窓を開けた時には、ベランダが乾いていたので、あれ?今日の午前中は雨という予報だったのに…。そう思いながら、準備をしていると、急にザアッと降って来ました。雨だ…。ところが、しばらくして止み…、今日はこの繰り返しカナ。
春の空となんとやら…と呟きながら、うちで書いています。
さて、学校です。
何かの拍子に、学生たちの母国のことが話に出てくることがあります。
留学生たちの祖国は、だいたいが私たちが想像もできないような、様々な問題を抱えていることも多く、中には内戦状態にある国もありますし、経済が日本どころではないと言う国もあります。
彼らの多くは日本に来て、ある意味、ホッとし、それから緊張し…という過程を経て、だんだん表情が緩んで来て…笑えるようになる。表情が緩むまでいくと、こちらもホッとします。「本来の顔」になるからです。
もっとも、これは毎日学校に来て、勉強し、日本語がある程度身につけばということなのですが。そうではなくとも、最初の頃は、表情が緩むまではいく。これが大体、2,3週間。こうなると、隣近所と初めて出会った人同士が、挨拶したり、話したり(最初のうちは、身振り手振りの方が多いのですが)するようになるので。クラスがうまくいくのです。
それに、緊張が解けると、勉強の方に気持ちが向いていくものですから、普通は。
今期の学生(四月生)は、兄弟や親戚が呼んだ人を除けば、皆、同国人が先輩の中にいます。「入学式」の茶話会の時でも、彼らが通訳をしてくれましたし、日本での生活についても、訊かれたことには答え、それなりの話をしてくれていたようです。
とはいえ、「N5試験対策」のみの勉強しかしてきていない国の人もいて、その人たちは、『みんなの日本語(Ⅰ)』まではどうにかついて来られても、『(Ⅱ)』に入ると、やはり少々きついようで、そのときには、「七月生」と一緒にもう一度やることになる…。「七月生」が来る頃には、「(Ⅱ)」に入っているでしょうから。
国力の差というのは、よく「文化力」だ、「教育力」だと言われます。本当にそうだと思わされることも少なくなく、ある国では、教科書はすべて英語。英語がわからない子供、あるいは不得手な子供は、先生が内容を説明してくれるのを聞いているだけ。そして内容を暗記して、点を取るという勉強の仕方しか経験していないということになる。
「文字」を目で追って、「内容」を掴むという教育がまだなされていないので、短いものであっても、「読解」めいたものになると、途端に目が泳いでしまう。これまでの教育方法と違うから戸惑ってしまうのです。学生の中には、「覚えるだけでよかった。どうして、日本では、内容のことを訊くんだ」と訴えてきます(もとより、内容理解のためには、主語を訊いたり、接続詞が出てくれば、前後の関係を訊いたりします)。
こういう学生たちの不満(?)を通して、私たちも彼らの国情が少しずつわかってきたりする。そういう学生は、覚えるだけの授業は楽しいらしく、嬉嬉として、何度も同じことを繰り返してくれます。ところが、覚えることに長けている学生は、すぐに覚えてしまいますから、すぐにいい加減にやり始めます(そのときに覚えても、理解とは別のものらしく、すぐに忘れてしまいます。土日の休みで白紙になっているのですが、どうも本人は、習った時にすぐ言えれば、それができたと思ってしまうらしい)。それに、分量が彼らの思っているのとは、遙かに違っているようで、小馬鹿にしているうちに、ついていけなくなる。テキトーに覚えているうちに、量が多いので、どれがどれやらわからなくなってしまうのでしょう。
それでも、毎日学校に来ていれば、それなりに話せ、聞き取れるようになるので、アルバイト先では重宝される。で、自分がきちんとできていないというのを意識的に消すのか、無意識のうちに消えてなくなっているのかわからないけれども、わからなくなってしまう。
テストをすると、…どうして合格できないのだ。点が取れないのだとなる。
確かに宿題はして、提出はしています。けれども、「写すだけ」であったら、何にもなりません。「漢字」にしてもそう。週一度のテストのために覚えて、そのときは、合格するけれども、それで終わっていたら、まず覚えられません。勿論、せぬよりはした方がいいのは確かなのだけれども。漢字ばかりは、学校でやるのは限界があります。
こういう学生は、能力があっても、下を見て自分を慰めようとするのか、きちんとやろうとするよりも、茶々を入れて、自分ができる範囲でどうにか過ごそうとするようで、そうなると、そこで止まってしまう。
上を見て、ドキッとできる人、あるいは自分で気づける人は、やらねばどうにもならないことがわかるので、こちらも楽なのですが。つまり、彼らが求めるもの、どんどん日本語力を高めていけるものを与えていけば、取り組んでいるうちに、いつの間にか力はついていきますから。
とはいえ、自覚がない人たち、あるいは、覚えるだけではない授業に慣れていけない人たちは、かなりの時間が必要になってくる。自然に、できるようになるまで待たねばならないのです、周りの日本人とのやりとりで、勘をつけていくしかないような部分少なくないのです。ところが、留学生は時間が限られているときている。次の段階(進学したり、就職したり)に進むためには、それなりにできていなければならない。
ただ、よく思うのですが、この二年、乃至一年と三ヶ月ほど(この学校は四期制なので)というのは、決して無駄ではないと。たとえ、日本語力はたいしたものではなくともです。「日本とはこういうところなんだ」、「日本ではこうしておかねば信用されないんだ」というのが、学校生活やアルバイト生活を通じて、皆、ある程度はわかるようになるようなのです。これがなく、直接、日本社会に放り込まれると、その会社がいくら親切であろうと、そこでは仕事が主で、勉強は従ですから、本人は大変でしょうね。
今は、ゴールデンウィークの真っ最中。火水木と授業があって、また来週の火曜日までお休みと来ている。今日も怖いし、来週の火曜日も怖い。「行きはよいよい、帰りは怖い」じゃないけれども、あの曲が、耳にこだましています。
日々是好日