日本語学校からこんにちは ~水野外語学院日本語科~

TOKYOベイエリア,市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

豪雨…、でも、今はやんでいます。…このまま(雨雲は)行ってしまうのかしらん…。

2017-09-28 08:34:22 | 日本語学校
雨。

この辺りはそれほどでもないのですが、例の「豪雨」が、「こっちの方」にもやってきました。避難勧告が出されているところもあり、寝ぼけ眼でたたき起こされ、すぐ避難というのは、なんとも悲しく辛いことことです。すぐに戻れればいいのですが、土砂崩れなどで道が寸断されていれば、それも叶わず、また逃げ遅れて孤立させられても困る。

日本は大雨で四苦八苦しているときに、バリ島では火山の噴火が危険視され、緊張状態が続いています。

日本は、毎日のようにどこかで地震が起こり、地面が揺らいでいますから、人はこの大地に仮住まいしている蟻ん子のような存在であることを少なくとも自覚させられています。偉そうにしている人でも、自分の思う通りにならないことが、ある種の間隔を置いて発生すれば、嫌でもそれに気づくことになる。

人の力の及ばぬことが起こり、それによって幾多の犠牲が出、被害が、時のよっては時の人の想像を遥かに超えた被害が出たりする。

昔の人は、「天」が、そうやって驕り高ぶった人間を懲らしめたのだと言ったのでしょうけれども、当時とて「驕り高ぶった」人というのはほんのわずかだったはず。大半の人は慎ましく自分の生活を営み、そして死んでいった…。

こういう「噴火」や「地震」、「津波」「豪雨」などに、「天」を持ち出されてしまうと、時々、嫌な気がしてしまいます。もしそうなら、裁かれるべきはこれらの人ではないはず。そういった気持ちになるのは、災害に遭われた方たちだけではないでしょう。

さて、学校です。

「バチが当たる」という言葉の説明に、川の神様やら、山の神様、ご神木やらを持ち出すと、キョトンとする者やら、「ソウ、ソウ、同じだ」と頷く者やら、「それは間違いだ」と言い出す者やら、いろいろいます。17人ほどの小さなクラスの中に、7カ国から来た人間がいるのですから、反応も、当然のことながら違ってきます。それが面白い。

以前、中国から来た学生が大半を占めていたころには、こういう話に対しても、紋切り型の反応しかなく、こちらとしても面白くもなんともなかったのですが、国の数が増えれば、それだけ、面白さは増してきます。国が違えば、同じ宗教を信じるといっても微妙に違いますし、時には同じ宗教かと思わされることさえあります。

つまらないことでも何でも、こういうのは「話のきっかけ」になると言いましょうか、考えるきっかけになるとでも言った方がいいのかもしれませんが。

もちろん、そこには、自分と異なる文化、宗教を語る者を誹らない、互いを尊重し合うという暗黙のルールが存在していなければなりません。それゆえ、だいたいこういう「雑談」めいたことから授業を始められるのは、一年半くらいを過ぎないと難しい場合が多いのです。

時々、自分の神様を冒涜されたような気になって、猛る人も出てきます。が、そういう時でも、他の誰かが、間を取り持つようなことを言ったりすればそれで大ごとにはなりません。異国である日本で、1年半ほども共に暮らしていれば、共通体験も少なくなく、一人が「あれが…」といえば、こちらが説明する必要もなく、「ああ、あれか」で通じ合えることもあるのです。

ところが、互いに相知らぬ者同士ですと、そうはうまくいきません。

地球上には、「宗教は麻薬である」と言われながら育ってきた者もいれば、生まれたときから神に囲まれて生きてきた者もいます。そういう人たちが、留学生として同じ教室で学び、そして同じようなアルバイトしているのです。生まれてから育まれてきたものは、消えていなくとも、少なくとも「自分とは異なる『他』」がいることはわかるようになっています。

そういう人たちが地球上には多々存在するということを知るだけでもいい、他者を否定する必要も、肯定する必要もないのです。「ああ、そうか。この人はこう考えているのか」、あるいは「そういう雰囲気の中で生い育ってきた人なのだ」と思えればそれでいいのです。

こういうことに「正しい」とか、「正しくない」とかは存在しません。知ることが大切であり、否定しないことが大切なのです。

でも、面白いですね。数が多い方が、なんとなく他者を圧してしまうのです。とはいえ、バランスを取るのが教師のつとめですから、そのときは私が一言か二言、言葉を足して、さらっと流すようにしていますが。

日々是好日
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今朝はムシムシしています。「並ぶということ」。「初めてもらった給料のこと」。

2017-09-27 08:26:31 | 日本語学校
曇り。

「『秋』らしくない」のは、この「ムシムシ感」。今朝は、早朝からムシムシしています。夕方から、あるいはもう少し前から雨になるという予報が出ていましたから、ムシムシもわかるのですが…。それはそうとしても、「秋なら、ちっとは違う様があるだろう」、「こうじゃないだろう」というどこか裏切られたような気分は拭えません。

さて、学校です。

先日、「日本へ来て驚いたこと」を学生に訊いたとき、その一つに、「『行列』の光景」というのがありました。皆が並ぶということに、中国人のみならず、他の国から来ている人も驚いたようです。もっとも、自分たちも、ことある毎に並ばされるわけですから、不自由なと(そのとき)思ったかもしれません。

そういえば、あまり彼らの国では見かけませんでしたね。そういう、順番に入らねばならぬような所があっても、並ぶでなく、並ばぬでもなく、タラ~リとした緩い塊というか、そこに屯して待っているだけであったような気がします。

2、三年前でしたか、六義園に紅葉を見に行った時、入り口で、いつものように(学生達に)「はい、2列に並んで」をやっていました。そして、入場券を配布すべく後ろの方へ言ったとき、学生たちの、そのまた後ろに、三人ほどの日本人が並んでいるのを見つけて、ドキッ。

すぐに謝ったのですが、日本人の方は驚いて、「えっ、(入るために)並んでいるんじゃないの」。そういえば、列を見ると、すぐに並ばなきゃと思ってしまうような気がします、私とて。

入り口の方を確かめるより先に、並んでしまうのです。地下から上がってきたときなど特にそう。そこに入り口に向かう列などがあると、これはもう入るために並んでいるのだろうななどとすぐに思ってしまいます。学生の方も、日本人が後ろに並んでいるのを訝しく思いながらも、見ているだけで終わっていますから、もしかしたら、どうして並ばなければいけないのかがわかっていなかったのかもしれませんね。

箱根や富士山などのバス旅行の時も、バスに乗る前には順番に並んでおく。ディズニーランドやその他、入場しなければならないところでも、入場券の配布や人数確認のために並ばせておく。1列か2列が多いのですが、ロープウェイ入口などでは、時に4列ということもある。初めはどうしていいのかわからなかった彼らも、「はい、2列に」でという声で、何となく様になるようになってくる。もっとも、3ヶ月に一度は新人がやって来るので、まごまご組は出てくるのですが。

それから、「日本に来て一番嬉しかったこと」で、一番多かったのは、「初めて給料をもらったこと」でした。

例年、「友達とディズニーランドに行ったとき」とか、「バス旅行でみんなとおしゃべりしたこと」などが首位に出てくるのですが、今年は、一人が「初めて給料をもらったこと」と言い出すと、途端に皆の意見がそちらに傾いて、一番になりました。

国で仕事をしたことがある人にせよ、1ヶ月で10万円くらいのお金ではなかったでしょうから、二桁のお金を手にし、「ああ、これは自分が稼いだ金なのだ。自分の金なのだ」と実感できたことが一番嬉しかったようです。

日本人だって、初めて自由に使える(自分が稼いだ)金を手にしたとき、開放感というか、自信というか、そんなものが感じられるのでしょう。

ただ、こういう日本語学校の学生達の後ろには、借金をしてでも送り出してくれた両親がいたりしますから、親の助け(あるいは、恩返し)が出来るという気持ちも含まれているのかもしれません。つまり、「親にしてもらうだけでなく、してやることが出来る存在になった自分を実感できる嬉しさ」の方が、もしかしたら、大きいのかもしれません。

日々是好日
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虹は、…以前はよく見ていたような気がするのですが。

2017-09-26 08:45:41 | 日本語学校
晴れ。

秋の天気は変わりやすいと言います。「晴れ」とは出ていても、「急に雨が降るかもしれません」などと言われてしまいますと、ちと悩んでしまいます。洗濯物は、どこに干すか。

もっとも、夏の日にだって「夕立」などというものがありました。今年は雨の日が多かったせいか、「夕立」という言葉自体、遠い存在になってしまったような感があるのですが。

とはいえ、「夕立」と言いましたら、そのあとの「虹」ですね。この「虹」、今時見たら、「すごい」なんて思ってしまうかもしれませんが、以前はそれほど稀なものではなかった…。記憶の中には、いくつもの虹がありますもの。

夏を彩る花、「サルスベリ(百日紅)」も、もう「紅ほのか」となっています。見ていたのが、日陰に置かれていたものであったからでしょうか、100日、もたなかった…。葉の緑が際立って濃く感じられ、全体的に暗い花であるかのような…。本来なら、明るい、陽の花なのでしょうに。

さて、学校です。

「七課」分のテストが終わったあと、今度は、その復習をかねて、まとめ部分を二回続けてやりました。…このクラスでは軽くさらりと飛ばすわけにはいかないのです。「判った感」を身につけさせておかねばならない、否、身につけさせておいた方がいい人が、数人いるのです。

一回目はテストに不慣れな学生のために、少しばかり詳しくやり、そのせいで、持ち時間、時間ギリギリとなってしまいましたけれども。そして二回目の昨日、今度は副詞。接続詞。会話であることから、賑やかにやってみました。この「賑やかに」というのは、彼らに質問させたらこうなったというだけのことで、私が「させた」わけではありません。

一応、これらの品詞を確認させた上で、問題を一ページ分、共に読みながら、忘れた(いったい、これをどう言ったらいいのでしょうね。見たことはあるはず…なのですが、だって学校で一緒にやりましたもの。でも、記憶に全くと言っていいほど留まっていない)ものに線を引かせて、読み終わった段階で、訊かせていきます。そして(私が)出てきたページなり、「課」なりを言っていき、自分でもう一度見てみるように言って、時間を与えます。

さて、それからが面白い。「だいたい」とか「たいてい」、「ほとんど」「よく」など、「初級レベル」では判断のつきにくいものもあり、たとえの例文で説明していきます。もちろん、両方使える場合もあります。また既習の使われ方をしていないものの質問もあります。

実際、彼らの半分ほどはレストランとか焼き肉店などで働いていますので、思いも寄らぬ(時には、N2レベルの)意味で使ってみせる学生も出てきます。そのときは、それは「可也」とか「不可也」とだけ言い(もちろん意味は伝えておきますが)、他の学生が戸惑わないようにさせておきます。

中には聞き囓った二つ、あるいは三つ四つの文を合成させて、一文となして聞いてくる輩もいて、一体これは何じゃと言いたくなりような奇天烈なものもありました…想像力を逞しくして…考え…、パズルみたいだなと思ったりしましたけれども…。

しかし、(本当は時間に余裕などないのですが)こういう時間があると、彼らの今現在の環境がおぼろげに伝わってきて、面白いのです。一人が愚かしいことを言い出すと、それに勇気を得て(安心して)、半分ほどが勝手なことを質問し始めるので、教室の中は「いいえ、違います」やら、「こんな文はどうですか」みたいになって、それこそ賑やか。

やはり、言いたいことが言えるというのが一番。教科書は、一応、系統的に教えていかなければならないので必要なのですが、シッチャカメッチャカの大騒ぎをしていても、勉強から離れていない姿勢が見られれば、私は放っておきます。その方が身につくからです。だって、知りたいことですもの。彼らにとっては遠い教科書の内容よりもより身近で切実なものなのです。

もとより、そういう彼らも来年の今頃は進学で苦しまなけれならないことになりますから、そうそう自由にはさせてやれないのですが、まあ、時間が許せば、たまにはいいかな。だいたい、この「初級クラス(今年の4月生)」では、半年が過ぎ、やっと日本語に少し馴染めるようになってきたという面々が多く、国である程度やって来た学生が多いクラスとは自ずからやり方も違えていかなければなりません。

「『何が何だかわからない』、だから、『大丈夫?』と聞かれたら、『はい、大丈夫』と答えるより他はない」という段階から、やっと、「(日本語は)難しい。判らないのが判った」という段階まで来たのですから。

(教師)「大丈夫。もう一度勉強し直したら、大丈夫になるから(おかしな言い方ですが、これが一番ストンと落ちるようなのです)」で、(学生)ほっとして、にこっと笑顔を見せる…ようになれた…だけで、なぜか教師の方は安心してしまうのです。

彼らの国では、全部が全部そうとは言えないでしょうけれども、判っても判らなくても同じクラスだし、それ(そういう人がいても)に対して学友も教師もなんとも思っていないらしい。日本では(勉強が)出来ない生徒がいると、普通、教師は焦ります。どうにかして判らせねばと思い、放課後残したり、何らかの手立てを講じたりするものです。それで、生徒の方も、「ああ、あの子、残されている」とかで、わかるのかもしれません。

けれども、彼らの国ではどうもそうではならしい。だからわからないのでしょう。皆(自分と)同じモンだと思っている(出来ても、出来なくてもなのかもしれません)。半年かけても「ひらがな」が覚えられない人がいても、「ははは」と笑って、何とも思わない。

そういう(ひらがなが覚えられていなくても)人でも、平気で(みんな一緒に)上のクラスに行けるものだと思っているので、「もう一度やった方がいい」なんて言われると、ショックを受けたりする。そういう心配が、少なくとも、このクラスでは消えつつあります。それどころか、「(言われたとおり)二回目にスッキリわかるようになるために、今は『50課』まで頑張ろう」という気になっている。

勉強の面では全く「楽なクラス」ではないのですが、こういう面では「精神的に楽なクラス」で、楽しいクラスになっています。だいたい、この「4月生」、学校を休まない。これが一番いいところです。友達と話したり、教師と雑談したり、それなりに楽しいのでしょう。それに叱ったり、檄を飛ばしたりするのは私くらい…もう一人いるかな…でしょうし。

次の段階に進むまで、このままでいてくれたら、いいですね。勉強の方はかなり大変ですけれども…いや、なに、こちらが、です。

日々是好日
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毎日、嫌がらずに学校に来て、勉強できれば、それが一番いい…。少しずつでも上手になれるでしょうし。

2017-09-22 08:19:06 | 日本語学校
曇り。

早朝、雨が降り出したのですが、その雨音の重さに驚いてしまいました。朝から降り出すなんて思ってもいませんでしたから。その雨もじき止み、陽が射したかと思った…のですが、もううっすらとした雨雲がかかり始めています。この調子でいきますと、やはり予報通り、昼過ぎから雨になるのでしょうね。

「涼」。「マンジュシャゲ(曼珠沙華)」よりも「コスモス(秋桜)」が似合いそうな涼しさです。だいたい、「マンジュシャゲ」なんて、お盆前後に咲くものだとばかり思っていたのですが、ここいらでは、九月のものなのですね。お月見の「ススキ(薄)」の時もそうでしたが、時々季節感がごっちゃになって困ってしまいます。

さて、学校です。

何をするにしても、ゆっくりの学生達に(仕事の作業だけは驚くほど速い人も中にはいますが)、業を煮やし、いつも焦らせてしまう私なのですが、時々、「これじゃいかん」と、気を鎮めて彼らの動きを見ることがあります。焦っていなければ実際はこっちの方が学生の方の動きがいいものなのですが。

「では、漢字の勉強を始めます」と言いますと(いつも漢字から入っているというのに)、最初、1、2、3、くらいの間、ぼうっとしています。それから、私の顔を見て、ハッとして、机の上の本やノートの山の中から、漢字の教科書とノートを探し始める。毎回のことなのに、焦って捜すものですから、途中で、「先生、ありません」なんて悲鳴を上げる者も出る。

それが、一人の時も二人の時もある。声を押し殺し、「捜せ。ある」と言ったりしますと、あら、大変となるのです。(「命令形。禁止形」を習ったばかりなので)途端に、手が止まってしまいます。「これは、何だっけ。命令…?禁止…?」なんて考えてしまうのでしょう。「しまった」は、私。すぐに「考えるな(『な』?『な』だから、禁止。じゃあ、さっきのは命令?」…。言えば言うほど、彼らを困らせてしまう…こともあります。

まあ、考えてくれることはいいのですが、「今は漢字です」と、わざわざ言わねばならなくなる。

でも、本当にいい人達です。どうにかして彼らの日本語能力を高めてやりたいのですが、一番の問題は、家で勉強をする習慣がないらしいこと。勉強というのは、学校で授業を受けることと思っているらしいこと。これだけじゃあ、漢字は覚えられません。

中国人の場合は、漢字を覚えると言っても、読み方を考えておけばいいだけでしたから、大したことはなく、それに、難物のはずの、読解力にしても、国で培われていたそのままでよかったのです。なんと言いましても、家で勉強するのは当然ということが判っている人が多かったので(高校を卒業してすぐに来たという場合が多く、大学受験を目指して、それなりに勉強をしていたその勢いでやって来て日本語の勉強をするという形)、困ることはありませんでした。漢字の練習が要らないだけ、どんどん問題をこなしていくことが出来ましたから。

ところが、非漢字圏の人たちは、慣れない「書き」の作業で、音を上げ、次へ進めない。取り繕って写して終わりとなってしまう。

「鉛筆やノートがなくても、宙でも書けるでしょう」と言いたいのですが、それにも、ある程度のレベルが必要で、そこまで行けない人が少なくないのです。やはり漢字ばかりは家で、あるいはアルバイトの休み時間、電車での移動中などに「覚えよう」として「覚えなければ」、「覚える」ことはできません。

「練習しました」と10字くらいを書いて持って来て、私に見せ、「でも、覚えられません」などと言う。私は、「そう。でも、練習しようね」と言う。他に言いようがないのです。漢字の練習の仕方は何度も説明しましたし。「漢字を見て、写して書くだけじゃだめだ」と。「ひらがなで『読み』を書いて、それを見て漢字を書かねばだめだ」と。けれどもそこまで至れないので、どうしても、「(漢字を)見て、写して、やった気になって、終わり」となるのでしょう。

漢字は、三、四回書けば、覚えられる人もいるし、100回書いてもだめな人もいる。とにかく毎日見る、書くを繰り返さねば、覚えることは難しい。…そう言うと、そう聞いただけで、力尽きて諦めてしまう人もいる。だから、その点は言わずに、「見ろ」「書け」を繰り返す…。

胸を張って「書けないけれども、読めます」と言う人もいる。「では、読んでごらんなさい」と読ませてみると、「父(ちち)」を「はは」と言ったり、「重い」を「かるい」と言ったりする。これはいい方です。少なくとも、練習してきたことは判ります。それで、「あと、少しですね」くらいは言っておく。

多分、こういうことの繰り返しなのでしょう。

嫌がらずに毎日学校に来て、『みんなの日本語Ⅱ』までどうにか終わらせておけば、下のクラスに行くにせよ、二度目は一度目よりも絶対に強いですから、二度目は今判っていないことがわかるようになるでしょう。

それまでに、「もう一度やる」ことを嫌がらずに、反対に「望む」ような気持ちにさせておくことが大切。

本当に不思議なのですが、判らなくても、もとのクラスにいた方がいいらしいのです、インド圏の人たちは。国でそうだったのでしょうね。私たちからすると、判らないのに教室に座っているのは辛いこと。分かるクラスに行きたいだろうと思ってしまうのですが、そうではないのです。

反対に、「今の勉強は難しいでしょう。もう一度、あるいはもう少し前からやり直した方がよく出来るようになると思いますよ」が通じないのです。

もちろん、「4月生」のクラスには、半分ほど「ほとんど白紙状態」で来ていた人がいますから、他のクラスの人たちとは比べることはできません。他のクラスの留学生は、国で既に「50課」を終えて来ているか、あるいは、少なくとも「30課」は終えてきている人たちが大半なのですから。

まあ、一昨日の試験、そして昨日の返却で、あまり芳しくない成績の人も、一応、「50課」までは、このクラスにいて、授業を受けるというのは判ったようです。それから「もう一度ね」も通じたようです。なぜそうした方がいいのかは…わからなかったようでしたが。

日々是好日
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書けることをそれほど重視していない国の人が、日本に来るというのは…、大変なことですね。

2017-09-21 08:26:37 | 日本語学校
晴れ。

いわゆる「秋晴れ」です。めっきり涼しくなった朝晩も、きっと昼には暑くなることでしょう。とはいえ、空気は乾燥していますから、気持ちがいい。ベトベト感はなくなりました。

最近、朝、学校に来るとき、よく「ネコ(猫)」の姿を見かけます。なんということはない、道を横切っているだけなのですが。夏は、朝といえど、耐えられない…と思っていたのでしょう、雨の日も多かったことですし。

街に動物や植物の姿があると、「動」というか「生」が感じられて、安らぎます。ヒトだけでは、人工的な何ものかの中に、自分が埋没しているようで、どこか落ち着きません。だいたい、ヒトと何千年も共に暮らしてきた犬、猫ですら、歩けないようなところに、人がいるということ自体、おぞましいこと。「ハト(鳩)」たち、つまり鳥たちさえ、悪者扱いされてしまっていました時期もありましたし。

また、私が子供の頃は、という話になりますが、街に野良「イヌ」や野良「ネコ」が徘徊していても、街の人たちはもっと大らかに接していたような気がします。きっとそれが今の「地域ネコ」というものなのでしょう。もとより、フンや食事の問題、またどうもイヌやネコが「苦手」だという人もいますから、どこを落としどころとするかに、皆が悩んでいるのでしょうが。

さて、学校です。

カンニングでは、インドやベトナムが有名ですが、ネパールやバングラデシュ、スリランカでも同じことのようです。日本のように罪悪感はありません。

今年の「4月生」は、ネパールからそのまま入れたということもあり、彼らの現状がよく判っていませんでした。判ったのは彼らが来てからです。素直で純朴、そうでなければ、人の手伝いが大好きという、人としてみれば、いい人達です。いわゆる白紙のまま、すれていないとも言えるでしょう。ところが、こと「日本語」となりますと、「う~ん……」と、(日本語が)判らない人たちが塊とやって来るとは、こういうことなのかとため息をついてしまいます。

文法説明もできない(ネパール語の文法解説はありません。英語だけです。英語が出来るとは、各自言うものの、その説明が読めるほどにはできないようで、読ませてみても、ますます謎が深まる様子に、もう見させるのを止めてしまいました)ということで、日本語での文法説明は軽く流すだけにとどめ、今は、口頭練習をとにかく多くし、「繰り返す、繰り返させる」ことによって、耳に慣れさせていくという方法を採っています。

「聞く」「話す」に重点を置くという本来なら邪道かもしれません。もちろん、漢字も入っていますし、ディクテーションめいたものもしています。とはいえ、できないことをしつこくやると、いえ、やっても耐えられるようにはできていないようなのです。ここらが限界かなと彼らの様子を見ながら、手心を加えていくしかないのです。

おかげで、「わかっているような気分」「出来ているような気分」でいられるようで、授業中の彼らは決して暗い表情はしていません。それどころか間違えてもニコニコしています(メモしろと言うのですが、しても、見ないので効果は出ない。…で、この手は効かないと他を考えているのですが、どうも探しあぐねています)。

ここで厳しくやってしまうと、そう強くない人たちですから、一遍で萎えてしまい、学校に来るのがシンドクなってしまいます。

本当に書くのも苦手なのです。口では言えても、つまり「っ」とか、「ん」とか、「う」とかは適当であっても、日本人には(言わんとするところが)わかりますから、アルバイトでは困りません。だから、本人は出来ているような気になれる。でも、学校のテストでは、それをはっきり書かねばなりませんから、出来ているか出来ていないかがすぐにわかってしまう。

どの動詞に「っ」をつけ、「ん」をつけるかは明確でなくとも、つけなければならないものがあることはわかっていますから、なかなか筆をおろせない。

世界には「『書く』ことを重視する『文化』」と、軽視とまではいかなくとも、それが主流ではない文化というのがあるようで、インド圏はこの後者のようです。

もっとも、出来るようになれば、書くことも苦にはならないようなので、国でその程度まで、やってきてほしい。「みんなの日本語」50課くらいまでのこと(そういうと、だいたい35課くらいまでですね、やって来られるのは。一応、七月生を見るとそのようでした)。そこまでは、文法の説明だけでもいいから、やって来てもらえれば、もう少し、こちらでもやれることができるのですが。

日々是好日
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のんびり屋さんが多いというか、日本のやり方に慣れるまで、もう少し時間がかかりそうです。

2017-09-20 08:20:18 | 日本語学校
曇り。

まだ30度近くなる日もあるそうですが、朝晩はすっかり秋めいてきました。虫の音もそうですし、草木の姿にも、もう夏のような荒々しさはありません。もっとも今年の八月は雨が多く、勢いも例年ほどではありませんでしたが。

さて、学校です。

1年生のクラスと2年生のクラスを午前午後に分けて行き来していますと、反応の違いに驚くことがあります。

例年、眠くとも、いえ、それだけではなく、どんなことがあっても出席率だけは稼ぐという人はいるのですが、今年の1年生にはそれがあまり見られません。きちんと学校へ来て、それなりに勉強している。勉強するために来ていると言うことがよく感じられるのです。

今の2年生の時はそうでもなかった…。学校に来ても耐えられなくて眠ってしまう。起こしても起こしても眠ってしまう…。話し合ってみても、それぞれ事情があるのでしょう、彼ら一存では決められないことも多いようで、そうなりますと、病気になられても困りますから、それほど厳しいことは言えなくなってしまう。

それに比べれば、今年の4月生は楽。ただ、それほど勉強の方で頑張っているという感じはないのですが。

今度のように、休みが3日続いてしまいますと、せっかく復習してどうにかカードを見て言えるようになっていた5,6課分の動詞が70%ほど消えている。また練習せねばならない。動詞のみならず、名詞も消えがち。不安になって、前は出来ていた、少し前の文法の復習をちらとしてみると、これができない。でも「ああ、そうだった。忘れていた」とにこやかな表情。私は苛ついているのですけれどもね。

忘れてちゃだめでしょなんて言っても無駄なのです。彼らには彼らのリズムがあって、強制は出来ないのです。それでも、今回は70%ほどでした。数ヶ月は、なかなか単語が出てこず、一人か二人がいうだけでしたから、それに比べれば…と、自らを慰めるしかないのです。

だって、少なくとも、学校にいるときは、言われたように勉強しているのですから、寝ないで。単語の読み合わせから、カードでの練習。例文の暗記。自動詞、他動詞の読み合わせ。新出動詞の活用など、言ったようにやってくれるので、多分、時間が経てばどうにかなるのだろうという気はするのですが、さて、どうでしょう。

このクラスでは「理屈(文法の説明)」は軽く言うだけで、とにかく口頭練習、それしかないのです。説明をし始めると、もう泥沼。学生の方で何が何だかわからなくなってしまい、口が動かなくなってしまうのです。そういうタイプの人が少なくないので、とにかく練習、練習。耳から、口から、目から入れていく。どんどん慣れ親しませていけば、「N3」くらいまではどうにかなるでしょう。と、そんな感じでやっているのです。彼ら同様、明るく楽天的にいくしかありません。

ここに、違うタイプ、理詰めで来るような人が入ってきますと、多分、学生達はパニックになるでしょうね。その人は質問するでしょうから、せっかく判った気になって言えるようになっていた学生が、チンプンカンプンになってしまう。

おまけにのんびり屋さんが多いのです。彼らの国でもそうやって、ゆっくりと本を出し、ノートを出し、一つ一つ「今」使うものだけを「今」出してきたのでしょう。「授業で、あれとあれと、それからこれは絶対に使うものだから、先に出しておきなさい」は、なかなか身につきません。スッと判ってスッと出来るようになったクラスもあったのですが。彼らはそうではないようですね。

私が授業の前半の時には、「来たらすぐに本を出す、ノートを出す、鉛筆を出す」と言っていたのですが、そうすると、マーカーが出ていなかったり、消しゴムがなかったりするのです。…そうか、ペンケースは使わないんだ…。使うように言っても、大丈夫と言います。それが慣れているから、嫌なんでしょう。リュックのポケットにバラバラと入れておく方が面倒であるような気がするのですが。

それに、「先生の言うとおりにしなくちゃ」と頑張っている彼らの気持ちが判れば判るほど、反対に、そう急かせる自分の方が、何だか酷な人間のように思えてきます。

だいたい、来日後半年も過ぎれば、授業でも、次はこう来るなというのが判りますから、それなりの反応はできる。ただ、困るのが、遅いこと。流れは判っているはずなのに、漢字の練習の時も、なかなか漢字ノートが出てこない。漢字の教科書も出てこない。言われて初めて、大急ぎで出そうとする。…すると、却って、どこにあるのか判らなくなってしまう。時々「いち、に、さん。一番遅いのはだ~れ」などとやったりするのですが、こちらの意図とは逆に、喜ばれちゃったりするのですよね。

時には、戸惑ったように「先生、ノートがありません」と来る。「ないはずはありませんから(入れっぱなしでしょうから)、よく捜しなさい」「ああ、ありました」。それが二人か三人ですと、だんだんこちらの言葉も荒くなります。「捜せ」。言ってから、可哀想なことをしたなあ、どうして親切にやれないのだろうと反省したりするのですが、彼らの方では、何人かが、「さがせ」「さがせ」…「ああ、めいれいけい」などとやっている。ため息です。

時間は瞬く間に過ぎていきます。過ぎていくのは時間だけで、最初の頃、こちらがやろうとしていたことの半分も出来なかった。で、やり方を変えて、と思っても、やり方を変える云々の問題ではなく、教師が「漢字をやる」と言っても、しばらくはこちらの顔を見てすぐに反応できないということを変えてもらわなくてはならないということが問題なのです。

時々、ぼうっとこちらを見ている学生に「こら、見るんじゃない。本を出せ」などと
、習って少し経った命令形で言うのですが、そうなると、また、「ああ、めいれいけい」とうれしがってしまい、私の言わんとしたところが、ぼやけてしまうのです。

素直で本当にいい人達だと思うのですが、ため息は…つきつづけ…です。でも、一番大切なのは、日本語の勉強が嫌いにならないこと、難しいと思わないこと、楽しく出来ることですから、まあ、これでもいいのでしょう。楽しそうですし。

日々是好日
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火山の噴火もあれば、地震もある。津波も来るし、その上、台風まで…そんな国、日本。

2017-09-19 08:26:12 | 日本語学校
曇り。

「台風18号」は列島を縦断し、様々な傷跡を残して行きました。この辺りは16日の夜半から明け方にかけて影響があったようですが、それほどの被害はなかったようです。

ただ台風が去ったあとの暑さは…、一時期、10月並みの涼しい日が続いていただけに、ちょっとバテましたね。今日も30度を超えるそうですが。

とはいえ、子供の頃はよく台風が来ていました。休みの日はともかくとして、学校のある日など、台風の進路次第で、3時限目から集団下校、というのがよくありました。6年生が地区ごとに1年生や2年生をひきつれて帰るのです。リーダー格が他の6年生、5年生と手分けして、それぞれの家にまで、低学年の子供たちを届けるという役目を担うのです。

記憶には、大人の影がないのですけれども、多分、PTAから何人かの大人が手伝いに来ていたのでしょうね。足りなければ教師がその役を果たしていたのかもしれません。

大ごとになる前に帰宅できるように考えられていたのでしょうから、だいたい皆無事に家に着いていました。けれども、数回大雨の中を帰ったという記憶があります。そのときは大変だったのでしょうけれども、過ぎてしまえば、それも結構面白かった…。家に着くと、よくぞ、この大雨の中を帰ってきたとチヤホヤされましたし、それに翌日友達と昨日の成果?を話すのも楽しかった…。まあ、子供とはそういうものなのでしょうが。

それに、当時は、台風による停電というのが少なくありませんでした。それで、ろうそくと懐中電灯は必需品となります。懐中電灯の光は、ワクワクさせるものではありませんでしたが、ろうそくの灯は違いました。見つめているだけで、異次元の世界にでも入ったような気分にさせてくれました。もっとも、火は危ないと言われ、すぐに寝なさいと追っ払われるのがオチでしたけれども。

関東地方に来て驚いたことは、台風が少ない…ということでした。みんな避けて通っている…ような印象がありました。もともとこっちの方はあまり台風が来なかったのかもしれません。北海道なんて、梅雨だってないと聞いていましたし。それが昨今は、東北や北海道の方へも行くのですから、驚きです。

大雪には慣れた人たちでも、大雨にはお手上げ…かもしれません。ニュースなどで流れてくる北の地方の町や村の様子を見るにつけ、そう感じます。あれが塊である雪であったら、量は同じであっても、あそこまでの災害にはならなかったであろうなと思われる時があるのです。

大雪には対処できる人たちが、河の水かさが増していくのを、あれよあれよと見つめている。そのうちに堤防を越え、泥水が家の中にまで入り込んでくる。

大雨になれている南の人間だって、こんなにひどいことはなかったというような時代なのです。これまで、雪と雨とではっきり分かれていた日本の災害状況が、北では雪も雨もとなっていくかもしれません。

温暖化のせいで、深海の水温まで上がったそうですから、その影響なのでしょう。海水温が高くなれば、そこから尽きぬエネルギーをもらって台風はどんどん巨大化して行くし、以前なら陸上に上げれば、勢力が弱まっていたものを最近は、その間に一度でも海に出てしまえば、また(勢力を)挽回して戻ってくるのですから、気が抜けません。

日本には火山の噴火もあれば、地震や津波もある。その上、台風までやって来る。日本人の中に、どこかしら、生に固執しないような部分があるのも、そのせいかもしれません。もちろん、得がたい命を与えられて、ここに存在しているわけですから、それはそれで、大切にしていかねばならないものなのですが。

日々是好日
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台風が近づいています。

2017-09-15 08:30:50 | 日本語学校
曇り。

今日は「洗濯日和」とのことでしたから、早朝から晴れるかなと思っていたのですけれども。強い台風が近づいてくるようです。予報円の中に列島がスッポリ入っているような。この辺りでも明日頃から雨になるようで、電車が遅れないかしらんと心配です。

確かに台風の数は減ったような気がします。けれども列島に来る台風の大半が巨大化し、被害も甚大なものになっている…。これでは都市の水瓶のために台風を心待ちにするなんて悠長なことが言えなくなってしまう。空梅雨の時、どうしましょうね。

秋らしい秋になり始めると、「アサガオ(朝顔)」が途端に寂しい姿に変わっていきます。今年は「ツキミソウ(月見草)」も見つけられなかった…。いつも通る通りになかったのです。この辺りでは、「マンジュシャゲ(曼珠沙華)」は、もう終わったのでしょうか。「アカトンボ(赤蜻蛉)」も見かけませんでしたし…。

さて、学校です。

今年の4月生も、半年ほども経つと、どうにか格好がついてきました。何よりも、わずか半年ほどで、レストランやコンビニなどで働いているのですから…。働いてお金をもらうようになれば、自然とお尻に火がついて、「聞く・話す」はそれなりに様になってくるのでしょう。以前であったらあり得ない!ことなのですが。

もちろん、難しい仕事はまだ無理でしょう。アルバイトで使われるような日本語はステレオパイプのものが多く、金太郎飴と思っておいた方がいいのです。レストランでそつなくアルバイトが出来ているから、自分の日本語は大したものだと天狗になり始めたら、最悪。勘違いした時点で、(日本語の)レベルは止まってしまいます。まあ、これはどの仕事に於いても言えることなのでしょうけれども。

だいたい、日本語学校の学生には、「応用」レベルの言葉は要求されていません。そういう場での働きだけなのです。

初級段階から、そういう芽(現状で満足する)が出てきたら、すぐに潰していきます。それでも、人は易きにつくものです。慣れぬアルバイトや勉強で疲れていれば、尚更のこと。そのまま、ズルズルと(その状態が)続いてしまう場合も出てきます。

もっとも、こういうことは私たち学校の者だけがやっているわけではなく、時にはアルバイト先の日本人が彼らに注意を促すこともあるのです。いつも使われている単語や文型以外のものが判らなければ、(彼我の)学校で学んだことのない外国人と何の相違もありません。

やはり、ある程度の日本語レベルが必要であるというアルバイト先の中には、日本語学校の学生であり、現に学んでいる人ということで、先物買いめいた採用の仕方をしているところもあるのです。いくら気働きができても、働くことを厭わなくても、結局、そこも「客」商売ですから、いつまで経っても、お客さんの要求に応えられないという日本語レベルで応対されては、どうしょうもないのです。

アルバイトをする上でも、また自分の将来のためにもですが、現状維持はちと困る。学校での勉強は、アルバイトとは関係なく、日々怠りなく、やってほしい。そして学んだことがすぐ実戦に生かせるという地の利を生かして、応用力をつけていってほしい。

そう思います。

日々是好日
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今日も暑くなりそうです。エアコンの温度調節で揉めるかしらん。

2017-09-14 10:04:09 | 日本語学校
曇り。

雲がだんだん薄くなって、青さが透けて見えるようになりました。晴れになるかな。

さて、学校です。

今年のネパールの4月生は、日本語では「白紙」状態の人が多かったので、本当に苦労しました。もちろん、苦労はまだ続いています。この学校では、今年の4月生から、ベトナム、スリランカ、ネパールの学生が全体の三分の二ほどをしめるようになりました。それで、その一端が、「ワカラナイ、ワカラナイ」ムードをもちますと、教室中がブラックホールに入ってしまったような雰囲気になってしまいます。学生が真面目なだけに余計困るのです。

もっとも、真面目と言いましても、日本式に勉強をする、予習・復習をするというのではありません。授業中、頑張るくらいのもの。

もともと、この学校では、「それだけでいい」というような授業のやり方を採っていました。アルバイトをする学生が多いので、自宅学習などあまり期待できないからです。ところが、非漢字圏の学生で、そういう人が多いと、最初から躓いてしまいます。二週間で「ひらがな」「カタカナ」を卒業して、次(漢字)に移るということが、難しいのです。数が多すぎるので、その人だけを取り出してというわけにもいかず、勢い、クラス全体で何度もやるということになってしまいます。

一応、習って来ているはずなのですが、書かせてみると、「あいうえお」の表、全部が埋まらない…。できても、しかとも知れぬ字がいくつも並んでいるような感じで、これは「な」じゃないとか、これは「が」じゃないとかいうことになる。そう言いましても、彼らはそういう「ひらがな」「カタカナ」を覚えるためだけに、1か月ほども費やしているわけですから、今更、変えられるものじゃない。

指摘されたから、これから注意して書くかというと、そういう(勉強の)習慣はありませんから、何度言っても、書かせても、前に出して注意しても、…それができない。そのときだけは、しまったという顔をしますし、「昨日も一昨日も言いました」と言えば、「先生、ごめんなさい」と本当に済まなそうな顔をする。

あまりに素直で幼いので、こちらがいけ好かない悪者になったような気になってしまう。

もっとも、もう入学してから、半年ほども経ちましたからね、「わからない」と言われても、「勉強しなさい。自分で出来ることがあるだろう」と(同情したい気持ちを)振り切るようにしています。多分、もう一度繰り返せばば、彼らは出来るようになるはず。だって、素直が一番強いのですから。

ただ、残念ですね。彼らだって、7月生たちのように、母語できちんと教えてもらっていれば、彼らと同じように、日本に来てからスムーズに勉強して行けたでしょうに。

中国人たちの時には、下手に中国で勉強してこない方がいいなんて言えましたが、ことベトナムやスリランカ、バングラデシュ、ネパールのような国に於いては、やはり母語で基本中の基本の「初級」くらいは入れてもらっておかなければ、大変。日本語での説明が判らないのですもの。教科書についてある、母語の説明がわからないという場合もありますし、英語の説明も彼らの英語力を遥かに超えている場合だってありますもの。

それに、4月に来たとしても、一年半で、大學を目指したいという学生だっているのですから。

日々是好日
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この暑さは「残暑」かな、「残暑」と言ってはおかしいかな。いや、やはり「残暑」だろう。

2017-09-13 08:30:06 | 日本語学校
晴れ。

残暑と言えば、どこか違和感が残る。それくらい8月は「夏」ではなかった。とはいえ、夏は夏なりの地熱がずっと存続していたのかもしれません、上に上がっては来なかっただけで。

縮み上がった「ムクゲ(木槿)」の花が、まともに開いた、気持ちのいい「ムクゲ」の花となって咲いているのを見ました。1か月ほど遅れの盛りが来たのかもしれません。

さて、学校です。

冬から春、春から夏、夏から秋、秋から冬。ちょうどこの端境期に起きる「暑い」「寒い」の戦いがまた始まっています。エアコンの温度を巡ってのものなのですが。

だいたい、学生には「涼しい」と「暖かい」の感覚の違いなんてわかりませんから、「初級」のうちは「春は暖かい、夏は暑い、秋は涼しい、冬は寒い」と念仏を唱えるようにくりかえさせています。もちろん、「N3」の「読解」をある程度読めるようになった頃、さりげなく、同じ温度なのに、どうして「感じ方」が違うのかを説明するのですが、それでも、判ったかどうかというと、ちょっと怪しいものです。すぐに判るような学生は、最初からこういう説明は不要でしょうし。

で、エアコンの温度調節のことですが、これが一年目の学生となりますと、南国からの学生が多いからでしょうか、エアコンに慣れていないので、「止めましょう」「窓を開けましょう」となる。ところが、二年目の学生にそれを話すと、「えっ。昨日は暑かったです。エアコンが要りました」と言う。一年で、春夏秋冬を経験し、温度に対する感覚が地の人と同じようになったのでしょうか。面白いものです。

そういえば、薬に関しても、それに類するような話を聞いたことがありました。「異国に3ヶ月間住んだら、もう日本の薬は効かないよ」。その地の人たちが飲むような薬(薬と言っても民間薬とか、薬とは言いにくいような食べ物とかのことですが)を摂取した方がいいということなのでしょう。体がその地の食べ物を摂っているからでしょうか。

体や精神が慣れるというのは、ある意味、恐ろしいことです。慣れることができない人にとっても、恐ろしいこと。

これは何も異国でのこととは限りません。職場でもそうでしょうし、クラスでもそう。

勉強する気のない人たちが集まれば、勉強したいという人は弾かれてしまいますし、反対に、向上心のある人たちが集まれば、勉強する気のない人は浮き上がってしまいます。

一般的に言って、大した者でもないくせに、知っていることを偉そうにいう習慣のある人がそこにいれば、それは毎日顔を合わせているわけですから、だんだん嫌になってくるはず。

しかしながら、そういう人ばかりであれば、それが普通のことであって、嫌だと思う方がおかしい。早く、それに慣れて、他の者と同じように、大したことでなくとも、褒め合い、また、自分も互いに偉そうに言えばいいわけですから。

人は孤立するのを厭います。異端と言われるのを恐れます。できるだけ、周りと合わせようとします。日本人だけでなく、多くの民族がそう。人は思いの外、弱いものなのです。とはいえ、限度はある。

もちろん、いろいろな人がいて、いろいろなことが起きる。だれがどうだから困るというのも、問題であることは問題。ただ、留学生たちのクラスに於いては、こちらが、皆が早く日本の習慣に慣れるように指導するだけでなく、御山の大将になっている嫌いのある者には、それなりの指導も必要になってきます。

本当に頭のいい学生にはそれは必要ありません。頭のいい学生で、そういうのが必要だったことはありませんね。黙らせるのは簡単なのです。彼らが学びたいことの一段上の知識を与えてやれば、すぐ食いついてきますから(これは「日本語」教育の分野とは関係ありません。私たちにしてみれば一般教養くらいのものです)。それに夢中になって終わりです。他の面倒なことなんて、すぐに考えなくなります。

思えば、そういう学生は本当に楽でした。

日々是好日
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今は、寒い?…まだ9月の上旬なんだけれども…。

2017-09-12 09:13:53 | 日本語学校
曇り。

早朝はザアザア降りで、これは、これは…(今日は歩きか)。ところが、何のことはない、いつの間にか陽が射し始め、お日様が眩しいくらいになった…。と見る間に、また、空が暗くなり、もしかすると、このお空の雲は雨雲かもしれません。降るかな…。

皆が来るころに降り出すと、ちょっと厄介ですね。

さて、学校です。

昨日、午後の授業の時、私の方では、まだ「蒸すな」くらいの感じで、エアコンをつけていたのですが、途中で、一人の学生が、「寒いです」と言い始めると、次々に「そう」「そう」。で、エアコンの風向きを変えたり、弱めたりしていると、中の一人が「止めましょう」。すると、「止めましょう」「止めましょう」「窓を開けましょう」がいちどきに沸き起こりました。

どうも、本当に寒かったらしい。私は汗をかきかき、授業を続けなければならない羽目になった…のですけれども、学生の方は、ホッとした…。体感というのは、これほど違うものなのですね。

授業が終わってから、片付けをしていると、外でスリランカの五人がなにやら話し込んでいる様子。最初は見ているだけだったのですが、あまり長いので、窓を開けて訊いてみると、アルバイトの事を話していたとのこと。

そのうちに、一人が、「今は秋ですか、冬ですか」と聞く。「へっ?」その私の顔を見て、他の一人が「夏ですか、秋ですか」と言い直す。

言い間違えたのではなくて、本当にもう冬になったのかと思ったのだと思います。7月に来た学生ですし。今日はとても寒いですと言っていましたから。

もう10年近く前になるでしょうか、その当時の学生達と季節について話していたとき、どの国の学生も「(自分たちの国にも)冬はある」と言ったのです。ちなみにこのときいたのは、タイ、ミャンマー、ベトナム、中国、フィリピン、スリランカ、インドなどから来た学生達だったと思いますが。

フィリピンの学生は言った後、「う~ん。ないかなあ」と言い直したので、おそらく彼が最初、頭に描いたのは、自国の山の気候だったのでしょう。でも、よくよく考えてみれば、「自分が住んでいたところは、やはり、冬じゃないか」となったのでしょう。中でも、頑固だったのはスリランカの学生。「ある」の一点張りです。

中国やベトナムの学生が、胡散臭そうな目つきで見ているので、ますますシャカリキになって言い張ります。「寒いときはある」。

まあ、これは体感温度ですから、本人が寒いと感じているのに、それは、違うとは誰も言えません。でも、それを冬というのは、どうも…と、他の学生達は感じたようです。

タイやミャンマー、インドなどから来た学生達は、おそらく自国の山岳地帯や北部の事を言っているのだろうと推測でき、まあ、そこは冬があると言ってもいいだろう。だが、スリランカは…。

スリランカの学生曰く、「寒いときはある」。寒いって?「24度とか、20度くらいになるところもある」。

これを聞いて、中国の学生、「それは冬じゃない」

学生の中には、四季のみならず、「雨季」「乾季」という分け方があることを知らない人たちもいて、説明すると、ネパールの学生は、「(自分の国は)そっちの方」と言います。

まあ、日本でも沖縄の人は、やはり、「春、夏、秋、冬」と分けますし、スリランカ人がそう言うのもわからないことはない。

ただ、このとき、他の国の人たちが判ったのは、「そうか、スリランカ人は24度くらいで寒いと言うのか」ということ。

だから、今年の7月に来た学生が、「寒い」と思い、「これがいわゆる冬か」と言ったのも、なるほどと思えます。

「冬」という言葉から連想したのでしょう、「東京は雪が降るか」とも訊いてきました。残念ながら、ここ二年ほど雪らしい雪は降っていませんし、当然の事ながら彼らが想像しているような積雪なんてのもありません。「霙」は降ったなと言い、それを説明すると、どうも氷が降ってくるように感じたらしい。「痛くないか」と言う。

「霙」は、雨と雪が交じったようなもので、冷たいけれども痛くはない。「ふ~ん」という顔つきでしたけれども、しかとはわからなかったでしょうねえ。

私も南国の生まれなので、雪国の人たちの話を聞き、「へ~え」と思ってしまうことがよくあります。私たちは「雪」をロマンチックな存在に感じ、憧れてしまうのですが、雪国の人たちにとっては、日々存在し、厄介な代物以外の何ものでもない。雪は危険なものという認識もあり、話せば話すほど、気持ちも乖離していきます。

日本人の私にしてから、この程度のものですから、熱帯の人たちにとっては尚更でしょうねえ。

日々是好日
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夏は夏らしくなかったけれども、秋はどうかしらん。

2017-09-11 08:12:51 | 日本語学校
晴れ。

晴れの日が続くのは、久しぶりのこと。とはいえ、夏が夏らしくなかったせいか、「残暑厳しき折り」なんて言葉が遠く感じられます。草花にも、全くと言っていいほど活気が見られませんし。

今年の夏は、草木が「みどり、みどり」していた…感じがしません。「エノコログサ(狗尾草)」も、すでに薄茶になり、陽が当たると銀色に揺れて見えます。この草を見ると、「猫じゃらし」と称んで遊んでいた頃を思い出すのですが…。

名は体を表すと言いますけれども、「ネコ(猫)」は、これで遊んでやっても、それほど喜びませんでした。それよりも猫のために作られたオモチャとか、ボール、あるいは毛糸の方が好きだったような気がします。それに、これ、遊んでいるとすぐにパラパラと(実でしょうか)散るんです。片付けなさいと叱られるのがオチでした…。

人が住まなくなった家には、よく門先などに、「ツユクサ(露草)」が繁っています。この「ツユクサ」も、花の青はきれいなのに、葉や茎は半分ほどが茶色になっています。枯れているというわけではないのでしょうけれども、不思議。

最近は、「ネコ(猫)」が表を歩いている姿をとんと見かけません。ほんのたまにですが、駐めてある車の屋根?にでも寝そべっている「ネコ」を見かけたりしますと、なにやらホッとします。窓から外を眺めているだけの「ネコ」なんて本当に気の毒。やはり、動物を飼うなら山か海のそば、彼らが力一杯野生でいられるような場所…。と、言いましても、もはや、山里くらいしか「自然」を想像できないのですけれども。

「イヌ(犬)」なんてもっと気の毒です。

学生の中には、日本人が言うところの「ペット」というのが、どうも今一つ判らないという人たちがいます。「イヌ」も、「ネコ」も誰かが飼っているわけではなく、そこにいる。それに、エサをあげる人もいる(あまり苛めるということはないらしい)。彼らもそういう人に慣れているから、昼間は何をするでなし、ある程度の安全な距離を保って存在しているから、人も困るということはない。ただ、夜は、人がうろついたりすると、怪しいと思うらしく、少々物騒であるというだけのこと。

言われてみれば、明治以前の日本でも、今盛んに言われているような「地域ネコ」「地域イヌ」ばかりで、個人に変われているものなんて、そうはいなかった…らしい。

先祖返りして、人々は「地域ネコ」を欲しているだけなのかもしれません。

ただ、どんどん街は清潔になり、手を洗わない動物が居づらくなっているのは確かでしょうけれども。

さて、学校では、新学期が始まってすでに一週間が過ぎ、そろそろ焦ってもらわなくては困るというような人が出ています。

クラスの中に、一人か二人、進学先が決まってくれると、それっと勢いがつくのでしょうけれども…。「まだ何(専攻するもの)を選んだらいいのかわからない」とか、勧められた学校を見に行く前から「あそこは簡単すぎるから嫌だ」とか言っている学生がいます。

判らなかったら、まず、行動。見に行って話を聞くこと。

それができない(日本語のレベルが低すぎてどうにもこうにもならない)人は、同じような(レベル)人の輪を頼りに、動いてみるしかないのでしょうけれどもね。

まあ、しばらくは、こちらとしても、「お尻叩き」の役が続きそうです。

日々是好日
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やっと、判ったみたい。もう不安で堪らないという顔はしない…でしょうね。

2017-09-08 08:31:17 | 日本語学校

曇り。

早朝、濃い霧がかかっていました。霧に埋もれたかに見えた街も、あっという間に晴れ、朝日が差し込んできたかと思いましたのに、今はまた雲に覆われています。

全く秋の空というのは…。

ところが、早朝、朝日が出たばかりの頃、霧の中から「アブラゼミ」の声が…。驚きましたね。ここ数日、肌寒く、もう「セミ(蝉)」の時代は終わった…、で、草むらから秋の虫たちが我が世の春を謳っていた…と思っていたのに。明日からまた夏日という予報が出た翌日の「セミ」の声です。いったいどこに隠れていたのでしょうね。

さて、学校です。

4月に来日してからずっと担任を泣かせていたネパールの学生さん。やっと昨日、動詞の活用の法則が納得できたようで、「やみます」は「ます」の前が「み」だから、「よみます」と同じ形にします。で、「やんで」となります。と、大丈夫かなという顔で説明したのですが(このクラスでは、各担当がそれを何十回となく繰り返してきました。そのたびに、消化不良のような顔をしていたのです。それが)何を今更という顔で「はい」。

思わず、「大丈夫ですか」「わかりましたか」と念押しすると、「わかります」「わかりました」。いかにも当然と言った顔つきで答えたものですから、こちらの方が不安になってしまいました。…わかるはずがない、嘘だろう…。

「テ形」活用を入れたばかりの頃、担任がいくら説明しても、なかなかストンと落ちていかない。というわけで、このルール通りに活用させることができなかった…のが、うそのよう。練習させる度に間違い、どんどん不安で堪らないといった顔つきになっていったのです。こりゃあ、苦手意識が育ってしまう。いかん、いかん…。

で、担当していた三人で相談しました。「このクラスでは文法説明はサラリと流して、とにかく体力勝負でいこう。普通のクラスで10回練習させるところを、このクラスでは20回、あるいは30回の練習でやっていこう」

まあ、大変でしたけれども、昨日、(なかなか判ってくれなかった)最後の一人が「いかにも当然」と言った顔をしてくれましたから、きっと、その後の命令・禁止・仮定形が楽になるでしょう。

(彼らが来日したとき)この「4月生」の4月の(授業の)様子に肝を冷やし、(それがクラスに一人や二人なら何とか出来ても、集団で来てしまいましたから)初めてネパールに行ったとき、そこの学校の人に、これだけは、「やってくれろ(あるいは、やってくれるな)」を叫んでしまいました。

面接に来た学生にも一人一人、「こんな書き方ではだめだ」と言い、また「勉強した、N5に合格したというけれども、出来ていないじゃないか」と厳しく言ってきました。

「『平仮名』を、ネパール式に何が何だかわからないような字に書かせないでくれ。少なくとも、外国人の『平仮名』を見慣れている私たちが、読める程度の字で書けるようにしてから寄越してくれ。」

「机に、斜め90度の角度でノートを置かないように指導しておいてくれ(線がまっすぐに引けないので、カタカナもひらがなも漢字も何が何だか判らなくなってしまうのです)。」

日本語を教える最初に、こう指導しておけば、「日本語の勉強ではこうなのか」とそのまま入っていやすいものです。それが半年か一年もそのままでやっていて、日本に来た途端、「変えろ」では学生の方でも納得できないでしょう。

ネパールにしろ、ベトナムにしろ、(日本で)教える者が現地に行って要求するのです。そして彼らの問題点を一つ一つ言って注意してくれろと言うわけですから、相手がきちんとした人であったら、考えてくれるはず…と、私たちは考えます。

もし、(学生の)頭数で、日本にやりさえすれば、自分のポケットにいくら(入る)と勘定しているだけの人であったら、学生にとっても不幸ですし、私たち、日本で教える者にとっても不幸です。そういう人は私たちとはご縁のない人と見ていきます。

7月生は、4月生に比べて、グンと楽になっていました。やはり、「初級の文法」は現地の言葉で現地の教師が教えてくれなくては、どうにもなりません(このどうにもならないというのは、時間がかかるということです)。

留学生は一年半(二年で来ていても、大学や専門学校の入試が9月か、10月頃から始まります。10月に来たら、一年も経たないうちに入試を受けなければならないということになります)で、結果を出さなければならないのです。「N3」の内容で終わっていれば、大学に運良く入れたとしても、多分半年ほどで、「大学の勉強は難しい。やめて、専門学校の方に行きたい」と言い出すことでしょう。まあ、普通はそういう人は大学、大学と騒ぎはしませんけれども。

ただ、本当に大学に行きたいと思って来日する、高校を卒業したばかりの人にとっては、最初の躓きは大変なことなのです。それがスムーズに行けるためには、現地で教えられることは正しく教えておいて欲しい。もとより、学生本人の理由で教えられなかったというのなら、話は別です。それは彼ら自身の問題で、こちらがとやかく言うことではありませんから。

日々是好日
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ひたむきに頑張る人か、初心を忘れない人だけが、最後に欲しいものを手に入れることができる…と思うのですが。

2017-09-07 09:10:34 | 日本語学校
曇り。

昨日は、予想に反して、帰宅時間にも小雨がぱらついていました。傘を持たずに来た学生は小走りに帰っていきました。が、なにせ寮は学校の裏ですからね、なんと言うことはないはず。

今年の夏は、…夏と言っていいかどうかわかりませんが、暦の上では夏でした。「ムクゲ(木槿)」も「フヨウ(芙蓉)」も元気がなく、毎年の、「どっちがどっちだっけ」という悩みも湧いてきませんでした。確か「葉」の形で見分けていたと思うのですが、花はどちらも縮こまって、クチャクチャです。これでは梅干しを食べたときの口…。せっかくの夏の花なのに。もし、いつものように太陽の光を存分に浴びていれば、のびのびとおおらかに花びらを広げていたでしょうに。

さて、学校です。

どうやったら、彼ら自身の日本語のレベルを納得してもらえるか、ちと困った人たちがいます。なにせ、進学を控えていますから、進学先の問題が出てくるのです。

なかなか、レオナルド・ダ・ビンチのような万能の天才というのはいません。普通の人間なんて、凸凹の能力しか持っていませんから。けれども、だから、「だいたいのレベルは判っているのが当たり前…」と、そう考えることができるのが普通だ…とはならないのです。もうしかしたら、そういうのも、後天的な、教育を受けて然らしめられた、つまり、培われた能力の一つなのかもしれません。

たいていの日本人の場合、「これはまあまあだけれども、あれはだめだ」とか、「自分は平均すればだいたいこれくらいかな」というのが判っているものなのですが(もちろん、自己を過大に評価したがる人もいますし、過小評価をしてしまう人もいます)、日本人のように評価をされつけていない国の人は、これがなかなか難しい。

無理だと言っても判らないから、「では、受けてごらん」と言うしかなくなるのです(こちらは、入学試験を受けるにも、二万円くらいはかかりますから、相手のことを思って言っているのですが)。

大学に行きたいにせよ、「私は大学に行きたいです」と、そういえば、門戸は自然に大きく開くとでも思っているらしい。「開けゴマ」じゃあるまいし。で、努力するかといえば、そういうこととは縁遠い人たちですから、言いはしても、それまでの生活を変えるでなし、つまり言いっ放しなのです。

いつも通り、タラタラと授業に参加するだけ。この「タラタラと」というのは、真剣味に欠けるという意味で、例えば、大学に行くためには、非漢字圏であれば、少なくともある程度の漢字くらいは書けていなければならない…のに、授業中、せっかく漢字の時間を取ってやっているというのに、隣の人と話しながら、そして笑いながら書いているだけ…。これでは、10回書こうが、100回書こうが、頭に入っていかないでしょう。蟻の思いも天に届くと言います。頑張ればどうにかなるものを、それもしない。

そう言うと、嫌なことを言うという顔をするか、いかにも被害者めいた表情になる。

放っておくしか仕方がないことは判っているのですが、願書書きやら、面接の練習やら、他の学生の倍以上の手間がかかるのです。それなのに、そういうことにはお構いなし。他の学生と一緒に準備すれば、一人だけ聞き取れないし、言われている意味もわからないから、同国の人にいちいち確かめなければならない。それでも、「ああ、自分は聞き取れないのだ。この人たちほどには日本語のレベルがないのだ」とは思わないらしい。

反対に、自分は訊いて判らないのだから、もっと自分のために時間を割いてくれみたいなことになる。平生、どれくらい勉強しているかというのが、こういうときに出てくるものなのです。面接の練習にしても、せめて、一回説明し、練習したら、その練習した所くらいは覚えてくるという、誠意くらいは見せて欲しいものなのですが、それもない。

練習した分は書かせているので、家に帰って見るくらいはできると思うのですが、それもしない。まあ、そういう人が今年も何人かいそうです。

もとより、最初っから出来ないことがわかっていて、低めの専門学校を捜してくる人もいます。そういう人には、彼らの話せるような言葉で、覚えられるような内容で練習をさせています。そういう専門学校の要求はそれなりのものですから、出席率やら、面接の時の言葉などが決め手になるのです。あとは表情、態度ですね。これは就職の時でもアルバイトの面接でも同じですから、彼らにはすぐに判ります。

「身の丈に応じた」要求というのは、思いの外、大変なことのようです。

日々是好日
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少しは慌ててください。夏休みに何もしなかった二年生は。

2017-09-06 08:29:20 | 日本語学校
小雨。

午前中は雨ということだったのですが、もう止んでいます。今日は曇り空のつもりかな、お空は。

もう、長月になってしまいました。夏休みが明けたのが、先週の金曜日。金曜日なのに、なぜか教員は月曜日モードになっていて、授業が終わると、「えっ、明日は土曜日だっけ」という感じでした。

夏休み中、二年生は、本来なら忙しかったはず。ところが一年前の夏休みと同じようにアルバイトに明け暮れ、自分の立場がよく判っていなかった学生もいたようです。

(先生に)言われたとおりに、休み中、各専門学校の説明会の予約をして、行ってきた学生もいましたし、大学のオープンキャンパスに行って、楽しんだ学生も(反対に「嫌~だった」という学生も若干名あり)いました。

ところが、その反対に、休み前、あれだけお尻と叩いておいたのに、まったく行動開始のモードになっていなかった学生もいました。こちらにしても、休み中は(授業がある頃と同じように)毎日、お尻を叩くわけにはいきませんから、彼らに任せたような形になってしまいます。

授業がある頃でしたら、「何日に説明会がありますから、行きたい人は申し込みをするように」から始まって「申し込みはした?」と聞き、まだだったらこちらがしますし、自分で出来る学生だったら、自分でするように言います。その日が終わると次に会った時に感想を聞きます。こういう流れが成立しないのです。だって、(休み中は)だいたい学校に来ませんし、電話してもその日はアルバイトがあって行かれないとか言いますもの。

どうも、この「説明会」なるものの大切さがわからないのです。「願書は友達がくれたからいい」と思い込んでいて、「だめ、自分で説明会に行ってもらって来なくてはだめ」が入っていかないのです。

で、休み明けにこういう問答が始まってしまうのです。だいたいは行ったというのですが、そうではなかった学生は、
「私は○○専門学校へ行きたいです」
「もう説明会は終わっています」
「…。じゃあ、△△専門学校へ行きます」
「それももういっぱいです。次の説明会は未定だと言われました」
「ええ!じゃあ…」

最初は「二人で、一緒に同じ専門学校へ行きます」なんて言っていても、片方に(この人と一緒に行動するのは)まどろっこしいと思われてしまうと、置いていかれてしまいます。それほど親身になって、相手の世話までしてやろうなんて気は、どちらにも、もともとありませんから。どちらか一方にでも、相手におんぶにだっこしてもらって当然という様子があると、それは嫌になるでしょうね。トロトロしていたら、自分まで行けなくなってしまいますから。

それが判らずに、相手が申し込むときには必ず自分も誘ってくれるものと甘く考えて、相手次第になっていた学生は、最後に慌てふためくということになってしまう。裏切られたような気にもなるかもしれませんが、でも、それは自分の方が悪い。世の中はそうそううまくはいきません。相手にしてみたら、どうして自分があなたの面倒まで見てあげなければならないの?でしょうし。

今からでも遅くはありません。少しは慌ててください。

日々是好日
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