曇り。
如何にも冬…といったお空の感じですが、でも、それほど寒くはない…。このまま、紅葉が進み、樹は葉を落とし、裸木になっていくのでしょうか。
さて、学校です。
(受験に)失敗する事はあり得ないだろうと思われていた学生が、失敗してしまいました。どこが悪かったのでしょうね。「必ず受かってみせるぞ」という意気込みというか、「崖っぷちだ」という切迫感かが見せられなかったのかもしれません。「ここなら、大丈夫だろう」と高を括っていて、それが態度に出てしまったのかもしれません。
それにしても、親切で優しい性格ですから、まず偉そうな態度に出ることは、あり得ないのですけれどもねえ。どうして落とされたのかわからない…ことがまた起こってしまいました。
まあ、彼には、「こういうのは、向こう(専門学校)も見るが、こちら(彼のことです)も見るものだ。縁がなかったんだね。それほどの学校でもないのだから、縁がなかったら、それはそれで、スルリと躱し、他を見よう。縁のある学校が見つかるかもしれないし、そこで頑張って『N2』をとれば済むことだから」と言ってあります。
別にこれは慰めではないのです。彼の方も、さらりと躱し、失敗の内にも入らないようなこんなことは忘れて、他(校)を当たることでしょう。
実際、私たちが現地へ行き、応募してきた留学志願者と会うのと、こういう受験の時の面接とは似て然るべきところが多々あると思います。
「提出された資料を見る。面接の時の前後の様子・態度を見ておく。面接で(日本語を)どれだけ学んできているか見る。入ってからを想像しておく。
私たちが現地へ行って面接する時には、他にも、何点か注意しておくことがあります。
日本語の学習量が足りなかった時には、その紹介者、もしくは連れてきた教師を見る。同時に、同じ学校の学生達の(しでかした)間違いも見ておく。
学生の問題ではなく、教える側の実力不足から来ていることもあるのです。その時は、それを指摘しておきます。「ひらがな」や「カタカナ」といった入門の段階で、同じ学校から来た学生が、皆、同じ間違いをしていれば、それは学生の問題ではなく、教師の側の問題ということになります。その学校と提携しても、そこから来る学生は、いつも同じことができないのですから、それは大変です。何事も最初が肝心。最初に間違えて覚えてしまうと、忙しい日本に来てから改めるのは至難の業です。
日本語はさほど学んでいなくとも、見所がありそうだと思えば、既習のうちの、問題をいくつかさせてみます。できるできないにかかわらず、その様子を見ます。わからないと匙をすぐに投げてしまえば、もうこの学校では無理だなという判断をします。それなりに考えて解こうとしているのが見て取れれば、一応、合格サインを出します。勿論、二度目の面接の時に、努力が見られなければ、「申し訳ないけれども、約束を守っていないから」という理由で遠慮してもらいます。
この学校では面接に教師が行きます。教える時の事を考えてみるのです。来てからのことが大切なのです。勉強する気のない人が教室にいれば、それは他の学生達にも影響してきます。個別の授業ではなく、一斉授業なのですから。
以前、スリランカの学生がクラスの雰囲気を壊して、ギクシャクしてしまったということがありました。聞き取りが悪い学生を小馬鹿にしたのです。当然のことながら、私は馬鹿にされた方の学生につきます。何となれば、彼の場合は努力をしていましたから。(普通は、皆、こういう真面目な学生には、一目置くものなのです。あの人は「漢字を頑張っているからすごい」とか、あの人は「発音がいいからすごい」とか。スリランカの学生の場合は特別だったのでしょう。カンニングはするは、「わかるから、勉強する必要はない」と欠席するは。私たちにはなぜ彼が「自分は頭がいい」と思っているんだろうね、ヘンだねくらいのものだったのですが)。彼の言い分は「自分はわかる。あの人達はわからない」…から、馬鹿にしていたのでしょうね。「聞く」「話す」だけの世界なのに。
とはいえ、最初問題があっても、なんてことはないのです。国や民族によっては、日本語の文法がさほど難しいものではなく、スラスラと話せるようになるということもありますし、音を聞き取ることもそれほど難しくないということもあるのです。またそれと反対に、努力しても音の区別がなかなかつかず、また音が出せないという人達もいます。
もし、「文法」「聞き取り」「漢字」の三重苦にあっても、「文法」を必死で覚え、「漢字」をとにかく練習していれば、それは「いい学生」です。ヒアリングなんて、日本に10年もいれば、どのように音が聞き取れないという民族であろうと、だれだって聞き取れるようになります。
その反対に、努力を怠り、アルバイトだけに通用するような単語だけしか知らず、「初級」の文法を使い回しているだけで、しかも、漢字も書けなければ、何十年日本にいようと、「単語「文法」「漢字」はお寒い限りということになってしまいます。
数年前の、例のスリランカの学生は、この学校にいる時には、「自分は頭がいい」という唯我独尊の気分から抜け出せませんでした。普通なら潰されるであろうくらい、こちらも言ったのですが。不思議ですねえ、こういう御山の大将気分の人は、自分に不都合なことは耳に入らないのです。
「漢字は、やらないから、できないだけだ」と言うのです。つまり、「やるだけの能力がないからできない」とは思わないのです。彼に馬鹿にされていたベトナムの学生は、努力の結果、自分の力で大学に入れたのですけれどもね。
うれしいことに、今ではそんな学生はいません。できなければそれなりに、できる人もそれなりに上を目指して頑張っています。
日々是好日
如何にも冬…といったお空の感じですが、でも、それほど寒くはない…。このまま、紅葉が進み、樹は葉を落とし、裸木になっていくのでしょうか。
さて、学校です。
(受験に)失敗する事はあり得ないだろうと思われていた学生が、失敗してしまいました。どこが悪かったのでしょうね。「必ず受かってみせるぞ」という意気込みというか、「崖っぷちだ」という切迫感かが見せられなかったのかもしれません。「ここなら、大丈夫だろう」と高を括っていて、それが態度に出てしまったのかもしれません。
それにしても、親切で優しい性格ですから、まず偉そうな態度に出ることは、あり得ないのですけれどもねえ。どうして落とされたのかわからない…ことがまた起こってしまいました。
まあ、彼には、「こういうのは、向こう(専門学校)も見るが、こちら(彼のことです)も見るものだ。縁がなかったんだね。それほどの学校でもないのだから、縁がなかったら、それはそれで、スルリと躱し、他を見よう。縁のある学校が見つかるかもしれないし、そこで頑張って『N2』をとれば済むことだから」と言ってあります。
別にこれは慰めではないのです。彼の方も、さらりと躱し、失敗の内にも入らないようなこんなことは忘れて、他(校)を当たることでしょう。
実際、私たちが現地へ行き、応募してきた留学志願者と会うのと、こういう受験の時の面接とは似て然るべきところが多々あると思います。
「提出された資料を見る。面接の時の前後の様子・態度を見ておく。面接で(日本語を)どれだけ学んできているか見る。入ってからを想像しておく。
私たちが現地へ行って面接する時には、他にも、何点か注意しておくことがあります。
日本語の学習量が足りなかった時には、その紹介者、もしくは連れてきた教師を見る。同時に、同じ学校の学生達の(しでかした)間違いも見ておく。
学生の問題ではなく、教える側の実力不足から来ていることもあるのです。その時は、それを指摘しておきます。「ひらがな」や「カタカナ」といった入門の段階で、同じ学校から来た学生が、皆、同じ間違いをしていれば、それは学生の問題ではなく、教師の側の問題ということになります。その学校と提携しても、そこから来る学生は、いつも同じことができないのですから、それは大変です。何事も最初が肝心。最初に間違えて覚えてしまうと、忙しい日本に来てから改めるのは至難の業です。
日本語はさほど学んでいなくとも、見所がありそうだと思えば、既習のうちの、問題をいくつかさせてみます。できるできないにかかわらず、その様子を見ます。わからないと匙をすぐに投げてしまえば、もうこの学校では無理だなという判断をします。それなりに考えて解こうとしているのが見て取れれば、一応、合格サインを出します。勿論、二度目の面接の時に、努力が見られなければ、「申し訳ないけれども、約束を守っていないから」という理由で遠慮してもらいます。
この学校では面接に教師が行きます。教える時の事を考えてみるのです。来てからのことが大切なのです。勉強する気のない人が教室にいれば、それは他の学生達にも影響してきます。個別の授業ではなく、一斉授業なのですから。
以前、スリランカの学生がクラスの雰囲気を壊して、ギクシャクしてしまったということがありました。聞き取りが悪い学生を小馬鹿にしたのです。当然のことながら、私は馬鹿にされた方の学生につきます。何となれば、彼の場合は努力をしていましたから。(普通は、皆、こういう真面目な学生には、一目置くものなのです。あの人は「漢字を頑張っているからすごい」とか、あの人は「発音がいいからすごい」とか。スリランカの学生の場合は特別だったのでしょう。カンニングはするは、「わかるから、勉強する必要はない」と欠席するは。私たちにはなぜ彼が「自分は頭がいい」と思っているんだろうね、ヘンだねくらいのものだったのですが)。彼の言い分は「自分はわかる。あの人達はわからない」…から、馬鹿にしていたのでしょうね。「聞く」「話す」だけの世界なのに。
とはいえ、最初問題があっても、なんてことはないのです。国や民族によっては、日本語の文法がさほど難しいものではなく、スラスラと話せるようになるということもありますし、音を聞き取ることもそれほど難しくないということもあるのです。またそれと反対に、努力しても音の区別がなかなかつかず、また音が出せないという人達もいます。
もし、「文法」「聞き取り」「漢字」の三重苦にあっても、「文法」を必死で覚え、「漢字」をとにかく練習していれば、それは「いい学生」です。ヒアリングなんて、日本に10年もいれば、どのように音が聞き取れないという民族であろうと、だれだって聞き取れるようになります。
その反対に、努力を怠り、アルバイトだけに通用するような単語だけしか知らず、「初級」の文法を使い回しているだけで、しかも、漢字も書けなければ、何十年日本にいようと、「単語「文法」「漢字」はお寒い限りということになってしまいます。
数年前の、例のスリランカの学生は、この学校にいる時には、「自分は頭がいい」という唯我独尊の気分から抜け出せませんでした。普通なら潰されるであろうくらい、こちらも言ったのですが。不思議ですねえ、こういう御山の大将気分の人は、自分に不都合なことは耳に入らないのです。
「漢字は、やらないから、できないだけだ」と言うのです。つまり、「やるだけの能力がないからできない」とは思わないのです。彼に馬鹿にされていたベトナムの学生は、努力の結果、自分の力で大学に入れたのですけれどもね。
うれしいことに、今ではそんな学生はいません。できなければそれなりに、できる人もそれなりに上を目指して頑張っています。
日々是好日