日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「セミ」が鳴き始めました。皆、頭の中には「夏休み」しか、ないような具合。まだ二週間ほどもあるというのに。

2024-07-22 08:04:47 | 日本語学校

晴れ。

「『セミ』の声がしないなあ」と感じていたその日の帰り、「ミンミンゼミ」が鳴いていました。「ミ~ン、ミ~ン」と、遠くの街路樹から聞こえて来ました。夏ですねえ。

私のふるさとでは、これが、「ワッシ、ワッシ」で、この声で暑さが「十の二乗」に膨れ上がって夏となるのですが、ここでは「ミ~ン、ミ~ン」と、「ワッシ、ワッシ」に比べれば、数段かわいらしげ。聞いても大して暑さは増さない。ただそうは言いましても、確かに夏になった…。

巷では、アメリカの「素数ゼミ」なんてのが話題になっているようですが、夏になると、「セミ」が話題に上るのは、どこでも同じなのでしょうね。そういえば、この「セミ」が部屋に飛び込んできて、慌てふためいていた学生もいましたっけ。「あ、あ、あれは何ですか」。驚いていたのなんのって…。「ネズミ」に驚かないのに、「セミ」にビビるか…。

もっとも、私も「ヤモリ」の鳴き声を、「シーサンパンナ」で、初めて聞いたときには、本当にビビりました。でも、いまだに「あれは、本当に『ヤモリ』の声だったのかしらん」と思っています。

夜間に、真っ暗な中、部屋の中からとしか思えない所からの「声」です、それは驚きますよね。聞くと「ヤモリ」とのこと。今でも、あれは「訳」がどこかしら間違っていたのではないかと思っています。日本の「ヤモリ」は、あんなに大音響で鳴きはしませんもの。

気候が違えば、当然そこに住む「生き物」も違ってくる、そういうものに、初めて対すれば、ビビるのも当然のこと。もっとも、「セミ」にはすぐ慣れたようでしたが。

さて、学校です。

学生達の気分は、「七月生(一年生)」を除けば、皆「夏休み」になっている…。すでに「冬休み」を視野に入れている「二年生」もいるくらいですから。「ね、先生。『冬休み』はいつから?」長期休みの前は、みんなよほどうれしいものと見えます。もっとも、「夏休み」は長く、一ヶ月近くありますから、後半になると、やはり友達にも会いたくなるのでしょう。二学期の登校日には、遅刻したり、来なかったりする人は、まず、いませんから。…まあ、前の日に来たり、日にちを忘れて、電話をしてきたりする人は、時折、見受けられるようですが。

「夏休み」期間に、「二年生」は、案外、忙しく、大学や専門学校のオープンキャンパスに行ったり、あるいは「この学校はどうか」と尋ねに来たりすることもあります。「二年生」とは、「四月生」も「七月生」も「十月生」も、そして今年の一月に来た人とも、何となくお互いがわかり合えるようになっているので、それほどの不安はないのですが、「一年生」ですね、問題は。

「七月生」は来てすぐに、長期休暇となります。日本語のレベルで言うと、「ひらがな・カタカナ」が書ける程度で、勉強が中断するわけですから、アルバイト探しもままならないでしょう。「四月生」は、すでに、最初のアルバイトを変わった人もいるくらいですから、(まあ『みんなの日本語(Ⅱ)』に入っていれば)アルバイト探しくらいならどうにかなるかな。

おそらく、親戚がいる人はその人達が彼らの便宜を図ってくれるでしょうし、二年生の同国人が、紹介してくれるということもあり得る。ただ問題は日本語力ですね。

スリランカ人はヒアリングがいいので、アルバイトくらいならどうにかなるにしても、「七月生」の大半を占めるネパール人はちょっと大変かな。母国で大して日本語を学んできてはいないようですから。

来日後のことを、よく考えてくれるような(現地の)学校であれば、そういうこともないのでしょうが。来日後、こちらが初めて判る「(日本語の)レベル」というのもあります。「えっ?これで『N5』に合格した????」

最低限の日本語、教科書でいえば、『みんなの日本語(Ⅰ)』くらいは学んでおいてほしいのですがね。そうでないと、来日後の生活にも支障が出てきます。

簡単に、日本へ行きさえすれば、どうにかなるくらいに言われて来ている人もいるようです。留学生は、一応「N5」に合格して来ている(大卒者を除く)はずなので、「N5」レベルのものは、サッサッと復習して先に進むというやり方をしているのですが、ネパール人留学生が多くなると、そうは行かなくなります。初心者に対するようなやり方に変えざるを得なくなることもよくあります。

今年の「七月生」は、そんな感じです。…とはいえ、あまり諄くやってしまうと、他の学生が困ってしまう。…もっとも、(他の国から来た学生とも)大した差はなさそう(今回は)なので、どうにかなりそうなのですが。

日々是好日
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「自分の性格は?」「優しい。明るい」「どうしてそう思うの」。それから「短所はない」と言い切る学生。「本当にないの?それこそが短所だ」。

2024-07-19 07:13:05 | 日本語学校
晴れ。

暑くなるというのが、もう朝っぱらから知れている…。なぜ「セミ」が鳴かないのかと思いたくなるようなモワモワっとした周りの空気です。空気自体が暑くて膨らんでいるような気がする。暑いと言っても、その尖った暑さではないのです。へなへなとアイスクリームが溶けていきそうなそんな感じ。鋭い鋭角を持った氷の暑さではありませんね。

ふと前を見ると、西の低いところに、いかにも「ナツーッ」とでも言えそうな雲が重なっていました。別に(なぜナツーッと思ったのかの)根拠があるわけではないのですが。

もう「エアコン」が必需品になってから久しい状態が続いています。最初の頃は、「暑い(下げて)」と言う人と、「いえ、いえ、寒い(上げて)」という人とがはっきり分かれていたのですが、最近では、「寒い」と言っていた人達も、「暑い」組に呑み込まれでもしたかのように、聞くと「暑い、大丈夫(そのままでいい)」と言っています。なにせ、午後のクラスの学生達は、一番暑い時間にセッセコセッセコやってきているのですから。宜なるかな。

さて、学校です。

昨日は、「Bクラス」で、「あなたはどんな性格ですか」というのをやってみました。追い詰められると、簡単に「やさしい」とか、「明るい」とか答えてしまうのですが、そこで「どうして」とか「何が、どこが」と聞き返しますと、途端に答えに窮してしまいます。結局、よさげな言葉を適当に言っているだけなのでしょう。下手をすると、皆が「優しくて、明るい」だけの面白みのない人間になってしまいそうです。

最初は、母語で書いてみて。後で個別に質問していくから」と言っていたのですが、AIの力を借りて、すぐに日本語にしてしまうので、突拍子もない単語が続出するということになってしまいます。

前に(卒業生ですが)、文章を読むときに、AIの力を借りるという学生がいました。一つの漢字にしても読み方が一つとは限りません。いくら外国人用の教科書で、大した文章ではないにしても、場面に即したり、(文章の)流れからその違いを見極めて、読み方を選ばねばならない時もあります。それで、読み間違える度に、「グーグルが悪い。グーグル、バカ」と言って皆に爆笑されていたのですが。いくら注意しても、楽だからつい使ってしまうのでしょう。旅行くらいならどうにかなっても、「学び」の上では、どうにもなりません。こういう機器を使いこなすにも、ある程度の日本語力が必要なのですが、機器を信奉している人には、どうも通じないようですね。AIでどうにかしよう、どうにかなるだろうと思ってしまうようなのです。

で、その学生と同じように、AIで調べて、突拍子もない単語を出してくる学生に、「その意味も(その単語には)ないことはないけれども、(使うのは)変だ」あるいは、「こういう場面では使わない」などと言いますと、学生によっては、もうAIを諦めて、言われたとおりに母語で書いていこうとする人も出てきます。もちろん、スマホを手放そうとしない人もいくたりもいるのですが。

それから、自分の性格を言うには、「長所と短所が判っておく必要がある」と言うと、何人かが、「短所はない」と言う。「それが判らないと言うことは、それが短所だ。これは、大きな短所だぞ」と言うと、ハタと困った。「ないわけがない。あるだろう」。「いや、ありません」と言う。あるはずだとこちらは腹ではっきりと思っているのですが、ないと言い張る相手に、「山ほどある」にとどめておきます。相手は、「ん?ヤマ…」。「そう、山」。
まるで掛け合い漫才です。

それから、出たのは、「お年寄りが好き」と「人を助けます」という二種。これも「自分の性格」という範疇に入れるのはちょっと難しいような気がするのですが、言いたいことはわかる。

「お年寄りが好き」は「優しい」の一つとまとめれば、性格を言うことにもなるし。お年寄りが好きというのは、ネパール女子が言ったもので、大家族で育っているからでしょうね。おじいさんやおばあさんにかわいがられて育っているのだろうなと想像ができるような人達。そうだなあ、親切で優しいもの。

「人助けが好き」というのは、イスラム系の学生がよく言うことなのですが、これも宗教的な祭りの度に、また、折に触れて、貧しい人達に喜捨をするという習慣から来ているのでしょう。ただ日本人的な感覚では、「上から視線」が感じられて、あまりいい気分はしません。

「食べ物をあげます。貧しい人にあげると喜びます、お礼を言います」。だから(自分は)気分がいいのでしょう。もっとも、彼らは若く、自分の稼いだカネではないということはすぐに判ります。家族が金を持っているから、自分も人に施すことができる。それゆえ、いい気分になれる…ような感覚は、あまり褒められたものではないと日本人は思います。誰にも判らないような形でやれば、まだしも、そうではないでしょうから。

こういうと、「非常に不本意である」と思うようで、嫌がられるのですが、そこはある程度はっきり言った方がいい。「その金は、自分の稼いだ金ではないでしょ。その人達がほしいのは金や食べ物ではなく、自分でそれが得られるような正当な仕事であるはずであって、それは政府や自治体、金持ちなどがすべきこと。すべきことは施しではないはず」と、日本人は思ってしまうのです。

日本人などがするボランティア活動とは、やはり毛色が違うなという気がする。

施しをすれば、天国に貯金ができるくらいの気持ちでやっているような、対等な関係とは言いがたいような…そんな気がする。

「話さねばならない、自分なりの考えを言わねばならない」ような場面は、中級になってから、かなり少なくなっていました。ちょうどいい機会です。彼らは話せるようになれば、読めるようにもなるだろうと思われるタイプ。まずは一歩ずつですね。こちらがふっかけていくと、抵抗しようと考えてくれます。それもまた面白い。

日々是好日
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面白いですね。「まだ、したくない」とか、自己主張をし始めました。いつも頑張っているから、よほどのことがない限り、こちらもあちらに合わせています。

2024-07-18 08:18:17 | 日本語学校

曇りのち晴れ。

晴れてきましたね。今日は暑くなるのでしょうね。…30度に至らない日が幾日か続いたので、暑さが堪えそう…。

連休から、火曜日と休んでいた間に、道ばたの花の顔がすっかり変わっていました。スーパーに咲いていたのは、「サルスベリ」の花。少し前までその気配すらなかったのに…おっ、急に花が付いたなと思いながら歩いていると、「エノコログサ」が勢いよく背を伸ばしているのを見つけ、野っ原みたいとネコを飼っていたときのことを思い出し、その次は「ノカンゾウ」の花です。賑やかな花というか、見ているだけで暑苦しくなってくる…。ほんに三日見ぬ間のなんとやら…。

まだ「梅雨明け」の報道はないけれども、目に飛び込んでくるのは、「夏本番」の花々…。目から暑さが湧いてきそう…。

さて、学校です。

「Aクラス」では「N1聴解」「N2聴解」、「N1漢字」「N2漢字」、「N1文法」の教科書が届き、早速授業を始めます。「試験対策」のため、「読解」では、教科書をお休みしていたのですが、(試験も終わったこと故)その続きと、「N1・N2漢字」、それから「N1文法」(暗記のため、軽く流すだけですが)をやるつもりで、授業に臨んだのですが。「N1文法」は拒否されてしまいました。…先生、まだ早い…。

中国人学生はいいとして、ミャンマーからの二人にとっては、ちょっときつかったのかな。もうちょっとゆっくりしたい…というところなのでしょう。で、目次を見せて、ちょいとばかり説明をするくらいにしておきました…。まあ、「N2」の試験が終わったばかりといえば、言えないこともない。直に夏休みが始まることだし…。「漢字」の方は「N2」「N1」ともに何の抵抗もなく、やれましたけれども…。

もっとも、「N2」を受けたはいいけれども、まだ漢字テストが終わっていない人もいますし、「N3」を受けたものの、どうもそちらに足が向いていない者もいます。「試験」前には、「最後は『読み』に集中しろ」としか言えなかったのですが、それを本気にとられてしまっているような…。あれはあのときだけ…だったのだけれども。

つまり、追い詰められた者の最後のあがきみたいなもので、真っ当なやり方ではない…といっておいたのですが、ここだけが、どうも消えてしまっているような…。

確かに、漢字を書いて覚えて、テストに合格する(毎回、20単語くらいのものなのですけれども)というのは、大変といえば大変なこと。四つ間違ったら、もう不合格ですものね。しかし、「試験対策」期間が終われば、元に戻るというのも、いわば当然のことで、何ら不思議はない。…そうは言っても…ただ気持ちがね、ついて行けない…。

と、そう思っていたら、次の「Bクラス」は、明るかったですね。こんなに明るくていいのかしらん…。もう試験のことはすっかりどっかへ飛んでしまっている…。「もう、忘れたかあ」とでも言いたくなってしまう。

で、明るい人達と、また「N3文法」の暗記文を読んでいったのですが、4ページくらいから、読むのが辛くなっている人がいますね。とはいえ、皆で読むということは、聞くと言うことにもなりますから、続けてやって「聞き慣れさせる」ことも必要。耳から覚えたほうがいい人達も少なくないので。

八月の「富士山バス旅行」の旅行保険で必要なので、各人に名前を書いてもらいがてら、「白地図(世界)」に、こちらの言う国名を書いてもらいました。彼らが来たときから、教科書に(その国が)出てくる度に、国名を書かせたりしていたのですが、それも『みんなの日本語(Ⅰ)』で、何となく途絶えていました。ただ、改めて書かせていくと、聞いたことはある、という表情をする人もいて、まあ、あれも無駄ではなかったか…というところ。本当に無駄なことはないのですね、なんであれ。

自分たちの国をまず書かせ、それからこの学校に来ている人達の国も書かせ、それから、今、紛争の起きている国、よく時事問題で扱われている国なども書かせていく。

「名前書き」が終わったかなと見てみると、四苦八苦している者もいる、ついには銀行カードを出して、それを写している者もいる…。一番苦労しているのは、スリランカの人。名前が長い…というか、いくつも連なっているので、書くのも大変、しかもカタカナですからね。曖昧な音も少なくないので、己の名であれ、いつも使っている名前以外は、どっちだっけとなるみたい。

その、いくつも連なった名前を、ホウッと言いながら、のぞき込んでいる人もいる。こんなことでもない限り、相手の名前のことなんぞわかりませんから、いつもの名前で終わりくらいに考えている。タイ人は愛称で呼んでいるので、「アレッ、名前が違う」なんて言う人もいる。

ホンにこれ一つでも国際交流になるみたい。「名前書き」が終わると同時に、授業に戻ったのですが、これもまたすっかり忘れていましたね。もう一度やり直しながら、思わずクスリ。これじゃいかんなのでしょうけれども、明るくて、何度やっても嫌がらないからいいか…みたいな気になる。帰る時も、みな、明るく「さようなら」…楽しいクラスですね。

「A」も「B」も明るくて、ほんとうに、いい「クラス」です。

日々是好日
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「七月生」の授業が始まってから、一週間が終わろうとしています。多分、「とても」大変だったでしょうね。

2024-07-12 07:54:14 | 日本語学校

曇り。

時折。パラリと雨滴を感じる…程度です、まだ。どんよりとした雲が、空一面を覆っています。今にも降りそうで、降るかと思うと…降らない。まだまだ我慢できると空が突っ張っているような。とはいえ、じき、降り出すでしょう。最近は、今年の「四月生」達も少し日本の今時の天気が判りかけたとみえ、降りそうで降らない空模様の時にも、傘を持ってきているようです。

一方、2年目の学生達は、…傘を持ってきていませんね。これも慣れでしょうかしら。梅雨」に入ったのも遅かったし、それに何より、(入ってからも)大して降っていませんものね、よくわかっていらっしゃる。

さて、学校です。

「七月生」の勉強が始まってから一週間が過ぎようとしています。それなりに慣れるしかないのですが、「はじめて(日本語の)音を聞く」かのような人が若干名というか、多めにいて、それが「困ったさん」になっています。もとより、以前はそういう人が多かったそれ故、その頃は、それはそれでこちらも心の準備ができていましたから、それなりに授業が進められた。

ところが、「N5」合格という「足切り」があるにもかかわらず、「あいうえお」すらままならぬ人が来てしまうと、こちらとしても送り手に文句の一つも言いたくなる。どんな教え方をして、こんな状態で送り出してきたのだと。

来てしまった人は、こちらとしても、対処していかねばなりませんが、それでも、まだ「第1課」なのに、それにビビりながら座っている人を見ますと、ちょっと困ってしまいますね。

まあ、これからどう教えていくか、進度はどうするかを考えられた一週間でもあったといえば、そう。ところが、このクラスに下りてきた三人の「四月生」は、本当に楽しそうにしているのです。「判る」というのは、人を生き生きとさせるものなのですね。

来日した時、今の彼ら(七月生)と同じように状態だったので、真面目に勉強していてもついて行けなかった…だから、もう一度やりたいとなったのでしょう。これは、真面目である程度自分が判っている人だからこそ、できるのだと言ってもいい。ところが、この「七月生」の中には、とんちんかんなことを言いながら、平気な人がいる。こちらとしてはその方が不安。間違えても平気だし、言い直させても、何のことはないと、また同じような間違いを口にし、…多分、それが何?くらいのものなのでしょう、なんとも感じていない。

三名のうち、二名は一ヶ月ほど遅れて入国したので、最初の部分がスッポリと抜け落ちていましたから、七月生が来たら入れると最初から考えていました。もう一名の四月生は自分からもう一度やりたいと言いに来ました。

先の二人には、来たときに、取り出して、補講をしたのですが、やはりスッと入っていくことはなかった。これも「日本語の音」に慣れていなかったので、単語にしても覚えられず、本人も辛かったのでしょう。文字が読めないと、それだけでハンディになってしまいます。他の国から来た人達は読めていましたから。

自分から言いに来た人は、最初は「こりゃあ、だめだ」と思われていたのですが、だんだんにテストでも点を上げていましたし、宿題もやってきていましたから、もう少し進んでから(1課からではなく、12課か13課くらいから)でもいいかくらいに考えていたのですが、本人の希望を重んじて、「七月生クラス」に入れたのです。判ることがよほどうれしかったのでしょう、「四月生クラス」の時とは、全く違う表情で、授業に参加していました。

そして、今は、「判る」どころか、以前の彼らと同じような状態の人達(七月生)に、いろいろと教えてやっています。「今、ここを見ろと言っているよ」とか、「教科書じゃないよ。『単語・文法』の本を見て」とか。

最初に、登場人物の国を地図で確認させているのですが、その時には特に威力を発揮していましたね。国名を英語では知っていても、位置が判らないという人が大半なので、この地図でチェックは必要不可欠のことなのです。

多分、この「七月生クラス」で、一番楽しんで勉強できているのは、今のところ、この三人だけなのでしょう。

日々是好日

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「話」を先に入れてみると、授業がスムーズに進められました。みんなお話ししたかっただけでなく、日本や日本語以外の知識もほしかったようですね。そういう時期に入ったのかと感慨深かった…私です。

2024-07-11 08:22:21 | 日本語学校
曇り。

今朝は、ここ数日続いた「酷暑」が収まった…感。風もムワッと膨らんだ暑さを含んではいない、普通の風。そう思いながら歩いていると、ふとドライフラワー化した「アジサイ」に目がとまりました。

「アジサイ」は「梅雨時の花」と言われるけれど、今年は「梅雨」が始まる前に盛りを迎え、「梅雨」が終わる前にもうドライフラワーになっている…。その隣に大きく勢力を張っている「オシロイバナ」と比べると、少々情けなくなってくる。思わず…栄枯盛衰であるなあ…。

そう思いながらも歩いていると、草の匂いが拡がっている箇所に行き当たりました。「クサ」本来のあの匂いです。見やると、路肩の野草が刈られ、刈られ残りの草があちこちに散らばっていた…。そういえば、いつもこの時期に、ここでは路肩の草が刈られていたっけ。草木同様、人間の活動も決められたとおりに行われている…。まあ、様子を見ながらでしょうけれども。

さて、学校です。

今年の「七月生」は、どうも「留学生」とは思われないような日本語のレベルでやってきているよう。しかも、ちょいとでもレベルが上の人がいないので、注意事項などを簡単な日本語で話しておこうとしても、それもできず、少々不便…。「四月生」相手の時には、どうにかなったようなことでも、なにせ、ポカ~ンとしているので、んんん…もしかして、日本のことをあまり聞いていないまま来ているのでは…とも思ってしまいます。

昨日で(私は)二回目の授業だったのですが、たかが「あいうえお」を言うとか、「第1課の○○は△△です」くらいのものなのに、その二回目の授業(前日の復習)で、まだ言えないという人があちらにも、こちらにも。留学生というのは、多少の差はあっても、一度勉強して来ている内容(一応「N5」に合格しているはず)ですから、「音に覚え」はあるはずなのです。それが言えないと言うことは、「音に覚えがない(読めない人が何人かいるので、『見て(読んで)』ができない)」…。

これでは真っ白で学びに来る「在日生」と同じように対処するしかない…。まあ、皆が同じようなので、「四月生」のように、取り出しで面倒を見る必要もない…から、やりやすいといえば、やりやすいのですが。授業のレベルを下げればいいだけのこと。つまり、復習の時に、「応用」をさせる必要はないということです。ひたすら繰り返して、覚えさせるだけということになります。…こちらから見ればそうなのですが、難点が一つ。彼ら自身が「言えない、できない」ということを、どうも、認識できていない…人がいる、それも一人や二人ではない。

ということは、しょうがないですね。地道にやるしかありません。来てしまっているのですから。

で、今度は二年生の「Bクラス」のことです。

「Aクラス」ではトットコトットコ教科書を進め、このクラスでは、「話す」を重点にしていこうと思っていたのですが、やってみると、随分授業が楽になり、どうもこのやり方は彼らに合っていたようです。

彼らも「(教科書で)学ぶ」よりも、「(教科書というのは)一つのきっかけ」にすぎないと見ているようで、それはそれでいいのです。昨日は、イスラム女性の「ヘジャブ」から話を始めました。前に、イスラム女性二人の「被り物」を見て、違うようだと思って、「どちらも、ヘジャブですか」と訊いたことがあったのです。その時、「こちらはヘジャブ。彼女のはスカーフ」と言われたので、その時は、うん、そうか。

ところが昨日のは違っていました。こちらから見ると、一方は「ヘジャブ」で、もう片方は「スカーフ」。ところが、「二つともヘジャブ」…いくら聞いても違いがわからない。「ヘジャブにはいろいろな形がある」らしい。でもどう見ても、「(あっちは)スカーフでしょ」…。…違う。

まあ、判らないので、そのまま話を打ち切り、ついでに、話の流れから「タペストリー」を取りに行かせ、「イスラム文化」の所を見せ始めた。こういうことは皆で見たほうが勉強になっていい。他の学生達も、言われたページを開き、写真を見ている。写真だけでいいのです。知識を広めることになる。で、見せていると、他の学生からも質問が出てくるそうやって話を進めていくと、「N3」の文法や漢字を教えている時には、あまり乗り気でなかった人達まで、同じようにページを繰って、話を聞いている。

「写真だけでいいからね。カタカナが多いからそれは読まなくてもいい」と言っているとそれなりに、写真を見てあれこれ言いはじめた。主に話に加わったのは、イスラム人五人でしたが、話に加われなくても、前に座っているネパール女子が聞き耳を立てているのが判る。知りたいのでしょう、いろいろなことを。そういうレベルに入っているというのが、ここからも判る。

もちろん、それ以外の話もしましたが、皆がどこかしらで、一言、二言、三言、あるいはもっと話していました。そして、時期を見計らって、教科書に入っていきます。まだしゃべり足りない学生が(本音は「教科書は嫌だ」でしょうけれども)、まだまだと言っていましたが、「教科書を開いて。はい、5課」とやると、素直に開いて、勉強の姿勢。中には「何ページ?」なんて聞き直す輩がいる。そこでまた、皆、爆笑となる。「しばらくこの教科書を見ませんでしたから、忘れましたね」と言うと、それなりに抵抗の言葉を放つ。前までは、下を向いて黙っていたのに。

リラックスできたのでしょうね。なぜか単語の説明も、スムーズに判ってくれ、漢字の読みも前よりも楽にでき、本文も、空を見上げている者(一名)以外は声が揃っていたような気がしました。「教科書」と言うと、難しいとか苦手とかいった気持ちの方が勝って、それが大きな壁になっていたのかもしれません、前は。雑談しながらの勉強…だったから、彼らも楽になったのでしょう。話しているうちに日本語の勘をつけてくれという思いはこの意味では、まずは、合格。

この感じでこのクラスでは、雑談を導入にし、「教科書」を教えていくことにするつもりです。案外、こういう歴史の話に乗ってくる人が多かったのは発見でしたね。知識を入れていく時期に入っているのかもしれません、「言葉のお勉強」と言うよりは。

昨日は、「日本語の授業」とはまた違った面白さがありました。「勉強」から離れると、学んでくれるようですね。これは別に矛盾していません。

日々是好日
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七月生の「初めての授業」。「カタカナ」はともかく、「ひらがな」も今いちの人が…こりゃあ、「文字」を教える教師は大変だぞ。

2024-07-10 08:27:32 | 日本語学校
晴れ。

今朝も見事な青空です。朝、うちを出てから、建物の陰やら、木陰やらを選びながら歩いてきました。これも、人が少ない早朝からできる芸当であって、これが30分でも遅くなると、彼我共に困ってしまう…。

さて、学校です。

昨日、「七月生」の初授業をしました。まだ「挨拶ができない」。「靴をしまう場所が判らない」。席についても、「じっとこちらを見ているだけ」という状態。つまり「本を机の上に出す」という習慣もない。…という「無い無い尽くし」での出発です。

まず、「玄関に靴を並べないで、靴入れに入れましょう」から始まり(早速玄関に行かせ、入れさせます)、「席に着いたら、本と鉛筆を出しましょう」で出させ、「教科書」には「きょうかしょ」と書かせ、「単語・文法」の本には「たんご・ぶんぽう」と書かせ(鉛筆で書かせていますから、もう少し字が判るようになったら、また書き直せばいいのです)、次に「個票に名前を書きましょう」となったのですが、そこで、はたと困ったらしい。スイスイと名前が書けた人はいませんでしたね。アタフタと隣の人のをのぞき込んだり、教科書のページをめくったり…。

これも鉛筆で書くように言っておきましたから、マシになったら書き直せばいいこと。ところが、いつまで経っても出そうとしない。で、(授業ができませんから)強制的に「出しなさい」。名前が半ギレであってもしょうがないのです。名前くらいは覚えておくようにということすらできない自分たちが悪いのですから。彼らの国の先生たちは、優しいというか、テキトーというか、つまりはテキトーなのでしょうね。日本に送り出せればいいわけで、上手にさせようとか考えていないのでしょう。

相手が判っても判らなくても、日本語で押し通すことは大切です。聞いて(これが主です)相手の表情やら身振り手振りやらを見ているうちに、なんとなく勘がついてきますから。もちろん、これが苦手というか、鈍い傾向にある人もいます。が、10人いればそれも、一人か二人くらいのこと。大半は、(時間の)多少の差こそあれ、判ってきます。こういうのは、言葉だけでなく、異国で生活する上でも、とても大切なことです。生きる上でのとでも言いましょうか。それに、ついでに自国との違いも見えてくることもありますし。そのうちに、何も言わなくても、相手の雰囲気で次の行動ができるようになったりすることもある。

適当なところで授業に入ります。まず、「50音図」で、発音を見ていきます。これが覚えられていない人もいましたね。私の今日の授業では、それらをきちんと覚えさせる…というのではありませんから、まずざっと流していくだけ。いわゆる授業をする前の準備体操のようなもの。それから、「聴音」「促音」「発音」などもザッと流し、「始めましょう」「終わりましょう」も簡単な練習で終え、「第一課」の単語に入ります。

読めない人が多いのに…と思う必要はありません。まだ、ここ(日本)での「文字」の授業は始まっていませんから。だいたい勉強して(「ひらがな」「カタカナ」を)覚えたと言っていても、「読めるか」となると、読めません。読めないから(読めるまで)といつまでもそこで立ち止まっているわけにはいきません。すぐ読めるようになる人もいますし。そんなことをいつまでもタラタラしていては、勉強が進んでいきません。簡単すぎて飽きる人だって出てきます。ということで、いつも「文字」も「文法」も同時進行ということにしています。だいたい、複雑な思考を要するものなんて、最初には出てきませんから。

「学校」は「学校」ですし、「鉛筆」は「鉛筆」で、見れば判る。とはいえ、ネパールの二人は「~は…です」はできても「~は…じゃありません」がうまく言えませんでしたね。スリランカからの一人もそう。このままでは白紙で勉強しようという「タイ人」少年に追い抜かれてしまうかもしれません。

留学生、しっかりしろ。頑張れ。

日々是好日
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一昨日の日曜日、「日本語能力試験」がありました。「N2」も「N3」も「文字・語彙」がかなり難しかったようです。

2024-07-09 08:43:36 | 日本語学校

暑い。

今日は昼からの授業ですが、あの灼熱地獄の中を歩いて出勤…というのは、老体には応えます…ということで、また今朝も早朝出勤です。

さて、学校です。

日曜日、「日本語能力試験」がありました。「Aクラス」の学生達(特に「十月生」)、学校に来るなり、「文字語彙」が難しかった…。まあ、「読解」は言わずもがな…なのでしょうが。

一人曰く「知らない単語がたくさん。例えば、四択でしょ、四つのうち、三つが知らない単語だった」

別の一人曰く「『文字語彙』も難しかったけれども、『聴解』も大変。速い、速い、速い。なんて言っているのか考えている間に、もう終わって、次の問題になっていた…」

先の一人は「N2」を受け、後の一人は「N3」を受けたのですが、出身国こそ違え、共に、昨年の10月から勉強してきた二人。聞いていると、現「レベル」が同じであるかのような印象を受けてしまうから面白い。やはり「四月生」達に比べて、半年の差は高くて厚い壁でしたね。

とはいえ、まあ、いい経験と言ってもいいでしょう。こういう試験は回数を重ねれば重ねるほど、真面目に勉強してきた人というのは、伸びていくものなのです。

この「Aクラス」というのは、(当校が)少人数校であるが故の、不利…つまり、「N2」と「N3」受験予定者がともに同一クラスで、授業を受けるという不利益の下で、四月から学んできました。この「Aクラス」に上がってきた十月生のうち、一人は中国人ですし、もう一人は、あのまま置いておくわけにはいかないと思われたネパール人です。彼の場合は、最後まで悩みました。中国人なら漢字に問題はありませんから、どうにかなる。ところが、「非漢字圏」の人だと、漢字が最後まで越えられないハードルになってしまう可能性があった。漢字だけは不安が的中していますが、ただ、彼の場合、深く考えることができるので、今のところは、上げて良かったと思っています。

もっとも、この「不利」、遠き慮りから見れば、別に不利でも何でもありません。当座は、不利であるというだけのことです。

「N3」文法をきちんと習わないうちに、「N3」レベルの「文章」を読まねばならない。「N3」文法も終わっていないのに、「N2」文法を聞かねばならない。…まあ、最初の頃は苦労したでしょうけれども、今ではそれほどのこともないらしい…。ごく普通の顔(表情)をしていますから。

「文法」などは、「N3」も判らないのにと渋る学生(中国人学生の方には、七月には、「N2」受験と来日時から言っていました)に、「N2」文法は聞くだけでもいいから…と言い聞かせ…つまり、ごねないように騙した…のかな。最初のうちは「先生が何を言っているか全然判らない」と言っていたこの学生に、暗記文を読ませていた。

この二人、『みんなの日本語』を学んでいるときには、私の話が「速い」なんてこれっぽっちも言っていなかった…まあ、これも、当然のことでしょう。だいたい「初級」さんへ話すときのスピードだって、他の教師に比べ、多少速いとしても知れたものですし。それに比して、「中級」さんに対するときには、この速さのみならず、用いる単語もかなり違ってきますから、それで面食らったのかもしれません。もっとも、これは最初の2、3週間くらいのことらしく、だんだん愚痴をこぼさなくなった…。もしかしたら、諦め半分とはいえ、慣れた…のかもしれません。速さなんて、慣れですもん。それに、単語は、聞かれれば、彼のことやら、他の学生達のことやらを用いて、「たとえ」を出して教えますから、落ち着きもしたのでしょう。

とはいえ、半年の差は、なかなか埋められません。「四月生」たちが普通の出来であれば問題なかったのでしょうが、この「四月生」たち、昨年の12月には「N3」に余裕で合格できましたし、真面目で、漢字もよく覚えていますから。

2ヶ月ほどは、暗記文の意味が全く書けなかった(右の空欄に書くように言ったのですが)…もちろん、それは認めていた。一度でも聞いたことがあると、次に勉強するときに役に立ちますから、黙認です。やれると思ったら、こちらが何も言わなくてもやるだろうと待っていたと言った方がいいのかも知れません。それがいつ頃でしょうか、ふと見ると、何か書いている…「判りましたか」、聞くと「はい」と言う。

これも慣れ。もちろん、埋められない部分はかなりありますが、こちらも最初は一緒にできるのは夏休み明けくらいかなと見ていたのですが、それが次の試験準備期間かなと幾分後退している。

ただ、試験のための問題集は差が出たとしても、同じ「N3」受験とはいえ、「Bクラス」との差は歴然としてある。「Bクラス」では「N3」の問題集が終わらぬまま、試験の日を迎えたけれども、形だけであっても、「Aクラス」では終われた。「N2」の問題集は終われませんでしたけれどもね。両方の「読解」を、決められた時間内でやってしまうというのは、いくら手順とかを考えていても、多少無理が生じた。とはいえ、このやり方はそれなりに役立ったと思います。語学なんて、結局は慣れなのです。人数が多ければそれなりに質問も増えますし、学校外の行動も違いますから、見聞きする範囲も広がり、それゆえに、話題も増える。

ということで、今日から問題集と離れ、普段の勉強に戻ります。
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こう暑いと、外に出るだけでも大変です。

2024-07-05 07:21:47 | 日本語学校

晴れ。

暑い、暑い。昨晩は、熱帯夜だったそう。…まだ「梅雨」は終わっていないのに。「セミ」もまだ鳴きはじめていないのに。これからも続くのだろうな…暑い、暑い、暑い…。

さて、暑い中、「七月生」が揃いました。そこで、順繰りに、支所やら、郵便局やら、また、はんこ作りやらにと、スタッフが汗びっしょりで連れて行っています。また、もう一人が、彼らの住むことになっているアパートに、電気製品やら、その他の細々したものを備えに走り回っています…。こちらは涼しい教室で授業と、申し訳ない…。

というわけで、教員も大変ですが、学生達も大変。

一昨日、成田に着いたのはネパールからの留学生達。なんでも、同じ機に200名ほども留学生が乗っていたそうで、手続きがなかなか捗らず、…中から出てこない…。便が遅れた上に、出てこないので、迎えの人は、大変…。

スタッフと一緒に行ってもらっていた先輩学生が最初にへばってしまった…(午後のクラスなので、夜勤のアルバイトなのです)。で、ちょうど日陰になっていたベンチを見つけ、そこで、二人を休ませた…そう。遅れていた飛行機が着くまでの間だけだったそうですが。

着いたということで、早速起こし、そちらへ向かったはいいけれど、なかなか外に出てこない。その上、待っている(他の)日本語学校の人達で混雑していたので、よけい疲れた…そう。「出てきた」…で、そちらに向かっても、もらっていた写真とどうも顔つきが一致しない。で、間違えて他の人に声をかけてしまった…そう。

とはいえ、あれやこれやで、空港を出発して、行徳駅へ。すごいですねえ。連絡を受けたネパール人学生達が、駅に勢揃いして待っていた。何でも、ネパールからの学生の時には、いつもそうなのだとか。疲れ果てた出迎えの二人は、そこで「もうだめです」と、部屋へ戻り、代わりに、駅に来ていた学生達が、来たばかりの学生達の荷物を皆で運び、スタッフはその点、別に気を遣う必要がなかったとのこと。…そうだったんだ。

空港に出迎えていた学生が、スマホで彼らと連絡を取り、来られる人は皆、来てと呼んでいたらしい…なるほど。いつものことだそうですが。
難行苦行
見ていたスタッフによると、勉強の面ではイマイチの学生達だけれども、男女ともに、よく働く…とのこと。さっさと手早く運び、よく気が利くとのこと。その点、同じインド圏とは言え、スリランカ男子やインド人学生達とは違うなあ…。これもお国柄ですかしらん。

そういえば、昨日、「Bクラス」で、「~ておく」がヒントになって解いていくような問題があったので、そこで、水を向けてみたのですが、どうも「パーティー」と出したのがまずかった…。

『初級』の時に、(パーティーの時)「花を買っておきます」とか「飲み物を買っておきます」、「送辞をしておきます」みたいなのを練習したことがあったので、そのつもりだったのですが、おそらく、勉強したときには、彼らはただ練習だからやっていただけのことで、深くは落ちていなかった…としか思えない…。そうか、そこからしてこちらのやり方がまずかったのか。(次は別の例を出すか、設定を細かく決めておこう…)

で、昨日は「みんなの所では、パーティーで何を準備しておきますか」とやってしまったのですが(失敗でした)、「何もしません」と言うのです。食べ物は?と問いかけると、「レストランから持ってこさせます」と言う。すぐに他の学生が「200人くらい来ますから、自分で作りません」と言う。別の一人が、「1000人くらいです」。はあ?

私達が言っている「パーティー」なるものは、「ホームパーティー」の意で、せいぜい10人くらいの集まり…であると思っていたのですが、どうも違うらしい。彼らからすると、「パーティー」と称するものは、結婚式などであって、友達を呼んでする「お茶会」めいたものは、毎日のようにしているから、そのようなものは「パーティー」とは言わない…。

では、結婚式はと言うと、話がどんどん大きくなっていきます。うちに、200人くらい呼ぶで、びっくりしていたら、普通は1000人くらいと言う人もいて、それで、えええっとなっていたら、こんなことを言う学生までいました。

彼女曰く「例えば、行徳に住んでいるとすると、行徳に住んでいる人を、みんなを呼ぶ」と言う。「知らない人も来るの?」。「はい」。「知らない人だよ」。何が不思議なのという顔をして、先の二人も当然と言う。

黙っていたのはタイとフィリピンから来ている学生。それとおしゃべりなくせに、こういう、女子の話題には何も口を挟めないというバングラデシュの三人の男子。

もう、いいやと言うことで、問題集の問題に移ったのですが、どこか変だな、話がかみ合わないなと思った時には、名は同じであっても、それぞれが思っている対象が微妙に異なっており、それについて、それぞれが、いわゆる「勝手に」話していた…という場合が少なくないのでしょう。

「パーティー」なるものもそうでした。私たちは、仕事とかで忙しく、人のうちへ行って食事したり、お茶を飲んだりなどはほとんどしませんから、「(子供の)お誕生会」くらいのものでも、改まって「パーティー」の一つくらいに考えてしまうのですが、そういうことを毎日のようにしている人達にとっては、それは毎日のことだから別に「パーティー」などと言う必要もなく、一生に一度か二度のようなものにだけ、「パーティー」と言うのでしょう。

まあ、面白い一日でした。

日々是好日



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昨日、『七夕』飾りを作り、書いた「願い事」と一緒に「笹」につけました。みんな、それなりに頑張って作ってくれました。

2024-07-04 08:23:17 | 日本語学校

晴れ。

陽射しもたっぷりで、「梅雨」らしくない「梅雨」が続いています。以前は、「梅雨寒」なんて言葉も生きていましたのにね。実際、そういう日も、よくありました。今では「夢の夢のまた夢」ですけれども。

今朝、「コスモス」らしき花が咲いているのを見かけました。秋に咲く「コスモス」とは別種でしょうけれども。とはいえ、「ハギ」の枝が伸び続けていますし、その先にどんどん若葉を付けつつありますから、ある意味、季節は順当に進んでいるのでしょう。

この「らしくない」というのも、人間の「勝手な感傷」と言えなくもない…。「言葉」が人によって生まれ、自ら産んだ「言葉」に、人は支配され、引きずられ、踊らされて、感傷的になったりする…、

「神といひ 仏といふも 世の中の 人の心の ほかのものかは」 (源実朝)

と同じように、「言葉」もそうなのでしょう。

さて、学校です。

昨日は、「七夕」で、「短冊」に願い事を書いたり、「飾り」を作ったりしました。そして「笹」に願い事と飾りを、糸でつけ、皆でその「笹」の前で写真を撮り、一応、終わり。終わりといっても、個人的にはまだ続きがあったようで、その後も、自分の願い事や作った飾りをわざわざ写真に撮る人もいて、これも記念とするのでしょう。国に送るのかな。

これを午前のクラスと午後のクラスに分けてやりました。人数はそれほど多くないので、二本の「笹」で十分足りました。最初に、願い事を「短冊」に書き、次に、皆で「提灯」と「天の川」を作り、後は自由作業となったのですが、この「自由作業」が苦手という人が何人かいて、「う~ん。どうしよう」。そういう人には担当の教員が声をかけ、簡単なものを作っていき、一応、皆、作業時間内はそれぞれの「制作」を続けることができました。

もちろん、器用不器用というのは、人によるのですが、こういう「手作業」をしたことがない…ゆえに、できないという人も少なくないのです。それが「顕著」である国もあり、こちらとしては、「はさみで切るだけだろう」と言いたくもなるのですが、「はさみ」を使う経験がそれほどなければ、はさみをどう使っていいか判らないというのも、あり得ることでしょう。

(私たちから見れば)幼稚園とか小学校低学年であれば、紙の持ち方とか、はさみの入れ方とかで戸惑っているのは判るけれども、大人になってから…えっでしょうが、やはり「慣れ」というか、何回使ったことがあるかという「経験」がなければ、固まってしまっているのもわかります。…苦手…と、ならなければいいのですが。

ネパール人は同じ班のなかにできればまとめさせず、散らして座らせる。親切な人をその隣に置いておく。これは今年の「ひな祭り」の経験から…。失敗を活かさずにおいたら、失敗のままですから、そういうことは一応、考えておく。

見ていると、その親切な人が代わりに切ってやったり、折ってやったりしている、もちろんそれでも判らなければ担当の教員に聞いていたようですが。そうやりながら、それぞれが「自分が作った」と言えるものができあがっていく。

戸惑いながらも、逃げずにやってくれたのは良かった。この「行事」の時によく作られる飾りを覚えようとしてくれていた人もいたようでした。

数年前に、日本の旅館で働いているという卒業生が、こちらに出張になったからと、学校に来てくれることがありました。来た折りに、今年、玄関ホールの飾り付けを任されたと言う話をしてくれました。そのディスプレイに、この学校で作った、四季折々の飾り…「雛飾り」や「節分」行事、「七夕飾り」などを潜ませたそうで、泊まり客に、「これは私が日本語学校にいたときに作った」と言うと、驚かれたり、褒められたりしたそうです。

彼女はもう国で大学を出ていましたから、日本に来てからのことも自分なりに計画を立てていたのでしょう。そして、使えそうなもの、捨てたくないようなものはみんな取っておいたと見えます。もとより、留学生達が、みんなそういう視点からものを考えているかというとそういうわけでは全くなく、みんな行き当たりばったりというのがせいぜいのところ。

こういう作業も、すぐに「終わった。終わった。ポイッ」となるのも普通のこと。ただ、何かあったときに、ああ、学校にいたときに作ったのはこれだったのかと気付くこともあるでしょう。日本に長くいるならば、こういう「日本の年中行事」は、嫌でも見聞きする機会は少なくないはず。それを活かせるかどうかもその人によるのでしょう。

この、卒業生の話を聞いたとき、担当していた教員は「そうなの。取っておいたの。それをディスプレイに使ったの」と、とてもうれしそうでした。

今は、面倒だなと思いながらやっている人も、将来、どこで何が起こるか判りませんし、こういう作業がどこで自分と他の人を仲立ちしてくれるかも判りません。こういう「文化」はやはり知っておいた方がいいし、一応は、やっておいた方がいいと思うのです。

日々是好日
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「『お話の国』にいるような気分になることもあります…もっとも、『夢の国』の方ではないのですけれども」

2024-07-03 16:12:01 | 日本語学校

曇り。

(学校に)着くまでに、2,3度、パラリと感じた…のだけれども、あれは何だったのかしらん。すっかり「梅雨~」…と言いたいところなのですけれども、昔ながらの、シトシト雨とは無縁の「梅雨」。というか、「梅雨らしきもの」と成り果てた「梅雨」。天気予報だって言っていますもんね。今年は「豪雨」か「酷暑」で、中間がない…。

激しい雨が、「アジサイ」の葉を叩きつけたら、その上に鎮座ましました「青蛙」もびっくり仰天、ひっくり返って落ちてしまうのが関の山。もう、ああいう、かつてのような「梅雨」らしき風景は見られなくなってしまうのでしょうか。あれがなくなると、もう「梅雨期」とは呼べないでしょうね。イメージが全然違ってきますもの。

さて、学校です。

南国の人達が、日本の夏を評して「暑い、暑い」と言えば、「えっ」と思ってしまう私たち。でも、しょうがない、彼らの国と日本の夏とはどうも正確を異にしているようなのです。暑さのタイプが違う。「カラッとして気温が高い」という、そういう夏の国もあれば、南国といえど、島国で、日本から見れば、大した暑さではないという国もあります。インドなどは、夏は50度の世界と言い、インド中が50度超えでもあるかのように思われているのですが、インドも中国同様、広い。自分の所はそんなに暑くないと言われてみれば、ああ、そうかとなってしまう。確かにそうでしょうから、思わず、ごめん。反論できない…。

先日も、「昆虫」の話(問題集にその話があったのです)が出たときに、日本人の「虫好き」が話題になった。なにせ、平安時代に「虫愛ずる姫君」が書かれたくらいですから、昔から好きな人はいたのでしょう。ところが、南国人の頭の中では、「虫」イコール「病気を介在するもの」という図式ができあがっていますから、とんでもないということになってしまう。

それどころか、「虫好き」というので、頭の中に浮かんでくるのは「おいしい」となる人達もいる。「虫」イコール「食べる」なのです。これは昨今の「サステイナブル」から来た「昆虫食」とは別物で、「郷土料理」というか、お国の料理ですね。「虫」も食べられるものに限って言えば許せる…になるのでしょう。

この点から、日本では、いわゆる「人気があるもの」とか「デパートで観賞用や育てるために売られているもの」があるなどと言うと、論外という顔をされてしまう。もちろん、日本人の中にだって「虫好き」同様、「虫嫌い」はいますから、もしかしたら、ドッコイドッコイなのかもしれませんが。

で、ついでに、「清少納言」ばりに、「嫌いなものづくし」をやってみると、意外なことに、「カエル」がだめという人が多く、「ヘビ」は出てこなかった。もちろん、私たちのいう「ヘビ」は、彼らの世界の常識から見れば「小ヘビ」に過ぎず、話の対象にもならぬよう。で、「自分たちの所では」と両手で輪っかを作って「これくらいの太さ。頭はお茶碗くらい」と来た。それを聞いて、ネパールの学生もスリランカの学生も、「うん、うん」とうなずいている。引きつった顔をしているのは、私くらいか…。
それに「『コブラ』が庭に出てくる」という学生だっていました。うちの近くに川があるとか言っていましたが、それも関係しているのでしょうか、日本ではそうですけれども。彼女曰く、何でも「出ていって、出ていって」と言いながら、シッシッシッの手振りをすれば、素直に出ていくのだとか…本当かな。眉唾だと思って聞けば、そうだし、そうかもしれないと思って聞けば、あり得るような気もするし…。

時々、彼らと話していると、お話の国にいるような気分になることがあるのです。それも面白いことですけれども。


もちろん、生き物ですから、誰でもというか、どの対象であろうと、生まれたからには生きる権利はある。しかし、ごく普通にそういう「ウワバミ」と暮らしている人達を目にして、「ヘビが怖い」なんぞは言えません。私が見たことがあるというのは、最長でも50センチには満たなかったでしょうし。子供時に見た「アオダイショウ」は巨大に見えたのですが。

日々是好日
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今日は雨ですけれども、「七夕」について考えてしまいました。

2024-07-01 08:18:58 | 日本語学校

雨。

今日から「文月」。さっきまで雨が止んでいたのに、また降り始めました。予報通り、風もあり、雨もしっかりと降っていますから、今日も一日中雨になるのでしょう。

昨日までの「水無月」が終わったと思ったら、早速の雨です。昨日までは降ってはいなくとも、空気中の水分が、滲み出さんばかりの様子で、ジワジワどころか、いつの間にかぐっしょり濡れそぼっているといった感じでした。あれで「水無月」はないだろうと思うのですが、いろいろな由来があって、きっと「水無」と言われるようになったのでしょうね。

そして、今日からの「文月」。「『七夕』があるから『文』だ」という話を聞いたことがあったのですが、これもそうかも、否、そうでないかも…。なぜならあまりにわかりやすすぎるから…。

七月、八月は「盆」関係で、「盆踊り」などをはじめ、学生達が参加できる「行事」も少なくありません。

以前は、公園の「神輿」紹介に参加して、「神輿」を担がせてもらったこともありましたし、卒業生が、就職してから、神輿の担ぎ手として参加したという話も聞きました。

今、学校では、私はクリスチャンだからとか、モスリムだからといって、「豆撒き」に逡巡したり、「七夕」の説明を聞いて、一言でも「神」という言葉があったら、驚いて席を立ったりする人も出ています。これもグローバル化の為せる技なのでしょう。

私たちから見ると、「一神教」というのも曲者なのですが、彼らから見ると「多神教」というか、どこにでも神がいて、自然を敬うというのも解せないことなのでしょう。「一神教」では、一つの神がすべてを牛耳っているという思想ですから、唯我独尊に陥りやすい気がするのですが……。地域毎に畏れ敬う対象がいて、それぞれの場所で、自分を改める(自分の立ち位置を考える)というのは、己の本分を忘れているようで、いけ好かない考え方なのでしょうね。私たちから見れば、それこそ「正しい」なのですが。

もちろん、「正義」とか、「正しい」という言葉ほど「眉唾な」ものはありません、「絶対悪」も存在しなければ、「絶対善」も存在し得ないでしょうから。それが成立するのは、ある立場から見てという条件付きでのこと。

地域毎に大切なものは違う。雨がほとんど降らない地域における「雨」への思いも、雨が多く、川の氾濫が続き、しょっちゅう人死にが出ている地域における「雨」への思いも、同じ「畏れ」であっても内在するものは、おそらく全く違う…。

まあ、今年の「七夕」活動も、楽に考えて参加してもらえると助かるのですが…、私は○○だからと、何でも拒否してしまうのは、日本では通用しませんよ(どこの国でも通用しないでしょうが)。誘っても参加しないようのなら、だんだん誰も誘おうとはしなくなります。嫌な思いを、我から進んでしようとする人なんていないでしょうから。こういうのは、人間社会では、どこにおいても、よくあること。狭小な心の持ち主だな。ガチガチに凝り固まっているのだなと見られてしまう。こういう人は、まあ、敬して遠ざけるに限る…。他者を受け付けられない人間だと見られれば、はじかれてしまうのは、万国共通のこと。

そういう、自分なりにでも、他者にというか、その土地に適応できない人は、自分に合わせてくれる土地を選んだ方が楽に暮らせ、幸せだろう…と思うのは、どこへも自由に行ける日本人だから思うことなのかもしれませんが。

大半の日本人は、人に近づく時、初めは「他者を眺める」から始めます。それから徐々に相手に近づき、自分に害を与えそうになりなと思ったら、言葉を交わし初め、その土地の事を語り始める(その土地で生きるなら、その土地のことを知らねばなりません。その地で生きる人間と見なしたからこそ、説明を始めるのでしょう)。最初から、「こうせい、ああせい」とは言いません。もちろん、公共の場でのことは別です。それは他者への明らかな脅威となるからです。

もちろん、日本の人口は、一億を超えていますから、中には自分が一番だと思っている人も、一神教の人もいます。どこの国でもそういう人が存在しているように。ただ大半の日本人は、相手が「我を張らない」限り、ある程度は受け入れるでしょう。困るのは、「自分たちが正しい」と思って行動する人です。他者に対する思いやりも、譲るという考え方もないように見える…。自分たちだけが正しいと思ってやりがちなのは、自分の世界しか見えないからでしょう。他の世界ではそれが成立しないと言うことが考えられないのでしょう。

土地の風土に根ざして、「祭り」なんてのは執り行われてきました。海を知らない人に海の祭りを理解させるのは難しい。太古から続いてきた思いを伝えるのはもっと難しい。だから、共に行動することが大切になってく

もちろん、最初から参加させてはもらえません。最初は見るだけ。だいたい最初から参加させてもらえると考える方が図々しい。向こうは向こうで「わからん奴なんかに、参加なんかさせてやるものか」くらいは思っているでしょうから。無邪気に、「(その土地の人に向かって)あなた方が大切だと思うものを理解したい、見てみたい、一緒にやってみたい」と、(その人の様子から)見てとれる人は別でしょうが。

その点、日本語学校なんてのは、年間行事にそういう火薬庫みたいなものも含んでいます。私は説明の時に「神」という言葉は使いません(うっかり使って失敗したことがあります)し、日本の文化として如何に理解してもらうかに重点を置いています。昔、日本では伝染病が流行った。そこで人々は病気退散を祈った…だれに、ある存在に。大雨が降った。雨よ止んでくれと祈った…だれに、ある存在に。…ある存在か何かは、その都度違ってきます。雨が降れば、雨に。雨が降らなければ、雨に、太陽に。病気が広まった。病気にどっかへ行ってくれ…。

最後の部分なんて言わずとも、人ならそれらしきものは心の内にあるでしょうから必要ないのです。だいたい古代人の考え方は世界共通。一万年、数十万年前のホモサピエンスには、神は一柱のみなんてのはなかった…でしょうから。だから「文化」であり、「風習」であり、「祈り」だけでいいのです、宗教なんて。対象は何でもいいのです、手近な何でも、いいのです。その人が思うものであるならば。

日々是好日
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文法の「並べ替え」問題。「知っている」とか「知らない」とか言う前に、「耳に慣れているかいないか」ということも関係している…ような気がする。

2024-06-27 08:16:17 | 日本語学校

曇り。

いつの間にか「夏至」は過ぎていました。毎日があっという間に過ぎていきます。

褪せて茶色になった「アジサイ」を見るのは、もの悲しいものですが、夏の花、「グラジオラス」がもう満開になっています。「タチアオイ」もいつの間にか、花を咲かせ、あちこちで見られるようになりました。とはいえ、「ジギタリス」の花は見かけませんね。このあたりでは人気がないのかしらん。この花は、「狐の手袋」という名で覚えていたのですが、立派な偉そうな名前もあったのですね。

以前、よく友人達と、近郊の低山や里山に行っていたのですが、その時、畑でよく見かけたのがこの花です。そのほかにも、野菜の花がこんなに美しいのかと驚いたことがありました。なるほど、それ故に、生け花でも使われているのですね。もちろん、生け花向きの花はあるのでしょうが、花器によっては、野草の方が映えると言うこともあるのでしょう。

林の中を歩いていると、いつの間にか、木々の清々しい香りに満たされている空間に迷い込んだり、一面の「イチリンソウ」の中に立っていたりして立ち尽くすということがありました。もうそういうことは無理でしょうけれども、記憶にあるだけでもめっけもの…か。

さて、学校です。

昨日「Bクラス」の授業で、かなりレベルを下げてやってみたのですが、やってみると、皆それなりに参加できたので、「できなかったら下げろ」というのは事実であると、改めて実感。楽しければやるのです。判らなければ、それはもちろん辛いだけ、楽しいはずがない。その中でも、判ろうと努力し、そして判るようになれる人は、やはりすごい…。ただ、この学校にいる間では、実を結べないかも(今年の一月に来ていれば)…。

(独り言)…文法の「暗記文」は毎日のように読み合わせをしている(今は二ページずつですが)し、その文の横には意味も書かせてある。漢字だって、漢字一覧の横には意味を書くように言ってある(授業中にその時間を設け、最初は20分くらいを2,3回。そのやり方を説明してやると、やる人はうちでもやってくるし、書けなくとも読めるようになっている)。…でも、やらない人はやらない、覚えようとしない人は覚えない。

もっとも、彼らの気持ちも判るのです。なぜ日本に来たか。…「車の勉強をしたかったから」とか、「『ホテル』の勉強をしたかったから」。…ところが、その前に「日本語」の壁が立ちはだかっていた…。

日本語に限らず、言葉を学ぶには、その言語に対するセンスというか、ある種の能力も必要ですし、国で読書の習慣があるとか、外国語が初めてではない(外国語をある程度勉強したことがあるというのは強みです)とかいうのも、関係してくるでしょうね。

ところが、紙の書物がもともとそれほど潤沢にない国だってあるし、ネパールのように教科書は英語で書かれており、それを教師がネパール語で説明するというような国では、教科書ですら、読んだ経験がないという人だって出てくる(英語を勉強したと言っても、教科書が読めるほどの英語力を皆持っているかというと、それはかなり怪しいのです)。

そういう学生が来日して、「(日本語の)文章」を読まされ、文意を問われたり、指示語や主語を聞かれたりする。…最初はストレスでしょうね。「文法も覚えた、単語も覚えた…それだけじゃいけないの…????」が本音でしょう。

以前、スーダンの学生(在日生)が、「スーダンではそんなこと聞かれたことがなかった、何でも覚えれば良かった。(日本人の)先生が訊いていることが、判らない。全然わからない」と訴えてきたことがありました。彼女のように訴えることができなくても、おそらく気持ちとしては似たようなものなのでしょうね。(…まあ、彼女も無事に大学に合格し、今では学生生活を楽しんでいるようですが)。

とはいえ、日本では読んでもらわなければ、何もできません。覚えて終わりではありません。もちろん、覚えなければならないものもありますが、それは「読む」ため、「読める」ようになるためなのです。

もっとも、「日本語」の試験に合格できなくても、志望する専門を学ぶためなら、必要な言葉も覚えられるでしょうし、漢字だって読めるようになるでしょう。大部分はそういう「好きなことなら頑張れる」人達なのです。ただ、その前提の、そのために「日本語」の勉強を頑張るという部分が、スッポリと抜けているだけなのです。

学校としては寂しい限りなのですが、志望する学科なり専門なりを学び、好きなことをするためくらいの日本語ができていれば、進学してからどうにかなるもののようです。この学校にいるときには、鳴かず飛ばずであっても、専門学校で専門を学び、就職し、中堅どころとなって会社に重宝されているというような人も少なくないのです。家を買ったという人も何人もいます。

もちろん、この学校にいる間は、専門学校へ行っても、大学へ行っても、会社に入っても、困らないように、できるだけ日本語の力を伸ばすべく、努力は惜しまないつもりですが。

日々是好日
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「7月生」が少しずつ入ってきています。

2024-06-24 08:01:59 | 日本語学校

曇り。

気温はあまり高くはないものの、ムシムシジトジトしています。今朝「アジサイ」の花に覆い被さるように「オシロイバナ」の葉が茂っているのを見かけました。花数はそう多くはありませんでしたが、「梅雨時」特有の「ドクダミ」も花の姿が見かけられなくなりました。「梅雨」本番がやっと来たというのに、「梅雨時」の草花は足早に過ぎ去っていこうとしています。

さて、学校です。

先週、「七月生」四人がやってきました。スリランカの学生です。早速名前を書いてみるように言ったところ、最初の二字か三字ほどで、止まってしまい、互いに顔を見合わせるばかり。「N5」に合格してきたのかと改めて問うてみますと、付き添いの人が「合格している」と言います。

おそらく試験の「ためにする勉強」で終わっているのでしょう。留学生として来ていても、「ひらがな」、「カタカナ」、「数」などをきっちりと覚えてから来てる(来日)人は、案外に少なく、いくら「N5」「N4」に合格しているといっても、だいたいが「ための勉強」にすぎませんから、もう一度、端っからやり直さねばならないものなのです。つまり、それを頭に置いてから指導していかねばならないということなのです。

その上、なまじ、少々かじっているだけに、いざ、日本で始めて見ると、「それ、知っている」で、きちんとやらなくなるような人も出てくる。「読めない」のに、「知っている」はないだろうと思うのですが、「インド圏」ではだいたいが「耳の文化」ですから、「文字の大切さ」を知らしめることに、まず、手を焼いてしまう…。

もっとも、来日以前に、日本語を学ぶ上では「文字が大切である」ということが判っている人もいますし、来日してからそれができるようになる人とは、こちらが口を酸っぱくしたからわかったというのではなく、「書きなさい」「覚えなさい」と(学校で)言われるままに、素直にやっているうちに、自然に身についたというもののようなのです。

「言われるがまま」にやるというのが、違う文化圏に来たときには、如何に大切であるか。「文字」を習い、「文法」を習い、「単語」を身につけていくうちに、自然と日本の流儀を覚えていく。それができなければ、今現在も、何人かいる、「判った気」「できている気」になっている人達と五十歩百歩ということになるのでしょう。

「七月生」のクラスは7月の第二週から始まりますから、それからでしょうね。一応、「学校が始まってから、最初のうちは予習はするな」「復習に重きを置け」と言っておいたのですが、向こうで学んできた文字ともとれぬ文字を復習して、「ひらがな」の授業に臨まれてはたまりません。

(日本語を)やってきたという人達には、最初に名前を書かせて、その文字の様子を見てから、こちらも教え方、注意の仕方を考えるというのが普通なのですが、それができないようであれば、「まずは黙って学校(日本で)の勉強に臨み」、「学んだことを幾度も書き直し、形を整えていく」、それしかありません。

とはいいながら、半年経っても、一年経っても変えられない人もいます。そういう人達が、変えなきゃという気もちになるのは、専門学校を受験するための願書書きの時。「その時になってやっと」と、だいたい相場は決まっています。それまで、幾度こちらが書き直させ、練習させようとも(宿題がありますから)、同じですね。授業の時に、時間を取って書き直させなければやろうとはしません。おそらくそういう習慣もなかったのでしょう。

とはいえ、時間が限られています(長くて二年)から、毎日それができるかというと、そいうわけでもないのです。もとより、皆が皆、そういうレベルであれば、できるのでしょうが、半分ほどはきっちりやっている(人達な)ので、そうそうそれもできない。もちろん、最初のうちは、手をかけますが、これはかけるだけ無駄だと思われたら、そこは、スッパリと切って、意欲のある人達の方に時間を割くべきでしょう。そうでない人達は、低空飛行のまま、もう一度やり直すか、そのクラスでやれることをやるかにして(日本にいるので、アルバイトなどを通して、じきに「聞く・話す」はできるようになるものですから)、卒業となるのでしょうね。

尤も、かといって彼らがどうしょうもない人達かというと、そういうわけではないのです。仕事はきっちりできるし、親切で人の手伝いを買って出てくれる人も多いのです。

ただ、こういう「書いて」「覚えて」「読んで」という勉強に向いていないというか、それが苦手なだけなのです。

もっとも、そういう人達が大部分を占めるクラスだと、毎回、「N4」「N5」の漢字の読みに重点を置き、それだけは大丈夫なようにさせるとか、「N4」から「N3」にかけても文法を使った文を作らせてできるようにさせるとか、別な方法もあることはあるのですが、ただ『みんなの日本語(Ⅰ)』から『(Ⅱ)』の初めにかけては、それは無理ですね。本当に「基本」は大切なのです。

日々是好日
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「苦手な形式の問題は、やらずに次へ進め」と言っても、一つ一つやっていかないと落ち着かないという人もいるのですよね。真面目さが徒となる…。

2024-06-21 08:17:20 | 日本語学校
曇り。

何となく「梅雨」が始まったかのような雰囲気。今日から、もしかして、「梅雨入り」かな。昨日も暑くなるとの予報だったのに、帰りには風がかなり強くなり、涼しささえ感じられた…。

「季節の変わり目は予測がしにくい」とは聞いていたものの、昨今のお天気は予測不能といった感さえあります。まあ、しょうがないかと明治時代のギャグ(「フグ」を食べた人が「フグ」にあたらないようにと、『天気予報、天気予報』と言った)を思い出したりしています。まあ、これも本当かどうか判りませんが。

「ひまわり」や「アメダス」のおかげで、予報がかなり正確になり、しかもピンポイントで予報できるようになったということから、予報にしたがった生活をするようになっていたので、それだけに、最近の「外れ度」が、不満を感じるべきではないと思いながらも、ええ!またぁなどと思ってしまいます。

まあ、「お天気様」のことですから、人間風情がとやかく言うことでなし、また言えることでもなし、「ああ、そうですか。できるだけお手柔らかにお願いします」と呟くのみ。またそういうのが、一番理に適っているのでしょう。

さて、学校です。

昨日、「二年生クラス(昨年の四月、七月、十月、今年の一月に入ってきた人達です)」で、「N2」「N3」「N4」の模試をしました。

一人、「読解」があまりに悪すぎるので、答案をもう一度注意して見たところ、「文法」でかなり点を取っていた。あれ、文法が判らないと言っていたのに…。これも「初級」からすぐに「Aクラス」に入れた頃のことで、あれから三ヶ月あまり、あれ以来、覚えるべきは覚えてきたのでしょう…ただ、「覚える」では済まないこともある。それがこの点に表れてきたのかもしれません。これも過渡期ですかね。

「単語」…覚えているのは書ける。「文法」…考えればこたえられる。でも、「文章」は、その文意がなかなか掴めない…。これは、「日本語」の勉強とは他の次元での話。これは時間がかかります。少しずつ、問題文を通して、背景などの説明を加えているのですが、それでも、多分判っていないだろうなと思われるのものも、少なくはない…。

とはいえ、「読む」のを諦めてもらっても困る。…判らないから、苦手だなと思ってもらっても困る。…「単語」や、「文法」はコツコツ覚えていきさえすれば、だんだんに点がとれるようになってきます、比較的短時間で。覚えればいいだけのことなのですから。真面目に学校に来て、授業を聞いて、宿題をして…を繰り返していれば、まあ、だいたいはうまくいくでしょう。ところが、「読解」はそうはいかない。

「読解」が苦手な人にはいくつか理由があるのでしょうが、この学生の場合は、おそらく「不器用」、要領の悪さが徒となっているのです。一つ一つ、問題文を順に見ていき、考え、答えを出していく…というやり方しかできない。いくら時間配分を教えても、一つ一つ前からやっていく。つまり、テストの最初にある「文法」問題から離れられない。難しいのは捨てろができないのです。憂~んと考えているうちに、どんどん時間は経っていき、「読解」文に入れない。多分、文法問題で苦しむ方が、「読解問題」で苦しむよりも楽なのでしょう。

もちろん、本番でなく、練習であれば、こういう「読解」問題の文章を、まず読みなれることが必要…だと、こちらは思っているのですが、人によっては、その内容が「重きに過ぎる」ということで、どこかに詰まって、うまく流れなくなっている。

「これも過渡期。こちらが焦ってはいけない。待たねばならぬ事もある…」とは思うものの、本番(試験)は二週間ほどでやってくる。

「年末にどうにかなればいい」くらいに思って、「Aクラス」に上げたのではないかと、繰り返し、自分で自分に言い聞かせてはいるものの、どうしても、結果が気になってしまう。

「小利口に立ち回れないのですよね。一つずつやっていってしまうのですよね。」という穏やかな気持ちから「おい、どんくさいぞ」といいたくなる気持ちまで、どうもこちらとしても心の揺れが大きすぎる。

まあ、かれ同様、真面目にやっているもう一人の女子はきちんと点がとれてきましたから、そちらを見て、心を落ち着けようとしています。やはり素直な人は伸びますね。

「苦手な『問題形式』は、やらずに捨てろ、時間を考えて先に進め」と言えば、「ああ、そうなのか」と素直に諦め、他の読めそうなものに取りかかれる。これも才能ですね。一つ一つローラーで潰していかねば落ち着かない人は、割を食ってしまう。時間が足りなくなってしまうのです。

一つの問題に取り組んでいるうちに、時間だけが無情に過ぎていく。一つに、5分も10分もかけてどうするんだと、こちらは焦るけれども、本人は何も感じていない…ように見える。そういうのは無駄だから、他をやれと言っても、…できない。怪訝そうな顔で私を見つめる。鬼の面かしらね、私。

思わず、「やらなくていいと言っただろう」と、答案用紙に文句を言ってしまう。判るけどね、真面目にやったことは認めるけれどもね…。

来週は「試験」はお休みで、再来週にもう一度、3回目の模試を行います。一つの問題ににへばりついて、一点取る(取れないことの方が多い)よりも、三つか四つの問題に取りかかって二点か三点、取ってほしいのだけれどもなあ…。…無理かなああ。

日々是好日 
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こういう気候は…、留学生達のみならず、この土地で生まれ育った私たちでも、しんどい…。

2024-06-20 08:12:11 | 日本語学校

晴れ。

暑さにまだ体が慣れていないせいか、疲れが溜まり気味です。こういう気候に慣れていない留学生達は、さぞかし大変でしょうね。以前なら、「ここは、こんなふう」と、土地の古老が語ってくれたでしょうが、今は、その土地の人達ですら、「なんてこった」の気候なのですから、どうしようもない。研究者に尋ねるしかないのでしょうが、その研究者達ですら、おそらくは、だいたいのことしか判らない。また思いも寄らぬようなことが起きる可能性だってある。

ダラダラと移ろいゆく気候であったから、日本人も、ゆっくりと体を慣らすこともできていたのに、今はそれも無理。長寿大国と言われていたのも、ダラダラの中にいられたから。これからはそうもいかないでしょうね。

病気になる前に、休むのが「正解」。無理をしないのが「正解」。いずれ、日本人も頑張りが効かなくなってしまうでしょう…もう、そうなっているかな。ノンベンダラリと生きるというのが、正しい生き方なんだなんて言われるようになるかもしれません。

人は、生まれ育った土地に順応しながら生きてきたわけで、私なんぞも、「30度????ガーン」の時代から、もはや「三十度??楽勝じゃん」の世界に投げ込まれ、どうにもこうにもならなくなっています。

子供の頃など、打ち水で、涼しさを感じられたものでしたが、今は多分、それこそ焼け石に水。…この言葉も死語になるでしょうね。

さて、学校です。

一昨日はうまくいった「読解」の授業でしたが、昨日はまた「あ~あ」となってしまいました。「読解問題」として出されてくる文章は、本当に難物。かなり背景を説明をしなければ、なぜそんなことを文章にしているのかが、まず、判らない。説明しても、「それが、どうして?なんなんだ?」となる。問題意識を持ったことがないことには、人はどうもイメージすら抱けないようで、ちんぷんかんという表情で私を見ている。下手をすると、ちょっと(二,三行)文章を見ただけで、諦めるというか、匙を投げてしまっている。何が何だ???

「問い」自体はわかりやすいし(しかも、四択のうち、二択は明らかに違うのです)、「これだよ、これだよ」と言ってくれんばかりなのですが、読んでも、「何を言っているのかがわからん」という人にとっては、「問い」が簡単であろうがあるまいが、全く関係なし。

それが、時事問題のみならず、人の人との関係を扱っているモノであってもそう。また、そういう人間の機微に触れたモノなぞ「読んだことがない。感じたことがない、考えたことがない」であれば、一体全体、なんなのだというのも、当然なのでしょう。おそらく「そんなことを感じたり、考えたりする」変な文章で、一括りできるであろう内容を、ながながと読まなくてはならないわけですから、それは嫌気が差してくるのもわかる。となると、ちょっと見ただけで、「わからん…(だから)、見るだけ無駄」と思ってしまうのでしょうね。

だいたい、そんな文章を読まされ、考えさせられるなんて、とんでもない…。とはいえ、留学生達の在留期間は決まっています。そうでなければ、彼らが好む筋のものを聞かせたり、それから読ませたりして、日本語の上達を図っていくこともできるのでしょうが、いかんせん、時間に限りがある。楽しく勉強というのは、無理な話。能力試験の結果に、専門学校や大学の合否がかかっている。

しかしながら、「判らないことは判らない」というのも、…わかる。絵を描いて、図を書いてといった説明も、それがなかなかできないものもある。

昨日は、三つとも、そういう文章でした。「漢字」を練習しなさいと言えば、素直に練習してくれるし、「覚えなさい」と言えば、素直に努力してくれる人達なのですが、読んで考えるという作業が、どうも「苦手」…だという人が多い。そういうクラスで、この手の「読解」の授業を、どうやってやっていったらいいのか、そして、まずはその入り口ですね。それを、どうやってこじ開けたらいいのか…わからないという時も少なくはないのです。

日々是好日

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