日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「食塩水」の問題から、「消費税」のことを聞かれました。「消費税として、いくら(何円)かかったのか」って。

2022-02-25 08:30:04 | 日本語学校
晴れ。

快晴です。風もない。とはいえ、のんびりしていたら、また十字路で転びそうになってしまいました。角っこに近いところにいて、前に「鉄の棒」が立っていたのです。「これは用心しなければ危ないかも」なんて思っていたら、案の定、うまく行きませんでした。

「おっとっとっと」と、どうにか体勢を立て直したつもり…だったのですが、今度は道の真ん中で、また転びそうになってしまいました。近くにいた人が動けなくなっている…(固まっていた。転ぶと思ったのでしょうね。だいたい道は坂になっている)し、信号で止まっているドライバーもじっと見ている…多分、待っている人は何もすることがありませんから。で、もう(自転車に)乗るのを諦めて、降りようとしたら、短い足が引っかかってしまって降りられない。ドタバタしてしまいました。信号が変わっても誰も動かなかったので、やはりドライバーは「危ねええ」と見ていたのでしょうね。下手をすると加害者になってしまうかもしれないし。

どうにか降りられはしたものの、結局、次の角まで歩いてしましました。そろそろ自転車も無理になるかもしれません。とはいえ、このコロナ禍の中、膝の手術くらいで病院の手を煩わすのも気が引ける。

さて、学校です。

それぞれが受験の準備にまっしぐらだった三人も、二人は終わり、一人は今日で終わりになる。ということで、中心は来年の高校受験を目指している一人と、自分も数学をやりたいという一人、この二人に移ります。

中心といいましても、これは補講の中心ということですが。

昨日は、例の食塩水の問題です。これが難しい。ということで、「さて、3%の食塩水、1000㌘は」と、水槽の絵を描いて、下に食塩、上は水とします。「食塩は何㌘入っている?」どうも質問の意味がつかめなかったようですが、最後にはどうにか答えが出ました。ます、大切なのは、この式です。
1000×百分の3=30 どれが食塩水で、どれが%で、どれが塩か水(水の量も出てきますから)かを、下に書いておきます。

ここに戻れば、他の問題も自然と解けていきます。求めるものが食塩であったり、%であったりするだけのことですから。

すると、一人が、
「じゅあ、消費税は?」と聞いてきました。
「今、消費税があるでしょ。消費税がかかって、いくらでしょ。消費税の分はどうやったらわかるの?」

すごい。さすがです。食塩水から消費税にいったか。感動してしまいました。そのまま応用できます。原価、定価、売値というのは、先日の問題でやりました。確かに食塩水なんて言ったって、至って空虚な問いですからね、彼らにとって。消費税で、ぐっと身近なものになります。

ちょっと退屈そうだったもう一人も、俄然活気づいて、身を乗り出してきました。

「式は同じ。こうやって入れていけば、消費税としてかかっていた分がわかる」
二人は目がうれしそうに「わかった。そうだったのか」

日本人は「距離と時間」とか「リンゴとミカン」、「食塩水」というのは、ちょっと懐かしい数学というか、算数の問題です。だから、なんか馴染みがあるので、大人であっても別に気になりません。聞くと、「ああ、あれか」くらいのもの。

しかし、こういう問いに出会ったことのない人たちにとっては、「なんで食塩水なんだ」ですよね。「距離と時間」の時も、「スマホでわかるのに」と言われたし、ちょっと大きめの数の割り算をさせようとすると、すぐにスマホでやろうとする。そういえば、ベトナムもそうだったなと思いながらも、「自分で計算しろ」と仕舞わせたのですが、確かに計算も大きな数は苦手。

スリランカの学生の時も思ったのですが、早くから専門を分けてしまうということの弊害を感じてしまいます。高校までは基本的なものは皆に教えておいた方がいい。高校を出ているのに、なんでここ(日本語学校)で、小数点のついた数や簡単な分数のかけ算割り算、足し算引き算(通分が苦手のようです)を教えなければならないのか。その上、マイナスがつくと、途端に混乱してしまう。と、思ったものだったのですが、旧植民地におけるイギリス式は貴族社会の名残なのかしらん。

日本の場合、数学が苦手であっても、習ったことは習った。つまり、見ているし、聞いてもいる。これは大きいと思います。習い直せば、「ああ、こうだったのか」ということもあるでしょうし、大人になって教科書を見ながらやり直せば、勝手に合点がいく場合だってあるでしょう。やったこともない、見たこともないというのとは、全く違います。

というわけで、昨日は消費税のことがわかって、「やり甲斐」「習い甲斐」があったように思います。文章題に入って、ちょっとわからなくなっていたのですよね、この二人。馴染みのない問題でしたから。

日々是好日
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「食塩水」の問題から、「消費税」のことを聞かれました。「消費税としていくらかかっていたのか」って。

2022-02-25 08:30:04 | 日本語学校
晴れ。

快晴です。風もない。とはいえ、のんびりしていたら、また十字路で転びそうになってしまいました。角っこに近いところにいて、前に「鉄の棒」が立っていたのです。「これは用心しなければ危ないかも」なんて思っていたら、案の定、うまく行きませんでした。

「おっとっとっと」と、どうにか体勢を立て直したつもり…だったのですが、今度は道の真ん中で、また転びそうになってしまいました。近くにいた人が動けなくなっている…(固まっていた。転ぶと思ったのでしょうね。だいたい道は坂になっている)し、信号で止まっているドライバーもじっと見ている…多分、待っている人は何もすることがありませんから。で、もう(自転車に)乗るのを諦めて、降りようとしたら、短い足が引っかかってしまって降りられない。ドタバタしてしまいました。信号が変わっても誰も動かなかったので、やはりドライバーは「危ねええ」と見ていたのでしょうね。下手をすると加害者になってしまうかもしれないし。

どうにか降りられはしたものの、結局、次の角まで歩いてしましました。そろそろ自転車も無理になるかもしれません。とはいえ、このコロナ禍の中、膝の手術くらいで病院の手を煩わすのも気が引ける。

さて、学校です。

それぞれが受験の準備にまっしぐらだった三人も、二人は終わり、一人は今日で終わりになる。ということで、中心は来年の高校受験を目指している一人と、自分も数学をやりたいという一人、この二人に移ります。

中心といいましても、これは補講の中心ということですが。

昨日は、例の食塩水の問題です。これが難しい。ということで、「さて、3%の食塩水、1000㌘は」と、水槽の絵を描いて、下に食塩、上は水とします。「食塩は何㌘入っている?」どうも質問の意味がつかめなかったようですが、最後にはどうにか答えが出ました。ます、大切なのは、この式です。
1000×百分の3=30 どれが食塩水で、どれが%で、どれが塩か水(水の量も出てきますから)かを、下に書いておきます。

ここに戻れば、他の問題も自然と解けていきます。求めるものが食塩であったり、%であったりするだけのことですから。

すると、一人が、
「じゅあ、消費税は?」と聞いてきました。
「今、消費税があるでしょ。消費税がかかって、いくらでしょ。消費税の分はどうやったらわかるの?」

すごい。さすがです。食塩水から消費税にいったか。感動してしまいました。そのまま応用できます。原価、定価、売値というのは、先日の問題でやりました。確かに食塩水なんて言ったって、至って空虚な問いですからね、彼らにとって。消費税で、ぐっと身近なものになります。

ちょっと退屈そうだったもう一人も、俄然活気づいて、身を乗り出してきました。

「式は同じ。こうやって入れていけば、消費税としてかかっていた分がわかる」
二人は目がうれしそうに「わかった。そうだったのか」

日本人は「距離と時間」とか「リンゴとミカン」、「食塩水」というのは、ちょっと懐かしい数学というか、算数の問題です。だから、なんか馴染みがあるので、大人であっても別に気になりません。聞くと、「ああ、あれか」くらいのもの。

しかし、こういう問いに出会ったことのない人たちにとっては、「なんで食塩水なんだ」ですよね。「距離と時間」の時も、「スマホでわかるのに」と言われたし、ちょっと大きめの数の割り算をさせようとすると、すぐにスマホでやろうとする。そういえば、ベトナムもそうだったなと思いながらも、「自分で計算しろ」と仕舞わせたのですが、確かに計算も大きな数は苦手。

スリランカの学生の時も思ったのですが、早くから専門を分けてしまうということの弊害を感じてしまいます。高校までは基本的なものは皆に教えておいた方がいい。高校を出ているのに、なんでここ(日本語学校)で、小数点のついた数や簡単な分数のかけ算割り算、足し算引き算(通分が苦手のようです)を教えなければならないのか。その上、マイナスがつくと、途端に混乱してしまう。と、思ったものだったのですが、旧植民地におけるイギリス式は貴族社会の名残なのかしらん。

日本の場合、数学が苦手であっても、習ったことは習った。つまり、見ているし、聞いてもいる。これは大きいと思います。習い直せば、「ああ、こうだったのか」ということもあるでしょうし、大人になって教科書を見ながらやり直せば、勝手に合点がいく場合だってあるでしょう。やったこともない、見たこともないというのとは、全く違います。

というわけで、昨日は消費税のことがわかって、「やり甲斐」「習い甲斐」があったように思います。文章題に入って、ちょっとわからなくなっていたのですよね、この二人。馴染みのない問題でしたから。

日々是好日
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「試験の面接」で、優しい先生に褒められたらしい。ほっとして、またうれしくて、踊るようにして戻ってきました。

2022-02-24 08:23:05 | 日本語学校
曇り。

分厚い雲か…と思って見渡したところ、わずかに青空が覗いているところがありました。けれども、すぐに埋まってしまいそうです。薄日が射しても、わずかなものでしょう。おまけに風が冷たい。ビルの間を通っている時には感じなかったのに、開けた所へ出ると、ビュッと吹いてきます。いつもと風の向きが違うような…。

さて、学校です。

火曜日のこと。午前の後半の授業をしていると、何か飛び跳ねているような気がしてふと外を見ると、その日、面接試験があった学生が踊っています(踊ってはいませんでしたが、そう見えました)。体中からうれしさが弾けてくるような感じで、なにかキャーキャー叫んでいます(ガラスの向こうで、声はよく聞こえません)。

まあ、授業中ですから、すぐに目を教室に戻します。

すると、ドドドッと外階段を駆け上がっていく音がしたかと思うと、今度はダダダッと内の階段を降りてきました。いつものように半分ほど開けた戸を目いっぱい開けて、「褒められたぁ。日本語が上手って褒められたぁ。3回も」。もううれしくってうれしくってたまらないという様子。興奮しきっています。

「ホンとかな?」「本当。初めて褒められた。先生が三人もいた。み~んな、本当に優しい。とてもいい人たち」舞い上がっています。

それも無理からぬことなのかもしれません。数日前の他校の面接試験の時、緊張して何も言えなかった(彼女曰く「頭の中にはみんなあった。でも出てこない。あったのに出てこない」)し、これ見よがしに首を傾げられたりしたので、今回は怖くて怖くて、数日、あまり眠れなかったらしい。それが優しい先生に当たって、緊張せずに済んだどころか、褒められたので、一気にうれしさがこみあげてきたのでしょう。結果が出るまで喜ぶのは早いと言っては見たのですが、全く耳に入っていかない。

こちらがあまり構わないので、褒めてもらおうと、今度は二階の教員室に行ってしばらく戻ってきませんでした。

授業が終わってから、ちょっと正気に戻ったのでしょう。

「先生、時間に遅れた。間に合わなかった。」

「えっ?」

「電車間違えた。西船橋で反対の電車に乗った。すぐに気がついて、次の駅で降りたけれども、それからもう一回別の電車に乗ってしまった。バスも、降りてから間違えた。近くに大学があるでしょ。そこと思ったから、そっちに歩いて行った。門の所にいた先生が、違う、違う、あっちって、大きく手で教えてくれた。最初、それに気がつかなかった。やっと気がついて、慌てて反対に行った。向こうの先生たちは笑っていた。こ~んなふうに。大学に着いたけれども、大学って、どうしてあんなに大きいの?大きい、大きい。とても大きい。中で一生懸命走った。門の所にいた先生と一緒に。階段もあった。どうしてあんなに高いの?入ってからずっと走った。」

「へ?先生と一緒に?」

「先生も大変。私も大変。疲れた、疲れた。先生も疲れた。10分くらい時間に遅れた。でも、面接の時間には、間に合った」

「電車を間違えたことを先生に話した?」

「面接の先生には話していない」

午後の授業は二人ですし、もう一人は高校受験のため、数学の過去問をやったり、切りのいいところで面接の練習もせねばならぬということで、「帰ってもいい」と言ったのですが、「誰もいないから、もう少し学校にいたい」と言って残ります。

いると、いろいろと思い出してきて、だんだん不安になるようで、「…せんせい、大丈夫かなあ。一生懸命走って、ブラウスの上のボタンが外れていた。スカーフもズレていた。ここも、ここも、きちんとしてなかった…。」

本人は、失礼だったのではないかと、そればかり気にしています。バスの時間が来たので、帰ると言った時に、「今日はゆっくりお休みなさい。疲れたね」と労うと、気弱そうに頷いて、帰って行きました。

どうか、いい結果が出ますように。

本人は、多分、国にいた頃には考えられなかったほど、この学校で勉強してきました。午前の授業が終わってから、学校で五時近くまで毎日残っての勉強です。教員がついていたこともありますし、自分でやっていたこともあります。何人か同じように残っていたので、それが励みになってはいたのでしょうが、「書くということ」、「読んで考えるということ」、こういうことがなかなか身については来ませんでした。

「覚えて終わりじゃないよ」と言われても、ただ暗記すればいい点が取れるという中で育ってきた人には、理解しがたいことだったのかもしれませんし、また、そう言われてもハッとするような感じでもありませんでした。ただ、少しずつではありますが、慣れてきたような気がします。

大学に入れたら、いろいろと別の体験ができるでしょうし、その一つ一つがいい経験になるでしょう。日本の大学はこういう人たちをこそ入れて、新たな環境で彼らの経験したことのないものを味わわせて、育てていくべきであるような気がするのですが。各大学にはそれなりに問題があるのでしょうから、それも難しいのかもしれませんが。

日々是好日
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中学の数学、文章題のこと。

2022-02-18 08:32:54 | 日本語学校
晴れ。

こんなにきれいな青空なのに、明日は雨になるとの予報が出ています。東北地方や日本海側の人たちからすれば、贅沢を言うなというところなのでしょうけれども、「冬は快晴」というのが染みついている私。なかなか「曇る」とか「降る」とか言うのに慣れません。

さて、学校では相変わらず、皆、真面目に勉強してくれています。正規の授業の他に、必要に応じて、ちょこっと数学なども教えているのですが、それが案外、日本語学習の盲点を突いていて、面白い。

最初は計算だけでしたから、何ということもなかったのですが(何せ、「高校受験は最初の20点」という感覚が抜けきらないのです)、文章題に入った頃から、あれれれ…という状態。

今、大学受験の学生が一人いるので、長くは教えられず、週に2、3回、午前の授業が終わった12時半から1時までと、わずか30分ほどのことでしかないのですが、それでも日数を重ねていけば、それなりの効果はある…でしょう????

文章題といいましても、長くても80から100字程度のものでしかないのです。けれども、侮るなかれ、この中に重文あり、複文あり、また主語や述語に、修飾語というかそんなものがかなり長くのっかっている。これはもう主部である、述部であるなと思われるほど…彼らにとってはそうでしょう。

その他に、「より」といった比較を表す言葉にも引っかかりやすい。やはり、数学と日常の言葉とは関係が希薄なのかしらん。それとも、単語に慣れていないせいかしらん。道とか時間とか、或いはリンゴとかミカンとか、水とか塩といったものなど、日本人にとっては小学校のころから、こういう言葉が出てくると、「あっ。算数だ」なのですけれども。だいたいが、中1の問題で、小学生の尻尾がまだついているような問題なのですけれども。
(大学受験で数学が必要なときには、高校数学などこちらの手には負えないので、理系大学を出た学生に頼んでいました。ベトナム人が中国人に教えたこともありました。本当に理系には日本語は必要ないのです…これとても、二人とも、ある程度できる場合だけです。母語で習ってもわからなかった人には、無理ですね)。

「N3」に楽勝しているとはいえ、「読解」の点数はそれほど褒められたものじゃない二人。もっとも、だからというわけではないのでしょう。おそらく「国語」が苦手な日本人の子供であっても、こういう傾向はあるのでしょう。

修飾・被修飾がつかみにくい場合は、文末の「動詞」に注意を向けさせ、「何が」「誰が」
を言わせてみる。複文の場合は、多くが左辺、右辺でまとめられるので、そちらに向けてみる。

日本文を読む上で、つくづく「修飾・被修飾」の理解が必要であると思い知らされた…ような気がします。

日々是好日
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昨日、試験だった。「帰ってからずっと泣いていた…」らしい。休み時間は元気だったようだけれども…。

2022-02-15 08:17:43 | 日本語学校

晴れ。

今日は雨が降り、洗濯日和ではないと言うけれど、いい天気。快晴。

千葉県…行徳、市川市の中にありますが、他のざわざわとした街の様子とは違い、道は真っ直ぐ。道幅は狭いとはいえ、真っ直ぐな道です。人は迷いようがないと言うけれど、方向音痴の私からすれば、真っ直ぐで迷いようがないから迷う。どこも同じに見えてしまうのです。

今朝も自転車をノタリノタリと漕いでいると、ふと真っ直ぐな道の向こうに、つまりかなり遠くにマンションの端っこが目に入ってきました。別に見ようと思ってみたわけでもなく、向こうから迫って来たわけですが、ふと「まっすぐな道でさびしい」という山頭火の句が頭の中に浮かび上がってきました。

ずいぶん前に、中国で「咳をしてもひとり」という放哉の句が、それこそ急に浮かんできたことがあったのですが、それと似ていたのかもしれません、状況は。とはいえ、山頭火の句はどこかこじつけられるような気がして、同じような気分でも違いがあります。

まっすぐな道ね。でも人生の半ばを疾うに過ぎた身からすれば、凸凹していても、結局はまっすぐでここに至ったってことになるだろうとか何とか。

さて、学校です。

「昨日は帰ってからずっと泣いていた」と、日曜日、受験した学生。「たくさんいた(受験生が)。百人はいた」。へええ。コロナ禍で留学生はそう多くはあるまいと思っていたけれども、そうなんだ。…でも、もしかしたら、緊張で、実際よりも多く見えたのかも…。

「緊張した。先生の言ったことは皆わかったし、覚えていたことだったけれども、緊張して頭の中に何もなかった…つまり、真っ白。書かれているものを読むように言われた。緊張してカタカナがわからなくなった…平素もカタカナを読むときは少々時間がかかる」。

昨日はずっと泣いていたそうで、少々疲れているようでした。…休み時間になると元気になっていましたけれども。でも、過ぎたことは過ぎたことで、しょうがない。頑張ろう。なにせ、彼女は留学生ではないので、またの機会があるのです。留学生だったら、こっちももっと焦っていたことでしょうが。

本人はまだまだ話したかった…訴えたかったようでしたが、もう一人高校受験を控えた学生がいるので、とにかく「N1」の文法だけは駆け足ででも終えておかねば、彼女が困る。もとより、もう一方だって困るはずなのですが。

国によっては「N2」くらいから、なかなか母語に置き換えられないという人が出てきます。以前、台湾の高校受験生が、「N2」文法を使って文を作ったから見てくれと持ってきたことがあったのですが、このときは、ちと「どうしょう」という気分になりました。

意味はだいたい合っている。しかし場面や状況の設定が何とも言えないのです。つまり、彼女が作った文というのが、身近な人や身近な出来事のことなのです。「う~ん。こういうときはこの文法は使わないなあ。でも、意味は合っている。よく考えたね。でもまずは(教科書に出ている文を)暗記することから始めよう」とやったのですが、彼女はもっと褒められると思っていたでしょうね。頑張ったのはわかったのだけれども、どうも「N2」からの文法を用いて、身近な出来事を記録するのは、ちと難度が高すぎる。

今、「Bクラス(皆、非漢字圏の学生です)」でも、「N2文法」に入っています。今回はコロナ禍ということもあり、私が週四で教えているので(例年ですと、週一で、暗記文だけは私が毎日繰り返させていました)、彼らにとっては消化不良を起こしても不思議ではないのです。書かれている例文が難しすぎるのです。

もちろん、一巡したら、二度目をやり、おそらく三巡くらいは必要になるでしょう、その頃にやっと他の科目が追いつき、理解が楽になる…でしょうから。結局、日本語を習い始めてからの(理解だけでなく)、消化するための、ある程度の時間が必要なのです。

で、今が「文法(N2)」を習う身としては一番辛い頃。何となくわかるけれども、どうしてこんな文法を習わなければならないかわからない。他の(N3レベル)のもので、似たものがいくつもあるというのに。…くらいですかね。彼らの気分としては。

いずれ、新聞や雑誌、その他の読み物を読まなければならなくなるのでしょうが、その時に、初めてわかるというのが、「N2」以降の文法なのかもしれません。

もっとも、真面目な彼らは、覚えろと言われたからと、毎日のように読んではいますが、どうも「N3」の時のようにはスムーズに中に入っていかないようですね。

日々是好日
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「経営って何?」質問は簡単であればあるほど、答えるのが難しい。特に昨今は。

2022-02-09 08:42:32 | 日本語学校
晴れ。

明日は雨か雪とのこと。今朝、晴れ渡った空を見上げて、「その兆しは」と見てみた。真上は雲一つない…。けれども、その地平線近く(地平線と言っても、低いビルが邪魔しています。そのビルの上くらい)はぐるりと、白いうっすらとした雲が湧き上がっていた。あるとすればこれくらいかな。

木・金と雪が降るとしても、土・日には溶けているとみても大丈夫かしらん。先だっての雪の時には、あちこちで、スッテンコロリンとやっている人がいて、歩いている「こちとら」もペンギンさんになりながらも、ビクビクもの。しかも、今度の日曜日は受験会場へと道を急ぐことになっていますから、スッテンコロリンは、よほど験が悪い。

さて、学校です。

大学で「経営」を勉強したいという学生。「『経営』とはなんぞや」と訊かれて、はたと困ってしまった。しばらく考えて、「いろいろなところへ行って、いろいろな人に会えるし、いろいろな人と話ができる」と言う。

それは、まあ、そんなこともすることはするだろうけれども…それを「経営」というかなあ。確かに、身近に会社で働いている人がいなければ、そしてその人らの言葉から、なんとなくでも感じられるものがなければ、「朝、背広を着て、地下鉄に吸い込まれて行く人」或いは、「会社の中でデスクワークしている人」くらいの印象しかないでしょう。

私だって「商い?」くらいのものですもの。

特に、最近は、単に「商い」などとは言えないようなビジネスも増えてきました。「ゴミ問題を解決させるために、会社を立ち上げる」とか、「限界集落や過疎の町を救うために、ビジネスを考える」とか、おそらく彼らの理解できないような切り込み方をするビジネスが増えてきた。儲かるものを探すと言うよりも、目的があって、それを達成させるための方法として、ビジネスが選ばれていたりするのです。

まずは現場に行く。どこに問題があるか、地域や住人なりの特性を考え、じっくりと探っていく。それは問題の種類や地域の特性によっても違ってくるでしょうし、その(解決を図ろうとする)人の得手不得手もあるでしょうし。一律にあそこで成功したから、ここでも、私でも、というわけにはいかない。

しかも、その中で、自分や立ち上げた会社の社員、生産者或いは住人が生活できるようにしてやらねばならないし、また、それを買おうとする者にとっても、ある程度のお得感がなければ、すぐに潰れてしまうことでしょうし。三方一両損というけれども、経営者だけが儲かるというのは、昨今ではいただけないのです。

とはいえ、「自分だけが勝ち組になるのではなくて~」とか、「周りの人たちのことも考えて~」とか、「皆がそれなりに幸せになれることを考えて~」とか言っても、「何のこっちゃ」となってしまう。

「それ、何?」なのでしょうねえ。時間の軸の違いではなく、水平方向に移動しているだけなのに、なかなか難しい。

これって、多分、イスラム教を信じる人たちが何事かを言っても、ある程度以上は私には理解できないのと同じなのでしょうね。

まずはイメージか。百聞は一見に如かずというけれども、それって、本当ですね。

日々是好日
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留学生が多かった頃と、在日生がほとんどの今とは、かなり雰囲気が違っています。どちらもそれなりにいいのですが。

2022-02-08 08:32:10 | 日本語学校

曇天。

まさにこの「ドンテン」。発音そのままのお空模様です。分厚い雲が下界に迫ってくるようで、なかなか圧迫感がありますね。その上、こう雲が厚いとお日様の光を遮って、風がないのに、寒さを目で感じてしまいます。それもひしひしと。

さて、学校です。

留学生が多かった頃は、日々、話題に事欠かなかった学校ですが、留学生は、一昨年三月に、ぎりぎりセーフで入ってきた人、一人だけともなりますと、どこかしら時間があっさりと流れていくようで、こってり感が欠如しているような気がしてきます。

思えば、コロナ前の数年が最高潮だったのかもしれないような…。ベトナムの学生も学校を休まず真面目に勉強してくれていたし、ネパールでは、こちらの強面での面接が功を奏してか、真面目な学生を送ってくれるようになっていましたし(それでも、わかってもらえるようになるまで2,3年はかかった)…。と、その矢先に、急に門戸が狭められ、そのあげくがこのコロナですものね。

この学校に入りたい、入れたいという学生がいても、東京入管は申請が通りにくい…という噂(噂だけなのか、ぞれが事実なのか、このあたりは、私らでもわかりにくい)。で、断られるときに、解説付きの断り状が入っていた。

もちろん、規則は規則です。アルバイト時間を超過して働くのはいけないこと。けれども、それだけかなあ。留学生には文部科学省で、勉強の面から考えてほしいのに、そうではないから矛盾が生じるのかなとも考えられるのです。

だいたいアルバイトの時間が少なすぎる。もうちょっと増やしてほしい。皆が皆、経済的に余裕のある国から来ているわけではないのです。頑張って両立できる人もいるのです。条件をつけてはどうかしらん。大学に合格できたか、あるいは非漢字圏の学生で「N2」を取れたかにすれば、能力がかなりあると言うことで、「特別に許可する」とか。

あの「アルバイト」はもちろん職種にもよるのでしょうが、学生にとってマイナスの面ばかりでもないのです。

とはいえ、今は在日生が大半。大半と言いましても、大していないのですが。

今年高校と大学に入りたいという二人と日本の会社に入りたいという一人。それから来年高校へ入りたいという二人(一人は別の道を探すかもしれませんが)と来年専門学校に入りたいという一人。それから奥さんが四人、そしてこの二月から新たに勉強したいという人が、おそらくは二人。これに今年卒業の留学生一人を入れて、全部で11名。多いときは三つの教室がギュウギュウ詰めになるくらいでしたし、在日の方を断らねばならないこともあったくらい。

まあ、留学生に比べれば、在日の人は勉強に集中できる(小さいお子さんがいる人は、お子さんが病気になったり、コロナ禍で保育園が休みになったりで毎日来るというわけにはいかないようですが、それでも留学生ばかりの時のように、ワサワサとはしてはいない。

今の「Bクラス」は「N2」合格を目指しており(一人、遅れて入ってきた人は、次は「N3」合格を目指すと言うことですが)、そのまま素直に勉強してくれています。日本語ができなければ、日本で暮らしていくのは難しい。それがわかっているからなのでしょう。

ただそれだけでなく、「N3」に合格すれば、欲が出て、次を目指すという人がいるのはなかなか頼もしいこと。10年以上も前の頃には、『みんなの日本語Ⅰ』が終わるか終わらないかのうちに、諦める人がよく見られたものでしたが。実を言いますと、「N3」が終わった後、一人を除いて皆残ったのにはちょっと驚きました。「N3」よりずっと難しくなるよと言ったのですが、「N2」の勉強をすると言われたのです。

やる気のある人が増えるのはうれしいですね。向こうにとっても、そして私らにとっても。

日々是好日

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「卒業式は出たい」…そうか、卒業式を経験したことがないんだ…。

2022-02-07 08:43:33 | 日本語学校

晴れ。

寒さにも慣れたような…気がしますが、週末の日本海側の大雪は、ニュースで見るだけで、寒さがぶり返してきそう。

すごい雪ですね。人も車も家も雪の中に埋まっています。「雪だ、雪だ」と騒いでいた南国の人たちも、あの中にあったら、どうでしょう。もっとも、先日の2,3㎝の雪であっても、喜んでいた翌日には「もう、いい」なんて言っていたくらいですから、雪の日の大変さが少しはわかったのかもしれません…だいたい、歩けない。

「桃栗三年柿八年、梨の大馬鹿十八年」
「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」
「東方朔は八千歳、三浦大介百六つ」
「梅は食うとも核食うな、中に天神寝てござる」

なんでしょうねえ、一つが突然、頭の中に浮かび上がってくると、続けてぽろぽろと出てくるのです。いつ、なんで、覚えてしまったのかはわかりませんが、面白いですね。今日はこれ、けれども、ふらふらと出てくるのが違う時もありますし、何かの歌の文句や詩の文句であることもありますし。人間の脳というのは不思議なものですね。いつもは完全に記憶の外にあるのに。

さて、学校です。

学校の「サザンカ(山茶花)」も終わりのようです。「サザンカ」の頃「スイセン(水仙)」「ウメ(梅)」が咲き、続けて「ツバキ(椿)」「ナノハナ(菜の花)」「モモ(桃)」…さて「モクレン(木蓮)」が先だったか、「サクラ(桜)」が先だったか…。

「サザンカ」が終わりを迎える頃から、街はだんだん花に彩られるようになってきます。もっとも、そのちょっとした狭間に雪の花がちらほらと降ったりする…。

今日も寒い。「サクラ」とか「ナノハナ」といった感じでは、まだまだ…ない。

二月に入ると、入試が本格的になってきます。やっと先週の終わり頃から、緊張し始めた人がいて、思わず、「今頃かい」と叫んでしまいました。経験がない…わけでもないでしょうに。

ただ、在日生の二人、学校の卒業式には「出たい」そうで、これは「卒業式」という経験がないからでしょう。日本語学校に来るたいていの学生(高卒)は、「卒業式」未経験者です。大卒でも、よくわからないような人も時たまいるくらいで、「卒業式」というのは「入学式」と同じくらいきらきらして感じられているようです。そういえば、「入学式」なんてのも「ない」所も多かった…。

そこから見れば、日本は「式」が多すぎるのかもしれません。中高はもちろんですが、幼稚園だって、小学校だって、それはそれは見事に「式」をやりますもの。練習だって、準備だって大変なのに。

この学校でも、一度か二度、留学生の数が多すぎたときには、入りきらないので、留学生だけでやったことがありましたが、他の時には、全員でやり、その時に一年生が、「これが、卒業式か。自分も出たい」と思ったりしたようです。

日本では、何で、こう「形式」というか、「祭り」というか、いわゆる「行事」ですね、それを大切にするのでしょう。「今から勉強する」であっても、「できたから、終わり。はい、さようなら」でも良さそうなものなのに。

ただ「区切り」をつけるということは、「けじめ」をつけるのと同じようなもので、その間のことを振り返る機会にもなります。そうでなければ、たらたらと流れていくだけですもの。

例えば、日本語学校であれば、「来日したときはこんな感じであった」、「それからこんなことがあった、或いは、した」云々、そして「卒業式の今日 」というふうに、思い出しながら、いろいろな話を皆でする。それが皆でいる最後になるかもしれませんし。

今年は、卒業生が三人。寂しいと言えば寂しいですが、見送ることになる一年生も数人いることですし、また新しく日本語を学びたいというご近所さんもちらほら出てきそうですし、まあ、楽しい卒業式ができるかもしれません。

日々是好日
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「自分の言葉」で、「自分の思い」を語ったときが、人は一番美しい

2022-02-03 08:04:45 | 日本語学校
晴れ。

うっすらと雲がかかっています。今朝は風がないせいか、それほど寒くは感じられません。が、学校の鍵を開け、ドアを開け、一歩足を踏み入れた途端に、「さぶ…」

さて、学生たちです。

入試を控えている学生たちとは、いくつかの面から彼ら自身のことを話させてきました。話させていくうちに、私も、彼らのこれまでの行動に納得のいったこともありましたし、彼ら自身も自分のことを語っていくうちに、考えが深まっていったところもあるようでした。だいたい必要なことは聞き取れたと思います。

さて、「では、自己アピールをするとしたら」ということで、箇条書きでノートに書かせてみました。すると、私が受けた印象とほぼ正反対のことが書かれていたのです。自己評価というのは…なかなか大したものです(本当に、いいこと尽くめか????)。

「ええ!?」と、本人以外は唖然としてしまったのですが…。
「嘘だろう。本当にそう思っているのか」
「そうそう。いえいえ、本当です。本当に私は変わった!自分でも驚くくらい」
「まあ、確かに変わったは変わっただろうけれども…、それほどか~ア。そこまで変わったか~ア?プラスに~イ」
「はい。本当。それ、ほんとう」

大したものです。自己主張の強い民族は、自信も強固で揺らぐことがない。ここでも、いっかな引くことはない。

彼女の言ったことを中心に(ノートに書かれたことではありません。いくら何でも、私だって、思っていないことは書けない)一応のところでまとめ、それを渡してみると、なぜか急に頭がくるくると回転し始めたらしく、ものも言わずに、脇目も振らずに、ノートに何事かを書き始めた。

授業時間が終わる頃、「全部じゃないけれども、こう。先生、見て」とそれを渡した。

内容はほとんど同じです。けれども、言い方や言葉は完全に彼女のもの。文法もおかしければ、単語も間違いが甚だしいとはいえ。読めば彼女が浮かび上がってきます。借り物ではないのです。

で、私がまとめたものと、彼女の途中まで書いたものを、改めて渡し、「自分でまとめてごらん」

表情も生き生きとして、書くのがよほど楽しかったようでした。「私はこう思った。こう言いたかった」なのでしょうね。本当に人は自分の言葉で自分の思いを語っている時が一番勢いがあって美しい。借り物を無理に覚えて読み上げても、それは所詮、人のもの、自分のものではない。

さて、どう書いてきますやら。時間に制限があるので、それほど待てないのですけれどもね。

日々是好日
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ベトナムの卒業生が二人、お菓子を持って遊びに来てくれました。(新潟の)雪の話を聞いて、スーダン人の二人はびっくり。

2022-02-01 08:24:37 | 日本語学校
晴れ。

朝、七時ごろ家を出ると、もう野鳥の雁行する様子は見られません。以前は、よく雁行を見ながら出勤したものでした。帰りも9時を過ぎることが何度もありました。一度学生に付き合って、12時近くになったときには、途中で幾度かウトウトしてしまい、こりゃ、限界だなと思ったこともありました。帰ってからもテレビのチェックで授業に使えるものなどを探すという毎日が続いていましたが、もう、そういう力はありません。とても疲れました。

足がまだ使えた頃は一年に数回の里山歩きが救いだったのでしょうし、友達にも会えた…。学校だけの毎日というのは年寄りにはちと荷が勝ちすぎる。…ということで、今はもう何もする気になれないのです。まあ、そう言いましても、朝は早めに来てこのブログを書いているし、帰ってからもテレビのチェックは怠っていませんけれども。やめたら、このテレビのチェックだけでもしなくてもよくなるな、すると随分楽だななどと、時々考えてしまいます…。外国人には「百聞は一見に如かず」なのです。わからない日本語を百万言費やすよりも。

さて、今日です。天気予報では、今日も洗濯日和なのだそうな。もっとも一月はそういう日が多かったので、どうってことはないのですけれども。

冬は乾燥期。電車で週一で治療院に通っていた頃は、冬は富士山が見えるのでうれしかったけれども、コロナで自転車で通えるところ以外にはどこへも行っていないという状態が続くと、別に乾燥していてもうれしくもない。

さて、学校です。

昨日、午後の授業で、「アラブの春」について学生たちに(二人です)、話したり、DVDを見せたりしていると、「昔の学生」がやってきたとスタッフが上がってきた。もう、連絡無しにやってくるのだから…。彼らを知っているのは私しかないということで、聞きに来たのですが。

一人は新潟で、もう一人は都内での仕事。もっとも同じ会社なのだそうな。この前、夫婦できた学生のことを話すと、自分たちの会社の社長に相談したら、取引先の社長を紹介してくれたのだそうな。いい人だって聞いてるよというと、自分たちの社長もとてもいい人だからと言う。

就職した学生たちの話を聞くと、外国人に理解のある社長の多いことに気がつきます。外国人ゆえの不便さ、困難さをわかってくれて、住まいにしてもいろいろな面で面倒を見てくれるそうで、全く頭が下がります。

いい人(A)がいい人(B)に相談する、するとそのいい人(B)が別のいい人(C)を紹介してくれる。いい人(A)の友達は同じようにいい人(D)なので、紹介された人(C)も「よかった、よかった」となる。で、まあるく、おさまったというのが今回の件だったようです。

で、新潟からの学生に、「雪」のことを聞くと(新潟と言えば、雪しか思い浮かばないのは想像力の貧困ゆえか。新潟の人に怒られそうです)、「今、2㍍」と言う。それを聞いたスーダン人の二人、「わあ、2㍍?」言ったはいいけれども、ちょっと想像できないようです。この前の3㎝くらいの雪で大騒ぎしていたくらいでしたから。

で、「昔の学生」に向き合います。新潟からの学生が一人で話し続け、もう一人は黙って聞いているだけ。「話せ、話せ。日本語が下手になったから、話せないのでしょ」と言っても、「ええ、下手だから話せません」と言う。けれど新潟からの学生は「(彼は)『N1』に合格したから下手じゃない。私よりずっとうまいです」と言う。でも、黙っている。「一階に同じベトナムの学生が残っているので、ちょっと話しておいで。まだ授業があるから」と帰すと、すぐにスタッフが「写真を」とやってきた。

今、卒業生で来た学生に教員と一緒に写真を撮ってもらって、それをインターネットにあげているのです。それで、呼ばれて、二人は戻ってきた。別室で、写真を撮って、さて、授業に戻れるかと思うと、今度は都内の学生がしゃべり始めて止まらない。

四月に一時帰国すると言う。ベトナムでもハノイの方はおさまっているから大丈夫というのですが、戻れるの?と聞くと、一時帰国だから、大丈夫と言うのですが、ほんとかな。

話しているうちに、彼らが在学中のことになった。

「何の仕事もしなかったでしょ(力を要する仕事、手伝いには一切手を出さないというか、出せない。やれば、邪魔になる…」
「はあ?」
「力がないから荷物も持てない。日本に来たときは本ばかりトランクに詰めてきた。でも自分のそのトランクが持てない。友達に全部もってもらっていた。で、感謝しているかというと、そうではなく、ハアハア言っているだけ。疲れた、疲れた、自分が大変だ。はあ、で終わり。友達の方が気の毒だった。放っておけ。持てない荷物は持ってくるなって言ったの覚えている?」

全く覚えていないようで、そういう印象を持たれていたと言うことにショックを受けている。彼としては、別の面で、例えば知恵を出すとか、そういう面で手伝って来た。で、何の手伝いもしなかったというのは、不当な評価だと思っている。

けれども、学校での手伝いというのは、机や椅子の位置を変えたり、買い物に行って荷物を持ってくれたりと、そういうものですから、彼の苦手なことばかり。で、私から見れば、マイナス評価となる。

ですから、当たり前ですよね、こう見られても。で、次から次にこの「マイナスの印象」を言ってやろうと思ったけれども、もう、それだけで、ガーンと来ているのを見て、ちょっとやめてやった。同情心からです。

一方、もう一人は考えるより先に体が動く方で、少しも労を厭わない。誰も何も言わない前から、すぐに体が反応して、荷物を運んでいる。私はいつも「手伝うな。自分でやらせろ」と言うばかり。二人は不思議なコンビでしたね。

けれども、今、二人は二人なりに悩みもあるようでした。とはいえ、授業中。また私にできることなど何もない。あとは二人のこれまでの経験と能力、そして他者を助けるという性格の良さが運を呼び込んでくれることでしょう。

よきベトナム人です、二人とも。

日々是好日
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