曇り。
まだ雨が降っているかと窓から覗いてみたら…、すっかり止んでいました。予報によると、まだまだ降る可能性はあるようですが、通勤時間帯に止んでいてくれるのがなにより。冬は濡れるのが嫌。やっと咳も小康状態になったというのに、またぶり返したら困ります。
この時期、例年にもまして、咳をするのが鬱陶しい。咳をするたびに、ウサギのようにアンテナを回して周りを見てしまいます。とはいえ、出物腫れ物所嫌わずですからね、押さえ込もうとすればするほど、咳は激しくなる。熱が出ぬうちに、病院へ行ったのが功を奏して、ぜんそく用の薬をもらっただけで済みました。そして、(まだ止まなかったので)再度もらっいに行って、今に至っています。朝は随分楽になりましたが、ただ眠くなるのが玉に瑕。もっとも贅沢は敵だですから、良しとするほかないですね。
ところで、学生達と話をしている時、時々、話が噛み合わないことがあります。大卒であれば、自分の国のレベルとかデータのからくりとかを知っていますので、ちょっと付け足すだけで、なんとなく思うところは伝わるようです。もっとも、これも一つの、ある他者の考え方として捉えればいいことで、何もこちらの言うことを鵜呑みにして信じろといっているわけではないのです。
ただ、ここは日本ですから、自分たちの国に居るときのような「自国礼賛」、「自国至上主義」ようなことを言っていれば、それは皆から冷ややかな目で見られるのがオチでしょう。
とは言いましても、高校を出たてのほとんどの留学生は、何が何だかわからないという顔をします。
そうでしょうね。国の先生が教えてくれたのをひたすら信じて、これまで来たのですから。
日本人は「墨塗教科書」という歴史もあります(習いました)し、これまで「神国は不滅だ」と言っていた教師が、占領軍が来るなり「アメリカに尾を振る」姿を見たというものも読んできているわけですから、何事によらず「至上主義」的な、あるいは「絶対主義」的な、「盲目」的な考え方に対しては、引く身になるか、眉唾で見てしまうかするという傾向があります、あると思います。
つまり、怖さを知っているはず…なのです。それなのに、それでも、変な宗教にとらわれて、危険な行動をする人たちもいる。…人は弱いもの、だいたい30年単位で戦争が起こるというのも、そうなのでしょう。記憶は風化しやすい。当事者が死んだり、その人達が影響力を失いはじめるころに、また繰り返されるというのもそうなのでしょう。
何もしなければ(伝えていかなければ)そうなるものなのでしょうし、だからといって、あることだけに力を入れ、他を希薄にしてしまえば、歴史の記憶が偏在してしまうことにもなります。
歴史を学ぶということ、教えるということは本当に難しいことです。私達は「今」から逃れられず、「今」にあって、ああでもない、こうでもないと言い募っているだけなのですから。下手をすると偏狭的なものになってしまう…かもしれません、知らず知らずのうちに…もっとも、これとても歴史が判断を下すことでしょう。
だいたい一般大衆というものは、(過去のある時代についてのものを)読んでいて、「こんなことがあったのか」と思った瞬間に、既に他をすべて忘れてしまっているもの。きれいさっぱりと消えてしまうのです。これまで読んだものが、たった一冊で、たった一行で消え去ることだってある。
私も何度もそんなことを繰り返してきました。もうこうなったら、だめですね。分野に拘わらずいろいろな本を読むしかない。読みながら、少しずつ軌道を正していくしかないのでしょう。
どの国の人にとっても、自分たちに都合の悪いことは忘れたいし、なかったことにしたい。そういうことが重なっていくうちに、ある国の民は被害妄想的になってしまうかもしれないし、ある国の人々は選民意識が強くなったりするかもしれません。劣等感と優越感なんて、心の裏表なんでしょうから。
それゆえに、専門家がいる。なにせ、普通の人では限界がありますから。その専門家といわれる人達が、もし「知らない」とか、「考えたことがなかった」などと宣うとなれば、それこそ呼称返上というべきで、そういう人たちが、極端に走りがちな「ヒト」を導くということがなければ、多分、その国は滅ぶ…。ヒトがヒトでなくなるわけですから、
教育というものの意味は、一体何なのでしょうね。社会が求めている人材を育てるとは明治期によく言われていたことですが、今は、もしかしたら、今の社会が求めていない人材を育てることの方が、より必要とされているのかもしれません。
日々是好日