晴れ。
金曜日から続いた雨で、木々や草花は十分に潤い、急に勢いづいてきたように見えます。今朝など、「キョウチクトウ(夾竹桃)」の緑の葉の間から、鮮やかな紅が見え隠れしているようですし、角のお宅の「ホタルブクロ(蛍袋)」も、たわわに「実って」見えます。
本格的な「梅雨」期が始まると、晴れ間が本当に眩しく感じられます。その貴重な晴れ間が今朝のお空。もちろん、「晴れ」とは言いましても、「青空」とは、ほど遠く、うっすらと雲の白い膜が貼られているようで、まあ、きれいな「水色」といった方がいいのかもしれません。とはいえ、大地に、陽の光はしっかりと届いています。
ただ、湿度は高いようですね。まだ大気は不安定だそうで、また降り出すかもしれません。小雨程度だったらいいのですが、本格的に「ザァー、ザァー」来られますと、長靴のお世話にならねばならなくなってしまいます。
そういえば、金曜日の先生が、「これから、可愛い『レインブーツ』を買いに行ってきま~す」と、うれしそうに帰っていきましたっけ。このシーズンが始まりますと、靴屋は言うに及ばず、デパートなどのショウウインドーにも、しゃれた傘やら、色とりどりのレインブーツやらが、飾られるはじめます。
こういうファッションも、どんどん色鮮やかに、そしてタブーがなくなっていきます。これも「国際化」の一つの表れなのでしょう。いいと感じられるものはすぐに取り入れていくという。
もちろん、どの国でも、昔から男女を問わず、また年齢を問わず、「かっこいい」とか「しゃれた」ものを、率先して身に付けていく人たちがいました。今時の言葉で言うと、いわゆる、「ファッションリーダー」と言われる人たちです。浮世絵に描かれた「茶屋の娘」であったり、「歌舞伎役者」であったりしたのでしょうが、彼等の服装や仕草などを見て、真似したいと思った一般大衆が、金銭的に許される限り、たとえ「まがい物」であっても、似たものを身に付け、町を闊歩していたのでしょう。彼等と一体になれたような「晴れがましさ」を感じながら、その時だけはスターになれたような気分で。
たとえ「真似」であっても、サムライの時代、明治、大正、昭和の前期などであったら、かなりの勇気がいったでしょうね。常に「常識的な装い」というものがありましたから。
今では、この日本、ファッション一つをとりましても、「何でもあり」の国になっています。時々、「アレレレレ…??」という服装をしている人も見かけますが、そういう服装をしているからといって、見咎める人も眉を顰める人もなく、ヨーロッパ人から見ても、「自由で羨ましい」と思われる程だとか。
私たちの方では、パリなどの方が「自由」と思いがちなのですが、彼らの国には、「然るべき階層の人は、然るべき服装をすべき」という「世間の目」があるようで、階級制の残っている「古」欧州の方が、ある意味では、日本などよりも、かなり保守的であるのかもしれません。
この学校の学生達は、そういう(西ヨーロッパの)国よりも、もっともっと保守的な、あまり開放されていない国から来ている人達が大半ですから、時々、あまりに「自由すぎる服装」をしている若い人や若く見える人を見て、まるで、頑固な年寄りのような目になる人も、出てきます。見咎めるのでしょう。
もう、日本人は、「人それぞれ。服くらいのことに目くじらを立ててどうするんだ」くらいのことに考えているのですが、いわゆる(中高校生の受験期に、学校から言われる)「服の乱れは心の乱れ」と解するのでしょう、どうも、許せないと思う人もいるようです。
私たちは、「もう、大学生になっていれば、また社会人になっていれば、『私〔私〕の時間』に、何を着て街を歩こうと、その人の勝手。その人の責任でやればいい」くらいに考えて、別に「見る」ということなんぞしないのですが、彼等はそうはいかないようです。
正義感に駆られでもしたかのように、批判的にそういう人を見て、「自分の国では、若い人(特に女性を指す場合が多いのですが)は、こんな恰好で街を歩かない」と、自分の国を誇る人まで出てきます。私たちは、「だからどうなんだ」と思いますし、「どちらの国の方にそういう『禍々しい』犯罪が多いのか」とも思うのですが、やはりだめですね。見た目で、非難して終わりです。
人は、なかなかに自分とは異質の他者を認めることは難しい。たとえ若い人であっても、「自分の国のやり方が、『是』であり、その範疇に入らないものは、すべて『非』」としてしまう傾向は、変わらないようです。
もちろん、「変わって欲しい」なんて思いもしないのですが、「『人それぞれ』を自分だけでなく、他者にも感じてほしい」という気持ちだけは、こういう言葉を聞くたびに、強くなるのです。
日々是好日
金曜日から続いた雨で、木々や草花は十分に潤い、急に勢いづいてきたように見えます。今朝など、「キョウチクトウ(夾竹桃)」の緑の葉の間から、鮮やかな紅が見え隠れしているようですし、角のお宅の「ホタルブクロ(蛍袋)」も、たわわに「実って」見えます。
本格的な「梅雨」期が始まると、晴れ間が本当に眩しく感じられます。その貴重な晴れ間が今朝のお空。もちろん、「晴れ」とは言いましても、「青空」とは、ほど遠く、うっすらと雲の白い膜が貼られているようで、まあ、きれいな「水色」といった方がいいのかもしれません。とはいえ、大地に、陽の光はしっかりと届いています。
ただ、湿度は高いようですね。まだ大気は不安定だそうで、また降り出すかもしれません。小雨程度だったらいいのですが、本格的に「ザァー、ザァー」来られますと、長靴のお世話にならねばならなくなってしまいます。
そういえば、金曜日の先生が、「これから、可愛い『レインブーツ』を買いに行ってきま~す」と、うれしそうに帰っていきましたっけ。このシーズンが始まりますと、靴屋は言うに及ばず、デパートなどのショウウインドーにも、しゃれた傘やら、色とりどりのレインブーツやらが、飾られるはじめます。
こういうファッションも、どんどん色鮮やかに、そしてタブーがなくなっていきます。これも「国際化」の一つの表れなのでしょう。いいと感じられるものはすぐに取り入れていくという。
もちろん、どの国でも、昔から男女を問わず、また年齢を問わず、「かっこいい」とか「しゃれた」ものを、率先して身に付けていく人たちがいました。今時の言葉で言うと、いわゆる、「ファッションリーダー」と言われる人たちです。浮世絵に描かれた「茶屋の娘」であったり、「歌舞伎役者」であったりしたのでしょうが、彼等の服装や仕草などを見て、真似したいと思った一般大衆が、金銭的に許される限り、たとえ「まがい物」であっても、似たものを身に付け、町を闊歩していたのでしょう。彼等と一体になれたような「晴れがましさ」を感じながら、その時だけはスターになれたような気分で。
たとえ「真似」であっても、サムライの時代、明治、大正、昭和の前期などであったら、かなりの勇気がいったでしょうね。常に「常識的な装い」というものがありましたから。
今では、この日本、ファッション一つをとりましても、「何でもあり」の国になっています。時々、「アレレレレ…??」という服装をしている人も見かけますが、そういう服装をしているからといって、見咎める人も眉を顰める人もなく、ヨーロッパ人から見ても、「自由で羨ましい」と思われる程だとか。
私たちの方では、パリなどの方が「自由」と思いがちなのですが、彼らの国には、「然るべき階層の人は、然るべき服装をすべき」という「世間の目」があるようで、階級制の残っている「古」欧州の方が、ある意味では、日本などよりも、かなり保守的であるのかもしれません。
この学校の学生達は、そういう(西ヨーロッパの)国よりも、もっともっと保守的な、あまり開放されていない国から来ている人達が大半ですから、時々、あまりに「自由すぎる服装」をしている若い人や若く見える人を見て、まるで、頑固な年寄りのような目になる人も、出てきます。見咎めるのでしょう。
もう、日本人は、「人それぞれ。服くらいのことに目くじらを立ててどうするんだ」くらいのことに考えているのですが、いわゆる(中高校生の受験期に、学校から言われる)「服の乱れは心の乱れ」と解するのでしょう、どうも、許せないと思う人もいるようです。
私たちは、「もう、大学生になっていれば、また社会人になっていれば、『私〔私〕の時間』に、何を着て街を歩こうと、その人の勝手。その人の責任でやればいい」くらいに考えて、別に「見る」ということなんぞしないのですが、彼等はそうはいかないようです。
正義感に駆られでもしたかのように、批判的にそういう人を見て、「自分の国では、若い人(特に女性を指す場合が多いのですが)は、こんな恰好で街を歩かない」と、自分の国を誇る人まで出てきます。私たちは、「だからどうなんだ」と思いますし、「どちらの国の方にそういう『禍々しい』犯罪が多いのか」とも思うのですが、やはりだめですね。見た目で、非難して終わりです。
人は、なかなかに自分とは異質の他者を認めることは難しい。たとえ若い人であっても、「自分の国のやり方が、『是』であり、その範疇に入らないものは、すべて『非』」としてしまう傾向は、変わらないようです。
もちろん、「変わって欲しい」なんて思いもしないのですが、「『人それぞれ』を自分だけでなく、他者にも感じてほしい」という気持ちだけは、こういう言葉を聞くたびに、強くなるのです。
日々是好日