晴れ。
昨日は20度くらいありましたのに、今日は一転して冬に逆戻り。昨日より10度ほども低くなるそうな、最高気温が。
というわけで、烈風の中を自転車を漕いでやってきました。…それほどのことはないか…。
昨日があまりに穏やかでしたので、今朝の寒さと風が堪えます。とはいえ、テレビに「ロウバイ(臘梅)」の花が映っていました。「ロウバイ」の黄を見ると、春の足音が感じられてきます。蝋細工で作りでもしたような、そんな黄ですもの。
などと言っている場合ではない…と、寒さに震えながらやって来た道すがら、今朝のような寒さには、「スイセン(水仙)」の花の方がよく似合う。
「こんな季節には、云々」と、こういう感覚は、四季の、比較的はっきりとしている所、あるいは北国でなければ、少し不自然さが感じられてしまうものなのかもしれません。
もちろん、日本人の方からすれば、常夏の国、あるいは常春の国では、何を以て、時間を意識するのか、時の流れを意識するのかなどという疑問が、ふっと頭をもたげてきます。
そういえば、ある友人が、「沖縄で暮らすと、時間の観念が、というより、時間という意識自体が失われてしまう」などと言っていましたっけ。北国では冬に備えて備蓄しなければならないものがたんとある。蓄えておかねば飢え死にしてしまいますから。ところが、四季を問わずいつでも、何かが実っているような所ではそんなことをする必要がない。その気になれば何かがあるのだから…と。
学生達もそんな国から来た人たちが多いので、何十回、何百回となく書いて覚える(漢字)なんて、けったるくてやっていられないのでしょう。それより、楽しく過ごした方がいいと。会話だけなら、すぐに適当に言えるようになりますから。ただ、これもレストランなどのアルバイトでよく使う言葉だけです。 それで、自分は日本語が上手だなんて思われても困るのですがねえ。
さて、学校です。
大学の方から(入試の)過去問をもらい、その問題を懸命に解こうとしている学生がいます。それに忙しくて、どうも二、三日、学校を休んだらしい。
このクラスでは今、漱石の「坊ちゃん」をやっているのですが、昨日来た彼に、問いを発してみると、案の定、答えられない。そして帰りに、大学の入試の過去問は難しいから…とのたまった。
「坊ちゃん」を読んでの問いかけにうまく答えられるようになっていれば、ああいう問題はそれほど難しいとは思わないでしょうねと言うと、ちょっと驚いていました。よく呑み込めなかったらしい。
問題の出し方というのが、国によって違うのです。「読解力を養う」という項目が、こういう日本語学校に来ているような学生達の国では、あまり大切にされていないような気がします。だから「生まれつき」で、対そうとしてしまうのです。もっとも、それでもできる人はできるのですが、そういうものが苦手な人にとっては、培われていないと、ずっとできないまま…で終わってしまう。
養成できると思うのです。そんなものは。ただし、そういう所では、初等教育において、そういう意識もないらしい。
もちろん、いろいろなやり方はあるでしょう。けれども、「読解力」を養うためにはどうするかという意識が教師の側になければ、「単語の説明をした、何回も読んだ」で終わりになってしまうかもしれません。だから(日本に来て)授業の時に、問われて困るのでしょうね。そんなこと考えたこともなかった…でしょうから。
けれども、そういう一つ一つがわかれば,糸を解きほぐしていくのと同じこと。知恵の輪の方がいいかしらん。最後には筆者の言わんとするところが見えてきたりする。その繰り返しでしょうね。こういう勉強(訓練)というのは。
とはいえ、こういうのも全て「問題集」にかかっています。日本人が読むに堪えるような文章、何度読んでもいいような文章、それが必要なのです。理解する必要もないようなものであったら、教える方だって、ちと辛いのです。本当に、早く問題集の方に移りたいなあ。去年来た学生達を教えながら、そんなことを考えています。
日々是好日
昨日は20度くらいありましたのに、今日は一転して冬に逆戻り。昨日より10度ほども低くなるそうな、最高気温が。
というわけで、烈風の中を自転車を漕いでやってきました。…それほどのことはないか…。
昨日があまりに穏やかでしたので、今朝の寒さと風が堪えます。とはいえ、テレビに「ロウバイ(臘梅)」の花が映っていました。「ロウバイ」の黄を見ると、春の足音が感じられてきます。蝋細工で作りでもしたような、そんな黄ですもの。
などと言っている場合ではない…と、寒さに震えながらやって来た道すがら、今朝のような寒さには、「スイセン(水仙)」の花の方がよく似合う。
「こんな季節には、云々」と、こういう感覚は、四季の、比較的はっきりとしている所、あるいは北国でなければ、少し不自然さが感じられてしまうものなのかもしれません。
もちろん、日本人の方からすれば、常夏の国、あるいは常春の国では、何を以て、時間を意識するのか、時の流れを意識するのかなどという疑問が、ふっと頭をもたげてきます。
そういえば、ある友人が、「沖縄で暮らすと、時間の観念が、というより、時間という意識自体が失われてしまう」などと言っていましたっけ。北国では冬に備えて備蓄しなければならないものがたんとある。蓄えておかねば飢え死にしてしまいますから。ところが、四季を問わずいつでも、何かが実っているような所ではそんなことをする必要がない。その気になれば何かがあるのだから…と。
学生達もそんな国から来た人たちが多いので、何十回、何百回となく書いて覚える(漢字)なんて、けったるくてやっていられないのでしょう。それより、楽しく過ごした方がいいと。会話だけなら、すぐに適当に言えるようになりますから。ただ、これもレストランなどのアルバイトでよく使う言葉だけです。 それで、自分は日本語が上手だなんて思われても困るのですがねえ。
さて、学校です。
大学の方から(入試の)過去問をもらい、その問題を懸命に解こうとしている学生がいます。それに忙しくて、どうも二、三日、学校を休んだらしい。
このクラスでは今、漱石の「坊ちゃん」をやっているのですが、昨日来た彼に、問いを発してみると、案の定、答えられない。そして帰りに、大学の入試の過去問は難しいから…とのたまった。
「坊ちゃん」を読んでの問いかけにうまく答えられるようになっていれば、ああいう問題はそれほど難しいとは思わないでしょうねと言うと、ちょっと驚いていました。よく呑み込めなかったらしい。
問題の出し方というのが、国によって違うのです。「読解力を養う」という項目が、こういう日本語学校に来ているような学生達の国では、あまり大切にされていないような気がします。だから「生まれつき」で、対そうとしてしまうのです。もっとも、それでもできる人はできるのですが、そういうものが苦手な人にとっては、培われていないと、ずっとできないまま…で終わってしまう。
養成できると思うのです。そんなものは。ただし、そういう所では、初等教育において、そういう意識もないらしい。
もちろん、いろいろなやり方はあるでしょう。けれども、「読解力」を養うためにはどうするかという意識が教師の側になければ、「単語の説明をした、何回も読んだ」で終わりになってしまうかもしれません。だから(日本に来て)授業の時に、問われて困るのでしょうね。そんなこと考えたこともなかった…でしょうから。
けれども、そういう一つ一つがわかれば,糸を解きほぐしていくのと同じこと。知恵の輪の方がいいかしらん。最後には筆者の言わんとするところが見えてきたりする。その繰り返しでしょうね。こういう勉強(訓練)というのは。
とはいえ、こういうのも全て「問題集」にかかっています。日本人が読むに堪えるような文章、何度読んでもいいような文章、それが必要なのです。理解する必要もないようなものであったら、教える方だって、ちと辛いのです。本当に、早く問題集の方に移りたいなあ。去年来た学生達を教えながら、そんなことを考えています。
日々是好日