降り続いた雨も、ちょいと一休み。微かではありますが、陽も差してきたようです。これで、少しは暖かさが戻ってくることでしょう。
学生が、「あの白い花は何?」と聞きましたので、名を告げ、「中国にもあるでしょう」と問いかけますと、居合わせた中国人学生は、互いに顔を見合わせて、どうも知らぬ様子。一人が怖ず怖ずと「あるけれども、もっと小さい」。
どうも彼女の言っているのは、「モクレン」よりも一回りほども小さい「コブシ(辛夷)」の花のようなのです。それで、そう言ってやると、また他の一人が「日本人は花の名前をよく知っている…」
もちろん、どの国にも草花の名に詳しい人はいますし、中国にもいるでしょう。ただ、彼女の意味する「日本人」というのは、ごく普通の、平均的な日本人なのです。確かにそれは、本当で、私も中国にいる時によく驚かされたものです。どうして中国人は花の名をこんなにも知らないのだろうと。
今は、多少は変わったかもしれませんが、多分、知っているのは「金目の花(高価な花)」くらいなものでしょう。テレビなどで宣伝されていたり、高級デパートなどに飾られていますから。野や道端に咲く、名もない可憐な花というものに、全く興味を示さないのです。もしかしたら、子供の頃から、そういう教育を受けていないからなのかもしれません。(誰でも知っているだろうから、話の継ぎ目にでもと思って)名を聞いても「あれは、雑草」で一括り。何の役にも立ちません。
その時は「そりゃあ、ないぜ」と嫌な気分になったものですが、価値の基盤をどこにおくかというのは、こういうところにも表れてきます。
生物学者であった、亡き昭和天皇は「雑草という草はない」と断言されたそうですが、確かに、人に名を聞かれて「知らない」と言うことはあっても、「雑草」という答え方はないと思います。
華やかで、見栄えのよい大輪の花も確かに美しいし、心を浮き立たせてくれます。しかしながら、道ばたに咲く野の花の、風のそよぎにも耐えかねたる、その風情に、美を見出し、その美を口承(詩歌や古典芸能)で、伝えていくというところに、日本人の感性というものが、潜んでいるような気がするのです。
それに、「名を問う」ということ行為には、単に(花の)名を知りたいという気持ちだけではなく、その名から浮かび上がってくる「花の人生」、あるいは「物語」といった方がいいのでしょうか、そういったものにも、心が惹かれるからなのです。
木や草花に限らず、動物や虫魚、また鳥にも、その名が由来した古来からの物語りがありました。明治になり、「文明開化」の波が押し寄せてくるようになりますと、それに、欧州の神話や伝説までもが加わってきます。子供の頃に、聞いたり読んだりした、それらの物語のいくつかは、年が長け、大人になると同時に消えていってしまうのですが、何かの折りにふと甦ってくることがあります。消えていったかのように見えていても、豈図らんや、しっかりと心の奥底にしまい込まれていたのです。自分の人生と同じ分量で、記憶の一部となっていたのでしょう。
高校生の頃、新聞で「アフリカの一部族は、親からもらった『本当の名』を人に知られることを畏れる」という文章を読んだことがありました。「『本当の名』を知られると、その名に『呪い』をかけられるから」というのです。「名」即ち、「その人」というわけなのでしょう。けれども、(多分、現代社会に生きる日本人であっても)それを聞いて一笑に付すというわけにはいきますまい。名前には、不思議な力があるという考え方は、日本人にも、よくわかるからです。
「『ものの名』を知る」ということ、また「『ものの名』を知らせる」ということには、心から心に通じるような「ある種の意味」が、あるのかもしれません。それ故、人は、「少年A」でも「青年B」でも良さそうなものなのに、名を知りたがり、また、名をつけたがるのでしょう。
日々是好日
学生が、「あの白い花は何?」と聞きましたので、名を告げ、「中国にもあるでしょう」と問いかけますと、居合わせた中国人学生は、互いに顔を見合わせて、どうも知らぬ様子。一人が怖ず怖ずと「あるけれども、もっと小さい」。
どうも彼女の言っているのは、「モクレン」よりも一回りほども小さい「コブシ(辛夷)」の花のようなのです。それで、そう言ってやると、また他の一人が「日本人は花の名前をよく知っている…」
もちろん、どの国にも草花の名に詳しい人はいますし、中国にもいるでしょう。ただ、彼女の意味する「日本人」というのは、ごく普通の、平均的な日本人なのです。確かにそれは、本当で、私も中国にいる時によく驚かされたものです。どうして中国人は花の名をこんなにも知らないのだろうと。
今は、多少は変わったかもしれませんが、多分、知っているのは「金目の花(高価な花)」くらいなものでしょう。テレビなどで宣伝されていたり、高級デパートなどに飾られていますから。野や道端に咲く、名もない可憐な花というものに、全く興味を示さないのです。もしかしたら、子供の頃から、そういう教育を受けていないからなのかもしれません。(誰でも知っているだろうから、話の継ぎ目にでもと思って)名を聞いても「あれは、雑草」で一括り。何の役にも立ちません。
その時は「そりゃあ、ないぜ」と嫌な気分になったものですが、価値の基盤をどこにおくかというのは、こういうところにも表れてきます。
生物学者であった、亡き昭和天皇は「雑草という草はない」と断言されたそうですが、確かに、人に名を聞かれて「知らない」と言うことはあっても、「雑草」という答え方はないと思います。
華やかで、見栄えのよい大輪の花も確かに美しいし、心を浮き立たせてくれます。しかしながら、道ばたに咲く野の花の、風のそよぎにも耐えかねたる、その風情に、美を見出し、その美を口承(詩歌や古典芸能)で、伝えていくというところに、日本人の感性というものが、潜んでいるような気がするのです。
それに、「名を問う」ということ行為には、単に(花の)名を知りたいという気持ちだけではなく、その名から浮かび上がってくる「花の人生」、あるいは「物語」といった方がいいのでしょうか、そういったものにも、心が惹かれるからなのです。
木や草花に限らず、動物や虫魚、また鳥にも、その名が由来した古来からの物語りがありました。明治になり、「文明開化」の波が押し寄せてくるようになりますと、それに、欧州の神話や伝説までもが加わってきます。子供の頃に、聞いたり読んだりした、それらの物語のいくつかは、年が長け、大人になると同時に消えていってしまうのですが、何かの折りにふと甦ってくることがあります。消えていったかのように見えていても、豈図らんや、しっかりと心の奥底にしまい込まれていたのです。自分の人生と同じ分量で、記憶の一部となっていたのでしょう。
高校生の頃、新聞で「アフリカの一部族は、親からもらった『本当の名』を人に知られることを畏れる」という文章を読んだことがありました。「『本当の名』を知られると、その名に『呪い』をかけられるから」というのです。「名」即ち、「その人」というわけなのでしょう。けれども、(多分、現代社会に生きる日本人であっても)それを聞いて一笑に付すというわけにはいきますまい。名前には、不思議な力があるという考え方は、日本人にも、よくわかるからです。
「『ものの名』を知る」ということ、また「『ものの名』を知らせる」ということには、心から心に通じるような「ある種の意味」が、あるのかもしれません。それ故、人は、「少年A」でも「青年B」でも良さそうなものなのに、名を知りたがり、また、名をつけたがるのでしょう。
日々是好日