日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「どうしょう、このままではまずい」と思った時の頼みの綱は「漢字テスト」。それで、心が、一旦は、安らぐようです。勿論、勉強に無駄なことなどありません。

2024-05-31 06:54:08 | 日本語学校
雨。

雨です。五月最後の日が雨で明けました。「台風」の影響というのですが、これがまだ「一号」ときている。「台風」が気になる時は、大抵、もっと大きい数になっているのが普通なので、この「一号」というのに、なんとなく感動しています。もう「熱帯低気圧」になったかしらん。

さて、学校です。

そろそろ、今まで「ダラダラ、タラタラ」としていたのが、まずかったというのに、気がついたらしい学生が、急に「漢字」テストに精を出すようになりました。そう、「漢字テスト」は、やりさえすれば、求める結果はすぐ得られますからね。「100点を取るんだ」と臨んで、「100点」を取り、「取った。ああ、すごい。やったね」で、次の日にはあらかた忘れている。…でも、いいですけれども。自分をごまかせるし…。

でも、それでは困るので、授業中に時間を設けて、「N3漢字一覧」を少しずつ覚えさせています。「私の時間に」ですから、週四なのですが。時間を設定して、「はい、一人で練習(読みだけです)」、その後に、「はい、ひらがなの部分を隠して、みんなで練習」。これも、本当は欲を出して、少しでも多くやりたい。ただ、「一度に全部」をいくら毎日繰り返しても成果は上がらないので(飽きるし、多いと疲れて途中でどうでもいいになってしまうので)、最初は半ページ(20語)ずつ、二回やってみて、少し手応えを感じたので、今は、一ページにしています。

前に、「意味」を、漢字の横に描かせていたので、「意味」と「漢字の姿」が一つになれば、「読み」も案外、楽に覚えられるでしょう。「読み」さえわかれば、書けなくともどうにかなるのです、今は「『読み』を打つ」時代なのですから。もっとも、書ければ、それに越したことはない。伊達や酔狂で覚えたわけではないのですから。

で、「N5漢字」でも「N4漢字」でも、そして今練習している「N3」漢字でも、一つでも読める漢字が増えれば、皆で読んでいく時(朗読)、一緒にできる。さすれば、「読み」に関してという点では、苦手意識はなくなるでしょう。読むことさえできれば、時間はかかろうとも、だんだんに意味はわかっていくものです。何度も読んでいるうちに「発見」という形で。

だから、「声を出して読む」のが、「嫌だ」だけは避けたい。

とはいえ、時間はかかりますね。どうして「読むのか」を合点できないうちに、「読め、読め」とやるのですから。

このクラスでは、一文を何度も何度も読んで練習させています。三分の二ほどが、ある程度スムーズに読めれば、次の文に移り、また練習というのを繰り返しています。意味がわかっていないのに、暗記をするというのは、労多くして功少なしですから。これも、以前スリランカの学生が、100字ほどの文が暗記できたことから得た経験。

意味がわかっていなくとも、暗記ができる人がいるのです。当然のことながら、言えてもすぐに消え失せる、そのときだけのこと。それでも言えるのです。それができない私は、思わず「天才だ」なんて叫んでしまったのですが、「学ぶ」という点から言えば、全く意味をなさない作業でした。何が書いてあるのか全然わからないのですから。それで、そういう「天才」は無視することにして、意味がわからなければ覚えられない人を対象に授業を進めています。

大切なのは、まずは意味の塊ごとに切って読む、読めるようにすると言うこと。

「(ダラダラとでも)読んだ」で終わる読み方と、意味がわかって強弱がつけられる読み方とでは全く違います。ここは日本語教師にするために彼らを教えているわけではありませんし、そんな時間も彼我共にない。

若い頃、ラジオで、詩人が自分の書いた詩を読んでいるのを聞いたことがありました。発音も悪い。なめらかに教科書通りに読みもしない。けれども、圧倒的な強さが、心に迫ってくるというのはこういうことなのかと思わされました。

「話すことの専門家」なんぞであったら、決してこんな感動を人に与えることはできなかったでしょう。その人の読みには、自分の心、思いを伝える力があったのです。

ある文学者が、「読むのを訊いただけでその人の理解力、感じる力がわかる」と言ったのを聞いたことがあります。勿論、今、彼らが学んでいるのは、「外国人用の文章」ですから、読んで感動云々といったようなことは、全くありません。「『N4レベル』の文法や単語を使った文章」とかに過ぎないのですから、「単語」や「文法」の他に、「指示語」や「接続詞」などの理解が少しでもできればいいのですから。

直接、「文学作品」を読ませて、学ばせていけたらと思わされるような学生が、時々、こういう学校にも来たりします。そういう人たちは、いくら「系統だった勉強のため」であっても、面白くないでしょうね。「日本語はつまらない」で終わっているのをこちらとしても止められない。なにせ、一斉授業で、こういう小さい学校では、個別に指導できる時間も限られています。

もっとも、彼らが来日の目的は、専門技術を身につける、あるいは大学で勉強するといったものですから、贅沢は言っていられません。最初に文学作品なりをド~ンと目の前に突きつけて、「授業をそれだけに絞ってやった方が力がつく」のかもしれませんが、まずは系統だって「初級」から「中級」とできるだけ早道で、彼らが進みたい道へ送り出す。それがこういう日本語学校の仕事なのでしょう。

日々是好日

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「重文」「複文」のみならず、「引用文」なんぞがその中に入っていると、「N3」に入ったばかりの人達にはちと難しすぎる。一クラスだけだったら、やらずに、すっ飛ばせるのだけれども…。

2024-05-30 08:21:16 | 日本語学校
晴れ。

風もなく、よく晴れています。一応、5月ですから、「五月晴れ」などと言ってもいいのでしょうね。昨日の早朝はまだ公園の土が泥濘んでいたのですが、今日はもうカラッとして、ぬかるむことはありませんでした。

「雨でもない、曇りでもない」時の「アジサイ」は、どこかしら居場所を失って、手持ち無沙汰のふう。とはいえ、もう別の種類の「アジサイ」も蕾(こう言っていいのかしら、あれは「萼片」であるそうですけれども)を膨らませています。「梅雨」が近づけば、もっとたくさん(の種類)の「アジサイ」が見られることでしょう。

子供の頃は、「青」い「アジサイ」が稀だというで、皆で「青」い「アジサイ」探しなんぞをやったことがありました。思いのほかこれが少なく、だいたいは「ピンク」系で、見つけたときはうれしかったものですが、それも今は昔の物語。

最近は「色」どころか、形にせよ何にせよ、何でもありの「アジサイ」に変わっています。形も色も作り出しやすいのか、あるいは「アジサイ」に寄せる人々の思いが強烈であるのか、どうなのかは判りませんが、その種類の多さに驚くばかりです。大振りなのでよけいに目立つのかもしれませんが。

さて、学校です。

「Aクラス」では、何の問題もなく、気が抜けたように(なにせ、例年この部分は火がかかるのです)、スルリと終われた(「文章」の一)部分が、「Bクラス」では、どこかに嵌まり込みでもしたように、固まってしまった。だいたいは、最後に図にして、「ああ、そうか」で終われるものなのですが、このクラスでは、そこでも反応がない…かといって、そのまま無視して流せるわけもなく、言葉が必要ない世界での説明も限界があることが露呈されてしまった…。

国で、「文章」を、一冊とかの「本」でなく、「文章」をほとんど読んだことがなければ、「話し言葉」の世界でしか、互いに意思を伝達できないと言うことになってしまいます。「話し言葉」では、大抵、短文で、ぶっちぎれたものを、互いの会話でつなぎ合わせていくだけのことなのですが、それが「文章」だと、そうは簡単にはいきません。相手に判るように、一人で文をつなげていかなければならないのです。助け船はありません。

「文章」というのは「文」からなっていますから、どこかの文の意味がスッポリと抜けてしまうと、それでなくとも、「接続詞」という難物が控えているので、意味が全然取れなくなってしまうのです。それが、二行か三行ほどの文でも、「重文」であったり、「複文」であったり、あるいはその中に「引用文」などが混ざり込んでいたりすれば、(理解するのが)大変な作業ということになってしまいます。全体の主張やら意見やら、内容やらをとるのが苦手な人達ですから、内容から推し量ってこうなるとは、なかなかできないのです。

昨日の授業、「図」でも、また、手振り身振りでも、なかなか判ってもらえず、ちょいと気落ちしてしまいました。別のやり方があるかと考えたりもしてみたのですが、最後は「絵」か「図」というのが、言語を異にする人間同士が互いに理解し合うときの最後の手段というのは変わらないように思えるのです。後考えられるのは、こういう問題を考えようという意思がない、つまりそういう習慣がないということなのです。「図」の所まで来られた人は五人くらい。なんとなく納得はしてくれたように見えたのが、五人くらいというのはちと厳しい。わかろうという気持ちさえあれば、あれくらいの図で判るはずなのですが(これも思い込みかもしれませんが)、「あっ。無理」で、すぐに諦めてしまうのです。

最初は主語探し。これも簡単に「言いました」では、「誰が」を探し、誘導尋問のように、「会話の部分(『話した』部分を訊くのですが、この『話す』になかなか反応してくれない人もいるので、二つとも使います)があるでしょ、それはどこ?誰が言いましたか…」で、これまで、大抵は出ていた。けれども、文章を読む意思がなければ、チョイ見で、判らなければ、すぐに切って捨ててしまう。考えるのをやめてしまう、で、そこで止まってしまうと言うことになる…。

「動詞」が、「文」の中に、三つか四つほども出ていれば、主語を訊いていくのは当然のこと。それが判らなければ、誰が思ったか、言ったか、したかがわからない。

一応、「主語」が、皆、出てきても、それが、流れとして、関連付けられていかなければ、意味は通じませんから、「何が何だ?へっ」と言うことになる。しかもその主語が違っていれば、それは混乱するのかもしれない…でしょうね。ただ、登場人物は先に挙げてありますから、そのうちの誰かのはず。三択か四択です。だから、どうにかなるだろうと思いはするのですが、どうもそうはならないこともある。

訊かれたとき、すぐ前の文を言うのです(これも「そう」は前を指すことが多いという学習からの知恵でしょうが)。ただこのクラスには、指示語を訊いたとき、その段落全部を読み続けるというような「猛者」はいません。これは習慣なのでしょうね。卒業時まで変わらない人もいますから。こちらの反応から、「こりゃあ、ちと違うな、怪しい」とは思わないのかと、こちらはこちらで、不思議に思ってしまうのですが。

その時は、「そうか、彼らの国では、そうやって全文を読んでいけば、教師が答えの所で、『はい、そうです』なんて言って止めてくれていたのだろうな。そのつもりで読んでいるのに、こちらが「はい、正しい。そこです」なんて言わないものだから、段落全部を読んでしまって、さらに、まだ読むのかと言いたげな顔で私の顔を見たりするんだ。多分、こちらの表情で、その「課」全部を読み続けるなんて事も…ありだろうな」と肩の力が抜けるような思いをしたことがありました。どうしよう…。

まあ、ともかく、昨日で一応、あの課は終わり。今日からまた新しいのに移ります。ほっとしているのか、ガックリきているのか、自分でも判らないのですが。

日々是好日
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専門学校見学の時期に入ったようですね。

2024-05-29 07:14:15 | 日本語学校
05/29

曇り。

昨日の風はすごかった。日が落ちた頃から、「風台風」並みの暴風が吹き荒れ…。朝来てみると、学校の植木がいくつか転がされていた…。

その「昨日」が嘘のように、今朝は清々しい。持てるだけの水分を吐き出したからでしょうね、そよそよと優しげな風が、かすかに木々を揺らし、小鳥たちも楽しそうにさえずっています。昨日は、きっと、巣で縮こまっていたでしょうにね。チュンチュンやら、チョンチョンやらが、あちこちから聞こえて来ます。聞いていると、どうも、せわしげな気分になってくる…急がなきゃ、急がなきゃとでも言っているかのようです。

学校のすぐ脇の電信柱に、「スズメ」の巣があるらしく、覆いのある箱から出たり入ったりしているのが時折見受けられます。そういえばかなり以前にも、そんなことがあったっけ。その時は教室からのぞき見ると、よく巣から出てきたスズメと目が合ったりしていた。目が合ったというのは、こちらの思い違いかもしれませんけれども。…向こうはそれどころじゃないでしょうね。

さて、学校です。

昨日は、午前のクラスは雨が気になり、午後のクラスは、風が気になっていた。ビューと強い風が、重いうなりを生む度に、一斉に外を見ていた。「…すごいです」という言葉が、何人かから、洩れてくる。でも、だれも早く帰りましょうとは言わない。東西線は地下鉄とはいいながら、行徳のあたりは高架になっていて、地下には入っていませんから、やはり心配でしょうね。電車で通学している人がいるので、一応、15分ばかり早めに切り上げて、帰すことに…。

で、後片付けと掃除を簡単に済ませた後、職員室に戻ると、まだ残っている学生が三人ほどいた。三人とも電車通学ですから、気になったのですが、彼らはそれどころじゃないと専門学校の見学について尋ねている。授業の前に、進学の話があったので、そのことの相談らしい。

例年の事なのですが、彼らの不安の一つは、専門学校卒業後の就職のこと。その専門学校を出たら就職できるかが一番の心配事なのです。それから、専門学校では何が勉強できるかわからない…ということも、差し迫ってみれば、困り事の一つ。挙げ句の果ては、先生、決めてくださいという人までいた(昨日は、出ませんでしたね、それ。

それで、「友達がそこで勉強しているから」だの、「日本で働いている○○が、この専門は就職が簡単だと言った」だの、が正当な理由になったりする。中には怪しげな所も出てくるのですが、そういう旨い話に、簡単に引っかかってしまう。

そもそも、日本は少子化が進んで、若い人が少ない…当然、人が絶対的に足りていない。それに、街のコンビニやレストランで、働いている外国人をよく見かけるようになった。以前に比べれば、(選り好みさえしなければ)職に困ることはないだろう、しかも、専門学校がいくつか紹介してくれるだろうから。

すると、一人が、「その仕事に就いたとしても、嫌だったらすぐ辞めて他の仕事をしてもいい?」と聞いてきた。できないことはないだろうけれど、それは多分、難しい(次の職を探すのは)。

専門学校で、その技術だけに特化して学んでいれば、専門分野については知識も技術もあるだろうけれども、他の仕事についてはどうかというと、少々心許ない…おそらく。そうなると、嫌な仕事関係の、同じような会社をグルグルと、仕事を求めて回るしかなくなるだろう。何かに特化したことでなく、何にでも通用するような技術なり、知識なりを身につけた方が、後々、役に立つのではないだろうか。

学生達は他の外国人の話の「この専門だったら、すぐに就職できる」に飛びついてしまうのです。これを改めさせるのには時間がかかります。どうしても「聞いた」が強いのです。いわゆる「思い込み」です。それが、同国人であったりすれば、その思いがますます強くなる。自分とその人とは違うというのが呑み込めず、その人がそうなら「そうか、じゃあ、自分も」となってしまう。適性も好きなことも違うし、「時」も違うのに。

今は、「人がいない。誰でもいいから来てくれ」と言っている会社でも、二年後、三年後にどうなるかは誰にもわからない。これを「コロナ禍」における日本を説明しながら(もちろん、彼らの国のことも聞きながらですが)話していき、どんなことに興味を持っているかを出させていく作業をしていく。後悔させぬためにも、それが必要。

ほとんどの留学生は、「日本で働く」が目的で日本に来ています。まずは「日本語を学び、何でもいいから日本で働けるようにする」。しかしながら、それは(働き始めてから)最初のうちだけで、日本語が上達し、日本の状況が判ってくると、当然の事ながら、自分の現在の職に不満を持つようになる。

その点、こういう「非漢字圏」の学生で大学に行きたいという人は、勉強したいことがかなりはっきりとしていますし、それに譲らないような意志を持っていますから、却ってうまくいったりするのです。

困るのはこういう専門学校に進みたいけれども、何が勉強できるかわからないし、何を勉強したらいいかわからないという学生。で、友達がこの専門学校を出たら、例えば、空港で働けるとか、介護はすぐに職に就けるとか言う情報に踊って、やりたくもない専門を選ぼうとしたりするのです。

人に世話ばかりさせている人が、介護の仕事で何ができる、他の人の仕事の邪魔になるのがせいぜい。…そう言うと、「(嫌だったら)すぐに仕事を変わるから」と言う。変われるけれども、多少日本語ができるだけの人が、他の知識や技術を持っていないのに、どういう仕事に就ける?で、ハタと困ったりする。

今年もそういう時期になりましたね。

日々是好日


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お天気には、もう少し注意した方がいいのですけれども…。

2024-05-28 06:47:28 | 日本語学校

曇り。

もっと雨が降っているかと思っていたのですが、今は止んでいます。目覚めた時、確かに、雨が少しばかり降っていたけれども、思っていたようなものではなかった…。

先週末くらいから、「台風一号」の情報が入り始め、それに従って、いろいろな情報が報道されるようになった。稀に見る「のろのろ台風」だとか、(発生したところの両脇の)東西の海水温が高く、発生した辺りは(気温が)低くなっているので、両側から乾いた空気が流れ込んでいるとか、なんとも慌ただしく、いろいろな情報が入って来ていたので、すぐにでも来てしまうような気になっていたのでしょう。

これも異常気象関係で、本数は減っても規模は大きくなるとみていたからか、無意識のうちにですけれども…。ただ、学生たち。日本人が気にしているほどには、気にしていない…。故に、こちらとしても、「天気予報を見るように」と、思わず、しつこく言ってしまわざるを得ない。「四月生」には、特に。

異常気象がここほど、叫ばれていないところから来ているにしても、やはり、お天気は気にしてほしいのです。とはいえ、あまり天気予報を見る習慣がないようで、私など家にいれば、日に何回も見てしまうような人間とは大いに異なっています。もっとも、私などまだましな方で、仕事中でも帰りの天気が気になって、何度も何度も見てしまう人もいれば、出勤時間の様子を知りたいと、朝、家族の誰かが見ていたり、それを誰かに質したりするというようなことも、少しも珍しくはないのです、日本では。

特に、最近の季節の変わり目は油断できません。以前なら「ゆるゆると」移行したであろう四季の境目も、今では急激に変わりますから、大変です。しかも、春になったと思ったら、翌日にはまた冬に逆戻りしていたり、真夏のような高温になったと思ったら、底冷えのする花寒のようになったり…いやあ、本当に油断できないこと、この上もない。

さて、学校です。

昨日も雨になる…とのことだったので、午前の「初級クラス」の学生たち、(登校時は止んでいたのですが、授業の途中で)降り出すと、それが気になってしょうがない。なにせ、傘無しで来ていた人が多かったようでしたから。私たちからすると、「こんな天気だもの、傘はいるよなあ、持っているはずだよなあ」と言うところなのですが…。それも通じません。授業が終わるや否や、それ、急げということで、いつもにもまして「さようなら」の声が大きく、素早い。…思わず、(速く)やろうと思えばやれるじゃん(だいたいは、タラタラとしているのです)

で、外に出てみると、「なんだ、降っていない。慌てることはなかった」とでも思ったのでしょう。自転車置き場や門扉のところで、賑やかに他のクラスの学生たちとおしゃべりが始まった。聞こえてきた限りでは、いつもよりもその数が多そう。まっ、いいか。せかせる必要も無いだろうからと、黙って、見ていたのですが。

ただ、昨日は、ムシムシと暑かった…。と、思ったのは私だけだったようで、いつもなら、教室に入るやいなや、「先生、暑いです」と訴えていた学生が、何も言わない。で、「暑いでしょ。エアコンつけましょうか」と水を向けてみてた。ところが反対に、変な顔をして、「大丈夫です」と言う。どうしてとでも思っているような様子に、返ってこちらが「へっ」。


彼らは気温の高さや太陽光には反応するけれども、もしかしたら、この「ムシムシ」には、それほど嫌な感じはしていないのかも…。

とはいえ、先日の、真夏のような暑さには応えていたようで、暑いと連呼していた…んだけれどもな。で、そのとき、エアコンをつけ、低めにしたのですが、例年のように、はっきりと、「暑い組」と「寒い組」に分かれたので、「暑い組」はエアコンの風の通り道に、「寒い組」は、遠くの席にと、座らせていたのですが、なんとそれを、この「寒い組」忘れていた…。そして、「寒い」組の学生に、「どうして、あなた、そこに座っている?」なぞと訊いている。

こちらがあきれて、「暑い、暑いと言って、だから、席を替わってもらったのでしょ」。すると、思い出し、「ごめんなさい」

この「済みません」とか「ごめんなさい」が素直に出てくると、日本社会でまずはやっていけるから大丈夫と、以前は思っていたのですが、どうも違っていたようです。彼ら(男子)は、私たちにはすっと口から「ごめんなさい」とか、「済みません」が出るけれども、他の人たちに対してはそうとは限らないようなのです。まあ、それも無理からぬことかもしれません。

まずは「慣れない」、それに、こちら(私たち)がよく遣うから。だから、すっと口から出てくるのでしょう。雰囲気でしょうね、そのときの。

そういえば、日本人の男性も、そうですね。そういう人は、確かに多い。ただ、彼らはまだ若いから、やはり遣うべきところでは、きちんと遣った方がいい。その方が人間関係で「軋み」が減るでしょうから。卒業までにもう少し遣えるようになってくれるといいのですが。

日々是好日
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「試験対策」をすると聞いた時はいいけれど、「問題集」が届いて、いざ始めるとなったら、どうでしょうね。行きはよいよい、帰りは怖い…かな。

2024-05-27 08:16:20 | 日本語学校

曇り。

ムシムシしています、風があるのが、救い。

早朝は、時折、陽の光も感じられたのですが、今はもうその気配が全く失われ、直に、雨雲が空全体を覆うのでしょう。

とはいえ、今は「アジサイ」と「バラ」の季節。街角の、あちらでもこちらでも、様々な「バラ」や大振りの「アジサイ」が、存在感を増してきています。以前は、「梅雨」が近づく頃、いくつかのお庭で、「クチナシ」や「ホタルブクロ」も、目にすることがあったのですが、既に代替わりになったのか、あるいは売られて好む花が変わったかして、見かけなくなりましたね。

夏の終わりを知らせる「マンジュシャゲ」もそう。こういう子供の時からよく見たり聞いたりしてきた花が見られないと、一抹のさびしさが心をよぎったりしてしまいます。反対に目にしたりしますと、子供の頃の思い出に満たされて、うれしくなってしまいます。思い出なんぞも、楽しいことばかりであったら、人は皆、幸せでいられるのですが。

さて、学校です。

あまりお勉強が好きとは思えないのに、6月から始める「読解(『日本語能力試験対策』」の問題集を買うようにと言うと、なぜか喜んですぐにお金を持ってきた「Bクラス」の面々。

「やらなきゃいけないのなら、やるよ」くらいのものなのか、ただ単に「おう、もうそのレベルになったのか」と来し方を振り返って喜んでくれたのか、はてさて、全くわからない。また、その中に、「大変だ。頑張らなきゃ」と思ってくれている人がいるのかどうなのかも、さっぱり判らない。ただ、ニコニコしてくれているので、それに便乗して、軽めに流しているのですが…と言うわけで、ちとばかり申し訳ない気がする。

「試験」なんて(問題の)数をこなせば、どうにかなる…、なれるというレベルならいいのですが、そうとは見えないから、ホント、困る。

「『漢字』はどうするんだ」、「『文法』はどうするんだ」。焦っているのは教師ばかりなり…なんでしょうね。その「差」が見えなければ、焦りようもないもの。

以前、学生達に訊いたことがあります。「日本に来たばかりの頃、『留学生』の話す日本語にびっくりしなかった?みんな、上手だと思ったでしょう。で、今はどう?」。この問いに、今では皆「へへへへへ」と笑えるくらいにはなっています。ただ「N3」と「N4」とは差があることは経験でわかるものの、どれほどのものなのかはまだわからない…。

これも「聞き取れ」、「会話」さえ達者なら、上手と見てしまうのでしょう。これは日本人でも同じこと。いくら「文章を読む力」があり、かなりの「作文」ができる人であっても、「聞く」「話す」が、ある程度の域に達していなければ、「だれも、上手」とは見てくれない。それどころか、「下手」と見られることだってある。実際、「聞く力」ができていれば、「まねる」こともできますから、上達も速いのです。「ヒアリング力」に欠ける人に比べて。

ただ「ヒアリング」は時間の問題で、言われたとおりに毎日学校に来て、真面目にコツコツやりさえしていれば、少しずつでも力はついてきます。遠回りしたのが幸いになる人だっている…。

それに比べ、「文法」や「漢字」は覚えようとしなければ、上にはいけません。「漢字」を習得するためには、練習が欠かせないのは言うに及ばず、「文法」にしても、「こういう言い方もある」ということを知らねば、だいたいは「N4文法」くらいで、終わりです。彼らの日常生活では事足りるでしょう。

「アルバイト」で使われる言葉なんてのは「お決まり」のものですし、同じ意味ではあるが、こういうときはこちらを使った方がいいなんてのも、「責任のある仕事で正確さが要求される」時か、「自己主張が必要になった」の時くらいで、アルバイトでは関係ないでしょう。

以前、来日後10年以上になるというネパールの男性が勉強に来たことがありました。話していて別に困ることはない。普通の話は日本人と同じようにできます。ただ「N3文法」の時間になりますと、あれほどうまく話せていたのに、困ってしまうのです。使えないのです。あれでいいじゃないか、同じじゃないかというのが、「N5」とか「N4」の文法。確かにそれでいいのですけれども。じゃあ、勉強に来る必要はない…。

普通なら「ヒアリング力」がついており、日本での生活も長ければ、ある程度の勘もついていますから、文は作れるものなのですが、彼の場合は、すぐに同じような意味の「初級レベル」の文法の方に戻ってしまい、新しい、いわゆるもう少しレベルの高い文法が使いこなせないのです。多分、慣れなのでしょうね。意味だって大して違うわけではないのですから。

ただ、「初級」の頃は別として、普通、大人同士の会話では、単純な言い回しの表現は用いませんから、だんだんにレベルを上げた方がいいのはわかりきったこと…でも、本当に難しそうでしたね。ごくごく普通の、大卒の男性でしたけれども。

その意味でも、「N4」からすぐに、「N3」に移った方がいいのです。時間を空けてしまうと、「慣れ」が「知識」を目隠ししてしまう。越せなくなってしまうのです、その壁を。…まあ、語学に関してもセンスというのが関係していますから、ごり押しはできないのですが。

さて、「Bクラス」。今、頼んでいる問題集が届いたら、どうかしらん。届くまではニコニコしていても、届いて、いざ始めるとなると、きっと「あ~あ」という顔つきになるでしょうね。でも、大丈夫。先生達は慣れていますから…負けないぞ。

日々是好日
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「十月生クラス」から、「四月生クラス」に上がったときには、戸惑っていた二人も、かなり追いついてきましたね。

2024-05-24 08:26:55 | 日本語学校
晴れ。

この分で行くとかなり暑くなりそうです。早朝から、暑い!

あちこちで、「ドクダミ」が繁茂しています…「梅雨」が近づくと毎年、こんな感じになります。そしてもう花が開いている。ついこの間まで蕾だったのに…。緑の厚い葉っぱの間から、白い花が顔を覗かせ、ここはおいらの領分だぜとでも言いたそう。花はかわいいのですけど、あの繁り方は…独占欲が強い人のようで、どうもいただけません。

さて、学校です。

「N2」と「N3」の、複式授業をしている「Aクラス」です。一応、学校に来て座っているだけという人はご遠慮願っているはずなのですが、自分が授業に入っていないクラスではそうも行かず、少々困っていました。もちろん、どうしても諸般の事情から午後のクラスには行けないという人もいることはいるのですが、その人達にはあらかじめ、話はつけてあります。

「N2」を受ける三人は、問題はない…と思っていたのですが、「四月生」が一人、ご家族の不幸で、気落ちしてしまい、日本語もしばらくの間「放棄」状態になっていました。僅かな期間で、こうまで、「単語」も「文法」も消えてしまうのかと思われるほど。主に「単語」ですね。

もとより、無理からぬ事ですから、こちらも最初のうちは黙って見ているだけ…にしていました。訊くのも躊躇われるような事情がありそうでしたから。

とはいえ、もう数週間経っています。「大学ではなく、専門学校のほうへ行きたい」とか言い始めた頃から、頃合いもよしということで、「もし、日本にしばらくいたいのなら、日本で働きたいのなら」と、「大学に進学するメリット」などを話してみました。ついでに日本の状況や、彼らの二年後、四年後にはどうなるか判らないという世界の趨勢やらも話し、最後に、今のままでは「選ぶ」という選択肢はなくなる。どちらにせよ、「選ぶ」ことができるようにしておくべき。…ということで、(なにせ、単語をきれいさっぱりと忘れていましたから)「中級」になってからの教科書をもう一度見ておくように言っておきました。

本当に一ヶ月足らずで、忘れてしまえるものなのですね。その期間も、日本にいて、学校にも通っていたというのに、心ここにあらざれば、何をしても身につかなかった…。

こういうことを話していると、以前よりヒアリング力がついてきた「十月生(非漢字圏の方)」が傍らで熱心に聞いていることに気付き、そういえば、君もいた…。彼は話をよく聞いているのです。自分に関係のないことでも、こちらが(日本語で)話すと、聞き取ろうとするのです。聞き耳を立てるといった方がいいのでしょうか、そんな表情でです。集中しているなという感じで。

普通なら、「非漢字圏の『十月生』」を「四月生」のクラスに入れるというのには無理があります。本人が、かなり努力しなければなりませんから。ある程度の知識欲もあり、努力する人でないと、辛いはず。ただ「七月生」と「十月生」が大半を占める「Bクラス」ではちょっときついかな。

このクラスは、語学の面で少々レベルが落ちる(「語学」の面だけです)人や、やるようにいえばやるけれども、その意味を解さないから「やるだけ(つまり、「書く」だけであったり、「読む」だけであったり)」の人や、(語学の面で)素質はあるけれども、「11月」の中盤に来ていたり、「1月」に来ていたりして、基礎が弱い人などが多いので、それ以上できる人は、やはりここに置いておくわけにはいかないのです。

もっとも、これは「非漢字圏」の学生はということで、「漢字圏」の学生であったら、彼(十月生)と同じように「ひらがな」の導入から来て(十月生)いても、「非漢字圏」の「四月生」の中に入れて別に困ることはない。直に遜色なくなるでしょうから。

ただ「十月生」の、この二人、本当に素直なのです。最初は「判らない」さんで、固まっていました。

このクラスに来て一、二週間ほどですか(「漢字圏」の学生は「N3文法」に面食らっていた。どうも、自分で問題を一つ一つ解こうとしたみたい)、「先生!」と来た。「全然判りません。どうしたらいいですか」。追い詰められたような表情で、救いを求めてきた。こちらが「問題なんぞ、今、やる必要はない。もう少し、授業が進んでからから、やりたかったらやればいい。なにせ、『初級』が終わったばかりで、(このクラスの)授業を聞いていても、まだ、それほど聞き取れているわけではないのだから」。

「やらなくてもいいどころか、やる必要がない。無駄」で、少しばかりほっとしたようです。「一ヶ月ほどは聞く」に専念していればいい、そのうちに、それで満足できなくなり(やり方に慣れ、聞き取れるようにもなるでしょうから)、腕ならしというか、やろうかなという気になった時に、すればいい。「四月生」と一緒になったばかりの時は、やる気満々でも、まだ実力が伴っていないので、反対に「難しい…」と、苦手意識が生ずるかもしれず、こういう場合は無理をしないことが大切。

「他の人は判るのに、自分は…」と、思わないこと。まあ、今回は彼だけでなく、もう一人「非漢字圏」の学生も一緒でしたから、互いに助け合ってというか、呆けをやり合って(この「初級」から上がったばかりの頃の「三ヶ月」や「半年」の差というのは本当に大きいのです。しかし、語学の面で勘がある人にとっては、越せない壁ではないはず)、そして、「君もそう?私もそう」で笑いあっていれば、直に、落ち着くものなのです。

実際、「N3」文法では、(七月生と)もう差はなくなっています。ただ「漢字圏」の学生にとっては、「N3」でというのは、ちと惨め。ただ、まだ「四月生」と同じ「N2」(「N3」をやりながら同時に)はちょっと辛いようですね。

これは母語の世界で、いわゆる「国語」が苦手であれば、やはり外国語の「読解」も苦手というのが普通ですから、無理強いはできない。人にはそれぞれ得意分野と不得意分野というのがありますから。

こういう「外国語」を教えていると、それにつけても思われるのは、こういう「外国語」が不得意であったら、新しい知識も、古い知識も、そして考え方も学べないという、少なからぬ国のこと。

日本はありがたいことに、国力が弱小であった幕末の後半から、知識のある人達が、必死になってどんどん世界の先進技術や、様々な知識を日本語に訳し、そして広めておいてくれた、そして、それらを知っていることで暴利を得ようとはしなかった。国力を高めるためには、一般人のレベルも上げる必要があったことを国も、知識階級の人達も知っていた…のでしょうね。だから、今の日本があると言ってもいい。途中でおかしな方向に進んでしまったけれどもね。

外国語ができなくとも、母語で基礎教育を受けられ、その土台のもとに、成人になってやりたいこと、しなければならないことが見つかったときに、すぐに日本語でそれを、あるときは独学で身につけることもできた。

ただ、国によっては、ある外国語ができる(知識や技術、深い考えや理解力がなくとも)だけで、特権階級と見なされたり、金を稼げたりする。実際、本人の能力とかとは無縁で。そういう国も少なくないようなのです。

頑張ってくれた先駆者に、そして今も頑張ってくれている人達に感謝です。

日々是好日
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『読解」が読解でなく、説明の授業と化していても、最初はそれでいいのかも。

2024-05-23 08:32:02 | 日本語学校
曇り。

あっという間に、「皐月」も半ばを過ぎ、「梅雨」がと言うよりも、「真夏」の方が迫ってきているような気がします。今年は「エルニーニョ」のみならず、「ラニーニャ」も発生するかもしれぬとか。本当に「くわばら、くわばら」です。この言葉も変と言えば変ですね。「雷様」が来ているわけでもないのに、困ったことが起きそうになると、自然に、この言葉が、呪文のように口をついて出てくるのです。習慣というのは恐ろしい…。

さて、学校です。

先日、タイの学生から「夏はいつもこんなに暑いのか」と聞かれました。「あはははは。聞かれてしまったぜ」と思う反面、熱帯のタイから来た人に言われたくないという気持ちが交差して、思わず、「タイは?」と聞いてしまいました。すると、ニコニコして、「もっと暑い…」。どうも、日本はタイよりずっと涼しいはずだと思っていたらしい。

だいたい、この学校に来ている留学生や在日生は、ほとんどが東南アジアか南アジアの人。中には「雪」を期待している学生も…嘗ては、いた。以前はよく訊かれていた「雪はいつ降りますか」も、最近はとんと訊かれなくなった。そういえば、雪のことは訊かれなくなったなあと思っていたら、今度は「夏の暑さ」です。「夏はこんなに暑いのか」。彼らの反応からも日本も気候異変のただ中にあるのがよくわかります。

あれは、もう二十年かそれ以上も前のこと。「(明治)維新のころの、(夏の)鹿児島の気温と、今の東京の(夏の)気温は同じくらい 」というのを聞いて、驚いたことがありました。若い頃行ったことのある夏の鹿児島は、九州育ちの私からしてみても、暑かった…何でこんなに太陽が近いんだと思ったくらいでしたから。

さて、学校です。

「Aクラス」でも、「Bクラス」でも、しっかりと(忘れずに)「N5・N4」の漢字を読むことにしました。中国人学生が多かったとき以外は、そう決めていたのですが、あれもこれもと忙しない授業の中で、この自分の取り決めは、忘れることが多かった。それに、忘れてもしょうがないくらいで済ませていた。

「N3文法」を(授業の)最初に読み合わせていくのと同じくらい大切にして、読み続けた方がいいのはわかりきっているはずなのに。ついつい疎かにしてしまっていた。口では酸っぱくなるほど言っておきながら…日本人であるからでしょうね。「漢字」の大変さ、面倒くささがどうも腹の底では判っておらず、軽んじていた。その上、「漢字が読めない!勉強していないんでしょ」なんぞと、ほざいていた…申し訳ない。反省すること頻り。

この「Bクラス」では、揃って(漢字を)忘れていますから、ある意味、やりやすい。「覚えてきている誰それさんがちょっと気の毒だな」とか、「やらない者が悪い。やっている人がいるのだから、わざわざ少ない授業時間を割く必要はない」などと考える必要が全くないのです。

ある意味、「揃って」くれているから、やれる。変に気を遣わずに済む。

確かに、「N5」にせよ、「N4」にせよ、(復習の)し始めはちと時間がかかります。が、やれば必ず結果として出てくるもの。最初は、自分で(プリントを)見て、ちょっとでも「あれ?」と思うものがあったら、印をつけておく」などの、時間を与えておければもっといい。

最初は授業時間が削られるし、う~んものなのですが、ただ、二回、三回と(私が忘れずに)繰り返しさえすれば、費やされる時間は、だんだん短くて済むようになっていきます。「文法」だって、最初の頃は読めなかった。それが最近は、こちらが忘れると、学生の方から、「先生、文法まだ(やってないぜ)」とお声がかかるようになっていることですし。

毎年、「初級」が終わり、「中級」に上がって、「読解」をやるときにはいつも、どの程度まで質問すればいいのかで悩んでしまいます。手探りで探し当てるしかないのですが、この葛藤は一ヶ月くらい、悪くするともう少し長く続くこともあります。こちらの方がいいと思っても、思い切れない部分が邪魔をするのです。こちらが答えを全部言ってしまっては「読解」の授業をやる意味はありませんし、かといって質問すると、沈黙というか、多分学生の方でも答えたいけれども、何が何だかよくわからないという状態で、三すくみ状態になってしまうのでしょう。

それがスーダンの学生を教えていたとき、「そんなこと、やったことがない(質問されたことがない)。どうすればいいのか判らない!」と叫ばれて、吹っ切れた。

曰く「『勉強ができる(成績がいい)学生』というのは『暗記力』に長けた人のことであり、文章を理解するための質問なんぞ、されたことがなかった。だから、先生の訊く意味が全く判らない」。別にそれで評価されるわけではなければ、(好き者であれば勝手に考えてしまうでしょうが)褒められることしかやらないというのも判ります。そしてそれしかないということになる。

で、説明に集中するようにした。終わってからも、「どういう気持ちでやったか」「みんながこうされたり、こう言われたりしたら、どんな気持ちになる?」。訊くのはせいぜいこれくらいのもの。

けれども、慣れというのは恐ろしいもので、こんな説明ばかりしている授業であるにもかかわらず、主語が言える人や、指示されているものを言える人が、少しずつ出てきたりした。

この過程を経ていなかったから、判らなかった、言えなかったのだということがよくわかりました。

とはいえ、毎年というか毎期、学生達は変わります。「非漢字圏」の多い人達の間でも、差はかなりあります。クラスの授業でどの程度まで緩やかにしていけばいいのかはその都度考えていかねばなりません。緩すぎてもうまくいきませんし、きつすぎれば、授業が沈黙の世界と化してしまいます。

4月からですから、やっと今頃、これくらいかが掴めたわけで、不器用な私に教えられる彼らがかわいそうになることもあります。尤も、肚ではごめんねと言いながらも、表面ではそれをおくびにも出さず、強面で通しています。

本当は、謝っているんだよ、君たち。ごめんね。

日々是好日
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国の教科書は全部「英語」で書かれていた。先生がそれを「母語」で、説明してくれたけれども…。

2024-05-22 08:32:37 | 日本語学校

曇り。

「アジサイ」が咲き始めると、「梅雨入り」間近という気がしてくるのですが、奄美・沖縄地方はもう「梅雨入り」をしたとか。このあたりでも、もうすぐでしょうね。

スーパーの近くにある植木屋さんの庭には、幾種類もの「アジサイ」やら、「ウツギ」やら、白い「つるバラ」やらが、盛りを迎えています。花がたくさん咲いていると、それだけで「豪華!」と感嘆符をつけたくなってしまいます。やはり自然が一番「すごい」ですね。

さて、学校です。

学生達の間には、「英語」という「呪縛」が、かなりかかっていて(それは日本人でも同じなのでしょうが、少なくとも日本では日本語という母語で教育を受けることが出来ます)、それを解き解くのにかなり時間がかかることがあります。場合によっては、それが無理なこともある…。特に「在日」の人では(勉強する期間が三ヶ月ほどしかない場合もありますし)。

時々、日本で中学校に通いながら、日本語の授業を受けに来ている「中学生」を教えることがあるのですが、東アジアや東南アジアからの学生はまだいいとして、特にイギリスの植民地だったところとか、その周辺から来た人に、この「呪縛」にかかっている人が少なくないのです。

何かの事情で、日本に来た。そして日本の学校に通っている。来たばかりであるから、日本語がわからない。日本語がわからなければ、授業がわからない(中学校の授業について行けない)。自分は、そういう状況に耐えられない。それに甘んじることはできない。なぜなら自分は優秀であるから…というのが、根底に見え隠れして、素直に他者や物事に対していくことができない…ように見える。

自分は優秀なのに、日本語がわからないせいで日本人と伍していくことができない。その精神は素晴らしいと思うのですが、そこに「威を張りたいのに、張れない」というような意識があるようで、それがどうもいただけない。他者と彼とを隔てているような気がする。

この学校では、そのような面はあまりは見せなかったのですが、それは私たちが彼なりの主張・不満を聞いた(吐き出させた)上で、授業を進めていったからでしょう。モヤモヤがあると授業に集中できませんから。もちろん、それは個別授業と言ってもいいような形でできたからのことで、公教育では一斉授業ですから、それは望むべくもないこと。無理です。

話を聞いていると、「私は英語ができる」が、そもそもの(不満)の根底にあるようで、「日本人は英語ができないのに(英語ができる自分の方がなぜ下なんだ…」と来るのでしょう。

彼曰く「国の授業では、教科書はみんな『英語』だった」。聞いた感じでは、それを誇っているかのよう。「どうして日本では「英語」の教科書を使わないのか。レベルが低い国だ」くらいの気持ちで言っていたようです。これもしょうがないでしょうね、そういう国から来ているのですから。

留学生であったなら、「教育」というのは国力が出やすいもの。ある程度の国力がある国では、「母語」で高等教育まで受けることができるが、それほどではない国では、何から何まで「借り物」でやらなければならない。つまり、そういう国では、「英語」ができるかできないかで、成績が決まってしまうし(当然、進路も決まるし、職業も決まってくるでしょう)、クラスの中の人間関係での順位まで定まってしまう…かもしれません。

「英語」が得意であったら、それだけで頭一つ抜けてやれますから、それほどの能力がなくとも、威を張ることができる。で、それが日本で通用するかというと、当然のことながら、英語は科目の英語だけで、他は日本語での授業ですから、不満がでる。「こいつら、英語ができないくせに」。早く、この「呪縛」が解ければいいのですが、これで育ってきた人で、それだけが取り柄という人には、これは…ちと難しい。

以前、彼と同国の留学生に聞いたことがあるのですが、「(学校教育では)『教科書』は『英語』で書かれていて、何にもわからなかった。授業では、先生が『母語』で、内容を説明してくれて、それを聞くだけだった」。その時は、…そうか、だから「読解」が苦手なんだ。(こんな簡単なことを)どうしていいかわからないんだと、立ち竦んでいる彼らを責めることが間違いであることが、その時、よくわかったのですが。

それからは、一転。スッパリと授業のやり方を変えました。本を読むという習慣がついていなければ、日本語でつける。とにかく読ませる。読む、読む、読む。その繰り返し。意味はわかっても判らなくてもいい(説明はします。ちょっと乱暴な言い方ですが)。何度も読む練習を一緒にし、漢字も、漢字の時間でなくともやる。それを繰り返す。内容(つまり、読解)に拘らない。最初は答えをこちらが言い、説明するくらいでいい。読むのが嫌だだけは感じさせない。

それに、自分もそうだったのですが、外国人(よく知らない人)と話しているとき、わからないこと(あるいは言葉)があっても、聞いたりしなかったのです。いちいち聞いたりせずに、適当に受け答えしていた。そのような状況が続くと、いつの間にか、それに慣れて、テキトーが身につく。不便を感じなくなってしまうのです。その点、本がある(文字や図、表などがあると)と違います。意味がわからなければ、調べることもできるし、読み返すこともできる。一度で判らなければ、二度三度、あるいは間をあけて読み返して理解を深めることもできる。

この差は大きい。彼らも、国にいれば、これまで通りテキトーにやって、困ることはなかったでしょう。政治や経済、文化や生活の細々としたことなどを誰かと膝をつき合わせて話すようなこともなかったでしょうから。母語であろうと、いわゆる(日本で)「工場」などのアルバイトで使うような日本語だけで事足れりとなるのも、ある意味からすれば、当然のこと。

「読解」の授業のように、「指示語」を問われたり、文章の流れを聞かれたり、筆者の意見を考えさせられたりすることに、慣れていなければ、どう答えていいか、そもそもどう振る舞っていいかさえ判らず、固まるしかないのも、宜なるかな。

しかし、反対に言えば、英語さえ、ある程度わかっていれば(家庭環境によるのでしょう。小学校一年生で、英語を習っていないのに、できるとは思えない)、それほど英語力に長けているとは思われない小中学校の教師を馬鹿にすることもできるでしょうし(そんなこと書いていないとか、違うよとか言えますから)、素直に勉強に集中することもできないでしょう。

困ったなあと気の毒だなあと同時に感じながら、それでも、とにかく力はつけさせていかなくてはなりません。

日々是好日
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「読解」は、最後は「絵」で説明します。

2024-05-20 06:29:21 | 日本語学校

小雨。

雨だと、なかなか明るくなりません。朝起きでも、日が射していないと、どうも朝という気がしません。面白いですね。「体内時計」のせいなのか、それとも「慣れ」なのか。

さて、学校です。

雨の日は傘の間違いが多いので、今では各教室の前に、傘立てを置いています。以前は入り口の傘立てに皆立てていたのですが、そうなると(帰る時に)間違えて持って帰る人がいて、必ずと言っていいほど、騒ぎになっていたのです。どれが自分のやらわからなくなるのも、同じようなビニール傘ですから、しょうがないといえばしょうがないこと。誰かのせいというわけでもないのでしょうが。

各教室の前だと、その教室の人が忘れたと言うことがわかりますから、「この傘、誰の?」も言いやすい。私たちにとっても彼らにとっても、まあ、その方が都合がいいと言うことになります。

ところで、話はかわりますが、読解」の授業のことです。

だいたい、「初級」が終わり、「中級」に入りますと、嫌でも「読解」が入ってくる。しかも「初級」の時のように、学生たちの状況を斟酌してくれたものというわけでなく、普通の文章なんども入ってきますから、そこで学生たちは途端に立ち尽くすということになる。

「接続詞」や「指示語」は言わずもがな。それに、年が長けてくるとこちらも慣れてきて、だんだん「おおらか」になってくる。最初は「逆接」が捉えられればいいくらいになる。

毎度のことなのですが、「A。しかしB」は「A」がマイナスなら、「B」はプラス。反対に「A」がプラスなら「B」はマイナスと、「初級」で習った二文を飽きることなく言い続け、誰かが悟ってくれるのを待つようになる。そうすると、必ず「そのとき」は来ますから、「いつか」クラスの誰かがそれを言ってくれるようになる。勿論、その「いつか」というのも、クラスによって、速かったり遅かったりするのですが。

ただ、母国で「本を読む」という習慣がある人たちであれば、本当にこれらは蛇足です。

それから、「対比」も繰り返せば、わかってくれるようになりますし、「換言」もそう。ところが、簡単なようでいて、案外「並列」や「累加」に戸惑ってしまう人が少なくないのです。説明もしやすいので、こちらもわかっていると、簡単に思ってしまう。ところが、「問い詰めて」いくと、わかっていなかったりする。

なぜか。そのまま流れていってしまうからなのでしょう。

例えば、「『A』。しかし、『B』。また『C』。その上、『D』」なんてのがあれば、何が何だかわからなくなってしまう。この「また」や「その上」というのは難物ですね。説明に手がかかる。手がかかっても、一応説明した。で、さて、理解できているかというと、多分、できていない。こちらの顔色を見ながら、こう言ったら、先生はホッとするかなくらいの気持ちでわかると言ってくれているよう。

図に描いて説明しても、「ああ、そうか」というのは、悪くすると五分の一くらいだったりする。

以前、ちょっとばかり「読解」が苦手な人たちが揃ったクラスを持ったことがあって、そのときは、「絵」を書いていましたね。状況も「図」では通りが悪いのです。

それを思い出せば、「図」の説明で済んでいるだけましかなどとも思ってしまうのですが…。

一言付け加えて言いますと、学生たちは、皆、普通の能力を持ち、仕事でも親切さでも他の人たちに全く引けをとりません。こちらが作業などを手伝ってもらう時でも、中には一と言えば二も三も勘が働く人たちもいるのです。

そういう人たちでも、慣れないせいか、「読解」の時だけはこちらにため息をつかせる。本当に子供の時から本を読むことの必要性を、毎日のように感じさせられています。

少なくとも、日本では、教科書は日本語で書かれていますし、それを読む習慣もある。本が嫌いでも、教科書は学校教育の間は読まざるを得ませんから。

本当に不公平だなあと感じさせられることも多いのです、こんな仕事をしていますと。

とはいえ、「試験」のためには、この、いわゆる「苦役」を強いざるを得ない。時々、本当に気の毒になるのですが。

日々是好日

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国による教育制度の違いをある程度知らないと、困ることがある。なにせ、日本語学校は学生達の希望に応じた進学先を探さねばなりませんから。

2024-05-17 08:20:56 | 日本語学校
晴れ。

日差しは強くなった…ようでも、空気は…冷ややかというか、日陰に入れば、まだ夏ではないと言う気がしてきます。乾燥しているので、しっとり感はゼロです。このまま夏に入るか…というのはあり得ないこと。例年ですと、あと一ヶ月弱で「梅雨入り」ということになる。

今年の「梅雨」はどうかしらん。「空梅雨」ということはないかしらん。貯水湖の水量はどうなのかしらん。いくらこのあたりで雨が降っても貯水湖のあたりで降ってくれないと、水の心配をしなければならない…とかとか。心配事は、…心配しようと思いさえすれば、後から後から湧いてきます。

さて、学校です。

昨年度の学生達も、7月の「能力試験」が終わったころあたりから、進学について、話し合いをせねばならないでしょう。聞けば、それなりのことが言える学生もいるようですから、それはそれとして、考えていけばいいのでしょうが、決めているという学生の大半は、そこに友達がいるからとか、同国人が多いらしいからという理由のようです。そんな中、これを勉強したいといえる学生が一人でもいると、ちょっとほっとしたりしまいます。なにせ、「何を勉強したい?」「先生が決めて」という学生だって少なくないのですから。どんなことが勉強できるのかわからないのです。いえ、わからないというより、勉強できる「何」があるか、知らないのです。

もっとも、「これを勉強したい」というのがある学生でも、時々困ってしまう場合もあります。旧イギリスの植民地だった国からきている人たちです。大学まで進んで来ている人は、それほど困らないのですが、いわゆる高卒で来ている人の中には、簡単な計算でもなかなかできない人がいて、小学校の教師として働いたことのない身にとっては、それをサッと教えると言うことが難しいのです。

最初のころは、小学校の算数の教科書やら、公文のドリルやらをもちいて、教え方を考えたりしていたのですが、例えば、「プラス」と「マイナス」がひしめいている計算など面倒。

まず、直線を引いて、真ん中に「ゼロ」を書き、足し算などでは、「マイナス」のついた数が大きければ、答えは「マイナス」になり、「プラス」の数が大きければ、(チョンチョンと線の数の上を飛ばしていき)、「プラス」になる…。ここまではいいのですが、そのうちに、「マイナス1」から「マイナス5」を引くと、「プラス4」になるなどが出てきて、「どうして」と聞かれたりすると、もう、「このときはこう」で習慣になっている当方にとっては、これが難しい。んんん…どう説明すればいいんだになってしまう。

早くから道を分けられてしまう「教育制度」というのは、一長一短。強いて言えば、「短」の方が大きいような気がする。あまりに早く分けられてしまうと、大人になってから必要となっても、手がつけられなくなり、結局は、諦めてしまうことにもなりがち。

習った経験さえあれば、どうにかなることでも、ゼロだと、おそらくイメージもわかないのでしょう。これは「グラフ」とか「図形」などでもそうでした(高校進学を目指している学生に教えるとき、苦労したのです。数学のセンスさえあれば、多少の障害など飛び越せるのですが、それがない普通の学生だと、教える方も習う方も大変)。

学んだことがないこと(特に数学というか算数)というのは、大人になってから学ぶのは、他人が考えるよりもずっと難しいことのようです。特に、数学なんてある種のセンスを必要とするような学科はそうなのでしょう。知識なら大人になってからある程度は入れることができても、算数のようなものは、とくに基礎の基礎というものは、難しい。しかも外国語(日本語)で教え、習おうと言うのですから、二重三重もの苦労が彼我に生じてしまいます。

学生達がよく進学したいという自動車学校なのですが、いくら「算数」は計算だけだから、「数」と「記号」を見ればいいし、「式」は万国共通だろうからと思っても、聞かれると、はて?どう説明したらいいんだとなる、こちらも。

小学校で、この「どうしてか」を習っているのでしょうが、もうこの年ですから、忘れている。つまり「なぜ」を相手がわかるように説明できない。「マイナス」×「マイナス」は「プラス」とすぐやってしまい、改めて問われてしまうと、んんんんとなってしまうのです。

割り算などもそう。以前、フィリピン人が、どうしても「読解」の文章ができなくて、ほとほと困ったことがありました。計算がどうも苦手だったようなのです。思わず、「困ったなあ。こうだと、割を食ってしまうよ。損をしないように頑張ろう」と言って、その時は説明をしたのですが、これが案外に難しい。結局は、おもちゃの果物を並べて、「この一つが20円としますね。それからこちらの方は30円としますね、それから…」とやって見せて、どうにかわかった…ようでしたが。

としても、「読解」を教えていく時、そういうのを毎回していくのはちょっと無理なのです。大半の学生は放っておかれることになりますから。勢い、そういう計算の文章がでたら、捨てろと言わざるを得ない。なにせ、テストは時間との闘いですから。できそうなものに時間をかけよとしか言えなくなる。テストの日にちが迫っているときには。

結局、その学生、自動車の専門学校に合格できたはいいけれども、学校から、簡単な計算の問題集が送られてきた。入学までにこれを勉強しておくようにということなのでしょう。けれども、もう入れたわけですから、あとは専門学校がやるべきこと。合格するまでは、こちらも、簡単な数学の計算、つまり分数やら小数やらをある程度は教えたりして苦労したわけですから。

最初は、驚くだけだったこういうことも、今では、「母国の小学校か中学校の教科書を送ってもらって、それで勉強してね」か、同国人の理系(数学を勉強したことのある人)の学生に考えてね」ということにしています。だいたい、それを理解できない人に外国語(日本語)で教えるなんて、土台、無理な話。相手は「N3」にも合格できていないような日本語のレベルだったのですから。

昔は、随分突拍子もないことをやっていたのだなあと、今から思えば、冷や汗ものです。

日々是好日

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新入生も、だいぶ慣れ、普通に挨拶し、普通に学校に来られるようになってきました。

2024-05-16 08:25:06 | 日本語学校
小雨。

出がけは止んでいた雨も、歩いているうちに、パラパラと降り始め、あちこちでパラパラと傘を開く音が聞こえてくる…。多少濡れても、本当に気持ちのいい朝です。暑からず寒からず、しっとりとした空気が流れ、なんとも言えず、落ち着く。草木の葉先には、小さな光が溜まっていて、風でも吹いたら、すぐにこぼれ落ちてしまいそう。いやあ、いいですね。

さて、学校です。

最初は30分前には来ていた新入生達も、今は、その時間に来るのは、2,3人ほどになり、ばらけてきました。やはり五分前ぐらいかしら、ドドドッとやってくるのは。そんなもんでしょうね。来ても何のメリットもなければ。ただ、この期の学生たちは、電車通学の人達が少なくないので、電車が遅れることを考えて、行動してもらいたいのですが。少し早めにうちを出た方がいいのです、本当は。とはいえ、来日前まで、ゆったりした時間の中で過ごしてきた人達、急には変われませんよね。

まあ、アルバイトをするようになるまで、無理かな。アルバイトを始めれば、だんだんに日本の生活にも慣れ、変わっていくことでしょう。時間は守らねばならない。そのためには、少しばかり早めに行動を起こさねばならない…というのがわかってくるでしょう。

あるときは「新入生」と言い、またあるときには「四月生」とも言うのですが、同じように4月から勉強を始めても、来日直後のレベルは、人によっても様々。

たとえば、ある国のある学校からの学生は、大体皆「文字」がちょいと変だとわかっていても、来日後に正していくしかないのです。本当は、初めての、(母国での)導入時から正しく書けた方がいいのでしょうけれども。

コロナ禍前は、その国に行って面接をし、その都度、問題点を説明していましたから、多少はどうにかなっていた面もあるのですが、今はそれもせず、「ズーム」で済ませている故、来日後、担任が苦労することになってしまいます。

昨年度も、ネパールの学生に「どうして、この字に『点』が三つもあるの?」と驚いてしまったことがあるのですが、学生曰く「(ネパールの)先生が悪い…」。同じように「点」が三つある学生が他にもいたので、ネパールのある地域、あるいはあるところで日本語を学んだ人(教師)が、皆そうだったのかもしれません。そして習ったとおりに教えたものだから、それがじわっと拡がっていって、別の地域に住んでいるのに、同じように「三つ点」で覚え、来日してしまった…。

それと「試験用の日本語」しかやってこなかった人も大変ですね。「理解」とかとは全く別の、いわゆる「暗記」だけで、合格して来た人達。(試験に)出そうな所を何も考えずに、覚えられるというのも、確かに才能だとは思うのですが、来日後、いざ、系統だった勉強をするとなると、却ってそれが邪魔になったりする。

「文字」は言わずもがな。思わず、「『N5』試験に一応は合格してきたのでしょう?」と問い質したくなるような人も、中にはいる。このような勉強が成り立つというのも、ある意味、罪作り。

まあ、合格すればいいだけしか考えていなければ、そうなるのかもしれませんが、来日できたらできたで、ゼロからの出発は大変なのは、わかりきったことだと思うのですが、それを注意しない「学校」というのも問題。もしかしたら、そういうまどろっこしい教え方をする学校の方が、現地では「ペケ」になってしまうのかもしれません。時間もかかれば、習うためのお金もかかるでしょうから。それよりも、ただ「暗記だけ」が得意という人達にとってみれば、その方が「いい学校」と映るのかもしれません

それならば、数やら助数詞やらの方を、来日前に覚えさせてくれた方がずっといい。他の文法事項はともかく。来日する前でしたら、懸命に覚えるであろう事も、来日後は気持ちが緩んでいるせいか、なかなか覚えられないのです。毎日繰り返していても、一週間ほども空けると、きれいさっぱりと忘れている。これが来日前に覚えておくと、不思議なことに忘れないのです。やはり気持ちの問題なのでしょうね。覚えねばと、真剣に覚えたか、あるいは、もう日本に来たからと適当に覚えたか、この違いは本当に多い。

来日してから、こういうものがきちんと覚えられる人は、案外少ないのです。その時は言えるようになっても、すぐ忘れてしまうのです。来日前でしたら、おそらく心構えが違うのでしょう。来日後は多少覚えていなくてもなんとかなるというのがわかってしまいますから、気力も失せる。来日前は、それがわからないので、真剣になるのでしょうね。

日々是好日
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「読書百遍意自ずから通ず」ですね。

2024-05-15 08:20:11 | 日本語学校

晴れ。

「五月晴れ」です。今朝は「涼」で、爽やか。風はないけれども、公園には小枝が散っていました。ちょうど小鳥さんが巣作りをするのに適したほどの細さ、短さ。とはいえ、もう、巣作りは終わっているのでしょうね。

「三日見ぬ間のなんとやら」とは、よく言われるところですが、朝と昼とでも景色はかなり違っていて、昨日、昼にうちを出て歩いていると、朝になかったはずの草花の姿があちらでもこちらでも見受けられました。…違う道を通っているみたい。

さて、学校です。

昨日は一コマだけでした。このクラスでは、昨日は「読み」と「書き」に徹して(「中級」なのですが)、やってみました。「読み」は、一文を一文節か二文節、あるいは三文節ほどに切りながら、3,4回ほどでしょうか、読む練習です。口慣らし程度に。「ひらがな」が続きますと、(「新出語」を何回を読み、「漢字」も時間を与えて、「はい、覚えて」とやっても)切る場所が掴めない人が若干名いるので、これは必要なのです。もちろん、初めての文でも、すぐに「ああ」とわかる人もいます。

これを、暗記できるほどにやってしまうと、もう「字を追わなくなって」しまうので、それは避けた方がいいのです。せいぜい、「口慣らし」程度がいい。それが済むと、「はい、ここからここまで、自分で読んでみてください(3,4行です)」とやると、何人か、「字を追う」のが大変そうな人はいるのですが、それでも練習しましたから、読んでいけるのでしょう。これをやらないと、「苦手」「苦手」「苦手」、次に「難しい」「難しい」「難しい」の山に埋もれてしまって、身動きが取れなくなってしまいます。こうなってしまいますと、読むという意欲さえ失われてしまうのです。

読みさえすれば、いいのです。時間はかかるにしても、そうしていれば、少しずつでも、苦手意識は薄れ、「読める」と思えるようになってくれるでしょうから。…そう簡単にはいかないでしょうが。

母国で、先生が「英語の教科書」を読んで、その内容を説明する。英語がそれほど得意でない学生は、本を読んで勉強するでなしに、先生の説明を聞いて覚えるだけ。自分で読んで理解するという習慣が、それほど育っていない人達には、日本でこの「一苦労」をすることになるのは、私たちが思っている以上に大変なことなのかも知れません。とはいえ、日本社会で仕事をすることになれば、それは必要になる。読めると言うことは、やはり必要なのです。もちろん、字が読めなくてもいい、体力勝負だという会社もあるでしょうが、数年でもそこで働いていれば、その、文字が読めなくてもいいという自分の立場に、不安を感じてくるのではないでしょうか。私はそんなモンかなと。

とはいえ、暗記が得意の学生は、この「『3、4回』繰り返して練習する」というのに、耐えられない。すぐに飽きてしまいます。何回も練習しているのに、まだスムーズに言えないのかと、そういう目つきで、他の学生を見たりする。そういう学生は往々にして、「文字」を小馬鹿にしていますから、「一人で読め」と言われても、たいていの場合、「漢字」や「カタカナ」で止まってしまい、読んでいくことができません。つまり、「誰か」が必要になってしまうのです。一人では完結できないのです。けれども、母国ではそれでよかったので、どうしてもその習慣から抜け出せないのでしょう。下手をすると、卒業するころになっても、「字を追いながら、一人で読み、意味を掴む」という勉強に馴染めないままという人も出てくる。

昨年の10月に来た「十月生」にしても、もう半年は過ぎています。そういう勉強をするように、仕向けてきてはいるのですが、これが案外難しい。先入観があると言われればそうかもしれませんが、ある国から来た学生は10人いたら、一人以外は皆似たような状態になってしまう。「漢字」は、同じ文字であるにしても、「アルファベット」さえ覚えれば、後は情報を入れるために読めばいいというようなものとは違います。「『ひらがな』は書けるし、読める」と威張っても、一ページまるごと、「ひらがな」で書かれたとしたら、そりゃあ、日本人でも、読むのに苦労してしまいます…だから、おそらくだれも読んでくれないでしょう。漢字が、所々に入っているからこそ、すんなり読めるというもの。

言いたいこと、やりたいことが山ほどあっても、文字が書けなければ、「読んで習得」することはできません。勢い、徒弟のような修業方法しかなくなる。それでもいいのでしょうけれども、そこに至るまでに「テスト」という文字を介在にしたものがある。それに通らなければ、いくら「自分には、それを学ぶだけの気概も能力もある」と力説しても、無理でしょう。専門学校を卒業せねば、それがわかってくれるであろう人達のところへは到達できないのですから。

本当にこういう人達を見ていると、「『文字』さえ、学ばなくてすめば、どうにかなるであろうに」と思います。ただ、「(技術を)見て覚える」だけなのは「書かれているものと併用しながら学ぶ」よりもずっと難度が高いと思うのですが、それは、多分、彼らにはわからない。見て、覚えて、育ってきているだけのような気がするのです。

「見て覚える」だけでは、何事も為し遂げられない。やはりそれを書いてあるものを読むのも大切なはずです。だから、「漢字」も覚える必要がある…日本で学ぶというのなら。

口を酸っぱくしても、この国のある種の人達には全く通じない。で、このクラスでは「読む・読む・読む」を徹底させることに。まさに「読書百遍意自ずから通ず」です。今は、「指示語」も「接続の関係」もやらず、やるのはせいぜい「動詞」に関するものくらいにして、「読めた」という達成感を味わってもらうことに。

もちろん、「Aクラス」では、「読み」を簡単にして、どんどん質問はさせてもらっていますが。

日々是好日
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学校の近くに住み、近くでバイトを探すのが一番。

2024-05-13 07:53:22 | 日本語学校
雨。

しっとりと雨が降っています。時折、小降りになるものの、止むことはなさそうな降りです。まるで「梅雨」時の雨のよう。連休が終わったばかりだというのに、もしかして、これは「梅雨の走り」なのかしらん。

四月の雨の時には、「まだ、傘を準備していないだろうから…大丈夫かな」と心配させられていた新入生たちも、最近の雨には折りたたみの傘やら、頑丈な傘やらを持ってやってくるようになっています。これで、アルバイトが始まりでもしたら、自転車用に雨具一セット準備という感じになるのでしょうね。

今のところ、知り合いがいたり、親戚がいるという学生以外は、まだアルバイトを初めていないようですが。

アルバイトと言えば、ここ一年ほど、住むところで少々問題が生じていました。住むところが学校から遠くなってしまうと、自然、その近くでアルバイトを探すことになりますから、学校の手が届かなくなってしまうのです。

昨年、そういう学生がいて、半年以上もかかったか知らん、やっと学校側の言うとおりに近くに引っ越してきたのですが、先に見つけたアルバイトをなかなか変わろうとしない人がいて、事情があって変われなかったのかどうかはわからないのですが、わざわざアルバイトのために遠くまで行っていました。その学生も、今回、さすがに体調を崩し、やっと近くで探す気になったようです。

最初の頃はともかく、留学生たちは近くに住んでもらうようにしていたので、相手先の学校が用意した住所が、一時間以上もかかるところだったので、びっくり。自分たちで準備するから(寮を準備しなくても)いいという話だったので、安心していたのです。それが、学校からそんなに遠いところに準備されているなんて…学生が来て話を聞いて、そりゃあ、無理だよということに。

それで、すぐに近くに移るように言ったのですが、前払いしていたようで、なかなか話が進みません。最初の学生(四月生)はまだしょうがないとしても、七月に来た学生は、あの暑さの中、乗り換えを繰り返し、学校に来ていたのですから、休みがちになってしまうのも当然のこと。やっと、どうにか引っ越しができたのも、半年以上は経っていたでしょうか。

電車で一駅のところに引っ越したのですが、歩いてきても電車に乗ってもほぼ同じ時間なのに、電車に乗るのですよね。歩いても30分かからないでしょうし、途中公園もあるし、気分転換にもなるのではないかと思うのですけれども、そうはならないのですよね。

曰く、「金持ちは車に乗る、次の金持ちは、オートバイに乗る、次は自転車。歩くのは貧乏人だけ」。もしかしたら、まだ、この「考え方」に支配されているのかしらん。こういうのは、なかなか、頭から剥がれ落ちていかないものと見えます。

健康のために、一駅分歩くとか、必死に歩こうとしている日本人から見ると、へ????なのですが。

とはいえ、体調を崩したせいで、「前のバイト先(左記の住所の近くだったらしいのですが)を首になるだろう。だから体調が戻ったら、探さなきゃ」となったのは、まあ、けがの功名というか、そんなものかもしれません。

「住むところにしても、バイトにしても、近くが一番ですよ。最初にそこで始めたからで、だらだらと時間ばかりかかるところに住んでいたり、通ったりしたら、疲れてしまい、やる気もなくなるのは自分なのですから。勉強のために来ているのですから、時間を一番最初に考えましょう」。

そういえば、10円高いからと電車で遠くまでアルバイトに通っていた学生が、昔、いました。そのときは、「たとえば…」と計算してやって初めて、…そうだったのかとやっと納得してもらいましたが、こういうことにも慣れていない人たちには、まずはデーターですね。いわゆる「見える化」でしょうか。

日々是好日
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国によっては、勉強というのは「覚える」だけという場合もある。…そういう教育を受けてきた学生に「なぜ」と問いかけ、答えを考えさせていくのは、思ったより、ずっと難しい。

2024-05-10 08:21:22 | 日本語学校

晴れ。

空気はヒンヤリとしているもの、風がほとんどないせいか、気持ちよく歩けました。陽が当たっているところでは暖かさを感じたくらいでしたから、今朝はかなり寒かったのでしょう。小鳥の声が静かに聞こえて来ます。先だってのあの騒ぎは何だったのでしょうね。

「ドクダミ」の花が咲き始めました。いつもの道ですから、そろそろ開きそうだなと見ていると、だいたい、その「いつも通り」に咲いてくれます。ただ、今年は早くから夏日になったかと思ったら、今度は昨日のように、最低気温が十度を下回ったりしているので、春に目覚めた虫や花たちは大変ですね。「おっとっと、早まった」と後悔したときには既に遅し。今更、穴に逃げ込むわけにもいかぬし…、冬物というか春物を早くしまい込んでしまって凍り付いている人間のように過ごすしかない。

さて、学校です。

「読解」の勉強のことなのですが、昨年度(二年目)の人達も、同じことを幾度も繰り返し、その時々にそれなりに参加してきた人は、少しずつ(日本語の)勉強の仕方にも慣れて、(授業の時も)楽になってきているように見えます(思い違いでないといいのですが)。漢字だって読める字が増えてくれば、やる気も出てくるでしょうし、こちらの問いに答えられれば、それは面白くもなってくるでしょう。そうなってくると、どうしても、母国での、いわゆる成功体験や考え方から抜け出せない人達は、どんどん置いて行かれ、差が広がってくるということにもなってくるのですが。

どうしたらいいのでしょうね。この、ある国から来ている人達はどうしても、その尾っぽを切り取り、付け替えることができない。…変わるのは大変だから、そのままで、嵐が過ぎ去るのを待っている…ようにも見える。実際、待っていても状況は変わらないのですがね。「日本語を『学校』で学ぶ」の中には、必ず、「文字」が含まれてきます。「聞き取れればいい」、「話せればいい」の世界から離れてほしいと思っているのですが、…できないようですね。(学校を除けば)アルバイトで遣われる日本語なんて、高の知れたものですから、それで事足れりと思ったら、もうそこでピリオドが打たれてしまう。

当人は、漢字を覚えるのは面倒だし、「読解」の質問なんてけったるいことだと思って、いるのかもしれあせん。バイト先の人などとの会話は、楽で手っ取り早いし、それでいいと踏んでいるのかもしれません。楽で手っ取り早いどころか、本当は、一番の遠回りの道を歩んでいるのですがね。こちらから見れば、どんどん面倒な深みに嵌まっていっているとしか思えないのに。頑固なんでしょうかしらね。柔軟に動くことができないのでしょうね。一旦入ってしまった考え方から逃れられない…。


同国人の、先輩達の失敗を、いくつも見ているはずだし、話も聞いているはず。それに加えて、来日してからは、(あの国の人はこういう傾向があるなということで、特に高校の成績が良かった学生に対しては)、当方も倍も口を酸っぱくして言っている。それに、数ヶ月か経てば、こちらの言うとおりに、漢字を覚えたり、あるいはこちらの質問に答えるべく、考えていた人達はそれなりに、漢字も読めるようになり、答えも出せるようになっている、その姿を見て、自分たちと引き比べたりしないのかしらん。

学校でどういう授業を受けてきたのだろうと思ったりします。もちろん、いろいろな国の学生から、悲鳴めいた訴えを聞くこともありますし、「どうしてそんなことを聞くんだ、考えたこともない」と批判(?)されたこともあります。

学校教育の中で、どうも「なぜ」や「どうして」がないようなのです。日本での場合、文章の、最後のまとめとして、筆者の気持ちや考えを聞くことが少なくないのですが、それがどうもピンと来ないらしい。「単語もわかるし、文法もわかる」となっていても「何が言いたかったのか」とか、「このときの筆者の気持ちは」とか聞かれると、んんん…となってしまうらしい。

どうも、「覚えたら終了」で、「意味など問わない」のが普通らしく、「『何が書いてある?』どういうこと?…『どうして?』そんなこと考えたこともない。どうしてそんなこと聞くの(考えるの)?」。

こういう彼らにしてみれば、それこそ、「何じゃ?何じゃ?何じゃ?」なのでしょうね。

これは、最後の「進学を目指した面接練習」の時に、バアッと出てきます。耐えていたものが一挙に吹き出してきたような感じで。面接に際しては、まず、専門に対する自分の気持ちをはっきりと言えなければなりませんし、どうしてそういう気持ち(学びたいと思う)になったのかについても、自分の経験を通して自分の言葉で言えなければなりません。隣の人の答えを、まるごと、ごそっと写すわけにはいかないのです。

とはいえ、友達がそれをやるからとか、それしか知らないからとかいう場合も少なくありません。聞かれて困ってしまうのです。しかしながら、たとえそうであろうと、それを選んだのですから、そこには何らかの「引っかかり」があったはず。それを引き出そうと、こちらは「なぜ」とか「どうして」のみならず、様々な問いかけをしているのですが、「自分のことを考えたこともないし、言おうと思ったこともない」ので、引き出すのに、かなり骨が折れる。…語学だけの問題ではないのです。

「読解授業」と、最後の「面接練習」とは、見えないところで繋がりがあるのです。学校でやることには、何であっても、真摯に向き合っておいた方が、あとで楽になると思うのですが、…まだ、少し、難しいかな。

日々是好日
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違うクラスで、同じ教材を教えたときの失敗…。「午前のクラス」の尾っぽを「午後のクラス」の時まで引いてしまう…。

2024-05-09 08:25:36 | 日本語学校
5/09

曇り。

さっきまで、時折、陽が射していたですが、今は薄暗く、厚い雲に覆われています。今にも雨が降り出しそう…。

さて、学校です。

「Aクラス」中の「N3組」と、「Bクラス(N3)」の面々、ここしばらくは、同じ教材を用いていたので(「Aクラス」の方は二週間ほどで終えたのですが)、朝の「Aクラス」を終えてから、午後の「Bクラス」にすぐ入ったりしますと、少々ネジ巻きが進んでしまい、授業がうまくいかなくなったことが、たびたびありました…。

分けても、「修飾・被修飾」の説明と、「主語」の把握。「Aクラス(N3組)」の方では、「修飾・被修飾の関係」をそれほど問題にせずとも、するりと通り抜けができたのですが、「Bクラス」の方では、そうはならなかった。まさに、んんん…。

これも、考えてみれば、何ら不思議なことではなく、例年そうだったのです。…それを失念していた私が悪い。例年ですと、こういう問題に入る前に、ある程度の説明と練習を入れていた。だいたい「N3」に入ったばかりのクラスというのに、それは無理な話。

それを「我、過てり」ですね。今日、もう一度やり直しです。

「白い花」くらいだったら、「花」を説明しているのは「白い」であるとすぐにわかるのですが、その中に文が重層的に入っていたり、主語が書かれていなかったりしますと、結局、何が何だかわからなくなってしまい、沈黙しかあたりを制せなくなる。これも理の当然。…何ら不思議はない。

主語がない(書かれていない)というのも、文の理解を難しくさせているのでしょう。同士を見ればわかると言っても、主語がない文章になれている日本人にとっては、そうでしょうが、主語の有無にかかわらず、(母国で)文章を読む訓練をそれほど受けていなかったりすれば、それは、「何が何で何なのじゃ」となるのも当然のこと。焦った私が悪かった。     

それにつけても、「Aクラス(N3組)」、なぜするりと通り抜けられたのか…。休みがちの人と、どうしても午前中にしか来られないからという、ちょっとこのクラスのレベルに合わない人は、あまり計算に入れなかったとしても…よくわかったな。

このクラスでは、ついて行けなくなっても、ゆっくりはしませんし、諄くはしません。上に合わせて(もちろん、必要な箇所は入れていきますが)やっていきます。ゆっくりやりたかったら、午後に行くようにと言って、授業を進めています。下に合わせると、上が捨てられてしまうことになるのです。

この「Aクラス」には、普通の進度でやれていた「四月生」(昨年の12月の能力試験に「N3」合格)の中に、「N3組」として、ヒアリングがいいからどうにかなるかと思われたスリランカの「七月生」二人と、同じ「七月生」で、高校受験を控えているネパールの女子一人、それから「十月生」の二人(一人は中国人、もう一人は語学の能力に長けているなと思われるネパール人)が入っていて、複式授業の形をとっています。いずれ一つにするつもりですが。

もちろん、今は、「初級」が終わったばかり(3月)の「十月生」と、彼らよりも半年も早くから勉強している「四月生」とでは、かなりの差があります。しかしながら、一緒に勉強し始めて、既に一ヶ月。こちらの話に、同じように笑える部分も増えてきました。

それにいいところは、特に「十月生」なのですが、無理はしていないのです。見ていると(「文法」だけは、「N3」だけでなく、「N2」も受けさせています)、こちらが書けと言ったのに、書いていない時がある。聞くと、「無理ですから」と笑っている。そりゃそうでしょう。「N3文法」も入っていないのに、「N2文法」なんてそりゃあ、無理というもの。この「できる」「できない」を自分で見分け、「『できない』部分は放っといて、『できる』部分だけに集中する」ができるかどうかがキモなのです。聞いて思わず、「でかした」。

「そう。『N2文法』で、今、無理をする必要は全くない。聞いているだけでいい。『N3』の試験が終わってから、きちんと勉強しよう」。こちらのつもりでも、「非漢字圏」で、母国で大して日本語の勉強をやってきていない学生の場合、「N3」まではどうにかできても、「N2」の試験に一度で合格できるという人は、それほどいないのです。だいたい二度チャレンジしてやっと合格するくらいのもの。ですから、「Aクラス」の学生というのは、今年の12月に「N2」か「N1」合格を目指せるであろうということで入れてあるのです。

ただ「Bクラス」にも、資質的には、「Aクラス」に入れられそうな人はいる。とは言っても、今年の「一月生」として来ていたり、11月の中旬くらいから入ってきて、こちらの空き時間にチョイチョイ教えてきただけの人には、資質的には無理はないからといって、今「Aクラス」に入れるかというと、それはどだい無理な話。漢字一つにしても、まだ「N5」か「N4」レベルなのですから。手がまだ全然慣れていないのです。

とはいえ、二人のうちの一人は、読みだけは「N3」のものもかなり読めるようになっている。試験になれているのでしょう。もうちょっと早く来ていたらと残念は残念なのですが、「Aクラス」の人も別に遊んでいるわけでも、資質が劣っているわけでもないので、この差は、あまり縮まりそうにありません。

もっとも、このクラス(「Bクラス」)でも、今年の7月に「N3」に合格できたら、その時は、本人と話し合って、「Aクラス」に移るという場合もあるでしょう。結局は、本人のやる気(どういうつもりで勉強しているか)なのですから。

日々是好日
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