日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

横浜へ

2015-05-29 08:09:38 | 日本語学校
 曇り。

 今日は、皆で、「横浜」へ参ります。

 最高気温も24度ということでしたから、本来なら「散策日和」なのでしょう。けれども、悪くすると雨になりそうな様子。

 お空さん、お願いですから、ちょっと我慢してくださいね。

日々是好日
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「横浜散策」の説明

2015-05-27 08:38:14 | 日本語学校
 晴れ。

 今日も、昨日に引き続き、真夏日になるという予報が出ていました。そして、それを裏付けるように、朝から暑い…。確か、昨日の朝夕は、涼しかったような気がするのですが。まだ5月だというのに…。

 寒ければ寒いで不満を言い、暑ければ暑いで、これまた文句が始まります。本当にヒトとは身勝手な生き物。我がことながら困ったものですな。

 さて、学校です。

 昨日、(午後)三時頃、教室に入って行くと、中がひんやりしていました。冷房をつけていたのです。ところが、ちょうど私が入ったとき、クシャミの音が聞こえたものですから、思わず、「冷房、大丈夫ですか」と聞いてしまいました。すると、皆は口を揃えて「大丈夫」と言います。五、六時限目、もう冷房無しにはいられないような蒸し暑さだったようで、クシャミをした学生からして、慌てて「大丈夫です。(冷房を切らないで)」という有様。

 実は、最近の、不安定な気温のせいで、お休み(風邪をひいて、あるいは体調を崩して)の学生がチラホラ出ていたものですから、ちょっと心配してしまったのです。冷房の部屋を出ても、外はまだ暑い。体調が管理できずに、また風邪をひいたり、おなかを下したりするのではないかと。

 けれども、ちょっと考えてみると、このクラス(「Aクラス」)は、もう2年目に入っていました、つまり、一度はこのような季節の変化を体験した…はず。で、ちょっとホッとして、またクラスの顔ぶれを見わたすと、おっとっと、でしたね。

 「七月生」も4割近く含まれていたのです、このクラスには。そういえば、朝、体調を崩して休んでいる学生は去年の「十月生」と「七月生」だった…。

 今は、南から来ている学生が多いものですから、彼らには、どうも、この「肌寒い」という感覚が掴めないようなのです。暑いか寒いかなのです。昼、30度ほどもあれば、一日それが続くような気がしてしまうらしい。一枚(服を)持って行ったほうがいいというのが、経験として成立していないので、知識として入っていなければならないのですが、これがなかなかに難しい。すぐに裸足になりたがるのもそう。

 下から寒さは忍び寄ってくるものだから、靴下だけは穿いておくようにと言っても、返事だけは「は~い」と元気よく、実際はまず取り合おうともしない。で、裸足。最近のように暑いと途端に、裸足さんが増えてしまう。「もう、ったく。ひどい目に遭わない限り判らないのか」と苛立ってしまうのですが、そこはそれ、いつかは気づくであろうと、ま、学校の教師達は口を酸っぱくして言うほかはないのです…。

 ところで、今週の金曜日に予定している「横浜散策」のことです。

 昨日、その説明をしました。DVD半分、説明半分です。

 「横浜散策」のために、担当の教員が、あれこれ知恵を絞って作ってくれた、かわいいしおりを持って行ったのですが、さすが学生達、気がついてくれましたね。

 まず、朝の「Cクラス(初級31課に入っています)」では、女子が多いから、女子の方から声が上がるのではないかと思いきや、男子学生の方からでしたね。まず、折り方で「おう」。それから、名前を書くときに「おう」。「かわいい」と言う声があちこちから聞こえてきます。

 午後の「Aクラス(N3の問題集)」でも、名前の所にあるパンダの絵を見て、「かわいい」を連発している女子学生がいました(男子学生が違うとでも言おうものならぶっ飛ばされそうな勢いでした)。(しおりを見ての)いつもの反応ではないところがおかしい。

 学生達にとっては「横浜」というのは、聞いたこともない見ず知らずの土地であって、なぜ一日をかけて学校が連れてかねばならないのであろうかと、そこのところがわからないのです。これは「鎌倉」もそうでした。外国には知られていない土地なのです。

 で、「大学に行ったり、日本の会社に入ったりした時、日本人の友だちと、『ちょっと横浜にショッピング』というのもありだよ云々」と、そんなことを言ったりしていますと、朝のクラスでは、半分ほどですが、神妙な顔をして聞いています。「東京の大学に、北海道の人も来る、九州の人も来る。その時に、ああ、横浜なら行ったことがある。今度一緒に行こう」と言えるかどうかが、今週の金曜日にかかっている…めいたことを言いますと、顔つきがますます神妙になっていくのです。

 「行けと言うから行くのだが、できたら行きたくないな」みたいな顔つきをしていたので、思わず言ってしまったのですが、内心ではちと脅しすぎたかなと少々申し訳ないような気持ちになりました。まあ、昨日のことですから、今日はもう忘れているでしょうが。

 学生達は、まず100%近くが東京近辺の大学や専門学校に入ります。そして職を探すのも、この近辺でのこと。ということは、日本にいる間の生活圏はこの近辺と言うことになるのです。それなのに、何も知らないは寂しい。日本に来てから、アルバイトの場所、そして学校だけしか知らずに、次に進むのも寂しすぎる。

 だから、どんなに疲れていても、頑張って勉強している学生ほど、首に縄をつけても引っ張っていきたいのです。

日々是好日
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心の「弾み」。

2015-05-26 08:41:54 | 日本語学校
 晴れ。

 今日は、28度まで、上昇するとか。それでも、朝晩の湿度は高く、驚くほど。昼は40%くらいまで下がるようですけれども。

 湿度が高いというのは、カラッとした、お天気やその地の人気(じんき)とはちょっと違うかもしれませんけれども、ここで生きている者としてはホッとしてしまいます。湿度が低いと、たちまち緊張してしまうのは、(湿度の)高さに慣れているからかもしれませんが。…楽ですね、やはり。緑が少なければ、あるいは海や湖、川などが遠ければ、乾燥してカラッカラになっているはずですもの。

 一時期、中国の内モンゴルから来ていた学生が多かったころは、この湿度に皆、参っていました。特にこれから始まる「梅雨」に、です。

 「あれはだめ」。みんな口を揃えて言っていました。まあ、日本人も、梅雨時のジメジメとした毎日は、それほど好きではないのですが、「あれがないと、田畑は潤わない。だから必要である」と皆考え、それに、普段から、ある程度の湿度の高さに慣れているからでしょう、なかったら却って騒ぎ始めてしまうのです。せいぜい、洗濯物が乾かないとか、カビが生えやすいくらいのものなのです。

 それに、雨が続けば続くで、楽しみ方も様々。なければ、昔は、誰かが考案し、皆に広げ、現代は、企業がすぐに企画を練って開発し、販売を急ぐ。室内で活動できるものも、多種多様となり、今ではちょっとネットで調べれば、何かしら自分に適したものが見つかることになっています。幼児用、児童用、青少年用から、中高年用まで、それこそ枚挙にいとまありません。それでも、まだまだ開発が続くでしょうね。

 それに、皆で騒いだり、遊んだりするのが不得手の者は、この「閉じ込められる」時期を幸いに、誰にも邪魔されずに過ごそうと決めてかかりますから、こういうものは、それほど必要ではないのです。

 ただ、こうネットが盛んになりますと、人と人との距離が、「適度」というものから、ずんと離れてしまうような気がしてなりません。付き合うとしたら、もう100%でなければだめ。そうでなければ、0になるといった具合に。

 「今、人々の間から、失われてしまったものは」と問われれば、「通」的な感性と答える人がいるかもしれません。何事にも、「さりげなく」「あっさりと」「適度に」というのが、江戸期の「通」であったのでしょうけれども、感覚的にも遠くなってしまいましたね。「お手本」が、いませんし。

 「通」を気取って、「衒っている」輩は、まだいる。ただし、本物ではありませんから、どこか不自然だし、少し経つとしつこさが感じられてしまう。きっと自信がないから、しつこくなるのでしょう。

 それならば、いっそとばかりに、「野暮」一点張りでやろうとする者も出ている。しかし、野暮天は野暮天でしかありませんから、やはり面白くない。

 もはや「通」とは何だと聞かれても、何がなにやら判らないようなものとなりはてているのでしょう。それに「(通に)憧れる」というか、そういう時代でもなくなっているのでしょう。けれども、だからこそ「適度な暮らし」をし、「さりげない仕草」で、人を心地よくし、「あっさりと」去って行く人が望まれているような気がするのですが。

 現代人は、もしかしたら、皆、自意識過剰なのかもしれません。昔は「私ごときが」とか、「身の程」や「分際」を知れという言葉が、始終此処で言われていたような気がするのですが、今は「私でもできる」で、猫も杓子も、騒ぎ回ってしまう。もちろん、夢を追うというのはいいことなのですが、問題はそれから後なのです。

 精一杯背伸びして、本当なら転けたときに、己のレベルに気づいて、慎ましく生きていく…はずが、反対に己を認めぬ世を罵ったり、居直ったりする。それが一人二人ならまだしも、あれは「奇妙人であるよ」と、おおらかに(人は)見ることができるのでしょうが、何せ、居直っていますからね。自分が「正」であると全身で主張しています。以前は何が「本」であるかがはっきりしていましたから、小枝の一本や二本が、どうであろうと、人は気にせずに済んだ。ところが、その小枝の一本一本が、自分が「主」であり、それ以外は皆「副」や「従」であると声高に叫んでいるわけですから、何がなにやら判らない…。これを個性であると言い、重んじるというのは、ちょっと違うような気がするのですが。

 これも、現実世界における、人と人とのつきあいが希薄になっていることから起こっていることなのかもしれません。薄くってペラペラのような気がするのです。ネットはこれほどの広がりを見せているというのに、現実には人同士のつきあいというのは本当に希薄でしかも狭い。希薄で狭いから、反対にネットに依存しようとしているのかもしれませんが。

 留学生達を見ていても、そう感じることがあります。

 せっかく異国に来たというのに、同じ国の人たちとの輪の中から抜けきれないのです。言葉さえある程度上手になっていれば、適当にごまかしながらでも、ここで生きていけるから、それでいいのでしょうけれども、それだけではねえ。何のために「留学」を選んだのか判りません。聞けば「学ぶ」のは「従」で、「働く」が「主」であると答える人もいるのでしょうが。

 学ぶために異国に来たのに、好奇心がないのです。「日本語だけ勉強に来たのだから、日本語だけ学ぶ」というのなら、まだ話は分かります。知識まで教えようというのはこっちの勝手な思い込みかもしれませんから。けれども、「知っていることしか見ようとしない。知らないことに関心を持とうとしない」というのは、どうかしらん。

 「まず聞いてみよう。見てみよう」の習慣がない。好奇心がなければ、「『こんにちは』を外国人と言った。よかった、よかった」で終わりなのです。

 好奇心があればこそ、知ろうと思い、知ったが故に考えたりするのでしょうから。

 この「弾み」が、乏しいのです。この「弾み」が乏しければ、確かに失敗も小さいものでしょう。転ぶのも一回か二回でしょう。そして、異国へ来ても何も収穫なくして帰ることになるのでしょう(だって、大差ないところでボチボチとしか、動けませんから)。まあ、多少の「銭」は手に入れはするのでしょうが。

日々是好日
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「適応力」とか、「柔軟性」とか……。

2015-05-25 08:30:49 | 日本語学校
 晴れ。

 先週の土曜日に、(小学校の)運動会が終わり、また静かさが戻ってきました。

 「4月生」も、ほとんどの学生が、来日後一ヶ月が過ぎ、不思議なほど日本に馴染んでいるように見えます。

 特に、大学に入りたいとか、学びたいものがある学生は、いいですね。目先のことに右往左往しないところがいい。

 「ここにいてもしょうがないから」とか、「日本へ行って金持ちになった人が(近所か知り合いに)いるから」とか、漠然と、そういうことで、親や親戚に送り出されてきた高校を出たばかりの者は、よほど意思がしっかりしていない限り、目先の利益にふらついてしまいがちです。

 高校を出たばかりではなく、年が少しばかり上で、しっかりしているように見える人の中には、融通が利かなくなっている人もいます。「(国では)仕事はできていただろうな」と思われても、それは、彼らの国の考え方、やり方でもできる仕事ならという、括弧がついてしまうのです。

 もちろん、彼らの国でのやり方はだいたい判っているでしょうから、勉強ばかりして他のことがあまりできないという学生と比べれば、アルバイト先でも重宝されるでしょう。今のアルバイトと彼らの国での仕事とは、それほど違わないでしょうから。だって、今、彼らができる仕事なんて限られているのです。日本語がそれほど話せなければ、限られてくるのは当然です。

 異国の会社で、皆と共同で何かを作り出したり、それなりの成果を出すには、可なりの才能とそれなりの気遣いが必要となってくると思うのですが、こういう人に限って、「自分は国でやれていた」という自負心があるのものですから、(こちらの)注意が耳に入っていきません。。

 日本でも、アルバイト先で重宝されていれば、ますます、日本でも(同じだ)やれると自信がつき、それがだんだん肥大化していくのでしょう。己のやり方で間違いないと。高転びに転ばなければいいけれどもと、危なっかしくて見ていられないようなところもでてくるのです。

 私たちから見ると、教師に対する態度とか(つまり、助言を一応なりとも、聞こうとしない。これができない人は、外国ではうまくいかないと思うのですが)、折々に見受けられる考え方、行動の仕方などから、彼らが「できれば勤めたい、そこで正社員となりたい」と思っているような所では、多分、無理だと思われるのです。

 こういう人は、いわゆる「できあがっている」のです。彼らの国の、そして彼らが生まれ育った環境での、「よくできる」、あるいは「よくできた」から離れられないのです。

 自分のやり方で、何事も通そうとします。異国にはそれぞれ、その国のやり方、心遣いの仕方などがあって、それに気がつかないと、周りとの関係が築けなかったり、難しくなるようなところがあるのです。…なのに、それが判らない。自分のやり方に疑いを持っていない。

 (何かあったときの)判断も、それなりに理解できるけれども、ここではそれはまずいよと言うことも少なくありません。けれども、それを言っても、「かまわない」と言うだけ。これでは、相手がたとえ親切な人であろうとも、「じゃあ、勝手にやれ。怪我をするのはおまえだぜ」となるのは目に見えています。

 個人で動くのならかまわないけれども、組織の中では、「それは無理だよ。我慢しなければならないところだよ」というところがあるものです。ところが、そんな箇所でも、譲らないし、だいたい、譲れないのでしょう。

 自分を主張して憚らないのです。

 柔軟性というか、適応力が、あまりないのかもしれません。

 他国と比べ、してはいけないこと、気遣いしなければならないことが、日本で多いわけでもありませんが、「どこで」と「いつ」、「だれに」「どういうふうに」などが微妙に異なっているのです。

 もとより、日本人が外に出たときも同じなのですが。

日々是好日
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教科書だけ勉強するぶんには、いいのだけれども…。

2015-05-22 13:50:03 | 日本語学校
 晴れ。

 今朝は、乾燥しているようです。空気がひやりとして、気持ちがいい。「野鳥の森」が近いせいか、様々な鳥の声が聞こえています。今朝はいっそう甚だしい。どういうわけなのでしょうね。

 さて、学校です。

 来週の金曜日に、課外活動で、「横浜」へ行くのですが、「横浜って???」というわけで、(授業中に「横浜」と聞いていても)帰りには、それが「『沖縄」へ行きます」となっているのです。

 こっちの方が慌てて、「『沖縄』じゃなくて、『横浜』でしょ」。だって、言っているうちに、自分の中でそれが本当のことにもなりかねませんもの。「沖縄」までは遠くて、しかも高いのです。

 本来ならば、せっかく引率していくのであるから、「横浜」について、一通りの説明くらいはしておきたい。とはいえ、「一年生クラス」では、語れる言葉がない。…だから、ビデオで済ませるしかない。

 一方、「二年生クラス」でも、ベトナム人の割合が高い場合、簡単なものしか根気が続かない。見るのはいいけれども、ちょっとその謂われに触れたり、考えさせようとしたりすると、途端にざわつき始めたり、寝たりし始めるのです、彼ら。

 傾向として、知的なものに対する想像力を多少なりとも、求めようとした途端に、こういう状態になるのです。だから、ちょっと考えさせようとニュースなどを見せたり、今、世界ではこういう状況になっているということを知らしめようとしたりするのもだめ。続かないのです。

 嫌がっているのかな。目を塞ごうとしているのかな。見てはいけない、知ってはいけないと思っているのかな。それよりも、知ってはいけないと思っているのかななどと忖度してしまうのです。判で押したように皆が、興味を示さなくなるのです。
 
 そんなものを見て「勉強する」よりも、漢字を一つでも書いて覚えた方が「勉強した」ことになるとでも、刷り込まれているのかしらん。

 こうなりゃ、鉄は熱いうちから打て…だから、高校生を狙った方がいいのかな。その方が想像力を高めたり、情操的な部分を足すことができるのではないかとも思うのですが(多分、それでも遅いでしょう)

 個人的には、明るくて、いい学生たちなのですけれども、「(教科書から出て)ちょっとプラスアルファをやりたい。せっかく日本にいるのだから」と思っても、それがなかなかできないのです。もったいない…。

 想像力とか、何か、知識を習得する上で、一番、大切な部分がかけているのではないかと思われることが少なくないのです。これは目には見えません。ちょっと黙って相手の話に耳を傾けるだけでもいいことなのです(たとえ、最初は判らなくとも)。

 なんとなく、彼らの国では、(勉強するときに)これに類した場面で、紋切り型のことしか(教師が)出さなかった…。だから、条件反射のように「つまらん」と思ってしまう。そういう「型」が、完璧に染みついているような気がします。
 
 自分で鍵をかけてしまうとは、なんともったいないことか。様々なものを見聞きし、自分を発展させることができるのに…と、思うのですが。
  
 他の国の学生は、それほどのことはなく、普通に(DVDを)見て、「どうして」と言ったり、「へえ、そうなのか」といった顔つきをしたりしているので、問題はないのです。けれども、クラスの半分ほどがベトナム人であると、途端に、(何かを見せた後)クラスがだらけてしまい、見せなかったほうがよかったと後悔させられてしまうのです。見せた後の授業がやりにくくなってしまうの。

 他の国の学生の場合、勉強する気がない学生が多いとそうなる傾向があるのですが、ベトナム人学生の場合、大学に行きたいと真剣に勉強している学生までがそうなのです。ただ本だけを勉強していれば、こんな悩みはないのですけれども。

日々是好日
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蚊の攻撃

2015-05-21 08:40:07 | 日本語学校
 清々しい朝です。深夜の雷が嘘のよう。

 日付が変わったころから鳴り出したのでしょうか。爆弾が破裂したような(聞いたことはありませんが)、ものすごい音が響いていました。しかも、なかなか止みませんでしたね。

 そして、朝。外を見ると、雨こそ止んではいましたが、厚く、いかにも重たそうな雲が立ちこめていました。

 台風の影響だったのでしょうか、それとも、南西の方角から伸びていた、無関係な(別の)前線の活動のせい?暖かい空気と、北からの冷たい空気がぶつかって、ぶつかった所に雷雲が発生し…ピカピカ、バリバリ、ドンドンという、雷様のお出まし。

 しかしながら、今は、厚い雲も切れ、そこから青空が広がりつつあります。湿度は高いらしいのですが、それほど感じられません(こんなに清々しいのにと、少し驚いたのですが)。ただ、お日様が上がっていくと同時に、ぐんぐん下がり始め、今日は名実ともに、五月晴れの一日となりそうです。

 さて、学校です。

 昨日、午後の下の階のクラスでのことです。「暑い、暑い」と学生は言うのですが、「今からエアコンをかけたら、(それに慣れてしまって)6、7月になって、逃げ出したいような蒸し暑さが襲ってきたときにどうしますか?」そう言うと、途端に皆、エアコンの「エ」の字も口にしなくなりました…。本当に素直な人たち。

 それで、ずっと窓を開けていたのですが、そうすると、蚊がブンブンと入ってきますね。エサがここにはたくさんあると思ったのでしょう(なんのことはない、そのエサというのは、私でした)。

 窓のそばにいた私は(それだけが理由ではないかもしれない…)、二面から蚊の攻撃を受け、手も足も「痒い、痒い」と人目もはばからずにポリポリ…(我慢できませんでした)掻いてしまいました。「あっ、いた」と、見つけた蚊をバシッ、バシッと狙い撃ちしたのですが(どうも、学生からは踊っているしか見えなかったらしい)、敵の方が一枚上手で、一匹も撃ち取ることができずに、完敗。問題を解きながら、こっそりと(それを)見ていた学生と目が合ったのですが、向こうは慌てて見ないふり…。ただ、口元が引きつったようになっていましたから…笑ったな…。

 けれども、ふと気がつくと、狙われていたのは私だけ。だれもポリポリ掻いてなどいません。不思議ですね。南の国の人たちは、…ちょっと違うのかな。これが中国人ですと。互いに(蚊に対して)あっち行けをやって盛り上がるのですが(ノートとかで風を送って、相手に蚊を飛ばすのです)。

 しかしながら、もうそういう時期なのです。沖縄では、昨日梅雨入りをしたとの話ですし。これからは、だんだん暑くなっていくことでしょう。台風が5月中に二つもやってきたということが既に温暖化の恐ろしさを告げているような気がしますし。

日々是好日
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「ドクダミ」の花が咲きました。もうすぐ梅雨が始まりそうです。

2015-05-20 08:42:04 | 日本語学校
 晴れ。

 早朝は曇り空、それが7時頃から、明るい日が射して来、今は青空が広がり、そこにうっすらとした白い雲が浮かんでいます。

 ここ数日、お天気がぐずついていたせいでしょうか、草が一斉に背を伸ばしたような気がします。そして、道ばたには、「ドクダミ(蕺)」の花が白い顔を覗かせています。

 見るたびに、この名が気の毒になるのですが、葉をちぎってにおいをかいでみれば、すぐにその名の由来がわかります。んんん…臭い。ほんとうに洗っても洗っても落ちない臭いです。ちょっと耐え難いですね。けれども、漢方薬だそうで、山里では、これを乾燥させてお茶として飲んで体調を整えている人もいるとか。臭いの強いものは体にいいと言いますからね、確かに。

 さて、学校です。

 ベトナム人学生やスリランカ人学生が、毎期、数人、来るようになりますと、彼らの口から思いもよらぬ人の名を聞くことがあるのですが、その多くは、学校にいるときにはあまり顔を見せなかったとか、たいして勉強していなかったりした人たちで、そのたびに、そうか、未だにそういう輪(同国人)の中を転々としているのだなという気がして来ます。ちょっと寂しいですね。

 その反対に、新入生の口から、かつてここで学び、それから、大学へと進み、日本の企業に勤めている人たちの名を聞くと、ちょっと、ホッとするのです。

 他国理解は、言葉から始まるというのは、本当で、スリランカ人のように、一見、すぐにペラペラ話せているように見える民族でも、「N5」か「N4」、せいぜい「N3」で止まっているような人たちは、やはり彼らの国の考え方、それに則ったやり方を、日本でもしてしまうのです。

 それで、新しい人たちに注意をしてもらう(通訳兼自らの体験を付け加えて話すという形で)時でも、大して学校に来ていなかった人たちが間に立つことと、私たちが彼らの言語が分からないだけに、不安になるのです。「先生はああ言うけれども、そんなこと大していない」と、時々、雰囲気や彼らの目の動き、言い方などからそう言っているのではないかと感じられることがあるものですから。

 もちろん、これはスリランカ人だけではありません。ベトナム人にしても、インド人にしても、また然り。いわゆる「怖さ」を知らないのです。異文化社会で暮らすことの「怖さ」が判るまでの、この「日本」に対する知識、理解がないのです。

 彼らの国に比べて、確かに、日本は豊かに見えるでしょう。ちょっとアルバイトをすれば、彼らの父母の給料よりも多くの現金を手にすることもできる。それに、警察官は親切で乱暴なことなどもしはしない。何か(失敗などを)しても、仕事の時以外は、罵られたりすることもない。アルバイトの時でも、まず相手がどうしてそうしたのかを考えてから叱ったり、注意したりするのが普通ですから、(彼らは)すぐに高を括ってしまうのです(彼らの国ではそんなことはありませんもの)。

 しかしながら、何も言わなくとも、その人に対する評価を、常にしているのが人間というものですから、その「怖さ」を知らなくてはならないのです。同じ人間として、能力で評価されるのなら、それは仕方のないことですが、そうではなく、その社会でしてはいけないことをして、下に見られるというのは、やはり避けた方がいいのです。

 私たちはその面からの注意も、(最初は言葉が分かりませんから、通訳がいるのですが)しているのですが、彼らの国の流儀で、あるいは、適当に自分で判断して、「そんなことを気にしなくてもいい」などとやられると、言われた人はそうかと思い、同じようにやって、日本人に、下に見られるということになることもあるのです。

 そこは謙虚に、いえ、素直にその国の人間の話を聞いた方がいい。なにせ、日本人は(多分、どの国でもそうでしょうが)親しい関係になる前は、みな、外国人とは適当に接していますもの。

 嫌だなと思えば、そばに寄らなければいいだけの話で、別に(その人のために)注意してやろうとなんて考えたりしません。面倒くさがられるだけでしょうし。

 適当に、「そうだね」とか、「へえ、そう」と相づちを打っていれば済むだけのことで、罪作りのことなどしたくもないでしょう。注意してやるにはエネルギーがいります。よく知らない外国人のために、そんなことをしてくれるのは、よっぽどの暇人か、ほんとうに親切な人だけだと思います。

私たちが「日本ではこういうことはしてはいけない」と言っても、学校に来ず、アルバイトばかりしていた人たちや遊び回っていた人たちは、内心では、「大丈夫。国と同じようにやったって、何とも言わない」と思っていますから、私たちの言うとおりに言ったり、その意を汲んで付け加えたりはしません。彼らが付き合っている日本人が、だいたいそうだからでしょう。

 日本人は、嫌だと思っても、最初はそれを口に出したりするのははしたない行為だと思っていますから、耐えきれなくなるまで言わないか、あるいは、そういう人のそばには近づかないようにします。けれども、日本人にも、そうではない人や、相手が外国人だと言っても無駄だと思って言わない人もいますから、もし、大して勉強もしない人たちがそういう人の中でウロウロしていたとしたら、それは「先生の言うことは間違っている。そんなの守らなくてもいいんだ」になるのでしょう。

 とはいえ、そういう中にずっといれば、それでやっていけないこともない。もしかしたら、日本にいても、母国にいても、「同じ」で、何十年もやっていけるかもしれません。

けれども、ゴミだけは、ちゃんと分別して捨ててくださいね。

日々是好日
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今朝は、雨でした。

2015-05-19 13:46:15 | 日本語学校
 雨。

 一時、やんでいた雨が、また、降り出していました。今朝の6時頃のことです。

 昨日は、「明日は午前中、雨が続くが、昼には上がる」くらいの予報だったので、あきらめていたのですが、起きてみると、地面は濡れているものの、降ってはいない…。

 やったぜと、いつも通りに出ようと準備をしていたのですが、それが、6時からの雨です。…でも、…でも、さっきは止んでいた…。午後から止むと言うし、小降りになったら、自転車で突破するかと待ち構えていると、7時頃に少し雨の勢いが衰えました。それで、大そぎで、自転車で来たのですが、途中、出会った人達は,傘を差していた…。

 まあ、いずれにせよ、自転車で来られたのは、よかった。着くと少ししてまた、ザァーザァーと降り出しましたもの。午前の学生達が来るころはまだきっとこの雨が続いていることでしょう。自転車用のレインコートをしっかり着込んで…という学生は今回は見られませんから、また、風邪引きさんが増えるかもしれません。

 さて、学校です。

 異国の人と言うよりも、私たちとは違う価値観、習慣を持った人たちと、接する機会が多い仕事についていると、ついつい、「人間は皆同じである」ことを前提として、話を進めてしまうことがあります。私たちの周りの日本人も皆、そうであると考えてしまうのです。

 私たちは、「同じだ」を言わずに、「(しかし)ここが違う。違っていて、困った」あるいは「大変だった」と、そういう話の展開になるのですが、それを傍らで聞いていた、日本人から、(多分、正義感からでしょう、そういうものに駆られて)「どこの国の人だって同じはず。それは差別だ」みたいな非難をされることがあります。

 身内の話だと思って、一つ一つ、前提はこうであるなどを言わずに話したこちらにも、責任があるのでしょうが、その都度、「まだ、(日本人は)そうだったんだな」と感じてしまうのです。 

 異国の人たちとあまり接点のない日本人は、外国人と話したり、彼らのことを言ったりするときに、かなり身構えています。自分も日本の土地を離れれば外国人であるという意識がないのです。それゆえに、偏見を持ってはいけないと、それが正義であると、緊張しているのです。だから、判で押したように、(思っていなくとも)「皆、同じ」としなければならないのでしょう。

 その上、自分が合点のできぬことを相手がしても、「皆、同じだから」と(自分の本当の気持ちを押し殺して)、本来ならば同じ土俵で考えてはならぬことまで、一緒にして考えてしまいます。

 もっとも、慣れてくると、きっと、はっきり言えるようになると思いますが。

日々是好日
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いいお天気です。新緑の緑が(目に)眩しいほどに美しい。

2015-05-18 12:09:22 | 日本語学校
 晴れ。

 今朝も早くから、(小学校から)応援の声が聞こえてきます。早朝練習かな。運動会が近づいているのでしょう。大太鼓や小太鼓の音、そして歓声。きっと六年生の主将なのでしょう、大きな声でリードするのが聞こえます。平和ですね。この声以外は静寂を保っている、朝の町です。

 いつの間にか「サツキ」も盛りを過ぎていました。今は新緑の季節。緑が目に眩しいほどに美しい。

 不思議なことにどこまでも青空が広がっているのに、夕方から雨とのこと。ま、梅雨が近づいている証なのかもしれません。台風だって来ましたし。

 街では、季節の感覚がだんだん薄れてしまいそう。地下鉄に乗って、一時間ほども行けば、「サギ(鷺)」が舞い、「ツバメ(燕)」が切り裂くように飛んでいる景色に出会えるのに。今春は、ここでは、一度も「ウグイス(鶯)」の声を聞きませんでしたし、「メジロ(目白)」の姿を見かけることもありませんでした。植物だけは逃げられないので、辛くともこの地で、花を咲かせ、散っていくのでしょうけれども。

 さて、学校です。

 今年の4月に来た学生や、昨年来た学生が、自分の友人を呼びたいとやってくるようになりました。自立できないであろうなという感じの人は、やんわりと断るようにしているのですが。

 兄弟を呼びたいとやってくる学生も、正直なところ(つまり、弟なり妹なりの性格が見えている人)を話してくれる人はいいのですが(なんと言いましても、当方にもそれなりの心構えができますから)、そうではない人は困ります。

 「呼びたいと言い、弟は頭がいい。頑張るから」と言いながら、来てしまえば、知らん顔。弟は弟で、彼らの国では適当にやって来られたとしても、「ひらがな」「カタカナ」「漢字」がある国では、「適当に、ごまかす」ことは至難の業。で、表面的には知ったかぶりをしているけれども、書かせたり、テストをしたりしてみると、ご多分に漏れず、カンニング(膝の上にプリントを置いて写すか、隣か前の人のを見る)しかしない。…母国でもそうやっていたのかしらん。もしかしたら、それらをする必要がないくらい簡単なことしか学んでいないのかもしれません。

 「できないなら、できないでいいのじゃないか」と思うのですけれども、困ったことに、「頭がいい」と思い込んでいるので、「できない」あるいは「人より劣る」を認識することができないのです。

 嫌みたいですね。そうやって、ずっとごまかせると思っているのでしょうか。思ってはいないと思うのですが、ギリギリまで、素知らぬ顔をしていれば、人は、相手を追い詰めないとは思っているようです。
 
「天才」だって、「99%は『努力』だ」というのに、母国と同じに、座って聞いていれば、それなりの点が取れて、「(皆と)おんなじ」でいられると思っているのでしょう。これは全く無理な話。

 スリランカ人に限らず、これは、どの国からきた学生にも多少見られるところのものなのですが、「出稼ぎ半分、母国にいてもしょうがない半分」という人たちでは、「頑張れ」ということ自体が無理なのかもしれません。(こちらも)初めはそれなりに手を尽くすのですが、それでも、向こうが迷惑がっているのが判って(あるいは、かまわれれば、自分が特別と思う向きもあるようで)一ヶ月ほども経てば、こちらももう無理かなと思ってしまうのです。それ(やりたくない人をかまう)よりも、頑張っているけれども、できない人の方に時間も手間もかけたいと思うようになるのは、人として当然の情(でしょう)。

 彼らの国では戦争も、内乱も何も起こっていないのに、日本は居心地がいいのか、帰ろうとしないのです、いったん来てしまうと。確かにこういう人たちでも、仕事はあるようで、そこが問題なのかもしれません。真面目に、頑張って日本語を勉強しようという人たちには、仕事があるのはありがたいのですけれども。

 学生達にアルバイトがないという時の私の気持ち。
…一生懸命、勉強に頑張っている学生には、「困ったな。生活費がないと勉強に集中できなくなるかも…しれないのに…」であって、
…来ても、ボケッとしているか、何かして(授業を)かき乱そうとしている…人にはこうはなりません。彼らは、授業中、暇なのです。だから、何か面白いことがないのかと探してしまうのでしょう。そして、なにかあると、すぐに飛びつくのです。誰かがミスをすれば、下手な日本語でからかったり、一緒に騒がせようとしたりするのです。そういう手合いには、「…そりゃあ、勉強する気がないから、当然でしょ。けれども、お金がないと、悪い道に入るかもしれないから…困ったな」となるのです。

 スリランカ人は、特にタミル系の人たちにとって、日本語は簡単なようで、話すだけなら、すぐに話せるようになります。発音もイントネーションも問題のない人たちが多いのです。もっとも、「初級文法」レベルで終わり。それ以上にいける人もいることはいるけれども、非常に少ないのです。

 あれだけ耳がよくて、すぐに話せるようになるのに、本当にもったいないと思うのですが、暖かかくてぼんやりしていても一日がゆっくりすぎていくような国で育っていれば、「頑張るって何?」ということにもなるのかもしれません。

 それからすると、スリランカ人であっても、倦まず弛まず、勉強を続けることができた学生達は、何か特別な存在であるような気がしてなりません。彼らは「判らない」ということをはっきり言えましたし、判るまで食いついてきました。「座っていれば、時間は過ぎるさ」ではなく、「考える」こともできましたから。

 日本人は「職人」的な人が好きで、大企業の社長や、研究者を褒め称えるときに、「職人肌」の企業人とか、「職人肌」ぼ研究者とか言うことがあります。それを直訳すると、国によっては「貶している」ことになるかもしれませんが。日本人は、たとえ頭が多少よかろうとも、多少他の人たちよりも小器用であろうとも、コツコツと頑張らない人はあまり好きではないのです。

 だって、頭がいいと言ったって、一体全体、どれほどの違いがあるというのでしょう。大した違いなんてありっこありません。一年も経ってみれば、それは自ずと判ってくることです。ただ要領がいい云々は別物かもしれません。が、それとても、会社に入れば学ぶことができます。一生懸命にやる人には、その会社の人はきっと同じように親身になって教えてくれるでしょうから。

日々是好日
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ベトナムの留学生フェアから戻ってきました。…戻ってくると、学生達は「お菓子は」としか言いません。

2015-05-15 18:38:05 | 日本語学校
 晴天。

 大気はカラリとしています。五月晴れ。風も涼しく、心地よい。

 一昨日、昨日と、昼間は真夏並みの暑さでしたが、朝晩は、やはり5月ですね、もう一枚ほしいという感じ。

 さて、5月の連休の後、ホーチミンとハノイで、「ベトナム留学フェア」がありました。行かねば判らなかったことも、感じ取れなかったことも様々あり、それなりに行っただけのことはありました。が、疲れました。やはり年です、もう無理はできません。

 で、今週の月曜日の夜に戻り、火曜日には授業をしたのですが、なかなか疲れが抜けません。やっと昨日、どうにか戻ったかなと言う感じ…。。
 
 一週間という休み。その後の授業、(2年目の学生達はまあ、よかったのですが)この4月に来た学生達、特に「初級クラス」の学生達は、(日本語の)練習の仕方が、スッポリと抜けていたようで、ちょっと、大変でした。

 「教師が言う。学生はそれを一度繰り返す。そして、次に、今度は答えを言う」という一斉授業が成り立たなくなっていたのです。てんでにばらばらに言おうとします。判る学生はサッサと言ってそれで終わり。遅れている学生は「あ」も「お」も言う遑がありません。個別の作業ではないのですから、それはだめ。頭の良さ云々でも、語学に長じているのでもなく、ただ、母国で学んできた量が異なっている故の差に過ぎぬのですから。既習、未習での違いによる差は、最初のころは、大きいのです。凸凹のボコの方の学生達はついてけず、オタオタしてしまい、下手をすると苦手意識が付いてしまうかもしれません。

 それで、誰もがついて行けるように、何度も、「一度繰り返してから、答えを言う。すぐに言ってはいけません」を言うことになってしまいます。

 もっとも、真っ白で(この練習の仕方を)覚えさせねばならぬというわけではありませんから、一日目は、「ああ、そうだった」という顔をしていた学生も、二日目には、だいぶ戻り、そして今日は、大丈夫でした(せっかちが一人いるので、それはもうしょうがない。癖になっているのです。ちっとやそっとでは治りません。でも、何度注意されても、平気な顔をしていますから、大丈夫でしょう。気にして、へこたれるというタイプではなさそうですし)。

 「初級Ⅰ・Ⅱ」クラスというのは、母国でどれほど勉強していたかによって、多少 やり方も、クラスも変えなければならないことがあります。もちろん、『初級Ⅰ』が終わっておらねば、しかも、ある程度きちんと勉強できていなければ、『初級Ⅱ』のクラスには入れられません。

 故に『初級Ⅰ」のクラスでは、「25課」までは学んだが、大して定着はしていないという学生から、「4課」か「5課」ぐらいまでしか学んでいないという留学生、そしてゼロから出発するという在日の方まで、様々の人たちが一つクラスに含まれるということになります。

 在日の方には、この事情を先に話してあります。「ゆっくりとはできないよ」ということです。もちろん、留学生の方でも、(国によって、あるいはそれぞれの母国の日本語学校におけるやり方も教科書も異なっていますから、それを均等にするという意味で)、ひらがなカタカナから教えていく必要がありますので、(そうしますから)困ることはないはずなのですが。

 ただ、留学生が日本語学校で学べるのは、最長で二年ですので、あまりのんびりとやってもいられないのです。その間に、学生の希望通りの専門学校か、大学、大学院に入れるだけの力をつけてやらねばなりませんから。

 それでも、普通、「初級Ⅰ」クラスには、在日の方が二人か三人来られて勉強しています。中には、このスピードにはついて行けないと言う方もいますし、「よかった。早く日本語が上手になりたかったから」と懸命についてこようとする方もいます。

 在日の方は、勉強するしないにしても、その人の個人的な気持ち次第ですから、私たちとしても、勉強しに来れば教えるし、来なくなればそれまでのこと、ご縁がなかったのだなということで終わりにできるのですが、留学生はそうはいきません。日本で学びたいという目的で来日しているのですから、私たちの方でも大きな責任があるということになります。

 とはいえ、在日の方でも、ここは適当に遊ぶ所ではないということがわかるのでしょう、二、三ヶ月も経つと、それなりにがんばれる人だけが残っているようです。

 そういう人たちは、目的がはっきりしています。日本で、技術者として働きたいとか、アルバイトではなく、正社員として働きたいとか(目的は)様々ですが、勉強する時の態度が、他の(在日の)人たちとは違っていますから、ああ、この人は続けられそうだなとすぐに判ります。そして、その目的のためには、少なくとも「N3」には合格せねばならぬし、できれば「N2」まで取りたいとなるようです。

 こういう方がクラスにいると、留学生だけの時に比べて、クラスがビシッと締まってきます。だいたい大卒ですから、勉強の仕方も判っていますし。

 とはいえ、日本語学校では、まず留学生を本人の希望するところに入れる、それが目的ですから、そのための努力を皆がしているのです。茶話会気分で来ても、多分、一ヶ月と持たないでしょう。暇でぶらぶらしているから、心配だから、学校にでも入れようという人もいますが、それでは続きません。本人が、日本語を学ぶ必要を感じているかどうかが、大切なのです。

 もちろん、これは在日の方だけではなく、留学生も、そうなのですが。

日々是好日
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サツキの花が満開です。

2015-05-01 12:43:48 | 日本語学校
 晴れ。

 五月晴れです。五月になってすぐにこんな空になるとは。

 昨日は、少々曇っていましたし、暮れてから雨が降るかもしれないなどという予報も出ていました。それで、学校を出るときに、おそるおそる空を見たのですが、それには、薄い月がかかっているだけ。

 昼は夏のように暑いとしても、朝夕は、肌寒く、これが、晩春、初夏のころの特徴と言えば言えなくもない。困るのは、窓を開けてしまうということ。

 夏冬はエアコンが必要なので、窓を閉めているのですが、こんな気候のよい時期は、窓を開けて外の空気を取り込みたい。日差しも少しばかり浴びたいと言うことで、窓は全開にしているのです。

 特に、空気の澄み切った朝、午前の学生達が早めに来たときなど、うれしそうに挨拶し合う声が響きわたります。周りはシーンとしていますから、余計に感じられるのかもしれませんが。

 昨日もそうでした。その声が、あまりに続いたら、注意しに行こうと思っていたのですが、まだそれほど日本語が話せない彼ら、すぐに途切れてしまいます。まあ、全身で歓迎の意を表し、おはようの挨拶をし、それから、「元気ですか」めいた言葉を交わし…多分、それで終わりになってしまったのでしょう。

 で、授業に行ったときに、一言二言、周りが静かだから、学校でも大きな声は出さないようにしましょうと言います。その時に、前のマンションには赤ちゃんがいるからねと一言付け加えますと、みな、ハッとした顔になり、口に手を当てます。百万言費やすよりも、こういう人たちには、この一言が利くようです。

 彼らのほとんどは親戚一同が近くにいたり、あるいは一族で住んでいたりしているようで、それで、この「赤ちゃんが目を覚ます」という言葉に反感を持ったりすることはないのです。

 今、街はサツキが満開。白やピンクなどの花があでやかに街を彩っています。美しい季節です。

 日々是好日
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