日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「読解」は難しい。

2020-07-16 08:59:19 | 日本語学校

曇り。

朝は、またパラパラと小糠のような雨が降っていました。昨日は、しっかりとした(?)小雨で、学校に着いた時には、髪から滴は垂れているは、袖を絞れば水がポトリポトリと垂れてくるはで、なぜ一番まずい時に出てしまったのかと後悔させられたのですけれども。

最近は、本当に信用ならない。ということで、1000年前の人のように、空を見て、辺りを見て、判断するようにしているので、本当に当たり外れが激しい。ここ数日はうまく行っていたので、己を過信していたせいもあるのかもしれませんが。けれども、不思議なもので、皆が来るころには、だれも気がつかなかったので、乾いていたのでしょう。もっとも、服にはそれなりに(座っていたので)、皺の後が歴然とついていましたが。

さて、学校です。

昨日は、「Bクラス」の教室に入るなり、「寒い」、「寒い」と言う声が。スーダンからの学生は、30度近くあっても、「寒い」を連発するので(セーターこそ着てはいませんが、羽織っているモノから推察するに、秋口の格好ではありませんね。もっと秋は深まっています)、無視するとしても、暑さ寒さに鈍感な(に思える)、ベトナムの学生までが、「しゃむい(寒い)」と言っていたので、かなり寒かったのでしょう。じっとしていたからかな。

最近、「Aクラス」の学生も、「Bクラス」の学生も、なにか一つ乗り越えられたような気がします。もちろん、昨年の4、7月から来た人たちは、ですが。何故にかと言いますと、在日の人たちが何人も入っているので、一概に、クラス全体が伸びたとは言えないのです。ここには、ある程度の差があり、それがやりにくさとも、ある意味伸び代とも言えるのですが。

少し前まで、「指示語」が指すものを言わせても、目の前の文をそのまま読むくらいで、指示語に繋がっている動詞まで気が回らなかった(完全に意味が繋がっていないのです)。それが、もちろん、「Aクラス」の方が先に楽になったのですが、最近は「Bクラス」の方でも、「あれ???」と思わされる事があり…。…こう言うと叱られるかもしれません。「できないと思っていたのに、できていた」なんて言うと。

もっとも、途中で入ってきた人は、なかなか…ですね。しかし、答えが出ているので、皆ができずに、し~んと静まりかえっている教室で勉強するよりは、楽でしょう。「ほかの人はできている、どうして」となってくれるかもしれませんし。

クラスの中で6割できるようになれば、黙っていても皆伸びてきます。それが2割だとちと難しい(おっ、始まったかなといった芽生えを感じる程度)。4割方できるようなりますと、少々明るい希望が持てる…というところでしょうか。「Bクラス」もそんな感じになってきました。

と、肩の荷が下りたような気分で、午後の「Cクラス」に行ったのですが、そこで、ガーンですね。このクラスはまだ『みんなの日本語(Ⅱ)』に入って1か月ほど。

このクラスの構成員はと言いますと、学び始めてから、途中、1か月ほどお休みしていた人が2人。4月生を待っていたのに、結局来られなくなって待ちぼうけを食わされていた学生が1人。それから、6月から始めた(「あいうえお」からです)学生が、(『みんなの日本語(Ⅰ)』を学ぶと同時に)このクラスにも来ている(午前は『みんなの日本語(Ⅰ)』を2時間しています…この学生は、6月に始めてからずっとこのクラスにいました。まだ17才なので、頑張れば着いていけるだろうと入れたのです)学生が1人。それから、同じように6月から始めていたけれども、もう1人が参加するなら自分もと最近来だした人が1人。

というわけで、3人は、始めからだいたい同じくらいでした。6月から来始めた1人が最初は足を引っ張っていたものの、最近やっと揃ってきたなと思われていたのに、また1人、入ってきたので、バラバラに…。

クラスというのは面白いもので、小社会ですから、互いが何となく判るまで、つまり、「この人はこんな人なんだな」と判るまで、ちょっと落ち着くのに時間がかかるのです。判ると、「待てたりする」のですが、判らない間は、どこか空気が落ち着かない。

日本語のレベルでみると、やっと4人は揃い始めたか…と見ていた時に、乱入してきたような感じ。もちろん、最後の1人は、年齢的にも上ですし、参加ではなく、聞くだけと言ってはあるのですが、お国柄でしょうね、大きな声で参加し、しかも言いたいだけなのか、動詞の活用形も適当です。いいところは、間違っていても平気なところ。

最初は、「えっ!?」という顔で振り返っていたような「Cクラス」の人たちも、参加が二回、三回と増えるにつれ、「そうなんだ」という感じで、それなりに認め始めているようです。朝のクラスも、勉強では『(Ⅱ)』に入っていますしね。それほど突拍子もないことは言わなくなっています。

で、話は元に戻ります。

なんのことはない、「Aクラス」も「Bクラス」も、読解の授業が少し楽になったと、ルンルンだったのに、「Cクラス」に行って、「読み物」の授業でがーんときたというだけの話。

重文や複文になると、固まってしまうのでしょうね。それに、「困る」という動詞一つにしても、どういう状況下での「意味」なのか、それぞれが(ネパール、ミャンマー、ベトナム、パキスタン、スーダン)母語や半英語での理解で捉えているので、そこもまた難しいのでしょう。

感覚を表す言葉、感情、気分を表す言葉は、なかなか別の言語に仕切り直すことは難しい。で、この場合の「困る」は、こういう、あるいは別の時に(と、いくつかの例を出しながら)感じるものであるから…と始め云々とは言いましても、この私の用いた日本語のどれほどが理解できたでしょうね。おそらくは私の表情、仕草からそれとなく感じただけなのでしょう。ともあれ、何となく一応、嵐は過ぎた…感あり。あまりいいことではないのでしょうけれども。

ただ、「わからない」とはっきり言ってくれるのが救い。言ってくれれば、どこが判らないのか、あるいはどう説明していったら、少しはましになるのか、こちらでも考えられますから。

日々是好日
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コロナ禍で、学生数は減っていても、だいたい毎年同じようなことをしているようです、この学校では。

2020-07-13 08:36:22 | 日本語学校
小糠雨。

「糠」、そのものといった雨が、サラサラと降っています。「霧雨」であったら、気づかぬうちにグッショリと濡れそぼってしまうことにもなりかねないのですが、この、春の(もう、いつの間にか、夏になっているのですが)小糠雨は、落ちるなり蒸発してしまいそうなほど頼りない…もの。それでも、雨は雨。

日曜日は、地域の清掃日でありました。皆でゴミを拾ったり、公園の草を刈ったり、フェンスに巻き付いている蔓草をとったりと、30分ほどでしたが、かなり汗を掻きました。

この公園の、垣根というか、フェンスがあるから、垣根というと変なのでしょうけれども、フェンス下には、いろいろな草花が植えられています…多分、誰かによって。

変なところから、きれいな花が顔を覗かせていたりするのです。それが、まず、面白い。昨日気がついたのは白い「クチナシ(梔子)」の花。春先は何でしたっけ?この清掃日でもない限り、ここに行くことはないので、すぐに忘れてしまうのですが、春、夏、秋と清掃日が巡ってくるたびに新しい発見をして、ちょっとうれしくなってしまいます。「お久しぶり」と声をかけたくなってしまいますね。

さて、学校です。

「Aクラス」、「Bクラス」、「Cクラス」、「Dクラス」とクラス数だけはいつも通りなのですが、「Aクラス」は、現在8名(一人、お休みしています)。「Bクラス」は9人(但し、「Cクラス」と1名かぶっています)。そして「Cクラス」は4名(前述の「Bクラス」とかぶっている1名と「Dクラス」とかぶっている1名を入れてです)。そして「Dクラス」は3名。ここには、遅れて入ってきたので、前の部分を未習の(とはいえ、日本には長いので、かなり「聞く・話す」はできます)1名は、1時間ほど早く来て、その部分を習い、終わるとそのまま、「Dクラス」に合流しています。

こういう小規模の学校は、レベルに完全に合わせたクラスを、いつも作っておくということは難しい。それで、本人の希望を聞いた上で、二つを掛け持ちしてもらうこともあるのです。ただ、年齢がかなり上の場合、二つの異なったレベルの授業に参加することは、本人が思っている以上に困難なことのようで、だいたいは挫折してしまう。…参加するだけならいいのですが、人間、参加する限りは頑張りたいと思うもの。結局、「二兎を追う者は一兎をも得ず」となってしまうというのが落ち。ということで、十代の学生には無理をさせることはありますが、40代、50代となると、ちと考えた方がいいというアドバイスはしています。

それでも、参加したいと言う人には、「予習のつもりでね」と言い、こちらでも、(相手が)わからないからと言って、いちいち面倒は見ないようにしています。なにせ、皆、母語が違うのです。面倒を見始めたら、キリがない。それに、どうせ、1,2週間すれば、そこを(元のクラスで)やるのですから。

それから、漢字です。漢字の導入をせぬうちに、書かせてしまうと「適当に見て、書く」というとんでもない習慣がついてしまう。そうなると、お互いに後々困ることになる。…で、漢字の面倒は見ない。

と、まあ。人数は皆で23名…とは言いながら、在日の方の人数がほぼ半数を占め、いつも通りとは言いながら、こうだったっけという感じです。

今年はコロナ禍で、出入国もままならず、たぶん、コロナが続く間はこんな具合でしょうね。とはいえ、昨年も作昨年も、高校入学のための学生も入れて面倒を見ていました…どんなときでも、同じようなことをしているような気がします。

日々是好日

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「みんな、大変なんだなあ。」これは、人ではなくて、「国」が、です。

2020-07-01 07:55:31 | 日本語学校
曇り。

昨日の予報では…今朝、雨が降っているはずだったのです。それが、…降っていない。ベランダも、濡れていないどころか、乾いているところがチラホラ…。お天気の予報も、千葉県で見るよりも、東京で見て、だいたい間違いがないはず…で、テレビをつけて、東京を見てみます。やはり、降っていない。いつの間に変わったのでしょう。ま、いいかと、自転車で、出てきました。

けれども、降るのでしょうね、時間が経つと。雲が早く流れています。上空はかなり風が強いのでしょう。

だいたい、「雲を掴むような話」と言うけれども、雲は掴めないし、雲を走らす風も掴めない。風は雲を走らせて初めて、それと感じられる存在で、それだけであったら、空気ですから、見えはしない。汚染されていれば別でしょうけれども。

樹の葉を揺らす、煙をたなびかせる、顔に当たる…で、風の存在を知る。

何だか、とりとめのないことを考えているようです。

人の感覚など、制限をつけることはできないでしょうし、人の心も「ここからここまで」なんて、線引きすることもできないでしょう。それなのに、人は、決めたがる。支配したがる。相手を自分の判る範囲に置きたがる。わからないことを言われたり、されたりするのが嫌なのでしょうね。

けれども、本来、人は、わからないことをするから生き物であって、それ以外の何ものでもないのです。「ネコ」や「イヌ」が、わけのわからないことをすると、かわいいと褒めたり、チヤホヤする人が、どうして相手が同族であると嫌がるのでしょうね。

もちろん、人は「孤」では生きていけませんから、「社会」を作ります。その「社会」に生まれながらに存在していたり、あるいは後から加わろうとするなら、その「社会」の決め事は守らなければならないでしょう。嫌なら出ていけばいいのですから(ただ、今は、それが難しい国がたくさんあります)。

けれど、一般的にいえば、普通であるならば(これも難しい。何を以て「普通」と為すか)、「(その社会にいる)人を傷つけない」、これが約束事。人を傷つけたがるような人にとってみれば、それは余計なことでしょうけれども、大半の人にとっては、「平穏無事」というのが一番でしょうから、それを受け入れる。いわゆる「日常」です。

それに、もし、そこで「共同作業」をすることになったら、「時間を守る」とか、「順番を守る」とか、「必要な道具を揃える」といったことも、決められていくでしょう。

そういう風にして、年月が経っていくと、社会が、いつの間にか「そうあらねばならぬ」という、ガチガチの組織めいたものになっていくかもしれません。

「約束事」が、「制約」になり、「法律」になって、人を苦しめ出すのです。大らかに、「人が嫌がることをしてはだめ」と言われ、「そうだなあ。そんなことしてはだめだよなあ」と思い、育ってきた人までが、「何かすると捉まえるぞ」とか、「死刑だぞ」とか脅されるようになってしまうのです。

人は、確かに自分で自分を律するのは難しい、疲れる。子供のときからそう学んできて、半ば習慣になっていようとも、疲れる時がある。そういう普通の人は別にも、人が嫌がることをして喜んだり、優越感に浸ってしまうような、人としてあるまじき事をする人がいるから仕方がない…。本来なら、そんなことまで法律で「してはだめですよ。そんなことをすれば、罰金ですよ」と刑罰を入れなければならないなんて。

法律というのは、一つ入れる毎に、ますます増えていきます。煩雑になっていく。時代が変わっていく毎に、新しい法律を作らねばならなくなる。雁字搦めになっていくような気がする。もちろん、普通の人は法律とは無縁です。警察と関係が生じるのは、落とし物をした時くらいのもの。

ずっと同じ場所に住み、そこしか知らない人たちは、自分たちに輪っかがはめられているのに気がつかない。ゆっくりとごく自然に行われているわけですから、空気みたいなもの。馴れてしまうのです。

ところが、そこに風穴が開けられることもあるのです。それが同じ価値観や審美観を持っていない人たち、つまり「客人(まれびと)」の存在です。人は、そういう人たちを畏れながらも、その集団に問題が生じたり、社会的構造が錆び付いたりしていたときには、この「まれびと」を歓迎します。終われば、「よそ者」として追い出したり、危害を加えたりすることもあるかもしれませんが、年月が経つうちに、その影響の大きさに気づくでしょう。そこに「存在」しただけでも、おおごとなのですから。

それなのに、その「まれびと」の集団の大国であるはずのアメリカでも、そういう人たちを否定しようとしている。もともと、そういう存在を許さぬような中国と、同じようなことをしている。

中国は、何かが怖いのでしょうね。偉大な指導者がいた時には、彼等の行動は「自在」に見えました。「自由自在」というよりも、「変幻自在」と言った方がいいほどに。それなのに、今は、自信がないからか、自分が傷つけられたり、利権が失われるのではないかと恐れているからか、やることなすことが、自分の逃げ口を自分で塞いでいるような気がしてならないのです。「非常口」がなくなったら、どうするのでしょう。どんどん世界が狭く薄っぺらになっていくしかないでしょう。その前に、自縄自縛になって、身動きできなくなってしまうかもしれません。

両国とも、大国で、何も恐れる必要などないでしょうに。アメリカにはアメリカの良さも強さもあるし、中国も同じです。問題が、どれほど山積していたとしても、穏便な方法でどうにかできないはずはない。だいたい、どこの国でも、問題は山ほどある。日本だってそう。

一個人に対してよく言われているように、欠点(問題)を、直そうなどとは思わずに、長所(持ち前の素晴らしさ)を伸ばしていく方に力を注いだ方がいいのではないか。それが、袋小路に入ったような「今」から抜け出せる唯一の道ではないか。

だいたい、金持ち喧嘩せずと申します。

日々是好日
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