晴れ。快晴です。秋はこうでなくっちゃ。
天気予報図にも、遠慮がちに「洗濯日和」マークがついていましたから、少し乾燥しているのでしょう。でも見ているうちに、風邪引きさんの喉が、痛くなりそうです、あのマークは、「乾きますよ」と言っているようなものですから。
さて、学校です。
中国に留学していた時に、中近東のイスラム教徒の留学生達と同じクラスになったり、あるいは友人の友人、友人の友人の友人という関係で、一緒にバレーボールをしたり、話をしたり、食事をしたりしたことがありました。その時にも、自分が日本で描いていた「イスラム教徒像」というものが、かなり偏ったものであったと感じさせられたものでしたが。
ここ、日本でも、この日本語学校に、留学生というわけではなくても、インド圏や東アジア圏のイスラム教徒の人達が、日本語を習いに来る時があります。そうした人達と接することによって、また考え方をあらたにしたこともありました。
結局は、同じなんだと。
これは、「人間だから、皆、同じ」というのではなく、「どの宗教も同じなんだ」と(こう言うと、宗教家からどやされるかもしれませんが)。
宗教というのは、人がそれを必要としているから存在しているのでしょう。宗教というのは、心、弱った人に、(心を強くするための)何らかの力、何らかの作用を及ぼせるが故に、尊いのでしょう。
困難に直面した時に、最後に頼りにするのが、宗教、いわゆる神なのでしょう。最後に自分に帰れる人は、本当に強いのです。普通の人にとっては、「だれか」、乃至、「ある存在」が必要なのです。それ故に、同じ宗教の「教徒」であっても、それほど、今、必要としていなければ、宗教や神は、日本人のそれと同じようと、「民俗」の中に存在しているにすぎないのだと。
もちろん、おかしな言い方ですが、「異なった国」、「異なった民族」、「異なった宗教」の人と接する時には、「違う」を前提にしていなければ、大きな摩擦が生じてしまいます。ですから、最初は「皆、違う」と思っていた方がいいのです。実際、違うのですから。
ただ、どうも、日本人にとっては、イスラム教徒いうのは、特に遠い存在で、しかも、中学や高校で習った時には、「左手にコーラン、右手に剣」で、闘いながらイスラム教を広めた式の理解の仕方しかありませんでしたし。いわゆる戦闘集団といった感じです。
もちろん、長じるにつれ、おかしいな。矛盾しているのではないかと感じることも多々ありました。中世ヨーロッパは暗黒時代と呼ばれ、ユダヤ人などを排斥するだけではなく、同じキリスト教徒同士で、魔女狩りや戦争などに明け暮れていたのに、戦闘集団と言われたイスラム教徒の国では、(彼らにとっては異教である)ギリシアの哲学を発掘し、学び、発展させ、優れた文明を築き上げていたのですから。
ただ、時代は変わり、現代では、貧しい国や内戦が頻発している国に、イスラム教徒が多いと言われています。それ故に、原理主義的な部分が、ニュースとして報道され、日本人にとっては、「おっかない宗教」と認識されているのかもしれません。
けれども、私が知り合ったイスラム教徒の人達は、2、3の例外を除いて、非常に穏やかな人達でした。
とはいえ、宗教や民俗というのは、非常に敏感な部分で、人の心を扼しています。どれほど、親しくなっていようとも、自分のやり方で彼らと付き合おうとすれば、その関係にヒビが入るだけでなく、問題が生じることになるかもしれません。今、学生達は、私たちを、教師として大切に扱ってくれているのですが、時には、薄氷を踏むような思いがすることもあるのです。
日々是好日
天気予報図にも、遠慮がちに「洗濯日和」マークがついていましたから、少し乾燥しているのでしょう。でも見ているうちに、風邪引きさんの喉が、痛くなりそうです、あのマークは、「乾きますよ」と言っているようなものですから。
さて、学校です。
中国に留学していた時に、中近東のイスラム教徒の留学生達と同じクラスになったり、あるいは友人の友人、友人の友人の友人という関係で、一緒にバレーボールをしたり、話をしたり、食事をしたりしたことがありました。その時にも、自分が日本で描いていた「イスラム教徒像」というものが、かなり偏ったものであったと感じさせられたものでしたが。
ここ、日本でも、この日本語学校に、留学生というわけではなくても、インド圏や東アジア圏のイスラム教徒の人達が、日本語を習いに来る時があります。そうした人達と接することによって、また考え方をあらたにしたこともありました。
結局は、同じなんだと。
これは、「人間だから、皆、同じ」というのではなく、「どの宗教も同じなんだ」と(こう言うと、宗教家からどやされるかもしれませんが)。
宗教というのは、人がそれを必要としているから存在しているのでしょう。宗教というのは、心、弱った人に、(心を強くするための)何らかの力、何らかの作用を及ぼせるが故に、尊いのでしょう。
困難に直面した時に、最後に頼りにするのが、宗教、いわゆる神なのでしょう。最後に自分に帰れる人は、本当に強いのです。普通の人にとっては、「だれか」、乃至、「ある存在」が必要なのです。それ故に、同じ宗教の「教徒」であっても、それほど、今、必要としていなければ、宗教や神は、日本人のそれと同じようと、「民俗」の中に存在しているにすぎないのだと。
もちろん、おかしな言い方ですが、「異なった国」、「異なった民族」、「異なった宗教」の人と接する時には、「違う」を前提にしていなければ、大きな摩擦が生じてしまいます。ですから、最初は「皆、違う」と思っていた方がいいのです。実際、違うのですから。
ただ、どうも、日本人にとっては、イスラム教徒いうのは、特に遠い存在で、しかも、中学や高校で習った時には、「左手にコーラン、右手に剣」で、闘いながらイスラム教を広めた式の理解の仕方しかありませんでしたし。いわゆる戦闘集団といった感じです。
もちろん、長じるにつれ、おかしいな。矛盾しているのではないかと感じることも多々ありました。中世ヨーロッパは暗黒時代と呼ばれ、ユダヤ人などを排斥するだけではなく、同じキリスト教徒同士で、魔女狩りや戦争などに明け暮れていたのに、戦闘集団と言われたイスラム教徒の国では、(彼らにとっては異教である)ギリシアの哲学を発掘し、学び、発展させ、優れた文明を築き上げていたのですから。
ただ、時代は変わり、現代では、貧しい国や内戦が頻発している国に、イスラム教徒が多いと言われています。それ故に、原理主義的な部分が、ニュースとして報道され、日本人にとっては、「おっかない宗教」と認識されているのかもしれません。
けれども、私が知り合ったイスラム教徒の人達は、2、3の例外を除いて、非常に穏やかな人達でした。
とはいえ、宗教や民俗というのは、非常に敏感な部分で、人の心を扼しています。どれほど、親しくなっていようとも、自分のやり方で彼らと付き合おうとすれば、その関係にヒビが入るだけでなく、問題が生じることになるかもしれません。今、学生達は、私たちを、教師として大切に扱ってくれているのですが、時には、薄氷を踏むような思いがすることもあるのです。
日々是好日