雨は、相変わらず、しめやかに降り続いています。「大連」から戻って、まだ疲れが取れていないせいでしょうか、やけに毎日を忙しく感じています。しかしながら、ただ心で「あれもしなければ」、「これもしなければ」と思っているだけで、一向に手も足も、勿論、頭も動きません。それどころか、机の上には、いつの間にか、未処理の原稿や、目を通しておかねばならない教科書、新聞、テストなどの類が、ホコリをかぶって溜まっています。
これがしばらく続きますと、この仕事の山(他の人から見たら、たいしたことのない丘程度のものです)から逃げ出したくなり(見たくないのです)、自分の机から遠く離れたところで、日々の授業の準備、乃至片付けをしようなどという不心得な心持ちになってしまいます。
特に、金曜日と月曜日は、授業に六時間も入っているので、一日の授業の後始末だけでも、片付けの苦手な私は、アップアップしてしまいます。そういう時に、別の事務的なこと(極力、自分に来ないように、皆も協力してくれていますし、私も逃げに逃げているのですが)が、一件でもくると、一㌧もの重荷が、ずしんと肩に掛かったような心理状態に陥ってしまいます。
本当に、事務能力のある人が羨ましい。その人達にとっては、こんなこと、朝飯前のおやすいご用、お茶の子さいさいで、ちょちょいのちょいとばかりに、やってのけてしまえるようなことなのでしょうが…。今も、片付けなければならないものが、机の右端の籠の中に、鎮座ましまし、なにやら、彼らに睨まれているような、そんな気がしています。そんな気がしながらも、根性で、ブログを打っているのですが、打ちながら、ため息をついているような次第。「仕事の籠が怖い」と、「饅頭、怖い」のノリで言ってみても、少しも可笑しくありません。
雨はいいですね。できうれば、雨粒にでもなりたいような心境です。定められた道を順繰りに廻っていき、それは「六道」を巡らねばならぬ、人間などよりもずっと穏やかで優しい生き方(?)に見えます。「私は、貝になりたい」というのは、辛かったけれど、「雨滴」には、悩みも哀しみも感じられませんし、不安も、また追い詰められていくような焦燥感もありません。それらを感じてしまう「心がない」というのが、何よりもいい。 とは言いましても、なぜか「ヒト」として、ここにあるわけで、一旦「ヒト」として、ここに存在しているからには、「六道」を巡らねばならぬ定めなのでしょう。
草か虫か、或いは犬か馬か、鳥か蛙か、考えていったら、何も出来ません。身体も心も、考えまでも、動かなくなってしまいます。この「ブチン」と殺した蚊でさえも、前世の友人であったかもしれず、そう思えば、座禅だけ組んで動かないのが、一番いいということになったしまいます。それも、「ヒト」としてある限りは、できない相談ですしね。
さて、「Aクラス」では、「『一級文法』を毎日やって、丸暗記」というのをやっています。が、一人、どうしても言われた通りのことができないお嬢さんがいます。彼女を見ていると、こちらが言ったことを、極力避けて、それと違うことばかり選びながらやっているのではないかとさえ思えてきます。
「これをやれ」と言えば、「あれ」をします。「これを見なくていいから、あちらをやれ」と言うと、「あちらを見ずに、こればかりやろう」とします。「やれ」と言われたことに対して、身も心も目も「避け」ており、反対に、「やるな」と言われたことに対して、ドンドン惹き付けられているようなのです。
これもヒトの「業」と言えば、言えるのかもしれません。「明るい白い道」が、どこにあるのか、またどうすれば行けるのか、判っていながら、それを避け、それと反対の「暗く険しい道」に心惹かれていくのが、既に「習い」となっているのです。こういうことは、どこかで断ち切ってやらねば、多分これからの道も辛いものになると思うのですが、彼女は無意識のうちにやっているのです。もしかしたら、どうしてこういうことをしてしまうのだろうと、かすかな不安を覚えているのかもしれませんが。
大学に合格したら、「臨床心理」の授業でも受けて、「箱庭」療法でも経験し、一度自分というものを見つめてみた方がいいのかもしれません。そうでもしなければ、「自分の習い」に気づかないまま、マイナスの行動ばかりをとり、生きていかねばならないということにもなりかねません。
勿論、大半の学生は、言われた通りにやってくれています。ただ、「それが一番いい」と、心ではわかっていても、どうしても、その通りにできない者もいるのです。これは、これまで彼らが育ってきた環境のなせるワザとくらいしか言いようのないものなのです。ただ、自分にそういう習慣があるということさえ、判っていれば、対処の仕方もあるのです。
「自分で、それを知る」というところがミソなのですが。そういう「習い」を知った上で、「その逆を行く」、これを、一定の期間繰り返し、軌道修正していかなければなりません。そうしなければ、一生、「楽な道を避ける」という、今のこの習慣が、更に揺るぎないものになってしまうでしょう。「この方がいい。この方が楽だ」ということを、知っていながら、否、知っているが故に、その逆を行ってしまうのです(時には、半分以上、意識的にしているようにさえ見えることがあります)。
「Cクラス」では、もうすぐ、「初級Ⅱ」が終わります。学生達の口が、「初級Ⅰ」の頃と比べ、随分重くなってきました。それも当然で、「初級Ⅱ」では、一文の中に、いくつも動詞や形容詞の活用が含まれていたり、別の文法事項が含まれていたりします。考えながらやっているので、時間が多少かかってしまうのでしょう。「頭から先に行く」学生さんが多いクラスですから、それもしょうがないのですが。
「Dクラス」の場合は、「不器用」さんが多いので、「日本語の煩わしさ」に気づかれないように、常に(一文を)分解して、パーツ毎に練習し、それをまとめ上げるという作業を繰り返しています。それ故、(不器用さんが多い割には)どうにかなっているのです。が、「Cクラス」は、「初級Ⅰ」の時は、普通にやっても、それほど問題が生じませんでしたから、これまで、そういう作業とは無縁でした。けれども、もしかしたら、(「初級Ⅱ」に入った後)、少し早くから、そういう作業をやってやった方が良かったのかもしれません。
ただ、毎日行っていないと、(教師には)それがわからないのです。自分では、授業時には、(授業の)流れのままに、無意識にやり方を変えているのですが、それも、「理論的にこう」と考えずに、行っているので、いざ説明を求められても、なかなかできないのです。こういう時には、こうしていると見て判ってもらうよりほかないのですが。
ただ、経験があまりない人(教師)が見てしまうと(他のやり方を知らないので)、失敗します。引き出しの少ないうちは、「形」通りの授業をする人(教師)を見た方が勉強になります。授業を「軟体動物」のように見なしている人間の授業は、あまり褒められたものではありませんから。
日々是好日
これがしばらく続きますと、この仕事の山(他の人から見たら、たいしたことのない丘程度のものです)から逃げ出したくなり(見たくないのです)、自分の机から遠く離れたところで、日々の授業の準備、乃至片付けをしようなどという不心得な心持ちになってしまいます。
特に、金曜日と月曜日は、授業に六時間も入っているので、一日の授業の後始末だけでも、片付けの苦手な私は、アップアップしてしまいます。そういう時に、別の事務的なこと(極力、自分に来ないように、皆も協力してくれていますし、私も逃げに逃げているのですが)が、一件でもくると、一㌧もの重荷が、ずしんと肩に掛かったような心理状態に陥ってしまいます。
本当に、事務能力のある人が羨ましい。その人達にとっては、こんなこと、朝飯前のおやすいご用、お茶の子さいさいで、ちょちょいのちょいとばかりに、やってのけてしまえるようなことなのでしょうが…。今も、片付けなければならないものが、机の右端の籠の中に、鎮座ましまし、なにやら、彼らに睨まれているような、そんな気がしています。そんな気がしながらも、根性で、ブログを打っているのですが、打ちながら、ため息をついているような次第。「仕事の籠が怖い」と、「饅頭、怖い」のノリで言ってみても、少しも可笑しくありません。
雨はいいですね。できうれば、雨粒にでもなりたいような心境です。定められた道を順繰りに廻っていき、それは「六道」を巡らねばならぬ、人間などよりもずっと穏やかで優しい生き方(?)に見えます。「私は、貝になりたい」というのは、辛かったけれど、「雨滴」には、悩みも哀しみも感じられませんし、不安も、また追い詰められていくような焦燥感もありません。それらを感じてしまう「心がない」というのが、何よりもいい。 とは言いましても、なぜか「ヒト」として、ここにあるわけで、一旦「ヒト」として、ここに存在しているからには、「六道」を巡らねばならぬ定めなのでしょう。
草か虫か、或いは犬か馬か、鳥か蛙か、考えていったら、何も出来ません。身体も心も、考えまでも、動かなくなってしまいます。この「ブチン」と殺した蚊でさえも、前世の友人であったかもしれず、そう思えば、座禅だけ組んで動かないのが、一番いいということになったしまいます。それも、「ヒト」としてある限りは、できない相談ですしね。
さて、「Aクラス」では、「『一級文法』を毎日やって、丸暗記」というのをやっています。が、一人、どうしても言われた通りのことができないお嬢さんがいます。彼女を見ていると、こちらが言ったことを、極力避けて、それと違うことばかり選びながらやっているのではないかとさえ思えてきます。
「これをやれ」と言えば、「あれ」をします。「これを見なくていいから、あちらをやれ」と言うと、「あちらを見ずに、こればかりやろう」とします。「やれ」と言われたことに対して、身も心も目も「避け」ており、反対に、「やるな」と言われたことに対して、ドンドン惹き付けられているようなのです。
これもヒトの「業」と言えば、言えるのかもしれません。「明るい白い道」が、どこにあるのか、またどうすれば行けるのか、判っていながら、それを避け、それと反対の「暗く険しい道」に心惹かれていくのが、既に「習い」となっているのです。こういうことは、どこかで断ち切ってやらねば、多分これからの道も辛いものになると思うのですが、彼女は無意識のうちにやっているのです。もしかしたら、どうしてこういうことをしてしまうのだろうと、かすかな不安を覚えているのかもしれませんが。
大学に合格したら、「臨床心理」の授業でも受けて、「箱庭」療法でも経験し、一度自分というものを見つめてみた方がいいのかもしれません。そうでもしなければ、「自分の習い」に気づかないまま、マイナスの行動ばかりをとり、生きていかねばならないということにもなりかねません。
勿論、大半の学生は、言われた通りにやってくれています。ただ、「それが一番いい」と、心ではわかっていても、どうしても、その通りにできない者もいるのです。これは、これまで彼らが育ってきた環境のなせるワザとくらいしか言いようのないものなのです。ただ、自分にそういう習慣があるということさえ、判っていれば、対処の仕方もあるのです。
「自分で、それを知る」というところがミソなのですが。そういう「習い」を知った上で、「その逆を行く」、これを、一定の期間繰り返し、軌道修正していかなければなりません。そうしなければ、一生、「楽な道を避ける」という、今のこの習慣が、更に揺るぎないものになってしまうでしょう。「この方がいい。この方が楽だ」ということを、知っていながら、否、知っているが故に、その逆を行ってしまうのです(時には、半分以上、意識的にしているようにさえ見えることがあります)。
「Cクラス」では、もうすぐ、「初級Ⅱ」が終わります。学生達の口が、「初級Ⅰ」の頃と比べ、随分重くなってきました。それも当然で、「初級Ⅱ」では、一文の中に、いくつも動詞や形容詞の活用が含まれていたり、別の文法事項が含まれていたりします。考えながらやっているので、時間が多少かかってしまうのでしょう。「頭から先に行く」学生さんが多いクラスですから、それもしょうがないのですが。
「Dクラス」の場合は、「不器用」さんが多いので、「日本語の煩わしさ」に気づかれないように、常に(一文を)分解して、パーツ毎に練習し、それをまとめ上げるという作業を繰り返しています。それ故、(不器用さんが多い割には)どうにかなっているのです。が、「Cクラス」は、「初級Ⅰ」の時は、普通にやっても、それほど問題が生じませんでしたから、これまで、そういう作業とは無縁でした。けれども、もしかしたら、(「初級Ⅱ」に入った後)、少し早くから、そういう作業をやってやった方が良かったのかもしれません。
ただ、毎日行っていないと、(教師には)それがわからないのです。自分では、授業時には、(授業の)流れのままに、無意識にやり方を変えているのですが、それも、「理論的にこう」と考えずに、行っているので、いざ説明を求められても、なかなかできないのです。こういう時には、こうしていると見て判ってもらうよりほかないのですが。
ただ、経験があまりない人(教師)が見てしまうと(他のやり方を知らないので)、失敗します。引き出しの少ないうちは、「形」通りの授業をする人(教師)を見た方が勉強になります。授業を「軟体動物」のように見なしている人間の授業は、あまり褒められたものではありませんから。
日々是好日