日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「土砂降りの雨」。「『フジテレビ』参観」。「神の恩寵」。

2010-04-30 08:28:02 | 日本語の授業
 あっという間に、今年も、四月、最後の日を迎えました。本当に、今年の四月は短かった……というのが偽らざる気持ちです。追われるような毎日が続いていました。それでも、四月のうちに、何とかしておかねばならぬことがいくつか、まだ残っています。頼みの綱は、この「連休」です。この「連休」を利用して、それらをやってしまい、五月には、多少なりとも余裕のある表情で学生たちに対していこうと思っています。

 ところで、木曜日の「課外活動」は、一転二転と、まころぶように、変わっていきました。

 その日は、あいにくの「雨天」になる…というのは、先からわかっていたのですが、その「雨の降り方」やら「雨の量」やらが、わからないのです。なにせ、「春のお天気」は「秋の空」のように定まりなきものゆえ。

 「行徳駅」で、皆を待っている間にも、バケツの底が抜けたように土砂降りの雨が続きます。その一時間ぐらい前には、薄日が射していましたのに。おまけに風までビュンビュンと吹いてきます。もう、こうなってしまっては、この豪雨の中を、「皇居散策」としゃれ込むことはできません。それで、一路、「葛西臨海公園内の水族館」へと向かいます。ところが、ついてびっくり。何としたことでしょう、ここは、木曜日がお休みだったのです。博物館も図書館も月曜日がお休みなのです。それで、ついつい木曜日は安全圏だとばかり考えていました。そういうものの、雨の中をぼんやりと立っているわけにはいきません。で、まずは雨を凌ぐために展望台に上り、雨に煙る海を眺めます。

 とはいえ、せっかく外へ出て来て、これで「はい、お仕舞い」というわけには参りません。まず、(学生たちに)午後のアルバイトの有無、(アルバイトが)あると言った人には、その時間を確認してから、急遽、道を知った教師が鳩首会談。その結果、「ゆりかもめ」で「お台場」へ行き、「フジテレビ」を参観することに決定。

 「フジテレビ」に着くと、あのような豪雨の中、いや、だからこそ、行き先変更で来ていたのでしょう、高校生などがたくさん来ていました。小学生が多かった「NHK」とは少々違っていましたね。まず展望台に上り、そこでは、ガーナの学生とモンゴルの学生がアナウンサーになってテレビ画面に登場します。どうもかなり緊張していたようです。それから五階に下りて、写真とコンピュータの合成?で、変身したり、アニメーション「ワンピース」の模型の船を見て感動したり……とまあ、「NHK」へ行った時と同じようなことを、あれこれやっていたようです。

 そして、1時半頃に、その一階で解散。「お台場」には、いくつか、楽しく時間を過ごせる場所があり、駅にはそれを書いた地図がおいてあります。駅に着くとすぐに、それを渡しておきましたから、車の好きな人はモーターショーに行ったかもしれません。留学生にとって、無料で楽しめるというのは、何よりもありがたいことです。どうしても交通費がかかりますから。そんなわけで、「すぐに帰る」と言った学生は、だいたい半数くらいでしたかしらん。

 学生たちは、「フジテレビ」の中にいる時も、時折、窓の外を見ては、「まだ、降っている…」

 モンゴル人の学生が、天の底が抜けたような雨を見ながら、「この雨は…、雨が降った時の、モンゴルと同じ。一度降ったら、道がなくなります…」

 そう言えば、中国の「新疆自治区」へ行った時もそうでした。観光地ではカンカンの日照り状態なのに、道路が遮断され、鉄道が不通になったりするのです。それで、バスも道なき道を走るということになります。だいたい座ってなどいられないのです。バスが穴ぼこの荒原を走りますから、穴に落ちるたびに、乗っている人間も、バコンバコンと飛び上がり、(下手をすると)天井に頭をぶつけてしまいます。それで、子供も大人も、皆、バスの中で立っているのです。そして、車がバコンバコン揺れるたびに、その場で、人間もバコンバコン、ジャンプするのです。

 多分、モンゴルでも、それと同じなのでしょう。土は、水を吸い込み、溜めておくというよりも、土の表面を流れていくのです。だから、すぐに洪水のようになって、せっかく作った道も鉄道も壊されてしまうのでしょう。こういう知恵比べでは、人間は自然にかないっこありません。必ず負かされてしまいます。人には、天が恵んでくれたわずかばかりの恩恵を「如何に溜め込んでおけるか」くらいの知恵しかないのです。そして、それができる人を、知恵者と称呼し、尊んできたのです。

 世が「進む」と、人は「愚か」になり、自然と「闘える」と思うようになりました。雨が激しく降れば、外に出なければいいのです。寒さが厳しければ、蒲団にくるまって寝ていればいいのです。しかしながら、それがわがままであると言われ、おいそれとは、そうできない世の中になりました。雨が降っても働かねばならず、また学びに学校へ行かねばなりません。学ばねばならぬことは山ほどあり、働いていなければならぬことも多いのです。

 学べば学ぶほど、まだ、働けば働くほど、人は無知であり、弱い存在であるということがわかるのは皮肉なことです。人は、何もできない「裸の存在」であるということに気づくようになっていくのは、もしかしたら、自然が人間に与えてくれた「恩寵」なのかもしれません。

 原始の昔、人はただ「今」に生き、「今」を畏れているだけでしたから……。

不思議ですね。今日はきれいな青空です。このような日に、雨がザンザ降りであった日のことを書いているのですから。

日々是好日
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「『皇居散策』か、『水族館』か」、「雨男、雨女」。「『迷信』と『おとぎ話』」。

2010-04-28 08:02:24 | 日本語の授業
 「『皇居』散策」のはずの今日。あいにくなことに雨になってしまいました。しかも風まで吹いてきました。昨日まではいいお天気でしたのに。今日も午後は晴れるとのことです、どうして今日の午前だけ雨なのでしょうね。「皇居」の周りの緑を見せてやりたかったです、特に内モンゴルから来ている学生たちには。

 とはいえ、こう、お天気が「あいにく」状態になるということは、誰か、強烈な「雨女」か「雨男」が、今年の「四月生」の中に潜んでいるのかもしれません。何年か前もそうでした。何か行事があったり、課外活動で外へ行く時には、必ずと言っていいほど、雨になるのです。当時、私たちは寄ると触ると「誰が雨男か雨女か」なんて話しで、盛り上がっていましたっけ。

 もちろん、こういうことも、子供の時からの「教育」で、頭がガチガチに固まっている人たちには通用しません。「日本は科学技術がこんなに進んでいるのに、どうして国民はこんなに愚かなのか。それは迷信だ。馬鹿らしい」と、吐き捨てるように言われたこともありました。彼が言った、国民というのは、そういう話が大好きな私たちに代表される日本人のことです。おそらく、彼は、「科学技術の進歩」と、こういう「おとぎ話」が両立しないという教育を受けてきたのです。

 「迷信」と「おとぎ話」の区別がつかないのです。「人を迷わせ、苦しめるもの」と、「人の心を豊かにさせ、明日への希望を培う泉」との区別もつかないのです。こういうことを、他国のものに対して簡単に口にする人たちの心の根っこには、おそらく「詩」がないのでしょう。そうとしか思われません。

 「ロシア」が、あれほどの「専制主義国家」であった時代にも、日本人には「ロシア文学」に対する「憧れ」がありました。「ロシア文学」というと、詩情溢れた豊かな土壌が彷彿として浮かんでくるのです。当時、確かに、苦しみに喘いでいた国土であり、人々であったでしょう。悲しみや不条理にうちひしがれていた人々かもしれません。

 しかしながら、目に一丁字もない多くの人々に、詩情を感じる「偉大なる魂」がなければ、こういう文学はその地には生まれないものです。詩人というものは、突然にその民族に降って湧いたように現れるものではないのです。

 例えば、「ゲルマン民族」の持つ「シュバルツバルト」。そこに潜む「闇」。その「闇」から生まれる「魂」、その「魂」が絞り出す「芸術」。そして、その中の一つが文学なのです。ゲルマン民族の詩と同じです。「底なし沼」のように、深くて不気味なものが、どこかで沸々と滾っているような、そんなものが、(「ロシア文学」の長くて)静かな文章の行間から立ち上ってくるのです。

 「言わずもがな」のことですが、「ロシア」と「日本」との間には「近現代」いろいろな事がありました。両国の間には「戦争」もありましたし、特に政治的には、ずっとギクシャクした関係が続いています。日本人の中には、今もなお、「ロシア嫌い」の人が少なくありません。いわば、あまり褒められた状態にはないのです、かつても、そして現在も。

 けれども、それを完全に吹き飛ばしてしまうほど「ロシア文学」というものには、強い力があります。「ロシア嫌い」の人であっても、「『ロシア文学』が嫌い」という人には、あまりお目にかかったことがありません。「あまりに深くて、冷たくて、どこかしら、厳しく、人の心の奥底を見据えているようで…、だから怖い」という人はいるにしても。日本人にとって、「ロシア文学」は(自分たちとは)全く異質のものなのです。それ故に、引きずりこまれるほどの、魅力を感じてしまうのでしょう。しかしながら、本当にどうしてでしょうね。深く深く人の心の奥底まで探り、それをじっと狂気の一歩手前まで、観察しつづけられるような、そんな冷徹な眼というのは、どうやったら生み出せるものなのでしょう。

 「ロシア」の「風土」と「宗教」。この二者を考えること無しに「ロシア文学」というのは語れないとは、よく言われることですが、もしかしたら、「雪と氷」と、そして矛盾の巣窟のようにさえ感じられる「ロシア正教」が、人の「魂」を豊かにさせ、それと同時に、バランスを崩させ、崖っぷちに佇んでいるような気分にさせ、そして、それを文学に昇華させていく……というような力を持っているのかもしれません。

 今でも、「ロシア文学」に惹かれる日本人は山ほどいるのです。ああいう「深み」と「暗さ」は、穏やかに過ごせ、四季折々の草花に彩られる日本には、なかなか生まれないように思われます。

 こう書いているうちにも、風に煽られて、電線が唸りを上げています。上下に揺れ、クルクルと回り……またまた、「今日大丈夫か知らん」という気分になってきました。この「東西線」は風に弱いのです。川とはいいながら、海と言った方が良いような場所の上を走っているのですから。この線は。少しでも強い風が吹くと、すぐに速度を落としたり、悪くすると不通になってしまったりするのです。この分では皇居は無理なのかもしれません。となると、第二案、「葛西臨海公園」へ行って、「水族館」に入るということになりそうです。

 実は、昨日、このようなことになるかもしれないと、「四月生」のクラスで言いますと、来日後一ヶ月も経っていない彼らにざわめきが走りました。親類が日本にいる人は大丈夫なのですが、持参した金、また送金にも限度がある彼らにとって見れば、千五百円程度の金でも、高額に感じられるようなのです。まだ「日本の物価」が身についていないのです。自分の国のお金で勘定してしまいますから、高いということになるのです。

 彼らにしてみれば、「かなり(日本に)持って来た」つもりであっても、(アルバイトもまだないわけですから)、あっという間になくなってしまう……と感じられるのでしょう。

 もっとも、これが、来日後一年、あるいは半年ほども経っていたりしますと、(すでにアルバイトをしていますから)出る金も多いけれども、入る金も(彼らの国では経験できないくらい)多いということがわかりますから、落ち着いたものなのですけれど。

日々是好日
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「『端午の節句』のしつらい」。「『八〇後(パーリンホウ)』を見て、(心に)浮かんだこと」。

2010-04-27 08:17:16 | 日本語の授業
 「4月29日から5月5日まで」の「連休」を控えて、学校の玄関はすっかり「端午の節句」になっています。と言いましても、飾り付けられているのは、小さな「鯉のぼり」やら、和紙に描かれた「兜」や「鎧」また、作り物の「菖蒲」などなのですが。

 この、男の子の「お節句」は、女の子の「雛の節句」とは違い、休日になります。一見(「ひな祭り」に比べて)いい待遇を受けているかのように見えますが、その実、日陰者扱いされているような気もします。「ひな祭り」というのは、「女の子」のお祭りであると、世上、確かに言われています。が、ただ、誰一人として「(私はもう子供ではないのだから)お祭りしない」とは言わないのです、女性は。

 40才になっても、50才になっても、はたまた80才、90才になろうとも、特に最近は、自分だけの「お雛様」を買おうとし、またそれを美しく飾ろうとしています。

この点、「鯉のぼり」は、男の子がいなければ、(いくら好きでも、飾るのは)何となく気恥ずかしい。「菖蒲湯」はいいとしても、この時期だけ、「兜」や「金太郎人形」を飾るのは、どうも「いい大人が…」と言われそうで、こっぱずかしい…。

 とはいえ、今日は4月も下旬。5月の5日は連休の最後で、休みの最中ですから、男子学生のために何かをするというわけにも参りません。で、いつも、「どうして女の子の時には、お菓子を食べたり、『お雛様』を作ったり、歌を歌ったりするのに、男の子の時には、何にもしてくれないのですか」という素朴な疑問が呈せられることになってしまいます。別に「差別」しているわけではないのです。が、例年、男子学生には、「紙」で、我慢してもらう…ということになってしまいます。

 さて、中国のことです。
昨日、NHKの「クローズアップ現代」で、「80後(パーリンホウ)」についての報道がなされていました。三回シリーズということですから、今日も明日も報道は続くのでしょう。昨日、彼らへのインタビューなどを聞きながら、彼ら自身の(人で括ってしまうがちですが、その内部での)「格差」というものにも、考えが及んでしまいました。

 80年代の半ば、私が中国にいた頃には、中国人はよくこんな言葉を口にしていました。おそらく、今でもそうだと思います。何かいいことをすると、「中国人だもの」とか「党員だからね」と言うのです。また「古典文学作品」を読もうと、本を開けば、その「前書き」で、「如何に、この本の出版が、共産党の思想を宣伝するために必要であるか」、また「封建社会の悪を暴く上で、如何に必要不可欠なものであるか」が延々と述べられていたのです。本文を読み始める前に、くたびれてしまうというのが本当のところでした。多分、中国人は、この部分を飛ばして読んでいたのでしょう。

 それに、そういう「古典文学作品」は(「明清時代」或いは「民国」初期のものを除けば)日本ではありふれた本の一部に過ぎず、私にしてみれば、それを中国語で読んでみたいという気分で、繙いたに過ぎなかったのです。実際問題として、良いわけに過ぎぬ、このような「序文」を読むほどの根性はありませんでした。「またか」「あああ、まだ言っている」くらいの気分だったのです。

 それが、だんだん中国人の現代の気風とでも言いましょうか、そういうのが、中国人と接している時に感じられるようになるにつれ、少しずつ変わって来たのです。それに、滞在が長引くと共に、「文革」の初期、如何に「文人」の作品が、やり玉に挙げられ、政治的に利用され、攻撃されていたのかを知る機会も増えていましたから。文学的な価値というよりも何よりも、ここまで書かねばならないのかという、同情心が湧いてきたのです。、このような「序文」で、延々と「いいわけ」せざるを得ない、そうしなければ、こういう本は「日の目」を見ることもなかろうと、そんな哀れさまでも感じるようになったのです。気の毒だから、いいわけに過ぎない「序文」であろうと、読まないわけにはいかないといったような気分になったのです。

 大陸の中国人の口から、「…だから、いいことをする」という、「…だから」の部分、が消えるのはいつのことでしょうか。人は「…だから」、いいことをするのではないのです。「…だから」がくっついていなくても、いいこともすれば、悪いこともするのです。この「『素』の自分」で、直接人に語りかけられるようになるのはいつのことだろう、そう思ったものです。

 私が、こう思ったのには、わけがあります。これはかれらの口癖であり、朝、出会えば言う「おはよう」と同じ類のこと、つまり、頭の思考中枢を経た末のものではないということを感じ取るようになったからです。

 私たちが勉強している時のことです。「紅楼夢」などという本を説明する時にも、主人公に「反封建主義」という「レッテル?」をつけたがるのです。現在で言えば、中学生くらいでしょう。こんなのは「青春期」に入る前の、単なる「反抗期」と見なせば済むのです。そして、このような「枝葉末節」の部分からも、「この作家は偉大である。当時の封建主義に反対し……云々」と理解することが、外国人にも要求されたのです。

 「共産圏」から来た学生(当時は、ソ連も東欧諸国も健在でした)や、まだ「絶対主義」の世界にいるような国から来た人は、簡単に「(お上がいうのだから)そうしておいたほうがいい」と流せたでしょうけれど、日本やドイツ、アメリカなどから来ていた学生には、これは習慣上ですが、許されるようなことではありませんでした。書物を理解するのは「個人」です。人からとやかく言われるようなことではない…のです。私たちの国では、それが如何に稚拙な理解であろうと、たとえ、幼稚園の子供が発した意見であろうと、個人の意見は尊ばなければならぬものなのです。

 私たち、ある程度、年がいっていたものは、「またか」でしたし、「そう言って欲しいのなら、そう書いてあげてもいい。これはその国の、現在のレベルがこうなのだから、しかたがない」と、こんなわかりきったことで、けんかするような気にはなれませんでした。だいたい大人げないことです。どちらが愚かなやり方であるかなど自明のことでしたから。で、「入郷随郷」とばかりに、適当にやっていましたが、高校を卒業してすぐ中国へ来たような男の子はそうはいきません。当時、中国人教師とけんかをして、合格できなかった日本人学生もいました。

 運動場にいた時のことです。一人の日本人学生が、顔を真っ赤にして歩いていました。訳を訊くと、プンプンして、「信じられないよ。馬鹿みたいな主張をするし、自分が言ったとおりに答案を書かないと、合格させないって言うんだよ。最後は日本語と中国語でけんかだよ」

 全く、19才くらいの男の子と、40才か50才くらいの男性教師が対等にけんかするというのも見られたざまではありませんでしたが、当時は、こういう見え透いたことですら、一つ一つチェックしていかねばならなかったのでしょう。

 初めは、こういう先生方を気の毒に思いもしました。国がこうしろと言ってくれば、抵抗などできないでしょう。見張っている人もいるのですから。建前で通さねばならぬこともあるでしょう。抵抗なんぞしようものなら、職も失おうし、衣食住にも事欠こうというものです。と、同情していたのですが、しばらくすると、そうではなく、中には、心の底からそう信じ込んでいる人がいることもわかりました。日本の戦時中と同じです。お上の言うことは「常に正しい」のです。私にとっては、そのことの方が大きな衝撃でした。建前でやっていたのではなく、本当に信じていたということの方が。

 こうやって、一つずつ、あの国の人たちと付き合いながら、あの国のことを学んでいったような気がするのですが、それでも、本から得たものの方が大きかったと思います。1930年代から50年代にかけての小説や随筆、また、価値観や倫理観などは、「白話小説」や「武侠小説」など中から、一つ一つ拾っていったような気がします。これらを通して見えてきたものが、現実のかれらの行動を理解する上での助けとなりました。各国においては、国民性というのは、確かに存在します。

 私がそう言いますと、大学で「人は皆同じ」という教育を受け、骨の髄までそれを染みこませた、若い日本人の中には、反感を剥き出しにする人もいます。「種」としては同じであろうと、「ヒト」は学習して人間になる生き物です。その学習過程が差をつけるのです。「差」と言って悪ければ、「違い」と作るのです。家庭教育や学校教育、社会教育で、「どのように学習してきたか」、また「何を学習してきたか」。「価値の基準」はどこにあるのでしょう。何を最も大切なこととするのでしょう。「理念」でしょうか、それとも…。

 それに、どのような環境で育ってきたかによって、人は「習慣」も「考え方」も、みな違ってくるのです。勉強の仕方一つにしても、「手を動かして覚える」ということを知らない人達と、「何でも書いて覚えようとする」人たちとは違います。これは、いずれがいいとか、悪いとか言っているのではなく、ただ単に「違う」と言っているに過ぎないのですが。

 日本は島国で、世界のどこかの国で何かが起これば、すぐに、日本全土を揺るがす、全国的なニュースになります。自分の国だけ見ていればいいという、大国でも内陸部の国でもないのです。「ベトナム」が日本での報道の中心になった時もありました。「イラク」が中心になった時もありました。「韓国」や「インド」がそうなった時もありました。

 最近は経済発展を続け、また国も大きく、人口も世界の何分の一かを占める中国(本当の人口はわかりません。おそらく誰も知らないでしょう)がよく報道されています。好き嫌いに関わりなく、隣国である「彼の国」を、理解しようと試みる人が増えているのも事実です。ただ、日本人同士で行うような「接近の仕方」をすれば大やけどを負うような気がします。彼の国は、今でも封建主義の国であるように見えます。「宋」「明」の頃(「元」も「清」も異民族により支配された時代です。本来的な「中国」は、当時、あの王朝の、一部だったのです)と大して違っていないような気がします。ただかつてのように「文」を重んじているわけではなく、「商」が全面に出ている点は異なっていましょうが、「官」が一番、何より強いという点では、全く同じです。

日々是好日
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「新入生、『脳』と『心』と『身体』の分離」。「勉強の習慣」。

2010-04-26 08:25:25 | 日本語の授業
 さて、「四月生」が入学して、二週間が過ぎました。授業の受け方にも、宿題のやり方や出し方にも慣れたことでしょう。それに、登下校時の挨拶にも声が出るようになりましたし、幾度も失敗した(校内で出す)ごみの分別にも少しずつ迷わなくなってきています。

 この「Dクラス」は、「高校を卒業したばかり」か、「卒業後一年ほどたった」という学生が大半を占めています。それだけに、彼らの母国でついていた「悪しき習慣」(これは勉強をする上でです)をできるだけ、早く改めさせておかなければならないのです。彼らのほとんどは、特別能力が高いとか、劣っているとかいうことのない、いわば、日本にもまた彼らの国にも、どこにでも見受けられる、普通の学生たちなのです。放っておけば、何を勉強していいのかもわかりませんし、どういう風にしたらいいのかもわかっていません。学校へ来て座っていれば(復習も予習もせずに)「今日一日、よく勉強した」と、満足して言いそうな、そういう学生たちなのです。

 ですから、彼らに集中力をつけさせていくことが、まず、はじめに問題になります。それから、「外国語」の勉強というのには、「キリがない」ということ(かれらの目的は、「日本語」を学ぶだけではありません、ある者は大学や大学院を目指し、ある者は日本の会社へ就職することを目指しています。それぞれ目的に応じて、学ぶべき分野の単語も概念も異なっているのです)を知らせておかねばなりません。かれらの知識は乏しく、しかも薄っぺらなのです。日本語で入れていくしかないのです。

 「初級」の授業は、まず、「文字」と「発音」という基礎から入ります。とはいえ、一日中そればかりをするというわけにもいきません。同時並行という形で、教科書の問題もやっていきます。実は、先週の金曜日で、「文字・発音」の部分が終わりましたので(今週から私も教科書のほうに戻ります)、金曜日は宿題を少々多めに出しておいたのです(このことを木曜日にも、先に一度言いました。彼らは、来日後、まだ間がないので、私たちが言ったことをすぐに理解できるかというと、そういうわけではないのです。それで、いつも、二度か三度同じことを繰り返し、当日に間に合わせるというやり方をとっています)。

 一つは、来週から、毎日宿題が出るということ。宿題は朝来たら、すぐに職員室に出しておく分と、ディクテーションが終わってから出す分(同じノートに書きます)とに分かれるということ。この二つを木曜日に一度言っておき、金曜日に再度確認する…つもりだったのですが、何事にも、言われたことはやらねばならぬと早とちりをしてしまう学生はいるもので、「七月生」のうち、まじめな二人(ベトナム人学生と中国人学生)が、意気揚々と金曜日に持って来たのです。しかも、言っておいた「B問題」だけではなく、「A」も写し、「C」の「ミニ会話」も、「問題」の部分も、きれいにノートに書いてきたのです。それで、彼らには、宿題は「B問題」だけでいいと言うことを、再度確認し、チェックした後でノートを返しました。

 ところが、金曜日の放課後のことです。中国人の学生が三人、自習室に残っていたので、宿題を全部やってから帰りなさいというと、
「先生、宿題はたくさんあります。7時とか8時とかになっても、残ってやってしまわなければ駄目ですか」と言うのです。

 自習室にいた三人のうち、二人は高卒です。「日本語能力試験」で、だいたい「四級」レベルは合格していないと、日本に来ることはできません。つまり、彼らにとってみれば、この宿題というのは、母国ですでにやってきたこと、「既習事項」なのです。大卒の学生はさておき(大卒者は「四級」に合格していなくとも、来日することはできます。ただ当然のことながら、来てから苦労しているようですが。何となれば、最初の頃は、皆、簡単にできているし、覚えられているのに、自分一人できずに失敗ばかりしていると、自然、一人だけ愚か者のような気にもなるのでしょう)、「B問題」をしてしまうのに、5時間も6時間もかかるわけがありません。彼らは中国人で、「非漢字圏」の学生に比べれば、「ひらがな」や「カタカナ」を書くスピードはズンと勝っています。

 それで、「2時半までに(私が覗いた時は、1時20分くらいでした)やってしまいなさい。タラタラやって、一日かけるつもりか」ときつく叱って、自習室を出たのですが、多分、彼らは母国で、これまでそうやっていたのでしょう。彼らは、(この大卒の学生をも含めて)勉強をする時も、本来ならば、一時間か二時間ですべて終わってしまうことであろうと、おしゃべりをしながら、時にはお菓子を食べながら、4時間も五時間もかけてタラタラとやって来たのです。下の階に戻りながら、「これからは、時間設定だな」と思わず、呟いてしまいました。

 この「時間を切る」のは、彼らのように高校を出てすぐ日本に来たという人だけに必要というわけではなく、来日した学生全般に言えることなのです。もちろん、一目で「やり手だな」とか、「勉強の仕方を知っているな」と思わせるような人もいます。そういう人は別です。すでに母国で優秀な人材として認められているのでしょう。しかしながら、彼らのように母国では望みの大学に入れなかったとか、専門の勉強もできなかったという人たちは、総じて、「時間で切る」ということができません。「何時までにやる」というような気持ちになかなかなれないようなのです。そういう暮らし方をしてきていないのでしょう。。

 今年、大学か短大、或いは専門学校を目指すことになるであろう、「Aクラス」や「Bラス」においても、そのような学生は、まだいます。すでに日本で一年を過ごしているというのに、まだこれが身についていないのです。それで「Aクラス」は、まあいいとしても、「Bクラス」の「速読」の時間は、最初に「時間を切る」ということが大切になってきます。そうやって、習慣づけていくうちに、少しずつではありますが、(読むのが)速くはなっていると思うのですが、現実問題として、6月の「留学生試験」では、30分で「20」もの問題文を読み、解いていかねばなりません。この「Bクラス」のように、カンボジア、フィリピン、スリランカ、インド、ガーナ、タンザニアという非漢字圏から来ている学生にとっては、かなりきつい作業です。

 彼らは読ませみれば、漢字もある程度流暢に読むこともできます。「Aクラス」の学生と同じくらい(勉強した漢字は)読めるのです。しかし、いざ意味をとっていこうと質問をしていくと、とんでもない答えが返ってきます。簡単な文型でも、それを生かして文意を汲むということが、なかなかできないようなのです。時間を多く与えても同じようです。ヒントを一つか二つやれば、「ああ」と正解率が高くなるところを見ると、どうも、私や「漢字圏」の学生から見ると、躓く可能性の無い所で引っかかっているようなのです。

 ただ、そう言いましても、「留学生試験」は待ってはくれません。大学に入ってしまえば、外国人も日本人も同じ。「漢字圏」も「非漢字圏」も同じ。みな、テストやレポートの結果で判断されてしまいます。その前に、どれだけ、(文意を)汲み取ることができ、自分なりの意見がまとめられるようにさせられるかが大切になってきます。

 とはいえ、そういう「概念」自体がかれらの国語にない場合、あまり若くなく日本へ入ってきた人には、私たちとしても、それを「入れる」ことは困難です。普通の人間には、どうも、学ぶに適した年齢なり、時期なりというのはあるようで、自分のことを例に出すのは、甚だ恐縮なのですが、考えてみますれば、好きなことであったら、年齢には関係なく、脳が「行け」という指示を出してくれるようなのですが、苦手なこととなりますと、「足踏み」どころか、「退行」してしまうようなのです。

 よほどの向学心に燃えている人であれば、そうではないのでしょうが、簡単に「有名大学」に行くとだけ独り決めして、来日してきた「普通の人たち(母国でも勉強の習慣があまりないとしか見えない)」を見ると、却って辛い結果になりそうで、気の毒に思ってしまいます。あれは、「脳」と「心」と「体」が分離しているとしか考えられませんもの。

日々是好日
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「例年の『課外活動』」。

2010-04-23 12:35:21 | 日本語の授業
 今朝は小糠雨のそぼ降る中を歩いて参りました。

 民家の軒先には「フジ(藤)」の花房が、長く垂れ伸びており、雨の中で煙っています。薄紫か白の花房が多いようです。そのまま、歩いていますと、「ハナミズキ」の花がすでに満開を迎えていました。また、枝を落とされ、裸ん坊になっていた「イチョウ(公孫樹)」の樹も、若葉をつけはじめ、それが「小さき蝶」になりつつあります。「イチョウ」の街路樹の下には、きれいに剪定された「ツツジ(躑躅)」が植え込まれており、その「ツツジ」も、今か今かと出番を待っているように見えます。

 蕾が多く膨らみ、これはピンク、これは白、これは赤というふうに色合いまではっきり見えるようになっています。その根元をよくよく見てみると、どこかの鳥が運んできたのでしょう、ドクダミの葉がしっかりと茂っています。その上、その傍らを、よくよく見てみると、「ヨモギ(蓬)」まで初々しい緑を見せているではありませんか。

 街でヨモギを見かけるのは久しぶりのことです。普段見かけるのは、川沿いの土手っ腹とか、山里に自生している姿です。煉瓦に仕切られた檻の中に、しかもドクダミと共に生えているとは。街路樹の下には、またそれぞれの物語りがあるようです。

 さて、学校です。一月、二月、三月は、あっという間に過ぎてしまうとは、よく言われますが、四月もそのようです。

 「入学式」があったのは、先週のこと。やっと「ひらがな」と「カタカナ」を全員が覚えられたと思ったのに、やんぬるかな、もう来週から「ゴールデンウィーク」が始まります。(このクラスにも、勉強しそうにない人が若干名いますから)放っておけば、六日にニコニコしながら、「頭を空っぽにして」登校してくることでしょう。

 せっかく覚えた「ひらがな」「カタカナ」を忘れないように、宿題もどっさり出してやりましょう。連休明けには、テストをするぞと脅してもやらねばなりません。そうしなければ、この二週間、叱られ損ということになってしまいます。しかも、来週からは「漢字」も始まります。

 ただ、日本に来て、「勉強だけ」というのもつまらない。教室に閉じこもっていても、「見聞」は広まりません。下手をすると、(就学生というのは)学校とアルバイト先という点と点との往復で、この二年間を終わってしまいます。

 それで、地下鉄の乗り方、道の歩き方(何も注意しないと、皆、ダラダラと群れて歩いてしまうのです)、都内の土地勘などをつけてもらうためにも、一ヶ月か二ヶ月に一回、都内の観光も兼ねて、いろいろな所へ連れて行っています。ただ行き先は時々変わります。

 定番として、8月の「一日旅行(富士山か、日光)」と、12月の「ディズニー(ランドかシー)、それと「アジサイ(紫陽花)」の頃の「鎌倉か横浜」、「モミジ」の頃の「明治神宮」と「六義園」か「後楽園」。この学校は二年制ですから、二年で一巡のメニューです。

 その他にも、例えば、コンピュータを専攻にしたいという学生が多い年には、「メディア祭」に連れて行ったりもしました。「フジ(藤)」が見頃を迎えていた時には「亀戸天神」へ行ったこともありました。「祭り」が話題になった時には、近所の「神輿」製作所へ連れて行き、神輿作りの現場を見せていただいたこともありました。卒業間近になれば、「朝日新聞社」や「東京江戸博物館」へ行き、日本の「現代」と「過去」を考える機会にしたこともあります。

 今回は、「新緑の候」ということもあり、「皇居」散策へ参ります。若い先生が、計画を立て、「皇居」散策コースと、解散後の「銀座」の地図を作成し、各自が一人でも見て回れるようにしてくれました。「課外活動」のための準備は万端整っています。あとは来週になって説明と注意をすればいいだけです。上のクラスには、別に「城」の解説をするつもりです。

日々是好日
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「気温の日較差」。「外国から、直接『日本の大学』に入るということ」

2010-04-22 13:27:26 | 日本語の授業
 さて、真夏日(最高気温25度)だった昨日に比べ、今日はぐっと気温が下がりそうです。昨日の帰りには、「(学生たちに)明日は寒くなるから気をつけて」と、言っておきましたが、「厚着をしておきなさい」とは言えませんでした。特に「四月生」は来たばかり。まだ自分の国・地域の自然や気候を引きずっています。「寒いでしょう」と言っても、「へ?!」という顔をされるだけですし、「暑いでしょう」と言っても、「いいえ、(私の国は)もっと暑いです」という答えが返ってくるだけです。

 日本人は、一日ごとの、この気温の較差に参ってしまいますが、一日の朝と夜とでもっと激しい日較差の中に晒されてきた人たちにとっては、何ということもないのかもしれません。この「お天気」をどう感じるかということも、あだや疎かで勝手な判断は下せないのです。私が「寒いでしょう」とか、「暑いでしょう」とか言うのも、日本に長年済んできた日本人なりの感覚でしかないのですから。

 とはいえ、「ベトナム」や「フィリピン」、「マレーシア」から来た学生たちから、風邪引きさんが出て来るかもしれません。どうも、この一年が過ぎるまで、落ち着きません。

 どこの国へ行ってもそうですが、そこで「生活する」となりますと、旅行者のようにはまいりません。まず、小さな島国「日本」とは、気候が違うということ、その中に一年以上いるということ。つまり、そういう「肚」を据えておかなければならないのです。しかしながら、そうやって、一年でも過ごせば、生活する上での「勘」がついてきます。次はこう来るだろうという「勘」です。そうすれば、あとは楽になります。「自然環境」が人に与える影響というのは、当の「人」が考えるよりも遙かに大きく、現地の「人」を考える上での、またその人たちと付き合っていく上での、「よすが」となります。そして、それが、結局は、翌年の「余裕」につながるのです。

 最近は、日本の大学が、直接、留学生を受け入れるようになってきました。私たちから見ると、両者にとって共に、一種の冒険のような気もするのですが、双方ともそうは思っていないようです。

 私が「中国」で留学生活を送っていた時の話になるのですが、当時、留学生は、必ず、「語言学院」という大学で、一年か二年を過ごさねばなりませんでした。その間、「中国」に馴染ませるべく、語学の勉強の他にも、さまざまな活動が行われていました。つまり、正式に大学に入れる前に、ワンクッションおいていたのです。

 「アフリカ諸国」や「アラブ諸国」、「ソ連」、「東欧諸国」や「ラテンアメリカ諸国」、「オセアニア諸国」や「南アジア、東南アジアの諸国」から来た人たちには、「北京」の気候、また生活・食べ物に、「日本」や「欧米」から来た人たちには、中国なりの共産主義的考え方に。それが終わると、中国の教育部(省)によって、中国各地の大学へ「分配」されました。

 ただ、その「分配」の様子を見ていますと、まず「(学生の)成績」は全く考慮されていなかったように思われたのです。それで、当時、(中国の教育部は)どういう考え方で、分配しているのかと不思議に思ったものですが、学生の方にしても、先進国からの学生は多く自費でしたし、それ以外の国からの学生にしてみれば、日本と中国の違いすらわからないといったものでしたから、どこの大学に分配されようとたいしたことはなかったのでしょう。その大学がどこの町にあるかが気になるくらいで。

 それに、日本から中国に来た若い人の多くは、親が中国との間で関係があり、それで中国へやらされたという人たちです。中には、「語言学院」にいる間は、「田舎(北京のことです)」で我慢したけれども、大学は、『香港』に近い『広州』に行きたい。それなのに、『北京大学』に分配された。これでは遊べない。何もないところで四年間も過ごすのは嫌だ」と、騒いでいる若い人もいました。

 今では、「へえ~。北京が何もない……?田舎……?」と思われるかもしれませんが、当時は、夜8時を過ぎたら、食べ物屋も閉まってしまいますし、まず第一、街が真っ暗になってしまいます。イルミネーションが、チカチカついているのは、公安部だけという有様でした。しかも、外国人と話す中国人は、チェックされてしまいますから、気軽に話しかけるわけにもいきませんでした。それに何より、外国人に話しかけてくるような中国人(外国語を学んでいる人以外)は、胡散臭い中国人が多かったのです。
 
 ただ、それは、当時、「中国」だけとは限りませんでした。「共産圏」と呼ばれる地域や国では、だいたい似たようなものだったでしょう。前に旅行で行ったことのある「東ベルリン」でも、どう見ても怪しいと思われた、厳つい男性に、(ドルに替えてくれ)と路上で話しかけられ、一目散に逃げたことがありましたし。

 「中国」へ留学した外国人のうち、大半の人はそれなりに適応し、無事に二年間を過ごして、それぞれの大学へ分配されていたようでしたが、中には、そういう窒息しそうな「中国」に馴染めず、事件を起こす人もいました。また、「日本」をはじめ、自由主義圏から来ていた学生たちは、自国と「中国」との自由度の温度差に気づかず、虎の尾を踏んでしまった人もいました。日本では、普通のことでも、中国では「タブー」視されるということが少なくなかったのです。今でも、中国はインターネットなどにおいても、自由度がかなり低いと言えましょうが、当時はそれどころではなかったのです。世界(日本や自由主義国、つまり先進国)での常識は、中国においては、非常識としか見られていなかった時代でしたから。

 日本の大使館は、自国の私費留学生には親切ではないという評判でしたが、ほとんどの国が北京に大使館がありましたから、何か大学で問題が起こると、すぐに大使館員がすっ飛んで来ていました。宗教や民族、そして政治的な対立、そういうものを抱えて来ていた留学生も少なくなかったのです。揉め事が起これば、すぐに国と国、民族と民族、宗教と宗教の対立になってしまいます。それを鎮める作業を「語言学院」の教師も、また「公安部」の人たちもしなければならなかったのですから、大変だったはずです。もうそれは、「中国がどうだから、外国人に問題が起こった」というのではなく、たまたま「対立していた者同士が、中国で近くに住んでしまった。それで、緊張が高まった」ということだったのです。

 日本人などは、民族問題にも疎いですし、宗教問題に対しても、それほどの主張があるわけではありません(そうじゃない人もいますが)。これは随分前の話ですが、知り合いのおじいさん(80才を過ぎていました)が悩んでいるので、訳を訊くと、「わしが死んだら、どの宗派で葬式をしたらいいのだろうと困っている」と言うのです。怪訝な顔をしていると、「実は、いろいろな宗教の人が来て『入ってくれ、入ってくれ』と言う。つきあいがあるから、無碍には断れない。それで『いいよ。いいよ。入ってあげるよ』と言っているうちに、どうも、それが三十か四十くらいになったらしい。わしが死んだら、『うちの宗派で葬式をあげてくれ』と皆が来るだろうから、長男が困ると言う。葬式用の宗派を決めてから死んでくれと言うのじゃ。困った。困った」。

 「(日本人は)無宗教」とは言えないでしょうが、また「宗教心」が特にあるとも言えず、そういう日本人から見れば、それ(宗教)に命をかけるということなど、全く理解できません。馬鹿な私は、「(みんな)友達でしょう。友達が大切にしているものは、あなたも大切にするでしょう。友達が大切にしている神様なら、あなたも大切にしたほうがいいんじゃありませんか。拝む必要はないけれど、『友達の神様、こんにちは』くらいは言えないの」なんて言って、睨み付けられたことがありましたっけ。

 とはいえ、一年、乃至二年を、無事にやり過ごせば、あとは分配された大学でうまくやっていけたでしょう。先生方や公安部の苦労の賜物です。問題が起きた時には、時に大使館の職員も交え、その都度、(大学の)公安部の人が根気よく話し合っていましたから。ただ、こういう公安部の人たちは、普段はやさしいのですが、腕っ節だけは強そうでした。またそうでなければ、体格のよい大きな人たちと互角にやり合えはしなかったでしょう。国や宗教の問題が絡んでくると、いつの間にか「一大学」での問題では済まなくなってしまいます。あっという間に、それぞれの陣営(?)の人数は膨れあがります。それぞれに人を集めるのです。そして、北京在住の関係者が何十人も駆けつけて、メンツをかけての闘いになるのです。物騒なことですが。

そうならないためにも、何事も最初が肝心なのです。

 人は「適応」するためには時間がかかります。それに「適応」させていくには、順を踏んでやっていかなければなりません。その「いろは」を持っている大学ならばいいのですが、ただ(大学の別科で)、日本語を教えればいいくらいしか考えていない大学であったら、学生に取って悲惨なことになってしまいます。生活指導を疎かにしてはならないのです。また、勉強に関しても、その人は母国でのレベルで、(大学へは入れても)勝負しなければなりません。これは「途上国」や中国のような「中進国」から来た人にとっては、圧倒的に不利なのです。しかも、大学は休みが多いのです。授業があっても、一日中、日本語で明け暮れすると言うわけでもありませんし、「留学生試験」のために、さまざまな科目の勉強までさせるとか、「大学入試」のために本人が専攻したいという「科目」の記事や本を選んで読ませておくといったことまでしてくれるはしないでしょう。「途上国」や「中進国」から来た人たちには、大学進学前に、日本でいうところの一般教養めいたものを入れておいた方がいいのです。

 私は中国へ行った時に、本屋で「考」受験のための問題集などを買って読んでみたことがあるのですが、それほど内容(文系)が劣っているとは思えませんでした。それなのに、どうして、知らないのだろう、わからないだろうと思っていたのです。「考」の平均点が全国でも高い、福建省の進学校から来た学生であっても、驚くほど知識が乏しいのです。「知らない。私は理系だから」と本人は言うのですが、「理系」とか「文系」とか別れる前の、いわば、中学レベルの知識なのです。

 その理由はいくつか考えられるでしょうが、まず日本と比べて、圧倒的に情報の量が少ない。少なすぎるのです。自国のことでさえ知りません。日本では、普通のテレビで(もちろん、俗悪な番組もたくさんありますが、そんなものは見なければいいのであって、親が考えれば済むことです)、一般教養的な知識を身につけられる番組が、日常的に流れています。ですから、幼子であろうが、大人であろうが、好きなら、それを一日中眺めていればいいのです。それは知らず知らずのうちに、身につき、知識となります。

 多分、中国では、それが日常的にはないのでしょう。故に、学校で、「詰め込んでも」、イメージが膨らみません。また、故に、想像力が湧かないのです。当然、あこがれとか、それに対する想いとかへも発展したりはしないでしょう。それ故、金太郎飴で、「自分の国はすばらしい」で終わってしまうのです。世界には他に、もっともっとすばらしい雄大な自然(これは言い方がおかしいですね。自然は、たとえ、路上の小さな花であっても宇宙を映すことができるのですから、それだけで、すばらしいのであって、自然に上下などはありません)や、面白い歴史があるというのに。それを、習って知っても、頭だけで終わってしまって、「物語」が紡げないのです。そういう素質がある子も少なくないというのに。結局は、「科挙」の試験のように、丸暗記で終わりなのでしょう。

そうなってしまいますと、その知識を基に発展させて、さらに研究を深めていく云々など、夢のまた夢になってしまいます。残念ですが、本来、これらは、自国の国民のレベルを上げるために、それぞれの国で行わなければならないことです。そうするのが、あるときは政府であったり、あるときは、その国や他国の、(民間の)マスコミであったりするのですが…。世界では三権分立ではなく、四つの権力があると言われるくらい、マスコミの力は強いのです。人々を啓発し、導いていくべく努力する責任があると思うのですが、そのかれらの力の半分は、現代においては、「映像による力」なのです。

 人文科学、社会科学、また自然科学などの分野において、人々が必要であろうという知識、或いは思想、或いは意見を常に与え続けることが、その存在の理由となっているはずです。ただ、これらは、あくまでも自分を成長させていく上での基礎なのです。これらの基礎があって初めて、人は考えることができるし、その人の意見を他の人が聴いてくれるのです。得手勝手なことを言っていれば、「この人、何か馬鹿なこと言っているよ」で終わり。だれもその人の意見なんて聴いてくれないでしょう。もちろん、その人と同じ国の人間は別です。同じようなものなのですから。

日々是好日
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「春の草花」。「仕事をする上での『勘』と『経験』」。

2010-04-21 08:55:53 | 日本語の授業
 今朝、久しぶりに以前「ツクシ(土筆)」が生えていたところを覗いてみました。すると、スギナの子は、立派なスギナになっておりました。緑がワサワサと生え太っているという感じで駐車場の四隅を覆っていたのです。

 春先は(今年のように寒暖は定まらぬとはいえ)、雨が長雨の形で降り続きますから、草木にとっては、それこそ「うれしい」の一言に尽きましょう。精一杯背伸びをしながら、大きな口を開けて、そして、のどを鳴らしながら慈雨を呑み込め、その柔らかな滴りを全身で受け止めていることでしょう。

 ということで、辺りを見回しますと、ありましたす、ありました、「スミレ」の花が、いつの間にか、あちこちに花開いて、風に揺れています。それから、「タンポポ」だの、「オドリコソウ」だの春の草花が花を咲かせて大地を明るく染めています。他にもよく見ていますと、「ホトケノザ」、「キランソウ」、「ナズナ」…名乗りを上げた花々は、春の光に照らされて輝いているように見えます。「ドクダミ」も葉を茂らせ始めましたから、あと一ヶ月もすれば、名に似合わぬ可憐な花を咲かせることでしょう。

 毎年のように「異常気象だ。天変地異だ」と叫ばれるようになってから、随分経つような気がします。「昨日斯くてありけり。今日も斯くありなむ。そして明日も…」というのが、「日本の四季である」と、現代人たる皆が、内心で、思い信じてきたことなのですが、この「信仰」をもう一度ふり返る必要があるのではありますまいか。

 もしかしたら、それは「大きな勘違い」であったと、「科学技術」がこのように発達する前は、皆、そうまでアタフタとしてはいなかったのではないか、そしてそれは無知なるが故ではなかったのではないかと。「今年は暑いね」で、ゲタを「神様」に預けていたし、その方が一般大衆はいいのではないかと。現代人もそれでいいのではないかと。毎年、違うことこそ本当なのだとそろそろ思い至らねばならぬのかもしれません。

 ふり返ってみますと、毎年のように、それぞれの時期に、同じように樹々も草花も花をつけ、そして実をならせ、種を落とし、散っています。寒暖の差がわずかなりとも大きければ、慌てふためき、おめき回り、それを受け入れることができなくなっているのは、現代人だけではないのかと。

 「自然科学」が発達して、「謎」が、数多、解明されたということもありましょう。また(データで比較ができますから)、今までは「体で感じる」ことしかできなかった分野でも、データを基に、それぞれの考え方を主張することができます。その上、インターネットの時代です。素人でも、それを垣間見ることができますし、それらに対する解説書も数え切れないほど出版されています。それで、いつの間にか「科学教」が幅をきかせるようになってしまったのでしょう。

 ところが一転して、「動物」たちを見てみますと、自分の「本能」を信じて活動しているかに見えるから不思議です。自分自身も「動物」の類に過ぎぬのに、かれらの、その「本能」を羨んでいる自分に驚いてしまいます。

 「教育」のような、「人」を対象にした仕事では特に、この「勘」とか「感じ」というのが大切になります。「勘」や「感じ」あっての、データなのです。それ故に「経験」というのが重んじられるのです。もっとも、これはどの仕事でも同じ。とはいえ、同じように、等閑にされるようになっています。

 本来、こういう(「勘」や「感じ」で、仕事をする)ことは、「教えられる」ようなことではありませんでした。そういう「素質」がある人間がいて、それ(ベテランの仕事)を見て、彼なりに会得すれば、すぐに現場で活かせたのです。それでも、新米は失敗します(これはどのような仕事でも同じです。当たり前の事で、恥ずかしいことでも何でもありません。最初っからできると考えている方が、夜郎自大で愚かなのです)。ただ、「見る」ことの必要性を理解できない人が多くなったというのは事実でしょう。

 これは、「どう見ていいか」が、わからないのです。

 自分の例を出して恐縮ですが、私とても同じです。今、ここ(学校)で、大きな面をしていますが、それとても、もとの分野に戻ったからであって、他(他の分野の職業)へ行ったらそういうことはできません。必死で、一から勉強を始めます。またそうすべきであるというのが、日本人の考え方です。

 実際、中国で、全く別の仕事をしたことがあるのですが、その時は、何をしたらいいかだれも教えてくれないので(そのままでいいとしか言われなかったのです。それでは、自分なりの方向も方針も立てられませんし、自分ができる領域というのも考えられません)それこそ、三ヶ月間は、それまで馬鹿にしていたような分野の本や新聞、雑誌ばかりを集中的に読んでいました。好きとか嫌いとかに拘わらず、どこかで何かが、自分のアンテナに引っかかるかもしれないと思ったのです。少なくとも、最初の三ヶ月間は、自分がそれまで関係してきた、いわゆる「教師としての嗅覚」は役立ちませんでしたから。
 ただ、三ヶ月間の労苦は、やはり報われました。その間の試行錯誤があったからこそ、気持ちの整理も、ある程度、現場を見渡せることもできたのだと思います。

 今の仕事は、多少対象は異なりますが、おなじ教育関係の仕事です。いわば古巣へ戻ったようなものです。学生さえいれば、だいたい、どのように教えていけばいいかわかるからです、勘はありますから。どのような学生であれ、勘で、一つやらせてみる、そして、それがだめなら、また別のことをやらせてみるという風にいくつも相手に応じた対策が立てられるからです。この(教育という)分野でいえば、引き出しが多いのです。

 だから、はっきりいうと、今は大きな顔をしています。だいたいのことにおいては、動じずに済むのです。全く違う分野へ行けば、まず、何をすればいいのかがわかりませんし、その中で、皆が規則正しく動いていれば(まだ組織の歯車になれませんから)、皆が自分より一等上の人間のように見えてしまいます。

 ただ、この仕事にしても、「日本語能力試験」だけなら、手持ちの知識や技術でどうにかなるのですが、最近は、それだけではとてもとても足りません。大学や大学院へ行きたいという人のために、「留学生試験」の「総合」や、「大学院」の専門分野に関する知識なども必要になっているのです。

 まあ、一生、勉強ですね。仕事の上で、そういう機会が与えられていることはある意味ではありがたいことです。ですから、うんと勉強したいという学生や、外国人があまりは入れない大学へ行きたいという学生を、心から歓迎します。私も、便乗して勉強できますから。

日々是好日
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「『初級Ⅰ』クラス、若いクラス」。「『やり直す』ということ」。

2010-04-20 09:16:42 | 日本語の授業
 ハナミズキの樹に花がつき始めました。桜が散ったと思ったら、今度は街路樹のハナミズキです。日かげのハナミズキにも新芽が出始めたことに気づいたのは、つい先日のことでしたのに。それが、今や可愛らしい赤い花をつけたのやら、白っぽいのやら。俄然、町は動脈たる道路を中心に華やかになり始めました。

 この花は樹本体に、浮遊感がありますから、見ているだけで、人を不思議な気持ちにさせてくれます。とは言いながら、とは言いながらですね、私はあまり「洋物」の花は好まないのですが…。

 さて、学校です。

 『初級Ⅰ』クラスでは、昨日から「カタカナ」に入りました。やはり「ひらがな」の時に比べると、読み上げる声は小さくなったようです。在日の方の中には、「ひらがな」はやった(練習した)けれども、「カタカナ」は……という方が何人かいらっしゃいましたから、それも当然なのですが。

 この『初級Ⅰ』のクラス、つまり、『Dクラス』は、他のクラスに比べて、かなり平均年齢が若いのです。高校を卒業して、一年か二年くらいの学生が大半を占めています、その中に、大卒の学生や在日の25才くらいの人がチラホラ。というわけで、だいたいは素直に言われたとおりに勉強しています。そして、昨日は、その「若いクラス」に、一ヶ月だけ日本語を勉強したいということで、二人、更に若いタイ人の少女が加わりました。姉妹で、姉は17才(高校生)妹は、11才(小学生)です。ちょうどお正月でお休みなので、日本へ来た、そのついでに日本語を勉強させたいというご両親の意志なのでしょう。

 この学校では、一年に四回「学生募集」をかけていますから、一年に四回「やり直しのチャンス」があることになります。この『初級Ⅰ』クラスの学生、13人のうち、二人が去年の「10月生」のクラスから来ています。私たちにしてみれば、「わからないのにクラスに残っても意味がない。もう一度やりなおした方が本人のためになる」と考えてのことなのですが、これが当人には通じないのです。「どうして?私はできている(彼らは、カンニングをしようがどうしようが、表面的に胡塗できればそれで、うまくやり過ごせるはずだと思っているようなのです)のに」

 当然のことですが、一人でやらせれば、できませんし。それよりも何よりも、まず第一に、自分ができていないことがわからないようなのです。現に『初級Ⅰ』の最初の部分、「疑問詞」のところでつっかえ、「四月生」に「どうして」と驚かれています。

 これは(かれらの国を貶めるつもりは全くないのですが)、これまでの母国での習慣という以外に理解のしようがないのです。日本では、(日本にも教育に関するいろいろな問題はありますが)学校の勉強が苦手という学生でも、そのことは知っていますし、またカンニングが悪いということも知っています。日本に来て勉強をする場合(日本ではそれが常識ですから)、このことが、ストンと腹の底に収まっていないと大きな障害になるのです。なんとなれば、彼らは観光ではなく、勉強のために来ているのですから。

 多分、わかってもわからなくても、(母国では、教室のいすに座って、何時間かをやり過ごせば、そして)テストの時には(隣近所のだれかの)答案を写せば、事足りていたのでしょう。それが、「あなたはここが理解できていないから、もう一度やった方がいい」と言われても、(そうしたほうが速く上手になるという考え方もありませんから)それがいったいどういう意味なのかわからないのです。

 それがわからなければ、そして身につかなければ、日本での大学受験や会社就職はさらに遠のくと思うのですが…。

日々是好日
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「自習室の過ごし方」。「『現代中国語』が判ることと、『古典』が判ること」。

2010-04-19 17:59:53 | 日本語の授業
 桜の花が散ってしまいますと、景色も落ち着いてくるようです。道ばたの処々に、今でも桜の花びらが溜まり残っているのですが、それが時折、風に煽られて、コトコトと走っていくのです。まるで「羽アリ」かなんぞのような、その光景に、「命なりけり」と見とれてしまうことがあります。

 「樹」という、いままでその命を育んできた母胎から、すでに遠く隔たっているにもかかわらず、まだしっかりと生きているのです。「樹」と「人」も、もともと、遺伝子の段階では一つ家族のようなものですから、なおさらにそれを感じてしまうのでしょうか。

 最近は、えさをねだって羽根を振るわせている小鳥達を、よく見かけるようになりました。それは、可愛らしい「子雀」であったり、憎たらしげに大きい「子鴉」であったりするのですが、じっと見ているうちに、どちらもたいして変わりがないように見えてくるから不思議です。「子カラス」でも「子スズメ」でもかわいいのです、かれらの仕草や表情が。

 「幼子」というものは、人に限らず、「犬」「猫」でも、「スズメ」「鴉」でも、また、「虫」「魚」であろうとも、「草」「花」であろうとも、生き物の本能に訴えて、守ってもらうようにできてでもいるのでしょうか。その本能というのも、生き物すべてに共通する、原始的で、深いところにあるものだと思います。

 さて、学校です。

 今までは、「午前のクラス」の学生達が、「午後、アルバイトが始まるまで自習室に残っている」の図、だったのですが、この四月から、少々様変わりしてきました。「午後のクラス(Aクラス)」の学生達が、午前に来て、自習室で勉強するようになったのです。

 ただ、去年の、午後、残っていた学生達は、同じことを勉強しているように見受けられたのですが、今年の自習室組は、それとは違うようです。

 つまり、以前は、一人がわからないことがあると、それを他の者に聞き、そして、みんなで一緒に考えていたようなのです。それで、教員が質問を受けに行った時、質問した人だけでなく、皆がその答えを待っている(そんな表情だったのです)ようにみえたのですが、今年の「午後のクラス」の学生達は違います。皆、勝手に、一人ひとりが自分の事をしているのです。これも、今年の「Aクラス」の学生たちが、大卒者が多いということも関係しているでしょう。勉強中も静かですし(去年は、よく途中で、「静かにしなさい」と叱りにいったものでした。勉強もするけれども、おしゃべりもよくしていたのです。何カ国かの学生が残っていましたし)。

 朝、ちょっと覗いてみても、ある者は、インターネットを使い、ヒヤリングの練習をしていますし、また、ある者は「中級から学ぶ日本語」を復習しています。ある者は屋上へ行って「読みの練習」をしていましすし、また、ある者は「ディクテーション」に備えて、本文を書き写しています……。

 質問も個人で行います。一人が聞いても、それが全体の質問とはならずに、「個」レベルで終わってしまうのです。ですから、下手をすると同じ質問を他の者がするということにもなりかねません。同じ自習室にいながら、教師と質問した学生との問答を、あまり聞いてはいないようなのです。

 この四月から、現「Aクラス」に、(だいたい「二級」レベルであるということで)内モンゴルからの学生が二人、入ったのですが、どうも「上級の教科書」を勉強するよりも、その前の、基本的なことに問題が見られるようなのです。例えば、「ひらがな」の字の間違いであったり、正確に「聞き取り、書き写す」といった基本的な作業ができていないといったことなのですが。しかしながら、すでに、五年或いは六年の間、母国でそういう状態で来ていますから、本人にしてみれば、今更そう言われても、と言うところなのでしょう。

 話すことは話せます。かなり流暢に話せると言ってもいいでしょう。ところが、「上級」の教科書の中に出て来るような(もう、上級ですから、日常会話というわけにはいきません)「環境問題」や「冤罪」、また「クローン」や「経済」などの概念が、「単語」として、どうもうまく受け止められていないようなのです。

 「日本語」は彼らにとって外国語ですが、これまでは、「中国人」ということで、「書く文化圏」でひとまとめにしてきました。けれども、彼ら(特にモンゴル語で高校まで教育を受けた人たち)は、どうも、他の「非漢字圏」の学生と同じく「聞く文化圏」の人であるように見受けられるのです。

 そう言えば、初めて内モンゴルへ行った時に、その地区の民族系の短大へ行き、「日本語科」の学生たちに会ったことがあるのですが、その時に、軽く、いつも通りの口調で、「短大を卒業した学生は、「日本語能力試験」で「二級」、大学を卒業したなら、「一級」レベルで、留学して欲しい」と言ったのです(「漢族」や「朝鮮族」であれば、それはなんら過大な要求ではなかったものですから)。私は、「中国人である」としか、頭になかったものですから、そう言った(当時)のですが、それが大間違いであったことは、あとから(彼らが来日してから)わかりました。「モンゴル族」の人たちを、また「モンゴル語」で教育を受けてきた人たちを、「漢族」や「朝鮮族」と同じように考えてはいけなかったのです。その時も、彼らは一様に「ええっ」と大仰な声(私には、当時そう感じられたのです)をあげ、驚いていました。

 「モンゴル語」で教育を受けてきた彼らは、文法も単語も文化も「漢語圏」とは全く別系統で育ってきたと言っても過言ではないような気がするのです。彼らは現代「中国語」を話すことはできますし、中国の映画やテレビドラマを見て育っていますから、基本的には問題ないでしょう。日本人などは、現代「中国語」などは聴いても全然判りませんが、「春秋戦国時代」の書物や「唐宋八大家」の文章なら、見ればだいたいの意味はわかるのです。学校で勉強していますから。

 つまり、「日本人」や「韓国人」、或いは「朝鮮族」が、古来から「漢語」や「漢文化」の影響を受けてきたのとは違っているのです。実際に彼らが来日して、様子を見ているうちに、合点がいきました。一口に「中国人」とまとめてはいけなかったのです。言い切れない部分がかなりあるというということに気がついたのです。

 「内モンゴル」から来た学生は、短大出であったら「三級」、大学出であったら「二級」と考えて置いた方がよいのかもしれません。つまり、「ミャンマー」の学生と同じだと考えておいた方がいいのかもしれません。「ミャンマー」の大学の「日本語科」卒の学生は、だいたい「日本語能力試験」の「二級」に合格して来日していますから。

日々是好日
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「卒業生の訪問」。「大学での授業、『漢文』の素養、『日本史』の知識」。

2010-04-16 11:45:59 | 日本語の授業
 今朝も雨です。「サクラソウ(桜草)」も「パンジー」も雨に打たれて、震えています。

 10年近く前になるでしょうか、「桜」が咲いた頃に雪が降って、花びらの上にうっすらと積もったことがありました。その時ほどの寒さではないのですが、やはり、春の花は震えて見えます。春になったと、大喜びで背伸びをした途端、冬将軍に背後から狙われた…そんな図が想像されてしまいます。

 「啓蟄」は、すでに過ぎていますから、目覚めて活動を始めていた虫たちも驚いたことでしょう。今年は、暖かいというよりも、汗を掻くような、暑さの日も少なくはなかったのですが、一旦雨が降り出しますと、なかなか止まないのです。しかも、その雨は冷たいと決まっている…。そうは言いましても、「花冷え」や「菜種梅雨」などという言葉が残っていますから、昔からこういうことはあったのでしょう。が、「桜」が散ってから、こうも寒い日が続きますと、思わず天を仰いでしまいます。野菜が高騰し、イネの作付けもうまくいかないようですし。

 さて、学校では、卒業生がパラパラと顔を覗かせるようになりました。

 「オリエンテーション」が終わり、そろそろ「履修届」も出さなければなりません。授業開始から一週間は過ぎたでしょうから、それぞれの教科やら、先生方の話やら、いろいろと報告もあるのでしょう。が、それだけで来たのではないようです。いわゆる「SOS信号」…かな?

「先生、『訓読』ってなあに」「先生、『レ点』って?」「先生、ほかにも『記号』があるでしょう」
それから、
「先生、あれ、どう言ったっけ?あれ、『いろはにほへと、ちりぬる…』、ええっと、ええっと…勉強したよね。でも、全部覚えていない…」

 今年卒業した学生のうち、最後まで「Aクラス」で頑張れた人たちには、一応「日本語」授業の一環として、「古典」も短期間ではありましたが、入れました。ただ、覚えさせるとまでは至っていなかったのも事実です。「紹介」か、或いはせいぜい「入門」レベルに過ぎなかったのです。

 それで、大学で先生の講義を聴いている時に、「聞いたことはある…だが、はてさて…?」となったのでしょう。

 それに、『日本の歴史』も、(「奈良京都一泊旅行」に行きましたから、その時に)奈良(法隆寺や東大寺など)と、京都(金閣寺や清水寺など)に関する部分の歴史だけは、三日で、つまり大急ぎで入れました。ただ、そのほかの歴史(近現代は特に)は、勉強させるだけの時間がなかったのです。

一言付け加えておけば、この、日本史にしても、「産業革命」以前の世界史にしても、これらを教えた時には、半分卒業状態でした。卒業式が終わってからの、授業でもあったのです。勉強したいというから、こちらの付き合っただけで、覚える、来る来ないは本人の問題でした。もっとも、一日でも理由なく休めば、私は授業するのをやめていました。

 ところで、彼女が判らないと言って持ってきたのは、「第二次世界大戦に関する報告書」です。当時の外務官僚が、政府に提出した意見書とでも言うべきでしょうか。今と違い、当時の官僚たちは皆、大体において教養がありましたし、文筆家でもありましたから、漢文の素養を生かした文章を書きます。そこで「レ点」だの「訓読」だのといった言葉が先生の口から出てきたのでしょう。

 本人も、日本語学校で勉強したけれども、微かに覚えているといったくらいで、確とした記憶もなかったようで、それで、「ね、ね、先生。何だったっけ」となったのでしょう。私も、かれらの専門が、「日本史」でも「文学」でもなかったので、それほど注意させてはいなかったのです。「西洋史」の専攻ということで、大学に入ったのに、「そうか、日本史か…」というのが、私の実感だったのですが。

 とはいえ、一緒に読み進めていくうちに、だんだん目も口も慣れていくのがわかります。最初はどうも舌でも噛みそうな具合だったのですが、それが少しずつ滑らかになってきたのです。この分で行くと、二、三回も鍛えてもらっているうちに(毎週あると言っていましたから)、かなり読みこなせるようになるかもしれません。

 こういう文章は、日本人であれば、高校の時、「日本史」の授業で、参考資料として読んだ経験がありますし、「漢文」の授業も受けているので、それほどの抵抗感はないのですが、外国人ともなるとそうはいきません。読むように言われても、おいそれとは、はいそうですかとはいかないのです。しかしながら、先生にやっておくように言われたのに、できないのが嫌で、勉強しようと思って、学校へ戻ってきたのです。そして、一緒に読み進めた文章を、土日をかけて練習しようというのです。きっと努力は報われると思います。報われないはずがありません。

 このように、いい大学にいくと、大学に入ってからも大変です。(勉強に)ついて行けるだけのものは勉強させておいたつもりですが、わずか二年間で(かれらの場合は、7月生ですから、もっと短いのです)、「あれもやる、これもやっておく」というわけには参りません。私たちだけでなく、彼らが一番、この日本語学校での勉強期間が短かったということを実感しているに違いありません。本来なら、「日本史」や「文学(古典も含めて)」などに、半年ほどは欲しいところなのですが。

 もっとも、、一年間で「一級合格」、それから「留学生試験」に備え「世界史・地理・政治・経済・公民」などをやり、しかも「英語」までやり、「数学」などの復習までさせていれば、それだけでも、時間が足りません。「日本史」や「文学」などのために、半年は欲しいなんて、言えるものではありません。

日々是好日
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「『美』、『旬』、『運』」。「自習室での『勉強のし方』」。

2010-04-15 08:44:46 | 日本語の授業
「桜花(さくらばな) 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる道 まがふがに」   (在原業平)

「桜(の花)」が終わっても、心は、なかなか「桜(の花)」から離れられないようです。

 しかしながら、万人(日本では)に愛される「桜」はいいのですが、そういう「時期」を味わえない草木が数多あるというのも事実です。「美」であっても、あるいは「旬」の期を迎えていても、時代がそれをのぞんでいなければ、またそれを見い出せる人がいなければ、そのまま朽ち果ててしまうしかありません。

 身の不運を嘆いみても、そこには「いたずらに」という言葉がついて回ります。空しいだけです。誰を恨んでも始まりません。そのまま現実を受け入れて、それなりに静かに暮らしていくしかないのです。初めから、「余生の翳り」を帯びた人生になろうとも。

「琴となり 下駄になるのも 桐の運」  (林(はやし) 忠崇(ただちか))

という句があります。この句はどういうとらえ方をすればいいのでしょう。額面通りに捉えるのか、それともそこに別の価値を加えるのか。その、時々の自分の立場や境遇によって、とらえ方も違ってくるような気がします。

 ただ、そう言いましても、この句を作った人が、21才までは徳川家を支える(小藩であろうとも)由緒のある大名であり、しかも、負けるとわかったイクサに殉じた(殉じたといいましても、90才を過ぎるまでの天寿を全うしていますが、負けるとわかったイクサに殉じたわけです)人であったことを知れば、とらえ方も自ずと変わってくるでしょう。

 だいたい幕末には、多くの藩で、「倒幕」やら「勤王攘夷」やらが、声高に叫ばれていました。初めはそう唱える者はごく少数でしたから、彼らの加勢をする者の方が勇気がいったでしょう。けれども、時代はどんどん進んでいきます。幕府の脆さが暴かれてきますと、だれも朝敵にはなりたくないし、負けるとわかったイクサには参加したくないので(何といいましても、そのトップがすでに及び腰になっているのですから)、倒幕の勢いは一気に進んでいきます。

 日和見主義者たちが雪崩を打って、「倒幕」側についてしまったのです。「藩」のため、「主君」のためというのが、その言い訳の文句だったのでしょう。その時に、「藩主」の地位を捨て、一介の武人として「朝敵」の側にとび出していけるというのは、「暴虎馮河」的な気概がなければ出来るものではありません。血気盛んな21才くらいの若者であったとはいえ、明治期は、そのために一人「爵位」を与えられず、苦しい生活をしていたといいますから。

 当時、本気で(徒手空拳であろうとも)、徳川家を守ろうとした者がどれほどいたことでしょう。況んや裕福な暮らしをしていた大名においてをや。家来が反対するや否や、わずかな供を連れ、とび出して、信義を全うしたわけですから。賊軍と言われた徳川家のために。

 こういうものは、やれるだけやった人が、あるいはやれるだけやろうと誓った人が、初めて作れる句なのかもしれません。

 さて、学校では、新学期が始まって二日目が過ぎました。新しい学生達は初日に比べれば、授業の進め方などにも随分馴れたようです。呑み込みが速い人が多いのです。この一週間で、宿題や小テストなども少しずつ理解していけることでしょう。ただ、ペットボトルの捨て方や、ごみの持ち帰り、また自習室での過ごし方などは、これとは別に一つずつ教えていかねばなりますまい。

 特に「自習室」での過ごし方は、教えてやらねばなりません。高校を卒業したばかりの人たちは、だいたい、できないものです。たぶん、それができていれば、自分の国でも大学に入れたであろうし、来日しても、教師にため息をつかせるということはないでしょう。

 まず、「初級」のクラスは午前中ですので、昼ご飯を持って来なければなりません。自習室で食べたあとはそのまま、自分で勉強していきます。職員室へ行って、「CD」や「カード」を借りてきてもいいし、書くという作業を通して、文字や単語を覚えていってもいいのです。

 特に、こういう人たちは集中力に欠けているのです。すぐ飽きてしまってなかなか勉強が続きません。極端にいえば、最初は(学校に)いるだけでもいいのです。そのうちに少しずつ、この学校にいられるのも、わずか二年に過ぎないこと、勉強しなければならないことが山のようにあるということに気づくでしょう。何事もまず自覚できなければ始まりませんから。

 とにかく、この時期は覚えることがたくさんあります。耳がまだ、日本語に馴れていないので、知っていることを何度も聞くことが大切です。それに(自習室にいれば)、教師が空いている時間に覗けますから、その時に質問をすることもできます。そんなこんなで、家で勉強するよりも、ずっと能率が上がるのです。

これができていないと、二年目にとても困るのです。「言葉」のレベルだけは、「一級レベル(漢字圏)」や「二級レベル(非漢字圏)」になれても、下手をするとそれだけで終わってしまいます。日本人なら、同じ先進国で、大学や大学院に行こうというほどの気概を持っている人ならば、一応の知識はあります。けれども、中国や途上国では、それほどの知識が与えられていないのが普通ですから、新たにそれを獲得していかなければならないのです。

 二年目は、「大学」や「大学院」に行くための勉強、つまり、最初は「留学生試験」の「総合」などのための勉強、それが一通り終わると、次は「専門」のための勉強をしていきます。日本で大学院を目指す学生たちが、(彼らの国の)大学で書いたという「卒業論文」は、あまり役に立たないのです(けれども、教授に見せないわけにはいきません)。レベルは、日本の大学での学期末試験のための「レポート」くらいのものでしかありませんから、あらたにそれらに関する知識も仕入れていかねばならないのです。ただ、中国人の場合、漢字の問題がそれほどありませんので、日本語の(専門分野に関する)入門書などを読んでいくことによって知識をある程度入れることはできます。そうしておかせねば、大学院の先生に会いにいっても、なにも話すことができません。

 まずは、一歩一歩から。これまでの経験からいうと、二歩進んで三歩下がるようなことも、時としては繰り返しながら、やっていかなければならないでしょう。

日々是好日
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「いろいろ草の緑」。「卒業生の報告」。

2010-04-14 07:59:50 | 日本語の授業
 一昨日が雨だったので、自転車を学校に置いて帰りました。そして、昨日、いざ帰ろうと(自転車の)カギを捜すと、それがどこにもないのです。どうも、どこへやらに落としてしまったらしい。というわけで、今朝も、歩いてやって来ました。

 歩くと、(特に、この春先は)いろいろな発見があります。先日は「ツクシ(土筆)」の坊やを見つけましたし。今日は、昨日見かけた「ヤエザクラ(八重桜)」に驚かされました。昨日の朝、見かけた時には、まだほとんどが蕾で、しかも固い蕾であったのに、今朝はもう四分咲きになっていたのです。わずか一日で、かくも盛りに近づこうとは。全く、自然の営みの速さに、人の心は追いつこうとしても追いつけるものではありません。

 「サクラ(桜)」の花も、今年は開花してから寒さが続きましたので、花見の時期が長かった…とは世上の噂。確かにそうでした。三月の末頃、もう満開の桜は、今年は見られないのではないかとハラハラ、ドキドキさせられましたのに、北京から戻ってきて(4月5日)も、まだしっかりと咲いていました。そのうえ、四月の中旬に入っても、だなかなか散ろうとはしていなかったのです。

 とは言うものの、「サクラ」の盛りは過ぎました。「サクラ」が終われば、次の見所は、木々の新芽です。木々の新芽があちらこちらで芽吹きはじめました。こ言葉を換えて言えば、「サクラ」の「妖艶な世界」から、「鮮やかな(新緑の)世界」へと移行しているのです。

「木々おのおの 名乗り出でたる 木の芽哉」  (小林一茶)

 さて、それでは、学校です。

 昨日は、新入生たちがそれぞれのクラスで勉強をはじめました。「初級Ⅰ」の最初(「あいうえお」)からはじめる学生達(4級レベル)は、まだいいのですが、中国で(「日本語能力試験・二級」程度)、やって来た学生達は、まず、「日本語能力試験」で、レベルを測ってみます。「その成績」プラス、「本人の希望」プラス、「教師の判断」で、クラスを決めます。

 こういう試験でいい成績を取れても、基礎ができていないから、「初級」からやりたいという学生や、四分野(読む・書く・聞く・話す)に大きな偏りがある学生もいます。そういう場合には、「クラス」の授業時間が重ならなければ、「午前のクラス」と「午後のクラス」の両方(教師が許す範囲、或いは期間)で、授業を受けるということもあります。

 これは、学生にとって、簡単なことではありません。午前9時から、昼ご飯を挟んで、午後の4時45分まで、集中力が続くかというと、そういうわけでもなく、なかなかに難しいのです。往々にして、どちらかのクラスで手を抜くということになってしまいます。その時には、即中止です。自分のクラスに戻らせて、ほかのクラスの授業は受けさせません。

 ところで、昨日、どういう風に誘われて来たのか、「オシャマサン」の一人が、久しぶりに学校へやって来ました(久しぶりと言いましても、三月の末頃まで来ていましたっけ)。もう「楽しい。楽しい」の連発です。聞いているこちらの心までウキウキしてきます。とはいえ、だんだん「よかった。よかった」から、小声での「どすこい、どすこい」に変わって来ます。本当に「イノシシ」の風…というのは、相変わらずなのです。猪突猛進なんだから…。

 「先生、『明治学院大学』は、とてもいい大学です。みんなとても親切です。勉強もとても面白いです。ええ、先生、本当にいい大学です。私は、大学へ行きたいという学生には、この大学を勧めます」と、シンから思っているのでしょう、天真爛漫に言っていました。が、残念なことに、誰でも入れるという大学ではないのです。実際のところ、(彼女のように、日本語を始めてから)わずか二年にも満たない期間で、合格できるような大学ではないのです。しかも、興味深いことに、あれだけ苦しんで勉強した本人が、そのことをケロリと忘れているのですから。本当に何という子でしょう。

 人というものは、苦しかったことはすぐに忘れてしまえるようですし、幸せな今だけを、常に見つめられるようにできているのでしょう。入試の時、さんざん面接で苦しめられて、半べそで帰ってきたことなどすっかり忘れているのです。

 「(大学の)オリエンテーション」の報告から、冴えていました。初めて声をかけてくれたのが、関西の女の子だったようで、「関西弁は難しい」。けれども、そこは勘と度胸で乗り切って、いろいろ話した末に、さて「出身は?」と問われて、「中国から」と答えると、相手が絶句していたとか。後ろの席で、「この大学には何人か留学生がいるみたいよ」。「へえ、どの人だろうね」と囁きあっているのを聞いて、思わず「私です」と言ってしまいそうになったとか。そして今は、知り合った学生達がみんな、どこでも声をかけてくれるので(つまり、バスの中であろうが、道の真ん中であろうが)、少し恥ずかしい。それでできるだけ知らん顔をして通り過ぎてしまうとか。

 それから、もちろん、授業の事も話していました。教室では一番前の席に座っていること。この学校でも出席率は100%でしたから、大学でも100%で頑張るのだと決めているということ。どの講義もとてもおもしろい。日本語の授業の時に、「あなたは漢字がわかりますか」と聞かれて、笑ったということ。話は後から後から湧いてくるようで、「もう、うるさいから帰れ」と言われるまでは、話し続けていました。

 でも、よかったですね。大学に合格したという通知が届いても、(卒業後の、三月中旬の「奈良・京都旅行」まで)毎日学校に勉強に来ていたことが、今、役に立っているのだと思います。特に、英語の勉強は大変でした。担当の先生が教えてくれるのですが、覚えられるかどうかは本人の努力によります。毎朝、授業の一時間前にはきて勉強していたのですが、読解は難しかったようです。とはいえ、英語だけに集中するわけにもいきません。

 中国から来ている学生には、「世界史」や「時事的な部分」に大きな欠落部分があります。おまけに政治体制が違うので、日本をはじめ欧米の経済や経営のしくみ、思想がわかりません。それらを、大学に入るまでに、ある程度、埋めておかねばならないのです。授業は卒業後も、二時間ほど、世界史の授業を続けました。旅行前は日本史になりましたし。それに、個人の勉強として、彼女の場合は「国際経営」でしたから、それに関する資料も読んでおかねばなりません。なにも知らなければ、大学に入ってから困ります。

 というわけで、最後にはもう英語は一時中断して、専攻科目一筋に勉強を進めていたのです。が、それが結局、大学に入ってから、「あっ。これ、知ってる。読んだことある」と畏れを知らずに突き進むことができる自信に繋がったのでしょう。毎日のように、担当教員に新聞の切り抜きや雑誌の一部分、或いは本をもらい、それを要約するという課題が出されていましたから。この自信も当然のことです。

 しかしながら、今、こうやって、ウキウキしながら、「とても楽しい」と言いに来てくれるのが何よりです…もっとも、少々うるさいのですけれども。

日々是好日
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「『柳』、『八重桜』、『菜種梅雨』、春の日本」。

2010-04-13 09:10:34 | 日本語の授業
 「サクラ(桜)」が終わると、次は「ヤナギ(柳)」。もっとも、「サクラ」には、まだ「ヤエザクラ(八重桜)」があります。「ヤエザクラ」は、「ソメイヨシノ」などに比べれば、少し遅く満開の時期を迎えます。満開になれば、昨日のように一日中、雨でも降ろうものなら、その重なり合った花びらの、一枚一枚に、水分をしっかり溜め込んで、陽に映えた時よりも、ずっとボッテリ見えてしまいます。それで、私たちは、あろうことか、高校生の頃、この美しい花を蔭で「ブタ桜」と読んでいたのですが。

 もっとも、こういう姿は、「花かんざし」としては、(明るく見えますから)適しているのでしょうけれど、なべて「サクラ」に求められる「はかなげな風情」など、どこをさがしたって見られませんから、常に「ヤエザクラ」は脇役ということになってしまいます。

 で、今年の「サクラ」は、もう終わりということで、「ヤナギ」です。

 「ヤナギ」と聞いて、すぐに浮かぶのは、啄木の
「やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺 目に見ゆ 泣けとごとくに」
でしょう。やるせない春です。川面に映るヤナギ影。これは郷愁の歌というよりも、傷つきやすい青年の心を、そのままに歌っているように思えるから不思議です。どこか、甘く、切ないのです。甘ちゃんの歌のように感じられるのです。青年期の剥き出しの心は、庇うものがないので、傷つきやすいのです。

 さて、学校です。

 昨日は、お昼から「入学式」でした。で、その前に、内モンゴルの学生と、ベトナムの学生を連れて、市役所へ「外国人登録証」と「国民健康保険」の手続きをしに行きました。その時に、ついでに、まだ「外国人登録証」の更新をしていないという在校生がいましたので、一緒に連れて行きます。

 この時も、ベトナム人学生が、なかなか来ないのです。来ないというか、まだ起きていないというか…、それで、同室の学生に電話をして、駅まで連れてきてもらいました。ところが、やって来た学生を見て、みんなで驚いてしまいました。ぱりっとしたスーツ姿なのです。寝起きという感じが全然しないのです。どうもおめかしに時間がかかったらしい…。入学式はお昼からですよ。

 この手続きに思いの外、時間がかかったのですが、その上、ベトナムの学生が、日本語も英語も駄目と言うことで、母国の住所が書けません。あわてて、学校へ連絡して、教えてもらうやらで大変でした。

 しかし、去年の学生達は、役に立ってくれますね。「外国人登録証」の手続きの時には、新入生のそばについてもらい、通訳やら、説明やらをお願いしました。それから、見ていると、新しく来た内モンゴルの学生が二人、日本語がほとんどわからないであるかのように見えるベトナム人学生に、一生懸命話しかけています。どうも、積極的に(無理矢理に)交流しようとしているらしいのです。あまりに二人が熱心に話しかけますので、ベトナム人学生のほうでも、何も言わぬではすまなくなったのでしょう。何やら答えているようです、日本語で。

 声こそ聞こえませんでしたが、口は開いていましたし、うなずきあっていました。こうやって少しずつ親しんでいくのでしょう。

 その帰りでのことです。シトシト雨の中を、(学校へと)戻っていると、突然、傘を打つ雨音が重くなりました。すると、内モンゴルの学生が「先生、梅雨ですね。毎日ずっと降るのですか」。なるほど、梅雨ですか。けれども残念ながら、これは、彼が知っている「梅雨」ではありません「菜種梅雨」と言いまして、「ナノハナ(菜の花)」が咲く頃に続く長雨なのです。彼が知っていた、夏の、酷暑の前に続く「梅雨」ではないのです。

 4月の初めに、フフホトへ行きました時も、私などには「ああ、ここには花もないし、樹々の緑もまだなのだ」と寂しく感じられたのですが、彼の地の人々からしてみれば、それは当然のことであり、なんの不思議もないことなのです。それどころか、逆に、日本は草花や木々の緑に溢れている国だとも見えるのでしょう。そして、おそらく、それを象徴するのが「雨」なのです。その「雨音」であり、その雨の「重さ」なのでしょう。いくら日本人が、(現状に)不満を持っていようとも、ああいう乾燥した大地に育った人たちから見れば、ここは緑の天国なのです。

 乾燥地から来た人たちばかりではありません。熱帯の国から来た人たちもそうでした。熱帯でも、思いの外、花は多くないのです。花どころか、木の種類もそれほど多くはないように見えました。人々が住んでいる所はそうなのです。どこかしら、だだっ広くて、日本の方が「色」に覆われているように思われました。だから、タイやベトナムから来た女学生が、「日本はきれい。花がたくさんある」と、散歩して民家の庭を覗くたびに言っていたのでしょう。

 もう一つ付け加えますと、日本の風は、この時期、特に柔らかく、しかもやさしいのです。南国で感じられるような、べとつくような、まとわりつくような熱気もありませんし。雨が降れば、多少寒くはなりますが、まだまだ風は、やさしいと言えます。

 これは、「フフホト」や「北京」から戻ってくれば、「成田(空港)」で、すぐにわかることです。外に出た途端、、柔らかい大気にくるまれて、ほうと落ち着くのです。それは、「春の季節に、日本へ戻った」ということを実感できる刹那でもあります。

 と、書き進めているうちに、外が随分明るくなりました。学生達も来始めました。また新しい学期が始まります。

日々是好日
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「金曜日、『内モンゴル』から、学生五名、到着」。

2010-04-12 07:51:33 | 日本語の授業
 三月の末から四月にかけては、桜に明け、そして桜に暮れてしまいます。それと気づかぬ間に、もう四月も中旬に入っていました。「桜祭り」も、東京あたりでは、この日曜日で終わりになったことでしょう。もちろん、まだ「葉桜」は楽しめますが、早咲きの「河津桜」や「枝垂れ桜」などは、もうすっかり花びらを散らしています。

 さて、今日は、いよいよ「入学式」。先週の金曜日に最後の学生達が来ましたから、今日は、全員揃っての「入学式」ということになります。

 彼らが着いた「金曜日」のことです。教員二名と、同じく「内モンゴル」から来た学生が五名、彼らを迎えに「成田」へ行きました。話では、中国から羽布団もひっさげてくる…とのことでしたから、どれほどの「荷物」になっているのか想像がつかなかったのです。で、内心ビクビクものでした。

 飛行機は「上海」経由で「成田」に着きます。旅客はかなり多かったようで、なかなか出てきません。予定時間を過ぎても連絡がないので、学校で待機していた私は、何事か起こったのではないかと少々心配になってきます。しかし、4時過ぎには無事に出会えたようで、今から戻るとの連絡がありました。「成田」から「行徳」まで、電車で、一時間半から二時間くらいかかります。今どきに来ますと、ちょうど「桜」を見ながらの「電車の旅」ということになります。

 「行徳」に着いたのは、もう6時をゆうに過ぎていました。疲れたかと聞くと、大丈夫と言います。まあ、どうせ土日と、二日間休めます。その間に疲れを癒したり、辺りを散歩しておいたりして、少しずつ日本に慣れておけます。

 日本では、まず「風」が違います。特に春は、間延びのしたおおどかな風です。厳しさの全くない…風とでも言えましょうか。ただし、春は、秋同様、お天気がコロコロ変わります。なめきっていると、大けがのもと。そういう「洗礼」を、これから受けていくことでしょう。

 実は、4月3日に彼らと会った時に、蒲団も持っていっていいかと訊かれていたのです。もとより、持ってこられるものなら持って来てくれた方が、こちらの手間が省けます。とはいえ、「蒲団まで持ってくるか…(大丈夫かな)」と気になっていたのです。

 それで、迎えの人数も来日する学生の数と同じ5名。それに二人、教員がつきます。私が駅で迎えた時、確かに荷物は多かった…けれども、心配したほどではありませんでした。羽布団はたためばグンと小さくなります。それに男手がありましたから、それほどの苦労はせずにドンドン運べたのでしょう。

 まず、それぞれの寮に連れて行き、荷物を置かせます。それから、学校に集合です。学校に行く途中、ちょっと寄り道をして、「駅前公園の桜」を見せてやります。学生の一人が、「お花見」について質問をした時、ちょうど公園の中ほどに「お花見」の一団を見つけました。「ほう、あれが『お花見』ですか」。「花見客」と言いましても、静かな人たちで、どんちゃん騒ぎをしているはずと思っていた学生は、少々当てが外れたかもしれません。まあ、少しずつですね。何事も少しずつ、少しずつ、日本に慣れていってください。

 学校につくと、順番に、父兄に「無事に着いた」と報告をしていきます。それからは、迎えに出た学生達が面倒をみてくれるようで、月曜日のことを注意してから、解散です。

 土日は、散歩がてら、桜を見たり、「野鳥の森」へ行ってみたりしてはどうかと言いますと、在校生が「私は知りません。先生、私たちには教えてくれなかったでしょう」とひねたことを言います。けれども、説明しているうちに、「ああ、知ってる。あれか」

 金曜日に間に合うようにと、教員が地図を作ってくれましたので、散歩も便利になったでしょう。地図があれば、一人でも出かけられますし、片言の日本語で日本人に話しかけることもできます。どちらにせよ、月曜日までは、自由ですから。

日々是好日
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「またまた『桜』」。

2010-04-09 08:21:40 | 日本語の授業
 昨日はいいお天気でしたけれども、寒かった…。やはり、暖房は「桜」の頃まで必要なのでしょう。今日も、まだ寒さは続いています。
 と言うわけで、引き続き「花寒」。そして、昨日とはうって変わって、今日は「花曇り」となっています。

 テレビからは、連日、朝から晩まで、「『桜』の生中継」と称するものが流れています。「桜」の樹は、また花もですが、下から見上げた方が美しいのです。それが、空からの中継ですから、ふわふわのクッションみたいなの(「桜」です)が、緑の山肌に貼り付いているという、不思議な図柄になってしまいます。どうしてこんなのが、流行り出したのでしょうね。

 もちろん、見せるのはいいけれど、延々とそれを続けるわけですから、すぐに見飽きてしまいます。「桜」の木の下に座り、ジッとそれを見つめているうちに、時間の経つのを忘れてしまうというのとは、全く違います。こういうのは、どうもいけませんね。

 「桜」を上から見ていいのは、「絵」の世界だけです。それは「天人」が、地上を鳥瞰するように、雲間から人の世のありさまを見ているの図というわけで、手法に過ぎぬのです。この場合は、あくまで「主」は「人」や「人の世の有様」であり、「桜」ではないのです。「桜」の愛で方としては、少々邪道のような気がします。

 「桜」は、どのような品種であれ、またどのような樹齢のものであれ、一木、一木、撫で擦るように愛でるべきものであると思います。「桜」を見たことのある人ならだれでも、(「桜」を)見つめているうちに、目の前の「樹木」から「樹木という実体」が消えていき、かわりに目に見えぬもの、何かの魂のようなものが現れてくるような錯覚に陥ったことがあるでしょう。この、代わりに見えてくるものというのは、あるときは、「はかない自分」であったり、「移ろいやすい世」であったりするのですが。

 こういう存在に対して、上から見下ろして、「きれいだ。きれいだ」と、おめき騒ぐようなことをしてはいけないのです。

 実は、今日、内モンゴルから五人の新入生が到着するということで、昨日から皆、天気予報に一喜一憂していました。せっかくですから、一年に一度のこの行事に間に合わせてやりたい。「桜」を見せてやりたい。暖かすぎれば、直ぐに(「桜」は)危うい状態になってしまいます。雨が降れば、(盛りを過ぎた「桜」は)滴に打たれて、枝に留まっていることなど出来なくなるでしょうし、風が吹いてもいけません。浮気な花びらは、風に誘われてひらひらと飛んでいってしまいます。

 私たちが、この五日に「北京」から戻った時も、この辺りの「桜」にはもう葉が出始めていました。とは言いましても、「葉桜」が美しくないというわけではありません。十二分に美しいのですが、それは「桜」の樹を、一から十まで愛でる習慣のある日本人にして言えることで、初めて日本で「桜」を見る人には、やはり満開の「桜」をみせてやりたいのです。

 ただ、念のため、付け加えて言いますが、本当のことを言えば、この葉の方がいいと言う人さえいるのです(いわゆる「桜の葉の『紅葉狩り』」です)。「モミジ」も、新緑の候、花が舞う頃、そして紅葉と何度も楽しめるのですが、「桜」の樹もそうなのです。花も楽しめますし、葉も楽しめます。花から葉へと移ろう頃(「葉桜」の候)も、またいいのです。それに、「桜」の葉にはいろいろな色があり、桜餅にちょうど良さそうな茶のものから、澄んだ緑のものまで、様々です。「桜」の花の色が、濃い赤や、ピンク、白、また黄や緑、と色とりどりなのと同じです。

 話はまた、この辺りの「桜」に戻ります。
 歩いていると、風もないのに、花が落ちてくることがあります。風と共に舞うのは花びらと相場は決まっていますのに…、不思議です。こうやって、丸ごとパサリと落ちてくるのも珍しい。ということで、見上げてみると、番のヒヨドリが何やらごそごそやっています。どうも蜜を吸うために、邪魔になる花を啄んで捨てているらしい。本当に無粋なヤツです。先には、可愛らしい「メジロ」を追い回していましたし。

 とはいえ、確かに、今年も「桜」は盛りを過ぎています。道にも、また緑苔の上にも、川面にも、そして人々の上にも、花びらは一片一片、静かに落ちていきます。今年の春も「過ぎ去りぬ」と日本人が感じるのはこういう時でしょう。「時間」が去っていくのが、目に見えてくるのです。
『閑吟集』にも、

「散らであれかし 桜花(さくらばな) 散れかし 口と花心(はなごころ)」
「くすむ人は見られぬ 夢の夢の 夢の世を うつつ顔して」
「何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂へ」
「憂きも一時(ひととき) 嬉しきも 思ひ覚ませば 夢候よ 酔い候え 踊り候え」

 「夢」と言えば「桜」。「桜」は「現(うつつ)」の対義語であるような気さえしてきます。特に「夜桜」は妖しい。あの世に片足をつっこんでいる時に見るのは、もしかしたらこのような色なのかもしれません。世に「美」と称されるものは多々あれど、「魅入られそうな『美』」というのは、多分、「桜」の花に尽きるのではありますまいか。

日々是好日 
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