曇り。
一日中曇り…だそうです。
「ムクゲ(木槿)」でしょうか、「フヨウ(芙蓉)」でしょうか、優しい花が咲いています。「キキョウ(桔梗)」も、「ギボウシ(擬宝珠」も花をつけています。「夏の花」という気がしますけれども。
「梅雨」本番、あるいはこれからが「梅雨」の本番のはずなのに、あまり「梅雨」らしくない日々が続いているせいか、もう「梅雨」が明けたような気がしています。こういう、気持ちが、お天気に左右されてしまうような感じも、考えてみれば面白い。
「『梅雨』とは、こんなものである」が、もうセットされているのでしょう、自分の中に。もちろん、日本人(日本という風土に長年住んでいれば、異国からの人であっても同じでしょう)なら、みな同じような思いであると思います。
もしかしたら、年を取ると言うことはこういうことなのかもしれませんね。決めつけるというわけではないけれども、じんわりと、「AはBである」というのが、心の中に(薄いベールであっても)積み重なっている。それが確固としたものになっている…わけではないけれども、少しでも違ってくると、「あれっ?」と違和感を覚えてしまう。
思えば、学生達に「夏は暑い、秋は涼しい、冬は寒い、春は暖かい」と教えているのも、根は同じなのでしょう。
別に「夏は寒い」であっても、かまわないのですけれども。実際に北半球、南半球と、立場を変えずとも、緯度の高低で、「夏も寒い」「冬も暑い」だったりするものですし。
「夏は暑いものだ」と、「ものだ」がついてしまうのも、面白いといえば、面白い。彼ら(留学生)に対しているときにも、こういう、おかしなことは起こっているのでしょう。
ただ、それに気づいていても、日本で暮らすことを選んでいる学生には、「(日本人は)こう考えている」とか、「こう感じている」というのは、告げておかなければなりません。日本で書かれている文章も、大半はそういう「常識」で書かれているものですから、「違う」なんて思ったら、「答え」も右に行ったり左に行ったりしてしまいます。
ともかく、一応、「日本人はこう考えている」「こう感じている」を知っておくことが大切なのです。これは別に、試験のためだけではありません。これからの数年を、この風土の中で過ごすことを選んでいるならば、知っておく方がいいでしょう。もちろん、これはどこ(の国、地域)へ行っても同じことです。
さて、学校です。
昨日、お昼ごと、「明日(今日のことです)国に帰る」という卒業生が大きなスイカを抱えてやって来ました。「よくぞ、こんなでかいのを抱えてきた」と笑ってしまったのですが、本人は大まじめ。「大変だったよ」「重かったよ」と褒めてもらいたくてたまらない様子。もちろん「ありがとう」だったのですが。
行った専門学校が、全く面白くなく「勉強を教えてくれない。何も教えてくれないよ。お金だけ」。だから「やめた」。で、「帰る」。
帰れる彼女のような学生は、恵まれた方と言えるでしょう。だいたい、あの専門学校はだめだと言ったのに、「勉強したくないから、あそこへ行く」と言ったのは誰だ。
大きなスイカを担いで、帰国の挨拶にやって来たというのに、さんざん叱られて…、でも、挫けていませんでしたね。あっけらかんとしていました。
「荷物を運んでくれる人がそろそろ来る頃だから」と言って、帰っていきましたが、こういうふうに、ごく普通に留学して、ごく普通に帰っていく…のが一番いいのでしょう。
とはいえ、中国からの学生だって、ほんの10年くらい前までは、借金をしてきていたので、厭だと思っても返済が終わり、なにがしかのものを手に入れるまでは、帰るに帰れなかったい…という人たちが少なからずいたのです。それから考えると、今、苦労をしているベトナムやスリランカの学生達だって、直に彼女のようになれるかもしれませんね。
日々是好日
一日中曇り…だそうです。
「ムクゲ(木槿)」でしょうか、「フヨウ(芙蓉)」でしょうか、優しい花が咲いています。「キキョウ(桔梗)」も、「ギボウシ(擬宝珠」も花をつけています。「夏の花」という気がしますけれども。
「梅雨」本番、あるいはこれからが「梅雨」の本番のはずなのに、あまり「梅雨」らしくない日々が続いているせいか、もう「梅雨」が明けたような気がしています。こういう、気持ちが、お天気に左右されてしまうような感じも、考えてみれば面白い。
「『梅雨』とは、こんなものである」が、もうセットされているのでしょう、自分の中に。もちろん、日本人(日本という風土に長年住んでいれば、異国からの人であっても同じでしょう)なら、みな同じような思いであると思います。
もしかしたら、年を取ると言うことはこういうことなのかもしれませんね。決めつけるというわけではないけれども、じんわりと、「AはBである」というのが、心の中に(薄いベールであっても)積み重なっている。それが確固としたものになっている…わけではないけれども、少しでも違ってくると、「あれっ?」と違和感を覚えてしまう。
思えば、学生達に「夏は暑い、秋は涼しい、冬は寒い、春は暖かい」と教えているのも、根は同じなのでしょう。
別に「夏は寒い」であっても、かまわないのですけれども。実際に北半球、南半球と、立場を変えずとも、緯度の高低で、「夏も寒い」「冬も暑い」だったりするものですし。
「夏は暑いものだ」と、「ものだ」がついてしまうのも、面白いといえば、面白い。彼ら(留学生)に対しているときにも、こういう、おかしなことは起こっているのでしょう。
ただ、それに気づいていても、日本で暮らすことを選んでいる学生には、「(日本人は)こう考えている」とか、「こう感じている」というのは、告げておかなければなりません。日本で書かれている文章も、大半はそういう「常識」で書かれているものですから、「違う」なんて思ったら、「答え」も右に行ったり左に行ったりしてしまいます。
ともかく、一応、「日本人はこう考えている」「こう感じている」を知っておくことが大切なのです。これは別に、試験のためだけではありません。これからの数年を、この風土の中で過ごすことを選んでいるならば、知っておく方がいいでしょう。もちろん、これはどこ(の国、地域)へ行っても同じことです。
さて、学校です。
昨日、お昼ごと、「明日(今日のことです)国に帰る」という卒業生が大きなスイカを抱えてやって来ました。「よくぞ、こんなでかいのを抱えてきた」と笑ってしまったのですが、本人は大まじめ。「大変だったよ」「重かったよ」と褒めてもらいたくてたまらない様子。もちろん「ありがとう」だったのですが。
行った専門学校が、全く面白くなく「勉強を教えてくれない。何も教えてくれないよ。お金だけ」。だから「やめた」。で、「帰る」。
帰れる彼女のような学生は、恵まれた方と言えるでしょう。だいたい、あの専門学校はだめだと言ったのに、「勉強したくないから、あそこへ行く」と言ったのは誰だ。
大きなスイカを担いで、帰国の挨拶にやって来たというのに、さんざん叱られて…、でも、挫けていませんでしたね。あっけらかんとしていました。
「荷物を運んでくれる人がそろそろ来る頃だから」と言って、帰っていきましたが、こういうふうに、ごく普通に留学して、ごく普通に帰っていく…のが一番いいのでしょう。
とはいえ、中国からの学生だって、ほんの10年くらい前までは、借金をしてきていたので、厭だと思っても返済が終わり、なにがしかのものを手に入れるまでは、帰るに帰れなかったい…という人たちが少なからずいたのです。それから考えると、今、苦労をしているベトナムやスリランカの学生達だって、直に彼女のようになれるかもしれませんね。
日々是好日