日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

今、来た「フィリピン」の学生が、さすがに「暑い」と言っていましたが。

2022-06-27 08:39:28 | 日本語学校
暑い。

「夏なのだから暑いのは当然。『暑い、暑い』言うな」というのは、よく聞く台詞。この台詞を聞くと、みんな暑いので、カッカカッカ来ているなと、これもまた、ステレオパイプに思ってしまう。

こんな暑さの時は、入道雲が空に現れるべきであり、人々は海や山にいるべきであり、街の真ん中で、ジリジリとやかれるべきではない…ような気がするのですが。

自転車で来る途中、夏を象徴する花、「サルスベリ」が、毎年咲いているところに来た…まだですね。自転車だから見にくかったけれども、蕾はあったような気がします。で、「アジサイ」の花が何種類も咲いている小山のような館に来ると、そこの空色の「アジサイ」が萎れていました。他の、濃い紫やらピンクやら、「ガクアジサイ」を派手にしたようなものやらは、まだまだ元気でしたけれども。「ブーゲンビリア」というのは、今年、いつもより早く咲き始めたような気がするのですが、すでにずっと前から満開…。

全く、梅雨がもう終わってしまったかのような天気が続いています。そして今日も、晴れで、ここでも30度は超えるのでしょうね。

そう言うと、インドの学生が、30度くらいのことでオタオタしているのが判らんと言った顔をしている。なんだ、なんだ、まだ30度じゃないかと言っている、目が。

だいたいは、南から来た人たち。ただ、南からと言っても、インドやパキスタンなどは山あり、谷あり、平野ありですから、寒いところは寒いし、暑いところはとてつもなく暑い。また、スリランカは常春だし、ベトナムは、こんな暑さの中でも、日焼けを避けるためか、あるいは暑さに対する感覚が私達とは違うからか、長袖のトレーナーなどを着込んでいる…。

同じ教室の中にいても、着ているものを見ただけでは、夏なのか、春秋なのかわからない。しかも、長袖を着ている者が、寒いなどと言う…エアコンから遠いのに。そして、すっかり「なつ~!」と言えるようなTシャツの学生が、暑い、暑いと「寒い」といった学生を信じられないと言った目つきで見たりしている。

もっとも、これからもずっとというか、何年か日本にいるであろう人たち。今に日本人的な暑さ寒さの感覚を身につけていくでしょうね。これが一年かそこいらであったら、そのままでしょうけれども。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ネコさん」「イヌさん」といった「さん付け」は、どうも奇妙に感じられるらしい。

2022-06-23 09:09:37 | 日本語学校
曇り。

街全体に淡く霞というか、靄がかかっているような朝です。音が消えています。

先日のこと。「Aクラス」で、お決まりの馬鹿なことを、いつものM君が言ったのです。みんなも慣れているので、隣に座っていた女子学生が、間髪を入れずに「また馬鹿なことを言っている」。すると、ほぼ同時に、幾羽かの「カラス」が「カカカカカ」と大声で笑ったのです。それを聞いて、また別の一人が「あ~あ、『カラス』にまで馬鹿にされている」で、また大笑い。

「『カラス』さんは、すごいです。馬鹿なことだと見分けが付く」と私が言うと、「カラス…さん?」

前にもこういうことがありました。本には「ネコ」とか「イヌ」とかいうふうに書いてあるのに、日本人は「ニャンニャン」とか、「ワンワン」とか言って呼びかけたりする。「ネコさん」、「イヌさん」と、「さん付け」で言う時だってある。「おイヌ様」と「様付け」の時もある。…ほんとに変。

確かにそうでしょうね。けれども、「山川草木」にだって、人と同じものの存在を感じることは、別にだれに対しても憚られることではないのです。その意味では、とても人を楽にさせます。

それを原始的だとか、未開の地であるとか、劣ったものと見るのは、私達からすれば、そちらの方が間違っている。そこに住んでいる人たちが、他者の目を意識せずにそういうことが言える、またそういう態度をとれるということが、一番幸せであるような気がするのです。

動物のみならず、山川草木すべてに魂が宿り、彼らがこう感じているような気がするとか、(今ならば)こう叱られているような気がするとかいうのは、「縄文の精神」と言った方がいいのかもしれません。グローバル化が進み、他国や他民族の様々な考え方、思想が入ってきていても、縄文人の魂が、理性とは別に存在していて、それに些かも違和感がないのです。

私だって、よく「ネコさん」とか、「おイヌさん」とか呼びかけています。書物の上では「イヌ」であり、「ネコ」なのですけれどもね。

その事を「変だ。おかしい」と、奇妙なものを見るような目つきで私を見ていたスリランカの学生が、数年後、学校を訪れた時、「向こうに、ネコさんがいた」と言っていたのを聞いて、ニヤッとしたものです。大きな体つきの彼が「ネコさん」とか言えば、一瞬で、日本人の警戒心も和らぐことでしょう。

こういう言い方は対象に対する私達の心を洗わしているのでしょう。もう「文化」と言ってもいいのかもしれません。「ウシさん」だし、「おウマさん」だし、「ヤギさん」ですもの。名前を知らなかった場合ですが、それは(名前を知っていれば、それを使います)。

これも、別に日本だけのことではないでしょう。一神教の国でなければ日本と同じような感じ方、考え方をしている国や民族は少なくないでしょう。「さん付け」は別でしょうが。

それでいて、日本人は肉を食べるから、どうしょうもない。

中学の時、クラブで、生物の先生が、「カエル」の脳下垂体を出すため、ブチュッとその辺りを切ったのです。それを見て、私達が「可哀想」と言った時、先生が怒りの口調で、「君たちは、米を食うだろ。野菜を食うだろ。同じことです。」

その時、一瞬みんな黙ってしまったのです。先生の言っていることは判る。だけど、私達が可哀想と思い、口に出したのも当然のことのような気がする。強く叱られるのは、どこか納得がいかない…ような気がした。もしかしたら生物の研究者である先生は、実験やデータを集めるための作業をしている時、そういうことを言われたことが何度もあったのかもしれません。それを中学生にまでまた言われた。それにぶち切れたのかもしれません

とはいえ、その事をこの年になるまで覚えているのは、強烈な印象を受けたせいなのでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「漢字の導入」に入り、それが終わって2日目。新しい人が学びたいとやってきました。ぎりぎり間に合ったみたいですね。

2022-06-21 08:27:13 | 日本語学校
曇り、時折晴れ。

さて、「Cクラス」で、「漢字の導入」をはじめてから、一週間ほどが経ちました。ベトナム勢の「止め」のない横線が少々収まってきたような気がします。と、昨日から、ミャンマー女性がこのクラスに入ることになり、「同じだああ」です。

彼女がどれくらい日本語を学んだことがあるか、或いはどれくらい間隔が空いているのかわかりませんので、聞いてみると、「四年ほど前に福岡で一年間日本語を学んだ。『N4』レベル(『みんなの日本語Ⅰ、Ⅱ』でしょうか)」と言う。「漢字は?」と訊くと、「やっていない」と言う。

実際のところ、「非漢字圏」の人が、途中からこの学校に入ってくる場合、漢字を学んだことがあると、本人の辛さがかなり軽減される場合が多く、耐えられるかどうかの、一つの目安となります。その点、中国人の場合、あまり考えなくていいので、楽なのですが(後は本人の国語力の問題です)。

学校によっては、やり方(教え方、カリキュラムの立て方など)が、この学校と違っている場合があり、ここに来て、面食らうような人も出てきます。

彼女は、知的な感じのする女性ですし、初めてのクラスでも臆することなく、かといって出しゃばることもなく、うまい具合に入っていけそうでした。ちょうど「テ形」「ナ形」の復習から始めた時だったのですが、最初は聞いたり、見たりしながら、思い出していたのでしょう、声が出ていませんでした。それに「50音図」を遣っての授業も初めてだったのでしょう、戸惑いが感じられました。少々間を置いて、他学生と共に口を動かし始めたのですが、随分違っていました。けれども、多分、直によくなるでしょう。

だいたいが、四年もの間隔があると、「聞く」「話す」は日本で生活しているのですから慣れてきてはいても、「文法」や「文字」などに苦労したりするものです。救いは、ぎりぎりで(漢字の勉強に)間に合ったということ。

漢字を始めてから、まだ一週間ほどしか経っていませんから(「導入編」がやっと終わったところです)、頑張ればやっていけるでしょう。

今日、初めて提出される宿題を見てみなければ何とも言えないところですが、昨日見た限りでは、「ひらがな」にかなり難がありそうです。まず、読める「文字」でないと、だれも読もうという気にはなりませんから。

実際、もう一ヶ月ほども経っているベトナムの女子の何人かは、書き直させ、それを宿題の提出ごとに繰り返しても、結局は改められない。まずは一ヶ月ですね、こちらの忍耐が続くのも。それ以上ですと、もう本人の問題です。これが小学生や中学生ですと、首に縄をかけても…と思うのでしょうが、もう二十歳を過ぎている人たちですからね、判っているのにやらないのは、(一ヶ月以上も)もう、本人の損得に直接関係しない限り、変わらないでしょう。と、一応、見極め、今日から、宿題のノートを見る時に、文字を書き直させたり、練習させたりするのをやめます。

だいたい、ノートがそれで、真っ赤っ赤になってしまうのです。文法の間違いか、文字の間違いかがわからなくなる。本人も見づらいし、嫌だろうと思うのですけれどもね、こんなノートを返されるのは。

時々耐えきれなくなったら、マーカーで線を引き、「練習せよ」はやるつもりなのですが。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「梅雨入り」は早かったものの、曇りの日が続きますね。

2022-06-20 07:25:52 | 日本語学校
曇り。

今年は「梅雨入り」が早いと思っていたのに、入ってから、雨の日が多いようは気がします。数日前に雨の予報が出ていたのに…曇り(あれ?いつの間に)、そしてまた曇り…。それどころか、時々日が射してきたりなんぞする。多分、予報と予定がセットになっているような生活では、どうも大変。で…「今年は異常か…」という声が出てくるからなのでしょうか。

「梅雨入りが早くても、遅くても大体終わる頃は同じになる」とか、「早くても遅くても、この時期の雨量はあまり変わらない」とか、どこかはぐらかされているような、それでいて、「梅雨」の説明にはなっている…みたいな、ここ30年か50年の平均とか傾向とかが、よく語られています。

そういえば、明治の頃のこと、「フグ(河豚)を食ったら、天気予報、天気予報と(念仏のように)唱える」とかいうのが出てましたっけ。つまり「当たらない、当たらない」というわけ。

その頃に比べれば、精度はグンと増し、私なども、テレビやインターネットの天気予報を信じ込み、それを見るのも、日に一度や二度の話ではありません。なぜか、ニュースは見ずとも天気予報だけは見てしまう。もっとも、偶にですけれども、予報しづらい…と言っているのを耳にすることはある。勿論、そうだろうなとは思うものの、やはり信じていますから、外れると、「あれ!!!」。当たっても、当然という感じ。褒めたり、すごいなと感じ入ったりしないのです。

「異常」という言葉や「想定外」と言う言葉に慣れてはいるものの、天気予報だけは違うような気がしているのでしょう。この「異常」とか「想定外」という言葉も、いつの間にか、「おはよう」という言葉と同じくらいの地位に貶められてしまい、「『想定外』を専門家が使うか!」と憤る人も稀になってしまいました。ヘラヘラして、専門外の人が使っているのを見ると、なんか意味がドンドンドンドン便利な方へと流れていき、重みがなくなっていくみたいですね。「粛々と」なんてのもそうですね。まあ、適当にこれを遣っていれば、非難されないだろうてなものでしょう。

そういえば、昨日も「地震」がありました。「能登」で「震度6」。これは大きい。「最近、立て続けに地震があるような…。大丈夫か。」。日本人はみんな、そう思うのです。「南海トラフ」やら、「首都直下地震」やら、あっちでもこっちでも、予想されている地震は数知れず。で、次に、「富士山はどうだろう」となる。確率から言えば、いつ爆発してもおかしくないらしい。

もう10年ほども前のことになるかしらん。インドの留学生が、真顔で話があるとやってきました。「火山関係の単語」はまだ知らなかったので、ホワイトボードに「富士山」の絵を描きながら、「富士山が噴火したら、東京は?」と訊くのです。どうも、国の御母堂が「富士山が噴火する」という話を聞きつけ、「すぐ帰れ」コールが来たらしい。マグマが東京を覆い尽くすように捉えられたらしく、赤く東京を塗りつぶし、「こうなりますか」。「そうなったら大変だから、帰ります」と言う。

富士山と東京とは、かなり離れているというのが、実感できないのでしょう。「フンフン」と聞きながら、「灰は降るでしょうね。どれくらい積もるかわからないけれども、おそらくはインフラもかなりの影響を受け、食糧事情なども、悪化するでしょう」と、受け売りの知識で説明します。

彼は、「(火山)灰なら大丈夫」と言って、ホッとしたように帰って行きましたが、「富士山噴火」というのを、毎年のように聞いている日本人は、「またオオカミおじさんが出てきた」くらいにしか感じられず(これも怖いことですが)、聞き流すというのが習慣になっているのですが、外国からやってきた人はそうはいかないのでしょう。しかも「火山」に馴染みもなければ、日本が細く長い国としか認識できてない人からすれば、「富士山噴火」は、則ち「日本沈没」くらいの響きがあるのでしょう。

もっとも、同じような国、フィリピンから来ている学生は、「同じ。同じ」と笑っていましたが。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日は、「浅草」へ行ったようです。楽しかったかな。

2022-06-16 08:31:48 | 日本語学校
曇り。

雲に覆われているばかりでなく、どこやら、「モヤッ」としています。そういえば、この「モヤッと」ですが、今日のような天気の時、確か、私のふるさとでは、「なにやら、もやいでいるな」とか言っていたような気がするのです。自分の中では、「靄」だから「モヤッと」、あるいは、心情として「モヤモヤしている」から、天気も「モヤッと」などと、何の疑いも持たずにそう思っていたのです。

ところが、数年前、今日のような天気の時、何気なく、「今日、もやいでるね」と言ったところ、それを「どんな意味だ」と調べた人がいたのです。それが、日本人でしたから、「あれ?」と思い、自分でも辞書を調べてみたところ、「靄」との関連で、そういう意味で遣われることもあるにはあるにせよ、主に遣われていたのは「船と船を繋ぐ『舫う』」らしく、どうも方言だったようです。

さて、昨日は小雨を押して、皆、「浅草見学」に行ったようです。雨が強かったら、(学校で)授業になるはずでしたから、「宿題ノート」の返却やら、授業のためのプリントやら、渡すべく、予定の物を籠に入れて準備していたのですが、そのまま残されていました。

まずは、(行けて)よかった、よかった。先日も雨で、(浅草見学が)延期というか中止。学生たちの「ブウ、ブウ」が音(声)だけでなく、態度にも表れていて、上のクラスの学生など、こちらが何も言っていないのに「いつ行きますか」…んんん、これは延期と言うことを前提に訊いているな感、満々。

この「Aクラス」の面々。留学生は一人もいないのですが、前の学年と少しばかり接点があって、月に一回、試験の時(留学試験、或いは日本語能力試験がある月)は、二月に一回くらい、課外活動というものがあり、その都度楽しめたということを知っているだけに、ブウブウの声が大きいのです。

おそらく、知らなければ、「日本の『日本語学校』というのはそんなもの」で終わるのでしょうけれども。

「梅雨」に入ったと言うことで、何かにつけて、雨の日が存在感を増しています。日本では、「梅雨」に限らず、雨の日は別に少なくはないのですが。

ただ、南アジアやアフリカ、中央アジアなどから来ている人にとっては、日本は雨が多い国だと思えるのでしょうね。このジトジト感になじめないという人もいましたし。

とはいえ、日本にいるのなら、日本人同様、「雨」を楽しんでもらいたいもの。「洗濯物が乾かない」とか、「ジメッとしていて嫌だ」とか言うのはあるのでしょうが、この時期ならではの「花」や「景色」は、なかなかに捨てがたいもの。

できれば、少しずつ、そういう気持ちになれるような余裕ができるといいですね。

日々是好日  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぐずついたお天気が続きます。そういえば、「梅雨」が明けなかった年もありましたっけ。

2022-06-09 08:08:14 | 日本語学校

曇り。

もう「梅雨」ですからね。こんなぐずついたお天気も、「もう、梅雨だからね」で、なんとなく納得させられてしまう(当然のことながら、お天道様への恨み言も自然に収まってしまいます)。

そういえば、「梅雨」が明けなかった年もありましたっけ。「冷夏」ともいうのでしょうけれども、「梅雨が明けなかった」というのは、ある種の強烈なイメージを持って迫ってきます。

日本では、「春」が終わる頃、「梅雨」の季節が始まって、それから「夏」となり、残暑で苦しんでいたのが嘘のように朝晩が涼しくなると、「長雨」が続く季節が来る。それからゆっくりと「秋」となり、「冬」となる。「これで一年」という感じですね。この繰り返しがあってこその、「日本の四季」なので、もし「春」が取っ払われ、「『桜の季節』なんてのが、この年はありませんでした」とか、「秋」が取っ払われ、「今年は『紅葉』が見られませんでした」なんてのがあったりすると、もしかしたら、日本人の脳の構造が壊れてしまうかもしれません。考えるだけで、ぞっとしてしまいます。

けれども、この年は「夏」が取っ払われたようなものでしたから、人間のみならず、植物も、そして他の動物たちも、不安だった…「喰い物のあるなし」は、直接、生存に関係してきますから。

若葉も力なく、木々の実も実らず、餌となる「もの」がなければ、それとなくあった「ヒト」と他者(他の生き物)との境界が曖昧になってくる。「ヒト」も自分を守るのに必死になれば、彼らも生きんがためですから、食べ物を求めて、街へと繰り出してくる。せめぎ合いが始まります。「金持ち、喧嘩せず」とはよく言ったもの。「ヒト」も他者も同じです。

もともと、「ヒト」が長い年月をかけて、じわりじわりと彼らの土地を占拠してきたのですから、彼らとて、地が続く限り、また時には海を渡って、食べ物のありそうな所へ移動するのも、不思議なことではない。アフリカで生まれた「ホモサピエンス」は、今では、地球上、どこにでもいるのですから。彼らよりも、ずっと歓迎されざる生き物だったのでしょうけれども。今だったら外来種の害獣と見なされていたかもしれません。

ただ、「ヒト」は牙もなければ、鋭い爪もない、それに、体だって大きい方じゃない。しかも、寒さ暑さに弱く、言葉がなければ、「知識」だって、伝えていけなかったでしょう。「見て覚えるだけ」というのには、限りがあります。

とは言いながら、多分、「Cクラス」も漢字の学習が始まれば、「はい、見て」の繰り返しとなるでしょうし、「筆ペン」を使う時には、指の動きを指で感じてもらわなければならなくなるでしょう。「知識」や「技術」なども、今では「AI」の助けを借りることが増えてきている。

ただ、ヒトは学んでいくうちに楽しさを知ることができる。「できた。できた」で、楽しくなる。そうすれば、学習意欲が湧き、「もっと、もっと」という気持ちにもなれる。

そこが機械とは違うところなのでしょうね。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は、二年ぶりの「入学式」。一昨年の学生も、来たばかりの学生も、みんな「新入生」で、参加します。

2022-06-07 08:11:04 | 日本語学校

曇り。

時折、日が射しては来るのですが、まあ、曇り。自転車でいくつかの角を曲がる度に、青空が遠く見えたり、消えたり…。

最近、テレビのニュースは、「アジサイ(紫陽花)」の花一色になったかのよう。少し前には、「シバザクラ(シバザクラ(芝桜)」の景色が画面いっぱいに広がっていたのですが。最近は、「アジサイ」の他には、時折「アヤメ(菖蒲)」の立ち姿が出てくるくらいかしらん。

昨日、関東地方の「梅雨入り」が発表されました。だから「アジサイ」一色になるのも、不思議ではない。とはいえ、「アジサイ」の品種の多さに驚かされます。色も様々、形も様々。毎年増え続けているのでしょうね。

それはさておき、美しいものには、美しさを通り越して、別の意味がしみ出てくることがあります。「サクラ(桜)」をはじめとして、「アジサイ」にも、どこやら死の影が漂う、それもその一つなのでしょう。死は普遍的なもので、美しさが、心の底にずんと響いた時、人は死を思うのかもしれません。

とはいえ、人は死ぬと、その人は思い出す人だけのものになる。生前は多くの人と付き合い、様々な顔を見せていた人も、死を迎え、記憶の中の人になってしまうと、かつて付き合っていた一人一人の、その人だけのものになってしまう。人と人との交流なんて結局は、極めて個人的なもので、その人しか知らない顔、出来事というのもがあるからなのでしょう。そして死は、それぞれの人に馴染んでいく。

母の時は突き上げるような喪失感。父の時は穏やかに迎えられ、姉の時は…一人になったなという実感。

学生たちの中にも、来日し、勉学に励んでいる時に、身内の死を迎えた人もいました。育ててもらった祖母だから…。それで帰国できた人もいれば、そのまま帰国せずにここにとどまらざるをえなかった人もいました。

死というものは本当に不思議なものです。

人は死を知った時には死んでいる。だから人は死を知らないのだ。悩む必要がどこにあろう。つまり、死とは残されたものの思いに過ぎぬのでしょう。そしてゆっくりと消化されていく、新たな死と向かい合うまでは大きな比重を占めていたとしても。

さて、学校です。

今日は二年ぶりというか、久しぶりに「入学式」をやります。一昨年入ってきた「Aクラス」の学生たちにとっても、いわゆる「入学式」。「Aクラス」でそれを話した時、「えっ」でした。先輩なのに、新入生。それを面白がってはいましたが、実のところ、このクラスの先輩たちは、この間、ほとんどどこへも行けず、可哀想な人たちでした。

先だっての「浅草見学」も、雨でお流れとなり、結局は学校で、お勉強。「何もなかったね」と彼らは言うけれども、まあ、校内での「七夕」はやりましたし、「ひな祭り」もしました。きっと、記憶にはそれほど留まっていないのでしょう、「どこかへ行った」というのが一番いい。

いつものことなのですが、「『行って見た』から、楽しい」のではなく、「『道中』が楽しい。そこでの『お喋り』が楽しい」らしいのです。こちらの意図するところとは別の箇所で楽しみを見つけているらしく、名所旧跡の話ではなく、「(道中で)何々を話した」とか、(道中で)だれそれさんはこんなことをした」とか。またある時は、「(道中で)こんな人を見かけた」とか、「(道中で)面白いものを見つけた」とか。

きっと教師たちと一緒なので、安心して、自由に見たり、聞いたり、お喋りをしたりできるからなのでしょう。ただ、こちらは、(列が)ばらけないように、そして迷子さんが出ないようにと(もちろん、交通事故に遭わないように)気の休まる暇はないのですが。特に、神経を使うのは、新入生が入ってきた時です。

これは、慣れている先輩たちに頼んでも無駄です。彼らとて、いつもはしかめっ面をしている教師連が「勉強」なんて喚かずに、手助けしてくれるのですから、自分が楽しむのに夢中です。

エスカレーターの乗り方とか、日本の狭い道の歩き方とか、こういう折りにでもないとなかなか指導できません。気がつくと五人一組で広がっていて、後ろから舌打ちされていたり、反対方向へ行く人の道を塞いでいたり。

多分、これとても、少し遠くを見ていれば気付くことではなのでしょうが、楽しいことがあると、ついついそれに気をとられて、周りを見ることを忘れてしまう…のでしょうね。まあ、誰しもそうなるのでしょうから…文句を言うのは間違っている。

いろいろな所へ行き、様々なものを見、そういうことが「普通」になっていけば、日本の暮らしに慣れたと言えるのでしょう。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「その流派に、辟する人においては」…いろいろなことを考えてしまいました。

2022-06-06 08:20:08 | 日本語学校
雨。

梅雨時のような雨が降っています。今朝はかなり冷えます、最高気温も20度には行かないのだとか。今日は長袖に長袖の上着で来た方がよかったのかもしれません。今日みたいな日は、きっと、半袖という真夏の格好の人が二人は、出てくるでしょうね。…そうなると、やっと収まりかけていた「ゴホン、ゴホンさん」が、元に戻ってしまうかもしれません。

「その流派に、辟する人においては」云々。この部分だけが強烈だったので、覚えているのですが、続きの件は、無知蒙昧の輩よりもずっと国のためにならないとかいう意味だったような。「辟する人」というのにドキッとしてしまったのです。漢文調というのは、やはりいいですね。ズバッと切り取れます。和文調とはまた別の良さがあります。こういうのを日本人は使い分けてきたのですね。強く言うか、軟らかく言うか。日本人にとってはそうなのですけれども、漢文調しかないので(変な言い方ですが)、日本人にとって中国語は強くぶっきらぼうな言い方に聞こえるのかもしれません。

閑話休題。

いわゆる「辟する人」というのは、ある事に拘ってしまう人のことなんでしょうね、きっと過剰なほどに。譲らない、譲れないから、そこから、個人的な争いや揉め事、紛争や戦争などが起こってしまう。

宗教だって、人が幸せになるために作り上げたものなのでしょうに、それが「拠り所」となってしまって、争いを生み出し、他者を殺さずにはいられないような状態にまで、人を追いやってしまう。

民族だってそう。人は、(今のところ)皆、同じホモサピエンスで、肉食動物が生きんがために他の動物を食らうというような関係じゃない。それに、ネコや犬、鳥や魚、ライオンやゴリラを可愛がれる人が、人を慈しめぬわけがない。どうして同じグループだけを大切にする。

「同じグループだと思っていたのに、『他の方がいい』と言う。これは裏切りだ」。こういうのは何でしょうね。悪女の深情けでしょうか

派を作り、仲間を作ろうとする。或いは、同じ考えの者で周りを固めようとする。違う考えの人に近づくのが怖いのかな。怯えているのかな。そう思っていたけれども、怖そうじゃない。怯えてもいない。反対に意気揚々として見える。自分を正しいと言ってもらいたいだけ?

「○○する者、この指、止~ま~れ」で、一緒に「鬼ごっこ」やら、「ままごと」やらをする分にはいいけれども、ごり押しをするために人を集めるというのは、どうも、嫌ですね。

多数決というのと、民主主義というのとは、ちょっと違うような気がする。少数者を重んじると言いながら、それが守れるような賢人がそんじょそこらに転がっているとは、どうしても思えないし。

まあ、世界は世界です。個人は個人です。今のところ、学校は平和です。9カ国から来ている22名ほどが、平和に勉強しています。国ごとに癖があって、失敗すると本人はもとより、周りも大笑い。あっちでもこっちでも間違えますから、皆、お互い様という顔をして、失敗しても、あちゃあ、ハハハハハ」で終わり。

こういうのがいいですね。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南の国から来た学生にとって、やっと過ごしやすい季節に入ったようです。暑いのは大丈夫…らしいですから。…蒸し暑いのも、本当に大丈夫?

2022-06-02 09:16:21 | 日本語学校

晴れ。

朝のうちはまだ涼しく、「まだまだ5月だ。5月のような…はずだ」という気分が抜けきれません。もっとも、今年の5月は、「(5月は、普通)爽やかさとセットになっていたんじゃないの。どうしてこんなにムシムシする」とか、「雨の日が続く。まるで梅雨だ」とか、口さがない雀たちの不平不満があっちからもこっちからも。

そして、6月に入って2日目。やっと初夏の気分になった…ような。

さて、学校です。

この学校では南の国から来ている人が多く、大半はアジア系なのですが、インドやパキスタンの学生がいると、時々「雪は降りますか」なんてことを、訊いたりしています。ただ、「降る」と答えていても、よく訊いてみると、自分のふるさとじゃないようで、雪を見たことがないと言う人も少なからずいます。

昨日、「どんなスポーツが好きですか」という質問に、「バスケットボール」やら「サッカー」やらが出てきたのですが、一人、「スキー」と答えた学生がいて、皆「えっ?」。驚いて振り返っていました。

どうも、テレビかなんぞで見て、それで「いいなあ」と思ったらしい。で、以前、スリランカの学生が話してくれたことを思い出し、「日本にいる間に、(スキーに)行って、やってみてごらん。いいチャンスだから」と言うと、他の学生も頷いていました。

もう十年以上前になるでしょうか。卒業式が終わってから、専門学校が始まるまでの間に、友だち四人とスキーに行って楽しい思い出を作ったという話。「往復バスで、スキー道具などは、皆向こうで借りた。『初心者』を教えてくれるところで、一時間かそれくらい、教えてもらっただけで、すぐに滑れるようになった。とても面白かった」という話。

それを後で聞いた面々、羨ましそうな顔をしていましたっけ。もっとも、それも日本語学校から専門学校に入るという時期だけのことらしく、あるベトナム人学生は、(専門学校を卒業後、この学校に来て)、「私の今の職場は、冬は毎日スキーをしているようなものです」と言っていましたっけ。どうも新潟の雪深いところらしい。

行って遊ぶだけなら楽しいのでしょうが、南の国の人間が、冬、雪と格闘するとなると、辛いでしょうね。でも、みんないい人たちばかりだから、大丈夫とも言っていましたが。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本の会社のことは、…ほんと、よくわかりません。説明はしたものの、そうかなあなんて自分でも思えることが少なくないのです。

2022-06-01 13:12:14 | 日本語学校
晴れ。

きれいな青空の下、梅雨時の花、「アジサイ(紫陽花)」が咲いています。これは、もう、習慣ですね。「『アジサイ』が咲いているのに、晴れなんて」という気分になってしまう。「アジサイ」は雨の下でなきゃ…。

とはいえ、「アジサイ」の品種の多いこと多いこと。通い道にある、あるお宅にはこの時
期、4種類の「アジサイ」が艶を競っているのがうかがえます。いいですね、お庭が開放されているのは。「アジサイ」は、花というか萼というか、その集合体ですから、自然と普通の花よりもずんと大きく見える。とはいえ、一輪で辺りを睥睨しているような「バラ」や「ボタン(牡丹)」とは違い、小さな萼片が集まっているだけですから、目に入ってきても、圧倒されるようなことはない。しめやかな雨の中でひっそりと咲いている(大きくても)…ような姿が、よく似合います。梅雨時の風物詩ですね。

もっとも、雨が降ると、その中を自転車で駆けなければならないので、どうも…困る…のですが、「アジサイ」を見てしまうと、降ってもいいかという気分にもなってきます。けれど…願わくは、休みの日に…降ってくれ。

さて、学校です。

「Aクラス」では、パキスタンの学生が一人、高校卒業資格を取るための試験を受けに、6月に入ってすぐに一時帰国します。昨日は、その最後の日(試験が終わり次第、戻ってくると言っているのですが、残念なことに今回は「N2」の試験に参加できません。ちょうど重なってしまいそうなのです)。「読解問題」で、「新入社員が云々」という文章が出てきました。すると、この学生、「あれ??先生、『石の上にも三年』だったでしょ。どうしてすぐにやめるの」と来た。

このクラスは、今年の4月くらいから、「読解」の時だけでなく、どの授業の時にも、「どうして」「なぜ」が増えてきた。文章を読んだり、聞いたりすることで、日本に関する知識が増えてきたのでしょう。おまけに、その都度、教師が説明するわけですから、「増える」の二乗、三乗にもなってくる。いいことですが、授業がなかなか進まなくなって、一、二週間おきくらいに、「勉強、勉強。説明終わり」と喚かねばならなくなっている。特に、この学生の質問が多い。

彼らにとって興味があるのは、日本の会社や文化。将来は、或いはすぐにでも、日本で働きたいという人が少なくないので、自然とそうなってくるのでしょう。いろいろと聞きたいのです。しかも、これまで聞いた限りでは、どうも自分の国とは違っているらしい…と思っている。ですから、一つでもアンテナに引っかかると、「どうして」とか「これは何」とかが始まるのです。

例えば、創業者と社長が違うこともあるという話になると、「どうして」。同じでないということもあるのだということにびっくり。100年、300年、中には500年以上も続いている会社もあると聞くと、また「どうして」。もちろん、はっきりとしたことはこちらにも判りません。ただ、大きくなると、もう半分以上は「公のもの」という気持ちに皆がなり、あまり勝手なことができなくなるからかもしれません。そんなことをしたら、世間の糾弾を浴びてしまう…。ご先祖様に申し訳ないぞというのも、その中にはあった…かな。そういうことが、昔からある程度共通認識としてあった…のかもしれません。そういう長く続くような会社は、「家訓」があり、それが代々社長業に就く人を縛ってきた…心の裡に「家法」がしっかりとあれば、勝手な真似はできませんよね。

だから、日本では、今、上場企業の社長が、自分の子供に社を継がせるなんて聞くと、「えっ?大丈夫?この会社は」という気分になったりする。

「じゃあ、会社を作った人は?その子供や、そのまた子供たちは?」「多分、株をたくさんもらっているのでしょう。その社で育てられた、能力のある人によって、ますます発展すれば、それに伴ってお金がたくさん入ってくるから。経営が得意じゃないとかあまり好きじゃないとか、得意じゃない人には、その方がいいんじゃないの」とかなんとか、わかったような判らないようなことを言っていますが、日本の古くから続いているような会社、おそらくこれからもずっと続いていくような会社はどうなっているのでしょうね。

ご近所の、○○屋さんだったら勘弁してもらえたようなことも、大企業になったら許されない…というようなことも少なくありませんからね。

こういうことも、もしかしたら、彼らは「日本文化」の一つとして捉えているのかもしれません。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする