日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「七夕様」で、「神」という言い方は避けたのですけれどもね。無駄でした…。

2022-07-07 08:49:06 | 日本語学校
曇り。

時折、陽が射してきますし、風は…なんと、心地よい涼しさ。これも「温帯低気圧」と化した、「台風4号」の影響なのでしょうか。七月なのに、どこか、変…。

さて、今日は「七夕様」。

「星に願を」というわけで、先日、「短冊に願いを書いて」の時、下のクラスのイスラム教徒の女性が、それを拒否。これは「宗教」というよりも、「文化」なんですがね。

実は数年前、これまで通りの説明をしていたところ、イスラム教徒の男子学生が急に立ち上がり、「帰ります」。…彼以外のイスラム教徒の学生たちは残ったのですが。まあ、そういうこともあり、その時以降、「神様」…つまり、「天帝」とか、「天で機織りをしていた」とかいう言葉を、一応、封じて説明するようにしていたのですが。それでも、出てくるのです、こういう人が。こういうこと以外は、ごく普通の人なのですが。

異文化の、いわゆる先進国と言われる国に来ていても、なかなか自分の「優位性」を捨てきらない人というのはいるもので、その「優位性」たるや、自分はいわゆる「(自分たちの)神を信仰しているから、(それを信じていない)未開の者たちに比べて、優位にある」というようなもの。…これじゃあ、どこに行っても、悶着を起こすだろうな。

日本人の宗教観なんて、いい加減なもので、「あなたはいい人で、私の友だち。私の大切な友だちが信じている神は、多分、いい神様。だから私も尊重します。はい、合掌」で、終わり。だれに手を合わせようが合わせまいが、「自分のものは自分のもので、変わりはしないから平気」なのですがね。

融通が利かない世界から来ている人は、他の世界に行った時、大変だろうなと、他人事ながら、思ってしまいます。その人が行った某地の人が、思い込みの激しい、その人を哀れと思い、最初のうちは、万事につけ、譲ってくれるでしょうが、それに気づけないのでしょうね、きっと。しかしながら、それが続けば、心優しい某地の人も我慢の尾が、ぷっつんと切れるでしょう。そして、関係はぶち切れてしまう…でしょうね。その時に恨みつらみを言って、「嫌な人たちだ」と言うようになるのでしょうが、全く困ったものです。末が判るだけに同情してしまいますけれども、双方に。

こういう人の宗教観だけは、口で言っても変わることではありませんから、私達の態度も一応「敬して、之を遠ざく」になってしまいます。

せっかく異国に来たのに、新しいもの、未経験のものを、用意されても自分から排除してしまうとは、ある意味、もったいないことなのですがね。

そういえば、もう10年ほども前のことになるかしらん。「カトリック教徒」の学生が、「読解」のテキストの「進化論」が語られていた件に反応し、「これは間違っています」と主張したことがありましたっけ。

その時は、「日本では皆、こういう『学説』が常識となっているので、日本人を知るという意味で、勉強してね」で、事なきを得たのですが、「イスラム教徒」の世界は、まあ、国や民族によっても違うのでしょうが、どうも上から目線の人が少なくないようで、ガチガチの人も微々たるものとは言いがたいようです。

中世の「イスラム教国」は、「古代ギリシア」の哲学やら、文学、科学を学び、己がものとなし、先進的な大帝国となっていました。当時は、中世ヨーロッパ世界を睥睨していたものですが、それも、おのれと異なったものをドンドン吸収していけるだけの自信と度量があったからなのでしょう。それがなければ、今でも、己が狭い空間で、ハアハアしながら生きていくしか道はない。とはいえ、それは他者からの視線。

彼らそれぞれの民族や国の歴史があり、その歴史の中で培われた生き方なのでしょうから、他者がどうのこうの言うものでもないし、言えるものでもない。

こういう学校にいれば、様々な宗教を持った人と、いろいろな接点ができてしまいます。中には、私達に、如何に自分たちの宗教が優れているかを力説する人もいるのですが、(宗教に「優れている、いない」はないだろうと、思っている私達には、あまり通じないようですね。礼儀上、聞いてはいるのですが、こころでは「気の毒だな。徒労であろうに」。

慣れていない人は近づくかも知れませんが、それは宗教としてではなく、あくまでも珍しい文化としてです。またその方がいい。「宗教」なんて、人に押しつけるものではなく、押しつけなければだれも信じないとしたら、もうそれは「宗教」のまがい物とでも言った方がいい。  

「宗教」というものは、「地震」、「津波」、「火山の噴火」、「戦争」、「疫病」、そして「予期せぬ親しい者の死」など、人知を越えた災いに対する人々の「畏れ」であり、「祈り」であり、「(祈ることによって)救われる心」であり、ある意味、人と人(ある時は死者)との「よすが」でもあるのでしょう。この意味では、極めて個人的なものです。

ただ、この数千年の間に、カリスマ性のある人が出現し、それが政治的なものと結びつけば、巨大な力を持つこともあるでしょう。その力に軍事力が備われば、当然、大きく広がっていくでしょうね。ただし、だから、立派というわけでもない。

宗教の名は違っても、人々の願い、祈りは同じである限り、結局は同じものに対して祈っているのです、人は。

だから、日本人は「森羅万象に神宿る」となる。で、皆、同じ。そういう日本人に、おのれの宗教の利点を声高に叫んでも、それがなんだ????となる。

「生き方」の違いを説く方がよっぽど説得力があるような気がするのですけれども、「宗教」を説くよりも。

日々是好日

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