晴れ。
このところ、話題は「サクラ」で持ちきりでしたが(なにせ、コロナ禍です。昨年は我慢してきた人も、今年の「サクラ」に浮かれて蠢き出し、中には世間の迷惑になるようなことをしでかした人もいるようですが)、そろそろ季節は次ぎに移っています。
最近、街角で「ポピー」の花を、ちょいちょい見かけるようになりました。「サクラ」の頃は、最初に「サクラ」(ずっと高いところ)に目が行き、次ぎに視線を落としていく…という感じで、「ああ、『オオアラセイトウ』が咲いている」とか、「『シャガ』も咲いてる」という風だったのですが、今は、その草花の方に目が行きます。そろそろ「サツキ」も咲き出すでしょうし。
春闌というか、もう初夏の雰囲気さえ漂わせています、昨今の気温の上昇を見ていますと。
さて、学校です。
来年の高校受験を目指して、あるいは大学受験のために 、今、少しずつ「算数(九九)」の勉強を入れ始めています。中学校の数学を教えるにせよ、まずは「九九」。中学校に勤めていたとき、「数学」の先生が、夏休みに、数学が苦手な三年生を登校させて、計算問題ばかり練習させていたのを見たことがありました。先生曰く「これで、(入試の時)20点はとれる」。
まあ、それと同じことなのでしょうが、そのためにも、「九九」が早く言えなければなりません。国によっては、それを暗記することを強いていないところもあるようですし、まずは「九九」を覚えているかどうかの確認のためにも、書かせてみなければなりません。
ところが、書くのは同じと思ってたら、書き方が違うのです。3×4=12の答えを、ある国では「21」と右から書いたりするようなのです(それもわかります。右から書いていけばそうなりますもの)。彼らにとってみれば、面倒なのでしょうが、それでも、まずは日本と同じ書き方をするようなれてもらう必要があります。それに、勉強してから、もう随分時間が経ったから、忘れてしまったという人もいますし。それはともかく、これができなければ、これからの日本での生活も大変です。
で、その他に、昨日は「世界史」のはじめの部分、「人類の誕生」というのを、一緒に見ていったのですが、これが、また、ちょっと大変でした。
前にフィリピンの学生が同じようなことを言ったことがありました。その時は、「進化論」が文章の中に出てきたことがあったのです。その説明を始めるとすぐ、フィリピンの学生が「それは違います。『人間』は『神様』が作ったのです」と言うのです。
日本などは、戦前教育を反省して…からということもありますが、「政教分離」が建前ですし、またそれを実施しているので、ちょっとそういう考え方にはついていけない…。ただ、信仰が、つまり国教のような形で、すべての上に鎮座まします国では、その宗教の主張というか、哲学というか、そういうものが学校でも教育全体を覆っているのでしょう。
これは中国の教育を見てもわかります。「○○主義」と「宗教」と、名こそ違え、固い信念となっているので、それはそのままにしておくしかないのです。私達が、そこまで土足で入っていけませんし、またそうすべきでもない。なにせ、そこで育ってきた人にとっては、それは「真実」なのですから。
日本人などは、時折、「それは、いわゆる『真実』なのかな」とか、時々「だいたいこういうものに『真実』なんてあるのだろうか」などと考えてしまうこともあるのですが、こういう国では、そういうことを疑いだしたら、それこそ生きてはいけないでしょう。だから、(日本にいても)私達もそれを、一つの「知識」としてしか説明するしかないのです。
「真実」とか、「正義」とかいう言葉ほど、胡散臭いものはなく、時代の流れの中で姿を変えるものもないでしょう。少なくとも、そういうことさえ、感じてくれていれば、あとはその人がいろいろな意味で成長したときに、自分で判断できることです。違う考えを持っている国もあることを知るだけでもいいのです。
前途多難ですが、まずはやっていくしかありません。日本で高校に入りたいのなら。
日々是好日
このところ、話題は「サクラ」で持ちきりでしたが(なにせ、コロナ禍です。昨年は我慢してきた人も、今年の「サクラ」に浮かれて蠢き出し、中には世間の迷惑になるようなことをしでかした人もいるようですが)、そろそろ季節は次ぎに移っています。
最近、街角で「ポピー」の花を、ちょいちょい見かけるようになりました。「サクラ」の頃は、最初に「サクラ」(ずっと高いところ)に目が行き、次ぎに視線を落としていく…という感じで、「ああ、『オオアラセイトウ』が咲いている」とか、「『シャガ』も咲いてる」という風だったのですが、今は、その草花の方に目が行きます。そろそろ「サツキ」も咲き出すでしょうし。
春闌というか、もう初夏の雰囲気さえ漂わせています、昨今の気温の上昇を見ていますと。
さて、学校です。
来年の高校受験を目指して、あるいは大学受験のために 、今、少しずつ「算数(九九)」の勉強を入れ始めています。中学校の数学を教えるにせよ、まずは「九九」。中学校に勤めていたとき、「数学」の先生が、夏休みに、数学が苦手な三年生を登校させて、計算問題ばかり練習させていたのを見たことがありました。先生曰く「これで、(入試の時)20点はとれる」。
まあ、それと同じことなのでしょうが、そのためにも、「九九」が早く言えなければなりません。国によっては、それを暗記することを強いていないところもあるようですし、まずは「九九」を覚えているかどうかの確認のためにも、書かせてみなければなりません。
ところが、書くのは同じと思ってたら、書き方が違うのです。3×4=12の答えを、ある国では「21」と右から書いたりするようなのです(それもわかります。右から書いていけばそうなりますもの)。彼らにとってみれば、面倒なのでしょうが、それでも、まずは日本と同じ書き方をするようなれてもらう必要があります。それに、勉強してから、もう随分時間が経ったから、忘れてしまったという人もいますし。それはともかく、これができなければ、これからの日本での生活も大変です。
で、その他に、昨日は「世界史」のはじめの部分、「人類の誕生」というのを、一緒に見ていったのですが、これが、また、ちょっと大変でした。
前にフィリピンの学生が同じようなことを言ったことがありました。その時は、「進化論」が文章の中に出てきたことがあったのです。その説明を始めるとすぐ、フィリピンの学生が「それは違います。『人間』は『神様』が作ったのです」と言うのです。
日本などは、戦前教育を反省して…からということもありますが、「政教分離」が建前ですし、またそれを実施しているので、ちょっとそういう考え方にはついていけない…。ただ、信仰が、つまり国教のような形で、すべての上に鎮座まします国では、その宗教の主張というか、哲学というか、そういうものが学校でも教育全体を覆っているのでしょう。
これは中国の教育を見てもわかります。「○○主義」と「宗教」と、名こそ違え、固い信念となっているので、それはそのままにしておくしかないのです。私達が、そこまで土足で入っていけませんし、またそうすべきでもない。なにせ、そこで育ってきた人にとっては、それは「真実」なのですから。
日本人などは、時折、「それは、いわゆる『真実』なのかな」とか、時々「だいたいこういうものに『真実』なんてあるのだろうか」などと考えてしまうこともあるのですが、こういう国では、そういうことを疑いだしたら、それこそ生きてはいけないでしょう。だから、(日本にいても)私達もそれを、一つの「知識」としてしか説明するしかないのです。
「真実」とか、「正義」とかいう言葉ほど、胡散臭いものはなく、時代の流れの中で姿を変えるものもないでしょう。少なくとも、そういうことさえ、感じてくれていれば、あとはその人がいろいろな意味で成長したときに、自分で判断できることです。違う考えを持っている国もあることを知るだけでもいいのです。
前途多難ですが、まずはやっていくしかありません。日本で高校に入りたいのなら。
日々是好日