曇り。
時折、涼しい風がカーテンを揺らしています。
「サクラ(桜)」の樹も、葉を、夏の色に染め上げています。いつの間にか、一丁前の深い緑になっています。こうなりますと、夏も本番に…。もっとも、梅雨がまだですから、本格的な暑さはまだまだ先のことなのでしょうが。とはいえ、昨日は木陰が恋しくなるほどの暑さでした。
さて、学校です。
「Aクラス」では、「文法」も「漢字」も、「N3教材」から、少しずつ「N2教材」に移っています。ただ、「読み取り」だけはいくら経っても、「N3」にも至っていないというのが実感。漢字も、習ったその日は覚えているし、書けるのだけれども、翌日には真っ白になっている…というのが続いているようです。
これは何も「非漢字圏」の学生だから覚えられないというのではなく、例えば、昨年も、一昨年もよく漢字を覚えている人がいました、彼らと同国人で。文法は、ある程度は覚えられるようですが、それが「読解」につながっていかないところが、少々辛いところ。
指示語の指すところを聞いても、答えられません。中には、その前の段落の、およそ五行ほどを長々と読み上げる者もいます。「だから、その中のどれ?」と聞いても、「へっ?」という顔をして私を見ます。「それは全部でしょ。それを聞いているのではない。その中のどれ?」。また言っちゃった…。ヒントをいくつか出すのですが、ほかの人が注意されたところをまた読み上げていく人もいます。聞いていなかったのでしょう。
彼らは、「何も言わないのは、勉強が出来るとされてきた者のメンツに係わる」とでも思っているのか、中には、適当に答えている者もいますから、下手に誠実に答えてしまうと、こちらが馬鹿を見ます。
きちんと考えた末の、誤りなのか(その場合は、こちらもその誤りを指摘しながら、適切なヒントを出していかねばなりません)、それとも、何か言っておかねばというだけの適当なものなのかを、まずこちらも掴んでおかねばならないのです。
一人が、たとえば、「明日行く」というのが答えであろうと考え、「明日行く」と言おうとしたとします。すると、他の2人くらいが、その人が「あ」か「あし」くらいを発したときに、争うようにして「明日行く」と言ったりするのです。当然のことながら、「どうして?」と、その人に根拠を聞きます。これまた当然のことながら、自分で考えたわけではありませんから、答えられません。
本当に不思議だなあと思います。まず、こういうことを自分で考えるという経験が無いのでしょう。今のところ、こういう人はスリランカの学生に多く見られるところなのですが、これまた当然のことながら、そうではない学生もいます。絶対的に少数なのですが。
その人は、同一視されるのは嫌だろうなあと思います。
蔭では(それが)耐えられないようなことを言うのですが、同国人の中にいると、目立たないように同じように振る舞うしかないのでしょうね。そうしてしまうと、どうしても同じように見られてしまうのですが。
これも仕方が無いことなのでしょう。なんと言いましても、スリランカは、「ムラ社会」と言われる日本から見ても、比較にならないくらい重症の「ムラ社会」ですから。
日々是好日
時折、涼しい風がカーテンを揺らしています。
「サクラ(桜)」の樹も、葉を、夏の色に染め上げています。いつの間にか、一丁前の深い緑になっています。こうなりますと、夏も本番に…。もっとも、梅雨がまだですから、本格的な暑さはまだまだ先のことなのでしょうが。とはいえ、昨日は木陰が恋しくなるほどの暑さでした。
さて、学校です。
「Aクラス」では、「文法」も「漢字」も、「N3教材」から、少しずつ「N2教材」に移っています。ただ、「読み取り」だけはいくら経っても、「N3」にも至っていないというのが実感。漢字も、習ったその日は覚えているし、書けるのだけれども、翌日には真っ白になっている…というのが続いているようです。
これは何も「非漢字圏」の学生だから覚えられないというのではなく、例えば、昨年も、一昨年もよく漢字を覚えている人がいました、彼らと同国人で。文法は、ある程度は覚えられるようですが、それが「読解」につながっていかないところが、少々辛いところ。
指示語の指すところを聞いても、答えられません。中には、その前の段落の、およそ五行ほどを長々と読み上げる者もいます。「だから、その中のどれ?」と聞いても、「へっ?」という顔をして私を見ます。「それは全部でしょ。それを聞いているのではない。その中のどれ?」。また言っちゃった…。ヒントをいくつか出すのですが、ほかの人が注意されたところをまた読み上げていく人もいます。聞いていなかったのでしょう。
彼らは、「何も言わないのは、勉強が出来るとされてきた者のメンツに係わる」とでも思っているのか、中には、適当に答えている者もいますから、下手に誠実に答えてしまうと、こちらが馬鹿を見ます。
きちんと考えた末の、誤りなのか(その場合は、こちらもその誤りを指摘しながら、適切なヒントを出していかねばなりません)、それとも、何か言っておかねばというだけの適当なものなのかを、まずこちらも掴んでおかねばならないのです。
一人が、たとえば、「明日行く」というのが答えであろうと考え、「明日行く」と言おうとしたとします。すると、他の2人くらいが、その人が「あ」か「あし」くらいを発したときに、争うようにして「明日行く」と言ったりするのです。当然のことながら、「どうして?」と、その人に根拠を聞きます。これまた当然のことながら、自分で考えたわけではありませんから、答えられません。
本当に不思議だなあと思います。まず、こういうことを自分で考えるという経験が無いのでしょう。今のところ、こういう人はスリランカの学生に多く見られるところなのですが、これまた当然のことながら、そうではない学生もいます。絶対的に少数なのですが。
その人は、同一視されるのは嫌だろうなあと思います。
蔭では(それが)耐えられないようなことを言うのですが、同国人の中にいると、目立たないように同じように振る舞うしかないのでしょうね。そうしてしまうと、どうしても同じように見られてしまうのですが。
これも仕方が無いことなのでしょう。なんと言いましても、スリランカは、「ムラ社会」と言われる日本から見ても、比較にならないくらい重症の「ムラ社会」ですから。
日々是好日