日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

また、一段と寒くなりました。

2015-10-29 13:32:40 | 日本語学校
曇り。

学校に来るときには、小雨がぱらついていました。

今日は一日中、こんな感じなのかもしれません。気温は昨日に比べてグッと低くなっているそうです。…昨日が暖かすぎたからかもしれませんが。そして、今日。昨日の天気にだまされて、真夏の格好をしてくる人が出てくるかもしれません…。

ほんとうに、一年中ほとんど同じという国から来た人たちは、大変です。まだ玄関先でのチェックが、欠かせないくらいですから。

「靴下は?穿いていますか」

彼らの返事は、決まって「気持ち悪いから…」。嫌だと言うことなのでしょう。時々手に持って、「あります」という輩までいます。だから、聞かないでくれということなのかもしれませんが。

どれくらい、服を重ね着したらいいのかが、判らないのです(服の厚さ、暖かさに拠るということも、今一つ、ピンと来ないようです)。真夏のTシャツにダウン。だから靴下を穿かずにいても、彼らから言わせると違和感がないのかもしれません。上から下まで真夏の格好、それに寒いからダウンを羽織った…で、「冬の格好、終了」なのでしょう。

今日、今度の11月に「日本留学試験」を受ける学生を対象に、午前中のクラス(三階)で、模試を行いました。ちょうどそのころ、今年の7月生と10月生の合併クラス(一階)でも、40分から50分ほどの試験を行っていたようで、降りてくる学生も、上がってくる学生も、どちらも「難しい」とか、「難しかった」と顔をしかめているのが、ちょっと面白い。

『初級』クラスは習ったことの試験ですから、「難しいは変でしょ」と言えるのですが、『留学試験』ともなりますと、「非漢字圏」の学生達にとっては、一つ一つを読んでいくことさえ、大変です。とはいえ、毎日学校に来て、勉強している学生たちは、それなりに勘が働くようで、それらしい答えを、一応、選べてはいたようです。もちろん、どちらかなと思われるのが4問のうち、二つほどはありますから、50%の確率。

迷い箸のような状態になって、オロオロしているうちに、30分経過というのは、もうなくなったようですから、「受けたことがある」というのは、強いもの。

その勢いで頑張ってくれるといいのですが、…模試はあと一回行う予定ですから。

日々是好日。
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季節の移ろい…が、書かれた文章を理解するのは…難しい…。

2015-10-28 08:50:11 | 日本語学校
晴れ。

夜のうちに雨が降っていたようで、朝、起きたときにカーティンを開けると、地面が濡れていました。けれども、今は穏やかな日が射しこんでいます。

この辺りの「イチョウ(公孫樹)」の樹は、まだ黄葉を始めていません。やはり、お天気おじさんの長期予報の通りになってしまいそうです。けれども、「サクラ(桜)」はとっくに紅葉し、散ってしまっています。油断できませんね、目を光らせていないと(今年は「サクラ」の紅葉を見ることができなかったので、ちょっとしょげています…)。

「春」は「サクラ」に代表される「木々の花」を待ちわび、夏は庭先に咲く「アサガオ(朝顔)」や「キキョウ(桔梗)」「ツユクサ(露草)」を愛で、夏の終わりから秋にかけては、「虫の音」「月」を観賞し、冬は「雪」や「『きっぱりとした冬』の姿の木々」に感動する。

一年中、暇なしです。…周りを見ているだけでも、忙しい…。

平安貴族達の楽しみには、堅苦しさがあったかもしれませんが、今の人たちにはそれほど肩肘張った「観賞法」はないような気がします。「『古典』を知らねばならぬ」とか、「楽しみ方を学ばねばならぬ」とか、そういう「ねばならない」はないような気がするのです。

人それぞれ、深く感じられるものを、「勝手に」愉しめばいいだけ(感じられなければ、「縁がなかった」ということですから、他の、自分が楽しめるものを探して愉しめばいいだけのこと)。それに、こういうことは学んで得られることと、学ばずとも会得できるものとがあるので、学んで「なんぼ」の世界ではありません。しかも、頭から入ってしまうと、却って感じる力が育たなくなってしまう面もなきにしもあらずですから、「(こういう力を)育む」ことは難しい。

必要なのは、「その場に『在る』こと」だけでしょう。何も判らないはずと言われていても、子供は子供なりに、「雲」を見れば、刻々と変化していく姿に歓声を上げるものでしょうし、「風」の流れ、運んでくる「におい」を感じれば、「クンクン」と体でそれを表現しようとする。草木や山河の「色」だって感じているかもしれません、全身で。

その一つ一つが人を育み、育てていくのでしょう。

だから、「見たことはない」は怖い。その場に行かなければ、「感じられない」ものがあるというのは本当です。といって、大したことをする必要もないのです。イベントも必要ないのです。山に行けば、木々の間に座り込んでいてもいいし、谷川に降りていって、ただ岩に座り、水の冷たさ、陽の暖かさを感じるだけでもいい。

留学生達に教えているとき、特に「読解」の説明なんかでは、「知らないから解けない」ということがよくあるのです。これは「地下鉄に乗ったことがない人に地下鉄のことを説明してもなかなかわかってはもらえない」のと結局は同じことなのかもしれません。本当に「百聞は一見にしかず」です。

季節の移ろいを経験したことがない人に、「どういうとき、『夏が終わったなあ」と感じる?」と問いかけるほど無意味なことはありません。一度、夏が終わり、秋が来、そして冬になっていくのを経験すれば、それで済むこと。深く考えなければわからないということではありません(が、彼らは考え込んでしまう…理解しようとして)。

とはいえ、これとても、最初は、「寒いのが冬」とか、「風邪をひいて冬になったのがわかった」程度であったものが、「紅葉」に気づいたり、「虫の音」に気づいたりするようになるのですから、「一見」はすごい。

…ただ、みんな「虫」は「虫」と言います。きれいな声で鳴く「虫」も、「カブトムシ」や「クワガタ」のようにかっこいい「虫」も、ぜ~んぶ、「虫」で一括り。「ゴキブリ」と大差はないように感じているらしく、(熱を込めて語っても)「だから、どうなんだ」と、憮然とした顔をされたりします。

私など、幼稚園の頃には「毛虫」に凝っていた一人だったのですが、それを言うと時には日本人の同僚からも「ええ~っ。(多分…気持ち悪い…と言いたかったのでしょうね)」と言われることがあります。学生達は、そこは年長者に対する、教師に対する遠慮があるでしょうから、そこまでは言わないにしても、ぎょっとした顔をして、顔を見合わせたりしているので、だいたいの見当はつきます(もちろん、今は別に触りたいとは思いませんし、集めたいとも思っていません)。

ただ、虫の命、姿の変化も、人の一生や木々の一生、虫や花の一生と同じと見るのは、どこの国でも同じようです。しかしながら、「四季がある国」と、一年中、「常夏」や「常春」の国との違いがあり、変化する季節を楽しめるかというと、いくら来日後数年経っていようとも、それはちょっと難しいようです。これはこの風土に住んできた人々が、長年に亘って、年中行事の一つとして楽しんできた伝統と関係があるのかもしれません。

「サクラ」は愉しむべきだし、「虫の音」は観賞し、命のはかなさを感じるべきだだという「伝統」です。好き嫌いは別に関係ないのです。

先に述べた「読解問題」なんですけれども、「一年生」には難しい。「はあ」とか、「わかりました」とは言うけれども、さて実際のところどうなのかはわからない。ところが、「二年生」になると、「サクラ」や「紅葉」だけで、だいたいのところは「判ってくれる」ような気がします。やはり、日本語の勉強は、日本でした方がいいとみえます。。

日々是好日
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面接しなければ、何も判りません。

2015-10-27 13:07:26 | 日本語学校
晴れ。

きれいな青空が広がっていますけれども、夜遅くには雨になるかもしれないとか。空気は乾燥しているように思われるのですけれども。

さて、進学を控えた二年生のことです。

専門学校や大学、短大などの募集要項のこと。未だに外国人用と日本人用の区別がなされず、留学生達がオタオタさせられてしまうことも少なからず、困っています。

学生が進学したことのある専門学校や短大だったり、あるいは学校に話に来てくれたことのあるところだったら、まだ事情が分かって、ケースバイケースで相談もできるのですが、そうではないところで、しかも、わかりにくい募集要項であったりすれば、学生のみならず、私たちの方でも、頭を抱えこんでしまいます。

中にはビザ関係でそれを入れたのでしょうが、随分古いやり方で、既にそれは必要なくなっていると思われるものまで、「必要である」と頑強に言い張るところもあります。そのたびに留学生は、本来ならせずともすむはずのことまで、せねばならなくなってしまいますから、大変です。

その都度、アルバイトを休んだり、学校を休んだりして行かなければなりませんから、本末転倒とは、まさにこのこと…ではありますまいか。

国際化とか言われて久しいことですし、最近は、来日した外国人が便利なようにと、政府のみならず、民間でも喧しいようですが、高等教育機関であっても、こんなふうですから、どうしょうもありません。今は、特に、外国人留学生が溢れかえっているように見えることから、かなり強気に出ているのかもしれません。もっとも、大学やレベルの高い専門学校(学生がほとんど日本人の)では、そういうこともなく、例年通りの、静かな募集のようですが。

専門学校の中には、外国人相手に、(日本人向けの)一般教養を入試問題として出すところもあるそうで、試験問題を作る教員が、募集に「『N2』レベル」と明記するのであれば、「N2」レベルの出題ができて然るべきであろうに、それすら怠っているのですから、ちょっと考えられません。そんな問題、日本人の高卒者であっても、できないでしょうに。

だいたい、「非漢字圏」の学生で、「日本語能力試験『N2』」に合格している学生が、専門学校を選びますかしらん。まず大学でしょう。最近は「N3」でもいいという大学だって、あるのですから。

もっとも、大学は専門学校とは違い、面接で、「将来性」を見てくれるようです。実際、この日本語学校を出るときには、まだ「N3」レベルまでにも達していなかった学生が、大学四年間のうちに、日本語能力試験「N2」、そして卒業までに「N1」までも、ものにしたということもありました。

変に思われるかもしれませんが、留学生ばかりは、わずか一年か一年半ほどの「日本語力」だけで測ることはできません(もちろん、日本人だって、国語が苦手で点が取れないとか、数学ばかりはできないという学生でも、その人の潜在的な能力を買われる場合があります。そうでなければ、なんのための面接なのでしょう)。

ただ、最近は大学でも生き残りがかかっていますから、お庄屋様然と構えているわけにはいきません。それでも、「できる学生(これはと思えるものを持っている学生)」はほしい。

以前、こんなことを聞いたことがあります。誰でもいいというわけではないけれども、門戸を広げたら、中には、必ず、ピカリと光るものを持っている学生がいる。そういう人を見つけ、守り、育てていくことが、大学の役割ではないか。

わずか10分かそこいらの面接で、何が判るのかと言われれば、困ってしまいますが、それでもしないよりはずっといい。試験だけでは判らないことが多いのです。もちろん、話せなければ何にもなりませんが。

もちろん、進学先だけを非難しても事は済みません。私たちの学校だって、いくら寝るなと言っても寝てしまう人、いくら休むなと言っても休んでしまう人…が、何人かいますから。学校で寝たり休んだりしてしまえば、日本語が分からなくなるのは当然です。

現地に行って、選んで連れて来ているつもりでも、こうなのです。彼らの親の懐具合、借金の多寡まではわかりませんし、当人のお金の使い方がルーズかどうかを想像することだってできません。

日本でのアルバイトで、10万かそれ以上を稼げば、舞い上がってしまい、全部使ってしまう学生もいるのです。こういう人は、勉強目的で来てはいないのでしょうが。

日々是好日
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「人を見かけで判断してはいけない」ということ

2015-10-23 08:27:16 | 日本語学校
曇り。

「10月」の「課外活動」が終わると、「明治神宮外苑」の「黄葉」が気になってきます。

一週間ほど前に出た予報では、東京の黄葉は11月20日過ぎが見頃とか。晩夏、初秋に長雨とか寒い(涼しい)日が続きましたから、えっと思ったのですが、暑さがぶり返して、例年より一週間ほど遅めになる…かもしれないとのこと。

こういう「予報」は、話半分に聞いているつもりでも、しっかり頭の中に入ってしまうので、困ってしまいます。尤も、「黄葉」の時期と「紅葉」の時期が微妙にズレているので、「黄葉」に感動していると、「紅葉」で、がっかりしたり、その反対だったりと(もちろん、両方共にがっかりということもあるのですが)、なかなか思い通りに行きません。これが常でしょうが。

しかしながら、そういうことに日本全土が踊ってしまうというのは、いったい何なのでしょうね。「花見」と「紅葉狩り」は、二大イベントだから、しょうがないといえばそうなんですけれども。

さて、学校です。

進学を控えた学生達に、強調しておかねばならぬことが、いくつかあるのですが、その一つが「職業には貴賎がない」ということ。それから、「人を見かけで判断してはいけない」ということ。前者はともかく、後者はなかなか難しい。

インドではこんな話を聞いたことがあります。

「この人は自動車を持っている人(金持ち)」。「この人は自転車の人(庶民)」。「この人は歩く人(貧乏人)」。

この、「この人は」というのは、この階層の人、あるいはこれくらいの財力の人というくらいの意味でしょうか。

はは~ん。だから、同じようなインド圏に属するスリランカ人が「あの人はお金持ちです。車を持っていますから」なんて言って日本人を見ていたのか。確かに、中国人だってそうでした。今は判りませんけれども、少し前まで、「車が買えるくらいになりたい」が夢でしたもの。

日本は関係ありません。高い車を買って、乗っていても、お金持ちとは限らない。「一点豪華主義」で、1000万円ほどの車に乗っていても、汚いアパートに住んでいたり、貯金が全然なかったりするし、その反対のこともある…。

大会社の社長が、トイレの掃除をしていたり、生ゴミの袋を持ってウロウロしていたりもする。「どこのおっさんか」としか見られないような格好で犬を散歩させていたりもする。

今日はどこのスーパーで安売りをしているかと念入りにチラシをチェックし、安売りのスーパーを渡り歩いている人が、休みの時にはヨーロッパ旅行をしていたりする。

格差が広がったと言われはじめていても、まだこれくらいの余力はあるのです。ごく普通に生活している人でも。

それをかなり強調していないと、「超豪華」と彼らが思ってしまうような車に乗っている人に、(見た目で金持ちと思って)ついていったり、その反対に蔑んだりしてしまう。

彼らの社会ほどには、階層が固定していないのです、日本は。

(尤も、政治家の二世、三世、四世なんてのが出てきていますから、政治の世界は固定化しているのかもしれません。とはいえ、選挙の「洗礼」というのがあります。頭がいいのか、あるいは政治に向いているのかは判りませんけれども、俺は金があると傲っていたり、横柄であったりすると、途端に「ただの人」にさせられてしまいますから、そこは「地位」を保つために努力は必要になってきます。

会社だってそうです。「おいらが作ったんだから、おいらの子や孫に継がせる」と、不向きな、できの悪い馬鹿息子に継がせていこうとすれば、すぐに他の会社に吸収合併されてしまいます。大会社ともなれば、個人が作ったものであっても、半分以上は「公(おおやけ)」のものという意識が,働いている人にはありますから、社長だって首にさせられかねないのです、不適任者として。まあ、これはインドでもスリランカでも同じでしょうけれども。

ただ、彼らの国では、おそらくは、自分が首になる前に、金があるうちに、会社を潰してしまうでしょうね。そうなると、働いている人の権利が守られるかどうか、それが法で保証されているかということが問題になりますけれども。

会社というものは、小さいうちはいいけれども、ある程度以上に大きくしてしまったら、そこには自分よりも優れた人が入ってくる可能性がある。つまり自分が能なしになる可能性だってあるのです。それを、プラスに考えられるかどうかで、会社が存続できる、発展できるかのわかれ道になる。

自分よりも(経営の面で)優れた人が入って来れば、自分ができなかった、あるいは不得意だったことができるようになる。その人に道を譲れば、会社がもっと発展できるかもしれない。これはもう「公」として考え、「私(わたくし)」していないのです、会社を。

以前、日本には300年以上続く会社が世界で一番多いというテレビ番組がありました。「私」していない人には、あるいは「私心」のない人には、他者は喜んで援助していくものです。そうでなければ、1000年以上も続くなんてこともないでしょうし。

京都の「老舗」というのは室町くらいからを言い、100年やそこいらのものは「老舗」とは言わないと聞いています。多分、そこには会社の発展と存続だけを願い、己の利というのが、だんだん姿を消していった…その過程が見えてくるような気がします。もっとも、「欲」を前面に出す者が後を継げば、そういう会社だって、お釈迦になる可能性はあるのです。)

話が逸れてしまいました。

最近は、二年生のクラスで話が大幅に逸れ、学生達と話し込んでしまうということが、あるようなないような。

進学で悩む頃になると、よく「日本人は」という言い方をするようになります。単純に「日本人はこんなことは嫌いですね」というのから、「日本人はこうします」という極論まで、いろいろあるのですが、日本人について言いたくなったのでしょう。そこには「(日本人が)自分たちと違う」ことに気づくと共に、それが言えるくらいの日本語力が身についてきたという状況があります。

それを聞くと「学生達もそういう時期になったのだな」と思うのですが、ただ残念なことに、日本語力の不足から、二年生クラスにいられなくて、一年生クラスに入った者には、彼らがたとえそれを望んでいても、そういう話をしてやることはできません。一年生クラスは、基本をとことんやっていかねばならないのです。やはり、1年目は1年目のクラス、2年目は2年目のクラスにいた方が、本人にとってもいいということのようです。

日々是好日
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「みんな同じ」「えっ。??? 努力の程度も、頭の良さも人それぞれ。みんな違うと思うのですけれども…。

2015-10-21 09:26:51 | 日本語学校
晴れ。

かなり寒くなってきました。もはや涼しくなったとノホホンとしてはいられません。

また、今年も例年通り、学生との攻防戦「靴下をはけ」「気持ち悪いから嫌だ」が始まっています。

「風邪をひくまで判らないんだ。しょうがない」とのんびり構えていられないところが辛い。「風邪なんてひいたことがないから、風邪をひくということがどんなことなのか、熱を出すとどうなるのか」が、よく分からない人が少なくないのです。

多分、彼らの国では、「ちょっと疲れた」で、すぐに休憩する、あるいは学校や職場を休むことができるからなのかもしれません。熱を出しても、あがきながら職場に行き、そこで皆にうつしてしまうなんて馬鹿なことをしたり、病院で注射を打ってもらいながら職場に通うなんて病気を長引かせるような愚かなことをしたりせずに済むのでしょう。

だから、熱があることに驚いたりするのです、ちょっと無理をして。もとより、極端な例ですけれども。

国から持ってきた薬(民間療法的なものでしょう)を飲んでいるから大丈夫と大半の学生はいいます。それも抗生物質が入っているような強いものではないでしょう。だからひきはじめはよくとも、ひどくなってからでは効きません。それを言っても、「いや、国から持ってきた薬を飲んでいるから大丈夫です」と言うばかり。効いていないんですよね。また効いたようにみえても、それは時間が経ったから収まったくらいのもので、実際に効力があるようには思えないのです。

日本で病院に行って、薬をもらって、2、3日ぐっすり寝た方が、早く治ると思うのですが、それをやらない。だからそれほど重い病気でなくとも、ダラダラとやっているうちに大変なことになっていく…ということだってあり得るのです。

まあ、こんなそんなで、日本人に対するようにのんびり構えているわけにはいかず、いきおい、「はけ」「嫌だ」のせめぎ合いが玄関先で繰り返されるということになります。

こんなに寒いのに、嫌だもへったくれもないと思うのですけれども。

ところで、今年は昨年にもまして、専門学校が狭き門になっています。もちろん、そうは言いましても、日本人がよく行くような専門学校がというわけではなく、外国人で溢れかえっているような専門学校だけがということのようですが。

進路担当の教員が専門学校さんへ電話して、「受験したい学生がいるのですが」と伝えますと、「もういっぱいになっている」とか、「もう定員を越えた」という言葉が返ってきます。まだ10月なのに…。

数年前でしたら、2月、3月になっても定員が埋まらず、誰かいないかと探しに来ていたような所まで、いえ、そういう所ほど早く埋まってしまうようで、目敏いベトナム人はいざ知らず、のんびりおっとりのスリランカ人は出遅れて…どうするのでしょうね。まだ、「わからない」なんて言っているのもいます。

中には、アルバイトで疲れて、それほど勉強もしていないのに、大学に行った方が楽かなみたいな考え方をしている者までいます。「だいたい、漢字が読めないでしょ。大学は本を読まなければならない所なのだ」と言いましても、彼が行けたのだから、(同じくらいのレベルの…あくまで本人が思っているだけです)自分だってと考えてしまうのです。

「普通は行けない。けれども特別な理由があって、彼の場合はうまくは入れたのだ」が判らないのです。

頭のいい学生であっても、普通の学生であっても、いくらやっても(二年経っても)「ひらがな」すら覚えられない人であっても、同じレベルだと思えるところがすごい。考えようによってはすごいですね。日本人なんて小さな子供の頃から、数値で篩い分けがされていますから、却って感動したりするのですけれども。

とはいえ、それが互いに判らない(もちろん、判る学生はいるのでしょうけれども)、判る学生の方が特殊なのかもしれません。しかも、来日できるような学生は、大半が同じような階層、階級であってみれば、なおさらです。見分けのつかない「平等な社会」にいたからでしょうね。あるいは「人間関係」なんて考えなくてもいい社会なのかもしれませんが。

その上、中には出席率が悪いことを指摘されて、「では、朝のクラスにも出ます」。最初はどういう意味なのか「?????」な感じだったのですが(だって、勉強が好きとは思えないし…)、彼ら(彼女ら)の言わんとするところは、「だから、出席率を上げてくれ」だったのです。

答えは「とんでもない」です。午前も午後も出て、「午前中だけでも集中力が続いていないのに、午後まで出てなんになる」。だいたい、午後、真面目に勉強している学生達の邪魔になります。

本当に、いろいろなことを考えて来ます。いままでそんなことを認めたことがなかったのに、どこから得た情報でしょうかしらん。

スリランカ人も、ベトナム人も、たくさん日本に来ていますから、いろいろな情報が本国でも日本の彼らの間でも広がっているのでしょうね。ガセネタということもあるでしょうに。

日々是好日
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卒業生が二人、午前と午後に来てくれました。

2015-10-20 08:25:53 | 日本語学校
曇り。昼から晴れるとのことですが。

めっきり秋らしくなってきました。つい先だってまでは、暑かったり、寒かったり、道を行く人たちの服装も、秋の色だったり、そうでなかったり…。

今では秋一色に染め上げられているように見えます。それに少しも違和感がないということは、やはり秋になったのですね。今年の4月生、7月生、10月生の三分の一ほどは、まだ「靴下なし」なのですけれども。

さて、学校です。

昨日は、珍しいお客さんが二人、やってきました。二人とも卒業生です。

午前に来たのは、大学生のバングラデシュ人、N君。午後来たのは既に日本の企業で働いているインド人、A君。

N君は大学生活が楽しいと言っていました。1年目は大変で、黒板に書かれた先生の字が読めなくて、知らない漢字ばかりだと思ったそうです。崩し字とまでは行かなくとも、そんな感じの字だったのでしょう。「本当にどうしようと思いました…」そうですが、誰でもくぐる洗礼のようなもの。よくがんばりましたね。

特に「金融論」が面白く、もっといろいろなことが知りたいと先生に言ったら、よしと言っていただけたそうです。専門が面白いということはいいこと。よかったですね。

彼の用事は友人を日本に呼びたいとのこと。今大学二年生と言いますから、N君が日本に来たのと同じような理由で、留学したいというのでしょう。

「この学校の先生は(勉強しないと)怖いって、ちゃんと言いましたか」と聞くと、「はい、もちろん」と型どおりの答え。続けて「もし、ちゃんと勉強しなかったら、N君を呼び出しますからね」と言うと「えへへへへ」。彼はN君同様、とても勉強が好きだとのこと。だから、自信たっぷりです。

そして、五年ほど前に卒業したインド人のA君。授業をしていたときに顔を見せてくれたのですが、ドアの手前、階段の所から(つまり下から)顔だけを覗かせたのですが、一瞬、誰だか、全く判りませんでした。顔はもちろん同じだのでしょうけれども、表情が全然違っていたのです。思わず、インド人の…としか口にでませんでした。内心では「まさか、違うだろう」と、違っていたらどうしようくらいの気持ちで言ったのです。

ホントにA君だったのでしょうか、今だってどこか違う人のような気がしています。
インドに戻ってそこで日本の企業に就職し、今日は研修のために成田に着いたばかりとのこと。成田に着いてそのまま学校に来てくれたらしく、「ちょっと疲れています…」。そうでしょうね。でもホントに驚きです。

以前は、いわゆる典型的な「インド人」のような気がしていたのですが、ところが、うって変わって、物腰が柔らかくなり、相手のことも気にするようになり…。やっぱり、かなり違うなあ…。

最後に、お父さんに送るからと皆で写真を撮り…。ホントにホントに、人は変わるものですね。

ちょうどその時、漢字の練習にスリランカの人たちが残っていたのですが、お互いに「スリランカ人かな(インド人かな)」と思ったことでしょうね。だって、私たちが話していたのは日本語ででしたから。

日々是好日

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この町は、思いの外、生き物に溢れているようです。

2015-10-19 13:36:27 | 日本語学校
快晴。鳥の声が響いています。

先日、この町(行徳)のこと聞いて見ますと、鳥が多いと答える学生がいました。皆も「うん」「うん」と頷いています。

ちょっと驚いてしまいました。学生達の出身国はインド、ミャンマー、ベトナムです。「みんなの国の方が多いでしょ」と聞きますと、「違う」という答え。

それに、「猫がたくさんいる」と言う学生もいます。

「そんなはずはない。猫はマンションの中で飼わなければならず、外にいるはずはないでしょ。それに(見たいけれども、そんな私だって)あまり目にすることはないし…」。そう言いますと、一人が「いえ、いえ」と言い、言葉を継いでいきます。

「私は、夜、時間があると、公園へ散歩に行きます。公園には、猫がたくさんいます。日本の猫は大きくて、自由です。私の膝に飛び乗ってくる猫もいます。とても、かわいい」

へええ。夜の公園へ散歩に行く習慣がなかったから、知らなんだ…のかもしれません。

町の話のはずが、町の動物達の話へと移っていきます。「公園の中には鳥だけを診る病院もあります」と言う学生もいました。…それは知りませんでした。「私はハスキー犬が大好き」という学生やら、「猫は大きいけれども、犬は小さいのが多い」という学生やら、皆動物は好きなようです。但し、カラスは違うようですね。カラスの話になった途端、嫌だとか怖いとか言い始めましたもの。

金曜日の課外活動のあと、場所が上野だったからか、これから「動物園へ行く」と答えた学生がいました。「動物園へはまた別の時に皆で見に行くんだけれども…」と言いましたけれども、まあ、見たいときが見どきかもしれません。とはいえ、昼ご飯を食べたら、もう動きたくなくなってしまうでしょうね。

それから「食事をしてから、再度、科学博物館へ来て、もっとよく見てみたい」という学生もいました。

学生たちの中には、昨晩あまり寝ていない人もいます。その学生が、眠そうに目をこすりながら、「公園の盆栽を見てから帰る」と言います。「えっ。盆栽展をしているの」と驚いて聞き返しますと、「あそこ」といくつか並んでいるテントを指さします。「すぐに帰って寝たいけれども、盆栽が好きだから、見てから帰る」と言うのです。

欧米では「ぼんさい」(そのままの日本語で)と言って、人気があるのは知っていましたけれども、スリランカでもねえ…。だいたい、若い彼らが「盆栽」という言葉を知っているのに、驚きました。

日々是好日
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「国立科学博物館」へ行ってきます。

2015-10-16 08:10:35 | 日本語学校
雨。

小雨がぱらついています。止んでくれるといいのだけれども。

今日はみんなで、上野の「国立科学博物館」へ行ってきます。

体調の悪い者が数名いて、残念ながら行けませんが、だいたいは行けるようです。

先だって皇居東御苑へ参観に行ったときも、解散してから、三の丸尚蔵館の方へ足を向けた者が数名いたようでしたから、今回も、もし時間があるようであったなら、東京国立博物館がすぐ近くにあるのだけれどもと水を向けてみました。行ってみるものがいるかもしれません。

もちろん、体力と気力が残っていればの話ですが。私など、こういうものを一つでも見てしまうと、疲れ果て、しばらく公園でボケッとしていたくなってしまいます。

とはいえ、若い彼ら、何でも見てみたい精神で、行けるかもしれません。

日々是好日、
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本当に「留学」なのかなあ。

2015-10-15 11:44:14 | 日本語学校
快晴

教室に遅れ気味に来ていたスリランカの10月生、女子二人が最近は20分ほども早く学校に来るようになりました。初めの頃は乗り継ぎが大変で、遅れてしまっていた…ようですが、2週間ほども経てば、電車のどの車両に乗った方が降りるときに便利かなど、様子が判って来たからでしょう。

それに、(教室の)席は早い者勝ちです。遅く来れば3列目の席しか残っていません。教師の目は1列目、2列目までは簡単に届きますが、3列目となると、やはり難しいですね。それに2列目にしても死角がありますから、どこに座った方がいいかは考えておかなければなりません。

もちろん、教師の目につかないように、見えないようにと場所を選んで座る学生もいますから、一年ほども経てば、棲み分けができてきます。

「留学」と一口に言いましても、日本に来て何をしたいのかが分かっていない人も少なくなく(目的がはっきりしていない。漠然と送り込まれて来た…あるいは来た)、それに勉強の経験(これは学校に行って座っていただけではなく)がない…、そういった人も日本語学校には紛れ込んでいます。

「何を勉強したらいいのかわからない」という学生でも、勉強する習慣さえついていれば、どうにかなるものです。だって、とにかく勉強はしますから。なにせ、日本語の勉強ですから、単語を覚える、文法を覚える、本を読む、書く、聞く、話すといったことでしかないのです。

ただ、不思議なことに、勉強しているうちに、道が見えてきたりするのです。だから、勉強する習慣がついている学生は、まず困りません。

ところが、目的ははっきりしていても、勉強する習慣がほとんどない学生は、困ります。学校へ来た、で、ホッとするだけで、漢字を書いて練習するにしても、覚えるつもりで書いたりはしませんから、いわゆる鉛筆を動かした、写しただけで終わり。

漢字は書かねば覚えられませんから、一番勉強しているかどうかが判るものなのですが、難しいで終わり。やる気があるのかと尋ねても、「どうしてそんなことを聞くのか、私は毎日来ているのに」といった目でこちらを見つめて終わり。

授業を聞いていて、それだけでは、どうにもならないものに対しては、「できない」とか、「難しい」とか言って、自己を正当化させようとする。「だって、難しいもの」。

これは、以前、アルバイトの面接にいつも失敗していた学生の「『また面接に失敗した。(理由は)日本語が下手だから』『じゃあ、今、暇でしょ。どうして日本語を勉強しないの』『だって、面接に失敗して気分が悪いから』『勉強しなければ、同じことが繰り返されるだけでしょ』『だって、面接に失敗して、気分が悪いから』」と同じなのでしょう。

この学生の時も、ヘラヘラと笑いながらそう言うので、蛙の面に何とやらだなとは思いはしたのですが、わざわざこういうことを繰り返し言うために教師の所へ来るのです。もしかしたら、不安だから何か言いたいのかな(外国でアルバイトが見つからねば、生活ができません)とも思ったのですが、いろいろ考えて相手をしてやった方が馬鹿を見てしまうのです。相手は、言ってしまえば(同じことなのに)また意気揚々として帰って行くだけのことなのです。こっちは、いったい何が言いたいのかも、なぜ同じことを繰り返し言うのかも、わざわざ言いにくるのかも、まったく判りませんでしたが。

「私は、国で勉強したことよりも、もっと難しいことを勉強したくて日本へ来た」と、口では言っても(日本語をきちんと勉強しない、だいたい毎日来て勉強するという習慣もない、それにそういうことを勉強するための基礎的な教育も受けていないという)、ないない尽くしであってみれば、「やりたい」と思っているだけのことであって、それに向けての努力が限りなく0に近い人ということになってしまいます。でも、そう言っても、こういう人には通用しないのです。

口で、「もっとレベルの高いことを(学びたい)」と言うだけで、彼がいったいどれほどできるのか、何をさして、「もっと」と言っているのかも判らない。だいたい漢字が読めませんから、普通の専門学校は無理だろうと思うのですが、己を高しとしているので、それも耳に入りません。

学びたいことがなければ、帰ったらと言えば、すぐにケリがつくことであろうと思うのですが、いえ、ケリはつかないでしょうね。そのままウロウロとしているだけで、気がつくと彼が入れるような専門学校は皆、「募集終わり」となっている…という現実にぶち当たるだけ。

これは、日本語の問題ではなく、耳に心地よいことしか入れないという、習慣から来ているだけであるような気もするのですが、こういう学生が重なって出てくると…大変。

もちろん、普通にしていれば、いい人達です。けれども、いったん損得勘定が出てくるような場面になったり、そういう問題が絡んできたりしますと、途端ににっちもさっちも行かなくなってくるのです。

こう言いますと、「人は、可能性に溢れているもの。他人のことをとやかくいうのは間違っている」と反論されるかもしれませんが、私たちは、ここ、2,三ヶ月の間に何ができるのかで、(進路先)判断しなければなりませんから、今のレベルを納得してもらわなくてはならないのです、彼らに。

日本人同士であっても難しいのに、ビザが絡んだ外国人に対してですから、本当に大変。却って、最初から身の程を知って、レベルにあった(低いレベルの)専門学校を探して来てくれる人の方がズンと有り難くなってしまったりするのです。

日々是好日
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10月生の入学式

2015-10-14 08:47:40 | 日本語学校
曇り。

ちょうど今は、花が少なくなる時期…、花を求めても詮ないかと思いながら自転車を走らせていましたら…、ありました、ありました。「ハギ(萩)」の花が七分咲きほどになっていました。

この時期は、夏の花が終わって、お月見が終わって、秋の虫たちの声も弱々しくなって…、そして花よりも「実」のほうが美しく見える…候。それなのに、「ハギ」はすごいですね。

もっとも、今年は例年よりもかなり早く「イチョウ(公孫樹)」の黄葉も始まりかけているようですから、もうすぐ賑やかな「秋」になるのでしょう。

さて、学校です。

昨日は、10月生の「入学式」でした。午前のクラス(3クラス)だけで行いました。1、2時限目が終わってから、みんなで椅子をかたづけ、机を立てかけなどして、式場を作っていきます。新しい人たちが六人、一番前に並んでいます。但し、モンゴルの学生は休みです。

さて、新入生の自己紹介です。最初の三人はスリランカから来た学生達。二年生や今年来た学生達(4月生、7月生)は熱心に聞いています。いつものことなのですが、たくさん話す学生がいると、「すご~い」という声が上がります。いい刺激になっていいですね…これは私たちの弁。もちろん、たくさん話せると言いましても、それはまだ「初級文法(N5)」を駆使してのことにしか過ぎません(それでも、話せるというのはすごいことなのですが)。

ただ、まだ日本語がそれほど上手ではない学生達にとっては、「たくさん話せる」イコール「日本語のレベルが高い」となってしまうようで、「それほど話せなくても、君たちの方が日本語のレベルは上なんだよ」と言っても、なかなかそれが判りません。「N2」レベルに近い文章などを読んでいる学生であっても、「私よりレベルは上です」なんて本気で言うくらいなのですから。

スリランカの三人の学生達がかなり長い話をしましたので、後に続く、ベトナムとミャンマーの学生は緊張状態、固まってしまっています。特にベトナムから来た学生は、ちょっとかわいそうでしたね。すぐに次ぎでしたもの。ところが、その緊張が解けた一瞬がありました。最後の写真撮影です。そのまま席に戻ろうとしたときに、「ちょっと、ちょっと。はい、笑って」でのパチリ。ところが、急に緊張が解けたせいか、ベトナムの男子学生は、まるで「箸が転んでも笑う」状態になってしまって、写真が撮れません。

いつもは仏頂面をしている(いつも緊張していたのでしょうね)のに、笑うと年相応にかわいく見えてくるから不思議。「なんだ、こいつ、笑い上戸だったのか」と皆がおもしろがって見ているのが、これまた面白い。

10月生として申請するのは皆、『みんなの日本語Ⅰ』が終わってからの人にしてほしいと言ってあったので、それが守られていると、やはり楽ですね。オロオロしている人はいません(いくら最低25課までは教えておいてほしいと頼んであっても、申請が通ると同時に勉強しなくなる人もいるようで、時々、来日後他の人が話せるのに、オロオロして何もできないという学生がいたりするのです)

ヒアリングが苦手な国の人は、まだそれほど話せないのですが、ヒアリングさえどうにかなっていれば、そこは日本に来ていますし、教師は皆日本人ですから、すぐに慣れていきます。

「学んだ言葉がすぐに使える」これが、その言語の国で学ぶことの良さ。それができないと、母国で勉強していたらと言われることになってしまいます。ベトナムの学生は、授業中、こちらがちょっと油断すると、すぐに本を見てしまう、つまり下ばかり見ていることになってしまうという傾向があるので、(多分これは母国の教育のやり方が関係しているのでしょうが)、苦手な上に、習慣でも苦手を作ってしまうことになってしまいますから、かなり不利です。

新しい人たちは、そのまま「Eクラス(7月生)」に入っても大丈夫でしょう。もちろん、11月までに、『みんなの日本語Ⅰ』の復習は入れてしまう予定ですが。

日々是好日

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犬猫

2015-10-13 08:19:53 | 日本語学校
快晴

きれいな青空が広がっています。朝のうちは70%ほどはある湿度も、昼になるとグッと下がってしまうようで、きれいな洗濯日和マークが、関東地方のあちこちについていました。

「今日は洗濯に適していますよ」というのも、ある人たちから見れば要らぬお世話。電車でも「次は何々駅です」というのも、要らぬお節介と、そう見る向きもあるでしょう。

最近は猫や犬をもらいに行くのにも、この人は適性かを見極めるために煩瑣な手続きが必要だそうで、犬や猫の命を救いたいと思って飼おうと言う人たちの気が殺がれています。「なんで調べられなければならないのよ。悪いことをしようっていうんじゃないのに」と怒っている人たちも見ました。

わざわざ保健所なんて、そういう所へ行く人たちは、そういう所からもらってきても、まず捨てたりなんかはしないでしょう。トレンドで飼うと言う人たちなら、雑種や、捨てられた、老いた猫や犬をもらおうなんて気にはならないはず…それなのに…。世知辛い世になったもの。来た人間は皆悪人と思えか、…ちょっと嫌な気分です。

私の住んでいるマンションに、いつの間にか、一匹の猫が来て住み着いています。夏の間は、涼しそうな駐車場の隅っこに寝ていたのですが、最近は日だまりを選んで寝ている様子。誰かがエサをやっているのでしょう。やりたいけれども、猫が嫌いな人が居ればと考えれば出過ぎたこともできず、また、地域猫として存在できれば(大きな顔をしてエサをやれる…)それに越したことはないのだけれども…なんていろいろ考えています。

今はいいけれども、冬になったら、どうするのだろう。雨でも降れば、食べものはどうするのだろう。今はマンションは動物を飼うことが禁じられているけれども、良しにならないかしらん。そうすれば、この猫を…。

ただ、いったん自由を覚えた猫が、たとえ、食べものと暖かい寝場所はあるにしても、狭い一室に閉じ込められた生活なんて嫌でしょうね。見たところ、まだ毛並みも美しいし、健康そうですもの。好きなときに好きなところへ行きたいでしょうね。

出入りするたびに、猫の姿を目で追ってしまいます。「野良ちゃんが」と言っている住人も居ましたから(おじさんです)、いじめる人もなく、今のままの生活の方が、却って落ち着けるのかもしれません。

どうも、人が嫌になると、犬猫の方に目が行ってしまいます。困ったものです。

日々是好日  
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慌ただしい一週間でした。

2015-10-02 08:25:38 | 日本語学校
雨。

発達した低気圧のせいで、昨夜から突風が吹いていたようです。明け方など、風の音がビュンビュンと恐ろしいほど鳴っていました。しかし、それも止んで、ついでに雨も止んで、今は驚くほど静かです。

ベトナムから(22日に)戻ってきて、その晩が寒かったことに気づかず、どうも風邪を引いてしまったようです。翌日はおとなしくしていたのですが、翌々日、今日は起きられないと学校に電話したあと、ホッとしたからか、一時間ほどグッと眠り、なにやらすっきりしたような気がしたのがまずかった。

これならいけると、そのまま、学校に行き授業を始めたのですが、30分くらいしたころから、辛くなってしまいました。どうにかその時間は持ちこたえられたのですが、あとはもう行けなかった。で、薬を買って帰り、翌日はまた寝込んでしまいました。

悪い風邪が流行っていると、薬局で脅されたこともあり、翌朝、病院に行こうとしたのですが、タクシーが捕まらない。雨だったからでしょう。もういいやと歩いて病院へ。

頭が回らなくて予約を取って行かなかったので、結局三時間ほども待たされてしまいました。結果は、ただの風邪だったので、ホッとしました。薬を買いに行き帰ったのですが、五日分の薬が切れても、咳は止まりません。で、薬が切れた日にもう一度病院へ行くと、「もっと強い薬にしてみましょう」で、薬をもらい帰ったのが一昨日のことでした。

ベトナムへ行った若者二人はケロリとしているのに、年寄り二人は、同じように風邪を引き、同じように二度病院へ行って薬をもらう羽目になってしまったのですから、情けないですね。それと気づかぬうちに体力はかなり落ちていたようです。

で、学生達です。

一日目の午後のクラス、「Aクラス」は、休講になったのに味を占め、翌日ちらりと教員室を覗いて、私の存在を確認していました。今日も休みかなとあえかな期待を込めて見ていたようです。こっちはこっちで、「そうは問屋が卸すものか」でしたけれども。

二年生、ベトナム組はもう一年以上も一緒にいるわけですから、かなりのことを言ってもこちらが怒らないことを知っている、だから言いたいことを言っていましたね。ただ、スリランカ組は、まだこのクラスに来て一年経っていないということもあるのでしょう、遠慮がちに帰るときに「お大事に」と言っていました。

それに比べて一年生は、まだ半年とちょっと、遠慮があります。マスクをして咳き込んでいると、心配そうに見ています。「悪いけれども、咳が激しく出るので、喉飴をなめさせてもらう、本当は行けないんだけれども、堪忍してね」と口上を述べると、「どうぞ、どうぞ」という返事。もちろん、二年生には言いません。すぐに、「先生だけ?(自分も)ほしい」と言い出すに決まっていますもの。

というわけで、あれやこれやと落ち着かない一週間が過ぎようとしています。

今週、一人、大学へ願書を提出した者がいます。四人、専門学校への願書を書いてしまい、今日出すと言っています。ただ、途中になってしまった学生が一人、勝手な行動を取らねばいいがと不安なのですが。

日本語がある程度できていれば(「N3」くらい)、日本人の目を通さずに、願書を出すことの怖さが判るものなのですが、レベルがかなり低い学生には、「N3」レベルくらいの同国人と日本人との日本語レベルの差がわからないようなのです。作文にその程度の学生に書いてもらって、平気で、そのまま専門学校に出したりするのです(気がつけば止めますが、そういう学生に限って「友達が書いてくれたから大丈夫」と変な自信を持って答えたりするのです)。

昨日も、それに気づいて、慌てて、書き直させたのですが、初めは「大丈夫。○○さんに書いてもらったから」と得々として答えるだけ。(何も考えが浮かばなかったから、書いてもらった」はわかるけれども、それをそのまま出しても「大丈夫」と考える理由がわからない。

彼と一緒に行くという、もう一人の方がもっと怪しい。日本語の力は彼よりもずっと低いのに、既に作文は書いたと言っていましたから。

日本語学校でまだ学んでいるような留学生の、いわゆる文章というものは、日本人が読んだらすぐに判る不自然さに満ちています。どこかから一部分を引いてきたのかもしれませんが、急に一文だけがまともな日本語になっていたり、最初の作文はひらがなばかりなのに、二つ目の作文は間違いだらけの漢字に満ちあふれていたり…。

とはいえ、書いてやった当人も、平気なのです。それが不思議。

本当に(日本にいて、日本語が)判らないということは困ったことです。すべての作業が滞ってしまいますのも。

日々是好日
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