日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「梅雨の走り」なんてもう遅いですね。今週末にはもう「梅雨」…だとか。

2023-05-31 08:20:20 | 日本語学校
曇り。

雨が上がったばかりの清々しさを感じています。少々冷えますけれども。

春先の雨は「甘雨」と言っていましたが、 今頃雨は、もう「梅雨の走り」なのでしょうか。それとも、俗に言う「卯の花腐し」なのでしょうか。少々遅きに失するかもしれませんが、まだ五月ですものね。「ウノハナ」もまだ咲いていることですし。

乾燥地帯で数年過ごしたせいか、日本の野草を見ると、ほっとします。特に雨が降ったあとの、繁りに茂っている様を見ると、なぜかいいなあと思ってしまいます。緑はどのような形であれ、心を穏やかにしてくれます。もっとも、ガーデニングをされている方から見ると、にっくき雑草めがと言うところなのでしょうけれども。

さて、学校です。

「Cクラス」です。一昨日は『みんなの日本語』、「第18課」の四回目でした。「13課」あたりから、まだ覚えられていない「動詞」が少なからずあります。「動詞」だけ、それと必要な「助詞」をつけての復習をしていきます。月曜日は、土日と休みが続きますから、どうしても復習に時間がかかってしまいます。一昨日もそうでした。本当はもう少しカードを減らしたかったのですけれども、無理でしたね。あと一日辛抱するしかありません。で、面倒でも二度繰り返してやっていきました。忘れていると言いましても、一度は覚えたのですから、ゼロからではありませんし。思い出す程度で済みますから。やはり継続は力なりです。

そして、火曜日。月曜日よりは楽でした。復習の「動詞カード」を少し削れました。「動詞」の数が多いと、持つのもしんどいし(私)、学生にしても言う(大きな声で言ってくれますから)のもしんどい。お互いに(カードを)減らせればそれに越したことはない。

これが終わると、すぐに「テ形」の確認をします。「テ形」はもう2週間ほどもやっていますから(「1グループ」は「五十音図表」を用いての確認程度にし)、すぐに「ナイ形」の復習に入ります。「Ⅲグループ」、「Ⅱグループ」、「1グループ」の順で、「~なければなりませんか」「いいえ、~なくてもいいです」を言っていきます。時々、不意打ちで「あります」とやると、これがなかなか。5回目くらいでしたでしょうか、やっと声がそろったのは。だれかが間違えるたびに、皆ニヤニヤ。言えた人も、「ヒヤッとした」表情ですから、まあ、相身互いというようなものでしょう。

それが終わると、「辞書形」を復習し、次に「タ形」に入ります。

面白いですね。留学生が多いクラスでは、「タ形」の練習に入ると、皆、ほっとした表情を見せていたものですが、このクラスでは、つぎの「り」付きがなかなかできない。「タ形」はどうにか言えても、「~たり」ができないのです。単に「り」付きだよが、通用しないのです。別物を見るような目つきで見ています。

頭を抱えている人が数人見受けられたので、いつものように、「はい、見てください。『二課』です。簡単ですねえ」とか、「はい、言ってください。『さむい』(と言うと、彼らが一緒に、『さむくない』、『さむかった』、『さむくなかった』『さむくて』と続けてくれます)。これも大変でしたね。でも、もう大丈夫。すごいですねえ」「『~たり』もすぐにできるようになりますから、大丈夫。毎日練習しますからね」

で、ごまかし、宥め、同じ動詞で、「~たり、~たりします」を作っていきます。やっと言えるようになったので(初めてやった文型は、たいていの場合、次の時間には消えています)、「B問題」の続きをやっていきます。

次に、「~たり、~たりしたいです」とか「~たり、~たりしなければなりません」とかが出てきた時、何人かの学生がヒソヒソと何事かを話しています。わずかに含まれている日本語から推測すると、「ああ、これか」みたいなようなのです。それ以外の学生も、どこか表情が違う。「~たい」とか「~なければならない」が出てきたので、旧友にでも会ったような感覚になったのかもしれません。

このクラスは、日本にもう10年くらい住んでいたけれども、日本語を学ぶ機会がなかったという人もいれば(…耳は肥えていますし、言いたいことを言えるだけの胆力もある)日本に来たばかりで、「ひらがな」も「カタカナ」も「それっ何」程度でここに来ている人もいる。

「単語・文法説明」書は英語で、と言っていても、『みんなの日本語』の文法説明(英語)も理解できなければ、単語の意味(英語)も、多分、あやふや。

いろいろな状態の人たちがいて、ともに助け合いながら、勉強を続けているので、時には、励まし、時には煽て…、つまり「鞭」はほとんど使わぬ、「飴」ばかりの「政策」で望まなければならぬことが多いのです。

ただ、このクラスには三人の留学生が含まれているということ。特に男子学生が二人いますから、「鞭」が必要なときには、彼らに振るうということにしています。二人とも、何を言われても、「困ったちゃん」の顔で、ニコニコ。眠いときは、「先生、立って授業を受けてもいいですか」くらいのもので、「鞭」を「鞭」とも思っていない様子。気を遣うのは、彼らにではなく、頑張って学校に通っている、年の長けた人たちの方なのです。

どちらにせよ、日本で暮らすからには、日本語は必要です。ここで、難しいと諦めてしまっては、元も子もなくなる。とにかく、ゆっくりでも(復習に三分の二くらいの時間を割いています)諦めずに、苦手意識を持たずに、勉強してくれたらと思っています。

日々是好日
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雨が降って、新緑が濡れて、「目に青葉」の季節となりました。

2023-05-30 08:33:24 | 日本語学校

小雨。

小糠雨です。もっとも、傘を差さずに歩いていても、濡れたという感じはありませんでした。こういう雨を何というのでしょうね。

道々、目に飛び込んで来る新緑の美しいこと。花の季節は終わり、梅雨が近づく頃、今は新緑の季節。山に行けば、もっと美しい景色を見ることができるのでしょうが、街中でも、大丈夫。雨に洗われた新緑を見て、目が洗われています。

傘を差さずに歩いていると、そんな私を見て、あれっという顔で、傘を閉じる人もいれば、差したまま歩いている人もいる。ちょっと、どうすべきか悩んでしまうのでしょうね。それほどの、あるかなきかの雨でしたもの。もっとも、今はすっかり止んでいるようですが。

さて、学校です。

昨日「文法」の時間だけですが、「Aクラス」を、七月に「N2」を受ける人たちと、「N3」を受ける人たちの二つに分けて、授業をしました。

隣の「N3文法」クラスからは、時折楽しそうな笑い声が聞こえてきます。「N2クラス」の方は、「読解問題」をさせられているわけですから、当然、あまり面白くはないでしょうね。黙ったまま問題を解いていっていました。

その「問題文」の中に、「古バビロニア」の名が出てきましたので、隣のクラスの教員に断りつつ、(隣のクラスの)邪魔にならないように、ジワジワと入っていき、人数分の資料を取って来ました。でも、早速使われてしまいましたね。そのときの例文に「すみません、すみません。お邪魔します」と入っていく私のことが。まあ、いいでしょう、お互い様ですもの。

主に、現「Aクラス」の学生たちは、南アジア、そして東南アジアから来ています。彼らの国では「社会科」分野に関することをあまり学んできていない…ように見受けられます。自国のことだってそれほど学んでいるわけではありませんから、ましてや他国のことをやというところなのかもしれません。

最初のころは、「知っている、見たことがある。勉強した」とか言っていた学生たちも、幾度か、資料を見ていくうちに、それを言わなくなります。知らなくても「何の恥でも何でもない」とこちらが思っていることがわかってくるからなのでしょう。

こちらとしては、「知ってくれる」ことだけが目的で、「だから、あなたの国は何だ」ということではないのです。

幾度も見ているうちに、昨年の学生など、古代インカ文明の名を知っただけでなく、繰り返し出てきた単語や町の名、事柄なども覚えてくれていました。彼は、日本で言えば、まだ高校生と言ってもいいような年齢だったので、頭も柔らかく、知識欲もそれなりにあったからなのでしょう。

西アジアや南アジア、東南アジアなどから来た学生を教える場合、キリスト教やイスラム教を熱心に信じ、その枠の中で育ってきている人に対しては、時々、こちらが不用意にした発言や事柄が問題になることがあります。

10年ほども前のことですが、「進化論」に関して高校の資料集を見せ、ついでに「ダーウィン」を紹介していますと、キリスト教徒であるフィリピンの学生が、突然、「それは間違いです。ヒトは神様が作りました」。オットット。「そうですか。でも、こういう説もあることくらいは知識として覚えていてね」で締めましたが。

また、「七夕」を紹介した時のこと。絵本にあったとおりに、織り姫の父を「天の神様」と、うっかり言ってしまったのです。途端に、イスラム教徒の学生が、憤然と席を立ち、「私は帰ります」。そして同じ授業を受けていた、これは他国の人でしたが、同じくイスラム教徒の女性に「あなたは帰らないのか」と糺したのです。彼女は「私はいるよ。折り紙がしたい」で残ったのですが。「七夕」紹介も、日本の文化であって、宗教の紹介ではないことを、からせるように話さなければならないと、そのとき、思い知らされました。

中には、「恐竜」が実在したと知らなかった西アジアの学生もいました。「あれは映画の中のこと」と思っていた…。学校で、上野の「国立科学博物館」へ連れて行くので、「恐竜」の写真などを見せたのですが、「骨格標本があるからね」と言ったのに、びっくりしていました。

もちろん、日本の社会科教育がすべてを網羅しているわけではありません。内容だけでなく、表現の仕方云々で問題になることもあります。ただ、知らなければ何にも出てこないというのも事実です。それらに関するそれぞれの意見はその次の段階です。

「留学試験」の作文などで、「これは無理」と思わざるを得ないのは、時事的なものに対する各個人の意見を求められる時。そういうことがあるのも知らない、また知らされていない国から来ている人は、決して書けませんもの。これは資質の問題ではないのです。

この学校でも、そういう時事的なものを勉強させられるのは、二年目の12月段階で「N2」相当になっている人たちが主です。ヒアリングがいい人たちであったら、そうでなくとも見せられるのですが、ただ、関心を持たせるというのも難しい。私の狭い経験からですが、どうも社会主義国などから来ている人たちは、時事問題を見せると、寝るかスマホを見るかして、乗ってこない傾向にあるようなのです。だから、見せても勉強にならないので、「N1」相当の教科書などをやってしまうことになる…。まあ、それはともかくとして、試験には間に合わない…。

漢字の国、中国だって、歴史を大して勉強していませんから、自分たちの国は「偉大だ」ということは知っていても、現在の版図が、女真族が中国を支配していたときを基礎としているということを知らない人が多々いて、日本で世界史の資料集などを見せて、各世紀ごとの国々の姿などを見せると、絶句する人だっているくらいなのですから。

大変。本当に社会科系を教える…のは大変。この学校では写真や絵を見せるくらいしか主にできないのですが、それでも、本当に大変です。個々にそれぞれ反応が違いますから。

日々是好日
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「初級クラス」は、「口」が主なので、マスクをつけてもらっていますが、「上級クラス」は作業ばかりなので、つけなくてもいいのですけれどもね。

2023-05-29 08:29:31 | 日本語学校

小雨。

「台風二号」が近づいています。今週末には関東に来るだろうと思っていたのに、足踏み状態で、週末でもまだ沖縄に「滞在」していそう。フィリピン沖で発生した当座は、その規模ばかり、気になっていたのですが、日本に近づきはじめると、今度はその速度が気になってくる…。何でも、自転車くらいの速さと言いますからね。いつ頃この辺りにやって来るのだろうと、梅雨前線を睨みながら、心配になっています。

年をとってくると、雨の日が、ちと憂鬱になってくるというのは本当です。家にいるだけであったらいいのですが。子供の頃は雨の日は楽しかったのに、おかしなものですね。

昔は今ほど舗装路が多くなかったので、水たまりというのが、至る所にありました。その水たまりが乾き始めた頃出現する端っこの土も、いろいろあって面白かった。チョコレート状態のものから、荒い小石が混じったようなものまであって、それを剥いだりするのも楽しかった。何より、バシャバシャと水たまりの上を水を踏んづけて歩くのが快感でしたっけ。

もはやそういうのも、陽炎のごとく消えていきました。今は傘を持って、杖を持ってですから、バシャバシャどころではなく、ショボショボ歩くしかありません。

とはいえ、まだ車で送り迎えしてもらえるので、ショボショボの図は少ないのですが。

さて、学校です。

「初級クラス」は、もう最初から最後まで、「口」を遣っていますから(しかもこのクラスの人たちは、声が大きい)、まだマスクはしていてくださいねということにしています。「Bクラス」の授業の時も、「復習」が続き、「やり直し」をずっと叫んでいなければなりませんし…。それで、やっと今頃わかったという顔をされても、明日になれば、また、「さあ、わからない」になるかもしれませんし…。「初級」同様、口を遣っての授業です。ですから、まだマスクは外せません。

一方、「Aクラス」では、最初に(こちらが)単語や文法の説明をし、それから(彼らが)問題を解き、答え合わせをし、質問を受けるという形ですので、ほとんど黙っての作業ですから、話さない時はマスクを外してもいいですよと言っているのですが、面倒なのでしょうか、皆つけたままで作業しています。言われたら、その都度、はっとして外すくらい。でも、また戻ってしまう。

これも日本にどれほどいたか、あるいは日本人(アルバイトではこうはいかないのでしょうね)との接触度合いといいますか、それによるのでしょうね。

「Aクラス」で、「毎日休むことなく授業を受けている、ヒアリングもいい、こちらを見るべき時にはしっかりと見ている」という人は、なんとなく日本人に対する勘めいたものがついている。こちらも、必要な時には、その都度、日本や日本人に関することを説明していますから。

ところが、「休みがちであったり、ヒアリングもそれほど良くなく、うつむきがち」な人は、どうもその部分が欠けているような気がする。

私たちは、今、彼らが理解できなくとも、とにかく、チャンスがあったら、何度でも話すべき事は話しています。「初級」の最初の頃は理解できなくても(用いるのはできる限り、既習の単語であり、文法です。とはいえ、それでは追いつかない部分もありますが)、それでも、一週間後、二週間後、一ヶ月後、半年後にはわかったりする。

最初は(理解できる人が)一人いるかいないかでも、二週間後には、二人になったりするし、一ヶ月後には、三、四人になることもあるし、無いこともある。とはいえ、しつこく繰り返していると、いつの間にか、大体がわかってきたりする。少なくとも、「あれ?」くらいには全員がなっている。そのとき、同国人がいれば、今、何を言っているのかと聞ける程度にはなる。

その区別すらない時から、何か言っているなと内容を気になるくらいにまでなれれば、しめたもの、次の段階へいけます。

尤も、繰り返すといっても限度があります。それに簡単な単語や文法から離れて説明をした方がいい場合もある。それは彼らのレベル、表情を見ながらの作業になります。

何十年も前のこと。「中国語を教えないか」と言われたことが幾度かありました。その都度「無理」と答えたのも、おそらくこれが理由です。「中国に関する背景」が、私にはないのです。日本語であったなら、ある程度は「文」も作れますし、知らないものがあったら、調べれば、自分なりの考えを付け加えることもできる。なにせ、日本で生まれ、日本文化を見て育ち、己はできなくとも、ある程度の事は言えますから。目が覚えている部分というのもあるのです。

よく一つ事をやるには、三代かかるといいますよね。祖父、親、孫になってはじめてできるというのも、その人を取り巻く環境が関わっているからなのでしょう。

「Bクラス」の中学生は、よく「どうして?」と訊きます。初めの頃は、「自分たちの国はこうなのに、日本人はどうしてそうじゃないのか。変だ」という、上から視線を感じたものでしたが、最近はそれが薄れてきたような気がします。多分、学校ではそれが聞けなかったし、言えなかったのでしょう。「私の国は世界一だ」観が拭えなかったからと思うのですが。さすがにそれを言うとまずいと思っていたのでしょうね。

ところが、ここでは何を言ってもかまわない。言い合えますから。となると、鬱屈していたものが、機会がある毎に噴出するということになる。そのときは、「授業が終わってから話す。今はだめ」と言ったりい、そこで説明することもあります。もう一人も似たようなものですから、邪魔にはならないのです。彼にとっても聞いた方がいい場合もありますから。なにせ、年上といいましても四歳くらいのものです。そうすると、彼の方が先に理解して、中学生に話したりもするのです。面白いですね。日本語という面から見なければ、二人とも、どこかまだ純で、かわいいのです。とはいえ、手は緩めませんが。

日々是好日
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クラスごとに雰囲気が違うのも面白い。

2023-05-26 08:11:34 | 日本語学校
曇り。

「受け身」が苦手な「Bクラス」の二人。苦手意識が高じているからか、どうもうまくいきません。かといって、ほっとくわけにはいきません。なにせ、「N3」試験を受けるのですから、一人は。

で、しょうがなしに、また「みんなの日本語」に戻ります。意味がしっかりわかっていないからか、また「けったるく」感じているからか、「兄が私を褒めました」が「兄は私に褒められました」になるのです。ちょうど二人いますから、消しゴムの取り合いでやってみます。これは、「あげます」「もらいます」と同じようなものと、かなり乱暴な言い方をして、やらせてみます。「間違うと大変だね」。

とはいえ、これは以前に何度もしてきたこと。「初めて聞いた」然とされると、わかったと言われても、はあとなってしまいます。

もっとも、これも、ある意味、気持ちのなせる技なのかもしれません。「自分は賢いと思って来たのに、どうして同じことを何回もやらされねばならぬのか」と、そういう気持ちも多分、あるでしょうね。で、表情からそれを読みとった私は私で、おなかの中で「がきんちょ」「がきんちょ」と繰り返すことになります。

さて、ところで、「Aクラス」です。

「読解」の「文法問題」を始めてから4,5回になりますかしらん。一回目は、まあ、できる学生以外(成績のいい学生は、間違えるだろうなと思われていたところで、しっかりと間違えてくれたのですが)、どうしてこんなに答えが合っているんだみたいな感じになっていました。

で、方針転換、15分乃至20分で問題を解かせ、答え合わせとして、順番に言っていく。途中、こちらは何も言わないで、どんどん言わせていくをやっていきますと、安心したのか、三日回目くらいから、よく間違えてくれるようになりました。

どうしても、その人個人の性格からか、あるいは彼らの国での教育のやり方からなのかわかりませんが、「間違える」ことを「メンツの問題」と捉える人がいるのです。

彼らも、もう二年目に入りました。いい加減、わかってくれても良さそうなものを。まだまだですね。「間違えても、それは次のためになるから、かまわない」ということが、なかなか臓腑の中に入っていっていないのです。で、毎回、出たなと思ったら、それを繰り返すことになります。

「間違えたねえ。よかったね。自分がわかっていなかったことがわかったねえ。どうして間違えたのか、納得いかなかったら聞くように」と。今回もそう。まあ、慣れたと言うこともあるでしょう。三日目から、普通になりましたから(当初は頑固でしたねえ)。

とはいえ、「間違えるのはその人個人の問題であって、他の人が教えて言えても何にもならない」というのがわかるのはまだまだのようです。一人が間違えた答えを言うと、解答でチェックでもしたのでしょうか、「違う」と言って、正しい答えを言うように小声で教える人がいるのです。

普通は、「あれ?(自分のと違う)」となってこちらの顔を見たりするものなのですが、それが自信を持って教えたりしているのを見ると、こちらはこちらで、「答えを見たな」となります。

そういう場合も、知らん顔(無視)して、どんどん言わせていきます。で、一定のところで、まとめて説明。間違えた箇所でも、多分、ここの理解が問題だなと思われるところはそこを強調していきます。

間違えても萎縮することなく、「あれ?どうしてだろう」となってくれるのが一番、いいのですが。もっとも、「初級」レベルの単語や文法を間違えたりされると、「ムカッ」となってしまいます。どうも、この「ムカッ」はしっかり表情に出ているようで、学生も「あっ。しまった」。

「初級」の「Cクラス」は、いいですね。「動詞」の「テ形」が終わって、「ない形」に入ったのですが、誰かが間違えると、みんなで「ハハハハハハ」。相身互いです。ですから、楽しいもんです。

日々是好日。
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今朝は、晴れて、涼しい「佳き日」なのだけれども…。

2023-05-25 08:21:29 | 日本語学校
晴れ。

朝はまだ涼しく、昼になっても、このままだと過ごしやすいのですけれども…。多分、だめでしょうね。それどころか、これからは、毎年のように、五月に入ってから真夏のような日がまだら模様に出現し、それが秋になっても続くのではあるまいか…なんて考えてしまいます。地球は氷河期、間氷河期なんてのが、今のような期間とは別に存在していたはずなのですが、もう今となっては、そんなこと期待できないですね。

さて、学校です。

第三者に読めるような「字」を書くことことの大切を、なかなかわかってもらえません。どうしてでしょうね。うまいか下手かの問題ではないのです。

もちろん、個人差はあります。きれいな字というか、日本人が読める字を書ける人も少なくはありませんが(特に留学生)、そうではない人の場合、その差があまりに大きすぎるのです。

「日本語能力試験」も受けぬし、日本で「進学」もしないというのなら、話は別です。が、そうではない場合、どうするのだろうと思ってしまいます。そういう人にでも、何度も「ひらがな」を無理のない範囲で正し(別のところで学んできてました)、「カタカナ」もその癖を取り除こうとし、最初は、「ひらがな」「カタカナ」がきちんと書けなければ、「漢字」も覚えられないと諭してきました。そのあと、受け持っている間は、提出された宿題を一字一字見て、その都度、書き直させていました。これは皆スタッフがしていたことです。ところが、本人にその大切さがどうしても伝わらないのです。ですから、易きにつく。本人に、「形」を「心にとめておく」という気がなければ、こちらのやってきたことは、余計なお世話に過ぎません。

こちらが、一字一字改め、書き直させ、それを別のページに、10回ずつ書かせてきても、本人にそのことが伝わっていなければ、無駄なこと。離れた途端に、元に戻ってしまいます。

「こんな字では、日本の学校の先生は見てくれないだろう」と言っても、どうしてなぜそうなのかがわからない。おそらく彼らの国では書くことのみならず、書かれている文字にそれほどのウェートは置かれていないのでしょう…。だから、日本に来て、「ひらがな」をやり、「カタカナ」をやり、「漢字」までやったにしても、テキトーから抜け出せない。

それに読解力。テキトーな習慣がついていれば、もちろん「読めません」。「テキトー」に読んで、「テキトー」に言うだけですから。その上、必ずと言っていいほど、「私の国では」がつくのです。「ここは日本で、今、日本人の書いたものを読んでいる。君の『私の国では』というのは、この文章を読む上では、意味はない。邪魔になるだけだ。」と言っても彼には響かないようですね。そのときは黙っても、また「私の国では」が出てくる。いい加減、「日本ではどうなのか」を考えてほしいと思うのですが、結局、「日本に馴染めない」で終わるのでしょう。確かにそういう人も少なくはない。

だれでも、自国を美化しがちです。何でもかでも「私の国だけにある」と思い込まされてきた人は、初めて来た外国、ここでは日本ですから、「日本にもある」に、驚いたりするのです。「えっ。日本にもあるのか!」そういう人には、とどめで「どこの国にもある」と言うのですが、骨の髄まで「私の国はすごいものがたくさんある(習慣にしても)」「私の国だけだ」が染みついている人は、老若男女にかかわらず、その点はきっちりとガードして、馬耳東風、聞かなかったことにしたりするのです…から、たちが悪い。

もっとも、付け加えておきますが、普通のいい子です。その点を抜きにすれば。

イスラム圏の人たちも、日本の習慣に馴染ませるのにはかなり苦労しました(何を見ても、「宗教」と感じてしまう人がいて、これは「文化」だというのをわかってもらうのに、時間がかかったのです)し、日本語での「読む力」をつけさせるのにも苦労しました。が、普通の本は読んでいなくとも、彼らは『コーラン』を暗記するほど読んできていますし、彼らの「宗教の先生」がそれに解釈を施し、子供でもわかるように説明してくれています。ですから、ある程度日本人の思考回路がわかれば、そして、世界や日本の情勢といった知識が身についてくれば、日本語の文章も自然に読めるようになっていたのです。

つまり、読書の習慣が日本人のようにないにしても、いわゆる「古典」をきっちりと読んで来ているわけですから。これはキリスト教徒にしても同じです。敬虔な信徒でないにしても、本を読むのが嫌いな人であっても、信徒の家庭で育っていれば『旧約聖書』や、『新約聖書』を読んだことがあるでしょうし、日曜学校などで、解釈やそれに関する説明を受けてきているでしょう。

日本にはこのような宗教上の習慣が、普通の人にはありませんから、図書館で本を読んだり、本屋で本を買ったりしなければなりません。小学校でも「図書の時間」が必要で、とにかく子供のうちから本に親しませようという活動が大切なのです。そうしなければ、読解力なんて、なかなかに、つくものではありません。ただの「お話を聞いた」で、幼児レベルから上には行けないのです。読んで考えるは、本当に大切なことなのです。

その両方もない国から来た人の場合、「日本で『読解力』をつけろ」と言われても、「それは無理な話」となるのは当然でしょう。

そうは言いましても、たとえ読解力がなかったとしても、生活する上で、別に困ることなんてありません。困るのは、試験を受けるとか、勉強するときだけ。だから、勉強している人は、「苦しくなる」ということになってしまいます。

日々是好日
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雨の続いた昨日とうって変わり、今朝は清々しい五月晴れ。

2023-05-24 08:00:52 | 日本語学校
晴れ。

昨日は一日中雨で、寒かった…。やっとダウンを手放したかに見えたベトナム人学生、きっとまた引っ張り出して、着込んで来たことでしょう。

そして、今日。

一変して今朝の清々しいこと。まだ空気はひんやりとしていますが、カンカン照りです。とはいえ、昨日の名残があるからか、昼になっても、それほど暑くはならないとのこと。これくらいだと過ごしやすい…。でも、きっと今年も酷暑になるのでしょうね。

さて、学校です。

昨日はスタッフに病気の人が出たので、計画を少々変えての授業でした。

「Aクラス」では、前半は「N2の文法」で、これは予定通り。後半は二つに分かれて、七月に「N2」を受ける四人は「N2読解」試験を受け、「N3」の試験を受ける6人は「Bクラス」とともに、「N3文法」の授業を受けるということに。

これ、変則的な形だったのですが、よいこともありました。「N3文法」を受けたうちの三人、「やっとわかった」で、うれしそうだった…。

一人は来日後、骨折やら、病気やらで、飛び飛びでしたが、休みが多く、習っていなかったところがちょうどそこだったとのこと。残りの二人は、「N3文法」の終わりの頃来日したので、わかるようなわからないような状態で、「N2」に入っていた…らしい。「Aクラス」の他の学生たちと、あまり遜色ないようだったので、そのままにしていたのですが、真面目なだけに、きちんと受けたいと思っていたのかもしれません。

最初の一人は、戻ってきたはじめの頃こそ、大丈夫かなと見ていたのですが、スリランカ人ですから、ヒアリングはよく、漢字テストも真面目にやっていたので、あまり考慮していなかったといえば、言える。

残りの二人は、ベトナム人とミャンマー人で、来日後様子を見てみると、「Bクラス」に入れるほどではないし、国である程度やっていたとのことでしたから、一応「Aクラス」に入れておいたのです。7,8ヶ月遅れて来日したにせよ、なにせ、卒業は他の「Aクラス」の学生たちと同じですから。とはいえ、実際に「N3文法」の授業を受けてみると、わかったという点が多々見られたのでしょう。却ってよかった。

けがの功名です。

これからは、「N3文法」の授業の時は取り出しで、「Bクラス」に入れよういうのが私たちの気持ちですが、もちろん、三人と話してから、決めます。多分、三人もその方がいいでしょう。もしかしたら残りの人たちも、行きたいと言い出すかもしれません。

そして、「Cクラス」です。

9時から12時半まで私が受け持ったのですが、疲れましたね。前半だけでも、初級は疲れるのですが、ずっと同じテンポで、突っ走ると、老齢には応えます。

ネパール人四人は、私と同じように、最後の三十分はへばっていたようでしたが、ミャンマー人はすごい。すごい馬力です。全く疲れを見せません。結局、彼ら五人、中でも三人に引きずられるように、同じペースで練習し続けてしまいました。

途中、ミャンマーの男子学生、立ちたい…と言って、立って授業を受けることに。疲れて、眠くなったらしい。どうぞと答えると、立ったまま、口を動かしていましたから、偉い。この学生、最初は、語学を軽く見ているのではないかと思われ、私はかなり厳しく対していたのですが、慣れてくると、表情も豊かになり、結構面白い、冗談が通じます。お互いに「慣れ」が必要だったのでしょう。頭がいいというのは、時にはマイナス材料にもなります。特に、語学を学ぶとき。それも見えなくなったようですね。

日々是好日
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「アジサイ」が先か、「梅雨」が先か。

2023-05-22 08:13:19 | 日本語学校
晴れ。

早朝は薄曇りだったのですが、今は燦々と日が照っています。今日も暑くなりそう。

まさに「二日見ぬ間の『アジサイ』かな」で、満開とまではいかなくても、もう五分はいっていますね。

スーパーを出たばかりのところに、庭師のお宅なのかしらんと思われるほど見事に、四季折々の花がわんさか咲いている所があるのですけれども、今朝見ると、狭い場所ながら、10種ほどの「アジサイ」が咲いていました。

花というか萼というか、その形も違えば、小球の形も、色も違う。

この花を見るたびに、「『アジサイ』が咲いたから、もうすぐ『梅雨』になる」と思うか、「『梅雨』が近づいたから『アジサイ』が咲いた」と思うかという、気の付き方の違いが頭に浮かんできます。後者の人は、前者の考え方を「誤っている」と言うでしょうし、前者は前者で、「無粋なやっちゃな」と思うでしょう。なかなか難しいところです。

日本人は、風の音に秋の訪れを感じる方ですから、前者が圧倒的に多い。ということは、「口げんか」に負けやすい…かな。「口げんか」というよりも「討論」ですけれども。

ところが、案外、「討論」に強いのです。人というのは「論」よりも「情」に負けやすいからかもしれません。

さて、学校です。   

「Bクラス」の二人です。「こそあど」はどうにかやり過ごすことができたとほっとしたのもつかの間、中の文の一つに「可能形」があったので、それを尋ねたのが運の尽き…私が、です。…また『みんなの日本語』に戻ってなった。で、巻末の一覧を見て、「さあ、なんだ」とやると、今度は「どうして、可能と受け身が同じなんだ」と来た。この文の意味から考えてみると…と言っても、相変わらず、わかりませんね。…同じことの繰り返しです。前に聞いた台詞です。また来たぜです。

『みんなの日本語』の時に、きちんとやらなかったから、何度も何度も復習せざるを得ない。「君たちはこれで何回目」と言いたくもなる。…言いましたけれども。しかしながら、それがこたえないからやっていられるのでしょうね。平気で、また、「だって、わからないから」と来る。

受け身の「に」をやって、それから、主語を変えてやってみる。この形はできるのです。機械のように。しかし、どうしてとなる。同じ意味なのに、どうして文を変えるのかとなる。生理的に受け付けないのかもしれませんが、ここで止まってしまうから、区別ができないままということになってしまうのでしょう。問題は解けるのに、「意味」がわからないというか、…本当に、なぜでしょうね。とにかく「覚えろ」と、いつも、ここでこうなる。

で、「~(ことが)できます」で、置き換えられれば、それが「可能」、それができなければ、「受け身」。それでいけということにする。これも何度もやったなあ…。どうにもならん。

毎回そこで止まってしまい、先に進めなくなる。これを何度も繰り返してきたのに。何度もそこでやり直しになり、別の教材に進めない。進んでも、またこれが出てくると、止まってしまう…。一人はこの数回が多少効いているようですが、中学生の方は、多分、十回やっても二十回やっても、入っていかなそうです。拒否反応というか、分厚い壁が拒否している…そんな感じです。まあ、彼は「試験」は関係ないので、ある程度日本人の中で暮らしてるうちに話せるようになっていくでしょうから、ま、いいとして。問題はもう一人です。彼は「日本語能力試験」の合否が進学に関係してきますからね。徒やおろそかにはやってられません。

と、話は変わるのですが、そういえば、この「可能」とか「受け身」ではなかったのですが、「N3」か「N2」の文法で、同じ意味なのに、どうしてこんなにたくさんの言い方があるんだと頭を抱えていた同国人がいましたっけ。同じ意味に見えるかもしれないが(英語ではそうなのかな)、場面や相手、自身の気持ちなどによって、変わる。一律ではないと言っても、どこか大雑把に捉えているようで、多分、どっちでもいいなのでしょうね。

とはいえ、この「受け身」「可能」はいい加減にできません。…できませんが、毎回ここで止まってしまっては、先へ進めなくなる。本当に「どうにかしてくれ」です。

一応、この表は覚えると言っていましたが、多分、覚えて、次の日は忘れるでしょうね。その課の例文を覚えなければ何にもなりません。その宿題だってやっていない…。彼の国にはこういう「書く」宿題なんてなかったのでしょうか。

日々是好日
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中学生の日本語。

2023-05-19 08:54:31 | 日本語学校

曇り。

今は曇っていますが、午後から雨になるとのこと。蒸し暑さは相変わらずですが、雨になれば、一息つけるでしょう。

昨日は、暑かった。本当に暑かった。なのに、厚手のセーターを着込んでいる学生がいる。「暑いですね」「いえ」…。まあ、いい。一応「Aクラス」の五分の二は暑いそうだから。いくら五月も半ばを過ぎたとはいえ、「それはないでしょ」くらいの暑さ。まるで夏です。この分でいくと、じわじわと季節が移っていくという感覚は過去のものになり果ててしまうかもしれません、直に。

風の音に、秋を感じるなんてのを「風流だね」なんてからかいあっていた子供同士の会話も、はて?さて?となっていきそうです。それは「御本でのお話」なんてことになりそうです。

さて、学校です。

「Bクラス」の中学生。昨日はもう一人が風邪で欠席したので、ちょっと中学校「国語」の教科書をやってみました。

外国人用の本ばかり教えていると、「こんなに難しかったっけ」と驚いてしまいます。彼は中学校に通っていることもあり、簡単な日常会話はできる。それに一応、『みんなの日本語(Ⅱ)」ももうすぐ終わる。ということで、ちょうどいい機会だからやってみたのですが。

もちろん、わからない単語を聞くと、いくつか出てきます。その「出てくる単語」以外にもまだまだあるはずなのですが、それがわからない。訊くと言えませんから。日本に来てから、大半のことに、「いわゆる」一知半解で臨んできた…だからなのでしょう。改めて、「これは」、「じゃあ、これは」と聞いていくと、「あっ、それもわからないですね」と言ったり、「別のもの」と思っていたり。

わからないこと、知らないことを見つけ出せるのも、能力だからねと言いながら、少しずつ確認していきます。

意味が全くわからないというのは、被修飾のところ。文が長すぎるのです。動詞の「受け身」「可能」もわかっていない。(教師の方はわかっていないのがわかりますから)この学校で繰り返してやってきたというのに、「私の国の言葉と違うからわからない」と言い訳する。

言い訳の度が過ぎると、こちらも、「これまで中学生を何人も教えてきた。タイ人もいた。ペルー人もいた。中学校の生徒ではなかったけれども、高校に入りたいと言ってきたタイ人もパキスタン人も、インド人も教えたことがある。彼らの言葉も日本語とは違う。当たり前でしょ。国の言葉と違う日本語を学んで、高校に行った。『可能』『受け身』『使役』を学び、「これは何」とすぐに答えられるようになっていた。国の言葉と違うが理由になるか」

中学生相手に大人げないとは思うけれども、彼の、この性格が災いとなって、普通中学生くらいなら素直に入っていけるものも入っていかない。結局は本人が損をするのですが。

さすがに黙ってっしまう。国で受けてきた教育の関係もあるのでしょうが、発展途上国から来ている人に多く見られるのは、「自分の国は特別だ」感。そうでなければ、プライドがぐちゃぐちゃになるからかもしれませんが、これはあまりいただけませんね。「だから、何なんだ」なんですけれども、子供には言えません。

で、この『みんなの日本語』の「受け身」の課を宿題とする。「問題B」の例文を全部写すのです。特に「B1」は受け身文だけでなく、元の文も書いてくる。「覚えるね」と一言添えて。

気の毒なことに、彼の場合、「わかった」「わかってる」が口癖なのです。負けまい、馬鹿にされまいとして思わず口をついて出てくるのでしょうが、「わかるやつは、学校に学びに来ん」と黙らせます。そういうところは、とても素直なのです。

ここに来るまでに、すでに一年ほど中学校で過ごしていますから、「日本語が全然わからない」とか、「来たばかりで(日本語が)耳になれていない」といった人たちとは、違います。初めてなら、「勉強したことがある」とか、「知っている」とかいう言葉は口から出ませんよね。

「聞いたことがある」「習ったことがある」というのが問題で、「やったことがあるから、もうできる」につながって「したくない。もっと別のことを教えて」となってしまうのです。当然のことながら、何度繰り返しても基礎が身につかない。いつまでも、「知っている」で終わってしまい、いい加減なままになってしまう。で、昨日も、また基礎に戻らざるを得なかった…。で、本人はまたやるの…。実際には、それが「可能」であるのか、「受け身」であるのかも、はっきりとは区別できないのに。

この形の意味が捉えられていないと、「主語」がわからないのです。何でも「筆者」と言ったり、「私」と言ったりする。

もっとも、これは彼だけに限りませんが。

日々是好日
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卒業生がやってきて、ひとしきり騒いで帰って行きました。残っていた在校生、「インターンシップって何?」話を聞いていたんですね。 

2023-05-18 08:32:39 | 日本語学校

晴れ。

今朝、ふと足元を見ると,既に「ドクダミ」の花があちこちで咲いていました。これは、ほっとくとすぐにはびこってしまうので、厄介者なのです。しかも名前がねえ、「毒」ですもの。とはいえ、白く可憐な花である事は間違いない。触らんとこです。

もう、直に「梅雨」が始まるのでしょうね。「アジサイ」に先駆ける「ドクダミ」の花が咲くと、「梅雨、遠からじ」です。

昨日の午後、ちょうど「留学試験」のための「作文」指導をしていたのですが、二年前に卒業した学生が、いわゆる「闖入」してきました。在校生は、もともと作文が苦手なので、これ幸いと、(どうぞ、どうぞとニコニコと)歓迎して、卒業生の話に聞き入っています。それほど大した話はしていなかったのですが、彼女が来た本当の目的は、「手伝って」。

とはいえ、「枕」が長くなります。「インターンシップ」の会社に(申し込みをする学生が多かったそうですが)、自分一人が合格したこと。小さい会社だけれども、自分のことを気に入ってくれたと、面接でのことやら、その後の社長との話やら、如何にもうれしそうに話しています。

で、その後、勉強の方に水を向けると、「はっ。昨日レポートで泣きました」。どうやら、「試験」を避けて、皆、レポート提出の授業を選択しているらしい。そのレポートが三つ重なったそうな。で、さすがに三つ目を書いている時には、泣いた…泣きながら書いてしまったそうな。つまり、頑張っているぞと言いたい。褒めてもらいたい。…褒めませんでしたけど。

「写しただけでしょ」と言うと、「違う。考えた。考えて書いた」と懸命に主張します。もっとも、彼女にとっては、教科書を写すだけでも大変だと思うのですが。

そして、急に、「先生。日本人は、『スーダン』がイスラム教の国だと言うことを知らない。どうして、『スーダン』のことを、何にも知らないんだ。(大学の)先生も知らなかったよ」と、如何にも、日本人は「無知だ」と言わんばかりに言います。

彼女ら(特に、西南アジアから来た人達はそうでした、中部アフリカから来た人もそうでしたね)は、この学校にいた時からそんな感じでした。自国中心で、自国が世界の中心ででもあるかのように考えている。結局は自分の国しか知らないからそうなるのでしょうが(自分の国のことだって、大して知ってはいない)。

彼らは、アラビア社会かペルシャ世界が世界の中心なのです。だから、その事を知らない人がいるのは信じがたいと思っている。ヨーロッパは近いし、アメリカはもともと移民の国。近親者でそこで生活している人も多いので、少しは聞きかじっている。但し、欧米の文化や歴史のことは全くといっていいほど知らない。つまり習っていない。

彼女にとっては、エジプトに対しては、一歩も二歩も譲るけれども(欧米は遙か彼方の上の方ですが)、見ていると、世界中の国は自分たちのことを知っているのが当然と考えている。ただ、残念なことに、私達が知っているスーダンは、ダルフール紛争や南スーダン独立のいきさつやらで、彼女が知らないことの方が多い。

スーダンに古ピラミッドがあったことも知らなかったくらいですから。とはいえ、自分たちのことは皆が知っていて当然という姿勢は、大学に入っても、少しも変わっていない…それが本当に面白い。

話は続きます。それなのに、(スーダンがイスラム教の国であることを)インターンシップ先の社長は知っていたと、うれしそうに言います。よかったねと言いながら、君は日本のことを知っていた?(ここで日本語を習い始めた時、何にも知りませんでした)。中近東は遠い。しかも紛争のある国に関しては、直接的に日本の多くと関わりがないことも多い(観光地がなければ)。若い人は、そういう他国に関する知識を、ニュースや新聞をよく読む人は別だけれども、自分と無関係のこととして捉えているから、当然興味はない。自分のことを思い出してみるとそうでしょ。

渋々頷いていました。が、帰る頃、先生、お願いが…と言って、文章を見てくれと言います。彼女の話の中に、「もう二人親友ができた。とてもいい人達で、自分のことを叱ってくれたり、慰めてくれたりする」とありましたし、先生にもかなり目をかけてもらえているようで、楽しい大学生活をおくっているのがよくわかりましたから、「もう、自分でやりな。困ったら、今の人達に助けてもらいな」と言うと、「手伝ってくれませんか」と不服そう。ですが、もう、こういうことで私は手伝わない方がいいのです。新しい人達と仲を深めていった方がいい。

一年目の時には、友達もいないし、どの先生と話していいかもわからない。寂しい…と言って学校に来たことが、1,2度ありました。その時には手を貸したり、話を聞いてやったりしたこともあったのですが、もう人間関係ができたら、「作文などで、困ったら、日本語学校に来る」というのをやめて、新しい人達に相談し、関係をドンドン作っていった方がいいのです。それをしてくれる友人や先生に恵まれているようなので。

「これから大学へ行く。撮影するんだって」と言って帰って行きましたが。彼女が帰ってから、黙って聞いていた在校生、「インターンシップって何ですか」と訊く。学生の時に、紹介された会社に行って、そこで仕事をして…云々と説明すると、よくわからないけれども、会社で働くんだみたいに大雑把に理解しているようでした。

こういうのもいいですね。新しい世界がある事に気がついて。頑張っているとそれなりにいいことがあるようです。

日々是好日

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「初級クラス」、できてもできなくても、声が大きいのは本当にいいこと。時々、オヨヨヨ…となってしまうこともあるのですが。

2023-05-17 08:24:31 | 日本語学校
晴れ。

「初級クラス」です。昨日は、動詞の「て形」に入って2日目でした。

とはいえ、まず、「数」やら、「昨日、今日」やらの復習です。それに、まだ「形容詞」の四つの型が言えない…だいたい言えるのですが、「少ない」と「暖かい」、「いい」は難物のようで、未だに一人、二人、違うことを言っている…のが聞こえてくる人がいるのです。

その他にも、違う声が聞こえてきたなという「形容詞」は、まだありますので、それも練習しておきます。言い間違えた人がいる場合は、すかさず「もう一度」と言い、きれいに声が揃うまでやり直させます。これも、だいたい「『動詞』の『て形』に入るまでだな、しつこくやるのも」と思っていた(8課からですから)のですが、現実はそう甘くはなかったようで、もうしばらく繰り返さねばならないでしょう。まだ手は緩められません。

それから、一昨日の月曜日、土日が続いていたせいで、きれいに声が出なかった部分の「13課」の後半部分の復習です。昨日はだいぶ揃っていました。

で、いよいよ「動詞」に入ります。まずは、カードを見せて、単語がきちんと言えるかどうか、次に文で言えるかどうかの確認です。「14課」ほどにもなりますと、「助詞」があやふやになってくる(すぐに、日本で「言い慣れている助詞」に戻ってしまうのです)人が何人かいますから、これもしっかりと覚えてもらうために、繰り返しが必要です。

次に、グループ分けです。「Ⅲグループ」にはどんな動詞があったか、「Ⅱグループ」には?と、こちらが言って、思い出してもらいます。こういうのは、教師の方から言った方がいいのです。覚えていない人が多そうな時に、「やったでしょ」みたいなことをしてしまうと、苦手意識が芽生えてしまいます。

この「初級クラス」は、年齢も様々で、いろいろな事情を抱えて、日本語を学びたいと、この学校に来てくれている人が多いので、私も甘くなります。勿論、「高校に入りたい」と言って来ている若者や「留学生」に対しては、こんなに甘くはしません。

それから、カードを用いての練習です(H.Bには、動詞の「変化」の一覧と、50音図、それから「Ⅱグループ」の例外をはって置きます)。

最初は、「Ⅲグループ」から。一晩過ぎると、人間忘れてしまうのは常のこと、恥ずかしいことでも何でもありません。案の定、「します」はいいけれども、「して」が出てこない。「来ます」も言えるけれども、次に、「来て」が出てこない。でも、大丈夫。人が多ければ、誰かが覚えていて、声に出してくれますから。それを聞けば、「ああ(思い出した)」という人が出てくる。「思い出した」とは、「習ったことがある」ということ。これを繰り返せば、すぐに言えるようになります。

もっとも、言える(既習の)人はいるにはいるのですけれどもね。その人が、我がちに、ワッと言うようなタイプならいいけれども、何せ、遠慮がちな人ですから。皆が言えないと、「言っていいのかな」みたいな顔になって、周りを見、こっちを見して、それから控えめにボソボソと言う。

まあ、いい人です。

「Ⅲグループ」と「Ⅱグループ」が終わると、いよいよ、「Ⅲグループ」です。まずは「って」に変わるグループを、「一覧」を指さしながら、練習していきます。最初は「い」、次に「ち」、それから「り」。最後に一緒にして練習。一緒にしての練習だけでも、4、5回は繰り返したでしょう。次に「き」、そして「ぎ」…これらを別々に、同じように繰り返していきます。

何せ、1回目、2回目の時には、皆、いろいろな様子を見せていましたから。

間違えても、大きな声を出してくれる人もいれば、プリントに首っ引きの人もいる。呆然としている人もいれば、首を振って、ため息をついている人もいる。それらが皆、一様に声を出せるようになるには、少なくとも、4,5回の練習は必要。動詞は覚えているのですから。耳に残る部分が、「『って』だけだな」となれば、言いやすくなる。臆せずに声を出せるようになる。このときも、このクラスには「言いなさい」と威圧的に言うことは避けます。皆、本当は言いたいし、できるようになりたいのですから。だから、自然にそういう状態になるまで繰り返していきます。皆がこちらを見て言えるようになるまで。

これは、五十音の順番も覚えておかなければならないので、手間が二重、三重にもかかることなのです。習ってすぐに、「はい、できました」なんぞ、なるわけがない。

とはいえ、これを毎日繰り返しますから、耳が覚えてくれますし、口も覚えてくれます。黒板を見たり、プリントを見て、目も覚えてくれます。

で、あっという間に一時間あまりが過ぎ、本時の部分は20分くらいで終了。だいたい、「初級クラス」なんてのは、「形容詞」の四つの型が入った頃から(8課)、復習に一時間はかかるようになります。それも、うまくいってです。うまくいかなかった時には、本時の部分をそそくさとやり、次にやれる時にやることになります。事前が本時になり、本時が復習になる。このクラスは、どうもそういう形でやった方が良さそうです。

継続は力なり。繰り返しは力なりです。一度忘れると、このクラスでは三倍か四倍の手間がかかることになりそうですから。

日々是好日

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「スマホ」で単語を調べても、それは一時しのぎにしかならないということが、なかなかわからない…どうしてでしょうね。

2023-05-16 08:35:22 | 日本語学校
晴れ。

今日は文句なしの晴れ。毎日のように「日本の天気は変」と、ぶつくさ言いながら帰っていたベトナム人学生、またきっと、これも「変」と言うでしょうね。まっ、いいか。私達だって、初めてのスコールには唖然としたもの。

さて、学校です。

昨日、授業が終わって、ふと見ると、学生達が入り口に団子状態になっています。何を見て騒いでいるのかなと尋ねると、「先生。ここ、横浜」と、年間計画表を指さして…、期待に満ちた顔、顔、顔。

「んんんん(ちと困った)…まだ、それは、わからないから、下で○○先生に聞いてみてください」。キラキラ顔が、ちょっと凋んだに見えたのですが、教員室に降りても、だれも何も言わないので、今朝までその事を忘れていました。彼ら、訊いたのかな。

二年生ともなりますと、教室に貼られている年間計画表とか、出席率とかに、かなり敏感になってきます。ただ、日課表は気にされていないようなのがわからないのですが…。

よく教科書を忘れる輩がいる。訊くと、「昨日勉強しましたから」。一方、忘れ物をしたことがないという学生もいる。訊くと、「はい、全部入れています」。…つまり、本を出したことがない?家で勉強をしたことがないということ?へへへへとごまかされてしまいましたが。そうなのでしょうね、きっと。

授業中、スマホで単語を調べたり、その文を翻訳させて、「わかった」然する学生に手を焼いています。それが単なる便宜にすぎず、結局は何の役にも立っていないということがわからない。毎回調べて、(スマホに)翻訳させて、「ああ、わかった」で終わっても、明日またその繰り返しをせねばならないということに気付いても良さそうなものなのに、それがわからない。それで「わかった」とか「いい」というのが、東アジア文化圏の我々には全くわからない。

授業中、スマホを見ないことにしたり、取り上げたりすると、その時間、ぼうっとしているだけですから、もう、お手上げです。どちらにせよ、意味はない。問題は本人が自覚できるかどうかなのです。本人が自覚しないことには、何も始まらない。「試験の時には、スマホで調べられないし、翻訳もしてもらえない」と、幾度となく言っても、効果は無し。それじゃできないことを経験で知らしめるしかないかと半分お手上げで、そのままにしておいたのですが、そうこうしているうちに、「読解問題集」なんぞが始まりましたから、もう大変。

今も、最初に、単語の説明(全部ではありませんし、何回も出てきている語は省きます)をして、それから、時間を決めて解かせているのですが、ここに大きな差が出てくるのです。時間内がダメなのです。当然のことながら、真面目に勉強をしてきた学生は、何回も出ている単語など、だいたい覚えています。ですから時間内に全てできないにしても、まあ、許せるほどには、やれる。ところが、毎回、意味を調べて云々というやり方をしてきた学生は、問題文を読むどころか、「調べる」ことに時間を取られて、「考える」レベルまで行けていない。「はい、終わり」という声に、毎回、「まだできていないよ」という顔をしてこちらを見るだけ。

こうなって初めて焦りを感じてきたようですね。決して愚かな学生ではないし、こちらにしても嫌になるくらい繰り返してきたのだし…、それがどうしてわからなかったのかと思うのですが、多分、どうしてできないのだろうと、本人は、今でも、「不思議」に思っているだけなのでしょうね。

これは南アジアだけでなく中近東の学生もそうでした。特に大卒がそう。昨今はインドを紹介する時に、カオスの中で育ってきた知性みたいなことを言い、如何にも柔軟性があるように言われているようなのですが、自分の狭い範囲から受けた印象では、多分、それほ、ほんの一握りの人でしかなく、大半の人は、世界がどのように変わろうと、海の深いところでは、その影響を全く受けないであろうように…思われる。つまり、変わらない。

日本人は、「あれ?これじゃダメかな」くらいは感じます。「じゃあ、こうすればいい」とすぐに軌道修正ができずとも。けれども、彼らはその状態を不思議に思うようなのです。なぜ?どうして?と。

こちらから見れば、「答えははっきりしているだろう。漢字を覚えないからだ」で、終わるのですけれども。

『みんなの日本語』の教科書だけであったら、どうにかなる。ただし、『みんなの日本語(Ⅱ)』が終わる頃には、漢字も「N4漢字」が終わっている。

勿論、どこの人でも同じように、私達が、「漢字を覚えないと、文章は読めない」という言葉を真摯に聞き、そのつもりで誠実に努力して来た人はこの関を超えられます。

彼らには、特に、勉強に対して、こちらの考えを真摯に聞いてほしい。彼らの国では、彼らの現在のやり方で成功したとしても、日本語ではそれが不可であることをまずは素直に聞いてほしい。これは中国語でも同じです。やはり、できる人はどの国から来ている人であろうと、漢字をみんな覚えていました。アフリカや中近東から来ている人でも、自在に漢字を操り、文章を書いていました。それを見るのは、当時、不思議な気がしていたものでしたが、これは日本語でも同じですね。ただ、日本語はその上、読み方がいろいろあるので、ちと面倒であるのは事実ですが。

日々是好日。
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「動詞」の「て形」の練習に入ります。

2023-05-15 08:16:10 | 日本語学校
小雨。

見えるか見えないかくらいの細かい雨です。それが本当にポツリポツリと降っています。5時過ぎからは、時折、ザーッと来ていたのですが、もうこの状態で、かれこれ一時間以上は経っているでしょう。

とはいえ、今日は1日中雨の予定(?)。雷様がお出でになるかもしれぬとのことですから、ついでに「雷」「稲妻」を、「Cクラス」でも入れておきましょう。「Aクラス」は復習で。もっとも、このクラス、復習でというのが成り立たないのですが。

いつも、何を言っても、「初めて」といった顔で、目をキラキラさせてくれるので、喜んでいいのか恨めしやと言っていいのかわかりませんけれども。

授業が始まると、狭い自転車置きには、自転車がギュウギュウに詰め込まれています。コロナ禍での状態に、目が慣れていたものですから、それに気がつくと、おっというきもちになってしまいます。あの頃は、置かれていても、一台か二台くらいのものでしたから。

勿論、一番多い頃には、そこに置ききれず、ぐるりともう一面まで、臨時の自転車置き場としていました。ところが、毎日のように2分か3分遅れてくる学生がいて(その新しい置き場は「下のクラス」からちょうど見えるところにあります)、その都度、教師と目が合ってしまうのですよね。それが嫌…勿論そうでしょう。「また遅れたな」という目で睨まれるのですから。

裏の寮から来ていた学生だって、こっちから回れば、ちょうど死角になるというところをよく知っていて、そこから入っていましたし。遅れていない時には、見える方からやってきて、大きな顔をしていたものでしたから。徒歩であったら、そういう融通は利きますけれども、自転車は、なにせ、図体がでかいので、それができないのです。

さて、「Cクラス」。今日の後半から、「動詞」の「て形」に入ります。まだ、どちらかというとゆっくり目の授業。ただ、だいぶ慣れてきたと見え、少しずつ、学ぶ前の癖が薄れてきているような気がします。とはいえ、この「動詞」の「て形」はまた別ものですからね。

前回の授業の時、2課、3課…10課と既習の部分を少しずつ見せていき、「どうですか、易しいでしょ。あのときは大変でしたけどね」と水を向けると、期待通りのうれしそうな表情で、「はい」と言ってくれたのですが、今日の後半から、また、「う~ん」となりそうです。

「形容詞」の単語だけの導入はよかったのですが、それを文にすると、途端に以前の癖が出てしまう…ということもあり、そちらの方に手を焼いて、「動詞」は少々おざなりになっていました。まあ、今日の、月曜日の復習次第ですが(土日と、授業がないので、元に戻ってしまうのが常だったのです)。復習にあまり時間をかけずに済むなら、次の課に入る前に、多少なりとも「て形」とは何ぞやを入れておければ、次の授業の時に、気持ちが楽になるのではないかなと思うのです。

何事もそうでしょうが、真っ白に、急に真っ黒な墨を塗られれば、戸惑ってしまうのは当然のこと。「ああ、あれか」くらいの、予備知識が少しでもある方が、楽に練習に入れるというもの。何事によらず、驚いて、何が何だかわからぬ間に授業が終わってしまうというのは、避けたい。

「形容詞」に入る前は、「(電気を)消してください」、「(ドアを)開けてください」、「見てください」「覚えてください…」云々。少しですけれども、ならしていたのですけれども…。「形容詞の過去形」を入れた「文」をあれだけ練習した…せいで、おそらく、みんな、消えてしまっているでしょうね。

まあ、ゼロではないでしょう。少しは残っているかなくらいのものでしょうが、また一からやり直すつもりで、間違えては笑い、笑っては間違えるを繰り返しながら、共に、やっていくつもりです。

日々是好日
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今日も涼しいです。まだダウンが放せない学生もいます。今日はともかく、暑い日もです。

2023-05-12 08:35:10 | 日本語学校

曇り。

昨日は午後、急に暗くなったかと思うと、ザーッと雨が降ってきて、おまけに雷様までお出ましに。ちょうど「日本留学試験」の解答と説明をしていたところだったのですが、このベトナム人学生曰く「日本の天気は、ほんとに変。ベトナムではこういうことはありません」。まあ、スコールはありましたよね。ただし、あれはサッと来てサッと帰るみたいなものでしたから、これとは確かに違いますね。

「ウツギ」が花を咲かせ始めています。ちと早いような気もするのですが、今年は何でも早い。気ぜわしげに花が咲き、二番手、三番手が待ち構えているのを確認する間もなく、足早に去って行く。直に猛暑の季節になるのでしょう。暑いのは嫌だなあ。カラッじゃなくて、ジメッですもの。

さて、学校です。

「Bクラス」の学生、三人なのですが、一人は、練習するにしても、「これは『Ⅰグループ』の『ワ行』だから、こうなるだろう、そしてこっちは…」と、考え、考え、口に出していくというタイプの大人。彼は、最初は大変だったようですが、ある程度、ルールがわかってくると、強いですね。間違えても、理由がわかれば「わかります」と言える。

一方、学校で、適当に聞いて覚えてきた一人は、動詞の活用とかにしても、ルールをきちんと覚えていないので、知っている単語なら、迷うことなく言えるけれども、新しい単語が入ってくると、そうはいかない。で、「慌てる」を繰り返す。

当然のことながら、考え考え、言葉を紡いでいく人の方を待つのですが。

大教室で、人がワンサカいて、そういう中で育ってきた人は、隣の人がワアワア騒いでいても、あまり気にならない…のかもしれません。

わかったと思ったら、すぐに大きな声で言い始める人がいて、そして。そうされても、少しもうるさがらない人がいて…。他にも、教室の中には、勉強のことなど少しも考えていない人もいて、友達とお喋りしていたり、寝ていたり…。けれども、教師はよほどのことがない限り、大らかにそれを見ていて…叱らない。

話し合いとか、作業だったら別でしょうけれども、小中高の授業では「静かに」が当たり前だった日本とは、どうも違うような気がする。

聞きたかったら聞くし、自分のことをしたかったら、それをする。教師の邪魔をしない限り、教師もそれを咎めない。…そういう人達に、「静かにして」と言うのは、ちょっと違うのかもしれません。教師だけが気になって、神経質になっているのかもしれません。

日々是好日
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「初級クラス」で、「応用」が少しできました。下手に入れて、苦手になられても困るので、ちょっと待っていたのです。

2023-05-11 08:17:09 | 日本語学校

晴れ。

日差しはだんだん強くなっています。しかしながら、風はまだ春の風というか、涼しいのです。これも早朝だけでしょうが。

今朝、地震がありました。「ありました」と言うと、ちょっと変ですね。揺れを感じました。揺れたなと思いながら寝ていると、すぐに(人によって感じは違うでしょうが)収まって、まあ、いいかくらいのものでした。が、起き出してニュースを見てみると、震度「4」がこの辺りにずらりと並んでいます。あれは、「3」くらいと思ったのにと、なおも見つめていますと、拡大された地図が出て、両脇は「4」なのに、湾岸の、どん詰まりの、このあたりだけは「3」。やはり「3」。「5」になると、トイレに駆け込むという習慣があるのですが(子どものころ教えられてきました)。地震の多い日本で生まれた身としては、いつも感覚的に判断してしまうのです。

以前、欧米人が「大地震の時も、津波の時も、日本人は(救助を)静かに待っている。争って食料を奪おうとはしない」と驚いたという記事を見たことがあったのですが、そういうのを見ていると、自覚はないものの、自治体を信じているし、周りの人を信じているのかもしれません。相身互いという意味で。

何かあった時、政府や自治体はきっと助けてくれるという信頼です。外国で暮らしている人も、自分にとっての非常時には、日本にいたいと、おそらく100%とは断言できませんが、日本人はほとんどがそう思っているでしょう。日頃は政府や自治体を罵っている人でも、おそらく無意識で信頼しているのです。この信頼が、裏切られた時、多分、皆、烈火の如く怒るでしょうね。それも信頼していればこそなのです。

さて、学校です。

「Cクラス」では、「形容詞」の「過去形」、2日目です。 昨日は、くたびれてしまいましたが、今日は、ちと応用で遊んでみるかと、やってみました。勿論、復習を40分ほどもやった後でです。

「昨日は寒かったですか」
「はい、寒いです」
「へへへへへ。『かった』ですか」
「んんん。」一人が、「かった、かった」
すると、
「はい、寒かったです」
やったね。

で、どんどん、過去形で答えなければならない質問をしていきます。こうなりますと、過去形だけを注意しておけばいいというのがわかりますから、だんだん声も揃っていきます。一通り遊んだ後で、さて、昨日の(教科書での)復習です。

いつもに増して声が大きい。少しずつ、簡単な応用が入れられるようになったような気がします。この前時の復習も、これまでは、やはり「(教科書を見ながら言ってもいい」にしていたのです(文字を読むということも大切なので)。が、様子をうかがっていると、どうも見なくてもよさそうなので、一度見て言わせて、それから「はい、顔を上げて」でやってみると、言えている。「よし、よし」です。

で、本時です。遊んでいる間に時間が過ぎてしまって、いつも通り、本時の時間がギリギリになってしまいました。今日は「より」と「AとBとどちらが~」の部分です。

母語の文法説明がない国の人もいますし、母語の単語の説明がない人もいます。その時にはだいたい二通りのやり方で入れていきます。

昨日はそのうちの一つ。前のネパールの学生が隣とひそひそやっている。で、「どうしましたか」と声をかけると、「先生、より、より」と言う。簡単な単語の意味は英語でもわかるけれども、文法の訳やら単語の意味は、もう手に負えなくなっているのでしょう。

それで、彼女を立たせ、隣の女子学生も立たせ…あれ、困った、ほとんど同じ背の高さ。で、右の男子学生にします。そして「○○さんは△△さんよりも高いです」すると、如何にもうれしそうな顔になる。ああ、わかったなのでしょうね。簡単なことなのですが、どんな例でわからしめるかというと、クラスが違う毎に違ってきます。

教科書にあった、「北海道は大阪よりも涼しいです」というのは、ちと荷が勝ちすぎるようですね。日本地図を見せ、北海道を示し、大阪を示しして、やってみたのですが。もっとも、教科書にある例文を見て、それに倣って作れば、作れることは作れるのです。文法の意味がわかっていなくとも。しかしながら、それでは何の役にも立ちません。

どうも、それで、勘がついたらしく(比較だなとでも思ったのでしょう)、「AとBとどちらが~」というのも、楽に入っていけました。

ただ、こういうのも、こちらのやり方にしっかりと付いてきてくれている人だからこそ。雨が降っているからとか、疲れたからと言って学校に来ないと、来た時にはもう、ついて行けなくなっている。「座っていれば、楽勝だ」なんて考え方は通用しませんから。だいたい、勉強の習慣も付かないのです。いつの間にか休んだところだけでなく、次のところも何じゃらほいとなってしまう。そうなると、教室の中にブラックホールが存在することになる。もっとも、彼らの国では、そういうものなのか、虫食い状態でも、案外平気なようで、それが倍も困ってしまうことなのですが。

日々是好日
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「初級クラス」が、「形容詞」の過去形練習に入りました。日本暮らしが長い人は却って苦しんでいるようです。

2023-05-10 08:01:02 | 日本語学校
晴れ。

朝は冷やっこい風が吹いていますが、午後からは、…もしかしたら、夏日に近づくかもしれません。近所の公園では「バラ」が満開だとか。そういえば、角を曲がったところにあるお宅でも大輪の「バラ」が咲いていました。赤もよし、白もよし、ピンクもオレンジもよしというのが「バラ」なのでしょう。ただ重そうに頭を垂れていたのが気になりますが。

さて、学校です。

「Cクラス(初級クラス)」では、昨日、「形容詞」の「過去」「肯定形否定形」の練習をしました。このクラスには、真っ白で入ってきた人もいれば、既に十数年日本で暮らしている人もいます。年齢もまちまちで、ミャンマー人5人、ネパール人4人、スリランカ人2人、フィリピン人1人(ウズベキスタンの人は来るかどうかわかりません)がいるのですが、この「形容詞」の過去形と現在形の否定はかなり骨を折っているようです。

勿論、それはある程度予測できたことですから、「8課」でこの「形容詞」の現在形の肯定否定を入れた時に、過去形の型も入れておきました。できるできないに限らず、慣れる、耳を慣らすということが大切なのです。で、それを私の授業の時、つまり週3回の授業の時に復習で繰り返しておいたのですが、大変でしたね。

間に連休が入ったということもあったのかもしれませんが、今、「12課」で、8課、9課,10課、11課と、練習を繰り返していた…だから、多分、型は大丈夫だろう。で、すぐに練習に入れると思っていた…のですが、ところが、ところがです。

昨日の授業の時、前の課の復習をした後で、「形容詞」の型の練習は既習の「形容詞」を用いて、一応、全て復習した後で、さて、「12課」の新出語です。これも「形容詞」のカード練習と、四つの型を練習し、まあ「暖かい」と「少ない」は例年、皆、苦労しますから、それは別にして、だいたい言えるようになったところで、「問題B」に入ってみると…単語レベルでは言えても、文にしてみると、その単語が形を変えては出てこない。「…しまった」です。

型が言えなかったので、それに時間を割きすぎて(なんと言っても、本時の分もありますから)、それを文練習にしておかなかった…そのツケが現れたとでも言いましょうか、文にすると、途端に出てこなくなる。

まあ、そうでしょうね、考えてみれば、日本に既に長くいる人は、例えば、「きのう、寒い」で、日本人との話は通じます。「昨日、暇」でも大丈夫。その習慣が何年も続いてきたわけで、「『暇』は『暇な』で、『ナ形容詞』であると、そして『昨日』が来ると、『暇だった』になる」とか、「『寒い』は、『イ形容詞』で、『昨日』が来ると『寒かった』になる』とか、こりゃあ、ほんとに理不尽な話。で、単語のレベルでは、スラスラと言えるようになっていても、文になると、途端にハタと詰まってしまう。

白紙で習い始めた人は、5課か6課くらい先に進んでから、何となく、言えるようになるのでしょうけれども、それも「動詞」の「分類」と「て形」が入ってのことで、「これに比べりゃ、『形容詞』は楽だった」となってからのことなのでしょう。右手が痛かったら、左手をぶてと言うようなものでしょうね。

そこまでいけるかなあ。

まあ、一応、12課の「問題B」の「1」を一回やり…これは「ナ形容詞」でしたから、一応できましたが、「もう一回しましょう」を繰り返し、合計3回繰り返し、勿論、言えない単語が出てくれば、それは別に「1音ずつ、区切って、言って」確認していきますが。

「2」は「イ形容詞」でしたから、同じようにして、4回ほども繰り返し、そして「3」「4」は、これでは済みませんでしたね、5回ほども繰り返したでしょう。そして「問題C」の「1」をやった後、もう一度、「問題B」の「3」と「4」を復習してみると、…また、言えない…というか、戸惑っている。大丈夫、大丈夫、毎日繰り返しますからね。大丈夫。

しかし、すごいなあと舌を巻いたのは、ずっと大きな声で、繰り返してくれたこと。こっちの方が、年だからということもあるのでしょうが、疲れて、ちょっと手を抜くかという気分になったくらい。しかし、この元気な声、勉強しているのだという勢いに負けて、繰り返し…疲れた…。もっとも、次の授業は「Aクラス」ですからね。「N2」を目指しているクラスは、教える方にしてみれば、ずっと楽。体力は要りません。

そこで、ぞっとしたのは、もし「8課」あたりから、この四つの型を繰り返し練習していなかったらということ。多分、この形の練習だけで、一時限は終わり、そして次の二時限目には忘れていて、またやり直しとなっていたでしょうね。文にしてやると言うことは、もっと後での練習になっていたでしょう。こういう、いろいろな人達が多い時には、先に先にと基礎だけは早めに手を打っておかなければなりません。休みがちな人もいることですし。
 
この「初級クラス」では、とにかく、口頭練習を繰り返すしかありません。曽て、聞いて覚えていた日本語が消えるくらい繰り返さねばなりません。とにかく繰り返す。わかってもわからなくても、繰り返す。なにせ、彼らに共通の言語なんてありませんから、こちらが説明をすればするほど、多分「何のこっちゃ…」でしょうし。とにかく、体で、耳に残し、口から出させるしかないのです。

これが、「留学生クラス」ですと、国によって既習状況は多少異なりはしますが、この「教科書」の「B問題」だけでは物足りないので、一回やった後、すぐに応用編を入れ、考えさせながら、覚えさせていくという方法をとります。ところが、このクラスでは、それに付いてこられるのが、一人くらい。却って他の、非常に真面目にやっている人達が煙に巻かれたようになって苦しむことになる。苦手意識が付いてはなりませんから。

何事も、始めは「飴」を与えるのがいい。「飴」がだんだん苦くなってきたとしても、「飴」の甘さは尾を引くもの。

これからも日本にいるのでしょうから、やはり日本語は話せ、聞き取れた方が、「これから」を考えても、楽になるでしょうし、もしかしたら、やりたいことができるという幸せにも繋がるかもしれません。

日本語は難しいとか、苦手とかいう意識だけは育てたくないですね。

日々是好日
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