日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

今日は大掃除。猫の手か、足を引っ張らぬように手伝いましょう。

2021-12-28 08:18:38 | 日本語学校
晴れ。

「寒波」ですね。雪こそ降らね、確かに、昨日、今日と寒い。とはいえ、今日は大掃除。足の悪い私は、猫の手にも至らぬか、まあ、せいぜい足を引っ張らない程度にお手伝いすることにいたしましょう。

今朝、学校の「サザンカ(山茶花)」の樹に「メジロ(目白)」が二羽やってきて遊んでいるのを見かけました。蜜を吸いに来たのでしょう。つがいでしょうか、本当に久しぶりに見る「メジロ」です。ふるさとでは大群で「クリ(栗)」の古木にやってきたりしていたのですが、ここでは滅多にお目にかかれません。一羽でも見かけると御の字です。私には、「メジロ」すなわち「群れる鳥」というイメージがあったのですが、ここでまるで孤高の鳥です。可愛い鳥なので、これはちと言い過ぎか。「ひとりぼっち」さん、くらいにしておきましょうか。

以前、下の教室で授業をしていたとき、よくやってきたのは「ヒヨドリ(鵯)」でした。意味もなく小さな鳥をいじめるギャング鳥。体も「メジロ」や「スズメ(雀)」の二倍近くあるから、どうしても憎まれっ子になってしまう。

とはいえ、なんだか幸せな気分。ぷっくりとした「メジロ」を見たからでしょうか。

昨日、12月の「日本語能力試験」で、一応の区切りをつけ、学校をやめたフィリピンの学生が、顔を見せてくれました。どうも在校生と約束してあったらしい。彼女(在校生)がコンビニに行くと言って出かけたあと、すぐに顔を見せてくれたので、迎えに行ったことがわかったのです。以前、在校生が授業が終わってから、彼女と会うと言っていたので、聞くと別の場所で待ち合わせをしていたらしい。それで、外で待たせずに学校に来て待ったらしいのにと言っておいたのです。それでも、ちと敷居が高かったのでしょう、向かいに言って連れてきたようです学校に来るように伝えたのです。それで、どうも在校生が迎えに行って連れてきたようです。

真面目な人で、こういうと何ですが、日本人のような感覚でつきあえます。勉強も一生懸命にしていました。昨日は、「こんにちは」と顔を見せ、これまた我々も「いらっしゃい」と声をかけ、以前と全く変わりません。帰るときには「良いお年を」でしたもの。

いいものですね。以前、ここで学んでいた人がごく自然に学校に入ってきて、またごく自然に、友達の勉強が終わるまで、教室の席について待っている。コロナ禍のせいで、人が少ないこともあるし、もう休みに入っていますから、学校に来て勉強するのは、進学を目指す人たちか、漢字テストの残りをせねばならぬ人くらいですもの。

明るい彼女が来てくれると、みんなほっとして心が安らぎます。

昨日は、その上、英語の先生まで来てくれました。この人もとても明るく、お土産まで持ってきてくれました。あたりに明るさを振りまいて去って行きましたが、去ったあとも明るさはそこここに漂っていました。今日の大掃除のあとに、皆で頂くつもりです。

年末になると、寒さは増すけれども、明るい話題が一つ、また一つとやってくるようで、いいですね。

来年こそいい年になりますように。

日々是好日
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彼らに自由に話させると、これはまたこれで、面白い。

2021-12-23 08:44:43 | 日本語学校
晴れ。

ついこの間、夕方、東の空に、大きな満月が浮かんでいた…のに、今朝は中空に白い月がぽっかりと。随分明るくなっていたせいか、カミソリで薄く削ぎ落とされたかのように薄い月です。

外国のことを多少なりとも知るようになると、日本への見方が変わると言いますが、本当にそうですね。もちろん、対象国についても他人事ではなくなりますから見方は変わります。

最初の海外旅行はドイツでした。ドイツは詩歌・歴史に興味があったからとしか言えないのですが、あの地の空気を吸うだけで、幸せな気持ちになったものでした。当時、ベルリンは東西に分かれていましたから、そういう、どこかぴりぴりした空気も日本にいたらわかりませんでしたね。

次に行ったのは中国です。最初は旅行、次は留学でした。旅行は80年代の初めの頃でしたから、空港から北京市内への高速道路はありませんでした。途中、羊の群れを追っている人が居たのには驚きましたし、長城にラクダが居たのにも驚きました。老舎の世界だ…。

中国での暮らしが終わり、日本に戻ってきてから、手伝いで日本語学校に通い始めると、北京とは、まるで違う世界から来たとしか思えないような中国人と接することになりました。北京に居た頃は、田舎へ行くにしても、せいぜいが旅行でしたから、見たつもりでいても見えていなかったのでしょう。中国はつくづく大きいと思いました、あまりに発展が速いので、置いてけぼりの地方は発展した都市の姿だけを見せられて、おこぼれに与っていなかったのです。一国の中のこの差はどうにもならないような気がしました。

大都市の住人、特に若者たちの意気は軒昂で、自分たちが世界をしょってでもいるかのよう。自分たちが嫌だと言えば、世界はそれに懾伏し、言いなりになってしまうだろうとでも考えているかのよう。お釈迦様の手の中で踊る孫悟空を見ているような気分になりました。

そして、一転。今は中国人ではなく、東南アジアや南アジア、西アジア、旧ソ連域、アフリカなどからこの学校に通う人が増えています。仏教徒だけではなく、キリスト教徒もいれば、イスラム教徒もいます。それぞれ国情が違うということは判っていても、卒業前になってはじめて、知ると言うことも多々あります。入試のための作文の練習をするときに、彼らに、自国の生活、祭り、教育などについて、語ってもらってはじめて、これまでの彼らの行動に、得心がいったということも少なくありませんでした。

そして今、スーダンの学生たちと話し合っています。二人ですが、それぞれ受けた教育は違っているので、その差というのものも興味深い。そして日本でやりたいことというのも違っていて面白い。

こういう渦の中にいますと、フィリピン人などは全く日本人と同じと考えてよく、改めて外国人扱いする必要がないことに気がつきます。大雑把ですが、日本と同じように外国を知らねば成り立たない国だからです。

その点、中国やアメリカ、ロシアなどは外国を知る必要がない。国の中枢がそう思っている面もあるのでしょうし、知られると困ると思っているのかもしれません。だいたい自由のない民主主義なんてありませんもの。アメリカは勝手にどこへでも行けますから、興味のある人はどんどん入っていける、だからちょっと別ですが。中国の場合、教育による刷り込みが徹底的に行われているので、よほど感性のすぐれている人でない限り、外国に行っても、どうにもならないでしょうね。死ぬまで自分たちは偉大だと叫んでいるのかもしれません。

イスラムの国は、もっと大変です。中近東の、その地にずっと居たら、特に女性は、自分の家の周りでさえ、あまり知らないと言うこともあるでしょうし。

北京にいたとき、同級生(彼はまだ18歳か19歳でした)が、私のことを羨ましがって「いいなあ。私の母は歩けない」。多分、私とあまり歳は違っていなかったでしょう、彼のお母さんは。最初は病気かなと思って理由を訊くことを憚っていたのですが、「…家から出ないから」。家から出ない???今時???「歩かないから、どんどん歩けなくなっていくんだ」どうも、中庭くらいしか、自由に歩かないらしい。

日本人はその他の欧米から来ていた女性たちと同様、グラウンドでテニスをしたり、バレーボールをしたりしていましたから、そういう人たちと比べて思わず嘆いてしまったのでしょう。けれども、そう仕向けているのは、そういう社会の男性たちです。自分を責めろと思ってしまいましたが。ちなみに、中国人女性は本当にスポーツができません。バレーボールなど拳骨でぶっ叩くのです。あんなにオリンピックでメダルを取っているのにと思ったのですが、それはスポーツエリートだけ。体育の授業なんてないって言っていました。

日本に来てから走り出したというスーダンの女子は、「スーダンだったら誰もジョギングなんてしない」と言います。私が「(治安が良くなくて)危ないから?」と訊くと、「違う。ただ誰も走らない」と笑うのです。

すると、もう一人が、こんな話をしてくれました。お金を貯めて留学しようという青年が彼女のうちに手伝いに来ていたことがあったそうなのですが、彼が一度走ってうちに来たことがあった…。走ってきたと聞いて、みんな驚いたのだが、彼が途中とても大変だったと話してくれたと言います。

だいたい、道を走る人なんていないので、彼が走っているのを見た知り合いが、車を止めて、「何があったんだ」。話を聞いて「車に乗れ」。こういうことが二度三度と繰り返され、また近くにいた子どもは「犬に追われているのか」と後ろを見るし、別の子どもは「泥棒を追いかけているのか」と訊くし。走っただけで、とても面倒だった。

スーダンでは女の人が走ったり、スポーツしていたりすると、悪い女の人というレッテルを貼られてしまうのだそうです。両親が許してくれても、一族の誰か彼かがすぐに電話してきて非難する。口数が少なくて、ずっとうちにいるのが、いい女の子。外へ出たりしない。

スーダンではだめだと言われたことをしてみたい。その一つが、ジョギングだったのでしょう。最初は3キロを1時間かけて走っていた(半分以上は歩いていたのでしょう)、それが今では4キロを30分で走れるようになった。スーダンではだめだったことが日本ではだめじゃない、普通のこと。でもスーダンの友達はこういう世界がある事を知らない。みんなスーダンで大学に行っているけれども、なにも知らない。また知る気もない。自分もスーダンにいたらそうだったと思う。

みんなにいろいろなことを知らせたい。そしていろいろやってみてと言いたい。でも、こうなると、又別の面で大変になるかもしれません。

日々是好日
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例年の賑やかさはありませんね、このあたりは。

2021-12-21 08:26:43 | 日本語学校

晴れ。

冬ですねえ、確かに。「サザンカ」も満開ですし、木の葉は皆、散ってしまいましたし。

12月に入ると、あちらでもこちらでも、街が「クリスマス」ムード一色になり、明るく華やかになるものだと思っていたのですが、どうも違いますねえ、今年も。オミクロン株の影響なのでしょう。テレビで見る限り、東京の繁華街では、人で溢れかえっているようなのですが、このあたりは静かなものです。

一方、欧米では、それに負けじとばかりに、「クリスマスマーケット」で、賑やかに気分を盛り上げているところもあれば、なんとロックダウンになったところもある。国では見たことがないのでしょう、それを見て、無邪気に「きれい、きれい」を連発しているイスラムの子もいれば、見ぬように目を背ける人もいる。

美を愛ずる心は誰にでもあるようで、またそれがいい。人間同士という気になりますもの。何も余分なものが入っていない頃は、楽しいことは楽しいとし、美しいものは美しいとする。大人になって余計な知識が身についてしまうと、忖度したり、斟酌したり、それを素直に喜べなくなってしまう。困ったものです、人と人との関わりで一番大切なのは素直さだというのに。

宗教は確かに知識の一部なのでしょうけれども、それが年を経てくると、心の問題になってくる、大方の人にとって。

日本人の宗教は、宗教じゃないと言われても、何とも言えなかったのは、明らかに彼らの宗教に対するものとは違う部分があったから。ただ共通点はあるんですよね。どこか人力、人知の及ばない世界があると信じているところ。

自然をコントロールできると豪語する人は、「日本人じゃねえ」と言いたくなる。祈るしかない世界というものがある、ただそれを名付けてはいないだけ。どうも日本では、ことさらに、「私は何々教の信者です」とは言わない人が多いような気がする。

神というのは、本来なんと呼んでいいかわからないものにつけた名にすぎず、人が望むのは幸せであるからして、それをもたらしてくれる何か。その名が異なっていようと同じであろうと、関係ないではないかと思っているような…そういう気持ちが心の奥底にあるような気がする。

だから、イスラムの人が来ても、キリスト教の人が来ても、どこの何を信じている人が来てもあまり目くじら立てたりはしない。
 
イスラムの女性がかぶっているヒジャブを見ても、それにちょっとばかり気を取られるのは、「夏は暑いだろうなあ」と思うから、また、「冬は暖かいだろう」と見るから。全身すっぽり覆うチャドルなんてのは、「そうか、あれは日よけか」くらいのもの。知っているからイスラムかと思うくらいのもので、知らなければかわったファッションで終わりです。キリスト教がしっかりと根付いており、また千年以上もの間イスラム教と戦ってきた欧米とは違うのです。

もちろん、黒ずくめの服で来られると、やはり、ちょっと引きますね、タジタジとなる方。「向かう」でなく、「逃げる」となるのでしょう、日本では。彼らの世界では普通なのだろうけれども。

けれども、こうやって分けるのもどうなのかなとも思います。中国にいたとき、イスラムの青年(中近東の人です)が、全く顔が見えない、顔どころか目もはっきりとは見えない真っ黒の服を着ていた女性を見て、「すばらしい女性です」と言うのを聞いて、知らないのに????と思ったことがありました。

あまり真面目とは言えないイスラムの青年(これはまた別の国の人です)が、学校の先生が女性の時にはきっちりと出席するので訊いてみると、「女の先生に習ったことがないから」。どうも授業中ずっと先生ばかり見ていたらしい。

こういうのを変だとは思わないのでしょうかしらん。

それに比べれば、中国の男女、ここで教え始めて知ったのですが、ベトナムもそのようです。同僚の女性の髪を梳いてやったりする男性(ただの同僚です)や、幼稚園児のようにじゃれ合っているベトナムの男女がいたり、いやあ、こういう世界を見るとイスラムの男性はおっ魂消るでしょうねえ。

ただ、やってみたいと思っても、まねすると大変です。彼らは男とか女とか考えないでやっているのですから、全く受ける印象が違うのです。

学校に来るイスラムの男女を見ていると、やはりおもしろいですね。日本で暮らして行くには、もちろん宗教的なものは必要でしょうが、もう少し、楽になった方がいい。その方が暮らしやすくなると思います。

直接、日本の社会に入っていくよりも、こういうクラス(七人しかいないクラスなのに、国籍は五つにも上る)で、(踊り場のようなものでしょう、きっとここは)一休みしてから入っていった方がずっと生きやすいかもしれません。

日々是好日
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最近は「中近東」や「アフリカ」のニュースを見ると、何が無しに考えるようになってしまいました。

2021-12-17 08:20:01 | 日本語学校
小雨。

「雨」と言いましても、降ったり止んだりが続いています。少々小降りになった時に、自転車を飛ばしてやってきました。自転車を「飛ばす」と言いますと、私が乗っている様子を知っている人は、皆、笑うのですが。だいたい、やっと「小走りで駅に急ぐ人を追い抜けた」で、ほっとしているくらいの速さ。でも、私にとってはエイヤァとリキを入れてこいでいるわけで、「飛ばす」というのが一番、しっくりいくのです。

昨日、今年の卒業生…卒業生といいましても、日本に仕事できている方ですが、その方が「N1」合格後、「宅建」にも合格したからと、報告かたがた、手作りの「肉まん」を持ってきてくれました。お祝いなら、本来なら、こちらが用意せねばならぬものを。とはいいながら、ありがたく頂きました。ほんとにおいしかった。うちに帰ってから、早速三つともぺろりと平らげてしまいました。こういう言い方は変かもしれませんが、本物は違いますね。

当時、卒業式まで勉強してくれた中国人は二人だけでした。もう一人は留学生で、彼も大学で頑張っているらしく、50万円の奨学金がもらえたということを伝えてくれました。

コロナ禍で帰国できずにいるうちに、だんだん日本人化していくようで、下手をすると、私のようにタラ~リとしてくるかもしれません。私など、中国にいても、この「タラ~リ」は変わらなかったらしく、すぐ日本人だとわかると言われたことがありました。

当時、北京では主流はトロリーバスだったのですが、これがよく停まるのです。理由は「喧嘩」。一台が乗客と運転手、或いは通行人と運転手とかで喧嘩が始まってしまいますと、運転手は怒り心頭といった感じで、喧嘩に夢中になってしまいますから、当然バスは停まります。すると、次のトロリーバスが追い越せませんから、また停まる、それが順々に続くのです。

バスの窓から、いくら首を伸ばして見ても、停まっているバスの、一番先の先頭のバスが見えないこともよくありました。乗客は慣れているのか、さっさと降りて歩き始めます。或いはおもしろそうに、「どこどこで喧嘩だ」と言って笑っている人もいました。もちろん、イライラして怒っている人もいるのですが、暇な人も多かったようで、特別の用がなければ、おもしろい見世物くらいに考えていたのでしょう。

初めの頃はどういう対応を取ったらいいのか、戸惑っていたのですが、直にこちらも慣れて、皆と一緒に降りるようになりました。その習慣が日本に戻ってきてからも、一定期間続いて、いくら「地下鉄は事故で止まっても、直に、動き出すから乗ったまま待っていた方がいい」と言われても、降りてしまうのです。あげくは乗ったままの方がずっと早く着いたということも少なくなく、だんだん、元に戻って、のんびりと待つようになったのですが。

で、その中国でのことです。その時に、同じバスに乗っていた日本人留学生がいたらしく、「中国人なのに、ポケーッとしている人がいるなあと思ったら、アンタだった」。
そうですね、当時の中国人はイライラしている人が多かった。すぐに列の割り込みはするし、隙あらばという目つきで見ているようなところがありました。社会がそれなりに落ち着いてくると、そういう面は消えていくのでしょうけれども。

最近、学校に来る在日の中国人には、あまりそういう激しさ、険しさは感じられません。コロナ禍で帰国できずに、日本暮らしが長くなったから、私みたいにタラ~としてきたのかもしれません。

さて、学校です。

アフリカからの学生が来るまでは、というか、この二人が来るまでは、中近東やアフリカの様子は単なるニュース、知識にしか過ぎなかったのですが、最近は、見ながらいろいろと考えるようになりました。若い二人には説明が必要だからです。説明というか「気づき」というか…。私がノンベンダラリとしていたら、彼らとて同じことになってしまうでしょう。問題意識を持って、見てもらいたいのです。それが、たとえ方向が違っていたとしても、若い彼らには、これからの学びを通して、自分なりの意見を持つことができるようになると思います。まずは一つは要るのです。

「あれ、私は違うように思う」で、いいのです。今は何も感じていないし、思ってもいない。ずっとその国に住んでいたら、たとえ大学を出ようが、同じことだったでしょうから。

本腰を入れて、それらの土地を見ているうちに、宗教の重さを感じるようになりました。アフリカも、キリスト教徒の多い国は旧宗主国やアメリカと関係を強め、独自性を出していく傾向にあり、イスラム教国は分裂を深めていく。土着の宗教を持っている国はさまよっているような気がします。

中国やベトナムの人は、「自分たちは何も宗教を信じていない」とよく言います。けれど、ベトナムには、日本で言うところの「神棚」のようなものが、どの家にも鎮座ましましています。あれも、いわゆる「宗教だよ」と言うと、皆驚くのですが。

それに中国の寺や道灌ですが、参る人の祈りの激しさには驚かされます。宗教なんて信じていないはずの人たちなのに、「こうしてくれ、ああしてくれ」という激しさは、日本の比ではありません。あれは、「祈り」ではなく、「要求だ」と、こちらの目に映ることもあるのです。それに比べれば、「何かわからないけれども、何かは居そうな気がする」とか、「はっきりはしないけれども、多分、何かは信じているな」と認める日本人の方がずっと「祈り」は淡白です。「欲」を見せる人を神仏や自然は嫌うと思っているからかもしれません。

日々是好日
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「サクラ」の樹は、すっかり葉を落としています。

2021-12-16 08:46:27 | 日本語学校

晴れ。

「サクラ(桜)」の葉の華は、もうすっかり散ってしまいました。つい先頃、「サクラ」の葉が色づいたなと思っていた…のに、あっという間に裸ん坊の樹を見ることになろうとは。今年は、自然を楽しむこともなく、何をやったというでなく、もう終わろうとしています…。何が何だかわからないような一年でした…来年もそうなのかな…。

ここは、言語学校で、集まってくる人たちの大半は若者です。この二年ほどはコロナ禍にあるということもあり、留学生より、少しばかり若い在日の人(大学や専門学校を受験したいというのではなく、高校受験です)が増えました。

高校受験であったら、日本語を学び、それがある程度の力がついた段階で、数学の基本なりを学んでおけば、それでどうにかなるでしょうが、問題は大学です。教育を受けた年数が足らないということで、門前払いになることもあるのです。

日本では、大学を受験するには、小中高と12年学ぶことが必要です(「高卒認定試験」合格者は別ですが)。しかしながら、国によっては、大学受験までに「12年」要さないところもあるのです。その国にいたなら、もちろん問題なく大学を受験することができます。そこのところを見てほしいのですが、なかなかそれができないようですね。

生まれるところを選べないように、生まれたところの教育制度も選べません。それは個人の力ではどうにもできないことなのです。

もちろん、そこの所を見てくれる大学もあります。そうなりますと、結局は「大学の力」なのかとも思ってしまうのですが、易きに流れてしまうのでしょうね、前例で押し通した方が楽でしょうから。

受験したいと思って、オープンキャンパスに行ったり、話を聞きに行ったりした学生が、あとで「受験できない」ことがわかってがっかりする。それも、一年足りなかったから…。

今はフィリピンでも「12年」になっているようですが、以前は「10年」で、それでも入れてくれた日本の大学がありました。相談に行って帰ってきた時のうれしそうな顔を覚えています。

国際化が叫ばれて久しいというのに、足元がなおざりになっている…。そうなのかと気落ちしてしまいます。要は本人でしょうにね。

どこもここも日本と同じ、同じでやってしまおうとすれば、いろいろな問題が生じてくるのは判りきったことなのに、それが通用する間はそれで押し通そうとするのでしょう。こんな小さな学校であったら、どうしてもできないことが多く、それも判るのですが。却って、図体のでかい大学は、動けないのかもしれませんね。

日々是好日

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「サザンカ」の赤い花を見つけて、突然の「冬」にびっくり。

2021-12-14 08:36:58 | 日本語学校
晴れ。

さっきまで、きれいな「晴れ」だったのに、少しずつ雪雲のような黒っぽい雲が出てきています。でも、まだ薄い…。

今朝は、「今日は、真冬並みの寒さでしょう」とか言われながら、うちを出てきたのですが、近くのマンションの「ドウダンツツジ(満天星)」が赤く染まっているのに気づき、確かに、冬だなどと思ってしまいました…「ドウダンツツジ」の紅葉は秋だっけ?。毎日見ていたはずなのですけれども。

それだけではありません。近所のスーパーの脇に「サザンカ(山茶花)」まで、咲いていました。しかも「赤」です。気がつかない方がおかしいのに…。毎朝、通っているというのに…。

一本の樹に気がつくと、あちらでもこちらでも、「赤い顔」を覗かせているのを発見。「サザンカ」にしてみれば、「ええい!疾うの昔に咲いてたよ」と言いたいのかしれませんが。

どうも、目というものは、見ようとしない限り、見えないもののようです。ぶつぶつ言いながら自転車を走らせていますと、とあるマンションの樹蔭に、ひっそりと「スイセン(水仙)」の花まで咲いているのに気付きました。

と、こうなりますと、少々欲が出てきます。そういえば、「ハギ(萩)」を見ていない…。実は学校の近所に、ワサッとまるで山にでもあるかのような野性味の強い「ハギ」が咲くところがあるのです。そして、足が悪くなってからは、この花を見ながら、山を思う…体であったのですが、今年はそれもなかった…。

もう「スイセン」が咲いたとなりますと、「冬」となります。気持ちの上では。でも、もしかしたら、今年は、なかなか秋が来ず、来たかと思ったらもう冬…ということは、「ハギ」もだまされて、まだ花の時期を迎えていないかもしれない…勝手な理屈ですが、…かもしれません。

忘れた頃に咲く「ジャコバサボテン」にも一輪、花がつきましたもの。

さて、学校です。

「N3」受験前は、真剣そのものだった「Bクラス」の面々。最近はちょっと気が抜けたように見受けられます。前列で頑張っていた一人がやめたのも、影響しているのかもしれません。彼女は「宿題」と言われた、いわゆる「予習」は、必ずやってきていましたもの。でも、「クラス」というのは、こうやって、「普通」になっていくものなのかもしれません。頑張るのは疲れますもの。長期戦であれば、中だるみの時期があってもいい。まあ、そればっかりも困りますが。

本来、月一の「課外活動」が、その「緩める」部分を受け持っていたのですが、それも、このコロナのせいで制限を受けていますし。

思えば、このクラス、今年の二月頃から始まり、一人、二人と数を増してきた…。途中で入ってきた人も、とにかく毎日来て勉強してきた。それを思えば、昨日はちときついことを言い過ぎたのかも…などと考えてしまいます。もともと、『みんなの日本語』の「Ⅰ」か「Ⅱ」くらいしか考えていなかった人が大半でしたろうし。

クラスに勉強に必死の人が一人でもいると、根が真面目な人たちは、「そういうものか」と影響され、勉学に欲が出てきます。しかも「N4」を軽くマスターしてしまえば、今度は「N3」となるのは、多分、当然のこと。

とはいえ、「N3」と「N2」の境の壁はかなり厚いもののようです、「非漢字圏」の人たちにとっては。

これからも彼らの様子を見ながら、締めるだけでなく、時には緩め、じわじわっと「N2」まで持って行くことにしましょう。でも、「N2」の勉強は、簡単ではありませんよと、緩みすぎたときは、柔い鞭を振るいながら。

日々是好日
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「おしゃべり」を、形にしていく作業、開始。

2021-12-10 08:46:09 | 日本語学校
晴れ。

薄衣のような白雲が所々にかかり、まあ、それはそれで美しい。

さて、「Aクラス」の二人は、そろそろ、大学受験と高校受験の心の準備をし始めなければなりません。二人ともスーダンから来ているとはいえ、それぞれ事情が異なり、時には「違う。そうじゃない」などと、私をそっちのけにして、スーダン・アラビア語で言い争ったりしはじめます。

一人は、日本で生まれたものの、小学校を終える前にスーダンに戻り、そこでインターナショナルスクールに通い、数年後、また日本に戻って来てからは、一年目はインターナショナルスクール、次は私立中学校へと、一貫性がないといえば、ない。今、話しているのが、いつのことなのか、どこの学校のことなのか、いちいち確かめておかないと、気がついたときには、何がなにやら、どこがどこやら解らなくなってしまいます。

まあ、もっとも、それも当然といえば当然のこと。本人の中ではごく自然に、思いつくまま、時間の流れは度外視して話し続けるのですから。

おまけに、もう一人はスーダンの公教育出身ですから、同じスーダンから来たといっても、学校の仕組みも、教育のやり方も違っている。「こうだ、ああだ。いや、違う。そっちの方が違う」などと言い出したら、きりがありません。時には、こちらが「待った、待った。そっちはそうだったのね。そして(顔の向きを変え)こっちはこうだったのね」で、話にけりをつけることもある。けじめをつけなければ、話が進まないのです。二人は話しているうちに、自分たちはこうだったとはならずに、自分のが正しいみたいになってしまうのです。

日本でのこととか、あるいは、既にこの学校で学んだ人がいた国であれば、少しは知識があるのですが。つまり、話を聞く、一応の心の準備はある。ところが、スーダンの中学や高校のことは、全く白紙ときている。だから、彼らの話からの類推でしか、こちらも知識の得ようがなく、また話のまとめようもないのです。

「つまり、こういうこと?」と訊いたときだけ、二人は仲良く助け合い、「違う、違う」で共闘を組んで、私に教えようとする。まあ、そうすることで、彼らの中でも漠然としていたものが、形として現れてくるのでしょう。かとはいえ、まあ、時間と手間のかかること、かかること。

「本当に覚えているの?」と訊けば、「昔のことだから。」「昔ねえ。何百年前なんだ!」

二人とは、週に三回ほど、「N1(文法)」を教えたあと、だいたい30分くらいですか、こうやっていこうと思っています。二人ともおしゃべりが大好きですから、話すことがだんだん形になっていくのも実感できるでしょう。おしゃべりだけではだめなのです。

日々是好日
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「N1」文法…同じ意味なのに、どうしていろいろな言い方を勉強するの????「N2」の時にも言いましたね。

2021-12-08 09:06:16 | 日本語学校

雨。

自転車での出勤。ビュッと強い風が吹くたびに、ユラユラユラと揺れて、ハンドルがとられそうになる。こういう日は、まっすぐか、左折だけで済むように道を選びながら進まざるを得ない。少々遠回りになっても、雨の日にひっくり返るということだけは避けたい…。

その上、年を取り、足の筋力が衰えていますから、わずかな坂でも、一苦労二苦労。一つは歩道と車道の境目の坂。車道から歩道に移るときにかなりの高低があるのです。それからもう一つは排水のためか、路肩に向けて道が傾いているのです。止まって足をつくとき、難渋します。

学生の中にも、私同様、自転車が下手な人がいて…下手というか、来日後、練習したのでしょうね、一度止まってしまうと、次が「アラアラ、困った」。若いのに、ヨッコラショなのです。これでは、私と「おんなじだア」と言われても言い返せませんね。不機嫌そうなのですけれども。

さて、学校です。

昨日、新しい教科書が届き、「Aクラス」では、午後から「N1(文法)」の授業が始まりました。これが、どうも、かなり難しいらしい。意味がわからないから難しいというのではなく、同じ意味なのに、どうしていろいろな言い方を学ばねばならないかが理解できない。「これ、○○(N2)と同じでしょ」という不満が出てきます。これはちと古い言い方とか、後ろに良くないことが来るとか言っても、納得できないらしい。

同じ意味なら、それだけでいい。新しく勉強しなければならない意味がわからない。そういうことは、「N3」が終わって、「N2」に入ったときにも何度も聞いた。すでに耳タコ。

一人は日本で生まれているので、別に覚える必要はなく、聞いたことがあるというのを改めて理解するというくらいでいいのですが、もう一人はきちんと覚えなければ、これから困る…、でも、だめですね。「N2」の文法もきちんとは覚えられなかった。

例年、学校では、暗記用のプリントを作って、覚えるべく、毎日、練習させているのですが、このクラスだけは無駄骨という感じでした。例年であったら、だいたい長くとも15分くらいで終わるところが、時には1時間近くかけなければならないこともありました。読みの練習になってしまうのです、暗記ではなく。

例年、「N2」「N1」クラスでは、この繰り返しが功を奏して、試験までには、皆、暗記できるまでになっているものなのですが、彼らは、そうはならなかった。「N2」でも身近な世界ではないのでしょう。それでも適当に点が取れたのは、若さ故…かな。理屈ではなく、体が覚えた日本語です。だからか、理解することを求めてしまうと、シッチャカメッチャカになってしまう。却ってゴチャゴチャになって、何が何だかわからなくなってしまうようなのです。

「N2」ですら、そうでしたから、まして「N1」においてをや。

とはいえ、「大学に行きたい」「高校に入りたい」ならば、一応は知っておかねばなりません。遣えずともかまわないのです。理解できずともかまわないのです。だんだん「耳力」も備わってくるでしょうから、聞き取れたときに、「ああ、そうだったのか」となればいい。

以前、台湾から来た学生が、日本の高校に入るために、ここで勉強していたことがありました。まじめな子で、「N1」文法を学んだあと、その文法を使って、自分で文を作り、見てくれと持ってきたことがあったのですが、見せられた私は…少々困った。文法に関する限り、意味は正しく、問題はなかったのですが、「N1」文法を遣って、友達のこととか、親のこととか、そういう身近な世界を描いてきたのです。

彼女の、これまで生きてきた世界が(まだ中学生レベルですから)、こういう文法を使って何事かを言うようなところではなかった。「よく書けている。うん、でも、そうだなあ、こういうのは、新聞とか、もう少しあらたまったところで遣うもので、お母さんが○○さんに言う時には遣わないなあ」

「文章を読むだけでいいから、これを遣って文を作る必要はないから」と言ったのですが、果たして意味がわかったかな。どの国でも同じ事でしょうが、小学生が高校生のような文章で迫ってきたら、「ませてる」とか、「若年寄」とか、言われるでしょうね。

中学一年生の担任だった時、三年生の国語の先生の代わりに三年生の授業を、一度したことがありました。その時に、三年生はこんな事も理解できるのかと、とても驚いたことがありました。一年生を教えるのに苦労していたからです。一年生はまだ小学生のしっぽをもっているので、わからない子は、いくら説明をしても、キョトンとしているだけ。彼の世界ではないのです、その教科書の文章の世界は。

その時の一年生の表情を思い出しながら、「Aクラス」の彼女の顔を見ていますと、「ああ、同じだ」感が増してきます。同じなのです。世界が違うのでしょうねえ。

日々是好日
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「日本語能力試験」翌日。

2021-12-07 08:48:01 | 日本語学校
薄曇り。

昨日よりも少々ぬるめの寒さですね。今朝、通勤途上で、「スズメ(雀)」の群れを轢きそうになりました。角を曲がったところに電信柱が立っているのですが、その足下に群れていたのです。20羽ほどもいたでしょうか、ちょっと見は、子犬か何かみたいで、フワフワしていました。慌てて止めたのですが、こういうこともあるのですね、危ないところでした。「ヒヨドリ(鵯)」ギャングなどに比べれば、随分可愛い小鳥たちでしたけれど…。

「日本語能力試験」も無事(?)終わり、昨日はなぜか皆、明るい顔をしていました。まあ、何でも、特に大変だったものが終わってしまえば、結果はどうであれ、ほっとします。特に終わってすぐなら。多分、2,3か月は平穏無事でしょう、すぐに忘れてしまうでしょうから。

幸せそうな顔をしている「N3」、「N4」の人たちは別にして、「N2」をうけた二人は、「聴解」と「文字語彙・文法」は、とても簡単だったと騒ぎながらも、「読解」は大変だったと言います。

「N2」の「読解」の問題集をしていなかったからできなかったと言うのですが、漢字と文法だけで終わらないのが「読解」なのです。しかも日本の背景がわかっていないので、読んでも意味がわからない。訊くと「シーン」となってしまいます。普段はおしゃべりなのに。

「どうしてこれが日本の若者の心の助けになるのか」。わからないまま、答えだけあっているというのは避けたいもの。で、いわゆる「余計な説明」を加えているうちに、「読解」は「N3」レベルから上に行かなかった。なにせ、この二人、「ヒアリング」だけは大したものですから、意味はわからなくとも聞き取れる…おかしな言い方ですが。

で、その明るい二人のことです。

昨日はニュースを見せ、世界の様子などをわかってもわからなくても、少々話してみました。母国では、他国のみならず、隣国のこともあまり知らない。母国のことを訊いても、シーン。まして自国の立ち位置なんて、何?それ?というところ。

国のことは、つまるところ、「ここ、きれいって。外国人がよく来る」とか、「日本人もいる」とかいう話で終わってしまいます。で、昨日はイスラム教の事を訊いてみました。どういう教育を受けたのかと。一人はイギリス系の中学校に通ったことがあり、もう一人は公立の学校出です。ということで、少々話が違ってくる。

二人の話が合わなくなり、口争いめいてくると、ぱっと話を変えるのが私の役目。自国のことで知らない世界が見えてくれば、それでいい。それに、二人とも日本語を使いたくてたまらないのです。ただ、納得がいかないと、「お母さんに訊いてくる」。まあ、それもいいのでしょう。自国のことであっても、違うということはよくある。

一人は学校でイスラム教の授業があり、そこで歴史とかコーランを学んだそう。土日にどこかのイスラム教の学校へ行って勉強したのではないと言います。もっとも、そういう人もいるとのことでしたが。そしてもう一人は、選択で、イスラム教の授業を受ける人と受けない人とに分かれるとのこと。

日本でも仏教系の学校とか神道系の学校、キリスト教系の学校とかがありますから。でも、そこは選択ではないでしょうねえ、よくは知りませんけれども。そういう学校とわかった上で、通うのでしょうから、当然のことのようにお経を読んだり、お祈りをしたりするのでしょう。

そうこうしているうちに、なにやら訳のわからない「音」が飛び出してきました、国名だというのですが。私には、どうも中南米系(スペイン語でしょうね)に聞こえる。彼女曰く、国だ。長い長い名前です。私がカリブ海のあたりかなあと言ったのですが、彼女は、いや、アメリカとヨーロッパの間だと言うのです。しかも、地図を指さして言うので(日本の地図は日本が中心になっていますので、ヨーロッパとアメリカの間となると、しっかりと太平洋が鎮座ましますという事になる)、もっとわからなくなる。そのうちに、もう一人が、スマホで調べはじめました。

何せ、言っている本人からして、しかとしていないので、調べる方も骨が折れる。最初の音は「ア」です。そこから似た音を拾いながら調べていくと、ありました。カリブ海に浮かぶ小さな国です。で、「そこがなんなんだ」という話になるのですが、「テレビで見た。日本の車がたくさん走っていた。」

「なんだ…それきりかよ…。」騒ぎの大きさ、手間や労力を考えれば、二人で、はあ…。なんだか、力が抜ける…。

けれども、言いたかったのでしょうね、その事が。まあ、試験が終わった翌日と言うことに免じて、2、30分ほども遊んでやったと思えば、腹も立たぬ…かも。

日々是好日
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今朝も、「冬晴れ」です。

2021-12-02 08:40:10 | 日本語学校
晴れ。

昨日の朝は、小降りになって安心していると、急にザァーと降ってきて慌てさせられたり、ほんにおかしなお天気でした。

今朝は、また冬晴れの日に戻っています。そして乾燥警報です、勝手ですが。こういう日は富士山がはっきり見えていい気分になれるのでしょうけれども、しばらくお預けですね。もっとも富士山は逃げないし、近所でも見えるところがあるのかで、その気になれば見に行ける…。

教室の中に人が少ないというのに慣れて久しいような気がします。なんと言いましても、もう1年以上も経っているのですから。

スリランカの男子学生が多かった頃は、三人掛けの机が、二人でもいいんじゃないかと思われるくらい、詰まって(?)いました。なにせ、横縦ともにでかい…。一人ならまだしも、それが集団で来るのですから、大きいなあです。しかも皆足が長い…。「先生、足が痛い」言われて見ると、確かに足が机の下に折れるように収まっていますというか、収まり切れていない…。そういう人は一人用の椅子に座ってもらうよりほかない…それでも窮屈そう。大丈夫?うん、まあ、大丈夫。こんな会話がよく聞かれました。それも遠い昔のような。

あの頃は、たまに、2メートル近い人が来ることもありました。で、教室の高いところに貼るときには、「○○君、手伝って」。こちらは椅子に乗っても届かない…、届いても椅子をずらしては貼りで、大変。それが、チョチョイのチョイチョイですものね。背が高いといいなあとその時は思っていたものでしたが、彼らにしてみれば、バスや電車に乗る時、不自由な姿勢でいなければならないので、大変だそう。背が高い人にはそれなりの苦労がある。

当時、教材作りが大変でした。今のように外国人用の漢字の本など、なかったのです。で、作らざるを得ない。スリランカの学生たちは、ヒアリングはいいのです。だからすぐに会話ができるようになる。けれども、努力して漢字を覚えるということが苦手で、手元に冊子や書き順などを書いて置いておかなければ一筆書きの漢字になってしまう。

教科書が変わる毎に、課ごとに、新出漢字やよく間違える字などを選んで、それを小中学校の本やドリルなどを参考にしながら、一画一画書いて作らなければならない。教科書が変わる毎に作り直していましたから、かなり大変でした。最初の頃は要領も悪いし、明日次の課に入るとなれば、今日中にしておかねばならない。とはいえ、授業が終わってからの作業です。6時を過ぎても、7時を過ぎてもできないというよりは、間違いが多くなってしまうのです。しかも確認をしながらの作業ですから、簡単にはいきません。

日本人であっても認められている筆順で書けると思うこと自体、増上慢以外の何物でもない。しかも、前に書いた字をまた同じ筆順で書けるかというとそういうものでもない。たまにまじめが学生がいて、「先生…」と注意されてみると、「ごめんね。眠かった…」なんてこともある。学生が助けてくれて間違いを正せるということもありました。

その日にできなければ、翌日、早いときは朝の五時にきてやっていました。今から思えば、「間に合わなかった。ごめんね」と言って、数日後にでも渡しておけば良かったものを。なぜ、あんなにムキになってやっていたのかわかりません。こういうのは全て一人作業ですから、だれが見ているというのでもない。しかもまじめに勉強してくれるという当てもない…そういう学生が多かったのです、初めの頃は。

初めの頃は、私達も、異国の学生を「見る(選ぶ)」ことができなかった。日本人であっても人を選ぶというのは難しい。勢い、頑張りますというまじめに見える学生を入れるしかなかった。でも、学生たちの国が変わると、初めは苦労します。だいたい、面接では誰もが「頑張ります」と、おそらくは向こうの先生に教えられたとおりに言いますし。

ある程度見ることができるようになるのは、二、三回入れてからですね。相互理解ができるようになると、向こうでも学生を選んでくれるようになります。勉強する人をよこしてくれるようになるのです。もっとも、その頃には、外国人用の漢字の本も売られるようになっていましたから、もう作らなくても良くなっていました。

今から思えば、変ですね。どうしてあんなに懸命にやろうとしていたのか。歳も50近かったか、もう過ぎていたでしょう。疲れました。今また、それをやれといわれたら、スタコラサッサと逃げるしかないな。

今は反対に学生たちに荷物の持ち運びまでやってもらっています。足が悪くて、荷物を持っての階段の上り下りはとても無理なのです。それだけで教室に行きたくなくなります。で、授業に使う教科書などを籠に入れて、学生に持って行ってもらうのです。両手が空いた私は、ヨタヨタと手すりを伝いながら教室へと行くだけ。忘れ物をした時も、「はい、○○さん、取りに行ってください」です。私は自転車通勤なのですが、先日、買い物帰りに、転んでしまい、頭は車道の上。あわやということになってしまいました。近くにいた人が二人、自転車を置いて、すぐに助け起こしてくれたので、どうにか起きられたのですが、倒れた私の頭の上をソロリソロリと通り過ぎて行った自動車の人も、ビクビクものだったでしょうね.

自分が弱者にならねば見えてこない風景というのがあります。この街がこんなに坂が多いとは思わなんだというのもその一つ。坂とは言えないほどの坂、軽いスロープといった方がいいのでしょうけれども。四つ角などでは、車道との境だと、もうこれが大きな壁に見えてきます。老人大国になろうとしている日本、もうなっていると思うのですが、その面での対策は鈍いですね。足の力が弱った者からすると、よほどの注意、力が必要なのです。ただ、それくらいのものなので、若い人や足腰のしっかりした人から見れば、どうしてあれくらいでひっくり返るのだろうと思われるだけ。訳がわからない大きな差だったら気づけることも、問題が小さいと気づけない。

彼ら、外国人を取り巻いているのもそういう問題なのでしょう。

肌の色が違う、身なりが違う、行動が違う…それだけ。この行徳地区は、南アジア、東南アジア、西アジアからの人たちも多く、駅に行けばすぐに、あれ?と違和感を持つことでしょう。

私も中国に留学していた頃は、昔のことですから、中国人と話すよりも中近東やアフリカの人たちと付き合うことの方が多かった…というわけで、他の日本人に比べれば慣れている方なのでしょうが、それでも友達として付き合うのと、教師として対するのとでは違う。友達なら、嫌なら付き合わなければいい。が、教師の場合、逃げられない。で、嫌でも向き合わなければならなくなる。勿論、私の場合は教室の中だけで、外国人としての手続きなどは他の人がやってくれるので、楽と言えば楽なのですが。

教室では、気がついたときに、さりげなく、「日本人は」とか、「こういうことは避けた方がいい」とか、そのようなことを入れています。これまでの彼らとのやりとりや気付いたことなどを、彼らが無理なくやれる程度で、入れているのです。(日本人が)下手に気遣って何も言わないと、却ってけがをすることが増えてくる。マイナスになることも多いのです。

言わねばならぬことは少なくはないのですが、これも皆、ある程度日本語がわかるようになってからのこと。日本語がわからなければ何も言えません、注意を促すこともできないのです。そうなると、彼らは同国人の不確かな情報しか頼るものがなくなってくる。これが一番怖いのです、経験からは。

日々是好日

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