日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

金曜日は「入学式」でした。その後、簡単な「茶話会」をし、「スリランカ班」の話を聞いていきました。

2023-07-31 08:13:26 | 日本語学校
晴れ。

今朝も青空。このままずっと、毎日、青空の日が続いていくような感じです。水源はどうなっているのでしょうか。山間部では、梅雨の時期、時々、雨は降っていたようですが、それでも、こうも晴れが続くと…心配になってきます。なにせ、空気と同じくらい大切な「水」ですから。

「『水源地』を外国資本に取られたらどうする?昔は村の共有地だったのに」とか、いろいろ言われていましたね。「水」が、心配になると、また当然のようにその話題が出てきます。「水源地」だけは「貸す」はいいけれども、「売る」はどうもね。だいたい土地を売らない国だってあるのですから(期限付きで「貸す」だけで)。「水源地」を国民の共有財産にしても、バチは当たらないと思うのですが。

「水」と言えば、道ばたの草、いわゆる「野草」は元気ですね…でも、黄色っぽくなっているのも、ちらほら…かな。先日、「ミンミンゼミ」じゃない「セミ」の声が公園の木の上から落ちてきた…と思っていたら、今日は「ミンミンゼミ」が復活していました。その中に「ジー、ジー、ジー」と言う声も混じっていました。暑さが進むと、「セミ」たちもゆっくりと選手交代をしていくのでしょうか。地面の上に「セミ」の体が、落ちているのを見かけるようになりましたし。

さて。学校です。

先週の金曜日は、「入学式」でした。新入生の自己紹介は無事に済み、写真撮影の後、簡単な「茶話会」を、言語別に行いました。多分、こちらの方が大切。

皆にする「入学に当たって」というのも、例年というか「入学式」の都度してはいるのですが、感覚として、あまり役に立っていない。なにせ、彼らに、日本で暮らす上でのイメージがないから。それよりも、個別にする「説明」の方がずっと役に立つ。ということで、「入学に当たって」というのは、だんだんおざなりになっていきます…相手に合わせるというか、金太郎飴でやることではありませんから。

年中行事の説明と同じです。「『みんなの日本語』クラス」と「『N2相当』クラス」を一緒にして、日本語で説明するなんて、どだい無理な話。結局はどっちつかずで何にもなっていない…というのは、「非漢字圏」の学生が増え始めた頃から、わかってはいましたが、クラス毎にするにしても、時間がとれない…ということで、上のクラスだけは私の時間に別にしていました。いつ頃からでしたろう。できるだけ(皆でやるものと)重ならないようにしてですけれども。それでも、限界がありましたね。今は、全く別にしています、説明は。

「こういうものだ」くらいが判っていればいいのです、「初級」は。だいたい。ある程度理解したいと思っている人は、それなりに聞いてくれるのですが、大半はそうではありませんから。作業だけでもいいのです。その名と作業ですね。説明(由来云々)はいらないと思います、上のクラス以外は。もちろん、「N3」の文法を終えたくらいからは、した方がいいと思いますが。

ということで、今回の「入学に当たって」も雑にしてしまいました。気が乗らないのですからしょうがない。無益だなと思いながらするのですから、しょうがない。

で、一番、気になっていた「シンハラ語」班に行き、そこで新入生を一人一人潰していきました。たった三人ですけれども、遠くに住まいを構えたせいで、最近は暑さとそれとで、バテ気味なのです。最初が肝心ですから。

スリランカ人は「聞く」「話す」は長けているので、「初級」の時に「書く」を疎かにしがちで、それ故に、進んだ時に「読む」ができない場合が多く見られる。「初級」のうちは、「日本語、簡単」と言い、そうやっているうちに、次第に、ズリズリと、落ちていくのです。

『みんなの日本語Ⅱ』に入ると、漢字も「N4」に入っていますから、「N5」漢字を適当にやっていると、もう(新しい漢字が)読めないし、書けない。つまり、覚えられないのです。ほかの人たちが「N3」漢字の「テスト」を受けている時に、まだ「N5」ということになる。「N5」漢字を必死に覚えてきた人は「N4漢字」を学ぶには、ずいぶん楽になっているはず…なのに。

個別に、(志望は先だって聞いていましたから、その)確認をし、そのためには…から始めて行きます。そのうちに、彼らから問いが出てきます。それを二年生が通訳して…となってくると、後は楽。彼らからすると、「N2」に合格できる程度の日本語力であったら、何でもできる…だったみたいです。

「『N2』に合格できても、『小学校4年生』の国語の教科書を読みこなすのは難しい。まず、無理だろう」と言うと、驚いていました。ある程度の長さの文章を読むという習慣があまりない人が多いのです。「指示語を訊いても掴めない。主語も判らない」という場合も少なくないのです。もっとも、これも訓練で、ある程度はどうにかなる。もっとも、できるようになる人(当たらずといえども遠からじ)と、なれない人(この学校にいる間には)がいるのも事実です。

今回は、スリランカ班で終わってしまいましたが、もう少し見えてきたら、今度は「ネパール班」に当たるつもりです。

日々是好日
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「入学式」。今週から一人、「Dクラス」に加わりました。入学式に間に合ってよかったですね。

2023-07-28 07:59:59 | 日本語学校

晴れ。

今日も酷暑。

窪田空穂の歌に、
「老いぬれば かくなるものか 思い立つこと 忽ちに忘れて 跡なく」
というのがありました。

そのときは身内を見て、なるほどと思っていたものでしたが、それが我が身に返っています。誰の歌だったか、年老いた自分を見て笑う若き女房に「命長かれ 思い知らせん」と言った老女がいたとか。なるほど、なるほど。自分が行く道ですからね、老いというのは。早く死なぬ限りは。

昨日もマウスが機能せず、手を少々動かしていたので、右手がまた痛くなってしまいました。今日は大丈夫(マウス)ですけれども、マウスの気分次第で、振り回されてしまうのも辛い。

さて、学校です。

「Dクラス(現『みんなの日本語』第5課終了)」に、月曜日から新しい学生が加わっています。彼女が来るまでは、日本の高校入学を目指すのは一人だけだったのですが、これで二人になります。先に来ていた学生にとっても、これはいい刺激になるでしょう。どうも前からいる学生とは違い、彼女はしっかり者で、よく勉強するようですから。

これまではほかの学生たちに比べ年齢がかなり下であるということで、少々大目に見られていたことも、これからはそうはならないでしょうから。

彼はどちらかというとおっとりした性格で、無理なことはしない(多分、できない)ほう。もう習い始めてから三週間が過ぎようというのに、「ひらがな」もまだ完全には覚えていないようですし。

それに引き換え、新しい学生の方は、「ひらがな」もすでに覚え、クラスに入って三日目だというのに、絵カードを使って単語を繰り返していると、いつの間にか、口を動かしている。意味がわからなくても音が聞き取れれば「言ってみ」ということができるようです。これを見て、のんびり屋さんの方も、ちょっとは「お尻に火がついた」くらいに感じてく
れるかしらん。

周りも、皆、彼よりもずっと年が上ですから、(彼ができなくとも)「まあ、いいか。子供だから」くらいに考え、甘くなってしたのかもしれません。しかしながら、彼とは同じくらいの年ですし、遅れて入ってきて、すでに「ひらがな」を覚えた。クラスの皆に追いつこうと頑張っている(「Dクラス」は午後のクラスです。それで、彼女には午前中も来てもらい、追いつくまで補講をしています)。

同年齢の者が一番厳しい目で相手を見ますからね。「なんだ、コイツできないじゃないか」くらいの目で見られるかもしれません。互いに競い合って、早く「N2」に合格し、今年、入学した学生同様、高校でも頑張ってほしいものです。

ということで、来週から、一番前の、隣同士の席にしてやりました。

日々是好日
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「セミ」の声が変わっていた…。

2023-07-26 08:39:45 | 日本語学校
晴れ。

昨日と同じように、「暑い」。子供の頃は、「30度」を超えると、「30度超えだぜ」なんて騒いだりしていたものですが、最近は、35度でも驚かないようになりました。却って、「明日は『30度』」などという予報が出たりしますと、ほっとしてしまうのですから、人間、慣れというものは怖い。

昨日は、コンピューターが言うことをきかず、マウスが動かず、早く(学校に)来ても、することがなく、ボウッとして過ごしてしまいました。それがなぜか、皆が来る頃になって、偶然触れた時、動いたのですよね。こんなことも「間々ある」とのことですので、きっと暑くてご機嫌斜めだったのでしょう。これからは、あっちにも気を遣わなきゃならなくなりそうです。

今朝も、いつもの道を通ってきたのですが、公園が近づくにつれ、「セミ」の声が大きくなる…、あれ、ちょっと違うぞ。注意して聞くと、声が「ミンミンゼミ」じゃあない。まさか「クマゼミ」…。これはいけない。「クマゼミ」と思うだけで暑苦しくなる…ということで、ここで思考はストップしてしまいました。

さて、学校です。

この学校では「コロナ禍」を機に、在日の方の人数が増えてきました。もともと勉強したいと言ってくる方はいたのですが、「白紙」で途中から入ってくると、いくら(残したり、早めに来させて)補講を入れてみても(そうでなければ追いつけませんから)、そうまでして勉強したいわけではない…みたいな感じで、続かなかったのです。

やはり目的意識があるかないかは、大きい。そうまでして日本語を学ぶ必要がなければ、何か理由を見つけて、来なくなる…のも当然のこと。(学校で)机について、聞いていれば、「文字」が書けるようになる…はずがありませんから。「覚え」ようと努力しなければ、覚えられない。皆が書けるようになったのに、自分は書けない。嫌だ。かといって努力するかというと、それも嫌。メンツも関係してくるのでしょうね。

在日の人ですから、本人が「聞くだけでいい」と割り切れば、それはまたそれでもいいのです。学校に通う目的は人それぞれですから。ただ一斉授業ですので、そちらの邪魔をしさえしなければ、あとは、本人の考え方次第なのです。

ここは学校ですから、「適当に話せればいいや」くらいの人は、やはり難しい、続かない。よくて『初級(Ⅰ)』が終わるくらいまででしょうか。

「ひらがな」が終わって、「カタカナ」が入ってくると、「え~」となったり(意欲的に「漢字」まで頑張れる人はそれほどいない)、動詞の活用が、二つ、三つでも続いたりすると、へばってしまったりする。以前は、そういう人がよく見受けられました。もちろん、頑張る人もいますけれども、途中で「一ヶ月、帰国することになった」とか、「家族で(どこそこに)遊びに行くことになった」と休んだりすることも、往々にして、ある。もちろん、留学生とは違い、すべてをその人が決められるわけではありませんから、それはそれで仕方のないこと。ただ、休みが続くと、戻ってきた時について行けない。その間もクラスでは授業が続いていますから

わからなくても、頑張って毎日来ていれば、復習も毎日、2課分ずつしているので、どうにか追いつけるようになるものなのですが、それには、体力のみならず、意志の力も必要となる。…そりゃあ、嫌になりますよね。日本に何ヶ月かいるから、耳(聞き取り)だけは「イッチョマエ」だ…と思っていますから。

それが、今回の「Cクラス」はちと違う。ほとんどは「在日生」なのに(反対に留学生の方に、もう一回やってくれと言いたいくらい)、留学生よりも、意識が高い。「高校(大学)へ行きたい」「今の仕事がもっと手広くできるようになりたい」「違う仕事を選択できるようになりたい」「目的は、日本語が上手になること」など、はっきりとした目的を持って来ている。そうでなかった人も、そういう人に引きずられて勉強している…。

以前は、「夫の仕事の都合で日本に来たから(日本語を勉強してと言われて来た)」とか、「家族で日本へ来たから(日本語が話せるようにと言って連れてこられた)とか、本人の意思に関わりなく来ている人も多くて、「させられている」感が間々見受けられたものなのです。「別に日本に来たくて来たわけじゃない、勉強したくて勉強しているわけじゃない」という気持ちが見え隠れしている人が少なくなかった…。

だから、入学したいとみえた人と話す時も、本人の意思を聞いて、確認してから入ってもらっていました、お金が必要になることなので。とはいえ、日本語について白紙の人が少なくなかったので、あとで、「こんなに面倒だとは思わなかった」らしく、やめられる時には、ホイホイと喜んでやめる人もいた。国にいても勉強なんて、やらなかったという人もいましたから。

当然のことながら、「ひらがな」もそれなりに覚えはするけれども、「カタカナ」は面倒だし、「漢字」は、はあ~という感じでしたから、文字の面でも続かない。それが、今のクラスでは、だんだん書くのも速くなっている人もいる。

ただ、留学生とは違い、在日の人たちには自分では決められないことが多いので、これからどうなるかはわかりませんが。

日々是好日
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「つ」と「っ」がきちんと書き分けられない人がいる。でも、すぐに直ります、自覚さえあれば。

2023-07-24 08:17:01 | 日本語学校
はれ。

今朝も、「ミンミンゼミ」が鳴いています。公園の中には、声の大きいのが一匹いるようです。公園の角を曲がったころ、向かいの木の上から、別の蝉の声が聞こえてきました。また曲がると…もしかしたら、樹ごとにいるのかしらん。

公園の下草で、今、幅をきかせているのは「エノコログサ」。子供の時の感覚で言いますと、「ショウジョウバッタ」なんぞが、その近くを跳ねていたような気がするのですが、まだちょっと早いかしらん。

今朝、最後の角を曲がる前に「キョウチクトウ」の花が咲いているのを見かけました。公園によくある花で、昔は「あれは毒花だよ」と聞かされたものでしたが、本当のところはどうなのでしょう。残暑の頃に姿を見せる「カンナ」のように強烈な色がそれを連想させたのでしょうか。それにしても「毒花」とは禍々しい。

さて、学校です。

「つ」と「っ」が書き分けられない学生がいます。「読んでごらん」と言うと、正確に読めるので、不注意なのでしょうが、それが続きますと、単に不注意ではすまされなくなります。慣れるまでは、(宿題においても)「読みながら、書くように」と言われていたのに、それを守らなかったせいでしょう。こういうことは、ほんの小さな習慣ですぐに直ります。

「漢字テスト」にしてもそうです。「導入」時に、彼らが間違いやすいところを注意しておいても、「己がこと」と思わなければ、右から左へですし、「採点後」、こちらが書き直しても、見ずにしまい込んでしまうようであったら、何にもなりません。中には、返却されたプリントを見ずに、別の「暗記用の一覧」だけを見て、練習し始める人もいて、また何をか言わんや。どこを間違え、どう直していったらいいのかがわからなければ、また不合格になるだけですのに。

いくらこちらが手をかけようが、向こうにそのつもりがなければ、焼け石に水。ジューと音を立てて(煙の如く)消えてしまうだけです。今は、(テストを)返したそのときに、間違えた字を書き直させ、提出させるようにしているのですが、それでも追っつきませんね。それっきりになってしまう人もいますから。もちろん、気づく人がいるので、決して無駄だとは思いませんが。

先日、「単語」の読み合わせをした時に、「では、この漢字は、なんと読むだろうか?」と試してみました。すると、みな、ハタと困って、顔を見合わせるばかり。「近」や「矢」「弓」くらいであったら、「仕方がないか。『N4』だもの」と思えるのでしょうが、「見」でさえ、一人か二人くらいしか声が上がらない。「こいつはたまらん」と、早速ホワイトボード用に貼り付けた「漢字一覧」を取り出して、指さしながら言わせてみました。勉強のやり方がわからないというのもあるでしょうから。

「ほとんどの漢字には、読み方がいくつもある。ただ『N5』を勉強している時には、ほかの読み方が出てこないので、それだけしか勉強できない。けれども、『N5』『N4』、『N3』と進んでいくうちに、同じ漢字でも組み合わせによっては別の音になることもあるし、別の読み方をすることもある。そのために「一字」「一字」書いたプリントを渡してある…。」

まあ、こう言いましても、「日本語とは何ぞや」で始めた人には、まだ、ピンと来ないでしょうね。とはいえ、言い続けておけば、いつかは「ああ、そうだったのか」とストンと落ちていく時がくる。と、まあ、こう信じてやっていくしかない。

「漢字テスト」では、皆、頑張って合格しているのに、「読めない」、ということは、つまり、「意味がわからない」ということ。このままでは、「中級」に入った時にとんでもないことになる。

で、次の日に(毎日の)「自動詞、他動詞」、「既習動詞」、時折、「動詞、イ形容詞、ナ形容詞」の活用、それから「二課分」か「一課分」復習に加えて、「漢字一覧」でのチェックを入れてみたのですが、ボロボロでしたね。

それで、テスト用「N4」プリント(の空欄)に、意味を書かせてみました。「本を見てごら(絵が描いてある)」と言っても、稀に「絵」がないものもあり、そのときは「これはどういう意味」と聞いてきますので、答えてやる。時間に限りがあったので、あとは自分でということで切ったのですが、やはり気がついた時に、一つ一つ教えていかなければだめですね。やり方さえわかれば、少しずつ「読めない」も直り、必然として「意味がわからない」もなくなるでしょうから。

日々是好日

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クラス作り、「条件形」プリント…なに!「あらなければ」!

2023-07-21 08:27:30 | 日本語学校
晴れ。

今朝も涼しい風が吹いていました。…が、歩き出すと、吹き出す汗。ハンカチ一枚では足りない季節となっています。

歩いていると、カサコソと風に吹かれて路肩に「夏落葉」の塊が。いろいろな形の木の葉です。近所から吹き寄せられたもののようです。夏は、華やかな花々が街を彩る反面、地「夏落葉」がある。何事にも明るい面ばかりではないようです。

さて、学校です。

週二で、「Dクラス」に行っているのですが、まだどうもイメージがまとまらないので、席順が考えられないのです。一度だけ、全員が揃ったことがあったのですが、それからは検査やら、病気やらでいつも一人は欠けています。

ある程度イメージが掴めれば、授業のやり方も決まり、席も定められ、やりやすくなるはずなのですが、どうもいけない。お互いに見合っているだけ…のような気がする。

単発的に笑わせたり、「ああ、面白い」などと言わせることは、できるのですが、今、それをやっていいのかどうかも、まだ掴めない。強面で臨むにしても、その程度というものがある。

例えば、週三で、行っていた「Cクラス」では、一週間ごとに人が増えたり、減ったりしていたけれども、それが一ヶ月ほども続いていたけれども、早々と「幹」を決めることができたので、ブレはなかった。ただ、その幹の中に、留学生三人のうち、一人しか含まれていなかった…。残念。幹が決まれば、後は楽です。「なかなか単語を覚えられない人や、文法の理解に難がありがちな人には『こう(やる)』」、「すぐに覚えられて、すらすらと言えるようになる人には(このクラスには、勝手なことをする人がいないので、やりやすい)『こう(やる)』」と、すぐにやり方を決めることができたのです。

ところが、「Dクラス」では、三週間目に入っているというのに、まだできないのです。

大体、授業の流れを作るというか、そのためのクラスを作るというか(どちらが先かは、鶏と卵です)、そのためには、まず、中心となるグループを一つ決め、その上下に一つずつ作るというのが定番です。もちろん、一つ一つのグループ内にも、違いはあるのですが、それは、簡単に無視できる程度のこと。まあ、大まかにいえば、クラスに三つのグループを作り、それに基づいて、質問を受けたり、問いを発していけばいいのですが、それが「Dクラス」には、まだ見えない。

もとより、見えないから授業ができないかというと、そんなことはありません。それなりに、しはする。が、どうも、すっきりしない。こちらの腰が定まらなければ、向こうも落ち着かないでしょうね。それはわかっているのですが、お互いにすっきりしないまま、走っているような感じ。

とはいえ、それだけでは面白くないので、ちょっとは笑えて、楽しいところも入れてはみる。しかし、それが、クラスを作る上での効果とか、日本語を学ぶ上での、何かしらのものになるかというと、やはり違う。一時しのぎ、お愛想程度のことでしかない。どうもそれが嫌なのです。

普通は二週間程度見て、それから席を決めて、授業がやりやすいように持って行けるものなのですが(もちろん、自分が最初から入っていなければ、もっとかかります。鉄はやはり「熱いうちに打て」なのです)、未だに決めかねている。

まあ、しょうがないか。夏休みはこのクラスには「ない」ことになっているので、休み中に考えることにしようと、多分、逃げている。ただ、ほかのスタッフはやりにくいでしょうね、私だってフラフラ腰だもの。まあ、それぞれのやり方で、最後の一週をどうにか過ごしてくださいと言うほかない…申し訳ない。

で、その分(このクラスでの「イライラ」の分)、ほかのクラス(「Cクラス」と「Aクラス」)で、羽を伸ばしている…。この二つのクラスは、もうできあがっていますから、後は授業をするだけでいいのです(もっとも、「Aクラス」では、「日本語能力試験」が終わってから、みんな力が抜けていますね。何人かぼうっとしています。来て勉強はしているのですが、やる気というか、前にみたいにはガッツが感じられない。まあ、休み前のこの時期は、大体、いつもこんな感じです)。

そういうば、「Cクラス」。昨日、「条件形」のまとめとして、「~ば形」と「~なければ形」を書いてもらったのですが、「言う」のと「書く」のとでは大違い。「言えた」のに、「書けない」。

「日本語がちょっと苦手」の人が、まず、「イ形容詞」のところで、「先生」と手を上げた。「あつい…」と訊くので、「さむいは?」と聞くと、「さむければ…ああ」。すると、もう一人が「先生、『晴れます』。」。何グループ?」「Ⅱグループ…ああ、はれれば」。

日本人は「書く方」が得意ですから、「言える」ようになってさえいれば、まず、書けます。ところが「非漢字圏」の人たちは違うのです。「言え」ても、いざ、「書く」となると書き間違える。だから、作業中でも、困っている人には、ヒントを与えたりしています。それぞれのグループで一つは形を覚えていますから、それの応用だということに気づけば、ほっとして、書けるのです。

面白いことに、さっさと書いている人たちは、私が何をしようが、お構いなし。ドンドン書き進めています。先に時間制限をしていたのです。本来「10分か15分」のところを、「5分で」と言ったものですから、「それどころじゃない」くらいの気分だったのでしょう。途中で、きれいに書いてと言わなければならないほど焦っている人もいましたっけ。

何人かが、困って訊いてきたのですが、その都度、ヒントを与えていくと、大体言えていましたから、まずはこれを繰り返して復習していけば、苦手意識をそれほどもたずになんとかやっていけることでしょう。

もっとも、「あります」を、あれほど繰り返し練習していたのに、「あらなければ」と書いたのが、5人もいました。もう、今日、返却する時に、文句を言ってやります。

日々是好日
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「授業開始前」の様子。教科書を開いて、お行儀よく座って、じっとこちらを見ている。黙っていると、10分ほどもそうしている。これも大変だなあ。

2023-07-20 08:43:54 | 日本語学校

曇り。

窓を開けた時、涼しい風がフワッと入ってきました。昨日までの熱風とは全然違う…と、思いながら、歩いていると、出るわ、出るわ、汗が…、大粒の汗が…。甘かった。まだ夏のとば口、これからも暑さは数ヶ月続く…んですよね。はあ、急に、蝉の声がうるさくなってきました。

さて、学校です。

バングラデシュからの学生が来られないことがわかって、「Dクラス」はこのままの人数で、続けていくことになりました。

日本語の経験がゼロの人が二人、後は留学生が六人と「Cクラス」から来ている人が二人、計十人。

三週間目に入りましたが、この時期に「白紙」の人が、一日でも休むと、痛いですね。まだ「ひらがな」がきっちり入っていないので、家で頑張るにしても、限度がありますから。毎日続けて来ているから、どうにか、留学生たちと一緒にやっていけているのが、やはりわからないのかな。いくつかの言語ができるから、日本語も同じように簡単にできるだろうと考えているのかな(音で、覚えるしかないにしても、「非漢字圏」ですから、皆)。

「白紙の人」の中に、一昨日、病院へ行って、一日休んだ人がいたのですが、昨日は大変そうでしたね。復習はどの時間でも繰り返しやっているので、毎日来さえすれば、どうにかなるのですが、続けて2,3日でも休んでしまうと、多分、辛い。休むのが一日だけであったら、どうにか挽回できるでしょうが…。勉強の習慣がある人であれば。

で、「留学生」たちです。

このクラスは「午後のクラス」なので、「午前」の先輩たちクラスとは接点がなく、この学校のやり方、勉強の仕方を伝えていくにしても、少々難しい。ということで、昨日、スリランカの二年生に残ってもらい、新入生たち(一人病気で休んだので、二人にです)に話をしてもらいました。

「授業の時、携帯は見ない」とか、「文字をきれいに書くことがどんなに大切か」などについてです。話してくれたのは、しっかりした女の子で、私が「一」話すと、それにとどまらず、「三」か「四」くらいにまで膨らませ、自分の経験を含めた話をしてくれました。最後には「彼らのノートを見てもいいか」と私に許可を求めたあと、新入生のノートチェックまでしてくれました。さすが大卒。

で、(私が)教壇に戻ったのは、授業開始5分前くらいでしたか。教卓に教材などを並べながら、ふと気がつくと、皆、お行儀よく、座っているのです。そして、私を見ている。教科書やノートを見たり、文字を書いたりしている人は一人もいません。

「そうだった。ここから始めなければいけなかった」で、「見なさい。昨日、何を勉強しましたか」「書きなさい。ひらがなを覚えなさい」。スリランカとネパールの留学生は、言われたことがわかるので、はっとして、慌てて教科書を開き、見ているふりをする。「ふり」から始めていいのです。見ている振りをしているうちに、本当に見るようになるものですから。

それを見て、「白紙」の人や「聞き取れない」人も、「あれ、教科書を開くのか」と、同じように開けます。まだ、開けても、どうしなければならないのかはわからなかったようですが。まずは、「教科書」を開いて、復習か予習をする。あるいは「ノート」に「ひらがな」を書いて練習する。これを徹底させることから始めなければなりませんね。

ということは、教師は「定刻になってから行くのでは遅い」のです。特に「初級」さんたちには。その習慣がついていればいいけれども、まず、ついていない。ほとんどの留学生たちにも「在日」の人たちにも、そういう習慣はないようで、教師がいない時には、同国人とおしゃべりするか(全然勉強に関係のないことです)、よくてお行儀よく座って教師を見ているか。

現「Cクラス(在日生が主)」も、そうでした。せっかく早く来ても、何のために来ているかわからない。勉強のモードになっていないのです。それで、電車の関係で、早く来ていたスリランカの留学生から始めました。様子を見ていると、、早く来てもぼんやりしているのです。少し後から登校した在日の同国人がいろいろと話しかけると、すぐにおしゃべりを始めます。彼らは「漢字が覚えられない」、「単語もきっちりとは覚えられていない」、「文法もまたしかり」で、こちらとしては何でもいいから、復習しろと言いたくなる。で、「本を開けて昨日の習ったところを復習する」と言うと、雰囲気が読める彼はすぐにわかって、私が教室に入ると、彼女が話しかけても、(私を見て)、話さなくなりました(付き合いのいいスリランカ人にとっては大変なことだったと思います)。そして言われたとおりに、教科書を開き、見るふり…だろうな、します。適当にチェックを入れると、できるといっていたところが入っていない。で、そこをやり直させる。

教室に入ると、先に来た人が、教科書を見ている、し~んとしているのを見て、ほかの在日の人たちも、だんだんそうするようになってきた…。もちろん、話してはいけないと言うわけではありません。わからなかったことを互いに聞き合うと言うこともあるでしょうし、息抜きで同国人と話してもいい。ただ、勉強の雰囲気はあるべきですし、何もせずに、行儀よく座って、先生だけを見るというのは、だめですね。それは彼らの国の「いい習慣」であっても、ここでそれをしてほしくはありません。

日々是好日
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来日したばかりの「七月生」は、ずいぶん参っていますね。彼らの国とは「夏の過ごし方が違う」のでしょう。

2023-07-19 08:17:22 | 日本語学校

曇り。薄日が差しています。

昨日までの猛暑は、ひとまず「落ち着く」という話でしたが、まだまだ暑い。「落ち着いた」という実感はありません。学校に来る時も、日陰を伝わって来ているのですが、「人は右、車は左」というのは、こういう場合、通用しませんね。向こうから来る人も、木陰の方を選んで歩いているので、狭い道で、すれ違う…ようになってしまいます。こういうときに車がやって来ると、また大変。とはいえ、朝方はまだいい、「蔭」がありますから。これが、真昼になると、ほとんど日陰が見つけられなくなってしまう…。夏の始まりです。

ところで、今朝、「ミンミンゼミ」の声を聞きました。はてさて、もう以前から鳴いていたのかしらん。気がつくのが遅かっただけなのかしらん。などとも考えてしまうほど、大音声で鳴いていたのです。突然発見したような気分です。

大音声とは言いましたけれども、ふるさとの「ワッシ、ワッシ」と鳴く蝉に比べれば、かわいいもの。あれは声を聞くだけで、汗が噴き出すといったものでしたから。しかも街路樹などから声を降らせるので、たまりません。カンカン照りと「ワッシ、ワッシ」。思い出すだけで、エアコンの中にいても、汗が、タラ~リ、タラ~リ…。暑い。

それに比べれば、「ミンミンゼミ」など、「ミーン、ミーン、ミ~(へなへな)」。、声の垂れ流しが最後にくるので、聞いていても、なんともない。ほんに情けない。まあ、「これで『梅雨』も終わりか」くらいの気分になりはしますが。

さて、学校です。

開講して、三週間目に入った「Dクラス」。スリランカ三名、ネパール二名、タイ一名、(バングラデシュから、未入国一名を加えれば)、計七名の留学生。それに、インド一名、フィリピン一名の在日生が入り、加えて、「Cクラス」からの二名を入れて、11名。どうも、遠くから来ているスリランカ勢、この暑さにへばっているようですね。

スリランカからの学生は、部屋探しがうまくいっていなかったようで、かなり遠いところから電車の乗り継ぎを繰り返し、学校に来ているのです。

普通、スリランカからの留学生というのは、親戚が(日本に)いるとか、自分たちで部屋の都合はつけられるとかいった人たちなのですが、今回は(探すことになっていた人が)うまく、この近所で見つけられなかったようです。来日した学生に聞くと、最初は「大丈夫」と言っていたけれども、この暑さで、しかも慣れない電車の乗り継ぎなどが重なったからでしょう、今は「大丈夫じゃない…」と言います。

とはいえ、もう三ヶ月分(部屋代)、払ってしまったそうで、すぐに引っ越しというわけにも行かず、結局、来月の中盤か下旬を目安に、今、学校の方で、近在に部屋探しをしています。「自分たちでやる」と、間に入っていた人が言ったからこうなった…のですが、結局、割を食うのは何も知らない留学生。もっとも、彼らが勉強に集中できなければ、学校としても困りますから、「外国人でも大丈夫で、(留学生ですから)それなりに安いところ」を探してやらねばなりません。うまく見つかって、8月中にでも引っ越しができるといいのですけれども。

今のところ、スリランカ三名のうち、一名は毎日ぐったりして授業を受けています。彼女は残りの二人に比べ、ちと体力が劣るのかも。だいたい体育なんてやったことのない人たちでしょうから、この日本での生活の厳しさは堪えるでしょうね。外国での生活は、結局のところ、「体力勝負」です。体力が決め手になります。

ネパールからの二人は、一応「N5」試験に合格してきているとはいえ、「書く」「読む」作業はそれほどできるわけでもありません。これは「七月生」のスリランカ人もタイ人も同じ。今年のネパール人「四月生」は、ちょうどコロナ禍の最中だったと言うことで、「N5」試験に参加できないまま来ていますから、来日して授業を受けても、全然聞き取れないし、文字も危ういものでした。ただ、とても真面目、言われたことを頑張ろうとしてくれるので、七月生と一緒に、2回目の授業を受けていれば、多分、どうにかなるでしょう。

来日すぐに、この暑さで、参ってしまうのも当然でしょうが、頑張るしかないと腹を決めて、やるしかないでしょうね。留学生は、それぞれ目的があって来日しているのですから。

日々是好日
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「川村学園女子大学」から大学生が一人、授業実習にやってきました。大学の先生は大変ですね。

2023-07-18 08:23:13 | 日本語学校

晴れ。

暑い日が続いています。酷暑ですね…なんて言ったら、インドの学生に笑われた…。でも、暑い。ベトッとした、服に張り付くような、梅雨時特有の暑さです。

関東地方は、晴れの日が続き、気分的には梅雨は明けた…ような感じなのですが、こちらとは違い、東北地方、特に日本海側といいますか、大雪に慣れた地方で、大雨が続いています。いわゆる「梅雨末期の集中豪雨」、今では「線状降水帯」。沖縄以外では、まだ「梅雨」で、何が起こるかわからないような状態です。

さて、学校です。

金曜日に、実習のため、学生さんが一人、引率の先生とともに見えました。後で話を聞くと、先生共々頑張って準備してくれていたようで、面白かったですね。

先生曰く「自分で考える」、そして「理解してもらえるよう手を動かして『作る』」。「作る」という作業にも、かなり時間をかけてくれたそうで、あれでもない、これでもないと頑張った…とのこと。先生曰く「自分はあくまで手助け、補助。考えたのは学生」

学生さんはゲームが好きだそうで、その自分の「好き」を生かした「トランプ」を利用して、学生の興味を引いてくれました。

その日、始まる15分ほど前のこと。待っている学生の前に、(実習生は)立ったはいいけれども、互いに緊張してか、見つめ合うばかり。…間がもたない。「こりゃ、いかん」と(先生と私)「自己紹介して」などと緊張を緩めてやろうと、手助けしてみたのですが、話が途切れるごとに、し~ん。

で、少し早めに始めたのですが(1,2分くらい)、途端に、キリッとした表情になり、口跡もよく、…化けましたね。ほっとしました。

学生たちもどうにかして協力しようと頑張ってくれたのですが、まず何よりも実習生が手際よくしてくれたのがよかった。…例年ですと、数人いるので、それで二人一組とか三人一組とかでチームを作り、そのチームでやるという感じなのです。ところが今回は一人ですから、二人分、三人分を一人でやらねばならない。ということで、ドギマギしたり、手順が狂ったり、何をするのかを忘れたりしても少しも不思議ではないのです。が、それもなく、うまくやってくれました。

先生曰く、「何度も、手順を確認したりして練習していましたよ。」練習したにせよ、それを本番でできちんとできたのは偉い。

で、終わってからの反省会というか、別に反省することはなかったのですけれどもね。私からは、「褒め上手(褒め方が上手でした。学生もうれしそうだったし)」。ほかの教員からも「手際の良さ」や「学生にわかるような言葉で話していた」などと言われ、まずは合格です。

それからは大学の先生と我ら教員とで、外国人を教える上での注意点とか、それから得られるもの、教えるとは教えられることであるなどの話を、茶話会のように続け、疲れていた実習生さんにとっては、「はあ、早く帰りたい」だったかもしれませんけれども、まあ、慣れた者同士みたいな感じでいろいろとお話は続きました。

このときに、当然のことのように「他国の文化」との兼ね合い…これは「日本語を教える上で」なのですが、「学生がわからない」と言ったときには、「言語の習熟度」による場合と、「文化的な要素」によるものがあるとかなんとか、そういうことにも話が及びました。

そのときには、言わなかったのですが、帰ってから、そういえば「日本の祭り」があったなと言うことに気がつきました。日本の祭りというと、農村地帯では、「農作業を始める時」と「収穫が終わってから」というのが多いでしょうね、特に田舎では。

もちろん、ほかにも「疫病退散」を願ったりして、収穫と関係のない時もあるし、「神として祀られた人と関係のある時」だったりすることもある。

日本は一毛作が基本だから、一年を春と夏なんてのに分けてしまうけれども、学生たちの国では二毛作とか、そう言うのと関係のない場合もある。だから、「日本の祭り」を言う時、特に思い入れの強い作者は当然のこととしてそう書くのだけれども、学生からしてみれば、よくわからん…。

こちらもこれまではスルリと流してきた。日本人にとっては当たり前のことであり、今よりももっと、天候に左右されたであろう昔人にとってはさらにそうであったろう。だから、「春祭り」にせよ、「秋祭り」にせよ、祈りをないがしろにすることはなかった。この「思い」を強烈に書いていても、そういう認識がなければ、この「筆者の思い」というのは伝わりません。

もちろん、そこまで文章を説明するのは無理なので、「まあ、いいか。文法がある程度わかって、単語を覚えていればいい」くらいで、大抵スルリと逃げてきたのですが、時々、それが不可解と言ってくれる学生がいるのです。しかも、これは、言語の習熟度とは関係のないことなのです。

まあ、こういうのはお互い様で、このお互い様というのは、「学生」と「日本人である教師」、そして「学生」と「学生」といった学生同士。クラスに5カ国からの人がいれば、それだけ知識が増えます。知識が増えないことには、物事に対する理解なんてできませんから。この理解力の習得というのも「比べて知る」ことが一番手っ取り早いのです。その点、同国人ばかりを集めていると、管理や授業が楽な反面、学生にとっては、知識も他国に対する理解も不十分なものになりがちになる…のではありますまいか。

日々是好日

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昨日の「レベルチェックテスト」は合格点に至らない人が数人いましたけれども、思ったほど悪くはありませんでした。まずは、よかった、よかった。

2023-07-14 08:12:27 | 日本語学校
曇り。

ちょっとばかり過ごしやすい…ような。お日様が出ると出ないとでは、こうも違うものかと、愚かにも毎度驚いてしまう。

さて、学校です。

「Cクラス」では「N5レベルチェックテスト」を、昨日、実施して、思ったほどひどくはなかったとほっとしているところです。四月からのクラスですし、留学生は三名しかいない、しかも、留学生とはいえ、コロナ禍で「N5」までの勉強をそれほどしてこなかった人たちです(白紙状態であるとしか思えない人も一名います)。

正直、いつも通りの、この時期(1,2週間ほど遅らせましたが)で、大丈夫だろうかと少々不安でした。

普通、留学生ですと、国で「N5」に合格しなければ来日できません(大卒は別です)から、「ひらがな」を学んだ後、すぐに「カタカナ」、そして「漢字」へと流れていっても、驚くと言うことはほとんどありません。覚えられないと文句を言われることは、時々ありますが、それも一人か二人くらいのもの。日本で生活するためには、また進学するためには、「漢字」が大切であることは皆わかっています。

ところが、このクラスでは、「日本語とは何ぞや」レベルの人たちがじっと私たちを見ているような感じで授業は始まったわけですから、こちらも不安、向こうも不安だったでしょう。かといってタラタラと理解できるまで待つというやり方はできません。留学生が三名含まれているわけですから。留学生であったら、この進度でやってついて行けなかったら、「七月生」が来た段階で、両方のクラスの授業を受けるべしとやれるのですが、事情のある在日の人たちはそれがなかなかできない…ということで、復習主体の授業をしてきました。

真面目な人たちが多く、毎日来てくれていたと言うことで成り立ったやり方なのかもしれませんが。毎日来なかった人(来られなかった人ではありません)が一名いるのはいるのですが、高校に入らせたいと言われているので、今は、午前(四月生クラス)と午後(七月生クラス)の授業に参加させています。

毎日頑張って来て、授業に参加さえしていれば、今日やったところが今日わからなくても、練習(毎回、復習を2課分ほどしますし、単語は、覚えるまでカードでの練習は続けます)を、重ねているうちに、三、四日ほどで、なんとなく大丈夫という感じになる。もちろん、それで全部覚えられるというわけではありませんが、覚えられる人の割合や覚えられる量が増えてくる…。

四月から初めて、現在『みんなの日本語Ⅱ』の「34課」、気分としてはよくぞ騙せてここまで来た…。

もっとも、いくつかの問題も残っています。

それは「文字」なのです。「ひらがな」「カタカナ」が手薄であったと言うこと。これに懲りて、「七月生」クラスでは、午後の授業、二コマのうち、一コマを完全に「ひらがな」に当てていますが、この「四月生」クラスには、もう間に合わない。

宿題のノートを見ていても、間違いを正すよりも、文字を書き直す方がよっぽど多い。書き直しても書き直しても、大海に小石を投げ込んだかのよう。無力ですね。当方としても、なにも「きれいに書け」などという要求はしていません。まず、「読める」ように、「正しく」書けるようにという、こちらの要求がどうも理解されていないようなのです。

前のネパールの男子学生たちは、「正しく」どころではなく、日本人かと見まがうような字が書けていたのに…。どうも、こちらとしてもその気分があったので、いけないのかもしれませんが。

多分、こちらが気をつけるように言い、書き直させたりしているのが、「理不尽な」とか「文句を言っている」くらいにしか思えないのでしょう、ほんと、焼け石に水。

で、明日から連休ですし、「ひらがな」「カタカナ」一覧を書いて、今日、渡すことにしました。なぞる文化がないのかもしれませんし。もちろん、「全員に」ではなく、どんどん字が荒れてきたように見える一人に、まずは渡し、練習するように言うつもりです。毎回毎回書き直すのに、もうほとほと疲れ果ててしまいましたから。こちらを疲れさせた分、疲れてください位の気分です。

日々是好日
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母国での習慣から早く抜け出さないと、ちょっと大変なことになるのですが…。

2023-07-13 08:46:17 | 日本語学校
曇り。

今にも雨が降り出しそうな感じです。今日は少し涼しさを感じます。お日様が出ていないからでしょう。

ここ数日、通勤途中で見かける「キツネノカミソリ」が気になっていました。花数がだんだん増えてきた…どこか懐かしいなと見ていたのですが…。なんと学校のすぐそばのマンションの敷地にも、ド~ンと咲いました。どうして気がつかなかったのだろう。種がどっかから飛んできたのでしょうね。昨年は見かけなかったような気がする…いや、咲いていたかもしれないが、昨年はそれどころではなかった…からか。

そこでは、「フヨウ」の方が気になっていました。でも、今では色も姿も塊具合も「キツネノカミソリ」に負けているような。やはり、派手な方が勝つみたいですね。

さて、学校です。

今日は「Cクラス」で、延び延びになっていた「N5」レベル相当のテストをします。日本語の勉強は初めてという人たちが多いクラスですので、いつもよりも遅めに(テストを)すると形にしていたのです。が、延ばすにせよ、限度がある。面倒な「条件形」を学ぶ前にしなくては、いらざる混乱を招いてしまう…かもしれません。このクラスは、新しいものを入れる度に、落ち着くまで普通よりも長くかかるのです。

「動詞」の「テ形」から「ナイ形」に入ったときの、「ため息」の数の多さと深さ。「色もいいし、形もいいし、…」でまた「ファ~」。「かもしれません」では口が回らない…。

ここでも「谷」、ここでも「絶壁」と感じてしまうような人が数人いて、しかも真面目ですから、それがまた、一層辛く感じるらしい。褒めたり、すかしたり、前の課を見せて、自信をつけさせたりの繰り返しで、「ここまで来たあ」という感じなのです、特に日本語は初めてという数人は。

先週、「『N5』レベルの試験をします」と言うと、うれしそうな表情を見せる人もいれば、緊張の面持ちの人もいて、落ち着かせるのに、一手間か二手間、かかりました。「これは私たち(教師)が、みんなのことを知りたいからするだけ」、「どこがわかっていないか、どこが大丈夫かを見るレベルチェックだから」とか、「点数で合格とか不合格とか言うのではない」とか、かなり注釈をつけて、やっとホッとしたみたいでした。

これは「参加することに意義がある」テストで、人物評価などではない…のですが、受ける方はそうはとれなかったようですね。真面目にしている人は、やはり点数が気になるのでしょう。

このクラスの「在日」の人たちは、年齢も留学生たちよりはかなり上で、「日本語ができなければ、日本の地では何もできない」ということがわかっている人が多くいて、だからこそ、仕事をしながらでも、休まないのでしょう。

そこへ行きますと、留学生や、最近増えた「高校入学を目指す」人たちは、のんびりと自国でのスタイルからなかなか抜け出すことができません。目的がはっきりしている人はそうでもないのですが。

とはいえ、あまりに適当にしていますと、相手にされませんから、だんだんと辺りを見回し、「これは、まずい」と思うようになる…。ここは学校ですから、学生同士でも、一生懸命に勉強している人の方が重んじられる傾向があります。「初級」で、休みがちとなりますと、いくら毎日学校で復習を重ねていても、そこにいないわけですから、大切な文型も覚えられなければ、単語も覚えられません。つまり、いくら若いという強みがあっても、ついていけなくなってしまうのです。皆がもう覚えている単語を、一人だけ本を見て探しながら言わねばならぬということになる。

それで、少しは勘付くのでしょうね…。

ここは、義務教育の場ではないのです。勉強するように多少は(最初のうちはかなり)手間暇をかけてやるのですが、本人に自覚がなければ、どうしようもありません。ここは勉強したい人が来る場なのです。

こういう学校では、来ることは義務ではありません(もちろん、留学生は別です。目的があって、来ているはずですから。そして私たちの方でも呼んでいるわけですから)

語学というのも、学ぶ上で個人差もあれば、母語による差もでてきます。モンゴル語系の母語の人や「聞いて話す」という勉強方法で学んできた人たちは、「初級」の間は強のですが、ただ「漢字」を書いて覚えることができないので、上に行けば行くほど、母国での勉強方法から抜け出せねば不利になる。それで、こちらとしても、そのことを頭に入れた上で指導しているのですが、思うようにはいきません。言葉が通じぬということも関係しているでしょう。

日々是好日

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「ひらがな」が読めない…。きれいに書こうという気もない…。困ったな。

2023-07-12 08:40:20 | 日本語学校

晴れ。

今年は、「ホタルブクロ」も「クチナシ」も見られぬまま、「梅雨」が明けていきそうです。

日本各地で、以前の、梅雨末期の集中豪雨とは違った形での「異常」がついて回っています。「記録的な大雨」「不順な天候」「異常な高温」…。温暖化が叫ばれて久しいけれども、だんだん目に見える形で、しかも大きな形で、現れてきたようです。これから先、どうなるのでしょう。

一個人としては、自分のできる得ることを少しずつでもやっていくしかないと思うのですが、(…ちりも積もれば)、こう暑いと「エアコン」は外せないし、「エアコン」のない時代にも戻れませんし。どうしよう…と、多くの人は思っていることでしょう。でもやれるところでやるしかない…。

さて、学校です。

「七月生」のクラスでは、もう担任が頭を抱えています。留学生であるが故の問題に…。…コロナ禍で、あまり留学生が来ていなかったし、しかも、昨年の学生たちはベトナム人が半数ほども占めていたので、「文字」に関する問題はそれほど大きくは感じていませんでした。その前の時代の、学生たちも、だいたいきちんと文字は学習していましたし。

母国で「ひらがな」「カタカナ」を学んできた人たちは、その「文字」が真っ当であると思っていますから、「『ひらがな』が書けますか」と問えば、明るい顔をして「はい、大丈夫」と答えます。しかしながら、見れば「顔を顰め」ざるをえない…。…(ため息とともに)これは…読めないよ。

その話(ひどい。どうしょう)を聞いていたので、昨日、(スリランカ、ネパール勢がそろった)初の授業で、来たばかりのネパール人学生、二人に、「『ひらがな』は大丈夫」と聞いてみました。すると、本当に、うれしそうに、自信満々で、明るい顔をして、うなずいてみせた…。前日、担任から、しこたま注意され、書き直させられたはずなのに。…全然、気にしてない。 彼らが来るよりも一週間ほど前から

スリランカからの学生も同じようなもの…だそうですが、ネパールからの学生はそれに輪をかけてひどいらしい。却って、日本語の勉強を始めたばかりのインド女性の方が「読める『ひらがな』」を書いている…。彼女は留学生ではありませんし、まだ、日本語を勉強し始めて一週間なので、「あ行」くらいしか書けないのうですが。

彼らの国の文化に、「文字を『なぞって』書いて、練習する」習慣がないのだろうかと思ったり、彼ら自身の国の文字にしても、「読める」ように書くことが要求されていないのではないかと思ったりもするのですが。いや、そんなことはないだろう。アラブの文字(だったと思うのですが)は芸術と認められているし、ドイツ語でも「美しく書ける」ことはたいそうなステータスだったような気がする…。

そういう、「文字」に「美」を求めることは、どこの国の文化にもありそうな気がするのですが、今年の七月生を見る限りは、なさそうな気がする。彼らは一応高校は出ているのだけれども。

だいたい、美しく書くためには、「まねる」ことから始めるだろうし、そういう経験があれば、「ひらがな」だって、まねて書こうとするだろうと思ったりもするのですが、…どうも、そうじゃない…ようだ。困ったな。

彼らは、留学生なので、「話せればいいよ。書けなくていいよ」とはならないのです。

担任が返した「ひらがな練習帳」に、さっさと(訂正箇所も見ずに)「ひらがな」を書いていたので、「ここが違うでしょ。よく見て書きなさい」と言いはしたものの、そうか、まだ「よく見て」は通じなかった…ことに気づいて、黙ってしまった私。

でも、書き直されているのだから、見ればわかると思うのですが。…そこで、はたと気がついた。そういえば、一月生のミャンマー人学生もそうだった。「漢字テスト」で間違い箇所を注意し、書き直し、渡したのに、そこを見ずに練習し、また同じ不合格だったっけ。彼女は彼らよりは話せたし、聞き取れたけれども、やることは同じ…だった。つまり、見直さない。

この「『文字』をきちんと書く」ことができないと、これから先、(教師側も)ずっと悩まされることになるのです。「り」「を」「け」などは、まず線からぐっと下に突き出して書くし、「な」などは、彼らの癖を知っている日本語教師でなければ、ぎょっとするでしょう。「ほ」は「し」と「ま」になるのは当たり前(?)のことだし、「か」の角っこなど直角でしかも波打っています。線を止めることができないので、さっさっになってしまうし、上が出ていようが出ていまいが関係なし。枠の中に書くことができずに、上に行ったり下に行ったりして、まるで地震の〇〇波みたい。どうしてそろえられないのだろう…これは彼らでなくこういう学生の一年後の様子なのですが(一文を書き始めてからの姿。おそらくこのままではそうなる)。

この学校が始まったころの、勉強しないスリランカ人学生が多かった頃はこういう人は少なくなかった…、それからずいぶん変わり、そういう学生はほとんどいなくなっていたのですが。

何度書き直させても、そのときは、多分、「うるさいな。これでいいだろ」と思いながらも、その部分を改めはするものの、宿題で書かせれば、すべて元通り。「文字」に関して言えば、改めようなんて気は端っからなさそう。これはどちらが根負けするかの問題になってしまい、きちんと書かねば、相手に読んでもらえないということがわかぬうちは、いくら書き直させようが無駄になってしまう。徒労です。

ここにいる間は、宿題や作文を訂正するのに、教師が苦労するだけですが、後には専門学校に、提出するものに、こんな字で書くのかということになってしまう。やはり最後に泣くのは彼らなのですがね。

「ひらがな」や「カタカナ」が字らしい姿をしていなければ、「漢字」は、もう考えるのもおぞましい。

とはいえ、コロナ前に来ていたネパールの学生たちは、きれいな字を書いていました。送り出し先の問題なのかしらん、書こうと思えば書けると思うし、改めようと思えば改められると思うのですけれどもね。

担任はどうしたらわからせられるかと、四苦八苦しています。

日々是好日
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「七月生クラス」が今週から始まりました。ただ一人、バングラデシュからの人がまだ来日できていませんが。

2023-07-11 09:22:30 | 日本語学校

晴れ。

今朝も青空が広がっています。とはいえ、爽やかな…とはならない。まだ「梅雨」ですから。今週には明けるとかいう予報も出ているようですが、今日だって、湿度は80%超えだそうな。気温だって、もうすでに30度を超えているかも。

二日見ぬ目のムクゲかな…(「世の中は三日見ぬ間に桜かな」大島蓼太…ここから借りてきて)
あるいは、
二日見ぬ間のサルスベリ…。

土日と二日、いつもの道を通らぬ間に、「ムクゲ」が咲いていた。「サルスベリ」も花をつけていた…人間がつまらぬことをぐちゃぐちゃしていたり、グズグズ思っていたりしている間に、自然は大きな変化(咲いていなかった花が咲くというのは、非常に大きな奇跡です。私らの愚痴やらに比べると)を起こしていた…。

宇宙に比べると、人間の悩みなんて「ちっせえ、ちっせえ」。かと思うと、人間の心は宇宙を呑み込むほど深い…。いずれも正しいのでしょうね。その時々に応じて人は使い分けている。自分に都合のいいように。

さて、学校です。

今週から、「Dクラス(七月生)」が始まりました。先に(一週間前)から来ていた三人と合わせると、八人になりました。あと、バングラデシュから一人が来れば、留学生が全員そろうことになります。ただ、バングラデシュでは他の国の人たちと同じころに許可が出ても、向こうで、何やかにやさせられたりして、来日が遅れてしまうのです…いつものことなのですが。

これは、バングラデシュの国にとっても、あまりいいことではないと思うのですが。他国で学び、それをもって帰国すれば、なにがしかの貢献が出来るはずなのに、嫌がらせのように、出さない…、むやみに時間をかける。来日が遅れれば、最初の、肝心要の部分、日本語の基礎です、それが、皆と、一緒に出来ない、時間をかけてできないと言うことになる。ともに不幸です。いくら補講しても、皆と一緒に同じだけの時間をかけて勉強したのとはやはり違う。

「一対一」でやることの弱さというのが出てしまいます。

10人から15人程度のクラスが一番いいでしょうね。一人よりも、二人でやるよりも、集団というのはそれなりの良さがある。

一人では気づけない気づきというものもある。皆で口頭練習をしているうちに、言えなかったことがだんだん言えてきたりもする。教える場合、一人ではその人の気分とかに左右されることもあるのですが、集団ではそれがない。反対に(学生の)機嫌が悪くとも、他者に呑み込まれて気づかぬうちに一緒に練習していたりもする。

で、かわいそうなバングラデシュの人は置いておいて、その八人と「四月生」のクラスから二人が参加し、一応、今週から、10人で勉強することになりました。

この「四月生」のクラスから、(「四月生のクラス」は午前です)それで午前も午後も来ることになった二人のうち、一人は在日のスリランカ女子です。最初の一ヶ月ほどは、スリランカタイムで、なかなかきちんと(こちらの)言うとおりにすることが出来なかった。いろいろな理由(こちらから見れば、甘えだなと思えても、彼女や家族から見ると、それはスリランカでは当然のことだったのでしょう)で、休み、基礎編の動詞の活用の、いくつか分やら、ほかの大切な文法を習う時いなかったりして、今では「小テスト」をしても、一人だけ全然出来ない。

日本語は簡単だと思っていたのでしょうね。毎日来てさえいれば、「聞く」「話す」はどうにかなっても、ある程度の努力を要する「文字」はどうにもならない。まず「ひらがな」をきちんと覚えなくては、どうにもならないということが、最近、やっとわかってきたのかな。座っていれば出来るようになると思っていたのでしょうね。…はっきり言うと、「できません」。

学校で「ひらがな」も「カタカナ」も教えます。しかし、それで、覚えられるかというと、覚えられる人は稀です。その人が覚える気で練習しなければ、まず覚えられない。もう、このクラス(四月生のクラス)では「N4」の漢字に入っています。「ひらがな」「カタカナ」は、皆、普通に読めていますし、文字の美醜を問わなければ、皆、書けています。この中にあって、「ひらがな」「カタカナ」が出来なければ、どうやって覚えていけるのでしょうね、漢字を。日本語は中国語とは違いますから。

で、この「七月生クラス」で、まずは「基礎の基礎」をやりながら、「四月生クラス」にも参加すると言うことに。1回目より2回目のほうが理解できるでしょうから。

最初から午後残ればよかったのです。もう一人のネパール女子は、午前のクラスが終わると、午後も残って指導を受けていた。彼女も残るように言われていたのに、毎日さっさと帰っていたのです。で、これからは午前も午後も残ることになってしまった。それでも、家で勉強せずにいれば、今まで通り、テキトーのままでしょうね。

日々是好日
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「7月7日」が晴れていたらよかったのだけれども。

2023-07-10 08:16:48 | 日本語学校

晴れ。

きれいな青空です。上天気。水不足になるのではないか心配になるくらい…いいお天気です。「梅雨」なのに…。毎日、「線状降水帯」が、どこどこで発生したとか、「梅雨前線」が、どこそこに居続けているとかいったニュースが流れているというのに。ここはこんなふうでいいのかしらん。まさか、まとめてド~ンと来るのではあるまいかなどと、晴れを享受するどころか、反対に戦々恐々となる人まで出没している。

…日本は決して小さくはない…。…もとより、どの国も決して小さくはない。そこ人の営みさえあれば、それだけで「豊か」であり、その中には「多様性」があり、それで、人々は「満足」なのです。

さて、学校です。

今日の話は、「在日生」のこと。もちろん、ほんの一部の在日生のことなのですが。最近は「近くの東アジアや東南アジア、あるいは、ある程、日本好きで来ているような欧米」以外の国から来ている人も少なくなく、当然のことながら、前述の人たちのようには、日本のことを知ってはいない。

時々、もう少し、日本の文化というもの、日本人の生活というものに、肯定的であってほしいと思うようなこともあるのですが、「初級レベル」で終わってしまうと、それを見せたり、語ったり出来ずじまいのまま、日本社会の中へと行くことになる…残念ですし、危ういかな、危ういかなです。

偏った考え方であろうとなかろうと、日本というものを、ある程度「知って」来ている「留学生」たちと違い、「在日生」たちは、この学校に来る前に、来日後、一定期間、彼らの国や民族の輪の中だけで過ごしていたりする。

もちろん、来日したからには、その国に関する情報を仕入れたいと思うのは当然のこと。但し、時々、へっ?と思わされることもある。なぜか、「日本はこうこう、だから私の国はすごい」になってしまっている…ホントかな。

日本で生活していても、日本人との交流がなければ、彼らの世界の「輪っか」の中だけでの「日本人論」に過ぎず、それはきっと「切り貼り」したもので、統一性もなければ、系統性もないでしょう。

「どこかで見たことがる」くらいのものを、各人が勝手に言い合い、それを自分たちの都合のいいようにまとめ上げ、話は盛り上がり、大抵、「自分たちの国はすごい」で、締めとなる…。それはそれで勝手で、いいのですけれども。

もちろん、大して、ほかの世界を見ていなければ、そうなっても不思議ではありませんし、だいたい、国を離れて一年くらいは、自分の国のことが懐かしくてたまらなくなっているはず。比較するとどこもここも自分の国の方がよく思えるというのは、よくあること。しかしながら、それが続くと、ちょっと「ヤバい人」になってしまうのではないかと心配になる…。

せっかく異文化の国に来ているのに、もったいないなとも思いますし、そういう態度や考え方だと、日本人に限らず、その土地の人は(その人を)避けるだろうなと思います。

せめて、もう少し話が出来る程度、せいぜい、「N3」くらいまで勉強してくれればと思うのですが、それもそれぞれ都合があるでしょうから、難しいでしょうね。

時々、困ってしまうことがあるのです。でも、どうしょうもない…。言葉がある程度出来るということは、その国の文化、歴史がある程度掴めると言うこと…。その国で、生活していくためには、本当に大切なことだと思うのですけれどもね。

日々是好日。
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昨晩、少し早めに「願い」が天に届いたかな…。

2023-07-07 08:23:22 | 日本語学校
晴れ。

いいお天気です。まるで「梅雨」が明けたかのよう。でも、まだ明けていません。なんだか変な気ですけど。

水曜日に、「七夕」の「飾り付け」」が終わり、門扉に置かれた「笹」が、どこやら寂しそう。今夜が本当の(新暦ですが)「七夕様」。

みんなで写真を撮ったのは、飾り付けが終わった「水曜日」。その夜は、雨になるということだったので、(学校の)中に笹を置き、昨夜はいいお天気で風もなさそう…だったので、門扉に飾り、今朝はそこで皆を待つかどうかするはずです。

笹は、切り口を水につけていても、葉はカラカラに乾いて巻いてしまうので、ちょっとかわいそうかな。昔はどこにでもあった「笹」が高級化してきているのも、ちょっと残念。「ススキ」と同じ運命なのでしょうね。

大きな「笹」は別格としてが、小さいものであったら、以前は「ちょうだいね」で「はい、どうぞ」ということもあったのですが、今はその話をすると、とんでもないと言われるだけ。「ススキ」なんぞは、土手に生えてくるのを見繕って取ってくればいい…そういう時代もありました。ただ「ススキ」は根性があって、折るというのも、なかなか子供の手には負えず、最後は同じように「ススキ」取りに来ていた、別の大人に頼んだりしていましたっけ。

「笹」は「七夕様」の飾り付けには必須であり、「ススキ」も「お月見」には必要なもの…。とはいえ、これも「伝統」というか、「刷り込み」の一種なのでしょうね、考えてみれば。なくとも困りはしない。それはそうなのですが、…物心つく頃から、「七夕の図」や「お月見の図」に囲まれ、その上、実際にそれをやっていたわけですから、刷り込まれない方がおかしい。

「これだけは(譲れない)」と思い、「これがなくなるということは、民族(神)の滅びるということだ」と頑なになっていたことも、煎じ詰めれば、ただの「習慣」だった…ということもよくある。もちろん、懐かしさとか恋しさという気持ちは消えないでしょうが。また人によっては罪悪感なんてのも残るかもしれませんが。

中国にいたとき、そういう「頑なさが強烈な」人々が少なからずいて、最初は度肝を抜かれ、どう接していいかわからなかったのですが、そこに、各人というか、各国、各民族で「温度差」が多少あることに気づけば、、ソロリソロリと付き合うすべが身についていきます。

とはいえ、人を「説得しよう」とする人とは、一度で「御免被る」でしたね。「人にはそれぞれ事情がある。あなたはあなた、私は私。それでいいでしょう」と言えるくらいの了見が身につくまでは、「敬して遠ざる」に徹するしかない。なにせ、日本人は宗教に弱いのです。周りにそういうような人たちはいませんでしたし、普通は。

日本人というのは、「これは、神様」と言われれば、それがどのような対象であろうと、「はい、神様ね。よろしく」と手を合わせてしまう「習慣」があります。だから「『疫病神』を拝んだら大変だよ。ご神体を確認してから拝めよ」なんて言われることもあるんでしょうね。

これは、「知り合いの神様だから、悪い神様じゃないんだろう」と相手のご親戚に挨拶するような気持ちで、手を合わせたりしている…。多分。何も考えていないと非難されれば、そうかもしれませんが、このいい加減さは、当今のようなご時世には、本当に得がたいこと。よって、日本には宗教戦争がない…状況を生み出していると言われればそうでしょう。

天皇が「現人神」でなくなってから、この地で「現人神」として生身の人間を信仰するなんて人はいないと思っていました。そこまで行くかなあと。信仰にしても、多くは助け合い、あるいは心の支えとしてのものであり、そこら辺のおばさんやおじさんを神として崇める人などいないと思っていました。

現実には「いる」そうで、それが、私にとっても大きな驚き。そういう人が身近にいなくてよかったと思っていたら、かつての知り合いから、そういう「信仰」の書が送られてきて、びっくり。確かにその人は心に弱い部分がありましたけど、そんなの、信じる????でした。実務には才能のある人だったのだけれども。

(送られた数冊を)読むと、この(宗教を始めた)人はいったい何を言いたいのだろう。…わからない。結局、なに???。ここは「バイブル」から引いてきて、あそこは「仏教」のお話で聞いたことがあるし、また別の箇所は神話の「神産み」だろ…。こんな切り貼りルックで人をだませるんだ…。不思議だな、すぐにわかることなのに。

こういう団体も苦しいのでしょうね。自分たちで新しく物語を作り出すだけの才はない。となると、借り物で張りぼてを作り、大きく、格好をつけるしかない。

で、学生たちに聞きます。「宗教は?」。それぞれあるようです。ある者は「教会へ行く」と言いますし、ある者は「お寺へ」、またある者は「モスクへ行く」と言います。ベトナムの学生は、「ありません」と言うので、「ベトナムのうちには、神棚があるでしょ。あれは」「あれは死んだおじいさんやおばあさんたち」「それも『宗教』です」と言うと、びっくりしていました。これも刷り込みなのでしょう。

外にある「寺院」や「道観」などは、もう宗教施設と言うより、文化財になっているのでしょうけれども、心の中にあるものは、やはり「宗教」で、宗教なんてあくまで個人的なものだから、道で引っかからないようにねとは言っておきましたが。

外国人を狙った新興宗教というのも、あるようで、「いい宗教はじっとして、みんなが来るのを待っている…つまり、待てる。悪い宗教は、向こうからやってきて、金をせびる」「お金の話が出たら、すぐに逃げろ」。だいたい、留学生はお金がそれほどないのです。それでも勉強しようと、日本で働けるだけの日本語力をつけようと頑張っているのです。

まあ、四六時中一緒にいるわけではありませんし、夏休みも近いので、これくらいしか言えませんが。

日々是好日
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「七夕」は、みんな楽しんでくれました。一生懸命に作ってくれた「笹飾り」は、玄関で皆を迎えます。

2023-07-06 08:25:03 | 日本語学校
小雨。

夜来、ずっと降り続いていた雨も、もうすぐ上がりそうなです。枯れて褪色した「アジサイ」が雨にしょんぼりと打たれています。「アジサイ」は、盛りの頃が華やかであっただけに、終わりを迎える頃になると、見ているのが辛くなります。しょぼくれた己を見るよう…。とはいえ、まだ「梅雨」は明けていません。

学校です。

昨日は、例年通り「七夕」祭りを実施。「Cクラス」の面々は四月から学校に来た…と言うこともあり、最初は「なんじゃ、それ」と言った表情でしたが、アニメも飾り作りも楽しんでくれたようです。ただ、一人だけ、イスラム女性が、宗教の関係上、できないと帰って行きました。まあ、時々あることですから、こちらも「どうぞ」と言うしかないですね。だいたい彼女は留学生ではありませんし、大人ですから、やりたいようにやってくださいというところです。

同じ教徒でも、日本に長年住んでいたり、この学校で、二年ほども勉強し、「N2」まで合格できている人であれば、あれは、「日本の文化」と割り切って考えることが出来るのですが、「初級」ではねというところです。

日本語ができ、日本について少しは学んだことがある人は、私たち日本人の大半が、「日本人は、もちろん、古代からの歴史は重んじるけれども、それと宗教とを必ずしも結びつけてはいない」と言うことに勘付いています。私たちの日頃の言動などから感じることもあるでしょうし、彼らがそういうことに関する質問をしたときの私たちの答えやその態度などから推測することもあるでしょう、なにせ、毎日来ていたのですから。

ところが、在日の人たちの場合、日本語を学んでいても、留学生のように、「大学に行きたい、高校に行きたい、日本の会社で働きたい」といった目的があるわけではないことも多いのです。しかも、中には、来たり来なかったり、あるいは、もう何日も連絡もなく休んでいるからやめたのだろうと思っていると、突然来たり…。で、在日生だけのクラスを開くというのは、かなりのリスクがあるのです(現「Cクラス」の学生たちは、ほとんどが在日生なのに、まず休まないですね。これは驚きです)。つまり、ある程度の人数がいないと、「教師だけがぽつんと机の前に立っている」図になりかねないこともあるのです。

ここは日本語学校ですから、当然のことながら、よほどのことがない限り外国籍の人が日本語を学びに来ます。ある程度日本語の基礎を学んだ後、「ヒアリング」や「読解」「文法」など、分けて学ぶようになりますから、毎日授業にさえ参加していれば、日本に関する知識もだんだん増えていきます。それに、彼らが、生活の上で、気になるを聞いたりすることもありますし、教師の方でも彼らの行動や考え方で気になることも出てきます。そのときはその場で、誤解を解いたり、説明したりをしています。

もとより、言語の壁がありますから、これは、その都度、繰り返すしかありません。ここで学んでいるうちに、わかるようになるだろうということで、何度も繰り返していくのですが、人によっては、最後までこちらの意図するところが理解できないということもあります。とはいえ、幾度か、聞いたことがあれば、日本にいて日本人と接しているうちに、ああ、これがそうかと気づくこともあるでしょう。日本で生活すると言うことはそういうことなのです。

ただ、在日の人の中には、自分たちの国だけでまとまってしまう、あるいは、同じ宗教の人たちの中だけで暮らしてしまうといった人たちもいます。彼ら(彼女ら)は、買い物や公的手続きのため、あるいは子供の通園のためなどで、簡単な日本語は話せるようになりたいし、聞き取れるようになりたい…だけであって、日本の文化などには、たいてい興味をもっていません。自分たちの国の文化は世界にまたとないものであり、一番優れているものであると確信しているわけですから、2番手、3番手となる国のものなど関心ないのです。見て、楽しむ(旅行)などは好きそうですけれども。

向こうが馴染めなければ、こちらでも馴染めない…というのが、まあ、一般的な傾向でしょうね。日本のことで、わからないことを聞いたり、問い詰めたりするのは、我々の国に関心があること。そういう関心を持ってくれる人の国については、私たちのほうでも、当然知りたくなる。その国情や民情を理解したい…と思うのも当然のことでしょう。

人は、互いに繋がりあっているものなのですから。

もとより、人は変わるものです。そういう変化を私たちも見てきました。わずか一年か二年くらいの間に、大きく変化する人もいます。自分の国を客観的に見られるようになっていく人もいますし、他者が気になってくる人もいます。「天上天下唯我独尊」(日本ではあまりいい意味では用いられていませんけれども)であった人が、他国の様々な事情を知ることにより、考え方を変えたということもありました。

ただ、それがわかっても、いえ、わかったが故に、「元」に帰ってしまうという場合もあるのです。却って、頑なになってしまうと言った方がいいのかもしれませんが。これも人情のなせるワザ、しょうのないことです。

とはいえ、こうなってくると、他国(例えば、民族が違う、習慣が違う、宗教が違う等の国)で、暮らすのは、容易ではないでしょうね。初めのうちこそ、珍しいのでちやほやされるでしょうが、時間が経ってくると、正体がばれてくるでしょうから。そうなれば、他者からは認められないでしょう。周りの厄介者になるかもしれません、そこに存在しているわけですから。自分たちの「輪」があれば、そこに逃げ込めますからいいのですが、その「輪」が大して広くない場合、やはり生きづらいでしょうね。そして、自分を受け入れてくれないその国に対してねじけた心情を保つようになるのは、当然のこと。

これは、日本人だけが親切になればいいというものでもないのです。もちろん、日本人が他国に行った場合も同じです。自分の国でない「国」に行った場合、少なくとも、その国の歴史、文化などに対して、尊敬できなくとも、関心は持つべきです。そして知る努力をするべきなのです。旅行でなく、生活するのなら、それは必要なことだと思います。これは、どこでも同じ。旅行ではなく生活するのなら。

日々是好日
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