曇り。
今日は、涼しいそうな。「空梅雨」と言えないにしても、(「入梅」という言葉から連想されるような)シトシトと降り続く「梅雨」という感じはしません。
けれども、今朝のようにどんよりとした空だと、やはり、今は、「梅雨」は「梅雨」なんだと、思ってしまうから不思議です。
空が曇ると、草木の蔭の線が曖昧になって来ます。ここからここまでという線がぼやけてくるのです。こういうモノの「暗さの線」に、親近感を持つようになったのは、年のせいなのでしょうか。
20年ほど前に行った山に、今行けば、また違った感慨を持つかもしれません。
若い頃は「華やかさ」や「きれいさ」に、心を奪われたものでしたが、今では、同じものを見ても、その「華やかさ」や「きれいさ」の裏に、何かを見ているような気がするのです。感じ方が違ってきたのでしょうか、それとも生きとし生けるものに対する「思い」が変わってきたのでしょうか。
咲き誇る花は美しい。降り積もる雪は白い。これは見れば、だれでもそう思う。それらを見たことがない人でも、花は美しいもの、雪は白いものと知っている。ただ満開のその花は、盛りの時に、既に萎え、衰えるものを秘めているとか、青く見える雪もあるということは、学んで得られる知識です。
そう見えて、あるいは、知識としてなにがしかのものを知っていても、それから後は個人の世界になります。
この、個人の世界が、曲者なのです。
人は年を取れば、自然と経験も増えていき、以前見たものと同じものを見ても、以前とは違う感覚を味わったりする。前には気にも留めなかった部分に心打たれたりする。
モノの中に潜んでいる「暗さ」というのも、その一つなのでしょう。「闇」ではなく「暗さ」にす。
どうも、このような天気の日には、モノの持つ「暗さ」の方に心が惹かれていくようで。ちょっと困りますね。
さて、学校です。
この学校に来たばかりのころは、蚊の鳴くような声で話していた学生が、今では、二階の教員室にも響いてくるような声で話しています。笑い声もよく聞こえてきます。まあ、休み時間の時だけなのですけれども。
漢字が読めるようになると、こんなにも違ってくるのかと、ちょっと驚いています。
日本の中学校では、在籍していたから、ある意味で、さまざまなことに既視感はある。学校での習慣ですね。皆、こんなふうにしていた、先生はこう言っていたとかいう。
ただ、漢字が読めなかったから、授業には、ついていけなかった。読めないということは、そもそも、書けないということですし、見ても意味が判っていなかったということでもあります。
来たばかりのころは、(漢字を)見れば書けますから、これほどの大ごとであるとは思っていませんでした。ところが、そうではなかった。書いていたのは、いわゆる(意味も判らずに)写していただけだったのです。これでは、そもそも、試験問題が読めるはずがない。ということは、答えが書けるはずがない。で、授業中は小さくなっているしかなかった。
今は一歩一歩ですね。もうすぐ、週一の漢字テストの「N3」が終わります。それが皆、合格すれば、今度は「N2」の漢字に入ります。最初のうちは時間がかかったけれども、彼女だけ、週に三回、二枚ずつすることにしています。尤も、最近は、自分から、今日もやると言ってきていますから、もう少し早く「N2」漢字に入れるかもしれません。
日々是好日