日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「空がきれい。時々、空を見に行きます」

2020-02-21 08:50:49 | 日本語学校

晴れ。

今朝もよく晴れています。今朝も…と言いながら、昨日(の天気)はどうだったっけなどと思っています。本当にどうだったっけ。つまり忘れているのです。それなのに、「今朝も」なんて大きな顔をして言っている。いやあ、面の皮は厚くなる一方です。

昨日のことは昨日のこと、今日の事も今日の事、そして明日も、明後日もそうなっていくのでしょう。…多分。

よく言われる「今日は昨日の明日」ですが、その後に「昨日は…」と続けるか、「あしたは…」と続けるかで、その人の意図するところは違ってきます。また、その言葉を受ける人の気持ちも違ってきます。さて、今の私はどう続けたいのでしょう。判りませんね。

ところで、昨日、学校で、面接練習の時、学生に自由に話させていると、「日本の空が好きです」と言い始めました。彼は自分が「理系」だと思っているようですが、私の目には「芸術系」に見えます。理論とか、理屈ではないのですね、単なるおしゃべりの時でも、読解文を読み、答えを出していかねばならない時でも。こちらの問いの文中にある「一単語」にすっと反応してしまい、全体が見えなくなるのです。そして、自分の思いなどを話し始めてしまうのです。

おそらく心の内に表現したいことが山のようにあって、溢れ出さんばかりにあって、それが、一単語に誘発されて、堰を切って雪崩のように流れ出してくるのです。

「一人でよく空を見に行きました。どこの空もいいです。きれいです」
「ベトナムの空もきれいでしょう」
「ベトナムでもよく空を見ましたが、違います。私のふるさとは山が多いのです」
(そうか、この辺りは、海の近くだし、確かに山は見えないな。しかも、日本は高層建築というヤツもそう簡単には建築許可が出されないし…。よって見かける空は広い)
「自転車で、土手へ行って、じっと空を見ています。とてもきれい。葛西臨海公園では、夕陽も見ました。富士山も見えました。海も見ました。とてもきれい。ああ、いいな。幸せでした」

本当に、嬉しそうに、今、その空を見ているかのように、感動を交えて話してくれました。

世界にはいろいろな空の色があります。どの空の色が自分に合うか、もちろん、空だけではなく、大地の色とか、そこに生え、また生い茂っている植物系の色とかも関係してくるのでしょうけれども。

「きれいなものをもっともっと見られるといいね。もっともっと、美しいと心から喜べるといいね。子供のように感動できる心がずっとずっと続くといいね」と願わずにはいられません。

けれども、それが(面接の時に)なかなかプラスに働いていかないようなのです。真面目で何事も一生懸命にし、器用な質ではないにしても、この良さをきちんと見てくれるところがないかしらん。

日本の中学校に勤務していた時にも、生徒に同じような感想を抱いたことがありました。同じですね。

もっとも、教室では、特に授業の時には、(彼等との、また彼等同士の)違いを認識しておかないと、説明一つにしても、できないことがあります。海に対する感情一つにしても、まだ動物についての説明の時にも。(前に書いたことがありましたが、「ヘビ(蛇)」の大きさが違っていたのです。私の「ヘビ」は、そこそこの長さの小さな「ヘビ」。かれらの「ヘビ」は大蛇。同じように「怖い、苦手だ」と言っていても、全然違うものに対する気持ちだったのです)

「オオカミ(狼)」の話を手前勝手にしていた時、学生が「庭に来たことがある」。えっ!!!!狼が庭に出た!」隙を突かれたという感じでした。

日本では既に滅んでしまった「犬神様」、欧州では過去「人を食い殺していた危険な動物」(子供時、中世フランスで巨大な狼が出現し、たくさんの人を食い殺したという話を読んだことがありました。いまだに、狼はその姿です。その上、中国で働いていた時、同じホテルに住んでいたモンゴル人女性が、「男は成人の時、狼を殺しに行く。そして、狼の尾の一部をキーホルダーのようにして、身につけるのだ」と言ったのも、それに拍車をかけました)、それが、…庭に出た…??

ある国では、「ウワバミ(蟒蛇)」が庭を這っていた…。またある国では、「ワニ(鰐)」が道を歩いていた…。

日本では動物園の住人で、その印象でしか物事を語れませんから、先に学生達にそれらのイメージや話を聞いておかないと、文章の理解が彼我によって全く異なったりすることもあるのです。

かつて、交通機関がそれほど発達していなかった国の人に「自動車による公害」の文章を読ませた時も、「なぜだ」で、「わけがわからん」となったのです。その過程を経ていない人たちに、上からの強制のように、「それが悪い」と言っても納得しないのは無理ないこと。「でも、私は車が欲しい」なのです。この意味は単に乗りたいということの他にステイタスという部分もあったのでしょう。そういう人たちとの価値観を乗り越えた上での文章理解というのは、「判った。でも、違う」がせいぜいのこと。

だから、そういう教材を教科書に入れて欲しくはない…まあ、これは当時の感想ですが。筆者の主観や先入観、教室にいる人たちが先進国から来ているとか、富裕層であるとか、あるいはエリートであるとか、そういう対象に向かって書かれている文章は、読ませても、立場が違いますから、なかなかその意図していることを伝えるのは難しい。

そういう時は、飛ばすか、あるいは単語、文法の説明だけで、サラッと流すか、しています…。けれども、変に拘る学生も時々いて、まあ、いいかとぶっちゃけた話をして理解を得たりしていました。これも面倒は面倒でしたが。

最後は「個」にかえらざるを得ないのです。どうしてかと聞きに来た学生は、一斉授業ではないものを求めています。求められれば、こちらのできる範囲で応じるしかない。逃げるべきではないし、だいたいにおいて、その前に相互理解はある程度できていますから、向こうもおおかた理解できたところで身を引いているようですし。

ある程度日本にいれば、自然に判ることも多く、それが、こういう人にも判って来ているのでしょう、半年か一年ほどもいれば違いも見えてくるものですから。

日々是好日
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