雨。
雨です。五月最後の日が雨で明けました。「台風」の影響というのですが、これがまだ「一号」ときている。「台風」が気になる時は、大抵、もっと大きい数になっているのが普通なので、この「一号」というのに、なんとなく感動しています。もう「熱帯低気圧」になったかしらん。
さて、学校です。
そろそろ、今まで「ダラダラ、タラタラ」としていたのが、まずかったというのに、気がついたらしい学生が、急に「漢字」テストに精を出すようになりました。そう、「漢字テスト」は、やりさえすれば、求める結果はすぐ得られますからね。「100点を取るんだ」と臨んで、「100点」を取り、「取った。ああ、すごい。やったね」で、次の日にはあらかた忘れている。…でも、いいですけれども。自分をごまかせるし…。
でも、それでは困るので、授業中に時間を設けて、「N3漢字一覧」を少しずつ覚えさせています。「私の時間に」ですから、週四なのですが。時間を設定して、「はい、一人で練習(読みだけです)」、その後に、「はい、ひらがなの部分を隠して、みんなで練習」。これも、本当は欲を出して、少しでも多くやりたい。ただ、「一度に全部」をいくら毎日繰り返しても成果は上がらないので(飽きるし、多いと疲れて途中でどうでもいいになってしまうので)、最初は半ページ(20語)ずつ、二回やってみて、少し手応えを感じたので、今は、一ページにしています。
前に、「意味」を、漢字の横に描かせていたので、「意味」と「漢字の姿」が一つになれば、「読み」も案外、楽に覚えられるでしょう。「読み」さえわかれば、書けなくともどうにかなるのです、今は「『読み』を打つ」時代なのですから。もっとも、書ければ、それに越したことはない。伊達や酔狂で覚えたわけではないのですから。
で、「N5漢字」でも「N4漢字」でも、そして今練習している「N3」漢字でも、一つでも読める漢字が増えれば、皆で読んでいく時(朗読)、一緒にできる。さすれば、「読み」に関してという点では、苦手意識はなくなるでしょう。読むことさえできれば、時間はかかろうとも、だんだんに意味はわかっていくものです。何度も読んでいるうちに「発見」という形で。
だから、「声を出して読む」のが、「嫌だ」だけは避けたい。
とはいえ、時間はかかりますね。どうして「読むのか」を合点できないうちに、「読め、読め」とやるのですから。
このクラスでは、一文を何度も何度も読んで練習させています。三分の二ほどが、ある程度スムーズに読めれば、次の文に移り、また練習というのを繰り返しています。意味がわかっていないのに、暗記をするというのは、労多くして功少なしですから。これも、以前スリランカの学生が、100字ほどの文が暗記できたことから得た経験。
意味がわかっていなくとも、暗記ができる人がいるのです。当然のことながら、言えてもすぐに消え失せる、そのときだけのこと。それでも言えるのです。それができない私は、思わず「天才だ」なんて叫んでしまったのですが、「学ぶ」という点から言えば、全く意味をなさない作業でした。何が書いてあるのか全然わからないのですから。それで、そういう「天才」は無視することにして、意味がわからなければ覚えられない人を対象に授業を進めています。
大切なのは、まずは意味の塊ごとに切って読む、読めるようにすると言うこと。
「(ダラダラとでも)読んだ」で終わる読み方と、意味がわかって強弱がつけられる読み方とでは全く違います。ここは日本語教師にするために彼らを教えているわけではありませんし、そんな時間も彼我共にない。
若い頃、ラジオで、詩人が自分の書いた詩を読んでいるのを聞いたことがありました。発音も悪い。なめらかに教科書通りに読みもしない。けれども、圧倒的な強さが、心に迫ってくるというのはこういうことなのかと思わされました。
「話すことの専門家」なんぞであったら、決してこんな感動を人に与えることはできなかったでしょう。その人の読みには、自分の心、思いを伝える力があったのです。
ある文学者が、「読むのを訊いただけでその人の理解力、感じる力がわかる」と言ったのを聞いたことがあります。勿論、今、彼らが学んでいるのは、「外国人用の文章」ですから、読んで感動云々といったようなことは、全くありません。「『N4レベル』の文法や単語を使った文章」とかに過ぎないのですから、「単語」や「文法」の他に、「指示語」や「接続詞」などの理解が少しでもできればいいのですから。
直接、「文学作品」を読ませて、学ばせていけたらと思わされるような学生が、時々、こういう学校にも来たりします。そういう人たちは、いくら「系統だった勉強のため」であっても、面白くないでしょうね。「日本語はつまらない」で終わっているのをこちらとしても止められない。なにせ、一斉授業で、こういう小さい学校では、個別に指導できる時間も限られています。
もっとも、彼らが来日の目的は、専門技術を身につける、あるいは大学で勉強するといったものですから、贅沢は言っていられません。最初に文学作品なりをド~ンと目の前に突きつけて、「授業をそれだけに絞ってやった方が力がつく」のかもしれませんが、まずは系統だって「初級」から「中級」とできるだけ早道で、彼らが進みたい道へ送り出す。それがこういう日本語学校の仕事なのでしょう。
日々是好日
雨です。五月最後の日が雨で明けました。「台風」の影響というのですが、これがまだ「一号」ときている。「台風」が気になる時は、大抵、もっと大きい数になっているのが普通なので、この「一号」というのに、なんとなく感動しています。もう「熱帯低気圧」になったかしらん。
さて、学校です。
そろそろ、今まで「ダラダラ、タラタラ」としていたのが、まずかったというのに、気がついたらしい学生が、急に「漢字」テストに精を出すようになりました。そう、「漢字テスト」は、やりさえすれば、求める結果はすぐ得られますからね。「100点を取るんだ」と臨んで、「100点」を取り、「取った。ああ、すごい。やったね」で、次の日にはあらかた忘れている。…でも、いいですけれども。自分をごまかせるし…。
でも、それでは困るので、授業中に時間を設けて、「N3漢字一覧」を少しずつ覚えさせています。「私の時間に」ですから、週四なのですが。時間を設定して、「はい、一人で練習(読みだけです)」、その後に、「はい、ひらがなの部分を隠して、みんなで練習」。これも、本当は欲を出して、少しでも多くやりたい。ただ、「一度に全部」をいくら毎日繰り返しても成果は上がらないので(飽きるし、多いと疲れて途中でどうでもいいになってしまうので)、最初は半ページ(20語)ずつ、二回やってみて、少し手応えを感じたので、今は、一ページにしています。
前に、「意味」を、漢字の横に描かせていたので、「意味」と「漢字の姿」が一つになれば、「読み」も案外、楽に覚えられるでしょう。「読み」さえわかれば、書けなくともどうにかなるのです、今は「『読み』を打つ」時代なのですから。もっとも、書ければ、それに越したことはない。伊達や酔狂で覚えたわけではないのですから。
で、「N5漢字」でも「N4漢字」でも、そして今練習している「N3」漢字でも、一つでも読める漢字が増えれば、皆で読んでいく時(朗読)、一緒にできる。さすれば、「読み」に関してという点では、苦手意識はなくなるでしょう。読むことさえできれば、時間はかかろうとも、だんだんに意味はわかっていくものです。何度も読んでいるうちに「発見」という形で。
だから、「声を出して読む」のが、「嫌だ」だけは避けたい。
とはいえ、時間はかかりますね。どうして「読むのか」を合点できないうちに、「読め、読め」とやるのですから。
このクラスでは、一文を何度も何度も読んで練習させています。三分の二ほどが、ある程度スムーズに読めれば、次の文に移り、また練習というのを繰り返しています。意味がわかっていないのに、暗記をするというのは、労多くして功少なしですから。これも、以前スリランカの学生が、100字ほどの文が暗記できたことから得た経験。
意味がわかっていなくとも、暗記ができる人がいるのです。当然のことながら、言えてもすぐに消え失せる、そのときだけのこと。それでも言えるのです。それができない私は、思わず「天才だ」なんて叫んでしまったのですが、「学ぶ」という点から言えば、全く意味をなさない作業でした。何が書いてあるのか全然わからないのですから。それで、そういう「天才」は無視することにして、意味がわからなければ覚えられない人を対象に授業を進めています。
大切なのは、まずは意味の塊ごとに切って読む、読めるようにすると言うこと。
「(ダラダラとでも)読んだ」で終わる読み方と、意味がわかって強弱がつけられる読み方とでは全く違います。ここは日本語教師にするために彼らを教えているわけではありませんし、そんな時間も彼我共にない。
若い頃、ラジオで、詩人が自分の書いた詩を読んでいるのを聞いたことがありました。発音も悪い。なめらかに教科書通りに読みもしない。けれども、圧倒的な強さが、心に迫ってくるというのはこういうことなのかと思わされました。
「話すことの専門家」なんぞであったら、決してこんな感動を人に与えることはできなかったでしょう。その人の読みには、自分の心、思いを伝える力があったのです。
ある文学者が、「読むのを訊いただけでその人の理解力、感じる力がわかる」と言ったのを聞いたことがあります。勿論、今、彼らが学んでいるのは、「外国人用の文章」ですから、読んで感動云々といったようなことは、全くありません。「『N4レベル』の文法や単語を使った文章」とかに過ぎないのですから、「単語」や「文法」の他に、「指示語」や「接続詞」などの理解が少しでもできればいいのですから。
直接、「文学作品」を読ませて、学ばせていけたらと思わされるような学生が、時々、こういう学校にも来たりします。そういう人たちは、いくら「系統だった勉強のため」であっても、面白くないでしょうね。「日本語はつまらない」で終わっているのをこちらとしても止められない。なにせ、一斉授業で、こういう小さい学校では、個別に指導できる時間も限られています。
もっとも、彼らが来日の目的は、専門技術を身につける、あるいは大学で勉強するといったものですから、贅沢は言っていられません。最初に文学作品なりをド~ンと目の前に突きつけて、「授業をそれだけに絞ってやった方が力がつく」のかもしれませんが、まずは系統だって「初級」から「中級」とできるだけ早道で、彼らが進みたい道へ送り出す。それがこういう日本語学校の仕事なのでしょう。
日々是好日