雨。
一時、やんでいた雨が、また、降り出していました。今朝の6時頃のことです。
昨日は、「明日は午前中、雨が続くが、昼には上がる」くらいの予報だったので、あきらめていたのですが、起きてみると、地面は濡れているものの、降ってはいない…。
やったぜと、いつも通りに出ようと準備をしていたのですが、それが、6時からの雨です。…でも、…でも、さっきは止んでいた…。午後から止むと言うし、小降りになったら、自転車で突破するかと待ち構えていると、7時頃に少し雨の勢いが衰えました。それで、大そぎで、自転車で来たのですが、途中、出会った人達は,傘を差していた…。
まあ、いずれにせよ、自転車で来られたのは、よかった。着くと少ししてまた、ザァーザァーと降り出しましたもの。午前の学生達が来るころはまだきっとこの雨が続いていることでしょう。自転車用のレインコートをしっかり着込んで…という学生は今回は見られませんから、また、風邪引きさんが増えるかもしれません。
さて、学校です。
異国の人と言うよりも、私たちとは違う価値観、習慣を持った人たちと、接する機会が多い仕事についていると、ついつい、「人間は皆同じである」ことを前提として、話を進めてしまうことがあります。私たちの周りの日本人も皆、そうであると考えてしまうのです。
私たちは、「同じだ」を言わずに、「(しかし)ここが違う。違っていて、困った」あるいは「大変だった」と、そういう話の展開になるのですが、それを傍らで聞いていた、日本人から、(多分、正義感からでしょう、そういうものに駆られて)「どこの国の人だって同じはず。それは差別だ」みたいな非難をされることがあります。
身内の話だと思って、一つ一つ、前提はこうであるなどを言わずに話したこちらにも、責任があるのでしょうが、その都度、「まだ、(日本人は)そうだったんだな」と感じてしまうのです。
異国の人たちとあまり接点のない日本人は、外国人と話したり、彼らのことを言ったりするときに、かなり身構えています。自分も日本の土地を離れれば外国人であるという意識がないのです。それゆえに、偏見を持ってはいけないと、それが正義であると、緊張しているのです。だから、判で押したように、(思っていなくとも)「皆、同じ」としなければならないのでしょう。
その上、自分が合点のできぬことを相手がしても、「皆、同じだから」と(自分の本当の気持ちを押し殺して)、本来ならば同じ土俵で考えてはならぬことまで、一緒にして考えてしまいます。
もっとも、慣れてくると、きっと、はっきり言えるようになると思いますが。
日々是好日