日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

雨が降ると、なんとなく、とりとめもないことを考えてしまいます。

2021-01-27 12:44:21 | 日本語学校

曇り。

まだ雨が降っているかと窓から覗いてみたら…、すっかり止んでいました。予報によると、まだまだ降る可能性はあるようですが、通勤時間帯に止んでいてくれるのがなにより。冬は濡れるのが嫌。やっと咳も小康状態になったというのに、またぶり返したら困ります。

この時期、例年にもまして、咳をするのが鬱陶しい。咳をするたびに、ウサギのようにアンテナを回して周りを見てしまいます。とはいえ、出物腫れ物所嫌わずですからね、押さえ込もうとすればするほど、咳は激しくなる。熱が出ぬうちに、病院へ行ったのが功を奏して、ぜんそく用の薬をもらっただけで済みました。そして、(まだ止まなかったので)再度もらっいに行って、今に至っています。朝は随分楽になりましたが、ただ眠くなるのが玉に瑕。もっとも贅沢は敵だですから、良しとするほかないですね。

ところで、学生達と話をしている時、時々、話が噛み合わないことがあります。大卒であれば、自分の国のレベルとかデータのからくりとかを知っていますので、ちょっと付け足すだけで、なんとなく思うところは伝わるようです。もっとも、これも一つの、ある他者の考え方として捉えればいいことで、何もこちらの言うことを鵜呑みにして信じろといっているわけではないのです。

ただ、ここは日本ですから、自分たちの国に居るときのような「自国礼賛」、「自国至上主義」ようなことを言っていれば、それは皆から冷ややかな目で見られるのがオチでしょう。

とは言いましても、高校を出たてのほとんどの留学生は、何が何だかわからないという顔をします。

そうでしょうね。国の先生が教えてくれたのをひたすら信じて、これまで来たのですから。

日本人は「墨塗教科書」という歴史もあります(習いました)し、これまで「神国は不滅だ」と言っていた教師が、占領軍が来るなり「アメリカに尾を振る」姿を見たというものも読んできているわけですから、何事によらず「至上主義」的な、あるいは「絶対主義」的な、「盲目」的な考え方に対しては、引く身になるか、眉唾で見てしまうかするという傾向があります、あると思います。

つまり、怖さを知っているはず…なのです。それなのに、それでも、変な宗教にとらわれて、危険な行動をする人たちもいる。…人は弱いもの、だいたい30年単位で戦争が起こるというのも、そうなのでしょう。記憶は風化しやすい。当事者が死んだり、その人達が影響力を失いはじめるころに、また繰り返されるというのもそうなのでしょう。
 
何もしなければ(伝えていかなければ)そうなるものなのでしょうし、だからといって、あることだけに力を入れ、他を希薄にしてしまえば、歴史の記憶が偏在してしまうことにもなります。

歴史を学ぶということ、教えるということは本当に難しいことです。私達は「今」から逃れられず、「今」にあって、ああでもない、こうでもないと言い募っているだけなのですから。下手をすると偏狭的なものになってしまう…かもしれません、知らず知らずのうちに…もっとも、これとても歴史が判断を下すことでしょう。

だいたい一般大衆というものは、(過去のある時代についてのものを)読んでいて、「こんなことがあったのか」と思った瞬間に、既に他をすべて忘れてしまっているもの。きれいさっぱりと消えてしまうのです。これまで読んだものが、たった一冊で、たった一行で消え去ることだってある。

私も何度もそんなことを繰り返してきました。もうこうなったら、だめですね。分野に拘わらずいろいろな本を読むしかない。読みながら、少しずつ軌道を正していくしかないのでしょう。

どの国の人にとっても、自分たちに都合の悪いことは忘れたいし、なかったことにしたい。そういうことが重なっていくうちに、ある国の民は被害妄想的になってしまうかもしれないし、ある国の人々は選民意識が強くなったりするかもしれません。劣等感と優越感なんて、心の裏表なんでしょうから。

それゆえに、専門家がいる。なにせ、普通の人では限界がありますから。その専門家といわれる人達が、もし「知らない」とか、「考えたことがなかった」などと宣うとなれば、それこそ呼称返上というべきで、そういう人たちが、極端に走りがちな「ヒト」を導くということがなければ、多分、その国は滅ぶ…。ヒトがヒトでなくなるわけですから、

教育というものの意味は、一体何なのでしょうね。社会が求めている人材を育てるとは明治期によく言われていたことですが、今は、もしかしたら、今の社会が求めていない人材を育てることの方が、より必要とされているのかもしれません。

日々是好日

「民主主義」とは何か…。私にもよくわからない、民主主義の定義とは?

2021-01-25 08:17:57 | 日本語学校
晴れ。

昨日、一昨日は寒かった…雪が降るのかと思っていたのに、雨が続きました。「大寒」が過ぎてすぐだったので、やっと彼等も雪を見ることができるかなと、思っていたのですが、残念です。今年も、もしかしたら、雪を見ることができないかもしれません。

卒業生のクラスで、何となしに「民主主義」とか「選挙」とか言う言葉が出てきて、その説明に四苦八苦しています。

「民主主義」なんて、型どおりの説明でいいかというと、それはちとまずい。まず、私の中でもよくわかっていないのです。質されてしまうと、自分の中でもきちんと説明できない部分が山のようにあることに気づいて、それをそのままにして、適当に誤魔化してしまえなくなるのです。おそらく、こんな時勢だから、そう思ってしまうのかもしれませんが。

「民主主義」なんて、詮ずるところ、一都市レベルでしか実現できない幻想ではあるまいか。人はそれほど己を律することなど出来はしまいし、ましてや人に要求することなどできるものではない…などとも思うのです。

集落が一万人を超え、10万人を超え、100万人を超えなどになってしまうと、行政機関の方でも、一人一人に目が行き届かなくなる。きめ細かいサービスができなくなる。そこで、嫌らしい言い方ですが、「管理」と言う言葉などが生まれてくる。

誰でも、「うちは民主主義の国ですよ」という「自由」はある。あるけれども、それを聞いた人は、もしかしたら、眉をしかめるか、噴き出すか、あるいは怒り出すか、するかもしれない。そうだなと言われるとしたら、それは、ある程度豊かな国であった場合だけ。大多数の人が豊かにならない限り、ある程度望むものが手に入るという国でない限り、鼻でせせら笑われるのがオチでしょう。

そういう漠然としか捉えられないものでありながら、「民主主義」というものの弱点が言われ始めたのは、社会の「格差」が目に見え出したから。やはり、経済と縁は切れないのです。

「日本ではどう?」「日本は民主主義の国」と、学校で習ったとおりに言っても、言っている本人が、そう言いながら首を傾げている。生活が苦しいと言っている人が10年前より増えた…。明日に希望が持てる人が多いかというと、自信はない…。

けれども、日本に留学しに来た人たち、特に二年ほども日本語学校で日本語を学び、大学なり、専門学校へ行くことを目的にやって来る人たちは、そうは日本を見ていないのです。

自然災害は多いけれども、戦争はない、もちろん、国内が荒れているわけでもない。日本語がほとんどできなくても、アルバイトをすることはできる、何らかの仕事はある。つまり自活ができるのです。

頑張れば、国ではなかなか学べないものも学べるし…。

「選挙」の事を聞いてみました。立候補するのも自由だし、立候補しても、相手候補から命を狙われることもない…。多分、あまりよく想像ができないようなのです。だって、「自分の国と同じだ」なんて言う人も少なくないのですから。それはそうですよね。こういうのは無い物ねだり。高校を卒業してすぐとあれば、彼等の国での、政府の言うとおりのいい公民になるべく、小学校、中学、高校と、先生の言うとおり、親の言うとおり、そのまま信じて、試験を受けて、そしてそのまま生きていけば、問題など生ずるはずがない。

香港の人達や台湾の人たちは、自由を知っている。少なくとも自由の経験はある。だから守ろうとするし、それを侵すものに抵抗するのでしょう。これは、ただ、豊かさに憧れて「自由の国、バンザイ」と言ってみたけれども、自分の思ったとおりにならなかったから、もとの体制の方がよかったと喚き始める人たちとは違います。

「自由」であることは、「責任」も「義務」も伴うし、決してバラ色というわけではありません。言いなりになって、餌をもらって生活していればいいというのとは違うのです。

人間が家で飼っている動物を野生に戻すとします。自由に生活させてやりたいと…仏心からかもしれませんが、そうすれば、すぐに喰われて終わりです。自由でいるためには警戒を怠らぬような生き方をせねばならぬし、そうしても飢えることもあるでしょう。飢えて死ぬこともあるでしょうし、餌食になって他動物の血となり肉となることもあるでしょう。

「自由」とはそんなものです。

けれども、結局、「民主主義」とは…、うまく彼等には説明できません。まだまだわからないことばかりです。それなのに、世界では、もう「民主主義」の次を論じています。「民主主義」か、「共産主義」か、「絶対主義」か、もう何が何だかわからないのですが、そのどれもでない、新しい政治体制を論じているらしい。

それはそうでしょうね。もう冷戦の時代ではないのですから。甲がだめだだっら、乙に戻れるというのではないのです。つまり、どっちもダメってことなのでしょうね。

日々是好日


「日本留学試験」の「総合問題」を教えたことを思い出すと、頭痛がしてきそう…。

2021-01-22 08:44:59 | 日本語学校

家を出るときには、うっすらと雲がかかっていたのに、もうきれいな青空になっています。下り坂になるというのが信じられなくなるほど。土日は、本当に雨になるのでしょうかしらん。

毎年のように、大学受験などのために、「日本留学試験」の「総合問題」を受けねばならない学生が出ると、その都度、ため息をついてしまいます。

もちろん、国情が違いますから、「選挙というのが、今一つわからない」という人がいるのはわかります。…けれども、それ以外に、他国のことに、あまりというか、全くと言っていいほど関心を持たないように教育されている(としか思えない)国から来た人たちを見ると、どうやって、こういうのを教えていけばいいのかわからなくなってしまうのです。

日本の簡単な高校の教科者(難易度の高いものは無理ですから)を用い、最初はとにかく「覚えろ」で通していっても、ある程度感覚が掴めてくると、彼等にしても「わからない」ことが見えてくるようで、「判らない」と言い出すのです。

日本人や多分欧米では当然の知識、もう常識なのです。日本だって明治時代ではないのですから。…もしかしたら、東欧は旧共産主義国ですから、そこの人たちは、わからないかもしれません。が、昨今の彼等の国での混乱振りを見ると、支配者層はわかっていなくても、一般大衆は、目の前に、彼等が求めるような生活を享受している他国の人がいるわけですから、感覚としてわかってくるのかもしれません…(でも、自由主義の辛さ、義務や責任といったものは、理解できていないでしょうね。いいとこ取りは、どの政治体制であっても無理です。ぼけっとして享受できるわけではないのです)。

それが、彼等には、なかなかわからない。知識として、一度は「これこれだ。こういうシステムになっている」と覚えてみても、時間が経つと、また「わからない」に戻ってしまうのです。真面目で、わかろうと努力している学生ほど、そうなるのです。

中には、適当に知ったかぶりをして、突き詰めて質していくとわかっていないのがバレたりする学生も、いることはいるのですが、もうこうなるとこちらとしてもお手上げです。

国毎に、また同じ国でも都市部であるか、地方であるかによって学んできたものが違ったりするものですから、こちらにしても、毎年が勝負。その都度、相手を見ながら、教えていくわけですから、知らないと言うことを最初に言ってもらっておかないと準備のしようがないのです。時には、じゃあ、勝手にやりナと言いたくなることもあるのです。

特に「政治」、「経済」、「公民」などはそうです。歴史などは端っからわかっていないものとして扱いますから、それほどのイライラはないのです、反対に。

新聞などを利用しようにも、普通の新聞は、読むのが日本人で、高校卒業者程度の知識があることを前提として編まれていますから、なかなかこれを資料として教えていくのは難しい。

ということで、いつも、結局、「とにかく覚えろ」で、高校の教科書を読み進めていき、ある程度やってから、過去問を共に解いていくという形をとっています。

もちろん、日本で大学に入りたいというのですから、こういうことは決して無駄にはならないでしょう。勉強したことがあるというのは。

私にしても、基礎は高校までのもの。後は好きな分野は本を読んで、ある程度の知識はあるにしても、それは飽くまで自分が楽しむためのもの。人に教えねばならないから、嫌いな分野でも、それなりの知識を蓄えておかねばならないといった追い詰められた状況であったことはないのです、これまで。

それが「経済」「地理」…も。こういうのは、嫌いと言うよりも苦手、これまでは、見る機会があっても、さっと眼がそれを避けていた…。こういう分野の思考の流れが私とは無縁であるような気がするのです、理解できないもの。それが、一応、教えるという立場になってしまえば…状況は変わりますね。

もちろん、知らないことは知らないと言います。調べたけれども、どうも意味が判らなかったという時には、そう言います。それは教師としてのモラルですから。

とはいえ、できるだけのことはせねばならない。ということで、「総合問題」を教えるときは、いつも冷や汗をかいています。それにかかり切りになってしまいます、なにせ、苦手ですから。相手が一人であろうと、二人であろうと、これは同じ。

時には「過去問」を解くときに、どうしてこういう答えになるのか…特に経済関係の計算ですね。今はインターネットで調べることができるのですが、分母をどうするかで違ってくるし、多分、ここには経済学者ならではの思想というのがあるのでしょうが、この様々な学派の哲学というのが掴めない…だから、一般的なことは説明通りに言えるけれども、こういう考え方の理解が必要になってくると、そこは説明できなくなる。

経済学者の頭の構造を知りたくなるというのは、こういうときです。

去年の試験は終わりました。けれども、今年の後半か、来年、また必要になってきそうです。去年の問題でいくつか解けない(答えは発表されているのですが、調べても、よくわからないのがあったのです。だいたい、高校の教科書に出ている範囲で問題を出してくれと言いたくなります)ものがあったのですが、また2,3回分の試験問題が発表されると、わからないのが増えてくるのでしょうね

学生達は可哀想だなあ。もちろん、大学で勉強するわけですから、基礎の基礎は知っておかなければならないということはよくわかっていますけれども。

日々是好日

「卒業生」への授業

2021-01-21 08:48:04 | 日本語学校

晴れ。

今朝も寒ッ。風はありませんが、やはり空気は冷たいですね。今年はなぜか、道で見かける「サザンカ(山茶花)」の花付きが、あまりよくないような気がします。

とは言いましても、学校の「サザンカ」は赤いきれいな花をつけていました…もう終わりごろかな。こういうのには、ちょっとほっとさせられます。冬には赤がよく似合う。

学校では、二年生に、卒業までに、一応知っておいて欲しい「日本語」に関する知識などを入れています。雑学のようなものというと、少々口幅ったいことを言っているように聞こえるかもしれませんが、系統だって入れていくほどの時間がないので、結局は、「日本語にはこんなものもあるんだよ」くらいになってしまいそうなのです。

もっとも、他の教員はきちんと教えているようです。

私は、夏目漱石の『坊っちゃん』のさわり…のところを扱っているのですが、「江戸」や「江戸っ子」という言葉に含まれている気分にせよ、現代日本を知る上で必要な「幕末」「明治」などの時代にせよ、これまで学校で教えてきたわけでもないし、彼等自身も日常生活で目にしたこともないでしょう。だいたいコロナ禍で「江戸東京博物館」にも連れて行っていませんもの。それに当時の人がもっていた「箱根」に対しても特別なイメージがあるわけでもないでしょう。というわけで、映像の力を借りねばならぬことが、多々ありましたというか、あります。

「べらんべえ」調も方言の一つとして、教えてやらねばならないでしょうし、いやはや小説を読み進めていく上では、他の知識も入れてやらねばならないので、なかなか前に進んで行きません。まあ、やれるだけやっておく…ぐらいしか考えてはいないのですが、それにしても、思ったより時間がかかりそうです。

ただ、彼等、小説にはあまり関心がなさそうな(こちらが読めと言うから読んでいるにすぎない)彼等も、枝葉というとなんですが、こういう知識は好きみたい。真面目に見てくれたり話を聞いてくれたりしています。

こういう人たちには、小説にせよ、映画にせよ、何か一つのものを媒体として、普段、なかなか知ることのできないことを入れていくというやり方の方がいいのかもしれません。『坊っちゃん』の一節なり、内容なりは覚えていないにせよ、その時聞いた方言のいくつかは覚えている、箱根の関所は覚えているといったふうになってくれれば、成功と思った方がいいのかもしれません。

日々是好日

今年、初めてが、「大寒」の日となりました。

2021-01-20 08:49:59 | 日本語学校

晴れ。

今日は「大寒」。寒いはず。

関東圏というか、東京圏というか、神奈川、埼玉、千葉の各県は東京都と同じく、コロナで大変。専門家の、「東京から滲み出ていくように近県に広がっている」というのは、その通り。体感と同じです。

ただ、ある種の人たちの言う、コロナ対策を問われたときにですが、「専門家の意見では」というのは、いったい何のことなのか。いったいどのような専門家を指しているのか、その都度、私達には「わからない」。納得するというよりも、あるのは違和感だけ。これは一般的な庶民の感覚と言ってもいいでしょう。だって「原発事故」の時に味わっていますもの、こんな感覚。毎度のように「専門家」と聞くと、思わず、「あの時と同じだ」と思ってしまうのです。

あの「大津波」の時、原子力の安全神話をまき散らしていた、いわゆる高位に即き「科学者、専門家」と言われ、偉そうにしていた人たちと、鉱山のカナリアのように、ずっと警鐘を鳴らし続け、冷や飯を食わされていたていた人たちと。

私達は、いわゆる「科学者」に、世故に長け、うまく世を渡るような才能を求めてはいません。そういうものを持っていたら、研究なんぞはできないと思い込んでいます。よしんば、そういう才があっても、最後には自分の科学者としての良心が勝つものだと思っています。これは大間違いでしたね。それが「コロナ禍」でも繰り返されているのではないかと大衆は思っているのです。

日本人は専門家とか、科学者という名称に弱い。聞くだけで、ははっと平伏し、信じてしまう。職人さんを尊ぶのと同じように。一つの分野を30年、40年と、倦まず弛まず研究している人たちだから、我々一般庶民とは違う見地があって当然だと。だから、尊敬されて当然だと。

おもえば「専門家」という言葉は軽いものとなりましたね。酒屋でくだを巻いて騒いでいるおっさんらの言葉の方がよほど重く真実に近いものに感じられてしまいます。

だから、今回もすぐに、再三、「彼等が言うところの、専門家とは、御用学者の類いの事ではないのか。良心に基づいて、言いにくいことを歯に衣着せず言う、本当の科学者、専門家ではないのではないか」と思ってしまったのです。

もしかしたら、庶民の方が「経験から学んでいる」のかもしれません。

さて、学校は相変わらず続いています。

昨年度は20人が机を並べて勉強していた教室に、今は6人とか5人ぐらいしか入っていません。その留学生たち(二年目の学生達)が卒業すれば、あとは留学生は一人だけということになります。寂しいですね。とはいえ、近所の人が一人二人と申し込みに来てくれるので、それなりに教室には人がいて、学校らしい様子は保たれています。

この、日本語を勉強したいと言う人たちの目的や事情は様々、国も様々。今いるのは、ネパール、パキスタン、スーダン、中国、インドネシア、フィリピン…そして、その人達の関係でしょう、自分の後には、弟や妹を、あるいは友達をという場合もある。

ただ、留学生達と違い、日本語のレベルがだいたい同じで、皆、日本にやって来ているというわけではありませんから、その点は少々、こちらが苦労する。しかも、学歴も母国で大学を出たと言う人から、中学校レベルの人まで様々。毎日来られる人から、週2,3回という人までいる。

日本で中学校は出た、高校は出た…とはいっても、漢字が書けない、カタカナも書けない、あるいは読めない…(だから、日本語学校に来た)。字が読めないのなら、学校教育で得られるはずの知識はどうなっていたのだろうと思ってしまうのですが。

とはいえ、高校受験をめざしている人には、ある程度、漢字が書けるようになったら、次は中学校の教科書を教えていかなければならない…でなければ、高校受験は無理。

以前のタイ人やペルー人の生徒は、中学校の授業が終わってから、そのまますぐに学校に来て、1時間か2時間、受験に必要な事を学んでから他の中三の日本人たちと一緒に受験した。インド人の学生は、来日後、二年間日本語を勉強してから高校を受験した。今度はまた事情が異なる。だいたい、同じ状況でやってくるってことなどあり得ませんから、その都度やり方を考えなければならないし、用いる教材も異なってくる。

目的も、それとは別に、日常会話ができればいいと言う人もいれば、「N2」を目指したいという人もいる。で、個別の対応が必要になってくる。まあ、昨年度のように留学生が多かった時にはそれは難しかったけれども、今は人が少ないから、それができる。まあ、ものは考えようです…かな。

日々是好日