日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

今日、最後の「模擬テスト」をします。

2021-11-30 08:28:30 | 日本語学校
晴れ。

今朝もいい天気です。夜から雨になるというのが、信じられないくらい。こういう天気だと昔の人は傘を持たずに出て、難渋したことでしょうね。今は天気を予報してくれる人たちがいて、お天気だけでなく、洗濯やら、雨具やら、朝昼晩の服装のことまで、痒いところに手が届くように心配をしてくれています。

昨日、北京時代の友人から葉書が届きました。ちょうど姉を亡くしてどうにもならない頃に、もう何十年ぶりでしたろう、「お久しぶりです。自由になりました」という葉書をもらったのです。が、そのときは返事が書けずにいて、数日後に、やっと無沙汰を詫び旁々、遅れた理由を書き添えたのですが。それからすぐにまた連絡があり、返事はいらないからと書いてあったのをいいことに、ずっとそのままにしていたのです。

実際、書こうとすると、姉のことしか頭に浮かばず、本来書くべきこと、書かねばならぬことが何も浮かんでこないのです。生活は二重の顔でできても、こういうことは無理でした。

絵はがきは、「渡月橋」の写真だったのですが、面白いことに、文には「嵐山」の写真と書いてありました。私は橋を見、水を見ていて、「嵐山の紅葉」には目がいっていなかったのです。改めて、嵐山かァ、紅葉かァと思いながら、さりげなく、ささくれ立った心に傷がつかぬようにと書いてくれている文面に何となく当時の様子が思い出され、慰められました。

人は一人では生まれて来られないけれども、死ぬときは一人でだと、思い定めていたつもりでしたが、いざ、一人になってしまうと、親しかった人のことしか思い浮かびません。鏡を見ていると、自分の顔のどこそこに、父母や姉の名残を見つけてしまうのです。情けないこと。

欧米の無神論者のような強さは無理ですね。

私の初めての海外はドイツでした。当時、東西に分かれていた頃でしたが、そこで初めて「西洋」というのを実感しました。最初は信仰のこと。次は一人であると言うこと。

宗教を問われて…、問うた人は、無信教者だということであったので、ちょっと用心して、「さてさて、仏教徒というほどでなし、また、信じているのは神道かと問われれば、困ってしまう。本当になんと言っていいのやら…」。相手はそれをごまかしと思ったのでしょう。それを許しません。口調から、かなり私を非難しているなということが感じられました。

こういう人と出会ったからといって、ドイツ人皆がそうであるというわけではないのでしょうが、日本人ではそういう人と出会ったことがなかったので、ドキンとするくらい驚いたのです。いえ、襟を正さずにはいられなかったと言った方がいいのかもしれません。宗教について考えるきっかけを与えられたような気がします。

彼らの場合、最初にキリスト教があって、「謀反人」はそこから激しい葛藤の末に、神を捨てる。ダラダラと信仰しているように見える人でさえ、日本人のダラダラとは、ちょっとか、あるいは全くか、違う(ように見えました)。

一神教の人たち、また、かつて一神教徒であった人たちと、どうも私たち(といっていいかどうかはわかりませんが)は、そりが合わない。自然に対する畏敬の気持ちはもっていても、それを一柱の神に委ねるというのとは違う。人を介しての話ですから、かみ合わないのも当然と言えば当然のことながら、日本人は切り捨てずに、みんなひっくるめて何事かを思おうとする、けれども、彼らはすっきりした姿で割り切ることを望む(ように思われました)。かつては古代ギリシアの神々を信じていたのに、リルケの『流刑の神々』の世界だってまだあるだろうに。

この感覚は中国で一緒にいた、中近東の人たちにも感じました。普段はヘラヘラしている人たちでさえ、こういう所は妥協なしでしたね。説明すればするほど、すれ違うというか、ゆがみは増していきます。地殻変動でも起きない限り、わからないし、わかってもらえないだろうな、みたいな感覚です。

この学校の近くにも、イスラム教を信じる人たちが少なからずいます。マンションの一室を借りたようなモスクもいくつかあるようです。彼らとイスラム教の話をすることはあまりありません。中国にいたときに、こういう人たちといろいろな話をしたことがありましたから(もちろん、こちらは芯に触れるような話は避けました。岩盤に触るか触らないかのところで、さっと避ける感じと言ったらいいのでしょうか)。

ただ、その経験から、彼ら(ここで学んだことのある人)にはこう言ってあります。日本人は異国の神について、どうのこうの言うつもりはない。ただ、日本人が昔から守ってきたルール、また現在の法律で決められたことは守ってくれ。宗教というのは、優れて心の問題だから、人の心にズカズカと入っていくことを日本人は避ける。だからあなた方も避けて欲しい。もとより、「宗教上の決まりなどは、きちんと言った方がいい」とも言います。日本人はイスラム教のことをほとんど何も知らない。故に、無意識のうちにあなた方の心を傷つけ、また傷つけられするかもしれない。それがお互いの心のしこりとなってしまうのはいかにも残念だから。

とは言いながら、普段は至極平穏無事です。こういう宗教がもとで、何事かが発生したことはありません。問題が出ることがあっても、それは宗教とは全く関係のないことが原因です。学校では、身なりに多少の違いがあるくらいで、ほかは聞かれなければ、誰がどの宗教かなんて気になりません。私が文句を言うのも、うるさいかうるさくないか、声が小さいかどうかくらいのことで、だから、皆も気にならないのでしょう。教師が気にしないことが一番だと思います、平時は。

日々是好日


「日本語能力試験」まで、あと六日です。昨日は二回目の模試をしました。

2021-11-26 08:19:19 | 日本語学校

晴れ。

桜の木がすっかり、秋の装いを済ませ、時々はらりと葉を落としていきます。それもまた美しい。

子どもの頃、『暮らしの手帖』に載っていた藤城清治の切り絵を見るのが大好きで、いつもわくわくしながら待っていたものでした。ステンドグラスのような鋭さがありながら、あの色の豊かさといったら…。いつも魔法の国で遊んでいるような気分になりましたね。見ているうちに教会の鐘が鳴り始め、妖精がいたずらをし始め…、ずんずんと絵の中に引き込まれていく自分がいて、時間を忘れさせてくれました。

秋の桜はそんな感じを与えてくれます。色合いは「和」そのものでありながら、どこかヨーロッパ的なのです。人を惹きつけるものには、みんなそんな要素があるのかもしれません。毒のない美はない、棘のないバラはない。美しければ美しいほど、心を奪われれば奪われるほど、そんな言葉が心を掠めます。数千年も生きる桜もあれば、同じ桜でありながら、接ぎに接ぎを重ねてきたものには、そういう命は望めない。

さて、学校です。

「日本語能力試験」まで、あと六日。「さあ、がんばるぞ」ムードの人もいれば、「だめだァァ」状態の人もいて、見ていると、なかなかに面白い。だって、「だめだァ、だめだァ」と言いながら、悲壮感なんてのが、全く感じられないのですもの。本当に、困ったものです、「だめだ」ちゃんには(「Aクラス」)。

「Bクラス」は、一人を除けば、皆、在日生(留学生などではなく、家庭の事情で来日した)ですから、ここに通ってくるにはそれなりの家庭の事情があります。ただ、今、ここにいる人たちは、まずは「N4」合格を目指し、合格した後続けて「N3」合格のためにがんばっている人たち。

この人たちとて、通い始めた頃は、漠然と「日本にいるのだから、日本語を勉強しよう」くらいにしか考えていなかった…。ですから、クラスの中に、「N4」の試験を受けるという人が出たとき、「へ??何、それ?」という表情になったのもまた当然のことでした。そして、一人が受けると、私も受けるというふうになって、皆、合格し、そして当然のように、次を目指してきた…。

今年の、二月頃からぱらぱらと入ってきた割には、かなりいい成績だったと言えましょう。ほとんどの人がゼロスタートでしたから。毎日来られなくて、週一の人もいれば、週三の人もいる。通っている院に出なくてはならなくて、急に何日か来られないという人もいる(まあ、リモートだから救われたという面もあります)。けれど、途中でくじけずにやってこられたのですから、それなりの成績を残してもらいたいもの。また残すつもりでしょうね。

日々是好日


お久しぶりです。

2021-11-24 08:35:39 | 日本語学校

晴れ。

「冬晴れ」とでも言うのでしょうね。朝晩はめっきり寒くなってきました。お日様がかなり恋しくなります。

久しぶりです。昨年退職しているのに、なぜ、自分が、今、ここにいるのかもまだはっきりわかっていないのに、いるんですよね。本当になぜでしょう。そのときは、「さあ、辞められるぞ」と明るい気持ちになったのですが、なんとなく、ぐずついているようで、嫌ですね。

昨年から今年の六月にかけて、コロナであったこともあって、他の人は週休三日。なのに、退職した私だけが毎日来ている。その上、残っていた、ただ一人の身内までも重い病にかかっていることがわかって、かなりのストレスにいなっていました。その人も今年の六月に逝ってしまい、夜眠れない、いらいらするという毎日が続いていました。コロナがなければ、いつも通りの忙しい日々が続き、気が紛れるということもあったのかもしれませんが。

で、六月に爆発。というわけで、一日休むというわけにはいきませんが、今は二日は午前だけ、そして、ほかの日も四時過ぎには帰るようにしています。

少し精神的に楽になってきたのかもしれません、ちょっとひさしぶるに書いてみるかくらいの気分になったのですから。

先日、Aクラスのスーダンの学生と話していたときのことです。

一人は「日本生まれ」とは言いながら、日本だけで義務教育を済ませたわけでなく、そのうちの数年を母国で受けています。ですから、話せるけれども、高校受験のためには、どこか肝心の知識などが欠けているといった状態。話したり、聞くだけであったら、日本人の、そこら辺の子どもたちと変わらないでしょう。

もう一人は「読解・文法」に難があり、文法が少しでも面倒だと(特に苦手は「ないわけがない」とかいう「わけ」シリーズ。)万歳さんになってしまいます。「じゃあ、どっち?あるのないの」でカタをつけようとする。こういうタイプは、日本の中学生にもいますね。「深く考える」のがちょっと苦手で、浅く広く知識を得ていくうちに、それなりにわかってくるといったタイプ。

一人は今更(やっても…)だし(とは言いながら、思いも寄らぬところですっぽり抜けていることがあるので、油断はできないのですが)、もう一人は文章を読ませても、やるけれども、効率は悪い。読みたいと思わないからなのですね。だいたい外国人向けの本なんて、面白くもない。



というわけで、「どこか行きたい国はあるか」、「知りたいことはあるか」と訊いてみたのですが、すると、なんと、二人があげる所が、中東か、アフリカ大陸にあるところなのです。普通私たちが、つまりアジア人が思うところのハワイとかオーストラリアとかではないのです。

以前は、「知らない」と言うことができなかったのに。ずいぶん素直になったものです。

父親の仕事関係の国の名は知っている。けれども近隣の他国のことは何も知らない。学校でも習ったことはない。だから、知りたい。異国に来て、切実にそれを感じることが増えたのでしょうね。日本人の高校生が他国に留学して、夏休みに帰ってきたときに、必死になって日本のことを知ろうとする、それと同じことなのでしょう。ただ、日本の若者の場合は、知りたければいくらでもそれなりの手立てがある。が、彼らには、それがない。

これはやるしかないですね。でも、二週間もせぬうちに「日本語能力試験」がある。二人とも「N2」を目指しているので、これはちょっとお預けですね。今のところは、少しそういうものを入れながら、地道にやっていくしかありません。

日々是好日