日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

休み中の教室。

2020-03-31 08:42:43 | 日本語学校
曇り。

家を出ると、ポツリ、ポツリと雨粒が…。晴れと曇りのちょうど境目とは聞いていましたが、雨と曇りの境目とは聞いていなかった…。けれども、今はこの「ポツリ、ポツリ」も止んでいるようです。

「手をかける」というのは、こういうことなのでしょうね。学生の中でも、なかなか合格しなかったり、合格しても後のことが心配で(4月入学ですから、その前の春休み)、毎日学校に来させ、勉強をさせていると、伸びるのです、意識が。好奇心というか、知りたいという気持ちが高まっているような気がするのです。面白がっているなというのがわかると言った方がいいのかもしれません。

もちろん、本人にやる気が見られなかったら、これはあり得ないことです。一方通行ではないので、こちらも面白くなるのでしょう。

今、「手をかけている」のは、今度高校に入学することになっている 少年です。預かって、1年ほどでしょうか。日本語だけでも精一杯というか、わずか1年ですからね、それもしょうがないところなのですが。それでも、この1,2ヶ月でグンと伸びたような気がします。

高校に入ったら、友達と日本語で話せるというのが、最初の目標。とはいえ、高校では他教科もあることですし、日本語が話せればいいでは済まされない部分もあります。だいたい、数学には数学の決まった単語もありますし。

この少年というのも、最初は内気そうな、大人しい…だけの印象。だって、何も言おうとしませんでしたもの(言えなかったか)。けれど、今は判ります。本当はしゃべりたくてしゃべりたくてしかたがなかった…。今は、ホント、おしゃべりです。毎日の勉強のあと(9時から5時までです)、「さようなら」から、おしゃべりが始まります。本当に言いたかったことが始まると見たほうがいいのでしょう。

もっとも、最近は、「はい、『さようなら』だからね。早く帰る!」と言うと、「はいはい、(コマッタナ)」で、それでも1分は粘りますね。

数学と英語の(高校からの)宿題は終え、また元の勉強に戻っているのですが、今、数学を教えてくれていた先生が、忙しいので、その分、おしゃべりがたまっているのかもしれません。英語を教えてもらっていた先生が、もう一人のスーダンからの学生につきっきりで、時々しか相手をしてくれないのも、理由かもしれません。

特に春休みになってから、グンと伸びましたね、彼。この勢いで、高校に入ってからもいろいろな知識を吸収してくれたらと思います。

この、彼が、ちゃんと毎日来られているのも、休み中であれ、誰かが学校に来て勉強しているからなのでしょう。もちろん、工場でも、コンビニでも、アルバイトは続いているようで、週一しか来られない学生もいれば、週3で来ている学生もいるのですが。

それにもう一人、毎日来ている学生がいます。国で勉強の習慣がついていなかったげに見えたスーダンからの学生です。彼女も、とにかく勉強の習慣をつけさせるために毎日学校に来て、勉強するようにさせているので、これも関係があるでしょう。二人とも在日で、親御さんと一緒です。留学生達のように、アルバイトせずにすんでいるので、できることなのでしょうが。

こういう時期であるのに、休み中、教室はにぎやかです。学校はやはり、休み中であれ、学生がいないとつまりませんね。言語の学校ですから、無駄話でも無駄にはならないのです、それが日本語である限り。

日々是好日
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「クラス分け」。判らないまま、「N2クラス」にいるよりも、「N3クラス」にいた方がいいであろうに…。

2020-03-27 08:43:47 | 日本語学校
曇り。

さっきまで青空が見えていたのに、もうすっかり雲に覆われています。いわゆる「花曇り」です。

明日は、雪になるかもしれないとのこと。そう言えば、先々週の土曜日だったか、降りましたね。この時も、今時?…という感じで、皆、驚いていましたが…。

もうじき、卯月が始まろうという日に、一応「かもしれない」とはいえ、そういう予報が出されるとは。

本当に雪になりますと、もう「花冷え」などと、緩いことは言っていられません。それどころではない寒さになるのでしょうから。20年ほども前だったか、咲いた桜の上にこんもりと雪が積もったことがありました。観賞する者にとっては感動的な美しさでしたが、花にとってはどうでしたろう。たまらなかったでしょうね。それに蠢きだした虫や動物達にとってもそうでしたろう。

さて、「花曇り」の空の下、学校に顔を出す学生達がいます。このうち、二人は、毎日来ることになっています。二人とも在日の学生で、二人のうち一人は、4月から高校に入ります。もう一人はタラタラした勉強しか母国でしたことがないと思われる学生です。毎日学校に来て、勉強する習慣をつけさせるというのが目的といえば目的。それから中国人留学生が一人。日曜日、夜勤が入っているので、月曜日だけは来られませんが、それ以外は毎日来ることになっています。話したり、問題を解いたりしているうちに、「あっ。先生、○○ってなんですか」などと思い出したりすることもあるようです。4月から高校に入ることになっている学生に教えている地理など、彼にとっても参考になるようです。一緒にDVDを見たりしていますから。

問題は、あまり来ないベトナム人学生ですね。新学期になって、日本語が判らなくなっているのは、だいたい彼等です。アルバイトも、ベトナム人が多数を占める工場だったりしますし、だいたい勉強の習慣がついていない人が多いのです。

もちろん、学校に来るのは、自習のための学生達ばかりではありません。呼ばれて、「下のクラスでもう一度やり直してはどうか」という相談?(指示?)を受けるための人も数人います。

上のクラスは、中国人は1名しかいませんが、インド人と、ミャンマー人、ベトナム人数人が頑張ってくれているので、どうにかこのペースで、「7月の日本語能力試験」では、「N2」と「N1」が目指せるクラスになれそうなのです。が、このクラスには、同じ4月生と言いましても、家で勉強する習慣がない、また、教師の指示に従った勉強ができないという人も含まれています。

そういう人は、「N2」用の教材で同じように勉強していても、もう蚊帳の外状態だと思われるのです。が、だからといって、例年のように、複式学級並みに手当をしていく余裕はありません。「N2」と「N1」の学生の手当てをしていくだけで精一杯というのが現状なのです(今のところ、文法も「N2」ばかりです)。「N3」用には、同じ時間帯に「N3クラス」があるので、そこで「N3」合格を目指して頑張って欲しいのですが、なかなか「うん」と言いません。それは決して彼等にとってマイナスにならないと思うのですが。

実際に、この来年度からの「Aクラス」では「N2」文法の暗記をしています。毎日、とにかく繰り返し読んでいく(軽い説明は終わって、暗記練習に入っています。きちんとした説明は三分の一ほど終わっているようです)。4ページの暗記用プリントを2ページずつ読んでいるのですが、この間、一緒に読まずに(読めないのでしょう)、その時にルビを振ったり、次の時間の漢字テストの準備をしたりしているのです。…それはとっくに終わっているはずなのに。暗記練習の時に慌ててやっている。

こういう「家で勉強する習慣のない」人は、学校での勉強がすべてです。下のクラスであったら、教えた時間内に、十分に時間をとって、ルビも振らせますし、もっと区切って読む練習もできるでしょう。同じレベルであれば、それをだれも不満には思わないでしょうし。最も大切なことは、そのクラスでは「N3」を学んでいるということです。

彼等にとってわけのわからない「N2」の文法やら読解文やらヒアリングやらを、学校以外で勉強する気もないし、習慣もない人たちが、その唯一の勉強の時間である教室でやっているのです。「N2」どころか、「N3」も忘れてしまうのが関の山。

それを避けるために、「N3クラス」に行った方がいいと言っているのですが、どうして嫌がるのでしょうね。私達も、「N3」くらいまでなら、どうにか我慢できた(世話もできました)し、待つこともできましたが(彼等は何とも思っていなかったのでしょう。何度も、勉強の仕方なども説明したのですが)、同じような勉強の仕方では「N2」は無理です。判らないのに、じっと座っているのは、堪えられないことでしょうに。そういう状態は母国で習慣になっているから何とも思わないのでしょうか。

本当に、このクラス分け(半年くらい、時にはもっと早く、することもあります)の時が、一番悩ましい。テストの点を見せて、話しても、判らないのです。

もちろん、話したとしても、最後は、こちらの考え通りにしていくのですが。

日々是好日
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寒さが続いています。

2020-03-25 08:27:51 | 日本語学校

晴れ。

まだ寒さは続いています。今朝も肌を刺す風が、真冬並み…とは言い過ぎか。もっとも、今年、ダウンのコートを着たのは二回くらいだった…のも事実。やはり暖冬だったのでしょう。冬物の厚手のコートでしのげましたもの。寒くてもダウンじゃないなという感じだったのです。

「サクラ(桜)」の開花宣言が出て、すぐ次の日だったかが、暖かさを通り越したような気温だったので、「散るサクラ」を思い、急かされるような気分になっていたのに…。それがこの寒さです。今日も最高気温が15度くらいとか。桜も、もうちょっと保つかなと思われます。

海のそばで、木々の少ない、この辺りでも、皆さん、広いとは決して言えない庭でそれぞれ草花を楽しんでいるようです。森を開拓した町であったら、そこに前からあった大木なりがあったでしょうに。それも望めないこの辺りでは、木々と言えば、庭木を除けば、せいぜいが街路樹。もっとも道が狭いので、それが太れない。高さもない。細っこい木がそれでも花をつけ、実をつけなどしているのを見ると、けなげさを通り越して、時には哀れさまで感じてきます。他の町に行けば、もっとしっかりとした幹に、しこたま枝をつけ、葉をつけ、鎮座まします木だってありますもの。

しかるに、この辺りでは、だいたいが、彼等に養分が行きわたれるほどの土があるかというと、それも心細い限りです、見たところ。それでも、倒れずに、やっとこさ立っていられるのは、自然の恵みの雨ゆえでしょうか。

街路樹に水をやっている姿なんて、見たことがありませんもの。雨が降れば、木々の葉は勢いを盛り返し、緑は映えてきます。きっと人もそうなのでしょうね。

最近はコロナのニュースが続き、「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」どころか、4月までそのニュースで埋まってしまい、あっという間に過ぎていってしまいそうです。4月どころか、この年はこれで終わってしまうかもしれません。

もちろん、このニュースだけでなく、コロナのせいか、今年予定されていたオリンピックまで延期となってしまいました。国民的同意が得られての開催希望ではなかったようなものの、決まってからは、「決まったからには」という感じで、それなりにみんな応援していたのに、残念です。延期になれば、金銭的なものの問題もあるでしょうが、開催したいと思っていた人たちの心の様子も気になります。

観光立国を目指していたらしい日本は、今度は何を目指すのでしょうね。地道にコツコツやって来たお国柄が、バブルで弾けた後も、「コツコツ」が失われていたように見えていたのに、元の道に戻れるのでしょうか。

流されていきながらも、「なんか、おかしいなあ」という感じは、どんどん大きくなっていくような気がします。いつか、にっちもさっちも行かなくなっていたなんてことにならなければいいのですけれども。

そう感じていても、日本人ならぬ異国から来た人たちは、今の、その日本の、底に響いている、ある種の気分を感じられずにいるようです。日本人にある、なんか変というこの感覚は何なのでしょうね。普段は日々の営みに追われ、あまり感じてはいないのですが、時折、ふっと感じたりするのです。「前と違うな。なんか変だな。ちょっと違うな」と。

若い異国の人たちが日本語を学びに来日し、学びながら日本の生活に慣れていき、日本で働くことを希望するようになる…なっても大丈夫なのでしょうか。

もちろん、日本語を学んでいる彼等の前でそういうことをおくびにも出すことはありません。古き良き日本。コツコツと地道に働く人たちが尊ばれていた日本。あぶく銭を手にすることを厭っていた日本。それを彼等に語ることはあっても。

日々是好日
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桜というのは、厄介なものですね。満開になったらなったで、風が気になったりするのですから。

2020-03-24 08:31:39 | 日本語学校

晴れ。

「晴れ」とは言いながら、「弥生」もすでに下旬に入ったとは言いながら、今日は、寒い。

今朝は、北風と格闘しながらやって来ました。格闘したと言うよりも、抗いつつと言った方がいいのかも。向かい風ですものね、最後の直線コースは。とはいえ、最後の角を曲がるところに、ピンクの綿菓子を広げたような「サクラ(桜)」が待っていてくれました。だから、大丈夫。

最近、昼頃、よく強い風が吹いているような気がします。今日も吹くらしい。いわゆる「春の嵐」というのでしょう。「むべ山風をあらしといふらむ」…この近所には山はないけれども、山に風…ふむふむ、確かに嵐。

こう風が強いと、「咲いた桜になぜ駒つなぐ 駒が勇めば花が散る」などと口ずさみたくなってきます。 けれども、聞くところによると、満開とはいえ、なったばかりの時は若いと言い、そうたやすくは風に誘われぬとのこと。もう少し桜が楽しめそうです。

この時期、「桜、桜」と、桜だけが目立っているようですが、実際のところは、道端でも、もう緑の草が随分目立つようになっています。まだ花数はそうは多くはないようですが、直に、黄や赤、青やピンクの小花をつけるようになるでしょう。暖かくなって(今日は寒いのですけれども)、雨など、降ってきますと、元気になるのでしょう。人もそうかな。

さて、学校です。

昨日は5人ほどやって来ました。漢字テストでまだ「N3」が終わっていない人やら、自習のために来た人やら、ほとんどは午前中で終わり、午後からはアルバイトに行った人が多かったようですが。

この「アルバイト」も、工場でのものは、いつも通りにできているようですが、飲食店などでは、「コロナだから、しばらくお休み」ということになったところもあるらしく、「今、(アルバイトは)ありません」という学生もいます。この人は昨日、来てはいませんでしたね。アルバイトがある人の方が、その前にちょっと勉強していくかという気分になるのかもしれません。

それから、午後の補講の学生達。一人、ネパールから戻ってきたという人がいたのですが、聞くと、戻ってきてから、二週間、ずっとうちにいたとのこと。なるほど、ご主人が日本で働いているので、会社から指示が出ていたのでしょう。

彼女の場合は、帰国前までに『みんなの日本語(Ⅰ)』を、27課か28課までやっていたようですが、1か月ほども勉強していなければ忘れているだろうということで、今、補講中の「Eクラス」で、復習をかねてやることになりました(「Eクラス」では、昨日は、『みんなの日本語(Ⅰ)』の⒘課でした。一日に1課か、あるいは三日で2課という感じで進めています)。

在日の人は、一時帰国するからとか、パートをすることになったからとか、あるいは引っ越しでとか、いろいろな理由で中断することがよくあります。「初級」の場合、教える側から見ても、習う側から見ても、これは痛い。

基礎の基礎ですから、中断している間に、「テ形」がいい加減になったり、「助詞」がなにやら判らなくなったり、いろいろな「くせ」が生じてしまうのです。つまり、「テキトー」になってしまうのでしょう。

語学というのは、確かに、やり始めたら、ばっと続けてやってしまうのが一番いい。その、基礎の基礎の時に切れてしまうと、特に長期間中断してしまった場合には、「一からやり直し」に近い状態から始めなければならなくなる時もあり、そうなると、やる気も失せてしまいます。きちんとやる必要のないような人の場合は特にそうです。

目的がしっかりある人の場合は、それでも、心を強く持ってやっていけるのですが、「テキトーに日本で生活できればいい」くらいですと、それで「お仕舞い」ということになってしまいますね、残念ながら。

とはいえ、国できちんと勉強した経験のある人の場合、日本語の勉強をしているうちに、だんだん欲が出てくるようで、最初はそれほどでもなかったのに、「『N2』(漢字圏の人の場合は、『N1』)に合格したい」と言うようになったりします。これは、教える方からしますと、うれしい限りですね。互いにやる気が出てきます。こういうのは、いくら科学が発達しても、AIにはなかなかできないことでしょう、相乗効果を発生させるというのは。

さて、今日は誰が来るかしらん。

日々是好日
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サクラが満開になっていました。

2020-03-23 09:06:02 | 日本語学校
曇り。

今にも雨が降り出しそうなと思いながら、自転車を漕いでいると、ポツリポツリときました。いわゆる「小糠雨」というようなものではなく、しっかりとした形を持った雨粒のようでしたけれども。

昨日が20度超えだったせいか、今朝の寒さは少々応えます。10度くらいで寒いなどと言うと叱られてしまいそうですが、体がなまっているせいか、寒く感じてしまうのです。

木曜日には、まだ一分咲きか二分咲きくらいだった「サクラ(桜)」がもう満開になり、下の方など、葉さえ伸びています。思わず、今年も「サクラ」を見ることができたなんて感慨を持ってしまいましたが、そういう思いで一年を過ごして来られた方も少なくなかったことでしょう。

今年は「サクラ」だけでなく、「ハクモクレン(白木蓮)」も「シモクレン(紫木蓮)」も「ハナカイドウ(花海棠)」も、みんな一時に咲き始めたような感じで、自然界でも手続きを踏んで…がなくなってきているような感じです。「(自然界で)手続きを踏んで」などと言うと変ですが、今に、順番が逆になったりするかもしれませんね。もう何が起こっても驚かない…かな?。

「風の音や匂い」に次の季節を感じるなんてのは、もう時代遅れになってしまったかもしれません。何でもスパッと咲いて、スパッと終わりになっていきそうです。人はその土地の自然から切り離されては生きていけないもののようですから、日本人も、だんだんそんな感じになっていくのかもしれませんね。何事も割り切れず、グズグズ、ウジウジしているのが、日本人…、のような気がしていたのですけれども。

さて、学校です。

学生達の中には、レストランや店などのバイト先から「新型コロナが流行っているからしばらく来なくてもいい」と言われた学生もいたようで、却ってこちらの方が気を揉んでしまいます。工場などでは、そういうことはなさそうなので、「他をあたってみたら、休み中はかき入れ時だから」と言ってみたのですが、「いえ、大丈夫。学校に来て勉強する」とのこと。

ちゃんと来られるかどうかは別として、学生の層が変わったというのを感じます。もちろん、アルバイトに励みながらも、きちんと勉強し、結果を残せた学生もいますが、来日後、アルバイトを1か月して、手にした額の多さに引きずられてしまった人もいるにはいた…。

この二年ほど、そういう学生が減り、勉強に励む学生が増えた(ネパールからの学生が3分の2ほどいたからかもしれません)というのが実感でしたが、それもこれ以降どうなるか、はっきりしたところはわかりません。

こういう日本語学校というのは、人が人を呼ぶという部分も少なからずあるので、一年か二年それが切れてしまうと、「引き継ぎ」ができなくなってしまうので、また、仕切り直さずばならなくなるでしょう。その、同じ国から学生を入れるとなれば。

人と人との関係ですから、よけいに一手間も二手間もかかってしまいます。事務手続きで、こう書いたからこれでお仕舞いとはならないのです。それがお役所にはどれだけわかっているのかなとも思いますが、こうグローバル化が進んでしまうと、そういうところは、こういう学校だけに限らず、いろいろなところで、出てくるでしょうね。

これも「人による」のでしょうか。誰でも「AIで問題なしと出たからそれでよし」で、次に進めるものなのでしょうか。それとも「慣れ」でどうにかできるものなのでしょうか。「AI世界」で、生まれた時から生きてきた人はそれでも、何不自由なく過ごせるものなのでしょうか。

まあ、いつの時代でも流れに乗っていけない化石は存在するわけで、それで何事もバランスがとれていくのでしょう。

さて、もうすぐ、9時になります。月曜日も学校に来ると言った学生が、3,4人いました。その他にも、高校に進学予定の学生は休み中も毎日来ることになっています。おっと、そう書いている間に、2人やって来ました。さあ、見に行きましょうか。

日々是好日  
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近所の「サクラ(桜)」が咲き始めました。

2020-03-18 08:51:25 | 日本語学校

晴れ。

近所の「サクラ(桜)」が、ボチボチ咲き始めています。昨日の朝はまだ蕾だったのに、いつの間に開いたのでしょうね。夜の中か、あるいは昨日の昼に綻び始めていたのでしょうか。

そういえば、気づかぬうちに「レンギョウ(連翹)」が散り始めていました。「花の命は短くて…」と、なぜかウキウキとなって来ます。盛りの頃の「レンギョウ」は見られなかったけれども。

今年は、「『花見』はいいけれど、『宴会はご遠慮ください』」というお達しですので、金曜日に祝日に、ちょっと自転車を走らせて、花見ならぬ桜狩りを楽しんでみようかと思っています。最近は、本当に学校から家まで、時には寄り道でスーパーへくらいのものでしたから。もっとも、遠出と言いましても、往復20分か30分くらいの自転車旅行に過ぎないのですが。

学生達も気の毒ですね。昨年はサクラが終わってから来たという学生もいましたし、7月生などは、「『サクラ』?あれが?あの葉っぱの樹?」くらいのものだったでしょうし。

駅から学校へ来る途中に、比較的広々とした公園が(この近所の公園は小さいのです)あるのですが、そこの桜並木が比較的きれいで、電車通学の学生(ほんの2,3人)が、そこを通ってくる度に、「サクラ」の状況を話してくれるのが楽しみでした。

けれども、この分で行きますと、一番きれいな頃は休みとなってしまいそうです。予報によりますと、金土日の中には、20度超えの日もありそうですから。まあ、それはそれとして、日本の「サクラ」は今の時期だけのもの。こんなときではありますが、楽しんでもらいたいものです。

日々是好日

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昨日は、在校生なしの「卒業式」をしました。皆の顔を見てホッとしました。

2020-03-17 08:07:40 | 日本語学校
晴れ。

昨日は「卒業式」でした。

在校生は出席させず、代表1名が、送辞を読み上げるという形で。

卒業生は、皆出席し、本来なら在校生がいない分、早く終わるであろうと思っていたのですが、なぜか卒業生からの一言が想定よりも長く続き、いつも通りの時間に終わり、「問題が発生したら、来ますね」という言葉と共に、学生達は去って行きました。

帰ってから、きっと彼等は、彼等なりのお祝い、というか、別れ会をするのでしょう。

本当に手間のかからない学生達でした。スリランカの学生が多かった時も、ベトナムの学生が多かった時も、集合時間を守れないとか、欠席がちであるとか、警察沙汰が多いとか、それぞれ違えど、授業に集中させてくれよと言いたくなることも多々ありました。が、彼等、ネパールの学生が多かったこの二年間は、ほとんど問題なし、でした。

きちんと約束は守るし、学校へも来る。言語能力には個人差があって、皆が皆、いい成績を収められるとは限らない。とはいえ、きちんと学校に来て、それなりの授業に参加してくれました。言われたことはやろうと努力してくれたし、式などの手伝いにも積極的に参加してくれました。苛つくことはあっても、以前に比べれば、問題になりませんでした。

それなのに、どうしてでしょうね。この学校ではネパール人学生に問題は出ていないのに、入管は許可してくれません。それどころか、新聞テレビなどでいろいろ騒がれていたというのに、ベトナム人学生はほとんど許可されているのです。…うちの学校のベトナム人学生は、もう大丈夫です。

せっかく、ネパールに数度行って、きちんとした学生を送ってくれる学校を見つけていたのに、多分、この二年で縁が切れてしまうでしょうね。そうしたら、また一から出直しです。でも、コロナが流行っているから、自分たちで行って、きちんと面接してとまではできない…残念ですが。

彼等曰く「東京入管ではだめだけれども、地方の方ではきちんと申請が通るから、そっちで出す。真面目な学生に嫌な思いをさせたくない…」それはわかります。わかるだけに、こちらとしては、何も言えなくなってしまいます。

今年の卒業生が出た後、学校のネパール人学生はゼロになってしまいました。私達は、すでに卒業した彼等に、「また、ネパール人学生が来ることになったら、この学校のやり方を説明してね。通訳を頼むこともあるかもしれないし」などとあらかじめ言っておかなければなりません。

こうでなかったら、伝統という形で毎年順繰りに伝えてもらえたでしょうに…。

…学校の近所の桜の樹の蕾がだんだん膨らんできました。近所には「ソメイヨシノ(染井吉野)」系や「大島」系のものがあります。特に目を惹かれるのは、「シダレザクラ(枝垂れ桜)」の古木(?)でしょうか。「シャガ(著莪)」や「ユキヤナギ(雪柳)」などで足元が華やかになり始めたなと思われた頃、「サクラ(桜)」がやって来ます。

最近は「カワヅザクラ(河津桜)」も増えているようですが、この辺りではまだないようです。もっとも私の生活圏内の話ですが。

まだ、引っ越しが済んでいない学生(卒業生)達には、休み中も学校に勉強にお出でと言ってあります…来るかな????今年、「留学試験(総合)」を受ける学生や、4月から高校に行く学生がいますし、在日の人で4月からの学生達の中に入らなければならない人たちは、それまでに一応格好をつけられるくらいの勉強はしておかなければなりませんから、春休みと言ってもそれは学生達だけのこと。なかなか、こちらとしてものんびりはできません。

毎年同じくらいのレベルの学生が来、同じくらいの意欲を持っている人たちが来ているなら、仕事でも無駄にならないことが多いのでしょうが、そう行かないところが辛いところですね。

生活指導に手を焼き、勉強は二の次になることが多い学年が、数年続いた後、急に、ある程度のレベルをつけさせなければならない学生が来たりすると、数年分のツケが回ってきたような感じになってしまい、授業準備ならぬ補講準備にアタフタしてしまいます。

そういえば、中学校に勤めていた時、三年生の授業に言った後、一年生の授業で、言葉を失ったことがありましたっけ。三年生に説明したように話してしまい、一年生にキョトンとされてしまったのです。

これは、ある意味、日本語学校と同じでしょう。同じ二年間勉強したと言っても、意欲のある人とない人とではそれと同じくらいの差が出ています。授業の仕方でも、そして内容も教材も違ってきますから、準備に時間をとられてしまうのです。その上、「総合」と来たら、少々どころかもっと大変。

ただ今年は「総合」を受けるのが中国人ですから、ちょっと楽かな。知識のほとんどない非漢字圏の学生であったら、教えている途中で、どこから説明していいのかわからなくなってしまいますもの。本当に、どこから手をつけていいかわからなくなるのです。「地理」「歴史」「政治」「経済」…特に苦手な「経済」は。

彼等に説明しながら、よく思っているのですが、日本の教科書はよくできていますね。もっとも、「国語」は文学教材を軽視し始めたそうですが、どうしてそうなるのかしら。

そうなりますと、中国人やその他の国の学生達と同じような傾向になるかもしれません。説明文には強いけれども、文学的なものには「意味が判らん」で終わってしまいそう。もしかしたら、「日本語能力試験」でも「日本留学試験」でも、「説明文を読んで理解する…それだけで事足れり」とするという傾向が、今以上に強くなるのかもしれません。

説明文なんて、各教科の授業で読ませていけば足りることでしょうに。「国語」から「文学」を外したら、いったい…何が残るのでしょうね。

日々是好日
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「植物だって、切られると痛いと感じている。叫んでいる。」…そうか。

2020-03-10 08:37:13 | 日本語学校
小雨、時々曇り。

今は止んでいますが、今日は一日中、こんなふうなのでしょうか。ぐずついているこの様子は、まあ、これも春を感じさせる風景の一つと、言えなくもない。

昨日、帰りに、ある植木屋さんの庭に一面、「シャガ(著莪)」の花が咲いているのを発見。例年、ここの「シャガ」は心を和ませてくれているのですが、もうそういう時期になっているのですね。そう、もう「弥生」も中旬に入っていた…。

例年なら、「サクラ(桜)」の開花便りに、街はどよめき、途端に華やかさを感じ始めるものなのですが、今年は、何事も自粛気分になっています。我慢、我慢というところでしょうか。毎日の「コロナ便り」に、皆、振り回されています。どこか、一条の光でも見えるといいのですけれどもね。どんどん淀んでいくようで、深みに沈み込んでいくようで、なかなか気分は晴れません。まあ、これも仕方がないことなのでしょう。人類は地球上で繁栄しすぎた…からかもしれませんね。

子供のころ、「生き物の集団自殺」というのを読んだことがありました。ちょうどそのころ、「マツ(松)食い虫」にやられて、「九州の『マツ』」が全滅になるかもしれないなんて言うのを聞いたばかりでしたから、「マツ」の気持ちというのを思ったりして、怖くなったことがありました。

「マツ」だって生き物だ、自分を害する虫が少しずつ自分の体を蝕んでいくのを感じたら、ゾワゾワどころではない、もっと激しい痛みやら悲しみやらを感じているのではないか。…人と違い、大地にしっかりと根を下ろしている「マツ」は逃げられませんもの。

それがずっと後になって、一種の電気信号のようなものを出し、それが「SOS」のようなものなのだとかなんとかいうのを聞いたりして、なんとなく、憐れむような気分になったりしたものでしたが。

そして、こういう、ちょっと偉そうな気分になった時に、すぐ頭に浮かぶのは、中学校の生物クラブでの先生の言葉。

「君たちは、『カエル(蛙)』の脳下垂体を取り出したりしているのを見て、『きゃー』とか『かわいそうだ』とか言うが、お米を食べるだろう、野菜を食べるだろう。そっちの方が、僕から見れば、よっぽど残酷だ。そうじゃないか」

子供相手に、大人げないと言えなくもないものの、確かにそう、そうですよね。豚肉を食らう人間が、「ブタ」が泣くのを見て、「かわいそうだ」とかよく言える。「ウシ」や「ニワトリ」を殺して食らっておいて、「『イヌ』がかわいい」とか「『ネコ』は愛らしい」とかよく言える。

とはいえ、これもそうせねば、生物は生存できぬゆえでのこと。生きる者は生きているだけで罪作り。…こう考えながら、毎日のたつきを立てているのですから、矛盾しています。生きんがために、殺し、そして時には殺され…ウイルスだって同じかもしれません。ただ宿主が死んでしまえば元も子もありませんから、そこは「生かさぬように、殺さぬように」とか、誰かが言ったとか言わなかったとかいう言葉通りのことをしていくのでしょう。そして、おそらく、それが彼等の了見なのでしょう。

さて、現実に戻り、学校です。

学校では、まずは、玄関で手を消毒し、菌を持ち込まぬように。もちろん、各教室にも置いてありますが。授業中も窓を少しずつ開け(東西南北、ドアを含めれば、あるのですが、まずは三方向か二方向ですね)、授業が終わると、「換気のためね、15分我慢してください」とドアを開ける。そんな毎日の繰り返しです。

外国人学生は、まだ日本語もよくわからぬし、休講にしてしまうと、どこかへ遊びに行ってしまうかわかりません(危険というのが、まだよく自覚できませんから)。学校で授業をしている方がいいのです。何か情報が入れば、私達がそれを伝え、できるだけ彼等の不利にならぬようにしていくこともできますし。

まずは、ここにいること。それが大切なのです。

こういうふうにして、春休みまで過ごしていくのでしょうね。春休みになれば、一日8時間のアルバイトができますから、また、それはそれで、忙しくなる。アルバイトがない日には、学校に来て、勉強することもできますから、それなりに安全でしょう。

困るのは、一時帰国するというベトナム学生。

てっきり、親が病気か、あるいは何事か、国で出来したのかと思っていたのですが、聞くと、親は別に帰国するようにとは言っていないとのこと。注意したのですが、既にチケットを買ったと言うばかり。この、ビザの申請の時期にと思うのですが、二年ほど、それ(休みになるとすぐに帰国する…戻ってきた時には日本語がゼロに近い状態になっている)が収まっていたのに、また元のベトナム人層に戻ったのであれば、いやですね。女子であるからと、こちらが甘く考えていたのが悪かったのかもしれません。

とはいえ、どうにかして、この嵐を乗り切り、一刻も早く、勉強に集中できるようになってもらいたいものです。

日々是好日
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感じ方もいろいろ。確かに個人的な違いはあるけれども、その底流には、民族的な、あるいは風土による部分も大きい。

2020-03-04 08:42:20 | 日本語学校
曇り。

今にも泣き出しそうな空模様です。お空は、厚い雲にしっかりと覆われています。昨日は秋空のような青いお空でしたのに。

自転車を漕ぎながら、「まっすぐな道でさみしい」(山頭火)が不意に浮かんできました。

真っ直ぐな道で、向こうまで電信柱が連なっています。その奥に、むくむくと小山のような雲が見えると思った瞬間、浮かんできたのです。別に寂しいと感じているわけでも何でもなかったのですけれども。

外国で一人、暮らしていた時、「咳をしても一人」(放哉)の句が浮かんできて、慌てたことがありました。けれど、そういう切迫感めいたものでもない…。

不思議ですね。そういえば、「…じっと手を見る」なんていうのも、前の説明みたいなものがなくても、それだけで、何だか心にズシンときて、慌てることがありましたっけ。

これは、ちょっと変。どうしたのかなと考えてみると、おそらくは、昨日の授業のことが頭にあったからでしょう。どこかの壁にへばりついていたと言うべきか。

「Cクラス(昨年の4月生のクラス)」の授業で、「夕陽」の話になったのです。

「夕陽」は、後の闇、あるいは「暗さ」を連想させ、心持ちとしては「寂しさ」。己の行く末を考えての、不安など。

それにひきかえ、「朝陽」は昇り行く太陽から、明るさ、あるいはある種の気概を感じさせ、「明」。

この二者は「暗」と「明」という印象があり、「夕陽」には、失望、絶望。「朝陽」には希望といったイメージがある。物語もその上で流れていく…ような感じがする…などと言ったのです、その時。

すると、一人。「『夕陽』に、なぜそんなものを感じるのか、毎日陽は沈む、そして翌日出てくるものだ。そんな当たり前の現象に、何を感じるのだ。それは当たり前のことで、なんていうことはない」と言い張るのです。それがわからなければ文章が読めないなんておかしい。…別に読めないわけではありませんが、それを知った方が読み取りは早くなる。ただ、そういうような流れでしか、文章を読み解けないのは不合理だと思ったのでしょう。

まあ、確かにそう。民族によっては、真反対の印象を持って来日してくる人たちもいますから。

以前、モンゴルの人に、「日本人は毎日、風呂に入る(北京でしたから、シャワーでしたが)。どうしてか。毎日、風呂に入るのは体に悪い」と言われたことがあって、びっくりしたことがありました。そんなこと、日本で言われたことがありませんでしたから。

そもそも、毎日風呂に入らないなんて頭の片隅にもないことです。それはご飯を食べるのと同じくらい当たり前のこと。

ただ、向こう人から見ると、そうなのかもしれません。風土が違いますから。私達は、相手の勢いに押されて、「でも、日本は高温多湿の国だから、風呂に入ってすっきりしないと眠れない…」と呟くだけでしたが。別にあんなに卑屈になる必要はなかったのですが、「非難された」ような気がしたのです。そんなことに水を使う、使いすぎると思われたのかもしれませんね。

こういうのに、日本人は弱い。思わず、「私達、間違っていたっけ」なんて思ってしまいましたもの。まあ、その時だけだったのですが。落ち着いて考えてみれば、その土地土地によって暮らし方が違って来るのは当然のこと。別に非難されるようなものではない。彼等のやり方はあくまで彼等の地域だけに通用するもの(あるいは同じような土地で)。もとより、私達のものだって、私達だけのものと言ってしまえばそうなのでしょうけれども。

話は戻りますが、日本人の間でだって、「夕陽が『華やか』だから好きだ」と言った人がいました。これも、「死に花を咲かせる」と言うと、ちょっと語弊があるかもしれませんが、次ぎに来る「闇」があるからこその「華やかさ」であると思えば、根っこは同じなのでしょう。

これは季節にも言えることでしょうね。北国の人たちは、毎日厚い雪雲に覆われ、冬に太陽が出るなんて…信じられないくらいの気持ちで春を待ちます。ですから、南国の人間の春を待つ気分とは全く違うはず。同じに「春を待つ」と書いても、思いの切実さは全く違うはず。

もう、随分、前のことになりますが、同じ音を聞かせて、その音を皆に表現させたことがありました。似通っている表現(音)もありましたが、全く違う(と聞こえた)表現もありました。同国人であってもそうだったのです。

前に、インドの学生と話していた時もそんなことがありました。

「私のところでは、樹もあるし、鳥もたくさんいるし、とても自然が豊かだ」と言ったのです。そうだろうなと思いながら聞いていたのですが、「どこにいても鳥の声が聞こえる」とおっかぶせるように言ったので、ちょっと興味を引かれて、「どんな声?」と聞いてみたのです。すると、「けー!」と大声で言った(叫んだ)ので、それこそ、魂消ました。

もちろん、鳥の声です。けれども、そう言われると、日本人は、つい、小鳥の、かわいらしい声を期待してしまいます。ウグイスとまでは行かなくても、「チチチ…」とか、「ルルル…」とか、どこか、愛らしい鳴き声という先入観があったものですから、この「けー!」と、ゴチック体で書かねばならぬような、カタカナじゃないなというような声が彼女の口からほとばしり出たのには、本当に驚きました。でも、次ぎに思わず爆笑してしまいました。彼女は、わけがわからず、キョトンとしていたのですが。…悪かった。

この「爆笑」は、私自身の思い違いに対する笑いであって、彼女に対するものではなかったのです。一言付け加えさせていただくと。

確かに、カラスの声だって、鳥の声。それは聞き慣れているものの、カラスの声を小鳥の声と思う人はいないでしょう。

なんだか、とりとめもなく、いろいろな事を思い出してしまいました。思い出すものが多くて困ります…。

日々是好日
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「春雨」…忙しい…。

2020-03-02 08:58:14 | 日本語学校

小雨。

弥生になって、初めての雨。小糠雨です。初めての…と言いましても、今日が二日ですから、まあ、そんなものかな。雪から雨に…なると同時に、春の訪いを実感する…というのは、もう時代遅れなのでしょうか。時代なんぞという言葉を使ってしまいますと、なんだか、季節までが、流行の中をうろついてしまうような感じがしてしまいますが。「季節遅れ」と言った方がいいのかしらん。

さて、先週、先々週と忙しかった。なぜ忙しかったのか…わからないわけではない。つまり、ここ数年、楽をしていたからなのです。

中国人留学生がいなかったから。いても「日本留学試験(総合問題」を受けなかったから。それだけの理由です。今年、急に、受けたいという学生が出た…それゆえ、準備に、アタフタしている…なんとも情けないことです。

「総合問題」のための準備が必要で、毎日せっつかれていたのは、もう、どれほど前のことになるのでしょう。去年か一昨年、そのころの学生が二人、学校に遊びに来てくれて、当時の学生達の噂などをしていったのは。そのうちの一人は結婚して子供も連れていた…。もう一人は、いくつか会社をかわったけれども、今はうまくやっていると言っていた…。あれからですからねえ、こっちの頭も錆び付いていて当然です。

普通の中国の高校を出ただけの学生ですから、日本で、こういう「歴史」「経済」「政治」
などを学ばねばならぬというのは本当にかわいそうです。

中国では、中国の高校にいるうちから、日本の大學を目指して、日本で学ぶような内容を勉強していたという人たちいて、しかもそういう人たちは、日本で、外国人枠で入学を目指すのですから、いくら頑張っても、なかなか太刀打ちができないでしょう。

彼等と同じように、三年前からやっていればねえ。

社会主義国でも、結局は、お金次第なのでしょう。そういう高校に入ることができるというのは、やはりお金が要るのでしょうから。国や社会を見れば、日本とは違うと言うことがわかりますが、お金だけ見れば、日本よりも随分ひどいようにも見えます。

結局は、彼に、ここで頑張ってもらうしかない。まあ、日本にいるのですから、資料は渡せるし、説明もできる。

とはいえ、イメージがないのです。特に困るのが「世界史」。日本人だったら、ぼけっとテレビを見ているだけで、様々な国のそれなりのイメージというのは自然にできている。クイズ番組でも、旅行番組でも、何でもいいのです、見ているだけで。ところが、それが、ない…。

これは、中国からの学生だけでなく、ベトナムも、スリランカもネパールもインドもそう…。彼等にそれなりのものを感じてもらうには、話だけではだめですし、写真だけでもだめなのです。

もちろん、ここは日本ですから、社会問題にしても、外交にしても、日本人が関心を持っている国が主になります。それと、当時世界に大きな影響を与えていた国ですね。

漢字圏の学生であれば、来日後、「N1」レベルに(少なくとも、「N2」レベルには)一年ほどでなれますから、それから時間がとれるのですが、「非漢字圏」の学生は、なかなかそうは参りません。

最近は、彼等の母国でも「N3」に合格できるようで、それから来日するという人もいるのですが、それでも実際のところは「N4」レベルと言ってもいいくらいで(合格はできているけれども、凸凹しているのです)、来日しても、なかなか、それなりに「文章を読みこなす」まで行かないというのが実情です。

各民族、各国で、それぞれ苦手な分野があるようで、それが平らにある程度ですが、均すのに、少々時間がかかる。

どちらにしても、まだ忙しさはしばらく続きそうです。

日々是好日
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