日本語学校からこんにちは ~水野外語学院日本語科~

TOKYOベイエリア,市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『明日から春休みです。学校に来なくてもいいです』…が、判らない…。」

2012-03-29 11:49:17 | 日本語の授業
 快晴。
 昨日は午後三時頃から、少しずつ黒雲が拡がり始め、4時頃には、どうも怪しい雰囲気に…。けれども、行徳の辺りでは、どうやらもちこたえられたようです。今朝、お天気のお姉さんが、都心では、昨晩、ザアッと、一雨来たと言っていましたけれども。

 これでは、まるで馬の背を分けるという「夕立」のようですね。おまけに、昨晩のお天気図に映されていた、日本列島を横切るような雲の流れの、至る所に、バッテンマークがついていましたから、どこもかしこも「ピカッ…ゴロゴロ、ゴロゴロ、ドカーン」と、雷様が太鼓を叩きながら、お出ましになっていたのでしょう。くわばらくわばら…。

 さて、補講も今日(木曜日)で終わりです。とはいえ、「Eクラス」の学生たちは、あまりよくわかっていないようです。いくら言ってもストンと落ちていかないのです、金曜日は学校に来なくてもいいというのが。

 もうこのことは他のクラスが春休みになってからずっと(つまり、3月19日から)2日か3日に一回ほどの割合で言っているのですが、言う度に「おう」と嬉しそうな顔を見せてくれるのです。それでその度に、当方としても、「よかった。判ったのだ」と感動していたのですが、それが、二度も三度も続くと、「ふむふむ。結局判っていないのだな」と諦め半分の疑わしいような目つきにならざるを得ないのです。昨日もそうでした。

 若い先生が一昨日言った時、みんなオウと言っていたので、多分判っていなかったと思うと言ったのです。それで私も、「やはりな」。で、彼らが帰る時に、出口でもう一度、「明日で終わりですよ。明後日、金曜日は来なくてもいいのですよ」と言ってみました。すると「えっ」という大袈裟なリアクションが。

 学校に来なくて勉強してくれないのは困るけれども、どうせ彼らは歩いて二三分の所に住んでいるのです。「散歩かたがた来るのもいいかな。だいたい、日本語をきちんと覚えていないから、こんな時に(休みなのに学校へ来てしまうという)割を食うのだ。何事もくどく、しかも、彼らが判るくらいにかみ砕いて(教師が)いちいち言ってやるのも、却って、彼らのためにはなっていないのかもしれない。それに慣れているから、結局はどうにかしてくれると思ってしまうのだ。それにだいたい判らなくても、困らないと思っているから。しっかりとそれを、知らしめた方がいい」と意地悪な気持ちにもなってしまいました。が、そこはそれ、いい人ぶりたいので、腹の虫を押さえて「明日来ます。明後日来ません」と言ってやりました。

 多分、もう判ってはいるのでしょう。けれども、(あちらはあちらで)既にわかっていると反応してみせるのも、毎日のように言ってくれる教師に悪いと思っているのかもしれません。

 そうは言いましても、最初のころは、私の顔色や様子などを見て、これは嬉しそうな顔をした方がいいのだろうと(判断して)、それに応じたに過ぎなかったと思います。

 もちろん、これも生き残るワザの一つですから、文句を言う筋合いのものではないのですが。ただあまりにそれに長けてくると、外国人に慣れていない人たちは(誤解して、判ったものと判断して)説明してくれない恐れもあります。

 いくら近くに住んでいるとはいえ、起きて学校に来るのは大変です。それに、彼らは、春休みにしっかり稼いでおこうと、アルバイトの予定をぎっしり詰めています。それでも、今、(春休みの補講に)眠い目をこすりながら学校に来て、勉強を続けています。彼ら(「Eクラス」の学生たち)は、他の学生たちとは違い、春休みは短いのです。とはいえ、たとえ10日ほどであろうとも、いつもよりもたくさん寝て、少しは疲れを取っておいてくださいね。新学期からは、また厳しい勉強が始まりますからね。

日々是好日
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「日本語学校にいられる期間は、無限ではないのです」。

2012-03-27 12:05:57 | 日本語の授業
 快晴。今日も上天気です。桜が、もし咲いていたならば、絶好の花見日和、行楽日和と言えたでしょう…なのに、まだまだこの辺りの桜のつぼみは固いのです。

 今朝の予報では最低気温4度、最高気温12度と出ていました。けれども最近はどうも、この「予報」があまり信じられないのです。もちろん、お天道様は人間などよりずっとずっと上にありますから、ご気分が変われば、「あっ。ごめん。泣きたくなっちゃったから」で、雨になることもあるでしょうし、「今日は朝は気分がよかったけれども、嫌なものを見ちゃったから」と拗ねたりされれば曇りになることもあるでしょう。ふっと気が変わって「寒さの夏になる」こともあるでしょうし。

 けれどもけれども、何と言いましても、3月も最後の週に入っているのです。それなのに、この寒さとは…。

 さて、話変わって、学校です。
ひとりぼっちの「ジンチョウゲ(沈丁花)」が濃厚な香りを振りまいています。今日こそは忘れずに、学校に来た学生たちに、「帰る時には下の階の窓の所を見てごらんなさい。そしてそこで花の香りに浸ってごらん」と言ってやりましょう。親切な彼らは、きっとニコニコして「はい」と言うでしょう。そして、下に下りるや否や(花のことなどすっかり忘れて)風を切って自転車で帰っていくことでしょう。

 ところで、昨日書いたことの続きです。
日本語学校には、いろいろな目的があるでしょうが、この学校は、日本で進学したいという留学生たちを、大学あるいは大学院、希望によっては専門技術を習得できる専門学校に送り出すことを目的としています。

 募集の時期は、4月、7月、10月、1月の四回です。母国で、日本語を学んできている学生でも、「N4」や「N3」合格程度であれば、もう一度「イロハ」からやってもらっています(もちろん学生の資質や「やる気」度によっても違いますが、できる学生が多く集まれば進度はそれに相当した速さで速くなります)。

 その理由は、一つには「耳が日本語に慣れていない」ことからくる問題を避けるためです(一二週間もすれば、母国である程度きちんと学んできた学生は、慣れてきます。その時間を稼ぐためです)し、「中級」、「上級」に至った時に生じがちな問題を避けるためでもあります。その問題というのは、母国で習得した部分に凸凹があった場合、一人その学生だけが凸凹のまま過ぎていく可能性があるのです。例えば「長音」などの特殊音についても、「拍」に関する知識(ほんの些細なことですけれども)がきちんと入っていれば、簡単に解決できたりするのです。

 学生たちの目的は進学ですから、受験は二年目の10月くらいから始まります。ということは「4月生」であっても一年半、「10月生」であれば一年ほどで、(大学受験にせよ専門学校受験にせよ)面接で、自分の学びたいこととか、専門知識に関する若干の知識などとかを(日本語で)言えるようになっていなくてはならないのです。期間はこんなに短いのに、(そうなるために)学んでいなくてはならないことは山ほどあるのです。「

 主教材だけを挙げても、「初級」では、『みんなの日本語Ⅰ』『みんなの日本語Ⅱ』、そして「中級」では『中級から学ぶ日本語』『現代日本語コースⅠ』「現代日本語コースⅡ」、「上級」では、『上級で学ぶ日本語』とニュース、新聞など。その他にも「N2」「N1」の文法や漢字。また、「留学生試験」や「日本語能力試験」のための特訓期間には、それらに対応した教材…。

 私たちは、大学に進学してもあまり困らないようにさせたいと思っているのですけれども、年度によって、またクラスによっては、そういう考え方と全く別の所にいる人たちが集まる場合もあるのです。

 「行け行けドンドン」で、いろいろなものを与えれば与えるほど貪欲に吸収していこうという学生たちが多くいたクラスもありました。その反対に、「お願いだからこれくらいにして。そんなにたくさん勉強できないよ」と、身体中で「SOS」信号というか、「嫌々」信号を発信していたスリランカの学生たちのクラスもありました。この時は、教えることは罪なのだと思わざるを得ない…ような気になってしまいましたけれども。

 そして、これは、何十年か前の、他の学校でのことですが、現「Eクラス」どころではなく、まず「みんなの日本語」という教科書で教えることがかなわないという中国人たちいました。

 その時は、現実の生活に即した内容で、文字の少ない教科書を使いました。彼らは、中国人でありながら、文字が多いことにアレルギーを示していたからです。ただ、この人達は進学を目指しているわけではありませんでしたから、気が楽と言えば楽でした。けれども、あまり教えがいはありませんでした。集中力も直ぐに切れてしまいますし、中には、急に立ち上がって、「先生、20分も座っていたら、疲れてしまった。こんなに長く机について勉強したことはない。ごめんなさい。立っていてもいいですか」と言った学生もいました(これは中国語で言ったのです)。

 どうして日本に勉強になんか来たのだろうと最初は思いましたけれども。一言付け加えておくと、当時はそういう学校が多く、問題になっていたようでした。そういう人達は本来なら「研修」という形で日本に来ていた方がよかったのです。その方が焦点を絞れて(勉強したい人に絞って教えられて)私たち教員にとっても幸せ、彼らにしても嫌いな勉強を強いられずとも済むということで幸せだったのです。

 いわゆる棲み分けです。そして勉強したい人たちだけが日本語学校に来るというのが一番いいのです。それで、それをいろいろな国へ行くたびに、この学校の教員は力説し、勉強したい人たちだけを寄越してくれと言ってきました。

 もちろん、母国にいる時は普通の学生(先生から見てもいい子、親から見ても素直ないい子)であっても、来日してアルバイトに疲れ切って勉強ができなくなるという人もいます。今の「Eクラス」がそんな状態であるような気がします。だからかわいそうになる時もあるにはあるのですが、とはいいましても、かわいそうだから勉強しなくてもいいとは口が裂けても言いません、いえ、言えません。そうしたら、多分直ぐに彼らは崩れてしまうでしょう。なにくそと頑張れるタイプの人たちではないのです。

 それで、とにかく「頑張れ」と、「頑張れなくとも頑張れ」と、旗を振って行かなくてはならないのです、教師という立場にあるかぎりは。

日々是好日
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「なかなか日本語を覚えてくれない、手強い学生たち」。

2012-03-26 12:20:42 | 日本語の授業
 晴天。快晴です。雲一つなく、そして空気は「冬」です。なかなか春になりません。けれども学校の「ジンチョウゲ(沈丁花)」はもう三割方花を開かせ、強い香りを放っています。本当に学生がいないのが残念。

 学生たちは、忙しい毎日ながら、「この花の名前は?」とか「、先生、何?この匂い」とか言うことがあります。南から来た学生たちは、総じて白い花が好きなようで、北の学生たちが、強い色彩に反応するのと対照的です。

 日本でも「赤い鳥運動」の頃、雪国の作家は赤などの原色を多く用いると言われていましたが、きっとそれと同じ感覚なのでしょう。

 さて、学校です。
「Eクラス」の授業が恐い。恐いというと何なのですが、今まで自分は何をしていたのだろうと思ってしまうのです。これまで、かなり学習に問題がある人達を受け持ったこともありました。中学校を中退程度の人も教えたことがありました。それゆえ、外国人に日本語を教える時には、ある程度の手当はできると思っていたのですが(高学歴者は、手伝うだけでいいのです。彼らは自分で学べますから、下手に手を出さない方がいいという場合も少なくないのです)、このクラスは手強い。新しいのを一つ教えると、気づいた時には、その二三前のが更地になっているのです。かといって、彼らが学習に支障を来すほど能力がないかというと、そんなことは全くないのです。ごくごく普通の学生たちです。

 多分、「集中できない」と、「勉強する習慣がついていない」と、「耳が日本語に慣れない」と、「発音できない音がある」と、それから「少々年齢が上の学生がいる」、そして「疲れている…」という六つが、互いに絡まって、こういう結果になっているのでしょう…。

 ただ救いもあります。かつての学生たちと同じように、かなり(初めのころに比べれば)リピートが出来るようになってきたということ、それと学んだことがあるという記憶に頼ることができそうな気がすること。

 (なかなかスッと入っていかないという学生の場合です)教えるには(速度から抱け見た場合)、簡単にいうと、二つのやり方があります(もちろん、現場では様々な場合がありますから、このように紋切り型には参りませんが)。初級であれば、「一課を3日か4日ほどで教えていく」というやり方と、「普通の進度で教えていくが、それでもついて行けない学生は、三、四ヶ月ごとに、新しいクラスが出来た時に、彼らが問題があると思われるところからもう一度やらせていく」というやり方と。

 クラスの人員構成によっても違うので、どちらがいいかははっきりとは言いにくいのですが、一般的に言うと、どうも二つ目のやり方の方が効果があるようです(教師にとっても、それをあらかじめ考えておくことができるという意味で。また学生にとっても、一応の心づもりができますから)。多分三、四ヶ月後であれば、耳が日本語に慣れるということも関係あるのでしょうが、「聞いても判らない」状態から、「聞いて反応できる」状態に少しはなれるでしょうし。たとえ簡単なやり取りであっても、「反応」できると、日本語が面白くなると見えます。積極的に話そうとする人が増えますから、直ぐに判ります。

 母語で学ぶことが出来るのならまだいいのですが、真っさらなままで現地(この場合は日本です)へ来てしまうと、いろいろな問題が起こってしまいます。もちろん、それでも、ついてくることができる学生は確かにいますが、普通の、多分、母国では勉強なんてそれほど好きではなかった人にとっては、これは難しいことです。これは日本人が非漢字圏の国へ留学に行った場合にも当てはまります(これは、非常に少ないとは思います。普通は日本で片言なりとも学んでから行くでしょうし、まず生半可な気持ちではそういう国へ留学に行かないでしょう)。

 国によっては、日本語の発音がなかなか掴めずに、いくら聞いても音の判別がつかないということもあります。このような場合でも文法事項くらいは頭に入れておいてから日本に来ていれば、あとは時間が解決してくれるのを待てばいいのですが、どちらも真っ白だと、大変です。

 日本語だけを考えてみても、大変な人はとても大変なのです。こういう非漢字圏の人たちは高望みはしていないので、いつもニコニコとしていられるのかもしれませんが。それに比べて、困った漢字圏の人がいました。

 中国へ行った時のことなのですが。
「この子を、大学へやりたいのだけれども、(日本の)日本語学校では英語や数学も教えてくれますか」。

 だいたい、母国で、英語や数学専門の教師に、母語で教えてもらいながら、判らなかったという学生が、日本語で、英語や数学を教えられて判るようになるものでしょうか。そういう考え方をする人がいるということに、当方としても驚いてしまったのですが(「それは中国で勉強しておいてください」と答えました、当たり前のことです。だって、中学高校では、数学や英語が苦手で勉強してもできなかったからと言うのですから)。

 だって、その学生は、日本語もほとんどできないのです。「N2」くらいになって日本に来て、数学や他の科目もというのなら、判らなくもないのですが。そういう人の場合、普通、日本語の習得だけで、日本語学校での勉強期間は終わってしまいます。それ以上のものを学ばせたいと、いくらこちらが思っていたとしても、出来ないというのが実情なのです。

 もちろん、これにも例外はあります。日本の高校と中国の高校とでは数学や物理、化学において、学習分野が多少異なっています。母国で、高校在学中に、数学や物理、化学が好きだったという学生は、日本語が「N1」レベルに達している場合ですが、日本人相手の予備校に行くという方法もあります。かつて、そうして成功した学生もいました。とはいっても、彼女の場合、理数系の頭を持ち、しかもその分野に秀でていたからこそ、できたことであって、誰でもできるかというと、これは難しいことですね。

 しかし、国ではどうにもならなかったという学生の場合、日本語の力も、他の学生ほどには早くつきませんから、日本語学校の一年半かそこいらの学習期間で、「N1」に合格することも難しいでしょう。

 もし、「数学や英語も」と思うのなら、母国である程度は身に付けてから日本に来た方がいい。知っていることをそのまま日本語に置き換えるだけなら、それほど時間のかかることではありませんし、一人作業もある程度はできるはずですから。

 時々、学生だけではなく親御さんの方でも勘違いしているなと思われることがあるので、困ってしまいます。

日々是好日
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「非漢字圏の学生について」。「癒してくれた卒業生」。

2012-03-23 12:53:04 | 日本語の授業
 曇り。空は厚い雲に覆われています。けれども、どこかしら優しく和らいで見えるのは、それが春の雲だからでしょうか。

 昨日の午後は、非常に慌ただしく過ぎていきました。卒業生の中に一人、大学を除籍になった者がいて、そのことで学校の教員が一人、奔走していたのですが、一昨日は大学の方へ行っても、卒業式で会えない(本当は、事前に連絡したとき、会ってもらえるということだったのですが)、それで昨日もう一度出直して話を聞いてきたのです。

 その折りに「除名処分取り消し願い」は、通知後十日以内ということを、初めて知って、急遽、駅から連絡が入りました。それで、私が、学校に戻って来た卒業生を指導して書かせることになったのですが、午前中は9時から12時半まで「Eクラス」で授業していたので、私の頭は、「初級Ⅰ」の20課状態。普通の状態に戻すのに、少し時間がかかりました。

 彼女らが戻ってきたのは、一時過ぎ。それからまず卒業生に、書かねばならないことを自分で書かせ、それを私がまとめていくことにし、直ぐに作業に取りかからせました。もう一名の教員は学校からの「お願い」を書きます。

 しかし、その前に、教員二人で「お願い」の文章の長さを相談します。「だいたい原稿用紙二枚ほどがいいだろう。あまり長すぎても読んでもらえないだろうから」。ところが、学生が書いたものを読んでいるうちに、彼女が日本へ来るに至った理由から、来日後の学校での授業の様子、また友人達とのやり取り、そしてその大学に受験するにあたっての指導の時のことなどが、そこかしこから浮かび上がって、走馬燈のように流れ、溢れてきました。

 こうなると、もうなかなか自制できません。どうして日本へ来たのか、日本へ来るまでにどれほど待ったのか、そして来日してからの努力のことなど、一つ一つを書いておかねば気が済まなくなりました。

 彼らは、確かに日本ではアルバイトをしなければ大学にも行けませんし、生活していくのも難しい。けれども決して貧しい家の子ども達ではないのです。母国ではお金に困ったとか、買いたい物が買えなかったとかいう覚えは全くない人たちなのです。

 「学費がなかなか払えないから、貧乏人だろう、金がないのだろう。だからアルバイトを紹介してやればうれしがるだろう、助かるだろう。そう思っていろいろしてやったのに、感謝もしない、ふといヤツだ」というのは、彼らの心持ちを理解していない考え方に思われるのです。

 彼らが、かつての日本人や、かつての中国人のように「働き、同時に勉強できるか」というと、それは無理なのです。そんなことをせずとも何でも手に入ってきた…そういう育てられ方をしている人たちですから、アルバイトをしているといっても、それは彼らにしてみれば、もういっぱいいっぱい、ぎりぎりの、限度状態で働いているのです(大した時間働いていないように見えても)。

 本当に南の国から来た人達、特に日本語学校に、きちんと勉強してから入ってきたような人たちや、彼らの国で大学を出てから来ているような人達は、勉強は、ある程度、頑張れるけれども、今、働いている以上に働けと言われても、その方が金が儲かっていいだろうと言われても、無理なのです。疲れてしまって、体力が続かないのです。

 しかも、権威に阿らないでも生活できてきた人たちですから(もちろん社会に出たことのある人たちは違います。そういう人たちなら、「ここでは誰が偉いのかな」とか、「誰の機嫌を取っていれば自分が得をするだろうかな」とかいった智慧はあるでしょうが、彼らはせいぜい大卒で日本に来ていますから、そういう世故に長けた部分もありません。留学許可が出るまで、働いたことがあるといってもせいぜい肉親の会社にいたくらいのもので、必死に働かなければ今の生活を維持できないとか、どうにかしてのし上がろうと足掻いている人たちとは違うのです)、好きなことを勉強したいだけなのです。自分の勉強に関係のある人は好き、そうでなければ、どうしてそういう人たちと話さなければならないのかさえ、納得は出来ないのでしょう。

 私たちも中国だけでなく、そういう南の国の人たちが入ってきた時に、あまりの文化の違い、習慣の違い、そして対処した時の反応の違いなどに、衝撃を受けました。そしてどうして勉強させていったらいいのかに悩みました。まあ、悩み半分戸惑い半分でしたが。けれども、いろいろな教え方やカリキュラム構成などを、彼ら向きに考え直したり、非漢字圏の学生向けの副教材などを、在学中の学生の様子を見ながら作っていったりしました(当時、作ったもので、使うまでに至らなかった教材はたくさんあります。けれども、別の国の学生が来た時にそれが役に立ったりしたことがあるのです。あのときの実験は決して無駄ではなかったと思います)。


 これは教員一人が努力すればどうにかなるというものではありません。あくまで当時学校にいた教員皆で話し合いながら、試行錯誤していった結果なのです。そしてあれから七八年ほどにはなるでしょう。だいたい、どういう非漢字圏の学生たちが来ても、どうにか対処できるようにはなりました。

 けれども、これも毎日(学生たちと)顔を合わせ、相応しくないと思えば、翌日にはやり方を変えられるという状況の下での四苦八苦だったから、どうにか曲がりなりにも形を整えることができたのだろうと思います。もし、学生たちとの距離が遠かったら、それでも、こういうことが出来たかというと、それは私にもわかりません。

 中国人学生へのやり方は、もちろん文化は非常に違うところもありますが、勉強に対する考え方は同質と言ってもいいでしょうから、彼らとはこの面で対立することはありませんでした。つまり勉強しない学生がいたとしても、彼らには(教員に)言われたとおり勉強したほうがいいということは判っていたのです。

 しかし、例えば、「漢字を書いて練習します」と言っても、10回ほど書いて、「覚えた。もう手が痛いから書きたくない」と言う人に、「直ぐに忘れるから毎日書きなさい」と言っても無理なことなのです。漢字は書かなければ直ぐに忘れるということが飲み込めないのですから。適当なところでテストを繰り返し、直ぐに忘れてしまうのだと言うことを判らせてから指導しなければならぬのです。

 漢字一つの指導でもそうです。象形、指事などは楽でも、その他のものになると、日本語のレベルに合わせて、またクラスの人員構成なども鑑みながら、進度や内容をその都度変えていかなければ、なかなか覚えてくれないし、まず読めるようにもならないでしょう。

 勉強だけではなく、生活指導も大変です。これは国の数が増えるほどに面倒になって行きました。その上、年ごとに変わる、同一国出身の人数の多寡が微妙に指導に影響します。ベトナム人学生が多くなった最初の頃は、課外活動へ行く時でも、いちいち彼らの部屋へ行き、起こし、連れて行くという形を取らざるを得ませんでした。が、今ではそれはやめています。

 なぜかと言いますと、やめても大丈夫(本当は大丈夫ではないのですが)になったからです。これは学生が慣れたというより、私たち教員の方が、ゆっくりと変化に対応していくしかない彼らの習慣に沿う形になったといったほうがいいのかもしれません。

 はっきり言いますと、最初は待てなかったのです。彼らが日本に慣れるまで待てずに、日本人的な考え方で、そしてやり方で、「あなたたちが遅れると、待っている人たちは迷惑する。それはいけないことだ。それに、いろいろな所へ行くのはとてもいいことだから、絶対に行った方がいい」でやってしまっていたのです。多分彼らは「押しつけだ」と思い、「ああなんて嫌な人たちだ」と思ったことでしょう。

 焦る必要はなかったのです。いいかどうかは、既に子どもではない彼らが、ある程度の知識のもとに決めてもよかったのです(もちろん、能力のある学生には、強制しました。こういう学生は一度行くと、二度目にはもう、強制する必要はありませんでした。必要なことは自分で判りますから。けれども、ここで言っているのは、アルバイトをしてしまうと、直ぐに勉強の方が疎かになり、アルバイトがなかったらなかったで、ぶらぶらとしてしまい、勉強が疎かになるという、ごくごく普通の学生のことです)実際には、こういうことは、彼らが日本に慣れてくれば自然に判ってきます。

 学生も変わっていきますが、私たち教師の方でも、学生たちの状況や気持ちに添うような形で変わっていかなければならないのです(そうは言いましても、何事にも限度があります)。目の前に見え、しかも毎日彼らと会い、話しているのですから(小さい学校ですから、教員は学生を皆知っています。誰が今日休んだとか、誰がどこでアルバイトをしているとか、今どんな問題を抱えているとか)。もちろん知らないこともたくさんありますが、彼らが言いたくないことは言わなければいいだけのことで、困っていなければそれでいいのです。とはいえ、大概のことは聞けば話してくれます。

 昨日の後遺症でしょうか、いろいろ愚痴をこぼしてしまいました。
昨日の午後は、シッチャカメッチャカに忙しく(3時過ぎまで)、せっかく来てくれた卒業生二人とも話すことがあまり出来ませんでした。けれども彼らはよくわかってくれていますから、「先生、ちょっと散歩してきますね」とこちらに気を遣ってくれていました。

 それから大学院に行くために週に2日ほど来る事になっていた学生の面倒をみることが出来ませんでした(彼は3時からアルバイトに行かねばなりません)。それに一人、何か相談があって来たのでしょうか、「Dクラス」の学生の話を聞いてやることも出来ませんでした。

 ただ最後に、私が帰る頃のことなのですが、「今日、大学院の修士課程を無事に卒業できました」と、卒業生が一人、挨拶に来てくれました。彼女は、これから上海に戻って活動を始めるそうです。

 昨日は一日中、「忙不过来」で、予定していたことが何もできずに、イライラしていたのですが、彼女の卒業と、そして二人の卒業生達が見せてくれた立派な成績が何よりも疲れを癒してくれました。ありがとう。

日々是好日
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「一日で、冬から春へ」。

2012-03-22 08:56:47 | 日本語の授業
 今日一日は、冬から春を経験することになりそうです。朝は、「寒さの冬」、陽が上がるにつれ、気温も上がり、そして15度を超えると、「ポカポカ陽気の春」になります。「これ、小判。たった一晩いてくれろ」ではありませんが、それに近い気持ちになってしまいます。

 今朝、テレビを見ていると、桜から取り出して色素を使って染め上げた作品を作っている作家と、その作品を売っている店とが紹介されていました。

 冬芽のついた桜の小枝から、二ヶ月以上もかけて色素を取り出し、それをまた寝せたり、かき混ぜて空気を入れたりして、濃い赤にしていくのだそうです。そして最後には、布を浸せば、桜色に染めあがるようになるのだそうなのです。バックからスカーフなどの小物に至るまで、優しいピンクが店を軟らかく包んでいました。

 日本には、桜だけにとどまらず、そういう樹木や草花を使った染色家は少なくないようですが、この時期は、色は様々あれど、やはり桜でしょうね。春になると人は桜色が恋しくなるもののようです。

 実は、学校から道を二つ三つ曲がりしたところに、小さな民家があるのですが、ここの桜が、実に見事な「枝垂れ」なのです。しかも今頃(三月に入ってから)は枝振りのいい白梅が咲いているのです。その上、その奥にも、おそらくは藪椿でしょうか、ツバキが植えられていて、ゆかしく咲いているのです。

 これらは垣根の上にまで伸びているので、遠くからでもよく見えます。というわけで、三月に入ると、学校へと曲がる道を一つ先まで延ばして、この民家の花々を鑑賞させてもらってから学校に来ることに、勝手にさせてもらっているのですが。

 立派な木々があるお宅は、ある意味では、常に、人に覗かれる運命にあるわけで、その意味では、大変お気の毒だし、少々罪の意識が(心の奥底で)疼いてしまうような気がしないこともないのですが、やはり非常に美しいものは、すでに人間の手を離れていると思ったほうがいいのです。ですから、古代から人はその存在を崇め、大切にし、「霊魂」が宿っていると見たり、「神」に近い存在と見なしてきたりしたのでしょう。

 このお宅の、特に、「枝垂れ桜」は、桜の色が濃く、道行く人が常に見上げ、感嘆のため息を漏らす存在となっています。

 どこまでも桜が続いているかに見える桜並木も、そして一山すべてが桜色に染まるというのもすばらしいものなのですが、桜の、ただ一木だけに酔うというのも、またいいものなのです。ただ昨今は、桜が好きな人も、それほどではない人も、皆、同じように花見に出かけ、桜を楽しむというようになっていて、あの老木を見たいと思っても、人が多くて(自分のその混雑の一因を作っているので、あまり大きな声では言えないのですが)なかなかそうできないということもあるのです。

 ただ、今年は、桜が思わず、今日の暖かさにホロリと酔って蕾が和らがねばよいと思っているのですが。

 なぜかといいますと、実は、今月の30日から4月3日まで中国に行ってくるのです。その間に桜が開くというのは辛い。それに入学式は4月10日です。この日にあわせて、4月生は来るわけですから、花見に行くのはそれ以後にしないと(4月生がかわいそうですから)まずい。なにせ、私たちにしてみれば、花見は一大イベント。富士山旅行やディズニーランドよりもその存在は重いのです。だって桜は油断できないのです。一週間後と聞いていたのに、もう開いたとか、開くと聞いていたのに、まだ蕾だったとかいう時が多いのですから。特に去年の3.11以後はそういう気持ちが強くなっているような気がします。

 ああ、今年も美しいものを見ることが出来たという気分になりたいもの。「美しいものは数あれど、桜に勝るものはなし」。これも、年老いたからでしょうか、それとも眠っていたミームがあの震災によって目覚めたことによるのでしょうか。

日々是好日
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「綻び始めたジンチョウゲ」。「赤の日は休み」。

2012-03-21 16:51:07 | 日本語の授業
 快晴。7時前にはまだ灰色の雲が空一面に広がっていましたのに、30分ほども経ちますと、すっかり青空になっていました。ただし、風は冷たく、空気はまだまだ冬のものです…と思っていましたら、学校の「ジンチョウゲ(沈丁花)」の花がほほえみ始めていました。まだ一つか二つくらいのものなのですけれども、学生たちがいないのが残念でたまりません。秋、「キンモクセイ(金木犀)」が甘い香りを漂わせたとき、いち早く、それに気づいて、騒いでいましたから。

 その時は、「中国にもある。鉢植えで見た」と言ったので、却って私たちの方が驚いてしまいました。故郷の我が家の「キンモクセイ」は、植えてから20年ほども経つのですが、すでに4,5㍍くらいになっています。それを聞いて、「そうか、内モンゴルでは『キンモクセイ(金木犀)』は鉢植えなんだ…」。

 もちろん、中国は広いので、南の方では日本と同じように大木になるのでしょうが。

 さて、昨日は祝日でした。その前の日、月曜日のことです。授業が続いている「Eクラス」で、一人が、「先生、明日は休みですか」と聞きました。すると、一斉にクラスがざわめいて、それから「ほんと?」「どうして?」という顔つきで私を見つめます。

 「この日から春が始まります」なんて言っても、「非漢字圏」の人が大半を占めていますから、却って、わけがわからなくなってしまいます。どうしてこの日が休日になっているのかというのを説明しても、判ってくれるようになるのは、「初級Ⅱ」が終わってからくらいまでしょうから、今は説明何ぞはいたしません。

 つまり、「初級Ⅰ」の間は、「はい、赤の日だからです」で、説明終わりにさせてもらっています。もちろん、どうしてかと聞く学生がいれば、それなりに説明はします。けれども、私はタイ語もベトナム語もわかりませんし、シンハラ語もわかりません。彼らも互いの言語はわかりません。共有している言語は、日本語だけです。ただ、それで説明するのは、不可能に近いということで、時期が来るまで、だいたいはこうやって逃げさせてもらっています。

 そうは言いましても、いつの間にか、説明しても判るようになっていますし、私が説明を忘れても、アルバイト先や日本人の友達から仕入れてきて、皆に説明を始める者も出てきます。

 それはそれでいいのです。問題があれば、こちらが直せばすむことですし。何でもそうですが、人によっては一年ほど日本にいても、まだまだ自国風の理解の仕方をしていることもあります。これらは、、本人の感性や知性の問題であることも確かなのですが、それ以外に、日本語のレベルの問題であったりする場合もあるのです。

 日本にいて日本語学校に通っているのですから、やはり、日本語をきちんと勉強するつもりになった方がいいででしょう。その方が、いろいろの意味で、日本での生活が有意義なものになるでしょうし。そうまで思わなくとも、暮らしやすくなることは事実です。

 もっとも、これがわかる頃に、卒業…なんてこともあるので、油断は出来ないのですが。

日々是好日
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「葛西臨海水族館にて」。

2012-03-19 08:54:07 | 日本語の授業
 快晴。但し、風が強い。まるで冬の北風です。早朝の気温は、5度前後と出ていましたが、この風です。体感温度はぐっと下がっていることでしょう。

 とはいえ、陽射しは強く、学校の「ジンチョウゲ(沈丁花)」の蕾にやっと変化が現れてきました。すこし膨らんだかなといった程度なのですが、皆が今年は桜が遅いと言っていますので、これだけでも春が近づいたことを実感できて、いいのです。

 さて、先週の金曜日に、皆で、「葛西臨海水族館」へ行きました。行徳駅から葛西駅まで東西線で行って、それからバスで葛西臨海公園まで行きます。四月になれば桜並木の中を水族館へ向かうことになるのでしょうが、今はまだ裸のままです。学生たちは、「これがサクラの樹だよ」と聞いても、ピンと来ないらしく、桜とは何ぞやという顔をしています。

 けれども、連れて行ってよかった。「三月は、水族館に連れて行ってはどうだろうか」という提案がなされたとき、場にいた教員は皆、「う~ん」。二年前のショックは大きかったようです。

 ところが、二年前と違い、上天気でした。ただ上天気すぎて、海は靄がかかったようになっていたのが、難と言えば難。もちろん、贅沢は言えません。雨でなかっただけでもよかったのです。

 教員がチケットを買いに走っている間、学生たちは入り口においてあったカツオの等身大の模型の前で、写真を撮ったりしています。そのうちに、そばに置いてあった魚やワニの帽子を被って大はしゃぎ。今度はこれを被ってカツオの横に並びます。そしてまた写真。中には、去年のディズニーシーに行く前に見た「ニモ」のことを聞いたりします。「先生、ニモはどこにいますか」。

 中に入ると、ニモを見つけてまた大騒ぎ。「ニモは小さいです」とわざわざ言いに来た学生もいました。皆で騒いだのもそれまでで、いつの間にか、「タツノオトシゴ」や「ヒトデ」など、一風変わった魚たちにを見つけては、写真撮影に没頭するようになりました。

 一人、「先生、先生これは何ですか」と、大きな「ウツボ」の腹を指さす学生がいました。このウツボは1メートル以上はあるツワモノでした。岩の間に入り込んで、外からは大きな腹しか見えません。あの顔と歯が見えたら、きっと大騒ぎになったことでしょう。

 みんなの周りを回りながら、それぞれが自分たちだけで楽しみ始めたので、「よかった、よかった」と、私は私で楽しもうとしていますと、どこやらで笑い声が起こって、私を呼ぶ声が聞こえます。「先生、先生、早く来て。先生がいる!」

 こういう時は心の準備が要ります。それでまず、遠くから見てみると、小さな小さな、親指の半分ほどの魚を指さして、ワーワー言っています。どうも私と見比べているようです。おもむろに行ってみると、「なるほど、なるほど、小さな『フグ』がわたしなのね」でした。「なんだ、かわいいじゃないか」と言っても、「えっ、ホントにかわいい?いやあ、かわいくない。先生です」。懲りない奴らです。

 後で聞いてみると、教員それぞれを模した魚がいたようで、まあ、こういうのも確かにおもしろい楽しみ方…ではあります。「フグ」にたとえられた身としては、これに、不満がないわけではないのですが。

 「マグロ」の水槽の前が、休めるように、いすの階段になっていましたので、そこで一休み。マグロの群れが回遊しているのを見ながら、ウトウトとまどろんでいる学生もいました。さて、次はペンギンを見て、そして「エイ」や「サメ」を触ってみるコーナーへ行ってみます。

 「エイ」は、軟らかく、「サメ」は、鮫肌そのものの肌をしていました。魚たちが病気にならないように、まず、きれいに手を洗ってから水槽の中へ手を入れてみます。

 大半の学生たちは、母国で水族館に行ったことがないと言いましたし、魚を素手で触ったことがないという学生もいました。生きて泳いでいる「エイ」や「サメ」を触ってみることにどうも怖じて、なかなか手を伸ばせないでいたり、手を入れてみても魚が近づいてくると途端に引っ込めてしまう学生もいました。

 というわけで、水族館慣れして、いつも水族館で「ヒトデ」や「カブトガニ」などを触っていた私の出番です。「おう、やはり『サメ』は鮫肌だ」とか、「よく見て、『エイ』はかわいい顔をしているよ」などと言っているうちに、両手で持ち上げようとしたりする学生まで出てきました。魚と親しんでくれるのはいいけれど、それはちょっとね。直ぐに喝!です。

 しかし、慣れというのは恐ろしいもの。いつの間にか学生そっちのけで、魚さんと遊んでしまいました。「もう、出ますよ」という声に、はっと我に返り、名残惜しげに水族館を後にしたのでありました。

 東西線で行くと、バスを使わなければなりません。けれどもJRでしたら、電車だけで帰れます、少し時間はかかりますけれども。帰りは、直ぐにアルバイトに行かなければならないという学生にあわせて、皆でJRにしました。

 水族館でも、たくさん写真が撮れました。どの顔も教室にいるときとは別人のようにニコニコしています。来年の卒業式用の写真がまたたくさん撮れました。

日々是好日
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「葛西臨海水族館」。「よく休み、よく学べ」。

2012-03-16 08:47:47 | 日本語の授業
快晴。
 「ヤナギ(柳)」の葉が、随分、芽吹いてきました。枝の「茶」よりも「緑」の色の方が目立つようになっています。「ヤナギ」の葉の新芽は本当にあえかな若草色であるにもかかわらず、重い茶よりも強く目に残るのですから、不思議な気がします。

 さて、今日は「葛西臨海水族館」へ、皆と一緒に行ってきます。午後のクラスの学生たちも、今日は「九時」に駅に集合となります。そして今日の課外活動が終わると、4月9日の新学期まで、春休みです。

 以前は、こういう休み(春休み、夏休み、冬休みなど)を短くして、あるいは休みとしても補講を多く続けようと努力していました。なぜなら、日本語学校で学ぶ期間は、ある意味ではあまりにも短く感じられたからです。

 「いろは」から始めた学生もいました。母国で一般的な知識を身に付けているとは、とうてい思われない学生もいました(もちろん、国によって高校までに学習しておかねばならないとする知識技能の量は違います)。どういう学生であれ、上級の最初くらいまで入っていないと、DVDを見せても、「留学生試験に出てくると見られる内容」のものを読ませても、またグラフやデータを見せても、なかなか理解してもらえないのです。

 ですから、漢字圏の学生はともかく、非漢字圏の学生たちに、それを日本語で聞き取り、読み取ることがある程度できるまで行かせてからと、欲張っていました。

 例えば、そういう学生が、10月に来たとします。非漢字圏であれば、漢字を習得する時間も要ります。文法事項や単語などを覚えるだけでなく、文章レベルのものまで読ませておかねばなりません。高校を卒業しただけの学生にとっては、かなりきつい作業なのです。

 アルバイトをしながら、必死に学校で勉強していたとしても、一年程度では、留学生試験で出る問題、特に作文ですが、問題を読み、理解し、そして自分の意見を述べるというのは、並大抵の力で出来ることではないのです。

 それ故に、私たちも随分欲張っていました。この学校にいる間に自分たちの出来る限りのことはやっておきたい。出来るだけいろいろなものを学ばせたい、身に付けさせたいと思っていたのです。

 ある意味では、これは独りよがりのことであったのかもしれません。こういう私たちの期待に応えるには、もちろん、彼らの環境が許さないということもあったこともわかっていましたけれども、どうも自分の中では「もっと、もっと」という気持ちが強くあったのです。

 それが、学生たちに却って重荷となっていたのではないかと、そういうふうに最近感じるようになりました。

 教師というのは因果な商売で、「自分ならできる」ということを相手に強要するのではありません。「この人なら出来る」という思いで、「自分に出来ないこと」も強要したりしてしまうのです。それが、時には相手にとって(期待に添えないという意味で)辛いことであったり、却って、だめだと諦めてしまうということもあったかもしれません。

 能力からいえばできたであろうけれども、こういう環境では疲れ果ててできないということもあったでしょう。

 国で働いたことなど全くない、高校を卒業したての若者が、日本に来て、まだ日本の生活に慣れる前に、学校の勉強が終わってから、工場で、一日四時間ほども働いたとします。初めのころは、だいたい一ヶ月ほどでしょうか、もうこれだけで、自分の一生分の苦労を背負い込んだようになってしまうのです。

 工場が遠いということもあるでしょうが、無理は出来ないのです。以前の中国人であったなら、(自分で)顔をつねったり、立ったり、何度も顔を洗いに行ったりして、彼らよりもずっと辛いことにも耐えられたと思います。

 けれども、南国の人たちはそういうことは、多分、考えられないでしょうし、それだけでひしゃげてしまうのでしょう。

 日本に来て、勉強したいというのは本当でしょうし、頑張ろうと思ってやってきたでしょう。それは本当だと思います。ただ、ちょっと、風土が違うのです。一生懸命という度合いが違うのです。

 まあ、別にこれだけが、「休むときは十分に休ませ、勉強する時は多少無理をさせても勉強させるようにする(その準備をさせる)」と、宗旨替えした理由でもないのですが。

日々是好日
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「大学との交渉」。「帰国した学生と」。

2012-03-15 09:36:55 | 日本語の授業
 快晴。きょうは昼には、気温も13度ほどに上がるそうで、こうなりますと、もう頭の中は「サクラ、サクラ、サクラ」です。ただ「サクラ(桜)」の前に綻ぶはずの花々がまだ堅いつぼみのままなので、どうも今ひとつ乗り切れないでいるのですが。

 さて、昨日は、朝からてんやわんやでした。

 私は、朝は、9時から10時45分まで「Eクラス」、それから11時から12時半までは「Cクラス」、そして午後は2時55分から4時45分まで「Dクラス」と、授業が続いていましたので、合間合間にしか聞くことができなかったのですが、ビザの期限の迫った学生の入学許可書の件で、学校では大学側と交渉を(これは二三日前からです)続けていたのです。が、それが、交渉しているうちに、なんとこの大学で、ここの卒業生が学費の滞納のために、除籍になっていたことがわかり、あれやこれやで、交渉の際に、また別の一言を付け加えたり(両方の意味で)と、一件が複雑になり、それなりの落着を見せるまで、担当していた教員は、一日中、ずっとそれに振り回されていたようなのです(今日は他の仕事が何も出来なかったとため息をついていましたから)。

 大学側との交渉の結果を学生に連絡し、まずは今日できることは、皆、して仕舞ったと、彼女が言ったときには、思わず、(残りの二人の教員が)彼女に「お疲れ様。大変だったね」と言ってしまいました。言ったからといって疲れが取れるわけではないのでしょうが、それでも言わざるを得なかったのです、二人とも。

 「学生を育てる」という意識がどれほどあるかで、教育機関としての意味は変わってきます。もちろん、どう、こちらが努力しても、どうにも変えられない、あるいはこちらの言わんとすることの意味が汲み取れないという学生もいます。それは重々判った上でのことなのですが(これも、大半は日本語の能力次第だと思います)。

 二つの問題のうち、一つは(大学側に)考えていただけました。けれども、もう一つの方は既に決定がなされていると言うことで、どうにもできませんでした。もう少し早く学生の状況が(こちらに)判っていればと悔やまれます。この学校にいるときには、一言か二言は返ってくるものの(いわゆる口答えです)、けれども決まったことにはきちんと従える学生でしたから。「こうしなければならない」ということさえ、きちんと伝えられれば、その通りにしていましたから。

 というわけで、今日、二人は大学へ行き、入学手続きをしてもらい、そのうちの、一人は、できれば、今日、無理なら、明日、入管の方へビザの申請に行く予定です。

 それから、もう一つ、これは嬉しい話です。

 去年の東日本大震災、そしてそれに続く原発で、帰国した学生の中に、(一年ほど日本で頑張っていた中国の)高校を卒業したばかりの女の子がいました。その時、一緒に帰国したもう一人は、両親が「もう(日本に)戻ってはいけない」と言うから戻れないと言っていたのですが、彼女の場合は、両親が(国に帰る直前に)「元気な顔を見せた後はまた日本に戻ってもいいと言ってくれた」と、にこにこ顔での帰国でした。

 ところが、帰国後、二人は全く逆の道を辿ってしまいました。「戻られない」と言っていた一人は二ヶ月ほども後に、「やっと両親を説得した」と戻って来たのに、「戻る」と言っていた彼女は、帰国後、家庭の事情で戻れなくなってしまったのです。

 日本人は簡単に海外旅行ができます。夏休みの間、アルバイトをすれば、それくらいの旅行資金は貯められます。けれども、国によっては、往復の旅費だけでも、かなりの負担になることもあるのです。帰国の前まで、貯めていたお金も、それで消えてしまい、戻ってきたとしても、また一から始めなければなりません。

 もちろん、日本で一年ほども勉強しているのですから、コンビニで働けるほどにはなっています。なっていますが、大変であることにはかわりません。その覚悟がいくら学生の方にあっても、家の方でもお金が必要になってくると、自分が学費の足しにしようと貯めていたお金でも、自由に使えなくなってしまいます。

 というわけで、彼女が元気でいるかどうかが、とても心配だったのです。が、彼女が帰国してから、日本に残してあった銀行預金を送ってもらえないかとか、そういうやり取りはあったものの、その時の彼女の様子に、ちょっと私たちも立ち入ることができないような、そんな雰囲気が感じられたのです。

 それでも、今週の月曜日は「卒業式」で、皆でこの二年間の「DVD」を見ていると、随所に、明るい顔をして笑っている彼女の顔がありました。

 それで、もしかしたらと教員が電話してみると、一人の男性が出てきました。その人に「○○さんを知っていますか」と聞くと、「私は彼女の父です」という返事。それで「今、○○さんはどこにいますか」。「今日、戻ってくる」と言うのです。さあ、それからが大騒ぎ。結局、明日、同じ頃に電話をかけるから、彼女にはどこにも行かないでくれと頼んでおいてくれということで電話を切ったのですが、内心ではうまく連絡がつくかしらんと少々不安でした。

 ところが、神様は考えていてくださったようです、翌日、彼女はちゃんと待っていてくれてました。そして、その場にいた教員三人と話をし(まだ日本語を覚えていてくれました)、「終了証書」や「写真」、DVDなどを送るからと、住所の確認をし、わからなかった郵便番号を聞きました。

 元気で働いているようでしたが、「□□さんは、大学に行った?」と尋ねましたから、やはり日本で大学に行きたかったのでしょう。彼女は子どもが大好きで、保母さんか幼稚園の先生になりたいと言っていました。もしまだあのまま日本にいられたとしたら、教育系の大学に入れたことでしょう。どんなに辛くても、学校を休まないで勉強していたくらいの頑張り屋さんでしたから。

日々是好日
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「卒業式後のパーティで」。

2012-03-13 13:19:31 | 日本語の授業
 快晴。ただし、風は冷たく、「寒の戻り」と言われる一日になりそうです。最高気温も10度に届かぬとか。

 さて、昨日の「卒業式」です。保育園、幼稚園は言うに及ばず、小中高と、「卒業式」なるものを経験したことのない学生が多いという現実が、そう言わしめているのかもしれませんが、こういう小さな学校の、それこそ手作りの「卒業式」に、皆、いたく感動してくれたようです。式後のパーティで、在校生から始まり、最後に卒業生たちが「一言」を言ってくれたとき、必ずと言っていいほど、式、並びに式後のパーティに対する感謝の言葉が入っていました。

 この日本語学校に来ている学生達の出身は、主に、新興国やと途上国といわれる国なのですが、普通、そういう国から来た学生たちは、何にしても、規模の大きさとか、どんなに金をかけているかとかいった点に目を向け勝ちです。ところが、そうではなかったのですから、ちょっとびっくりしてしまいました。

 日本でもそういう人はいるでしょうが、それよりも、日本人の間には、「そういうものはもう飽きた。金や権威で買えないものがほしい」という気分の人たちの方が、案外、多いのです。「手作り」をうたい文句にしている所もあるくらいに。

 ただ「手作り」はいいとしても、問題は、準備しておく食べ物のことなのです。
 この日は、フィリピン人学生が、フィリピン料理を作って持ってきてくれ、それはみんな大喜びで食べたので、「ああ、こういうのは、大丈夫なのだ」というのが判った…くらいだったのですが。

 以前、「端午の節句」のころ出した「草餅」はだめでした。だれも手をつけませんでした。それなのに、次に出した「シュークリーム」は、大受けで、それでいい気になって、次の次の時にもこれを出すと、「これ、おいしくない」と言われてしまいました。全く、何が受けるのか判りません。その都度、一発勝負のような気がしています。

 総じて、ベトナム人学生は、日本食がだめと見えます。そのほかにも、肉が少しでも入っていたら、食べられないというバングラデシュ人学生もいましたし、海産物の匂いが全くだめで、小さな小さなエビ(味付け程度)が入っていると言ってタイ風焼きそばが食べられなかったインド人学生もいました。

 現在、この学校には、留学生、在日生で、総数38名しかいないのですが、彼らの祖国は、フィリピン、中国、ネパール、ミャンマー、タイ、バングラデシュ、インド、モンゴル、スリランカと、10カ国にも及んでいます。多いときは、15カ国くらいから来ていたときもありましたっけ。

 個人的な好みだけでなく、宗教や風土習慣の違いから来る制約もあるようで、なんとも言えない部分もあるのですが、二年かけてやっと寿司が食べられるようになった人もいました。

 彼らは、この日本で、いったい何を食べているのだろうという気にもなるのですが、そこはそれ、故郷から送ってもらったり、友人知人から教えてもらった物産展で手に入れた調味料などを使ったりしているようです。つまり、だいたいは、自分で、あるいは友人と一緒に故郷の料理を作ったりしているので、日本食なんぞを食べる機会もないのです。

 だから、皆が同じように喜んで食べられるものなんて、ないのでしょう。ケーキやお菓子でお腹を脹らますしかない学生もいたようですが、それでも、みんなで、この二年間のDVDを見たり、皆の「一言」を聞いたり、歌ったり写真を撮りあったりして、それなりに楽しめたようです。

 それに、在学生達です。相対的に、皆、よく手伝ってくれたのですが、日本にいる期間が長い学生ほど、身体も動いていたようです。あまり授業中は活躍の場がない学生たちでも、思いがけない姿を見せてくれました。問題は日本語だけなのです。「(その壁さえ越えられれば)、おぬし、できるな」で、(こういう人たちは)多分、日本でもどこでも生きていける人たちなのでしょう。

 彼らは、もう少し経てば、(本人が望めば)日本のレストランや食事処でアルバイトができるようになるでしょう。本当に、何事も繋がっているのです。見えないところに始まりはあり、見えたときには、終わりとなっているのかもしれません。

日々是好日
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「快晴。今日は卒業式」。

2012-03-12 09:10:20 | 日本語の授業
 晴天。全くどうしてこうも、この人達はお天気に恵まれているのでしょう。一週間前から、お天気予報とにらめっこしていました。「雨かもしれない」から始まって、「いや、ぐずつくくらいで終わるかもしれない」、それが、「どうも雨は夕方かららしい」、「いやいや、雨は降らないらしい。まっ、いいか、曇りでも」、そして、今日、雲一つない上天気です。「天晴れ」と、日の丸印の扇子を振り回したくなるほどの「快晴」です。おまけに風もありません。

 思えば、去年の四月から、こうでした。一昨年は四月の初めから、去年の三月の卒業式まで、破天荒のお天気が続きました。ずっと雨、雨、雨。しかも、最初の課外活動が、バケツの底が抜けたのではないかと思われるほどの豪雨で始まり、最後は「3.11」の大地震でした。

 それに較べ、この人達は、本当に、お天道様の「愛子」ではないかと思われるほどの、「晴れ女・晴れ男」衆です。

 というわけで、今日は「卒業式」です。

 在校生は10時に来て、10時半からお手伝い、そして卒業生は、12時半ころに登校する予定です。

 さて、どんな卒業式になりますことやら。

 日々是好日
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「オオナマズの地震」。

2012-03-09 14:50:26 | 日本語の授業
 小雨とも言えないような雨です。最近は人が動き始める頃にこういう雨が、よく降ってくるような気がします。かといって、「(傘を差してもむだだから)、濡れて参ろう」とまではいかず、傘を差しては、また落とし、また差しといった具合に、お空のご機嫌を伺いながら歩くことになってしまいます。

 さて、学校です。
 ゆるやかに時は流れ、また卒業式がやってこようとしています。去年はちょうど式が終わり、在校生がパーティの準備をしていた頃に、例の「3.11」の揺れが来ました。

 私は卒業生達と一緒に一階にいたのですが、窓から、向かいの駐車場に停められていた自動車が、ピョンピョンとジャンプしているのが見えました。揺れを感じるや否や、津波を経験していたスリランカの学生は、直ぐに窓から外へ飛び出そうとします。それを、「今は危ない」と押しとどめ、とにかく、皆の恐怖心を和らげねばと、「揺れてるぞ。みんな大丈夫かな。立っていられるかな」などと、(今から思えば少々不謹慎であったのですが、当時はそれどころではなく)笑いかけたり、冗談を言ったりして、大きな揺れが一応収まるのを待ちました。

 一階の卒業生組はそれでも、済ませられたのですが(二年ほども日本にいて、いろいろな情報を既に得ていたということも関係していたでしょう)、パーティの準備をしていた三階の在校生の方ではそれどころではなかったらしく(この中には来日してそれほど日の経っていない学生もおり)、日本語もそれほどわからず、しかも日本についての知識もありませんから、恐怖心がいやが上にも膨れあがったことでしょう。

 揺れのために、せっかくきれいに盛りつけ、セットした食べ物まで飛び散っているわけですから。それを目にし、しかも一階よりもさらに揺れが大きかったでしょうから、それこそ、もうみんな必死に、転がされないようにその場にしゃがみこみ(下手をすると、ボールのようにあっちこっちへ転がされてしまいますから)、転がっていくお菓子やらお椀やらコップやらを見ていたそうです。それこそ生きた心地がしなかったことでしょう。

 その後直ぐに、東京は恐いと、静岡の方に行った人もいたそう(在日の人で留学生ではありません)ですが、そこでも地震があり(地震というのは連動しやすいものです。どこだから安全というものでもありません)、また魂消て戻ってきたという話も聞きました。

 留学生であったら、だいたい私たちの手の中にありますし、私たちもその場で一番いいと思われる指示を出し、たいていの場合それを守ってもらえるのですが、在日の人たちの場合は、そうはいきません(情報源は、多分、同国人でしょう。だから、その人の恐怖心が「一」くらいの大きさであっても、「恐い、恐い」と言う人たちと話しているうちに、「十」くらいに膨れあがってしまうのです)。

 普通の日本人は、少なくともそれはないですね、地震が起こってから、一応揺れは収まっているにもかかわらず、その場から逃げ出すというようなことは。動くとしたら、家族の安否が確かめられなかったり、あるいは会社や所属先が気になったりしたときくらいでしょう。

 それは、やはり「肝が消し飛んだから、とにかくここにいたくない」ということにしか感じられず、その話を聞いても「へえ」と思うくらいのことです。だって、こういうときに動くのは、却って、危なかったりしますから。しかも逃げた先が、もっと地震の起こる可能性が高いところであったりするのですから。逃げるなら、日本人に聞いてから場所を考えたらよいのにと、地震に慣れている日本人は気の毒に思ってしまいます。もちろん、原発が起こってからは話が別になりますが。

 江戸期の浮世絵の中に、「オオナマズ(大鯰)」の上に乗っている人々を、おもしろおかしく描いたものが多くあり、当時の人々の地震に対する考え方がよくわかるのですが、ふと自分を振り返ってみると、(今の日本人をも含めて、自分が)それを信じていないかというとそうでもないようなのです。

 現代人ですから、もちろん、プレートの話を聞いたり、地震発生のメカニズムを学んだりはしています。けれども、同時に、「そうだ、鯰さんのご機嫌を損じないようにしておかねば」などと、どこか、非常に素朴な部分で、本気で、思っているのです。

 何せ、日本人の多くはいまだにアニミズムの世界から解き放たれてはいないのですから。だから、日本の文化にせよ、習慣にせよ、おもしろいのです。これは、こういう大地で育ち、人の力の限界というものを早くから身に沁みて知らざるを得なかった…からこそ、育まれた…と私はおもうのですが、どうでしょう。

日々是好日
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「春の装い、裸足につっかけ」。

2012-03-08 08:54:18 | 日本語の授業
 空全体に、灰色の厚い雲がどんよりと拡がっています。 雨は、降っているようで降っていない…かと思えば、少し降っているようでもあり…といった、なんともはっきりしない空模様です。

 昨日に比べれば、「寒の戻り」とは言えないまでも、ジッとしていれば、だんだん寒くなる…ということで、学校に着いてから30分ほどして、教室に暖房を入れに行きました。職員室は、まだまだ…。

 この頃は暖かくなったり、寒くなったりと、折れ線グラフの鋭さに学生たちはついていけないようです。

 思えば、日本のように「五季(梅雨も入れて)」がはっきりと分かれている国から来ている学生達はいない…ように思われます。もちろん、彼らは四季はあると言いますが。

 とはいえ、北国ならば、「ずっと寒さは続き、ちょっと秋のような夏が来た後は、また寒い冬になる」であり、熱帯の国ならば、「ずっと暑さは続き、乾季と雨季しかない」のでありましょうし、また常春の国ならば「暑くもなく寒くもない」といった状態が続くだけでしょう。もしかしたら、彼らの目からすれば、日本は常に異常気象の国であると言ってもいいのかもしれません。

 それ故に、日本人はいっそう気ぜわしくなるのでしょう。寒さの冬が終わりかけ、春が始まりそうなこの時期、まず悩むのは来て行くものなのですから。

 常に季節を先取りしているような人たちは、「冬に潜む春」を、素早くキャッチし、その日のお天気具合を計算に入れながら、「今日の服」を決めていくようです。

 昨日、一昨日と、かなり暖かかったのですが、すると途端に、ちょっと早すぎると思われるような春の装いの若い女性を何人か、見かけました。ただ難しいのは、このタイミング。いくら春の息吹が感じられたような昨日、一昨日であったとしても、あれはちょっと早すぎた。

 見る者に、暖かな春を感じさせ、ほのぼのとした気持ちにさせるよりも先に、「うっ、寒い」と、反対に寒々しさを感じさせていたようでしたから。しかしながら、これがうまくいくと、人々の服装から春が始まるような、そんな明るさを街をゆく人々に感じるのです。

 これも日本にいる醍醐味でしょうね。「目で感じる春」というのが。

 とはいえ、早速、裸足につっかけ姿で登校して来たベトナム人学生。「まだ寒いのだから靴下をちゃんとはく」と喚いてもどこ吹く風。「先生、暑いです」で終わり。これは本人の感覚ですから無理強いは出来ません。出来ないことは、よくわかっているのですが、なんともはや、昨日は三人もいました。ついに三日前まで、寒いだの、きついだの、風邪を引いただの言っていたくせに。

 どうも、彼らは「着込む」と言うことに対して、慣れていないどころか、条件反射的に抵抗する傾向があるように見えます。布団を掛けるのも嫌、真冬でもエアコンをつけてタオルケットかせいぜい毛布でなければ、眠れない…。こういう人たちに、一枚多く来て、節電にこころがけましょうと言ってもどこまで通じるやら。

日々是好日
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「春の使者たち」。

2012-03-07 14:11:55 | 日本語の授業
 今朝はもう、冬とは言えません。朝から10度を超えているのですから。ただ昨日とは違い、昼になってもそれほど気温が上がるわけではないそうなので、やはりコートは手放せないでしょう。

 さて、近所にある(小学校の)校庭の「ヤナギ(柳)」が、少しずつ芽吹きはじめたようです。遠くから見ると枝自体が緑に霞んで見えています。足もとを見ると、立派な「ナズナ(薺)」が三味線のバチを擡げています。

 民家の梅も満開。こう来ますと、直に、「ジンチョウゲ(沈丁花)」、「連翹(レンギョウ)」、「ユキヤナギ(雪柳)」、「サクラ(桜)」、「コブシ(辛夷)」、「モクレン(木蓮)」などの木々の花が、街を彩り始めることでしょう。

 街ですらこうなのですから、山の木々も、「山笑う」頃から初夏にかけては、せわしく姿を変えていくことでしょう。山が落ち着くのは、滴るような蒼翠が、山を覆う頃からでしょうか。それまでは、様々な木々の花が、あちこちで、しかも少しずつ時期をずらしながら綻び、目を楽しませてくれることでしょう。

 去年は、行きそびれて、見ることの出来なかった山の景色を、もしかしたら今年は、味わうことが出来るかもしれません。

 ところで、学校です。
「Dクラス」というのは、主に、去年の七月と10月に来日した学生たちなのですが、この時期がアルバイト探しが一番難しいのです。初めのころは、1時間ほどかけてでも、友人知人に紹介してもらった工場などで働いたりしているのですが、多少とも話せたり聞き取れたりするようになりますと、欲が出て来たりするのです。日本語が使えるところで働きたい…。

 工場では同国人もいるでしょうし(当然、同国人との間での話が多くなるでしょう)、その上、日本人がいたとしても、いつも日本語でおしゃべりができるというわけではない…でしょう。黙々と手を動かしているだけで、もし雑談などをしてしまったら、叱られてしまいます。お金のためには仕方がないとしても、だんだん、やはりどうにかならないものだろうかと思ってしまうのも当然と言えば当然なことです。

 とはいえ、近所のレストランや焼き肉屋、あるいはコンビニで働きたいと思っても、日本語の力が足りませんから、まだまだ無理です。一昨日、電話アルバイト募集の紙を見て、応募した学生など、電話で話せたのは立派だったのですが、最後に、「もっと勉強してから、また電話してね」とやんわり断られてしまいました。

 アルバイトを探すとしたら、今がいい時期であることは確かなのですが、「漢字はどれくらい判るの」と聞かれて、「300字くらい」と答えるのも、日本人相手に芸がないことだし、なかなか辛いものがあります。

 もっとも、電話をかけることに尻込みしなくなっただけ、成長したと言えなくもないのですが。

日々是好日
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「桜」。

2012-03-06 11:43:51 | 日本語の授業
 雨音が響いています。早朝、目覚めたときには雨は止んでいましたのに、いつの間にかまた降り始めていました。今朝の雨は、もう春雨と言ってもいいでしょう、気温も10度ほどにはなっているでしょう(午前8時前)。今日の最高気温は予報では18度、この辺りでは19度を超えるかもしれません。

 こうなりますと、そろそろ桜が待ち遠しくなります。今年は梅の開花が遅れた分、桜が早く咲きそうな気がします。となると、去年のように新学期が始まってから皆で花見へ行くとは、もしかしたら出来ないかもしれません。もちろん、日本では(どこに住んでいようと、近くに桜は咲いていますから)どこでも、桜を見ることは出来ます。

 以前、三月頃でしたか、桜は、どこがきれいなのかと、学生に聞かれたことがありました。その時思いつくままに二三の場所を言うと、その学生は、一人でそこへ行ったようでした。その時に、ああ、こういう学生も日本に来るようになったのだとかすかに驚いたものでしたが。

 現実には、私たちが、いくら桜で有名な場所(もちろん、遠くは無理です。近場の都内のものに限るのですが)を告げ、自分たちで行ってごらんと言っても、なかなかそうはできないのです。社会人として活動した経験がある学生はそうでもないのかもしれませんが、高校を卒業してすぐ来日した学生など、学校がお膳立てをしてやらない限り、たいていどこへも行けません。

 桜の季節、藤の季節、朝顔市、夏は山や海、秋は紅葉、冬は雪…、物見遊山でもいいのです、そのどれもに江戸情緒の名残りがほの見え、行くだけで歴史が感じられたりするのです。どれでもいいのですが、そのどれかに引っかかることができれば、いざという時に、日本理解に役立つと思うのです…が。一人では難しい…。

 連れて行く度に、日本は本当にきれいだなあと(学生たちが)言います。多分、これは、かなりの程度、人の手が入った「自然の美」ということが判った上で、言っているのではないと思います。日本の自然はなかなかに難しく、(多くの場所では)人の手が入らなければ、すぐに荒れた自然になってしまいます。特に桜は、専門の「桜守(桜を植え、世話をし、次の代まで育てておく人)」がいるくらいなのです。

 もっとも、私たちが花見に連れて行くのも、「喜んでもらいたい、日本にいたことの一つの記憶としてとどめてもらいたい」と思っているからです。

 日本の桜に限らず、世界各地にはそれぞれ特有の「風景の美、自然の美、芸術の美」があります。その美は、その風土や歴史、それによって育まれた人気(じんき)などと切り離されるようなものではなく、その大地、人、そして歴史を理解した上でしか、発見できないような「美」というのも存在するのです。

 私事になりますが、今から三十数年前に、姉がヨーロッパを三ヶ月ほど旅行して戻ってきたときに、こんなことを言っていました。ヨーロッパの絵画の多くからは賛美歌が聞こえて来たと。それから数年後、私もドイツへ一ヶ月ほど旅行したのですが、その時、私も同じような感覚を味わいました。疑うべくもなくヨーロッパ中世はキリスト教の時代であり、芸術家の大パトロンというのは、良きにつけ悪しきにつけ、教会であり、信者達でした。信仰心から絵の世界へ伸びていった若き才人もいたことでしょう。

 イスタンプールに行ったときには、古代ギリシアの神々をそこかしこに感じました。現地の人たちはほとんど、モスクや教会に通っているにもかかわらず。古代の神々は大地に潜んでいたのです。

 それは、日本の仏像や宗教関係の建造物、造形、絵画などにも言えることです。技術プラスの信仰心、あるいは来世への願いなのかもしれませんが、それに、どれほどの長さを人々によって守られてきたかということも関係してくるでしょう。それらすべてが相俟って、芸術を越えた一段上の崇高さが伴う高みにあるような気がするのです。いくら形を似せることができても、ものによっては私のような門外漢にも確と判るほどの違いが匂って来ます。

 古代から続いてきた習慣にせよ古物にせよ、徒や疎かに手を加えることはできません。また手を入れずに来たという先人達の智慧や感性に感動さえ覚えてしまいます。とはいえ、古来も、きっと手を加えようとした者たちはいたことでしょう、けれどもそれを「仏罰」あるいは「神罰」が当たるとして退け、守り抜いてきたからこそ、今ここにあり、私たちはそれらを目にすることができるのですから。

 さて、話は「桜」に戻ります。去年は、日本に残っていた学生たちは、見事な桜を見ることができましたが、今年はどうでしょうか。日本人はおもしろいもので、きれいな桜を見ることができればできたで、「神様のご褒美かしらね」とか、「ありがたいね」とか言い、見えぬ存在に感謝し、(見ることが)できなければできなかったで、来年こそはと思い、また不運を嘆いたりします。それが年が長けていくにつれ、今年も見ることができた。あと何回桜を見ることができるのだろうとお仕舞いから勘定したりします。

 それが嵩じると、緋寒桜の沖縄から始まって、最後は北海道まで数ヶ月を桜を尋ねての旅をしたりしてしまうのです。これは別に桜の歌人、西行を追っての旅というわけではなく、歌枕とは全く別の、桜追いなのです。

 こういう妖しさというものは、どの花にも備わっているのでしょうが、一際、桜にそれを(日本人が)見てしまうのは、多分日本の風土や歴史とも関係があるのでしょう。

 3.11の津波が襲った大地に、それを後世の人々に伝えるために、「ここまで津波はやって来て、人々を襲った」ことを記すために、その境界線に沿って桜を植えていこうという運動も起きています。江戸期の名君が、街道を造り、これより海沿いには人が住むことを禁じた」という政策も、自由主義の世になると、ことさらに便利さが重んじられ等閑にされてしまいました。けれども桜ならば、人は春には必ずそこに集まります。記憶が風化していくこともないでしょう。どうしてここに桜が植えられたのかも、大地を割くように流れていく桜並木によって人々は語り続けていくでしょうから。

日々是好日
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