昨日は、朝は青空だったのに、だんだん雲が厚くなってきて、そしていつのまにか…雨。パラパラ、シトシトくらいのものでしたけれども、「雨が恋しくなった」なんて書くんじゃなかった…。
今朝も晴れ。但し、この晴れは続きそうですけれども。
「サクラ(桜)」の葉が、本当に美しくなっています。日本の秋は、この「紅」でもなく「黄」でもなくという色合いが本当に美しく、慕わしい。そのまま額縁に嵌め込んでしまいたくなってしまいます。
周りの風景は日ごとに美しくなっているのですが、お天気は、特に気温は不安定で、今日は夏日になるとか。朝は15度くらいで、昼には25度くらいにもなるそうです。
そして、こうなりますと、ますます「風邪引き」さんが増えてきそうなのが悩みの種。マスク姿が増え、学校に来ても「頭がいた~い」なんてことになる。だいたい、フラフラしても、体温計で測るという習慣のない国の人も少なくなく、赤い顔をして、頭が痛いというので、風ではないかと、熱を測ってみると、「あれあれ」ということになる。
病院に素直に行ってくれればいいけれども、中には「国から薬を持って来ているから、それを飲めば大丈夫」などと言って、行かない人もいる。「国は、寒くないでしょう。冬がないでしょう。病院に行って診てもらったほうがいい。行きなさい」と無理に行かたりするのですが。
彼らの国の薬はじんわりと効いてくるという民間薬が多いのです。だから軽いときとかはいいけれども、熱が高くなってしまえば、あまり効かないのではないかと心配されるのです。それにのんびりとした国のようですから、病気だといえば、いつまでも休める…だれも文句は言わない…でしょう。それも日本とは違いますから。
例の「『靴下穿け』いたちごっこ」は既に始まっていますが、だいたいが「持っています」(持っていても穿かなければ役に立たない…)。あるいは「気持ち悪い」(慣れないのですねえ)。
毎度の事ながら、病気になるまで待つしかないか…。
そして、授業です。
どうも些末な事に気を取られ、なかなか全体まで目が通せない学生という学生がいて、苦労しています(日本にもいます)。昨日も、「母親」というコトバが出てきたものですから、「『母』と『母親』は、どう使い分けたらいいか」という質問。まだ「N4」に毛の生えたような状態では、こういう「コトバの使い分け」を説明するのは、甚だ難しく、勢い、「同じです。どちらを使ってもいいです。あなたが書いた文章を見て、ふさわしくなければその都度説明します」としか言いようがないのです。
言うまでもなく、こういう質問をしてくる学生は真面目でコツコツ型が多く、それ故か、小さな差異にも神経質になってしまう傾向にあるのです。もちろん、私が「今は話してくれそうにない」のが判りますから、ますます、もやもやは拡がっていくようで、授業に専念できなくなる。
それからの「はい、暗記」の時にも、「漢字の練習」のときにも、そのことが気になって、気になって、集中できない。頭から離れないのです、「母」と「母親」が。
順番に読ませているときも、気が取られているので、ハッとして、「先生、ごめんなさい。できません」などと言うのです。
「コマッタナ」で、まあこういうときは気分転換をさせるに限るというもので、早速「集めます」の漢字の説明を面白く言って見せてやります。「『隹』は『ふるとり』と言い、その下は『木』ですね。木の上に、鳥がたくさんつどっている。だから『集まる』という漢字になった」なんてやってやりますと、そちらの方に気が向いたらしく、「ああ、そうですか」なんて、急に明るい声になったりする。「判った」という「気分」が大切なのでしょう。
とはいいましても、「気分転換」、今とらわれていることから解放させるのが、なかなか大変で、彼の場合はこの手が一番いいことが、判って来たので、それを使えたのですが、中にはそれをやってしまうと、ますます混乱してしまうという人もいますから、この手が誰にでも使えるというわけではないのです。彼にしても、半年くらいは「困ったな」くらいのもので、暗中模索状態でした。いくつかの手の内、これが「たまたま効いた」に過ぎなかったのです。
こういう人は往々にして、文章を読むとき、判らない単語が一つでもありますと、そこで止まってしまい、先へ進めなくなってしまうのです。もちろん、いい面もあります。時には、このレベル(N4かN3)で、よくそんなところに気がついたなと褒めてやりたくなるような「発見」をしてくれる時もあるので、一概に否定はできないのです。が、ただ困るのは試験の時なのです。
試験の時、わからない単語は絶対に出てきます。それが運悪く、1行目であったり、2行目であったりすると、そこで止まってしまいますから、それで終わりになってしまう。「無視して飛ばせ」が苦手なのです。「そこで止まってはだめ。とにかく、先を読んでいけ」が判っていても、なかなかできないのです。
こういうのは、試験ですから、文書の大意が判ればそれで済むことで、「些末な単語一つ一つにかかずらっては負け(コトバは悪いのですが)」なのに、それがやれないのです。
気がつけば、何も答えを出せずじまい…ああ、もう終わってしまった、どうしよう、何もできていない…。そこで気が動転してしまい、他のものまで間違えてしまう。
結局は、己の実力が出せずじまいになってしまうという不幸な結果になってしまうのです。おそらくはこういう人たちも自分のその「欠点」が判っているのでしょうが、なかなか「判っていてもやめられない」。
彼が真面目で、不器用な人であるだけに、気が揉めます。
日々是好日
今朝も晴れ。但し、この晴れは続きそうですけれども。
「サクラ(桜)」の葉が、本当に美しくなっています。日本の秋は、この「紅」でもなく「黄」でもなくという色合いが本当に美しく、慕わしい。そのまま額縁に嵌め込んでしまいたくなってしまいます。
周りの風景は日ごとに美しくなっているのですが、お天気は、特に気温は不安定で、今日は夏日になるとか。朝は15度くらいで、昼には25度くらいにもなるそうです。
そして、こうなりますと、ますます「風邪引き」さんが増えてきそうなのが悩みの種。マスク姿が増え、学校に来ても「頭がいた~い」なんてことになる。だいたい、フラフラしても、体温計で測るという習慣のない国の人も少なくなく、赤い顔をして、頭が痛いというので、風ではないかと、熱を測ってみると、「あれあれ」ということになる。
病院に素直に行ってくれればいいけれども、中には「国から薬を持って来ているから、それを飲めば大丈夫」などと言って、行かない人もいる。「国は、寒くないでしょう。冬がないでしょう。病院に行って診てもらったほうがいい。行きなさい」と無理に行かたりするのですが。
彼らの国の薬はじんわりと効いてくるという民間薬が多いのです。だから軽いときとかはいいけれども、熱が高くなってしまえば、あまり効かないのではないかと心配されるのです。それにのんびりとした国のようですから、病気だといえば、いつまでも休める…だれも文句は言わない…でしょう。それも日本とは違いますから。
例の「『靴下穿け』いたちごっこ」は既に始まっていますが、だいたいが「持っています」(持っていても穿かなければ役に立たない…)。あるいは「気持ち悪い」(慣れないのですねえ)。
毎度の事ながら、病気になるまで待つしかないか…。
そして、授業です。
どうも些末な事に気を取られ、なかなか全体まで目が通せない学生という学生がいて、苦労しています(日本にもいます)。昨日も、「母親」というコトバが出てきたものですから、「『母』と『母親』は、どう使い分けたらいいか」という質問。まだ「N4」に毛の生えたような状態では、こういう「コトバの使い分け」を説明するのは、甚だ難しく、勢い、「同じです。どちらを使ってもいいです。あなたが書いた文章を見て、ふさわしくなければその都度説明します」としか言いようがないのです。
言うまでもなく、こういう質問をしてくる学生は真面目でコツコツ型が多く、それ故か、小さな差異にも神経質になってしまう傾向にあるのです。もちろん、私が「今は話してくれそうにない」のが判りますから、ますます、もやもやは拡がっていくようで、授業に専念できなくなる。
それからの「はい、暗記」の時にも、「漢字の練習」のときにも、そのことが気になって、気になって、集中できない。頭から離れないのです、「母」と「母親」が。
順番に読ませているときも、気が取られているので、ハッとして、「先生、ごめんなさい。できません」などと言うのです。
「コマッタナ」で、まあこういうときは気分転換をさせるに限るというもので、早速「集めます」の漢字の説明を面白く言って見せてやります。「『隹』は『ふるとり』と言い、その下は『木』ですね。木の上に、鳥がたくさんつどっている。だから『集まる』という漢字になった」なんてやってやりますと、そちらの方に気が向いたらしく、「ああ、そうですか」なんて、急に明るい声になったりする。「判った」という「気分」が大切なのでしょう。
とはいいましても、「気分転換」、今とらわれていることから解放させるのが、なかなか大変で、彼の場合はこの手が一番いいことが、判って来たので、それを使えたのですが、中にはそれをやってしまうと、ますます混乱してしまうという人もいますから、この手が誰にでも使えるというわけではないのです。彼にしても、半年くらいは「困ったな」くらいのもので、暗中模索状態でした。いくつかの手の内、これが「たまたま効いた」に過ぎなかったのです。
こういう人は往々にして、文章を読むとき、判らない単語が一つでもありますと、そこで止まってしまい、先へ進めなくなってしまうのです。もちろん、いい面もあります。時には、このレベル(N4かN3)で、よくそんなところに気がついたなと褒めてやりたくなるような「発見」をしてくれる時もあるので、一概に否定はできないのです。が、ただ困るのは試験の時なのです。
試験の時、わからない単語は絶対に出てきます。それが運悪く、1行目であったり、2行目であったりすると、そこで止まってしまいますから、それで終わりになってしまう。「無視して飛ばせ」が苦手なのです。「そこで止まってはだめ。とにかく、先を読んでいけ」が判っていても、なかなかできないのです。
こういうのは、試験ですから、文書の大意が判ればそれで済むことで、「些末な単語一つ一つにかかずらっては負け(コトバは悪いのですが)」なのに、それがやれないのです。
気がつけば、何も答えを出せずじまい…ああ、もう終わってしまった、どうしよう、何もできていない…。そこで気が動転してしまい、他のものまで間違えてしまう。
結局は、己の実力が出せずじまいになってしまうという不幸な結果になってしまうのです。おそらくはこういう人たちも自分のその「欠点」が判っているのでしょうが、なかなか「判っていてもやめられない」。
彼が真面目で、不器用な人であるだけに、気が揉めます。
日々是好日