日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「きれいな秋空」。「大学に行きたいという学生達には」。

2014-11-28 18:06:16 | 日本語学校
 晴れ。

 きれいな秋空が拡がっています。

 昨日、江戸川大学の先生方が、この学校を見に来てくださいました。顔なじみになった先生方もいれば、初めての方もいらっしゃいました。初めての方は、留学生達の実情がわからずに、一つ一つに驚かれていました。

 日本人にとって、お金がなくてする留学などは、あまり考えられないのです。お金をまず準備してから、留学を考えます。一年分のお金があれば、1年留学し、二年分あるのなら、2年留学する。学費も生活費も、たいていは日本で準備してから行きます。その地での旅行を考えたりしていれば、そのお金も考えなければならないでしょうし、長期休暇毎に一時帰国するつもりなら、それのための費用もあらかじめ考えておきます。

 ところが、現在、日本語学校にいるような留学生は、かつての「苦学生」とでも言うべき存在で、来日後の生活費から次に進む学校の学費まで、大半の留学生達は自分の力で稼がねばなりません。
    
 もとより、だからといって、彼等の母国での生活が貧しいものであるというわけではなく、殆どが、それほど裕福とまでは行かなくとも、彼等の母国ではそこそこの生活をしている人達です。もちろん、何を以て貧しいといい、何を以て豊かというのかは、また別問題です。それに、日本で高いものであっても、彼らの国では安かったり、また逆もあることですし。   
    
 母国では、日本人の若者のように、おっとりと暮らしていた人達が、来日後は、シャカリキに働かなければならないのです。

 彼等の状態を聞けば、大半の日本人は、「気の毒だ」とか、「勉強も、アルバイトも頑張っているんだ」と、温かい目で見てくれるのですが、それでも、大学まで行ける学生は僅かなもので、大学以外は考えられなかった中国人が多かった頃とは雲泥の差があります。

 中国人だって、漢字が判るから日本でどうにかなっているだけの話で、漢字が判らなかったら、大学入学なんて夢のまた夢というような人だって少なからずいましたもの。

 とはいえ、「非漢字圏」の学生達にとっては、漢字が大きな問題なのは事実です。それに、彼等の国では、日本ほど「本を読もう、読まねばならぬ」という教育はなされていないようで、単語がわからぬでも、文法が判らぬでもない、けれども、読み取れないと言う場合も多々あるのです。

 であるからこそ、時間が必要になってくるのです。

 日本語学校で勉強している学生であったら、だれでもいいから、大学へやれるかと聞かれれば、決して、そんなことはないのです。日本語学校にいる2年間をどう使うか。どれほど日本の生活に慣れているか。

 まず、学校に来ず、来なくて勝手をすることに慣れている人もいます。突然現れて、大学へ行くと言われても、私たちだって手に余るような人を、親切な大学へ紹介することはできません。やはり、私たちとしても、最低限の線引をする必要があるのです。

 多分、大学の先生方は、そういう状況が判っていないと思います。

 日本語学校にいる間に、勉強に向いていない人達は、自然に落ちていきます。「机につくのもかったるがる」、「教室にいても、携帯で遊ぶか、寝ているかしている」、あるいは、「授業中、近くの席の者は言うに及ばず、遠くの席の者とも大声で話し合ったりしている」。

 こういう人が大学に行っても、意味はないのです。その上、減免という特典を受けたりするのは、やはりおかしいですね。

 私たちも、大学を目指そうという学生達には、「日本人の学生達の方が、みんなより学費は高いのだ」ということを、徹底して教えるようにしています。だから、ちゃんと勉強してもらわなくては困るのです。結局は国民の税金が使われているのですから。

 できれば、そういう事情がわかったうえで、大学に入って頑張ってほしいもの。こういうことは、心ある学生であってみれば、知っていると知っていないとでは差が出てきます。そういう日本人の気持ちを理解した上で頑張ってもらいたいのです。

日々是好日
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「お天気の話で始まる、毎日」。

2014-11-27 18:53:13 | 日本語学校
 晴れ。

 二日続きの雨が止んで、今日は「晴れ」とのこと。今のところ、まだあちこちに、黒い雲の切れ端が浮かんでいますが、それも、もうすぐ消えていくことでしょう。今日の気温は、8度から17度と出ていました。暖かくなりそうです。

 昨日、一昨日と、ダウンやコートを濡らしてやって来るのは自転車通学の学生達。バスや電車を使ってくる学生達の体は濡れていません。体を濡らしてくる学生達も、その理由というのも、自転車用の雨具を敬遠していることから来ているようで、「かっこつけし」が多いのでしょう、特に男子学生は。

 学校に来るなり、「寒いです」。もう、「おはようございます」が、「今日も寒いです」に入れ替わってしまって、また、それについて、文句も言えないのです。

 日本人同士だって、寒い日の朝、出会えば、
「まあまあまあ、今日も、お寒いこと」なんて、言い合っていますもの。

 彼等の気持ちもそれと同じなんでしょう。季節の区分が、割合にはっきりしていて、それが草木の姿からも、お天気からもわかる。そうなると、次第に、「今日も暑いですね」とか、「いいお日和になりましたね」なんてのも、自然に口から出てくるようになるのです。

 さて、学校です。 
 
 昨日、一人、日本語を学びたいという女性がやってきました。母国で大学を卒業していても、結局は日本語の問題が話せないということで、いい職が探せない。漢字を覚えて、できれば、大学の専門を生かした職に就けないものか。

 来日後1年ほども経てば、それなりに日本社会に関する見聞も拡がり、ではどうしたらいいのかと思ったときに、やはり、ここで生きて行くには、日本語を学ぶしかないという結論になったのでしょう。

 ただ、できれば、もう少し早く来てほしかった…。

 話すことは、十分できる。日本の社会に入り、そこで必死で覚えた日本語でしょうから。ただ、「書く」、「読む」ができない。それゆえに、できればそれ(だけ)を主に、やりたい。それから読むことによって知識も身に付けたい。…しかしながら、そう言われても…。

 個人的に友人の教えてもらうわけにはいかないのか。あなたの場合、漢字だけだから。

 友だちだったら…キチンと勉強はできないでしょう。学校でちゃんと勉強したい…。

 とはいえ、日本語学校では、主な対象者は、日本語を勉強してから、専門学校なり、大学なり、大学院なりに行きたいという人達であって、国である程度、勉強してきた人が殆ど。とはいえ、皆「あいうえお」から、始めます。

 いくら国でやっていても、こちらで改めて学んでみれば、ボロボロとあらが出てきます。それを、半年くらいやって、そして「読み、書き、話し、聞き」が、ほぼバランスよくできるようになる…というのが、真面目に毎日学校に通っていた人の状態。

 そこに、「聞き、話し」は、そういう学生達よりもズンとできるけれども、文字が全然できないという人が入っても、これは難しい。もちろん、本人のやる気度にもよるのでしょうが、だいたいが続きません。

 「ひらがな」、「カタカナ」は判るけれども、と「初級クラス」に入れば、「簡単すぎる」…。我慢がききません。

 「話す、聞く」レベルに合わせて、上のクラスに入っても、文法が最初はトンチンカンで判らない。で、判るまで我慢できるかと言うこと、「話せるから、そんなことはあまり知らなくてもいい」と言い、途中で、(難しいと)やめてしまう。そういう人ばかりという訳ではありませんが、そうであった人が多いというのも事実。

 もちろん、そうなるということもよく判ります。余程の理由がない限り、話せれば、それでもやっていけますから。ただ、彼女のように、きちんとしたところで正規に働きたいとなると、やはり、漢字はある程度覚えなければなりませんし、文法的におかしな言い回しも困る…。

 で、彼女には「このようなこと」を伝え、それでも(やるつもりなのか)と確かめたのですが、やはりやりたいと言うのです。それでは、時間のあるときに、半日でも授業を受けて、それから決めるようにと言って帰したのですが、こういう真面目そうな女性を見ると、ちょっと、気の毒になるのです。

 何か、もう少し早めに、もっといい手段はなかったのかと思われてならないのです。

 もっとも、こういう人はこの女性、一人というわけではありません。もっと若くても、日本語に押し潰されて、高校にも行けぬ、そういう人達も少なくないのです。

 グローバル化が進めば、こういう人たちはもっともっと増えていくことでしょう。結局は、本人の根性に頼る、それだけが解決策のようになっているのです、残念なことに。

日々是好日
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「今日も雨です」。

2014-11-26 13:37:29 | 日本語学校
 雨。

 昨朝から、降りみ降らずみしていた雨が、今朝も、降りみ降らずみしています。今日一日はこんな調子らしく、ちょっとため息をつきながら外を見つめています。

 最近は、喉の変調を訴える学生が多く、今年の風邪が「喉風邪」であることを聞けば、さもありなんというところなのですが、当の学生達にしてみれば、追い打ちをかけるような、この冷たい雨。きっと恨めしく見つめていることでしょう。

 今朝は10度。そして、今日の最高気温も13度とのこと。日較差がほとんどない…寒く感じるはずです。

 いつもは自転車ですから、景色も細かいところは見えません。今日は歩きですから、いつもに比べれば、それは見える風景が違う。しかも、雨と風のせいで、散る木の葉、また散り敷かれている落ち葉にも目がいってしまいます。その上、咲き始めたばかりの頃、見ていた萩の花の、今の、寂しげな姿にも気がついて、ガックリ。

 情報によると、「明治神宮外苑」の「イチョウ(公孫樹)」は、この雨と風によって、終わりを迎えるかもしれないとか。今年は「イチョウ」は見られずじまいになるのかと、近くの「イチョウ」には気の毒なことを思ったりしています。

 「イチョウ」の樹は、私の小学校にもありました。近くの小学校にも中学校にも、高校にもありました。「サクラ(桜)」と同じで、どこの学校にも、あるのが当然だと思っていました。全く疑いも抱かずに。それが、「イチョウ」を植えていない学校もあるということを聞き、本当に驚いたことがあります。やはり、「サクラ」とは違うのですね。「サクラ」は、入学式とか卒業式とかとセットになっていて、「サクラ」がない入学式など考えられないくらいに、あたりまえのなのです。新入生に「サクラ」というふうに。

 さて、学校です。

 昨日は第二回目の模擬試験。今年は、二年生クラスよりも、一年生クラスの方が真面目に取り組んでいるという不思議な状況です。もちろん、例年、一年生クラスは初めての模試ですから、それなりに真剣にしていたのですが、二年生クラスは最後ということもあり、もう少し(一年生よりも)真剣に取り組んでいた…ような記憶があるのです(やらない人はいつもやらないので、そういう人は除外して)。

 それに、二年生クラスでも、上のクラスの方が、もう少し、真剣味があったような…。だいたい、普通は成績が良ければ良いほど、点数にかける気持ちが強くなるはずなのですが、今年は、どうも、ちょっと違う…ような感じ。

 「試験だ」で、緊張するどころか、…まるで、いつもと同じ。こちらの方が、いいのかな、どうなのかな。もしかしたら、こちらの方が当たり前…なのかもしれませんが。

 東アジアの漢字圏の学生達を主にした考え方はやめようと、ここ、数年はそういう考え方でやろうとしてきたつもりなのですが、やはり、なかなか(自分切り替えられないようです。 

 自分だって、東アジア圏の中にいるわけですから、それも当然なのかもしれません。

 授業のやり方も、随分と変えて来たつもりなのですが、いまだに、いろいろな所で違うな、もっとこうした方がいいのではないかなどと思わされています。全く学生が違うと、こちらも変わらざるを得ず、全く「100年生きていようと、今日の一日は初めての一日」ですね、本当に。

日々是好日
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「今月、二度目の連休でした…」。

2014-11-25 10:27:38 | 日本語学校
 曇り…だったのですが、家を出る頃からポツリポツリと…。無理をして、自転車で来ましたけれども、おもしろいことに、出たときに、出会った傘の人は少なかったのに、駅へ行く角を曲がる頃には8割方は傘をさしていました。雨粒も少し大きくなっていた…ような感じでした。

 さて、学校です。

 11月は3日の「文化の日」と、24日の「勤労感謝の日(23日)の振替休日」と、一か月に二回も連休があるものですから、学生は大喜び。でも、こちらはそれほど喜べない…。だって、まだ「日本語がそれほど落ち着いていない段階での3日」というのは、教える側からすれば、少々辛い。三日後(土日月)の、その日は、まず復習に明け暮れるということになってしまいますから。

 もちろん、表面上は、「いいのよ、忘れても。『忘れた』というのは、『知らない』というのとは全然違い、一度は覚えたということだから。白紙状態に比べれば、ずっとマシ。思い出せばいいだけだから」とかなんとか言いはするのですが、学生だって聡いもので、こちらの顔と心が正反対なことぐらいとっくにお見通し。

 当方の顔つきを見て、「ヤバイ」という表情をする者もいれば、「へへへ」とごまかそうとする者もいる。もちろん、真に受けて、「本当ですか」とニコニコする者もいる。

 学生達は、特に来日後、まだ半年ほども経っていなければ、体がアルバイトに慣れていませんから、それと勉強と両立させるというのはかなりしんどいこと。だから、こちらも最初のうちは、「勉強しろよな」と言いたいのをグッと怺えて(腹の底にしまい込んで)、にこやかな物言いをしているのですが。

 そのうちに、(見ていると、半年ほど)頑張ってきた学生は、何となく体がそういう生活のリズムに慣れてくるのです。それまでは、授業中もよく(耐えきれなくなって)船を漕いでしまっていたのが、少しずつ、その時間が短くなる。そのうちに休み時間に10分ほども熟睡すれば、後半の授業に耐えられるようになてくる。

 アルバイトにも慣れたという面と、それでもがんばって毎日学校に来ていたということから、そういうリズムが体についてきたのでしょう。そして教員の方でも、そういう学生が多ければ多いほど、授業もしやすくなるので、乗ってきます(彼らに合わせた授業ができるのです)。

 つまり、毎日、学校に来て、眠いけれども勉強しようという態度さえ、見えていれば、こちらとしてもやりようがあるのです。半年ほどは、黙っていて、そして、少しずつ頑張れそうになっているなという頃から、彼らにできるくらいの要求を(少しずつ増やしながら)出して行く。…それまでは最小限の要求に抑えておいて。

 これとても、学生の質というか、タイプによっても、こちらのやりようが異なってきます。「判っていないのさえわからない」という人達が多い場合、「あなたたちは判っていないんだよ」を知らせることから始めなければなりません。ところがそういう人達に限って、彼らの国では、そういうことを「言われたことがない」と来ていますから、それを判らせようとする人間は冷たいということになる。

 つまり、「(勉強が全然)判っていないのを、こちらが知っていても、それを知らさないようにする(判らない振りをする)が徹底している国があるのです。それが彼等の国民性というか、何でもマアマアですませようとするのです(これは日本人の比ではありません)。彼らの国の人達と同じようにしていれば、「あの人はいい人だ」ということになり、「あなたは判らないでしょ」とか、「できていない」ということを知らしめようとすれば、「この人は冷たい人だ」となるのです。

 「判っていない」が判らないので、努力はしません。教室に来て、皆が言うように言えば、いいと思い込んでいますから、それで終わりです。意味が判らずにやっていますから、当然のことながら、上達はしません。けれども、本人はなぜ自分がおいて行かれているのかも判らないのです。本人のつもりでは、「皆と同じことが出来ている」なのですから。

 それは、あくまでも真似なのです。真似ができない程度に進んでいけば(リピートの文が長くなったりすれば)、ついてはいけませんし、少々複雑になっていけば、他の人も考える時間がいりますから、簡単に合わせるということがやりにくくまっています。

 でも、それでは、世間は渡っていけませんよね。教室の中もそう。世間ではないけれども、小さな世間です。自分の国の人達だけであったら、そういう人が大半であれば、それでも、何となく済んでしまうのでしょうけれども、他の価値観を持った人達もいるのです。それに、中には、自分の頭で考えようとする人達もいるのです。

 その中で、国にいた時と同じように、適当に言って、皆と同じようにできていると自分も思い、他者も思ってくれているはずというのは、ちょっと虫がよすぎること。ついて行けなくなるのは当然のことです。個別に言わせてみれば、言えませんから、できていないことは明瞭です。

 彼等の国では、こういう感じで相手を困らせる(?)のを「非」とするような、厭うような、そういう向きがあるようで、その国の人が、一クラスに多かった場合、どうして「はっきりさせるのだ。思いやりがない人間だ」みたいな目で見られてしまいます。そっとしておいてやれというより、それが当然の世界で彼等自身、疑いを持たないかのようです

 多分、皆、彼等の国でも、そういうふうにして小学校から中学、高校と、学校生活を送ってきたのでしょう。みんなとワアワアやっていれば、できているかどうか判らないし、テストでも、隣を見ればいいわけですし…。自分が勉強できないなんて、この国に来るまでは気がつかなかったのでしょう。

 日本では、まず「判っていない」ということを「判らせる」が、第一歩。「判らないこと」が判らないままでいるということは、「判らない」のが常習化してしまうということで、一番忌むべきことでありますから。
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「ダウンの下は、半袖…。で、寒い」

2014-11-20 09:04:12 | 日本語学校
 晴れ。とはいえ、うっすらと雲がかかっています、寒い。

 まだ日本の冬を経験していない、一年生達。たとえ、4月生であろうと、冬は初めてであることには変わりがありません。それなのに、今週、既に二回ほど、靴下を穿いていない学生を見つけました。4月生のくせに、四、五人もいるのです(10月生はまだ日本語がわかりませんから、言うのに骨が折れるのですが、4月生は判ってやっているような気配が濃厚なのです)。。

 彼等が来る前に教室に入り、「見っけ」をやると、ボロボロと出てきます、一列目から順にするのですが、最初の一人を攻撃していると、他の連中は早速、靴下を穿いていない足を隠そうと、私の目の届かないように、あっちへ(向けたり、こっちへ向けたりしています。

 日本の冬を甘く見ていると、風邪をひくというのに…。「大丈夫、大丈夫」で、すまそうとしています。

 外に出ていて、すぐ判るのは、足だけですから、ついつい、目がそちらの方に向いていたのですが、ハッと気がつくと、みんなが「暑い、暑い」と言っているのに、一人だけスリランカの学生が「寒い」と言うのです。

 風邪ではないのかと言い、後ろの席(前の道路側の席はガラス戸ですから、冷気がそのまま入ってきて、一番寒いのです)へ移るように言ったのですが、なぜか非難されているように感じたらしく、「行かない」を繰り返すのです。

 同国人の学生に、通訳を頼んで誤解ないように言ってもらったのですが、今度はその学生に対しても、かなりきつい口調で答えているのです。授業中、ダウンも着ていたので、(寒くはないはずなのに)なぜかなと思っていたのですが、教室から戻ってくると、教員の一人が「もしかしたら、ダウンの下は半袖なんじゃない?」

 そうなのです。時々、そういう学生がいるのです。

 聞くと、母国から持って来た薬を飲んではいるそうなのですが、多分、すぐに効くというタイプの薬ではないのでしょう。まあ、強制できるようなことではないので、ゆっくりと日本に慣れていくのを待つしかないのでしょう、結局は。

 日本での生活が辛くなると、何でも母国に関するものを手放さなくなります。こういうのも、そのひとつなのかもしれません。

日々是好日
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「模擬試験」。

2014-11-19 09:48:21 | 日本語学校
 晴れ。

 きれいな青空が拡がっています。冬になると乾燥するので、都内からもよく富士山が見えるのですが、行徳でもそう。時々ビルの谷間からチラリと見えることがあります。今日もきっと見えているでしょうね。

 先週、鷲宮へ行ったときも、富士山がよく見えていました。電車に乗っている私を、まるで追っかけでもしているかのように、高架になったときとか、田園地帯になったときとか、姿を現してくれるのですから、こうなると、西向きの席に座りたくなってしまいます。

 あそこでは、三日続けて見えたと言われましたから、最近は乾燥しているのでしょう。そういえば、あまり雨が降っていません。

 冬が近づくと、だんだん、木の葉が地面に積もってきます。車道でも、きれいな落ち葉が両端に溜まって来ます。水捌けがいいようにと軽いカーブを描いて造られているから、自然に、そこに溜まっていくのでしょう。

 自然の色というのは、本当に無駄がない。不調和がない。一つとして同じ色、同じ形がないというのに、美を感じさせるのです。落ち着けるのです。突っ慳貪な色、形というのは、自然界にはないと見えます。人工的な色をまとっている人間なんて、神さまから見れば醜悪の一言に尽きるのかもしれません。

 さて、学校です。

 「日本語能力試験」を控え、昨日、第1回目の模擬試験を「A,B、C」の3クラスで実施しました。まだ初級の2冊目が終わっていない「Dクラス」は日を改めて実施します。「Eクラス」は、やっと動詞のグループ分けが終わったところですから、まだ試験なんて遠い先のこと。初めて日本語なるものを見た、聞いたという人が数人入っていることですし。

 試験では、グンと伸びた者、少しずつではあっても着実に伸びている者、停滞気味の者、それどころかドンドン下がっている者と、三者三様と言えば聞こえはいいのですが、授業中の態度から推測できるような結果がでています。

 ただ、以前に比べて大きな違いが一つだけあります。少しでも勉強しないと漢字がきれいに消えていくのです。それ故に成績は、つまりペラペラ話せ、聞き取れていても、下がり続けるだけということになってしまうのでしょう。

 「漢字圏」の学生が多かった頃にはありえなかった現象(現象と行ってしまうと語弊があるのでしょうが)です。それほど、漢字を「知っている」かどうかで、差が出てしまうのです。

 漢字なんて、書いて練習すれば、だれだって覚えられるのです、要は書くか書かないかに過ぎないのです。私たちの親の世代のように、たくさんの漢字を覚えることを要求されているわけではいないのですから。しかも、外国人に要求する程度の漢字ですから、知れたものです。特別な才能なんていりません。

 コツコツと、とにかく真面目にやっていれば、覚えられるのです。もちろん、「真面目に言われたとおりにやれる」という「才能」は必要ですが。国によってはこういう「真面目さ」を馬鹿にする向きがあるところもあります。あいつは頭が悪いから練習しているのだと見なされるのです。

 とはいえ、いくら自分が頭がいい(つまり勉強ができる)と思っていても、読めなければ、成績は落ちていくだけのこと。そうなると、人というのはどうなるか。漢字は難しいと言い、私は漢字は判らなくても、話せると自分のできることばかりを吹聴して、そこで「成長」は、ストップしてしまうのです。

 卒業生を見ていても、時には、残酷なほどはっきりとした結果が出ています。非漢字圏の学生でありながら、日本人と遜色ないほど漢字を読みこなせる者もいれば、漢字の練習を怠ったばかりに(それですぐに帰れば問題ないのですが)、ずっと日本にいるから様々な問題が出てくる。

 漢字が読みこなせる者は、ドンドン知識が増えていきます。特に専門分野、仕事に関する分野は、読みながら知識を増やしていかねばなりませんから、漢字が判らなければ、知識もそこで止まってしまいます。せっかく日本にいるというのに、その意味がありません。中には中国語の漢字も判るという者さえいます。聞くと違う字もあるけれども、推測できるそうで、これはなかなかのものです。

 卒業生を出して10年近くにもなると、日本で成功している者、日本国籍を取得した者などが幾たりか出ているのですが、その反対にまだ日本でいろいろな仕事をしているにもかかわらず、国に帰りたいと愚痴をこぼし続けている者も出てきます。

 結局は、書かれたものが「読めるかどうか」で、決まってしまうような気がするのですが。

 どこの国であれ、その国の言葉が読めなければ仕事も勉強もできないのは当然のこと。よしんばできたとしても、それ以上の発展は望めないでしょう。

 自分では「頭がいい」つもり、「仕事ができる」つもりであっても、それを決めるのは、他の人であり、その人ではないのです。他の人が認めるかどうか、それが大切なのに、社会の幅も深さも狭い人達は、自分が決めれば、それがそのまま第三者からも認められるものと思い違いして行動しますから、不満や葛藤が生じてしまう。

 「私は頭がいい」ときっぱりと少しの躊躇もなく言われて、こちらの方が「へっ????」と、呆然としてしまうようなことはなくなりましたけれども(慣れたのです)、やはり、そういう人が留学生としてこの学校に来てしまうと、対処に困ってしまいますね。そのレバルで頭がいいと思い上がれるほど、あなたのところは頭のいい人がいないのかと、言いたくもなってしまいます(言いませんけれども)。

 同じように「私は何でもできる。仕事はできる」と言われても、(実際にできても)その人が信頼に値するかどうかはまた別問題で、この世の中は、いくら仕事ができても信頼するに値しなければ、その人の社会における価値というのは、その人が思っているほどには得られないものなのです。

 特に日本では、たとえ仕事が多少遅くとも、実直な人、この人は信用できると見なされた人の方が、仕事は入ってくるものなのです。「真面目な人」、「コツコツとがんばる人」に対する評価というのが、もしかしたら、他の国よりもずっと高いのかもそれません。

日々是好日
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「『俺は、あいつより、できるのだ』と言い続けることの愚」。

2014-11-17 10:00:38 | 日本語学校
 晴れ。風もなし。

 「ススキ(薄)」が、穂先だけを毛羽だたせて、揺れています。「サクラ(桜)」の葉が見応えがあるほどに染まってきました。とはいえ、ここの「イチョウ(公孫樹)」はまだ黄葉していません。そんな様子でも、暦の上では、もう、晩秋。

 さて、学校です。

 「類は友を呼ぶ」、「類は友を以て集まる」、「似るを友」、「牛は牛連れ、馬は馬連れ」、「同気相求む」…。

 もともと、気質が似ていたから、寄り合ってしまうのか。それとも、それほどの志があったわけでもなかったが故に、アルバイトをしながらの勉強に耐えきれず、楽な方、楽な方へといった結果、寄り合ってしまったのか。

 渦の中心が、一人だけでもいると、そちらに巻き込まれてしまうようです。

 日本でもそういう生徒は、います。中学校でも、高校でもそう。さすがに大学生ともなると、視野は広がりますから、狭いクラスだけで云々というのはなくなるのでしょうが。

 この学校でも、そう。それも一つの国で、一つの問題というふうになっています。今年の二年生では、授業中、騒ぐのはスリランカ人だけなのですが。

 来た当座は、それほどとは思われなかった者達まで、その渦の中心に集まり始め、授業中、クチャクチャと大きな音を立ててガムを噛んで、それを注意されても、平気。互いに目を見合わせて、ニヤニヤしています。いったい、国でどのような教育を受けてきたのか、どのような躾を、両親から受けてきたのだろうかと疑われてしまうほど。

 何でも話によると、そういうふうにやって見せて、「俺はこんなにやっても、だれも俺を注意できないんだ。偉いんだ」というふうに、怪気炎を上げるのだとか。そんなこと、せいぜい猿山の猿に過ぎぬのでありましょうに。

 また、心ある人間は、(そういうのを)見るのも汚らわしいと思い、目にすることすら忌み嫌っているというのに、それも、判らぬのです。

 もちろん、一応、ここは学校ですから、説明はします。
「君たちの国では許されても、日本ではそれはいけないことなんだ」と。しかし、この皮肉は通じません。いえ、日本語がわからないわけではないのです。

 スリランカ人は学校へ来なくても、「N5」レベルの文法と単語は日常生活やアルバイトで覚えていけますから、それなりに、知らぬ人が見れば、「日本語が上手」と言われるほどにはなります。けれども、10年暮らそうが、20年暮らそうが、単語は覚えられても、また文として暗記はできても、文法はそこでストップしていますから、積み重ねは無理なのです。それに、漢字を覚えるほどには努力できませんから、書いてあるものが読めません。ですから、できる仕事が決まってきます。

 とはいえ、「俺はできる」を言い続け、態度でも弱みを見せてやらねば(何と言っても、できないことが見えないし、判らないのですから、強い。お山の大将でいられるのです)、不思議なことにスリランカ人の間では、出来ることになってしまうようなのです。

 それも、同国人であっても、常識のある人には通じないことだと思うのですが(だって、言っていることがおかしいことぐらいは判りますもの)、そういう、奇妙な人に引き寄せられていく学生も、思ったより、多いのです。もちろん、そういう人を、苦々しい思いで見ているスリランカの学生もいます。

 けれども、そこには、「弱いから」という一言では片付けられないような国民性があるような気がするのですが、それが何なのかは、今一つ判らない。ただ、こういう人が少なくないような気がするのです、彼の国には。

 僅か、この学校に来ている人達からだけ、感じたことなので、それでどうだとも言えないのですが、こういう感じでは、イギリスに呑み込まれたように、中国に呑み込まれていく日が来るかもしれません。日本とは違った意味で、大樹が必要なのでしょう。

日々是好日
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「卒業生が顔を見せに来てくれました。相変わらず……。」

2014-11-13 08:32:21 | 日本語学校
 晴れ。

 今朝、不覚にも、初めて気がついたことなのですが、天気予報の時に、降雪確率まで出ていたとは。いつから表記されていたのでしょう。これまで全く気がつきませんでした。

 降水確率は水色で、降雪確率は白で、パーセントが出されていました。これを見過ごしていたとは。ああ、もったいない、もったいない。不覚でありました。

 さて、学校です。

 昨日の夕方、平成18年度に卒業したバングラデシュの学生が顔を見せにやって来てくれました。彼は、大学卒業後、日本企業に入り、最近、会社を立ち上げ、その時に、この学校の卒業生をアルバイトに雇ってくれたのです。数度そのことで連絡しあったことがあるのですが、でも、卒業後、学校に来たのは、初めてですね、多分。

 外では会ったこともありましたし、電話で話すこともあったのですが、こうして、学校に来ている姿を見ると、変わりましたね、以前とは。外で会った時には、変わっていないと思っていたのですが。昨日は、新しい会社の異、将来の抱負などを話してくれたのですが、話しているうちに、変わらない以前の彼の姿が重なってきて、ちょっとホッ…。

 特に変わっていないとこ…、やはり顔は…顔は怖いまま…でした(ごめん)。アルバイトをしている学生達は、とても優しい人だというのですけれども…。

 それは、きっと、彼が、人の使い方がうまく、「できないことはさせない、できるまで待つ、教えるときは(相手の負担にならないように)少しずつ教えていく」と言うところから来ているのでしょう。

 アルバイト募集のことを話しているときに、「難しいことはさせないから」と一生懸命に力説していました。「でも…都道府県の漢字名くらいは読めてほしい。英語がある程度はできてほしい」などと、こそっとため息交じりに言っていましたっけ。それは本当にそう。できていない学生までアルバイトに雇ってもらって…申し訳ない…。

日々是好日
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「学校のサザンカが咲きました」。「『N3』文法」

2014-11-11 09:30:57 | 日本語学校
 晴れ。

 今日、雨になるそうですが、そんな気配は、今のところ、殆どありません。ただ、予報通り寒いだけ。15度と11度のあいだで今日一日は終わるとのこと、ブルブル…。

 学校では「サザンカ(山茶花)」の花が綻び(これは日曜日に)、花開き、そして近所では「ハギ(萩)」も、房の下の方から蕾が膨らみ始めています。ただ、「ススキ(薄)」だけは変わりません。頑固ですね、姿に似ず。

 最近、朝、少し早く家を出ると、「雀(スズメ)」の群れを目にするようになりました。もちろん、大群というわけではなく、おそらく10羽程度の群れであるのでしょうけれども。

 少し前までは、絶滅危惧種寸前並に「『スズメ』がいなくなった。どうしょう」と、大騒ぎでしたのに。いや、これは、きっと「『スズメ』さえ、見捨てるような土地ならば、人にとっても住みづらいに違いない」という観点から、騒いでいたのでしょう。

 もっとも、これも、専門家の意見では、「スズメ」のお宿がなくなったことが原因であったそうで、「スズメ」達は他の鳥類「ハシブトカラス」や「カワセミ(翡翠)」などのように、こういう都会でも生き延びられる術…を見つけることが苦手だったのかもしれません。

 「住み慣れた軒先じゃなくちゃいや」とか、「こういうお家じゃなけりゃ居心地が悪いからいや」とか…、まあ、そんなことはないのでしょうけれども。あの、田吾作さんみたいな頭で、いろいろと考えているうちに、いつの間にか姿を消してしまった…そんな哀れさまで、感じさせられます。「ないよ、ないよ、私のお家がないよ」と泣いているような気までしてくるのですから、たまりません。

 どうも、日本人にとって、「スズメ」というのは、「舌を切られて、泣きながらお里に帰っていった可哀想な小スズメ」のイメージ。それから離れられないようです。

 さて、学校です。

 「N3」文法と言いましても、「初級」を終えたばかりの学生達にとっては、なかなか難しいものらしく、時々、沈黙で応えられたりされているのですが。ただ「~なきゃ」とか、「~なくちゃ」とかは、比較的覚えやすいようで、口が回らないベトナム人学生も、帰るとき「帰らなくっちゃ」とか、言いながら帰っています。それから「~しょうがない」と「~たまらない」ですね、覚えやすいと言っていたのは。

 これらにしても、違いを厳しく言い募るのではなく、い区別というのはさておいて、使い方が正しければ「よし、よし」で一貫させておけば、「眠くてたまらない」とか「寂しくてしょうがない」とかが自然に出てくるようです。

 もっとも、そうは言いましても、「~てほしい」は、使い方がかなり難しいようで、「他の人にお願いするとき、しかも『~してください』と直接的に頼むのではなくて…」と、様子を演技しながら言うと、判ったような、それでいて、まだ判らないような顔をしながら、「先生、でも、大丈夫よ(多分、アルバイト先にこういう女性がいるのでしょうね。このクラスではなぜか、女言葉的な言い方の「よ」を文末につけるベトナム人男子学生が多いのです)」。何が大丈夫なのかわからないのですが…。

 このクラスの「ベトナム人男子学生」の習慣として、聞いてもよくわからないときには、最後に、だれかが「先生、大丈夫よ」と言うのです。すると、一様に、皆ホッとして「そうか、判らなくても、いいんだ」みたいに、(諦めるのではなくて)なかったことにしてしまうようなのです、その言葉を。

 ただ、その時に判らなくても、後に何度か出てきますから、その時に判ることも少なくないので、私としても、その時は、「これは『×』だなとか、『△』だな」くらいにして止めておくことも少なくないのです。そして、「初級の復習」だけでなく、「N3文法」や「N3漢字」などが終わった後、『中級』に入る。

 まあ、先の「Aクラス」同様に、一度こういうのを入れてから、『中級』の教科書に入ると、少しは気が楽になるようです。「漢字圏」の学生達を教えるときには、全く考えなくてもよかったことなのですが。それらをしておかないと、「非漢字圏」の学生達にとっては、漢字・文法・単語と三重苦の世界になってしまいますから。

日々是好日

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「ここは、まだ、桜の葉はしっかりと樹についているけれども…」。

2014-11-10 08:53:04 | 日本語学校
 晴れ。

 土日は、すっきりしないお天気でしたが、今朝は青空。そして空には白い月の姿まで。

 土曜日、埼玉県鷲宮でのこと。駅構内の「サクラ(桜)」は、すっかり葉を落としていましたし、駅前の川に生えていた「アシ(葦)」も白い穂をつけ、風に揺れるでなし、そのまま立ちつくしていました。歩いていると、そこここのお庭の「サザンカ(山茶花)」は、既に満開で、気温はそれほど低くはないけれども、「そうか、もう11月なのだ」ということを実感させてくれました。

 それにつけても思い出されるのは、ドイツ人の友人との話。
「サクラが咲いた…もう、春なんだね」と私。「間違っている。春になったから、サクラが咲いたのだ」と友人。

 日本人は、自然の姿から時を知るようで、その逆ではないのでしょう。日本にいるときには、こういう会話を経験したことなんてありませんでしたから。

 「サクラが咲いた…もう春だね」「そうね、サクラが咲いたからね」

 こういう世界では、もし、例年通りにその地の「サクラ」が咲かなければ、春は来なかったことになってしまうのです。こういう感性は、原始的といわれればそうかもしれませんが、多分、相当に根強いもので、いくら学校で科学を学んでも、科学的な感じ方・見方というのは、おいそれとは身につかない…ようです。

 以前、こんな日本人がいました。引っ越しを考えていて、気に入った部屋を見つけたのですが、それをある友人に見てもらうと、その友人が、こう言いました。
「いくら気に入ったとしても、窓は西と南の二つだよ。夏は、たまらないんじゃない」
すると、その人、
「住んで見なきゃ判らないじゃない。太陽がそっちから沈むとは限らないじゃない」
「………。」

 でも、本当に、思わず「そうだな」と相づちを打ちたくなってしまうのです、私も。最後は「愚か者!」で、終わりなのでしょうけれども…、「気に入った」が、勝ってしまうのです。

 さて、学校です。

 出席率で人を縛るつもりは毛頭ないのですが、それでも出席率のいい人は学業における成績もいいという関係があるものですから、日本語が上手になりたいのなら、学校に来て勉強した方がいいと、これは、そう言っても間違いではないでしょう。

 小学生や中学生ならいざ知らず、目的があると言って留学までして来た人達です。それなりに頑張ってもらいたいのですが…。けれども、去年の学生達は、どうも、よくわからない。半年も経たぬうちに、卒業しなければならないというのに。

 もちろん、必死に勉強している学生もいます。進学に必要だと言うことで、お金の苦労のほうにかまけている学生もいます。けれども、そのどちらでもない学生もいて、どうも、よくわからない。

 結局は、享楽的な部分の色が濃くなってきているのだろうなと思います。日本に来て1年あまり、で、随分慣れてきた。そして、慣れた分、楽になった…緊張することもは少なくなったでしょうから。毎日が辛いは困る、で、こうなってくる。

 こういうタイプの人達はちょっと困りますね。指導のしようがないのです。おまけに国によっては、そういう方向に、かなり簡単に強烈に引き寄せられてしまう人も多いようで…、一人だったら何もできないくせに、徒党を組むというか、だれかが先に声を上げると大喜びでそれについて回るというか、そういう国民性をたぶんに強く持っているらしく…、少々手に余る…。本当は気の弱い人達なのでしょうけれども。

 その上、こんな人も紛れ込んでいます。
「自分はこうしたいのだ」と、およそ、無理としか言いようのないこと(進学先です)を要求し、それ相応の努力をするかと思いきや、言いっぱなしで、誠意というのを全く見せない。「私は言った、後はそっちがうまくやってくれ」と、また姿を見せなくなるのです。そんな学生までいて、大変。

 こちらの教員も、「まただ」で、最初は「困るだろうから」とひたむきに対応していても、それが度重なると「向こうがそれなりの誠意を見せてから」というふうに変わってきます。すると、「前はしてくれていたのに」と不満を言い始める。

 よくわからないのですが、きっと、これは母国での教育、あるいは親の躾なのでしょうね。本人は「皆、他の人が悪い。私はこうしたいと言っているのに」で、終わっているようですが。

 こういう人が、小さい学校に5,6人ほども出現してしまうと、クラスの切り盛りがチグハグしてしまいます。で、雑用ばかりが増える。この雑用というのは、つまりは、同じことの繰り返しなのです。堂々巡りで終わり。

 前にこんな学生がいました。アルバイトがなかなか見つからない。学校も欠席がち。で、
「どうして、学校に来ませんか」と、教師。
「アルバイトが見つかりませんから、気分が悪いです」と、学生。
「どうしてアルバイトが見つかりませんか」と、教師。
「日本語が下手だからと言われました」と、学生。
「学校に来て勉強しないからでしょ」と、教師。
「面接で断られて気分が悪いですから、行きたくないです」と、学生。

 これを延々と3か月ほども繰り返し、最後は教師の方でも、自分でどうすればいいか考えろと頭に来ていたようですが。

 で、結論。
「日本に呼ぶ時の、入口を閉めろ」。「(条件さえ満たしていれば)だれでも日本語を勉強したい人はおいで、教えるから」(機会均等)から、「本当に、学びたいという目的、意識を持っている人は、おいで。責任を持って教えるから」に。

 さもないと、本当に勉強したい人たちまで、崩れていくかもしれません。勉強するのも、結局は一人ではできないのです。環境の整備(施設ではなく、雰囲気です)が大切ですから。

日々是好日
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「知らないうちに、専門学校の試験を受けていた…」。

2014-11-07 08:57:36 | 日本語学校
 晴れ。

 今朝、来るときに、「サザンカ(山茶花)」を見かけたような…気がしたのですが。まさかね。

 「ススキ(薄)」の穂も、まだそそけだっていないし、桜の樹の、柔らかい紅葉もまだ散ってはいないし、第一、「ヤナギ(柳)」だって、まだ箒になっていない…のです。それに、草むらから「コオロギ(蟋蟀)」の声までしたのです…今朝。

 だから、「サザンカ」では…ありえない…はず…。でも、早く咲く種かもしれないし…。いやいや、「サザンカ」ではないでしょう…。では、あれは、いったい、何だったのでしょうね。街路樹の下の灌木の間で、見かけたのですけれども…。

 さて、学校です。

 「Aクラス」では、やることで、二つに分け、一組はこれまで通り、「N2」の問題集(読解)と文法をやり、もう一組は、「N3」の文法と漢字をやる…ということに。

 「N2」組の方では、これまで、不満は多少はあれど、まあどうにかなる程度であったのに比し、「N3」組では、判らない…が高じて来ても無駄、判らないことばかりだもの…だったことでしょう。

 「N3」の文法は、2回目ですから、判らないところを聞けばいい程度でありましょうし、そばにいる「N2」組のだれかに聞けば、母国語で説明してもらえるでしょうから、それでどうにかなる…。

 もちろん、場面場面で、複式でやるというのではなく、はっきりと分けてしまったので、二者ともに同じくらいの力をそそぐというわけには行きません。そこは、初めての、しかも、何と言いましても、(彼等にとっては「難物」に近い)「N2」の読解と文法ですから、同然のことながら、そちらの方に多くの時間を割かねばならないということになります(これも説明済みですが)。それでも、「N3」の方をやりたいというのです。それはそうでしょう。ただ、これまでやっていた「問題集」の読解は、決して無駄になってはいないと思います。彼等にとって読解が一番難しいのですから。

 来年の三月に卒業することになっているクラスでは、それぞれがあちらの専門学校、こちらの大学と、私たちが知らぬ間に面接に行ったり、試験を受けてきたりしているようで、事後に聞かされて、ええっということも少なくないのです。

 中には、もう試験を受けてきて、「合格した」なんていう学生もいて、「えっ、願書はどうしたの?」と聞くと、「向こうで書いた。後は日本語学校の出席成績証明書と卒業見込み証明書だけだから、それを取りに来た」なんて言うのです。

 そういう、手間暇かけぬ専門学校も増えてきたようで、これまで、私たちが学生達に第一に言っていたのは、「どこに行きたいか、まず学校に知らせる。教員がその専門学校と連絡を取って、日時を決めて見に行く。行ってから願書をもらってくる」だったのですが、変わってきましたねえ、専門学校も。いえ、なりふり構わなくなった学校が増えたと言うことなのかもしれません。

学生が行くと、「よし、きたぞ。それ、取り込め」とばかりに、(学生に)「書いて。大丈夫。みんな、こちらが言うとおりに書けばいいから。必要な書類は後で持ってくればいいし。ついでに、今日、試験を受けたら」とやってしまうようなのです。

 後から聞いて、「いったいどこの学校?あなたは何を専門にするつもり?そこを卒業したら帰国するの?」としか聞けないと言う状態も出てきているのです。前に言っていた専門と違うのを選んでいるし、そこを出てもずっと日本にいられることは、まずないであろうに…。

 中には、勉強も好きじゃないし、出生率も悪い。「とにかく安い専門学校へ行きたい。とにかく入れる専門学校へ行きたい」となってしまう人もいて、そこにつけ込まれてしまうのでしょう。

 友だちの紹介というのが多く、やはり似たものは集まるということなのかしら。

 それに、出席率が悪く、日本語も大してできていないのに、なぜか、「私は大学へ行けるはず。行きます」と言い続ける人もいて、これなど「勉強する気がないのなら、大学に行ってもしょうがないだろうに」と、こちらなどは思うのですが、もしかしたら、これも「見え」ですかね。

 ある学生に私たちが大学へ行くように勧めている。彼女は、出席率もいいし、勉強の習慣がある程度できているし、それになにより素直である。だから、きっと大学の先生も目をかけて育ててくれるだろうと思われる。だからなのですが(日本語のレベルは大学四年間でどうにかなるものなのです)、それが見えないというか、(それを)見ようとしない。「あの人より私の方が頭がいい。だから、あの人が行くなら、私も行く」となってしまうのです。

 まず、毎日学校に来て勉強しないことには、どうにもなりません。それに、来ても寝ているか、あるいは起きていても、携帯でメールしているだけというのは、ちょっとね。専門学校なら、似た人が多いようなところもありますから、別に問題はないでしょうが。

日々是好日
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「ハノイから戻ってきました」。

2014-11-04 08:41:08 | 日本語学校
 晴れ。

 今朝もきれいな青空です。湿度が低くなると、きっと富士山が見えるだろうなんて期待してしまいますね。

 さて、10月31日から、11月2日まで、ベトナムに行ってきました。

 着いた日に、二組と面接。翌日は二つの学校を訪問し、面接。そして戻ってから、また別の二組と会いました。そのうち、一組とは面接、もう一人の方は、話を聞いて、次回に備えるということで、終わり。

 戻る日の朝は、少々手違いが生じ、4月生として申請したいという、在学生の妹さんに会うことができませんでした。が、彼女は真面目な学生ですし、自分が一緒に住んで面倒をみると言っているので、大丈夫であろうと、これはこれで、終わりにし…。

 かなりの強行軍でしたが、ハノイに進出しようという日本人の方とも、お会いして、ハノイの現状を聞くこともできました。それに初めてお会いしたベトナムの女性が、お二方とも、かなりしっかりした人であり、これも収穫であったと思います。

 これも羽田発(出発は早朝、帰国は夜)が、できたからなせたわけで、もし、成田であったなら、真夜中にハノイを出て、早朝着くということになり、疲れがなかなか取れなかったであろうと思います。

 それでも、昨日は少々辛く、昼過ぎに、学校に来たはいいけれども、途中で眠くなり、これではならじと、「お習字」をしてしまいました。しかしながら、ぼんやりとしていても、またいると、日本の祝祭日を知らない外国から、電話がかかってきたりするので、ネコの手くらいにはなったと思います。

 それに、昨日は、ちょっと気になることが…。実は、上のクラスの学生達が下のクラスの学生数名を連れて、江戸川大学の大学祭へ行っていたのです。行くと言っていた学生達の中には、まだ、自国のやり方でやる人達もいたので、心配は心配でした。けれども、何事もお勉強。大丈夫であろうと思っていても、変なことが起こることもあるし、また逆のこともあるし…。

 でも、結局は「言葉」なのですよね。言葉がわかってくると、自分の「常識」と合わないところが見えてくる。そして、その理由を聞くこともできる。してはいけないこと、ここまではしてもいいことなどが感じ取れてくる。この「言葉」は、話せればいいというわけでも、読めればいいというわけでもないのです。だから、難しい。センスと言われれば、そうかもなんて、思うこともあるのですが、まずは基礎の言葉、それからは個人的なことになるのでしょう。その国と相性がいいかどうかという点でも。

日々是好日
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