えれば、「ヒト」との共通点と相違点、発達の段階でなぜそうなったのかという知識を得ることも出来るでしょう(なぜかを考えるのは、研究者の仕事です。私たちはその研究の成果、「甘露」の部分を味わわせてもらうだけです)。動物園にいる動物たちの幸不幸の観点から考えてもいいでしょうし、ペットの存在から、「命」の問題へと考えを深めていってもいいのです。人と生き物の関係などを考えていけば、初めは、「可愛い動物、大好き」で終わっていた事柄も、それで括れないということに気がつきます。
こういうものは、(日本には)彼らの現在の日本語のレベル(一級合格後、半年から一年くらい)で充分に対処できるようなものが、たくさんあるのです。ただ書物になりますと、(時間も)長くかかりますので、受験の片手間にというわけにはいかなくなりますが、新聞などの文化欄の記事であったら、それほどの長さもなく、しかも、論者の意見や考え方がはっきりとわかりますから、いいのです。それらを、適宜切り抜いて準備しておけば、彼らの関心の方向に応じて、直ぐに渡すことも説明を加えることもできます。
勿論、これも、「聞く耳を持っている」学生に対してしか、役に立ちません。何をやっても無表情であったり、何に関心を持っているのかわからないといった、好奇心が欠如しているかにみえる人たちや、考える機能が摩滅している人たちには無用の長物でしょうが。
さて、今日もフィギュアがあります。意気揚々と学校へやってくることでしょう、受験生達は。一人は今日面接がありますので、戻ってくるとしても、3時過ぎでしょうから、間に合いません。仲がいい彼らは、受験の前日や当日には、いつも「頑張ってね」と声を掛け合っているのですが、昨日ばかりは違いました。
「かわいそう。フィギュアが見られない…」
思わず、「ちょっとねェ、君たち…」と言いたくなりましたが。
日々是好日