涼しい風が吹き抜けています。まるで秋頃の、台風一過といった感じ。昨日、豪雨が休みなく続いたというのに、お空はまだまだ泣き足らないようで、今日も油断は出来ないそうな。とはいえ、朝はまだ降っていませんでしたから、安心して自転車で出勤しました。
私事ですが、部屋はまだまだ片付いていません。多分一ヶ月は見ておいた方がいいでしょう。考えてみれば不思議なことなのですけれども。大した荷物もないし、大きな部屋ももない。それなのに、どうしてなのでしょうね。部屋に戻っても、片付ける気にはならないのです。ぼんやりしています。
「勉強しろ」とか、「(寮の部屋を)片付けろ」とか言われても、それが、なかなか、できないでいる留学生達と同じ気分です。彼らは、学校での勉強に、そして、アルバイトにと、くたびれ果てているのです。一日の体力は、それで、消耗され尽くし、新しい課題が一つ増えただけでも、増えたということに(何もしなくても、その事実だけに)疲れを感じてしまうのでしょう。
本当にその通り。私の今の状態が、多分、それなのです。しかしながら、自分が出来なくとも、相手の状態がわかっていても、(教師というのは)言わねばならぬという責務がありますから、学生達には言いますが、全く、教師というのは因果な商売です。心では、学生たちに、非常に同情しています。あまりにわかりすぎるし、自分もそうですから。
ところで、一昨日のことです。家に帰ってから、空気の入れ換えとばかりに、窓を開けましたら、ちょうど蝉が飛び込んで来ようとしたところだったらしく、もろに蝉とぶつかってしまいました。もう蝉が鳴くような季節になっていたのです。
そういえば、気づかぬうちに、梅雨が明け、小中学校の夏休みに入り、猛暑が続いていましたっけ。
迂闊な話ですが、雨が降って急に(時間の)流れが途切れてしまうと、前のことをすっかり忘れてしまいます。覚えているのは、今のことだけ。ただ、これは子供の時からのことですから、個人的には気にしてはいませんが(周りはたまらないだろうとは思いますが)。
とはいえ、これはもう、いい年をしている私だから言えることであって、学生達はそういうわけには行きません。
実は、「上級で学ぶ日本語」が終わってから、あまりに彼らが20世紀の世界の情勢に疎いので、そのDVDを見せながら説明を加えていくつもりだったのです。休み時間の30分ほどを取り込んで。この30分というのは、形の上では休み時間となっていますが、この学校では基本的に休み時間は10分だけということにしています。
必要ならば、(その間に)個々に取るということにしているのです。「初級」「中級」までは、この30分を利用して、「非漢字圏」の学生、並びに中国でも、漢字を自分達の文字として学校教育を受けてこなかった人たちの漢字指導の時間に当てています。
それも、「初級」、「中級」の間は、それなりに流れていくのですが、「上級」ともなると、読み取れないのは、漢字がわからないからではなく、彼らに別の問題があるからだということがわかってきます。読み物の中に、かなり社会性を含んだ内容が出てくるのです。当然のことながら、普通は、さらりと流してしまいます。まだ「上級」レベルでは、こういう問題を扱っても、何語で話すかということにもなりかねませんから。そもそも、彼らには、それが問題であるということが、そして、なぜ問題になるのかということが、頭の中に無いのですから。
その上、そのころには、留学生試験が迫ってきますから、穴(彼らに欠如している部分)が、次々に発見されていきます。なぜなら、一応の常識、あるいは、世界の情勢が何故にこうなっているかについても、わかっていなければ、解けない問題もあるからです。
中国人の学生は、「斯くあった」ということは知っていても、その知識のほとんどは、試験用の「箇条書き」のようなもので、日本ではアニメーションやマンガで子供でも知っているようなヨーロッパ各国の関係というものさえ、かなり頭のよい学生たちの中にも入っていないのです。
もちろん、どの国にもそういうことに関心を持っていない人はたくさんいます。(その人達が知らないのは、別に気にならないのですが)そういう国際関係、また環境問題、社会問題などに強い関心を持っていながら、その流れのよって来たるところを知らないが故に、判断を誤ってしまう学生を見ていると、私の方が焦ってしまうのです。
というわけで、「世界史」、それも「近世」と言われる部分は、少し早めにやって置いた方がいいということで、「上級」が終わるとすぐに、「第一次世界大戦」の直前までを見せながら解説していったのですが(30分の休み時間を、つまり漢字の時間を利用して。上級が終わった後は、彼らには別に一こま漢字の時間を設けていますので、この時間がフリーになったのです)、同時に、授業では、「現代社会」に入っていました。
すると、この「科目」の時に、またボコボコと穴が噴き出してきたのです。「知らない」のです。知らなければ、知っていることを前提にして、語られている内容は入っていくはずがありません。
で、急遽、「世界史」を中断して、高校、或いは中学校で、現代の社会問題を認識させるために取り入れられているような方法をとることにしました。そうした方が、「南北問題」を語る上でも、「南南問題」、「ジェンダー」や「格差」。「異文化」を教えていく上でも、便宜上、役立つと感じたからです。
それと同時に、「白地図」の色塗りです。これは、私たちにとっては「幼稚園」「小学校」そして「中学校」と続いた、非常に親しいものです。ただ、この作業をすることによって、世界が広がってきたような感も、なきにしもあらずという、「遊び」兼「学習」の一環…なのですが、これを、今、少しずつ始めているのです。
まず、世界の白地図を用意します。一枚は世界、そして、ヨーロッパ、アフリカなどと地域によって分けたものを用意します。それからは、無理をせず、その日の授業で出て来た国を随時色分けしていきます。彼らは、どこだ、どこだとざわつきながら捜します。彼らの話を聞きながら、あまりに方向が違えば、ヒントは出します。中には、ヨーロッパの国なのに、南アメリカを見ていたりしている学生もいますから。しかし、これもまた面白い。みんなでそういう学生をからかいながら、私は、これらの国で、かつて、どんなことが起きたか、また今どういう状態にあるのかを、世間話のようにして語っていきます。時には学生の間から質問が出ることもありますし、学生が説明してくれることもあります。
相互に欠けていた知識を補完し合うということも大切で、知識を持っていた学生は、それを日本語で語ることによって、新たな単語を獲得していけるわけですから、全く無駄にはなりません。しかも、これは正規の授業内容というわけではありませんから、肩の凝らないものです。楽しんで色塗りをしながら、楽しく話したり聞いたりするだけのこと。忘れても良いのです。ただ、案外こう言った雑談というのは忘れられないもののようで、「授業で教えただろ」と、私がきつく言わなければならないもののことは、きれいさっぱりと脳裏から消えているのに、何かの折りに、「先生、あれ、この前話したでしょう」と言われることもあるのです。
私たちが、両親や周りの大人たち、また、友人やマスコミなどから、ごくごく自然に耳に入れていたこれらのことを、留学生達に語ってやる時間が、如何に大切であるかを、今、感じています。
日々是好日
私事ですが、部屋はまだまだ片付いていません。多分一ヶ月は見ておいた方がいいでしょう。考えてみれば不思議なことなのですけれども。大した荷物もないし、大きな部屋ももない。それなのに、どうしてなのでしょうね。部屋に戻っても、片付ける気にはならないのです。ぼんやりしています。
「勉強しろ」とか、「(寮の部屋を)片付けろ」とか言われても、それが、なかなか、できないでいる留学生達と同じ気分です。彼らは、学校での勉強に、そして、アルバイトにと、くたびれ果てているのです。一日の体力は、それで、消耗され尽くし、新しい課題が一つ増えただけでも、増えたということに(何もしなくても、その事実だけに)疲れを感じてしまうのでしょう。
本当にその通り。私の今の状態が、多分、それなのです。しかしながら、自分が出来なくとも、相手の状態がわかっていても、(教師というのは)言わねばならぬという責務がありますから、学生達には言いますが、全く、教師というのは因果な商売です。心では、学生たちに、非常に同情しています。あまりにわかりすぎるし、自分もそうですから。
ところで、一昨日のことです。家に帰ってから、空気の入れ換えとばかりに、窓を開けましたら、ちょうど蝉が飛び込んで来ようとしたところだったらしく、もろに蝉とぶつかってしまいました。もう蝉が鳴くような季節になっていたのです。
そういえば、気づかぬうちに、梅雨が明け、小中学校の夏休みに入り、猛暑が続いていましたっけ。
迂闊な話ですが、雨が降って急に(時間の)流れが途切れてしまうと、前のことをすっかり忘れてしまいます。覚えているのは、今のことだけ。ただ、これは子供の時からのことですから、個人的には気にしてはいませんが(周りはたまらないだろうとは思いますが)。
とはいえ、これはもう、いい年をしている私だから言えることであって、学生達はそういうわけには行きません。
実は、「上級で学ぶ日本語」が終わってから、あまりに彼らが20世紀の世界の情勢に疎いので、そのDVDを見せながら説明を加えていくつもりだったのです。休み時間の30分ほどを取り込んで。この30分というのは、形の上では休み時間となっていますが、この学校では基本的に休み時間は10分だけということにしています。
必要ならば、(その間に)個々に取るということにしているのです。「初級」「中級」までは、この30分を利用して、「非漢字圏」の学生、並びに中国でも、漢字を自分達の文字として学校教育を受けてこなかった人たちの漢字指導の時間に当てています。
それも、「初級」、「中級」の間は、それなりに流れていくのですが、「上級」ともなると、読み取れないのは、漢字がわからないからではなく、彼らに別の問題があるからだということがわかってきます。読み物の中に、かなり社会性を含んだ内容が出てくるのです。当然のことながら、普通は、さらりと流してしまいます。まだ「上級」レベルでは、こういう問題を扱っても、何語で話すかということにもなりかねませんから。そもそも、彼らには、それが問題であるということが、そして、なぜ問題になるのかということが、頭の中に無いのですから。
その上、そのころには、留学生試験が迫ってきますから、穴(彼らに欠如している部分)が、次々に発見されていきます。なぜなら、一応の常識、あるいは、世界の情勢が何故にこうなっているかについても、わかっていなければ、解けない問題もあるからです。
中国人の学生は、「斯くあった」ということは知っていても、その知識のほとんどは、試験用の「箇条書き」のようなもので、日本ではアニメーションやマンガで子供でも知っているようなヨーロッパ各国の関係というものさえ、かなり頭のよい学生たちの中にも入っていないのです。
もちろん、どの国にもそういうことに関心を持っていない人はたくさんいます。(その人達が知らないのは、別に気にならないのですが)そういう国際関係、また環境問題、社会問題などに強い関心を持っていながら、その流れのよって来たるところを知らないが故に、判断を誤ってしまう学生を見ていると、私の方が焦ってしまうのです。
というわけで、「世界史」、それも「近世」と言われる部分は、少し早めにやって置いた方がいいということで、「上級」が終わるとすぐに、「第一次世界大戦」の直前までを見せながら解説していったのですが(30分の休み時間を、つまり漢字の時間を利用して。上級が終わった後は、彼らには別に一こま漢字の時間を設けていますので、この時間がフリーになったのです)、同時に、授業では、「現代社会」に入っていました。
すると、この「科目」の時に、またボコボコと穴が噴き出してきたのです。「知らない」のです。知らなければ、知っていることを前提にして、語られている内容は入っていくはずがありません。
で、急遽、「世界史」を中断して、高校、或いは中学校で、現代の社会問題を認識させるために取り入れられているような方法をとることにしました。そうした方が、「南北問題」を語る上でも、「南南問題」、「ジェンダー」や「格差」。「異文化」を教えていく上でも、便宜上、役立つと感じたからです。
それと同時に、「白地図」の色塗りです。これは、私たちにとっては「幼稚園」「小学校」そして「中学校」と続いた、非常に親しいものです。ただ、この作業をすることによって、世界が広がってきたような感も、なきにしもあらずという、「遊び」兼「学習」の一環…なのですが、これを、今、少しずつ始めているのです。
まず、世界の白地図を用意します。一枚は世界、そして、ヨーロッパ、アフリカなどと地域によって分けたものを用意します。それからは、無理をせず、その日の授業で出て来た国を随時色分けしていきます。彼らは、どこだ、どこだとざわつきながら捜します。彼らの話を聞きながら、あまりに方向が違えば、ヒントは出します。中には、ヨーロッパの国なのに、南アメリカを見ていたりしている学生もいますから。しかし、これもまた面白い。みんなでそういう学生をからかいながら、私は、これらの国で、かつて、どんなことが起きたか、また今どういう状態にあるのかを、世間話のようにして語っていきます。時には学生の間から質問が出ることもありますし、学生が説明してくれることもあります。
相互に欠けていた知識を補完し合うということも大切で、知識を持っていた学生は、それを日本語で語ることによって、新たな単語を獲得していけるわけですから、全く無駄にはなりません。しかも、これは正規の授業内容というわけではありませんから、肩の凝らないものです。楽しんで色塗りをしながら、楽しく話したり聞いたりするだけのこと。忘れても良いのです。ただ、案外こう言った雑談というのは忘れられないもののようで、「授業で教えただろ」と、私がきつく言わなければならないもののことは、きれいさっぱりと脳裏から消えているのに、何かの折りに、「先生、あれ、この前話したでしょう」と言われることもあるのです。
私たちが、両親や周りの大人たち、また、友人やマスコミなどから、ごくごく自然に耳に入れていたこれらのことを、留学生達に語ってやる時間が、如何に大切であるかを、今、感じています。
日々是好日